第72話 ~親子~
「――ご頭首様。一度、ご覧になっては頂けませんか?」
「くどい。私は忙しいのだ」
扉の向こうから聞こえてきたその声を聞いた時、自分の立ち位置を改めて理解したものだ。元々知っていたことだとはわかっていても、現実として向き合うと、何もかもどうでもよくなって。
「チータ君はもう、一人前の魔導士として通用する実力です。家督を継がせるか否かはさておき、独り立ちのためにも……」
聞こえてくるのは、空虚な人間関係ばかりがはびこるこの家で、唯一信頼できると思えるあの人の声。そしてあの人の声に熱が帯び始めてきた頃、それを遮るように机を叩く音。
「いち使用人の貴様が、我がサルファード家の問題に口を挟むつもりか……!?」
「いいえ、そんなつもりは……しかし……」
「黙れ!! 身の程をわきまえろ!!」
しばらくの沈黙の後、すみませんでしたと謝るあの人の声が聞こえてくる。足音が、扉の前で話を立ち聞きしていた自分に近づいてくるのが聞こえて、わずかに距離をとる。
部屋から出てきたあの人は、一礼して扉を閉めた後、少し離れた場所にいた自分の姿を気付き、かける言葉が見つからないかのように口を閉ざす。何を言うでもなく近付いてくるあの人の表情があまりにも痛ましく、先に言葉を放ったのは自分の方だ。
「……お気持ちは、すごく嬉しかったです。だけど、父は……」
人差し指を突き出し、口に当てて次の言葉を遮ってきたあの人は、力なくとも確かに微笑んでいた。あの人がそこで言い放った言葉は、今でも忘れられずにいる。
「人を変えることは出来ませんが、あなたが変わればあなたをとりまく世界は変わります。決して今を見限らず、未来に向けて努力することを怠ってはいけませんよ」
いつか、必ずわかって貰えるはず。そう言い締めて、自室に向かって歩き始めたあの人。ついて来いと言われたわけでもないのに、あの人の後ろを追いかけていた自分の姿は、今にして思えば、血の繋がった父や兄以上にあの人を信頼していた自分を、まるで証明するかのようなものだった。
何も、変わらなくてよかったのに。たとえ家族から一切の愛が注がれたことがなくたって、あの人がそばにいてくれるなら、自分はそれで満足だったのに。
「……珍しいな。チータが居眠りとは」
「……すいません」
ラエルカンからの帰り道。ダイアン法騎士の護送任務の中、馬車の隅に座っていたチータが、わずか短い間とはいえ意識を飛ばしたことに、シリカの視線が突き刺さる。さすがに無表情の多いチータも、この失態には目を伏せて、シリカとダイアンに対して深々と頭を下げる。
「自分でもわかっているようだから、何も言うまい。二度目は無いと思えよ」
「……申し訳ありません」
「まあまあ、シリカ。確かに良くなかったけど、初犯なら大目に見ようよ」
馬車の中心でにこやかにシリカを諌めるダイアンだが、シリカは思わずダイアンを振り返って閉口する。
「…………? どうしたんだい、シリカ」
「いや……丸くなったなぁ、と思いまして……」
えっ、と思わず声をあげるアルミナと同じく、キャルも同じ顔。初めて会った時から、柔和な表情と優しげな言葉の使い方のダイアンばかり見てきた二人にとっては、過去は厳しい人だったと示唆するシリカの言葉はやや意外だったようだ。騎士団の上官は皆、誰しも胸中に熱いものを持っていることを知っているユースや、ダイアンとよく話すチータとしては、やっぱりといった印象だったが。
「人聞きが悪いなぁ、シリカ。僕は昔からこうだったよ?」
「……まあ、これ以上は何も言いませんけど」
ダイアンは苦笑いするシリカに対し、むくれた表情を返すのみ。過去はご想像にお任せされたが、とりあえずいくら物腰柔らかいとはいえ、法騎士たるダイアンに対して粗相あるような真似をするのは絶対にしてはいけないな、と、アルミナ達も再認識する。当たり前のようなことでも、そうした事を意識的に頭に置くのは重要なことだ。
「それにしてもチータ君が居眠りというのは意外だったね。寝不足かな?」
「いえ……すみません」
「言い訳をしないのは美徳だけど、そういう事情があったなら聞くよ? なぜそうなったのかをしっかり詰めないと、再犯を防げない」
