第77話 ~砂漠の獄獣① 最強との激突~
獄獣と呼ばれて久しいその魔物は、怪力無双の存在だと知られている。ひとたびその巨腕が振るう大斧が大地に突き刺されば、魔力も持たぬその一撃が地を揺らす地響きが、周囲一帯に広がるという逸話が最も有名だ。
獄獣について語られるのは、主にそれぐらいのものだ。圧倒的なパワーをおいて、他に語られるような要素など特に持ち合わせることもないまま、魔王マーディスの率いた魔物達の中でも最上位に君臨する実力を持つ怪物。残忍性と狡猾な魔力の扱い方で名を馳せた黒騎士ウルアグワや、無比の魔力とそれを計算高く活かした立ち回りが恐れられる百獣皇アーヴェル、あるいは広範囲を焼き払う破壊的な魔法やそれを実践する凶暴性で名高かった魔将軍エルドルとは異なり、その身体能力のみが広く語られて名を知られる獄獣は、明らかに他のマーディスの遺産とは毛色が違うものだ。
一歩、一歩と部屋の中心に向けて歩く獄獣ディルエラが、同時にシリカに近付く形となる。その足に合わせて退がって距離を取るシリカの後方、ユース達も同じように後退を強いられ、マグニスだけはシリカの左方離れた場所に移動している。獄獣から右に離れた場所にマグニス、左に離れた方向にクロム、そして正面にシリカ達という形で敵を囲む形を作るが、獄獣ディルエラの表情は揺らがない。数で勝るはずの第14小隊の方が、その表情を強張らせる形だ。
獄獣ディルエラが立ち止まり、懐から新しい葉巻を取り出し、くわえて指を鳴らして火をつける。葉巻を勢いよく吸い込む獄獣の肺の動きが、葉巻を一気に登っていく炎の動きからよくわかるが、剣を構えて獄獣ディルエラを睨みつけるシリカにとって、そんなことを意識し印象に残す余裕はない。
「――中吉ってとこかね」
葉巻の半ばを少し過ぎた所で葉巻から灰が落ち、半分以上が燃えかすになった葉巻をぷっと吹き捨て、足の裏で葉巻を踏みつけるディルエラ。ひと吸いした葉巻がどれほどの長さを残して灰を落とすかを見て、その日の運勢を占う習慣を持つ。勇騎士ベルセリウスが、かつてこの獄獣ディルエラと何度か対峙した際、そうした姿を見ていたことから語られている事実だ。
自らを包囲する三人を見回し、まるで市場を巡る目利き商人のように、シリカ、クロム、マグニスを見定めるディルエラ。シリカの後ろに立つユースやチータ、ガンマやアルミナ、キャルには興味も持たないかのように、一瞬その場所を見てすぐに目を切ったものだ。
「お前らの中で、一番強ぇ奴は誰だ?」
ディルエラが、好奇の目を向けてシリカ達に問うてきた。その質問にどれほどの意味があるのか計り知れないシリカは、その問いに対する答えに迷っている。
「ただで教えろって言うのか?」
質問に質問を返したのは、ディルエラが向く方向の外から声を発したクロムだ。思わずシリカもそんなクロムに目線を送ったが、彼の目線の先にいるディルエラがフンと鼻を鳴らして笑う音に、再びディルエラに目線を向け直す。
「答えねえようなら、皆殺しでもいいんだが」
「なら、答える必要はないな」
槍を軽く構えるクロムの姿は、戦闘態勢に完全に入ったものではなく、ディルエラの問いへの答えを拒絶する意志を姿勢を表わしたもの。このまま交戦となるなら、別にクロムにとっては、あるいは第14小隊にとっても、覚悟していた展開と何ら差異はない。
にやりとした眼差しをクロムのみに向けるディルエラは、背中の斧に手を伸ばそうとしたものの、途中でその仕草を取りやめて右手をひらひらと振る。獄獣が武器を握ろうとしただけで、シリカやユースは全身を強張らせたものだが、すかした態度のディルエラはクロムに語りかける。
「なら、こうしよう。お前らの中で一番強ぇ奴が、俺とサシでやり合うとしよう。そうするなら、他の連中はこの先に進んでも構わんぞ」
