第68話 ~あの日の出来事~
ラルセローミのフィート教会を、エレム王国騎士団とルオス帝国兵達が制圧した日から3日後。当の任務で命を失った、5人の騎士を弔う国葬が行われた翌日にあたるその日、誰もがそれぞれの想いを胸に、明日を目指して足を進めていた。
フィート教会突入任務で、各々が見て及んだ光景の数々は、短い時間で数多くの者の心に爪跡を残していった。すぐには到底忘れ得ぬあの日のことを思い返した各騎士や傭兵の動きは、この日になってようやく前進し始めたと言えるだろう。
そもそも、誰かが命を失うような任務ではなかったはずなのだ。フィート教会で悪事を働いていた神官達を一斉包囲し、抵抗する気力も失うような兵力で以って鎮圧する、ただそれだけの簡単な任務。獣魔メラノスやメデューサの存在はやや想定を上回るものだったが、そのイレギュラーにも、聖騎士クロードや法騎士シリカという強いカードをぶつけ、想定内の勝利を収める形を取れていた。魔物を除けば、敵方含めて死者など出ないはずの戦いだったはずなのに。
「不運だったと言うしかないな」
「……気休めは結構ですよ。僕が奴らの動向を読みきれなかったことが、最大の敗因です」
法騎士ダイアンの部屋を赴き、3日前最大のイレギュラーを思い返す聖騎士ナトームに、ダイアンはやりきれぬ表情で答えた。フィート教会を追い詰めるにあたって、悪事の証拠の収集やラルセローミの街との協力体制を構築したナトームに対し、突入作戦を構想した指揮官たるダイアンは、不測の事態が起こったとはいえ、それによって3人の騎士の命が奪われた事実に、悔やみきれない顔色だった。
いつだって、人が敷いた計算を決定的に狂わせるのは魔王マーディスの遺産達だ。タイリップ戦役で法騎士ボルモードの命を奪ったのも、潜伏を予想できなかった獄獣だった。
あの日、シリカ達が進んだ地下道の先、エルピア海に瀕した入江に繋がった出口の周りは、エレム王国騎士団の騎士達が包囲していた。クロード達が進んだ道の先にある出口は別の場所だが、そちらはルオスの帝国兵達が包囲していたのだ。どちらから教会の主犯たるライフェンが脱出を計ろうとしても、一斉に叩き伏せる算段は完成していた。
問題は、シリカ達が進んだ先の出口、ライフェンが逃走経路に選んだ方の道。気を緩めることなくその出口を固めていた騎士達の前に現れたのは、待ち焦がれた討伐すべき対象、フィート教会の司祭であり黒幕でもあるライフェンだ。誰もがその対象を目に入れた瞬間、彼の前に立っていた小さなシルエットは、血気盛んな騎士達の顔色を一斉に蒼白に染め上げた。
獄獣や黒騎士ウルアグワに並び、かつて魔王マーディスの最も近くに仕えた最強の魔物の一角。魔王マーディスの遺産、百獣皇アーヴェルの名で広く知られるその魔物は、成人男性の腰元ほどまでしかない小さな背丈に反し、絶大な魔力と多彩な魔法で以って、目の前の敵をなぎ倒す力を持つ存在。エレム王国騎士団に包囲された状況に直面しても、その表情を余裕に満たせていたライフェンの表情は、究極的に頼もしい味方がそばにいたことによるものであり、その顔を近い場所で見たナトームは、思い返しただけで若造のうすら笑いに腹が立つ想いだ。
百獣皇アーヴェルがその目を光らせて杖を振るうと、嵐のような強風が吹き、立ちはだかる騎士達を一瞬で吹き飛ばした。その場の指揮官としてそこに合流していたナトームは、展開した封魔大障壁の魔法で事なきを得たものの、道が拓けたと知るや否や素早く駆けたアーヴェルと、それに付き従うように走るライフェンは、陣形を崩した騎士団の輪をあっさりとくぐり抜けて行ったのだ。
