第57話 ~シリカ爆発~
それは何事もない、普通の昼下がり。訓練を終えて、クロムが縁側で煙草をくわえて一服していた時のことだ。
「お、いたいた。旦那」
クロムが振り返った先には、異様なまでににんまりした表情のマグニスがいた。緩みきったその目と引きつった口元は、今にも吹き出しそうな笑いを堪えているようにも見える。
「おう、どうした。死ぬほどご機嫌だな」
「いや、まあ……確かにご機嫌っちゃご機嫌っすけど……」
マグニスとの付き合いが長いクロムでも、ここまで面白そうな表情のマグニスは過去に見たことが殆どない。顔を一目見た瞬間から、ここまで爆笑寸前の顔を見せる者自体、珍しいぐらいだ。
これは間違いなく、何か面白い土産話を持ってきている。そう確信したクロムもまた、ほんのりと悪い笑みを浮かべる。
「そんな顔で俺の前に現れるってことは、余程面白い話を聞かせてくれるんだろうな?」
「さ、さぁ……どうでしょうね……旦那なら笑うと思いますが……」
そこまで言って、ぶふうっと噴き出すマグニス。最初からそんな顔をしていると、この後話す内容にハードルが上がるぞ、というクロムの警告にも、全く怯む様子が無い。
期待の高まるクロムの前にマグニスが差し出したのは、一冊の小説だった。読書なんかを嗜むぐらいなら、ナンパのひとつでもした方が有意義だと言いそうなマグニスが、こんなものを手にしていること自体、クロムにとっては目新しくて面白い光景だ。
「だ、旦那、いっぺんコレ読んでみてくれません……? 絶対笑いますから……」
「ふむ……?」
マグニスに差し出された小説を手にして、表紙をめくるクロム。この後のクロムの表情を想像しただけで笑いを堪えられないマグニスは、その小説を読み進めるクロムを眺めながら、終始声を殺してくぐもった笑いを漏らしていた。
「ぶはははははは!! こりゃひでぇ!!」
「ね、サイコーっしょ!? 俺も把握した時には笑いが止まりませんでしたわ!!」
クロムの爆笑が、庭の上空の雲にまで届くかというぐらい高らかに響く。それを眺めるマグニスの、笑いのツボを共有する同士を見る目が嬉しそうなこと、嬉しそうなこと。
「は、ハラ痛ぇ……んじゃまさか、このクローグって奴が俺か?」
「た、多分そういうことなんでしょ……そうとしか……」
「ぶはははは!! 頭おかしいんじゃねえのコレ書いた奴!!」
落ち付き払った態度を常に表に見せるクロムが、ここまで腹を抱えて笑う姿など、第14小隊に属する誰もが見たことのないはずの光景だ。酒宴でクロムと同席する機会の多いマグニスでさえ、ここまでげらげら笑うクロムを見るのは初めてである。
日中の活気づくエレム王都内において、シリカの家の庭先から溢れる青年二人の笑い声は、活きた街を描き表す一つの歌声に混じるだけだ。しかし、同じ家の中にある者達にとってはそうではなく、二人の爆笑声に呼び寄せられるかのように、一人の少年が近付く。
「どうしたんですか、クロムさん……なんか尋常じゃないぐらいウケてますけど……」
「おお、ユースか……いい所に来るなぁ、お前……」
何も知らない後輩部下の顔を見て、若干落着きを取り戻したか、クロムがそちらを向き直る。ただ、その表情は先ほどまでの笑いを消しきれず、目も口も笑いの色を抱えたままだ。
「なぁユース、コレ読んでみろよ……マジで笑うから……」
クロムから、両者の間で話題の一冊の小説を受け取ったマグニスは、それをユースに差し出してくる。相手が悪戯好きかつ、ブラックジョークを進んで好むタイプの人間だと知っている都合もあり、笑うマグニスの勧める書物に対して、ユースはつい警戒心を抱いてしまう。
後ずさりそうになったユースに対し、ずずいっと近寄ってその小説を押しつけてくるマグニス。先輩にここまでごり押しされてはユースも観念したか、その小説を受け取る。その横には、受け取ったユースを横目に眺めながら、声を殺して笑っているクロムの姿。