「なるほど、悪くない話だ」
クロムは甘く構えていた槍を、完全に戦闘態勢に入ったことを示すべく、片足を前に踏み出した。それはディルエラの問いと照らし合わせ、クロムが固めた覚悟を体現した姿。その姿を見たディルエラが、求めていた問いに対する答えを見た喜びににやつく。
「クロム……!」
「俺が適任だろ。いくらお前でも、あれの相手だけは任せられんな」
クロムに厳しい眼差しを向けるシリカに対し、一歩も譲らぬ表情を返すクロム。その態度が語るのは、この獄獣の相手は自分が引き受けるという決意。そしてそれが意味するのは、ともすれば、この小隊で最も強い者は誰かというディルエラの問いに、それは自分だと答えたに等しい行動。
言いたいことが山ほどあるだろうに言葉を見付けられないシリカを見て、ふっと笑ったクロムは、再びディルエラに目線を送る。魔物が約束を守るものだと、そう簡単に盲信できるものではない。
「悪いが、少々位置をずらして貰おうか。お前の後ろにある道まで、こいつらが安心して走れねえ」
「ああ、いいぜ」
ディルエラが立っていたのは、この部屋の出口とシリカ達の位置の、中間地点。クロムに近付く形でシリカ達に次の空間への道を開けたディルエラは、もうシリカ達やマグニスには目線も向けず、クロムのみ見据えたまま背中の大斧を握った。他の連中はどうなっても構わないが、目をつけたクロムだけは絶対に逃がさぬという狙いが、その目にはっきり宿っている。
「よし。お前らは行け」
「クロム……お前……!」
独断でとんでもない役回りを引き受けようとするクロムに対し、激昂寸前の表情で言葉を詰まらせるシリカ。一方のクロムは、上機嫌で酒を飲んでいる時のような、穏やかな表情で笑いかけてくる。平静時から何度も見ている、自信に満ちた強い男の顔だ。
「なぁに、手頃にあしらって俺も逃げるまでよ。流石にあれを相手に、勝てるかって言われるとな」
早く行けと、この部屋の奥にある回廊への入口を指し示すクロム。ディルエラがゆっくりと彼に近付くにつれ、クロムも少しずつ後ろに退がって距離をとるが、ディルエラの移動に伴い、シリカ達がこの部屋から離れるための出口までの道は、なおも広く開かれていくのだから。
「大仕事を預かるんだ。うちに帰ったら高級酒の一本でも奢れよ」
シリカだって、心中ではわかっている。騎士階級では3つ下に位置するクロムであるとはいえ、自分と彼の実力を比較した時、どちらが真に上に立つのかを。そしてこの状況下において、獄獣の相手を引き受け、他の部下の命を守るために戦う立場を担えるのは、一人しかいないことを。
「……約束してやる」
望まぬ形でクロムの覚悟を後押しし、ユース達を導く方向に駆けるシリカ。誰もが遠方から自分達を見送るディルエラを警戒しつつも、クロムの方を一度見返したものだが、いずれに対してもクロムは自信に満ちた表情を返すのみ。
あの人のことなのだ。きっと、今回も持ち前の腕と機転で危機を切り抜けてくれるだろう。そう信じて――あるいは、信じようと努めて、ユースはシリカの後を追って駆けていった。
ユース達を見送ったクロムは、ディルエラを正面に見据える。向こうはこちらとどうあっても一戦交えたいようで、妙な動きを見せようものなら、前を走るシリカ達を含めて追ってくるだろう。そしてあの巨体と筋力が持つ脚力、歩幅は、恐らく真っ当に逃げても人間の足が逃げおおせるものではない。
「さァて、始めようか」
クロムが尻尾を巻いて逃れる意図のないことを満足げに見届けたディルエラは、その巨体が握ってなお大きく見えるほどの大斧を一閃振るい、離れた場所に立つクロムまで風を届けてくる。汗をかいた体がその風で冷えることを実感しつつ、クロムは槍を構えたまま動かない。得意とする戦い方は、接近する敵への的確な反撃を返す立ち回り。全力を出すならば、一手目は敵に譲って構わない。