ダイアンはチータに近付き、目を伏せたままのチータの顔を覗き込むようにして問う。ある意味では失態を晒した部下に対する尋問に近いものではあるが、ダイアンと目を合わせたチータにとっては、その眼差しからそうした厳しさは感じられなかった。どちらかと言えば好奇の目だ。
「……昨晩は兄のことを思い出していまい、よく眠れなかったんです」
「ライフェンのことだね。確かに、君の実兄であることは聞いているが」
すでに一部の間では通じ合わされている、重要な血の繋がり。そこにチータの何らかの想いが渦巻いていることは、別に誰でも予想がつくことだ。
「それが理由で、寝不足かい?」
少し、ダイアンの目つきが変わった。今度は尋問の目だ。
「……思い出していたのは、それだけではありませんでしたが」
こうした場で嘘をつかないだけには、チータは立ち回りを心得ている。昨晩も今も、夢に見るのはライフェンなんかのことではない事実を、完全に隠すことはしない。失敗をした後なのだから、下手に隠し事を重ねるのは不誠実だ。
それでも、具体的にその過去までは語りたくなかったか、返答はやや曖昧。ダイアンがこれ以上もっと話せと言ってくるならば、それはその時考えるべきことだ。
「正直君が、罪人となった兄を思い返して、それだけで感傷に耽るとはあまり考えにくかったからね。その回答なら、納得だよ」
ダイアンは、第14小隊に並んでよくチータのことを見てきた人物だ。かつてひったくり犯に苛烈な罰を下した彼が、身内が罪人になったからと言って、複雑な想いを抱くような人間ではないとダイアンは確信していた。人間誰しも身内に対して見方が変わるのは当然だが、悪く言えばそういった贔屓目を、チータが嫌う人間であるということをダイアンは知っているからだ。
「気持ちの整理をよくつけておくことだ。同じミスを繰り返すと、シリカに殺されちゃうよ?」
「殺……いや、あの、叱りはしますけど」
ユースはシリカから顔を逸らして、小さくぷっと吹き出した。そんなユースの態度をもちろん見逃さなかったシリカは、素早くユースの方を向き直る。
「おいこら。何がおかしいんだ」
「いや、笑ってないですよ」
「嘘をつくな。まずはこっちを向いて話せ」
「笑ってないですってば」
ユースに詰めかけるシリカと、肩を揺すられても徹底してシリカから目を逸らし続けるユース。笑っていないと主張しつつ、噴き出したことを半ば自白した態度に、シリカがむきになって問い詰める。
「ダイアン様、あれは……」
「うん、敢えてやってるんだろうね。彼はほんと、空気が読める子だ」
ダイアンの冗談を真っ向から受け止め、オーバーリアクションでシリカの注意を引く。結果としてシリカは、チータのことをもう焦点に当てず、ユースに詰め寄る形になっている。昔からシリカを強く敬愛し、畏れていたユースが、あんな露骨に彼女の怒りを買いかねないような態度を、不用心に見せるわけがない。
チータがこれ以上何も話したがらなさそうな姿を見て、自らスケープゴートの枠に収まりにいったユースの意図は、ものの見事に遂行されている。ユースという人間としっかり向き合うようになった今のチータには、そういった心遣いもしっかり読み取れるようになっていた。
「君を第14小隊に紹介したのは僕だよ? 感謝してね?」
「……ええ。本当に、いい人ばかりに恵まれたと思います」
恩着せがましい言い方を屈託ない笑顔で見せてくるダイアンも、それが冗談であることをしっかり伝えている。そんな冗談を柔らかい目で受け取れるぐらいには、チータも今いるこの第14小隊が、いかに人に恵まれた場であるかを元より自覚していた。
「おう、おかえり。長旅ご苦労さん」
「ん、ガンマはどうした?」
「マンツーマンで揉んでやったから疲れたんだろうな。寝てるよ」
王都に帰り、ダイアンを騎士館まで見送った第14小隊が帰ってきたところに、クロムが気楽な挨拶を返してきた。帰宅が夜遅かったこともあって、ガンマがすでに寝ていてもおかしくはない。
「上官様を迎える前に寝ちまうのは本来ご法度だが、批難してやらねえでくれよ? 寝ていいぞって言ったのは俺だからよ」