まあどうせ、また妙な悪だくみの種になりそうな話題を見つけたんだろうな、とタカをくくって、溜め息混じりにその小説を読み始めるユース。1ページ、2ページと読み進めていくうちに、ユースの胸を取り巻く疑問がどんどん大きくなる。
「……これ、恋愛小説ですか? マグニスさんがこんなの勧めるなんて、珍しいですね……」
「いいから読み進めていけ……そのうちわかるから……」
警戒心がちょっとずつ興味に変わっていく実感を得ながら、ぱらぱらとその恋愛小説を読み進めていくユース。俺はこういうの、あんまり好みじゃないんだけどな――なんて、文字列を眺めるユースが考えていられるのも、今のうちだけだ。クロムもマグニスも、そう確信していた。
最後まで読み進めるまでもなく、徐々にユースの表情が引きつってくる。これはどう――笑えばいいのやら、恐れるべきなのやら――ひくひくと口の端を震えさせるユースの反応を見て、クロムとマグニスが可笑しそうに笑っている。
「……なんです? コレ」
「読んだままだよ、それ……つまりは"そういうこと"だろ……」
戸惑うユースをよそに、それだけ言って口元を押さえるマグニス。両者とも先程までの馬鹿笑いはおさまったようだが、まだちょっと笑っている。
もう一度、小説の内容、特に登場人物の名に目を通し直すユース。どいつもこいつも、どこかで聞いたような、見たような名前しやがって。
「あの、まさかとは思いますけど……このステイトっていう少年騎士って……」
「だから"そういうこと"じゃねーの。マグリッド、って奴が、たぶん俺だろ」
ユースの尋ねたかったことに対する答えを、やや遠まわしではあるものの肯定するマグニス。
ちなみにユースの本名はユーステットである。それが今、ここでは凄まじく重要な情報だ。
「えー、じゃあこのルミナスとか、ガルマとか、ティータスとか……そしたら消去法で、ルーキってのがもしかして……」
「もしかしてもクソも、ルーキは後半で弓使いだって書き表されてたぞ」
ああ、やっぱり……と、ユースは嫌な憶測が当たった顔を全面に浮かべる。
「ってことは、この主人公が……」
「珍しいな、こんな時間にお前達三人での談笑なんて」
突然、後方から聞こえた死神の声。過去最大級に肩を跳ねて驚いたユースが振り返ると、そこには不思議そうな顔で三人を眺めるシリカの姿があった。
「おう、シリカ。待ってたぞ」
「俺も待ってた。お前がいねえと始まらねえわ」
煙草をくわえた顔を、上機嫌いっぱいに満たしてシリカに呼びかけるクロム。こっちに来い来いと、シリカから見るとなんだか嫌な予感がする手招きを見せるマグニス。
うむ、怪しい。二人とも、新しいオモチャを買って貰えた子供を彷彿とさせるような無邪気な笑顔だ。いい年こいた大人があんな顔で人を手招きする時点で、心底本当に嫌な予感しかしない。
「あ、あの、シリカさん……俺、ちょっと買い物に行ってきます……!」
ユースはその手に預けさせられていた恋愛小説を、マグニスに押しつけて駆けていく。怪訝な顔でその態度を見たシリカを尻目に、その横をすり抜けて一目散に逃げていく。
残されたのは、クロムとマグニス。そしてシリカ。なんだろうこの、二匹のライオンが眠る小屋に放りだされた兎のような肌寒い心地は。
「……どうせまた、ろくでもないことを企んでいるんだろう」
「いや、俺のせいじゃねーし」
「俺は見つけてきただけだし」
お前達の考えはわかってるぞと言わんばかりに強がるシリカに対して、飄々と怪しい笑みと返答を返す二人。正直こういう時の二人は相手にしたくもないのだが、妙に舐め腐った二人の目つきが気に入らないのもまた事実で、シリカは二人のもとへ歩み寄る。