「さあ、獄獣さんよ。噂に違わぬその腕を見せて貰おうか」
「おう。期待にゃ必ず、お応えしてやるさ」
獄獣ディルエラが地を蹴って、クロムに向かって突進する。魔獣ミノタウロスに勝る巨体が、鍛え上げられた馬よりも遙かに速く自らに迫る光景に、クロムの全身の血が沸騰した。
ルオスの最高戦力ジャービルがアーヴェルとの交戦に足を留めた結果、今ライフェンを追うこの部隊の指揮官として動くのは、法騎士タムサートだ。この部隊に属するエレム王国騎士団員は、すべて日頃から率いている第19大隊の者達であり、どう捌けばいいかはよく知っている。同行するルオス帝国の同盟兵に関しては、そちらの士官格が的確な指示を下してくれるだろう。勇騎士ハンフリーも強敵と認めるワーウルフ、砂漠の凶暴な狩人と名高いゴールドスコーピオン、そうした魔物の出現も相まって、ライフェンを追う中で苦戦を強いられる局面も多いが、隊は上手く機能している。
自らに同時に襲いかかる、二匹のゴールドスコーピオンの猛撃の数々を、法騎士タムサートがその剣で打ち返す。巨体のはさみが繰り出す攻撃は重く、素早く、これを二匹同時に相手取ることは、タムサートにとっても苦しい戦いだ。そしてそんな横から、数々の銃弾と矢がゴールドスコーピオンの甲殻の隙間や、関節部分に向けて的確に放たれる。
彼が率いる部下の多くは、射手としての腕を磨いている。剣の腕に秀でるタムサートが最前線に躍り出て、そんなタムサートと対峙した敵の隙を、銃士や弓兵が撃ち抜く戦い方は、いつものように実践されている。タムサートへの負担は大きいが、部下に危険が及びにくい戦法の一番槍を自ら買って出る彼の生き様は、率いられる部下達にとってはこの上なく信頼できる人物像だ。
怯んだゴールドスコーピオンの一匹の頭を、タムサートが真っ二つにした次の瞬間、彼に襲いかかるもう一匹のゴールドスコーピオンの大ばさみ。退いてそれを回避したタムサートは、それと同時に腰元の鞘に騎士剣を収め、矢筒とともに背負っていた弓をすぐさま握る。構えたと言えるほどの時間も設けず、最速で矢を放つその先、タムサートの放った矢は的確にゴールドスコーピオンの目を撃ち抜いた。
もがくゴールドスコーピオンに、タムサートのそばで戦っていたルオスの帝国兵の一人が走り詰める。迎撃すべくはさみを振るったゴールドスコーピオンの一撃をかいくぐり、握った青竜刀でゴールドスコーピオンの頭部を真っ二つにする姿には、タムサートも戦場の真ん中で嘆息が漏れる。
「流石! ルオスの方々は頼りになりますね!」
「なかなかどうして、騎士様こそ……! 噂に違わぬ名将ぶりですな!」
青竜刀を握った初老の男は、帝国ルオスにおいては大隊の指揮官を務めたこともある男。いわばタムサートと近い階級を持つ人物は、今日初めて顔を合わせたタムサートと敬意を交換する。
そんな彼に遠方から矢のように迫るワーウルフ。振り返り様にワーウルフの鋭い爪先を、青竜刀の一閃ではじき返したルオス帝国兵のすぐそば、ただちに矢を構えたタムサートが至近距離からワーウルフの頭部めがけて矢を放つ。
距離の詰まったその中でも矢を正しく認識し、首を傾けてその一撃を回避すると同時、蹴り出した足で、青竜刀を握った帝国兵を蹴り飛ばすワーウルフ。得物でその攻撃を食い止め、腹部をその足にぶち抜かれることは防いだものの、帝国兵は吹き飛ばされて近くの壁に背中を叩きつけられる。