勇猛な上騎士が、ライフェンを追った。彼らはナトームが彼を引き止める間もなく、空中に身を浮かせたアーヴェルの放つ魔法、真空の刃を放つ魔法をその首に受け、致命的な個所を切断されて、一瞬でその儚い命を奪われた。上空高くで無邪気な笑みを浮かべるアーヴェルは、人間の同盟者たるライフェンに近付こうとする者に視線を送り、かかって来るならどうぞと言わんばかりに目を光らせていた。
ライフェンも魔法使いだ。それを加味して構成された、5名の法騎士を含む、魔法に対する抗戦術に秀でた者を揃えた布陣だったが、相手の悪さを鑑みれば手を出すことは出来なかった。無念ながらも引き下がる事を部下に指示したナトームに倣い、騎士達が下がると、ライフェンは浜を駆けて騎士団から離れていった。
残ったアーヴェルは、いたずらな笑みと共に杖を振るい、巨大な炎の竜巻を生み出した。それを騎士団に向けて猛進させ、ナトームや、魔力の扱いの心得を持つ騎士達の魔法が、それを食い止めた。結果として実力のある騎士達、あるいはそうでなくとも彼らのそばにいた騎士達は死の危機から逃れたが、はじめアーヴェルの突風に吹き飛ばされ、孤立していた上に未熟な騎士は、その炎の竜巻の動く中に呑まれ、やがて灰に近い形になって亡骸へと変えられる。
真空の刃によって首を刎ねられた上騎士が一人。炎の竜巻に抗えなかった騎士が四人。久しぶりに人前に姿を見せた百獣皇の、半ば挨拶代わりの魔法によって失われた命の無念さは、もしも死者の声を聞くことが出来るならば、悲痛な叫びとして耳をつんざくだろう。人の命を奪うことに対して何の抵抗も感じない百獣皇は、まるで壊れやすいおもちゃに飽きた子供のような顔をして、空を舞ってライフェンの後ろを追っていくのだった。
「……番犬や凍てついた風ほどの存在が、綿の雨を降らせる連中に加担していたことを鑑みれば、マーディスの遺産がかの地に潜んでいることも予想できたはず。すべては、僕の認識の甘さが招いた犠牲だったと言えます」
哀しみよりも自らへの怒りを強く表情に宿したダイアンは、わなわなと拳を震わせてそう述べた。歴史に名を連ねるにはまだ遠い、若い騎士達とて、その家族や友人にとってはかけがえのない存在だ。国葬で彼らとの最後の別れを惜しんだ同僚達の顔を見たばかりのダイアンは、それを思い返すだけで、今回の布陣を敷いた自らの甘さに強い悔いを感じずにはいられない。
ダイアンは本来、そうした自責を人前で口にする人物ではない。後悔は何も生み出さないからだ。よく知る間柄である自分の前だからこそ、こうした胸中を吐露するダイアンであると知っているナトームは、敢えてここで後悔を表すダイアンを咎めることはしなかった。かつての部下であり、今や自らと同じく参謀職に就くようになったダイアンの気持ちは、ナトームにとって、過去の経験則から深く理解し、共感できる想いも多分にあるからだ。
「――随分、マーディスの遺産達の動きも活発になってきたな」
話を転がすナトームは、単に話を逸らしただけでなく、今回の一件を踏まえて今後を読むにあたって重要な要素を的確に挙げたものだ。この半年間で、獄獣や黒騎士が2度も顔を見せ、最も人前に姿を晒すことを嫌うはずの百獣皇までもがその顔を見せたことは、魔王マーディスを討伐してから約10年の歳月を経た今日までで、異質の出来事であると言える。4年以上前、魔王マーディスの遺産の一角であった、魔将軍エルドルを討伐して以来、奴らの姿を捕えることなど極めて稀だったのだ。明らかにここ最近、魔王マーディスの遺産達が姿を見せる回数が増えている。
「今までと同じ読み合いの次元で、奴らと渡り合うつもりではいないことだ」
「……そのつもりです」