何事だ、とシリカが尋ねるより早く、マグニスは手元の小説をシリカに差し出してくる。
「読んでみろ。メチャクチャ面白ぇから」
「……恋愛小説か。何かと思ったら……」
恋愛事に疎い自分を、こうしたものを使ってからかってやろうというマグニスの意図が透けて見えた気がして、シリカは下らないなと溜め息をつく。今までにもそういう揶揄をマグニスから受けてきた過去もあるだけに、そろそろ耐性のひとつぐらいはついてきた自信はある。
「ふん、いいだろう。その代わりそこまで言ってくるのなら、どうという内容でもなかった場合、時間を無駄にさせてくれたことに少々物言わせて貰うからな」
「ええ、どうぞ。絶対有意義な時間になると思うんで」
牽制するシリカに対し、マグニスは余裕の態度。この程度の反応なら予測済みだ。マグニスは口先だけの自信やブラフを必要に応じてよく使うし、勧められたものの内容と彼の態度に関連性があるとは今のうちからはあまり思えない。
果たしてどんな悪意で自分をからかってくるのやら。まあ、陳腐なからかいなら切り返してやろうと対抗意識を内に秘めたシリカをよそに、クロムとマグニスはこの後に彼女が浮かべるであろう表情を想像するにつけ、今からもう既に含み笑いが抑えきれなかった。
その小説のあらすじはこうだ。
とある小国にて、その国の安寧を守るべく日々を生きる自警団あり。その中にある一つの輪、自警団の若き勇士達が集まる、8人で構成される部隊があった。
その部隊は、一人の隊長を軸に、よく纏まった部隊である。隊長の側近、剛腕の槍使いクローグ、ナイフと鞭を得意武器とする陽気な若者マグリッド、年若く才覚には溢れるも、隊長からは日々叱られることも多い剣士ステイト――他にこの部隊を構成する登場人物として、斧使いの少年ガルマ、銃を使う少女ルミナス、魔法使いのティータス、弓使いのルーキ、など。なんだかどこかで聞いたことのあるような名前が続いた気がして、シリカの心中に妙な予感が沸いてくる。
その部隊の隊長は、若くして剣の才覚を発揮し、この部隊の隊長として立派に職務を果たしている。しかし一方で、仕事人としての半生を歩んできた彼女は恋愛事に縁がなく、年齢と彼氏いない歴が一致するという。恋愛事にうつつを抜かすこともなく、武人としての生き様を貫いてきた主人公。その自警団のいち部隊における隊長が、ふとしたきっかけで隣に立つ男性を異性として意識し、やがて恋愛感情を抱き、その人物と結ばれていく――そんな内容だ。
その主人公の名は、キリカと表記されていた。
小説半ばまで読み進めたところで指が完全に止まったシリカは、食い入るように小説に目を向けながら、冊子を握る両手をふるふると震えさせている。後方のクロムから見ると、絹のような美しい髪を携えたシリカの後頭部もひくついている。正面からそれを見ているマグニスからは、冊子を顔の前に構えるシリカの姿勢のせいで表情が見えないが、別にだからといってどうということは。
だいたい今のシリカがどんな表情をしているかは、見なくても二人にはわかるというものだ。クロムとマグニスが想像しているとおり、耳まで真っ赤にした顔を冊子で隠すシリカは、唇を噛んで言葉を失うばかり。
「――んだこれは……」
「え、何だって?」
マグニスが、にまにましながら尋ねる。次の瞬間、手元の恋愛小説を勢いよく足元に叩きつけ、シリカが目を見開いてマグニスの胸ぐらを掴んで迫った。
「な、なんだこれは……! お前、いたずらにしてもこれは……」
「イタズラじゃねえも~ん。売ってたんだも~ん」
胸ぐらを掴まれながらも、シリカから目を逸らして口笛を吹くマグニス。その言葉がシリカの耳に届いた瞬間、シリカの表情が凍りつく。
「それは市販の小説だぜ。お前をからかうために俺達が書いたとか、そういうオチは無いから」