タムサート率いる第19大隊の射手達が、一斉にワーウルフに矢を放ち、身を翻してそれらを回避しようとするワーウルフ。跳躍するも一本を回避しきれず、大腿部を貫かれるワーウルフだが、痛みに怯むこともなく、そのままタムサートへと襲いかかる。自らの矢をかわされた時点で弓を背に背負い直し、鞘から騎士剣を抜いていたタムサートは、頭上から飛びかかるワーウルフが振るう爪の一閃を騎士剣で以ってはじき返す。
後ずさるタムサートと、そのまま着地へとつなげるワーウルフ。大腿部を矢に貫かれた片脚は着地の瞬間の自重を支えきれず、ワーウルフの体勢がわずかに崩れる。そうであろうがなかろうが、着地の瞬間のワーウルフを狙っていた騎士団の銃弾や矢の数々が、ワーウルフに襲いかかる。回避の難しい状況下、飛び交う銃弾と矢を爪先で叩き落とすワーウルフだが、それらすべてを一瞬で叩き落とすことは叶わず、致命傷となる頭や胴体への被弾を防ぐものの、四肢を撃ち抜く騎士団の猛襲にワーウルフの表情も歪む。
その隙を見逃さなかったタムサートが一気に距離を詰め、ワーウルフの首元めがけて剣を振るった。傷ついた体ながらも敵を迎え討つべく、タムサートの胸元目がけて拳を突き出したワーウルフだったが、体をひねりつつも剣の軌道を揺るがさないタムサートの体捌きにより、拳をかすめつつもタムサートの剣がワーウルフの首を勢いよく切断した。
決定的な勝利の後方、先程までワーウルフを狙い撃っていた射手達に迫る、キングコブラやヴァルチャーなどの遊撃隊。そしてそれらも、彼ら近くで後衛兵の安全を確保するために立ち位置を揺らがさない帝国兵の剣によって、槍によって、あるいは魔法によって撃ち落とされる。遠目にそれを確かめたタムサートは、先ほど自らのそばでワーウルフに蹴飛ばされ、石壁に叩きつけられた初老の帝国兵に駆け寄る。
「傷は……!?」
「っ……どうってこと、ありませんな……!」
痛む体を振るって青竜刀を握り直すその人物の姿も、帝国で数多くの部下を率いる上官の生き様そのものだ。未だ名も聞かされていない相手を、誇り高き自らの法騎士の名の元に照らし合わせてでも見上げられる経験など、そうそう出来るものではない。
「さあ、参りましょうか……! 部下にだらしない姿を見せる暇などありませんぞ!」
「仰るとおり……!」
法騎士が、帝国の勇士が、ライフェンの逃げた先へと向かってその足を向かわせる。彼らを追って駆けていく騎士と帝国兵にとって、導く強者の存在は限りなき勇気を胸に抱かせてくれるものだった。
「使えん魔物達だ……!」
百獣皇アーヴェルの率いる魔物の布陣を破り、自らを追ってくる騎士団、帝国兵の存在を後方に意識しながら、逃亡するライフェンは言い捨てずにはいられなかった。アーヴェルの潜伏する場所に、敵将の一人であるジャービルを誘導する役目は果たしたものの、惨めな逃亡を強いられる状況下、ライフェンの自尊心は深く傷つけられて苛立ちが生じている。
魔物達によってタムサートが率いる部隊の中にも、戦闘不能となり撤退を命じられる者もいる。今後も追走者達の数が減る見込みはあるものの、それより先に有力な兵が自分に届けば、抗いきって逃げおおせる保証などあるはずもない。ルオスの生まれであるライフェンは、ルオス帝国兵団の底力がいかに侮れぬものか、よく知っている。
ライフェンにとって最高の展開とは、どこに腰を据えているのか知らされている獄獣の位置まで辿り着き、最強の味方を盾にすること。しかし、ここからその場所に至るためには距離があり過ぎる。自らを追走するルオス帝国兵の魔導士には、間違いなく先程放った自分の残留魔力を探知し、騎士達を導く役目を担える者がいるはずだし、そんな連中からベストポイントまで逃れられるかは、正直かなりの賭けになる。
「致し方ない……!」