かつて自らの認識の甘さから、その右脚に致命的な傷を負い、戦場を駆ける騎士としての人生を諦めざるを得なくなった、法騎士ダイアン。魔将軍エルドルに焼かれた右脚の傷が疼く想いを胸に移し、ダイアンは未来に向けてその想いに火をつけた。
魔法都市ダニームの権威たる、ダニームのアカデミー。その本館の一室、やや広い空間に小さな机と椅子、来客用のソファーと部屋の主のためのベッドだけを備え、部屋の大半を本棚で埋め尽くした部屋がある。本棚には古びた書物や、自筆の手帳の数々が無数に収納されており、部屋の主の几帳面さを体現するかのように、膨大な数の紙の束が乱れることなく並んでいる。
部屋の主である魔法学者、ルーネ=フォウ=ファクトリアは来客と向き合ってやや瞳に影を落としている。幼い容姿をしていても、頭の中は先見の明と観察力に秀でた賢者のそれ。対峙する人物が、並々ならぬ想いを胸に自らのもとを訪ねたことは、当然のように察している。
「お久しぶりですな、ルーネ様」
「はい。クロード様も、お元気そうで何よりです」
学者として多忙にある凪の賢者、ルーネに無理を言ってここに足を運んだクロード。誰にも話を聴かれぬ場所で、一対一でルーネと話がしたいと言ってきたクロードの申し出を受け入れたルーネは、彼の口から溢れる言葉がどんなものであろうと、それを受け入れる覚悟をとうに決めている。
同郷ラエルカンを持つ、亡国の生存者として違う地に住まう二人。第二の人生を歩んできた両者の関係は、過去を遡れば強いつながりを持つものであり、今でも双方、互いに強い敬意を抱いている。しかし今になって突然、このような眼差しで自分と一対一の話がしたいと言ってきたクロードの表情に、ルーネは悪い予感を禁じえない想いだった。
「ルーネ様。ひとつ貴女に、お尋ねしたいことがある」
「……なんでしょう?」
心当たりはある。クロードの存在を思い返すたび、一つの単語が必ず頭をよぎる。
「ルーネ様もご存じのとおり、わしは"渦巻く血潮"の施しをこの身に受け、人外なる力を得た者。スプリガンの血をこの肉体に流すことにより、それなりの魔力の扱いと並々ならぬ力を得たのがこのわしであると、貴女は誰よりご存じですな?」
「……はい。あなたにそれを施行したのは、他ならぬ私でしたから」
地を揺らす魔力と、ミノタウロスにも負けずとも劣らない怪力を持つ魔物、トロルの、上位種にあたると言われる存在スプリガン。かつて獄獣率いる軍勢の、有力な駒として動いていた怪物の血によって力を得たクロードは、今も昔も一騎当千の存在として、人類の安寧を守ってきた。
その血はクロードの肉体に少なからず影響を与え、今や彼の姿がそれを表わしている。他の被験者のように、おぞましい姿を得るようなことはなかったものの、30年前からずっと、彼の体は少年のような顔立ちと体躯のまま、成長を見せていない。痛々しい後遺症ではなかったものの、渦巻く血潮による爪痕は、間違いなく今もその姿に現れている。
「先日、ラルセローミのフィート教会突入任務にて、興味深い少年を目にしましてな。わしのように、大人とはかけ離れた小さな体格に、魔物にも勝り得るであろう剛腕を宿した少年――エレム王国騎士団の傭兵たるその少年は、ガンマ=スクエアというそうじゃが」
ルーネの胸を突き刺す、核心への第一撃。表情こそ努めて揺らがさぬものの、膝の上に乗せた拳をぎゅっと握らずにはいられない想いが、ルーネの心を刺激する。
小さな体、少年のような顔立ち、無双の怪力、あり得ぬはずの耐久力。そして何より、獣魔メラノスに向けたその怒りの瞳が、魔物のそれのように赤く染まったこと。それらを総合して彼に対して人々が抱く印象は、まず間違いなく"人間離れ"の一言に尽きる。そしてクロードにとっては別の言葉で言い表され、それは"魔物的である"という印象を胸に刻むのだ。