「わかっているよ。私も、起きていろなんて言う口はないさ」
日付も変わる直前だし、クロムと一対一で訓練したなら、それはもう疲れて眠い頃合いだろう。シリカも自分より強い上官様に日がな一日揉んで貰った日は、一秒でも早く寝たかった過去が何度もあるし、若い戦人に対する共感は持ち合わせている。
マグニスもいないが、どうせ夜遊びに出かけているのはわかっていることだ。だから誰も尋ねない。朝二日酔いの顔で帰ってきたら、今回は頬でもつねってやろうとシリカが決め打っていた程度。
「土産話はまた明日でいいよ。みんな疲れたろ?」
「そうだろうな。みんな今日はもう、自由にしてくれていいぞ」
夕食は帰り道、ダイアンの希望もあって、トネムの都で外食を済ませてきた。流石に家で待つクロムやガンマの手前、あまり豪勢な夕食は食べられなかった部分もあり、手軽な定食屋を選んでくれたダイアンの判断は、シリカ達にとってはありがたかったものだ。
キャルがその定食屋で買ってきた、酒入りのボトルをクロムに手渡すと、お土産を嬉しそうにクロムは受け取る。今日は晩酌させて貰うわ、なんて朗らかに笑いつつ。
シリカが浴室に向かっていくのを、アルミナが追う。入浴の順番は概ねレディファーストかつ、一番立場が上のシリカが最初になるのがいつもの光景だが、夜も遅いしアルミナも、一緒に入って時間を省こうという心持ちなのだろう。シリカもその意図を汲み取って、キャルもおいでと手招きする。
ガンマとの兄弟飯の余りを皿に盛ってきて、ユースとチータの前に差し出してくるクロム。育ち盛りだろ、と大盛りの夕食を突き出してくるクロムの豪胆さがよく目立つ光景だが、帰り道の外食でも、家で待つ先輩と友人に負い目あってか、あまり食べていなかったユースとチータにとっては最も嬉しい対応だった。流石にそこまでクロムが読み取っているかはわからないけれど。
いただきます、と手を合わせ、女性陣が体を洗う間の時間に胃袋を満たす少年二人の前、自分自身もつまみを引っ張り出して来てお土産の酒瓶を開けるクロム。男三人で華に欠ける居間ではあったが、年の離れた兄と双子の相方が揃ったようなこの食卓、チータも居心地は悪くなかったものだ。
「クロムさん、お父さん見ましたよ」
「おう、そうか。怖かったろ」
好みの蒸留酒を口にして微笑むクロムに、ユースはしみじみうなずいた。騎士団内でも名高い豪傑クロムが、どんな人物に育てられた人だったんだろうという疑問が、一発で解決するような出会い。あれに育てられたなら、体格はともかく芯は強くなるだろうなって。
「……ユースも知らなかったことなのか?」
「隠してたわけじゃないと思うけど、知ったのは初めてだったよ」
「まあ、話す機会も特になかったしな。あまり積極的に話したいことでもねえけど」
どう見ても裏稼業に通じていそうな人物と、親子関係であることが知れれば、立場が悪くなるからなんだろうか、と、ユースもチータも真っ先に閃く。口にはしなかったが、仮説を立てるだけなら別にどうということでもない。
「あんまり、この事は言い広めない方が?」
「出来ればな。お前らに知られるぶんには別にいいんだが」
二人はクロムの言い分を汲み取って、今の秘密を胸の底までしまい込んだ。どういった事情であっても、言って欲しくないことは言わないのが人付き合いの基本だ。
そんな折、居間の扉が開く。思わぬ方向から人が現れたことに、ユースとチータは思わずそちらを振り返る。
「ういっす。――お、帰ってきてたのか」
「おう、マグニス。思ったより早かったな」
「勝ったんでね。流れがおかしくなる前に切り上げてきましたよ」
賭場にでも行っていたことを意味する言葉に、クロムはいくつも段階を飛ばして、土産はないのかとマグニスに問いかける。勿論ありますよ、と、マグニスはクロムの好みである煙草を3箱ほど差し出してきて、勝利の喜びを先輩と分かち合う。
「ユースもチータもお疲れさん。旦那の親父さんには会ってきたか?」
苦笑いでうなずくユースと、パンチ利いてましたね、とコメントを返すチータ。両者の反応が可笑しかったか、クロムはくっくっと笑っている。