「確かにタイトル自体は聞いたことあるしな。若い奴らにそこそこ人気だった気がする」
マグニスの胸ぐらを掴んだシリカの手が硬直し、力が抜けたその隙にマグニスはするりと抜け出す。手元に無くなったはずの胸ぐらをエア掴みしたままの姿勢で固まったシリカの全身から、ぶわっと汗が吹き出した。
シリカが途中まで読んだ小説の内容はこうだ。部隊創設時から命運を共にしてきた、女剣士キリカと槍使いのクローグは、実に息の合う二人だった。同じく部隊創設時からその二人と共にある青年、マグリッドは、女遊びの好きな性分で、恋愛経験の疎いキリカを日々からかう間柄だった。
そんな部隊にやがて5人の部下が揃い、部下達も隊長の色恋無縁な姿には心配していた。そんな中、女剣士キリカが槍使いのクローグに対して良き感情を持つことに目をつけたマグリッドが、山中の任務で後輩と協力して二人を置き去りにし、その動向を遠くから見守るという作戦に出たのだ。
山中で孤立無援となった女剣士キリカと、槍使いのクローグ。やがて夜も更け、雨も降り始め、ふとしたほら穴で休みを取る中、二人の距離はやや近いものとなっていく。女剣士キリカよりも年上のクローグは、予想だにしなかった状況にも極めて冷静に立ち回る。部下の前で弱気な姿を見せられぬと心中では不安になりながらも気丈に振る舞う女剣士キリカに、自分の上着を着せるなどして気遣うカッコよさも見せていたり。ほんの少し体を震わせただけで、寒さを覚えた自分のことに気がついてくれた長年の友を見て、"今まで意識しなかったけど、こいつって本当に周りのことよく見てるんだな……"と、槍使いクローグを見直す女剣士キリカ。そのシーンから2ページに渡って、女剣士キリカの胸の中にある、友人への想いが尊敬心からときめきに変わっていくのである。
やがてそんな中訪れる、思わぬ強き魔物との遭遇。遠方から見守る部隊の後輩達も焦るような想定外の事態の中、魔物に襲われ足を挫かれた女騎士キリカは危機に陥る。しかしそこで、自分よりも遙かに大きな体躯を持つ強大な魔物に立ち向かう、槍使いのクローグ。傷だらけになりながらも、自らを守るために決死の想いで戦う彼の姿に、女騎士キリカの胸の高鳴りが大きくなる。なってしまう。
まあ何やかんやあって、その魔物を撃退することには成功する。ぼろぼろに打ちのめされた全身を雨中の土に倒れさせた槍使いクローグに、我に返った女剣士キリカが駆け寄る。槍使いクローグは、自分が傷だらけであるにも関わらず、お前が無事でよかった、と笑顔を女剣士キリカに向ける。その眩しい笑顔に心臓の高鳴りを抑えられない女騎士キリカ。やがて彼女の想いはピークにまで達し、地面に倒れた彼を抱き起こし、背中に手を回して抱きしめるのだ。最愛の女性を守れたことに満足し、あとは朝が来るのを待つだけだ、と笑いかける槍使いクローグの顔を近くに見た瞬間、女騎士キリカの中で押さえつけていた理性の糸が切れる。そして、槍使いクローグ自身も全く予想だにしていなかった女騎士キリカの次の行動。彼女は目を閉じ、その唇を――
「っ、があっ!」
拾い上げた小説を再読し、そこまで読んだ瞬間、シリカは吠えて冊子を壁に投げつけた。もうダメだ。あれ以上続きを読んだら死んでしまう。
「お前の相手役が俺という事実に、俺はものすごく複雑だ」
失笑全開のクロムの言葉に、シリカが振り返って突き刺すような視線を向ける。何か色々と言いたい事が山ほどあるのだろうが、言葉が出てこなくて口の奥から荒い息だけが溢れている。
「完っ全にこの恋愛小説、第14小隊がモデルだよなぁ。名前とか人数とか武器とか、偶然にしちゃ一致し過ぎてるし」
「んで、女剣士シリカ――じゃなかった、女剣士キリカと、年上の槍使いのクローグが恋に落ちてやがてウキウキハッピーエンドまで続く、と……」
そこまで言ってマグニスは、ぶふぅと噴き出してシリカから離れていく。我慢できなかったようだ。