自分に、よく似ている。最後にクロードが辿り着く結論は、その言葉に他ならない。
「聞けば、かの少年はダニームの生まれであるそうじゃな。……あるいは誠に失敬な邪推となるやもしれぬが、それを踏まえてルーネ様にお尋ねしたい」
「……はい」
感情豊かな彼女とは思えぬような、機械的な返答。クロードはわずかに体を前に傾け、その眼差しをルーネの揺らめく瞳と向き合わせ、決定的な問いを口にした。
「……貴女は"渦巻く血潮"の技術を、かの少年に施行されたのか?」
第14小隊の拠点とも言うべき、シリカの家の裏に建つ訓練場。その訓練場の中心で、昼下がりからずっと互いの木剣を叩きつけあう二人の騎士がいる。朝の訓練を終え、昼食を済ませてすぐ、夕頃にも訓練を控えるというのに日中木剣を振るい続ける、力を求めることに貪欲な二人。そのオーバーワークを提案したのは、二人のうち年下の、騎士の称号を持つ少年騎士。
「まだだ! まだ遅い! その程度で私に打ち込めると思うな!」
「っ……!」
息を切らせるユースは、もはや言葉を返す余裕もなく、踏み込み、目の前の上官に立ち向かっていく。熱くなったシリカもその攻め手に応え、ユースの剣撃を回避するとともに反撃の一手を返してくる。それに盾か木剣で対応できる場面が増えてきたユースの反応力には、傍でそんな彼らを見守るキャルの目にも、彼の明確な成長がはっきりと映っていたものだ。
いつもの光景。暇を得た少年騎士が、訓練時間外にシリカに対人練習を求め、全身打ちのめされて倒れるまで繰り返される戦いなど、これまでに何度だってあったこと。
だが、ここ3日間の少年騎士の眼差しは、かつてよりも大きく異なっていた。ただ純粋に力を求め、敬愛する上官に追いつこうと必死だったはずの少年が、今は目の前の上官に迫る眼差しではなく、さらに先を見据えて飽くなき強さを求める目に変わっている。
「舐めるな……!」
剣を交えれば、そんな想いはやがて伝わるものだ。ユースの新たな決意を悟ったシリカは、憤慨とも取れるような視線とともにその木剣を振るい、近きユースの脇腹に向けて鋭い一撃を打ち込んだ。
胃の中のすべてを吐き出したくなるような苦しみと共に、膝をついたユースの背中に振り下ろされる、シリカの第二撃。痛みよりもその圧力に、そのままユースは前方にその身を投げだす形となり、訓練場の床に倒れ伏す。
全身を激痛に震わせる少年は、地べたに這わされた格好ながら両の手を握り締め、拳で地面を押し返してゆっくりと立ち上がる。落としかけた木剣を握ったままの少年が、せき込むことを強いようとする体を必死で抑えつけ、立ち上がって振り返る。苦悶に満ちた少年の顔の中心で、戦意を失わぬ強い眼差しを放つ両の目に火が宿る。
容赦なく攻めに転じ、次々とその得物による斬撃を、散弾雨のように放つシリカ。必死でそれらを捌こうとするユースの守りをかいくぐり、シリカの木剣が何度もユースの全身を打ちのめす。それでも決して倒れようとせず、隙あらば反撃に転じようとするユースの動きに、時にシリカも攻勢を抑え、守りの形を強いられる場面が生じるようになっている。
シリカは強い。少なくとも、ユースよりは。これが木剣ではなく騎士剣による決闘ならば、未だ無傷のまま、シリカがユースの全身を切り刻んで勝利を手にしているはずだ。今はそうでも、それでも少年が立ち上がることをやめず、痛みを堪えて前に進むのにはそれだけの意味がある。
迎え討つシリカは、かつて以上にその目に闘志を宿して打ち返す。自らを超え、さらなる高みを目指すことを本気で志すようになった少年の眼差しを見たシリカの胸中は、やがて踏み越えるべき壁と見なされたことへの敵愾心と意地に満ち、これまでよりも更に勢いよくその剣を振りかざすのだった。