ライフェンは目の前に現れた分かれ道を、意を決したように左の狭い道に向かう。それは遺跡の奥地に向かう道であり、遺跡の外に逃げるのであれば逆方向となる道のり。
それでも敢えてその道を選んだのは、この先にもうひとつの切り札があるからだ。その庇護によって追走者達を足止めすることが出来れば、さらに駆けることで獄獣のいる場所へと舞い込める見込みがある。激戦区で活路を求めて走る罪人は、生存に向けてその知恵を全力で巡らせた。
風よりも早く、竜巻よりも壊滅的な破壊力を持つ、獄獣ディルエラの大斧のスイングが、かがんだクロムの髪先をかすめる。あの速度と質量を持つ大斧がわずかでも肉体をかすめようものなら、触れた面積の何倍にも大きな裂傷を負わされることは間違いないだろう。
突き出されるクロムの槍による一撃を、手首につけた刺突きの腕輪で受け止めるディルエラ。当たった瞬間に腕を押し返し、剛腕のクロムを体ごと押し返すパワーには、ほんの一瞬接点を持っただけのクロムにも、いかにその怪力が桁はずれであるかをわかりやすく伝えたものだ。
右腕に握った大斧を、クロムを真っ二つにすべく振り下ろすディルエラの攻撃を、すかさず斜め前方に駆けることで回避したクロムは、ディルエラのすぐ横を走り過ぎる中で槍を振るい、ディルエラの脇腹に傷を残す槍先の軌道を作る。それを、今しがた大振りの攻撃を繰り出した直後のディルエラが、難なくその身をひねって回避する。敵の動きをしっかりと視認した上で、最小限の動きで傷を避ける動きに、クロムも振り返り様、獄獣の実力の片鱗を見据えて舌打ちする。
「さあ、どうした。時間稼ぎのつもりなら、小手調べはやめにして連中を追わせて貰うぜ」
「そいつは困るな……!」
ディルエラの恫喝が静かにクロムの胸を打ち抜く中、接近する大斧の大薙ぎを跳躍して回避するクロムは、上空でその槍を勢いよく振り回す。
上空から自らに飛来するクロムの動きを見定め、ディルエラがその目を細める。どんな攻撃も斧のひと振りではじき返せるパワーを持つ自分に、不用意に小回りの利かぬ空中から襲いかかる命知らずは何度も見てきたものだ。そいつらを数秒後には肉塊に変えてきた経験則を愚直に思い返すなら、こいつもそれらと同じ穴の狢ということなのか。
期待を裏切られぬことを密かに願いつつ、斧を握るディルエラの腕に、筋肉が膨れ上がらんばかりの力が込められる。そして上空から落下しつつ、自らに向けて槍を振るうクロムの一撃を、獄獣の怪力を一身に背負った大斧の反撃が迎え撃ち、激しく衝突した。
その瞬間、斧を握るディルエラの手まで伝わる、凄まじい衝撃。人間が振るう槍がこれほどまでのパワーを持つことに、ディルエラが思わず驚いて目を見開くものの、同時にその胸中を満たすのは、期待していた以上の結果をその目に留められた事実への歓喜。
さらなる力を斧に伝え、クロムの槍を勢いよくはじき返すディルエラ。噂に違わぬパワーを槍に受けるものの、武器を取り落とす致命的さをよく知るクロムはそれを手放さず、はじかれる方向に合わせて体ごと吹き飛ばされる。あまりにも力ずくの反撃に体勢を崩されながらも、姿勢を整えてクロムは足を下にして着地する。
敵を見据えるクロムの真正面、斧を握る手先を見て、ディルエラはこの上なく上機嫌な表情。恐らく、斧を握るのが自分でなければ、武器をはじかれ落としていたのはこちらの方だった。それを容易に確信できるほど、槍と斧を介して手に伝わってきたクロムのパワーは凄まじいものだった。そしてそれは間違いなく、配下であるミノタウロスやヒルギガースに勝るほどの怪力。
「……そうか。お前、そういう力の持ち主か」
どんなにその身を鍛え上げた人間であったとしても、一瞬でも自分と力を拮抗させられるほどまでのパワーを、生身で発揮できるような者がいるはずがない。人間と魔物、種族の間にある明確な隔たりは断じて埋められるものではなく、ディルエラもそれを正しく知っている。