「その顔じゃあ、旦那が今まであのオッサンとの繋がりを隠してきた理由まで、だいたい想像はついてんじゃねえか? 多分間違ってんだろうけど」
二人の反応を見て、ジュスターブがいかに恐ろしかったと捉えたかは、マグニスにもよくわかったこと。それを踏まえてそう言い放ったマグニスに、ユースとチータはスプーンを動かしていた手を止める。
「おーい、マグニス。余計なことは言わなくていいぞ」
「まあ全部話すような無粋なことはしませんがね」
居間の自分の席に座って煙草に火をつけるマグニスは、一服挟んで二人の少年に目を向け直す。
「少なくとも旦那が、あんな怖い人と親子だってバレたら自分も怖がられる、なんてチキンな理由で、親子の縁を隠していた小心者だとは思われたくないんでね。そこだけ推しときます」
「自分がどう見られるかなんて他人任せでいいんだよ。そっとしておいてやれ」
まあそうですけどね、とだけ言って、生暖かい笑顔をクロムに返すマグニス。クロムがちょっと渋い顔を見せているが、自分は言いたいから言った、というマグニスは特に気に留めなかった。
「世界的に有名な大商人の息子だって広く知られたら、その人物がどんな風に思われるかを、ユースもチータも想像で補ってみることだな。俺から言えるのはそれだけだわ」
「こらこら」
「すでに提示されてる情報を強調してるだけなんだから、これぐらいいいんじゃないんすか?」
マグニスの謎かけに、二人は改めて手を止めて考える。どうせすぐに答えが出るかと言われればそうでない気はするけれど、やっぱり考えてしまうものだ。
「あんまり疑ってかかるなよ、マグニス。お前だって、こいつらになら話してもいいって言ったろ。俺だってそう思って明かしてんだから、信用しないのは無粋どころか失敬だろが」
「あー……まあ、そうか。そういう見方もありましたね」
「性格の問題だから言いたくはないが、信じる相手はちゃんと選べよ」
「んあ、すいません。確かに悪いとこよく出てましたわ」
ユースとチータを置いてきぼりにした会話の末、クロムはグラスに注いだ酒を一気飲みしてはぁと溜め息をつく。彼の溜め息は、なかなか珍しい光景だ。
「ここまで言っちまった手前、説明するが、俺は大商人の息子ってだけで一目置かれるのが好きじゃねえんだよ。親父は商業界隈で圧倒的な力を持っているし、その御曹司であることが広く知れたら、さすがにヒラで俺を見てくれる人間は限られてくるからな」
アユイ商団の元締めたるジュスターブには、意見できる立場の人間だって相当に少ない。クロムがその息子だと知れば、もしかしたら大商人ジュスターブの機嫌にもつながると考えて、クロムに対して腹を割って話が出来なくなる人間もいるかもしれない。一国の王子に誰もが気安く話しかけられないのと同じで、商団の元締めの息子に忌憚なく話しかけられる者も、数を絞られるのだ。
「俺はそういうのが嫌だから、親父とは縁切り半ばで離れて暮らしている。親父と顔を合わせたくないのも、その意図もちゃんと説明して親父の元を離れたからだ。顔を合わせれば、縁を一度敢えて切り離したことに反する気がするからな」
先輩後輩で接する姿勢が選ばれるのは自然なことだが、親子の繋がりを理由に本音を語り合える相手が限られてくるのは、クロムにとっては寂しいことなのだ。だからジュスターブとの親子関係を今まで公開してこなかったし、それを知らせているのはシリカとマグニス、あとはシリカと繋がりが深い、ダイアンやベルセリウスなどの一部の理解者達だけだった。
「お前らはそういう色眼鏡で俺を見ないと信じたから、明かすことを拒まなかった。そんだけだよ」
グラスに酒を注いで、口をつける前に一服挟むクロム。同時にクロムがマグニスをじろりと睨み、珍しくマグニスが本当に申し訳なさそうな顔をする。何度シリカに叱られたって、演技でもあんな顔を見せたことはなかったのに。
「言わせるなよ。お前だって、こいつらになら話していいって言ってたじゃねえか。信じるってのは、こんな言い訳含めてまでやるようなことじゃねえだろ」
「マジでごめんなさい。反省します」