「最近あいつら気合入り過ぎじゃないっすかねえ。特にユースだけど」
「まあ、わからんではない」
訓練場の入口から、遠目でシリカとユースを眺めるクロムとマグニスは、仲良く煙草を吸っていた。訓練場内に入ってしまうと禁煙なので、この位置が一番自由なのだ。今の気が立ったシリカの前で場内禁煙を破れば、ちょっと洒落にならないぐらい怒鳴られそうだ。
「そういや旦那、3日前の任務ではシリカやユースと一緒だったんすね。何かありました?」
「一瞬、シリカが危ない場面があったな。それが原因じゃね?」
くふっ、と噴き出してマグニスが笑った。だいたいその一件だけで、概ね事情は読めるというもの。
「そりゃあ認識改めますわな。今までのユースは温室育ち過ぎたし」
「だな。どんなに危険な局面が訪れたって、シリカなら必ずなんとかしてくれる、っていう認識が、無意識にでもあいつのどっかにあったんだと思うわ。実際今まではそうだったしな」
煙を吹かしつつ、クロムは柔らかい眼差しで前を眺める。目線の先にいるのは、またシリカに木剣で膝裏を討たれ、床に伏せつつも立ち上がろうと努める少年だ。
「シリカでも勝てねえような奴なんぞ、世の中に腐る程いるのが現実っすもんねぇ」
「そうした相手と対峙しなきゃいけなくなった時、自分に何が出来るのか。そう考えちまった時、弱いままの自分じゃ何も出来ないって現実が見えたら、焦るのが戦士のサガだわな」
第14小隊にはクロムがいる。マグニスがいる。そして、法騎士シリカがいる。いずれもユースよりもずっと経験豊富で、実力を持ち、どんな時でもユース達を導いてくれた存在だ。そんな背中を追いかけ続ける少年は、追いつきたい一心はあったにせよ、その頼もしい姿の後ろに立つうちはそれより先の道が見えていなかったのだろう。
だけど、いつまでも守られているばかりでは駄目なのだ。クロムでも、マグニスでも、シリカでも手を焼くような魔物と対峙することになった時、敬愛する先輩達の、上官の支えに少しでもなりたいという当たり前の感情は、ユースにだってある。そんな時、無力ゆえに何の力添えも出来ないとなれば、悔いが訪れるのは目に見えていることだ。
先のことを見据えるために必要な最たるものは想定力だ。初めて目の前でシリカがメデューサの蛇に全身を捕えられ、あわや全身を火だるまにされそうだったあの瞬間、追いかけていた背中のさらに先に、さらなる強大な敵が現れ得ることを、少年騎士は経験則から脳裏に描かずにはいられなかった。漠然とした想像ではなく、現実的なビジョンとして未だ見えぬ危機感を目に留めてしまったことが、今のユースの足を、さらなる高みに向けて押し出していく。
「ま、案外そんな小難しい話じゃなくって、もっと単純な話かもしれねーっすけど」
「うん?」
ひっひっと笑うマグニスが、これがまた悪い顔。クロムもなんとなく、彼の言いだしそうなことは過去のパターンから推察できる。
「誰より敬愛する女が、命の危機に晒されたわけじゃないっすか。そりゃ必死になるのこそ、男のサガってもんでしょ」
ただでさえあいつ、騎士道物語読んで育ったクチだし、と付け加えて、マグニスはにやにやと遠目のユースを眺める。クロムはふっと笑って、
「絶対ない」
畳んだ掌をぱたぱたと振って完全否定。マグニスはちょっとつまらなそうな顔をして、まあね、と、単なる冗談であったことを吐露して返す。
「……まあ、好いた惚れたの話を適用するにゃ、ユースはガキすぎますわな」
「もうすぐ二十歳だってのにな。本来なら流石にそういう感情の一つや二つ、女に対して抱いてもいいとも思うがねえ」