「不慣れだがな。お前さんと戦う以上、それでも使わざるを得ないと判断した」
日頃この力を使わぬクロムにも、そうした事情がある。必ずしも100パーセント発揮できる保証のない力に頼ることは本意ではなかったものの、この力なくして獄獣と渡り合えぬなら、致し方ない。それだけ、先ほど数度の交錯で確信した獄獣の実力は、かつてまでの自分の想定を超えていた。
「そうか、なるほどなぁ……それじゃあ俺も、手を抜いて相手をするわけにもいかねえなぁ」
邪悪な笑みを浮かべ、ディルエラが斧を握らぬ左手を、目の前で僅かに開いて掌を上に向ける。やがてその掌が、淡い光を放って魔力の混在を示唆する。
クロムの直感が警鐘を鳴らす。あれはまずい。予想を超えた破壊の予感がする。
「列……」
目の前の獲物を、これから八つ裂きにするビジョンをはっきりと目に浮かべたディルエラが、赤黒い顔色の中心に光る眼を、鮮血のように真っ赤に染める。それは先ほどまでの戦いぶりが、彼にとっては遊びにすぎなかったことを物語るような、戦うことに本腰を入れ始めた怪物の目。
「砕……」
左手を頭上に掲げたディルエラと、それに離れて向き合うクロムの位置まで伝わる、強烈な殺意。獄獣の持つ破壊の力が目覚める一秒前の戦慄は、経験した者の数多くがその数秒後に命を落とし、誰にも伝えること叶わなかったことにより、歴史に刻まれにくかった事象。
クロムにとっても久しぶりのことだ。真に迫った死を覚悟するということは。
「陣!」
ディルエラが、凝縮された魔力と共にその左手を地面に叩きつけたその瞬間、破壊を促す獄獣の圧倒的な魔力が火を噴いた。
「マグニスさん……!?」
クロムとディルエラが交戦する死地から、全力で駆けて離れていた第14小隊の最後尾、マグニスが不意に足を止めて振り返る。それに気付いたアルミナも思わず立ち止まり、早く行かないととばかりにマグニスに急かす目を向けたものだ。
後方の異変に気が付き、次々と足を止めるシリカ達。後方に目線を向けるマグニスの半身を見て、各々もマグニスの抱く想いには気付きはするものの、今の彼にかける言葉を見つけきれずにいる。
しかし、次の瞬間。シリカ達がいるこの場所まで届く、体が一瞬浮くかとさえ思えるような大幅の地響きに、小柄なキャルが思わず腰を砕いてその場に座り込む。揺れに戸惑いながらも、キャルに手を握り立ち上がらせるアルミナだったが、それでも尚、余波のように残る微震には、誰もが心底後方のクロムに対して不安を抱く気持ちを駆り立てられる。
震源地が、獄獣のいるあの場所であることが、感覚的にわかるのだ。あの怪物と一対一で戦うクロムは、上手く立ち回った末に生きて帰れるのだろうか。そんな想いは、クロムと特に親しかったマグニス以外の誰もがずっと思っていたことでもある。
「……急ぐぞ。あいつなら、大丈夫だから」
「……だよな。旦那が遅れを取ることなんて、ありゃしねえよな」
マグニスに歩み寄って声をかけたシリカに、なかなか聞かせぬ低い声で応じるマグニス。どんな賭け事にも、表面上は飄々としながらも冷静な頭で立ち向かうマグニスの姿をよく見てきたクロムが今の彼を見れば、なんて顔してんだよとばかりに大笑いしていたことだろう。
再会することあらば、そんな土産話をしてやってもいい。マグニスは心中密かにそんな事を想いながら、再び前に向かって駆けていくシリカに追随するように、その足を走らせるのだった。
第14小隊が発足した日から、ずっとクロムと運命を共にしてきた二人。そんな二人が後方の命運を彼に託して走る姿には、若き騎士や傭兵の少年少女も、黙ってつき従うしかなかった。