「わかったら煙草もうひと箱買ってこい。そんでチャラにしてやる」
いたずらな笑みを見せるクロムに、潔く席を立って財布を握るマグニス。互いに粗相があれば、煙草一箱で手打ち。ユースも時々見てきた光景だ。
「シリカがもうすぐ風呂から上がってくるから、逃げててもいいぞ。多分キレるから」
「そうしますわ。煙草は明日渡しますんで」
それだけ言って、速やかに去っていくマグニス。死地から逃げる足の速さは相変わらず一級品だ。
居間に残った三人は、しばらくだんまり。クロムもどことなく、気まずそうだ。
「……別に、変わりませんよ。クロムさんは、クロムさんですから」
沈黙を破ってでも、口火を切ったユースに手を伸ばして頭をくしゃくしゃと撫でるクロム。今の自分が一番聞きたかった言葉を、凍結しかけた空気を打破して放ってくれた後輩は、たまらなく可愛いものだ。
「俺はいい後輩に恵まれたと思う。長生きしろよ、ユース」
日頃の無鉄砲さを遠回しに揶揄しつつ、大切な人の幸ある人生を願う想いを率直に伝えるクロム。長く信頼してきた彼のそんな言葉を受け止め、頭を撫でられたユースも気恥ずかしそうに笑顔を返す。それは肴にして酒を呑むにしても充分過ぎるほど、クロムにとっては温かく胸を満たす笑顔。
浴室から上がってきたシリカ達と入れ替わりで、チータが浴場に向かっていく。居間が女三人と男二人の光景になったことに、ようやく華が揃ったな、と冗談めかして言うクロムに、男ですいませんでしたね、と笑って返すユースに、シリカ達も噴き出してしまう。
クロムさんのお父さん怖かったですよー、なんてしみじみ言いつつ、ラエルカンでの思い出話をクロムのそばに座って屈託なく話すアルミナの姿に、クロムに対する畏れなど微塵もなかった。それは怖がりであるはずのキャルが、クロムと向き合う席に座りつつ、ほんわかした笑顔でアルミナのことを見守っていることから、彼女の方も同様だ。
信じるべき相手を間違えていなかったこと。これだけには絶対の自身を持っていたクロムに正しく報いたアルミナやキャルの姿は、彼にとっては酒や煙草以上のお土産だったに違いない。
浴場で一人になったチータの胸の中に巡る想いの数々。家族と縁を自ら切った過去を持つ者が、そばにいたことを初めて知った今日。境遇は違えど、同じ道を歩んだ先人がいる事実に何を思うのか。
魔王マーディス率いる軍勢に両親を奪われたアルミナ。詳しい事情は知らないけれど、両親は既に他界していることだけ聞かされているキャル。故郷の母に見送られて王都に住まうユースと、厳しい父に背中を押されながら傭兵として生きるガンマ。シリカやマグニスの血縁関係については知らないが、少なくとも生きた父と縁を切ったクロムがいることに、チータも思考を巡らせる。
父の威光を背負うことを嫌い、独り立ちを選んだクロム。権威を持つ父を持つことは自分も同じことだ。だけど、自分が家を飛び出した理由は同じものではない。父と話をつけてしっかりと袖を分ってきたクロムと異なり、サルファード家を嫌悪する想いのあまり、何も言わずに飛び出した自分。表面だけは同じ境遇の他者とて、事情が違うのは当たり前だ。そして境遇が違うからこそ、事情も変わるのだ。
クロムは父であるジュスターブを語るにあたって、腫れものを思い返すような顔を見せなかった。自分は違う。父を思い返すたび、嫌悪感しか出てこない。己が変われば己を取り巻く世界も変わる、と教えてくれたあの人の言葉のとおり、自分が変われば、父に対する想いも変えられるのか? そうして自問自答しても、それが否であることは容易に導かれる結論だ。
兄ライフェンもまた、浅ましき父の犬のような男だったとよく覚えている。彼が魔物に寝返って悪行を重ねているという推測はすんなり受け入れられたし、ショックも少なかった。サルファード家と縁を切ろうとした自分の決断は間違っていなかったと今でも思えるし、親を失った少女達の手前でも、贅沢だと言われようが絶対に譲らず肯定できることだ。
自分は間違っていなかった。信じている。浴場の湯は迷いを流すためものではなかったが、髪を洗って鏡と向き合ったチータは、己の心を支える芯に改めて軸を立てた。