憂いたことを口にしながらも、微笑ましい表情でユースを眺めるクロムは、そういうユースだから今のあの姿勢であることを肯定する姿勢だ。一方でマグニスの表情の、残念そうなこと残念そうなこと。
「あいつこのままじゃマジで一生童貞ですわ。流石にそりゃ不憫だと思うんだがねえ」
「心配すんな、処女仲間のシリカと一生騎士として仲良くやっていくんだろうからよ」
「要するにそれって、あの二人がくっつけば万事解決とも取れますよね」
「いやぁ……それは……」
流石にクロムも、マグニスの方を向いて、辟易した表情を見せた。
「あいつらが恋だのなんだのに熱上げるタイプに見えるか?」
「無理。あれは万一目覚めても、寄り道なんかしちゃいけねえって本業に打ち込む人種。典型的な、彼氏彼女が出来ない仕事人」
「だろ?」
ユースの最も尊敬するシリカが、そんな感じなのだ。だから、自分達が傍から見て面白い展開を見込むには、あまりにも望みが薄くて、クロムも諦め半分の顔。マグニスも口をとんがらせている。
「まあ、本人らがそれでいいって言うんなら別に。ユースも強くなりたいって想いそのものはガチなんだし、どんな意図あれどユースの望む道は進めてるでしょうしね」
「ユースが強くなるならそれはそれでいいことだ。シリカに対してハッパかけられるからな」
携帯灰皿に煙草をぐりぐり押し付けて、クロムがにやつく。その言葉にはマグニスも共感を得たようで、退屈そうだった顔にやや光が灯る。
「シリカちょっとユースのこと甘く見過ぎですもんね。随分長いことユースのことを未熟者扱いしてきたけど、そろそろシリカも高段にあぐらかいちゃいられんでしょ」
「随分前にいるベルセリウス勇騎士様あたりを目標にしてるんだろうが、そろそろ追いつかれ始めていることにシリカも気付くべきなんだよな。それをちゃんと自覚すりゃ、あいつももうひと段階化ける可能性が出てくるわけだしよ」
モチベーションって大事ですもんね、とマグニスが言うと、それが最も肝心だろ、とクロムは返す。しみじみうなずいて、マグニスはその指先に挟んだ煙草を、訓練場の外の庭めがけてピンと弾いた。
「こうして見てると、先月の移籍騒動はマジで危なかったっすよねえ」
「まったくだ」
過ぎたことだから、笑える。シリカ、ユース、双方にとってお互いがどれほど大きな存在となり得るのかを客観的に見続けてきたクロムとマグニスは、次の煙草に火を付けて煙で乾杯でも交わさん勢いだった。
「……ああ、それとな。マグニス」
クロムがふと、ユース達を眺めながら、マグニスの方を振り返らずに少し低い声で話しかける。何でしょ、といつもの軽い口調で返すマグニスも、話題の転換には第一声から察している。
「半年近く前、シリカ達がレットアムの村で捕えたっていう、ルオスからの逃亡者の女なんだがな」
「今は司法取引の末に、どっかの貴族のもとで召使いやってるって話でしたっけ。結果、どうです?」
敢えて、少しの間を置くクロム。マグニスが想定する、悪い知らせを予告したような表情に、語らずとも伝わり得る結論が両者の間に巡る。
「行方不明だそうだ。ある朝買い物に出かけたっきり、帰ってこねえんだとよ」
「へえ。当の貴族達も、脱走したんじゃないかって怒ったんじゃないっすかね」
「まあ、そんな感じで向こうは話が終わってるよ。別にどこにでもある、よくある話だな」
顔の広いクロムは、三日前のあの件以来、知り合いを通じてルオスにおいて知りたい一件に対し調査をかけていた。シリカが、気になると言ったから。かつて自分達が捕えて、今はルオスで罪を償いつつ、第二の人生を歩んでいるであろう彼女が、今どうしているかを知りたいと言ったから。
「旦那達がフィート教会地下道で直面した魔物、メデューサのツラが、その女にあまりにも似ていたっていう、シリカとユースの証言さえなけりゃ、忘れていいような話なんすけどねぇ」
「あいつら戦闘中だっていうのに、メデューサの顔に近付いた途端、いきなり集中力切らしやがった。単なる見間違いか気の迷いで済ませられるほど、流石に二人ともそこまで日和っちゃいねえだろ」
無関係な話だとは思えない。そう示唆するクロムと同じく、マグニスも小さくうなずいて返す。
「人が魔物に変えられた、みたいな話はおとぎ話の中だけだと思ってましたけどねぇ」
「さてなぁ。ただ、今は無きラエルカンにも、その昔、そういう技術があったとも聞いてるしな」
過去と今を繋げる言葉を紡ぐクロムの語り草は、潜み得る悪意や手段の存在を極めて具体的にほのめかすもの。言いたいことがわかるだけに、マグニスもその顔に難色を示さずにはいられない。
まだ吸いきっていない煙草を早々に握り潰し、クロムはその場にあぐらをかく。遠巻きに先ほどから眺めているユースが、そろそろ動けなくなってきたかなと思えてきた辺りで、潮時を感じながら。
「この平和、いつまで続いてくれるだろうかねぇ」
「んなのシリカが法騎士になったあの頃から、ずっと言ってることじゃないっすか」
まあな、と一言返すと、クロムは訓練場に足を踏み入れていく。すっかり打ちのめされて限界を迎えていたユースを、もう終わりかと言わんばかりに厳しい目線で見降ろすシリカを、そろそろ引き止めるために。
「第14小隊の卵、あんま乱暴に扱って壊すなよ」
見守るような目でシリカに語りかけるクロムは、頭を冷やそうとするシリカの眼前、顔を向けた相手のシリカよりも、ずっと先を見据え眼差しだ。
「お疲れさん。訓練の時間までは、部屋でゆっくり休んでるこったな」
ユースを引き起こそうと手を伸ばしたクロムに対し、ユースは首を振って、なんとか体を起こす。手を借りず、自分の力で歩きたいからだ。肩で息をしながら、目の色も疲れ果てた少年が、自らの足で前に進もうとする姿を見て、クロムは優しく微笑むのみ。
「シリカ、先日お前に調べて欲しいって言われていた件について結論が出た。時間はとれるか」
「ああ、わかった。着替えたらすぐに行くよ」
少し息を切らしながらシリカがそう答えて、クロムと共に訓練場の敷居を跨ぐ方向に歩いて行く。それを追うように、少しつんのめりながらも小走りで二人を追うユース。敬愛する先人の背中に手を伸ばし続ける少年の志を、まさしく今も体現するような姿は、振り返らずともクロムはその姿を脳裏に想い浮かべて、上機嫌な表情をその顔に纏わせる。
昔ほど、ユースを一方的に攻め込むことが出来なくなっていることに、自らの手を握り開きして、憮然顔を浮かべるシリカを横目に見ると、尚更微笑ましい気分になってくるものだ。そんなクロムの顔を見るにつけ、何か面白いことでもあったのか、と聞いてくるシリカの姿を見て、お前のことで笑ってんだよ、と、鈍い上官様にマグニスも心中呆れる想いを抱いていた。
一年前とは随分変わり映えたものだ。任務についてきても、先駆けるシリカ達についていくことが精一杯だった少年騎士が、今は手合わせでシリカの手を焼かせることが出来るようになった。長く彼を手の及ばない年の離れた弟のようにしか見ていなかった法騎士が、変わりつつある少年を見る目も少しずつ改め始めている。それは実に長く感じられるようなほど濃厚な毎日を、最も近く共有してきた二人の歳月が生み出した変化であり、やがて太陽の下で花が開く日の近付きを予感させる予兆。
二人はまだまだ強くなれる。そう確信できるクロムの心を満たした充足感は、やがていつかはこの小隊を去ることを心に決めていたはずの彼の心に、惜しむ想いを強く芽生えさせるのだった。