「お、おまっ……お前ら……! わ、私は……こんな……」
「どうどうどう、シリカどうどう。落ち着いて言いたいこと整理して言え」
想像を遙かに超えて言葉に詰まるシリカの姿を見て、なだめるクロム。ほぼ当事者なのに他人事のように図太くそうした姿勢を見せるあたり、なかなか楽しんでいるようだ。
「わっ、私はこんな……こんな、ちょろい女なんかじゃない……!」
まだ軽くボキャブラリーが崩壊している辺り、混乱が収まる気配は無いようだ。言いたいことはだいたい伝わるのだけれど。
「誰もお前がちょろいとは言ってないだろ。ちょろいのは女剣士キリカだろ」
「まあ、案外お前にそういう面があったりもすんのかな、って妄想すっと面白くもあるけど」
いたずらめいた発言を放つ二人にプッツンきたらしく、戦場におけるほどの手の速さでもって、近場のクロムの胸倉に手を伸ばしてくるシリカ。一方クロムも反射神経はなかなかのもので、自らに突進してくるシリカを回避してしまい、そのままつんのめったシリカが前方によろめき、足をつまづかせて豪快に転んでしまう。
「ありゃ、旦那」
「いや、つい。殺意がマジだった気がして」
すっ転んでかろうじて受け身は取ったものの、額を床に打ち付けたシリカはなかなか立ち上がってこない。額を抑えてうずくまる姿は、丸まって頭を抱えている姿にも見えるから、そろそろクロム達もそんなシリカを見るにつけ、流石に気の毒な気がしてきた。
ゆっくり上体を起こし、正座してうなだれるシリカの視界に、壁に向かって投げつけて床に落ちたあの小説が目に入る。限りなく間違いなく、自分をモデルとした女主人公が、コロッと甘ったるい恋に落ちる様を描かれた書物の表紙を見ただけで、さっきまで読んでいた内容が呪詛のように頭に蘇る。
女剣士シリカ――じゃなくてキリカがテンションに任せて、槍使いクロム――じゃなくてクローグの唇を奪う描写を思い返した瞬間、シリカの全身の鳥肌が総立ちになる。初めての口づけすら、未だに一生に一度のかけがえのないものとして大切に守ってきた自分を、もう若くないのにいつまでそんな事言ってるんだと自己非難したくなることさえあるのに、なんなんだアイツは。ファーストキスというのはもっとこう――じゃなくって、というか、なぜ自分をモデルにしたと思しきあの女剣士があんなにチョロいのかと小一時間筆者に問い詰めてやりたい心地に襲われる。そしてそれが叶うなら、返答次第によっては殴ってしまうかもしれない。
しかも、小説半分まで読んだだけでそこまでの進展だ。展開が早い早い。このまま最後まで読めば、女剣士キリカはどこまでやってしまうのやら。最悪、ヘタをすれば、15歳未満の少年少女には刺激の強すぎる内容になっている予感だってする。そこまで想像が及んだ瞬間、シリカは今まで出したこともないような、うぐぅ……という呻き声を漏らさずにはいられなかった。
「……この小説を書いた人物は割り出せないのか」
半目開き、されどその瞳の奥に青い炎を宿したシリカが、床に座ったままクロム達を振り返って問うてくる。どうやら本気で、この小説の作者に物申したい想いのようだ。まあ、エレム王国の法規的にどう判断されるかはわからないが、シリカの個人的感情としては肖像権を思いっきり侵害された心地だろうし、お怒りとしてはごもっとも。
そんなシリカの訴えに、クロムが少し気まずそうに目を逸らす。言ってしまっていいものかどうか一度迷う部分なのだが、話すと決めてはいたので、最終的には言ってしまうのだが。
「あー……実はまあ、見当はついてんだよな」
「旦那もそうっすよねえ。こんなの書ける奴、一人しかいねえし」
ある意味では過去最大級の怒りを目に宿すシリカに対し、クロムとマグニスが仮説を紐解いて語りだす。それはすなわち、示し合わせる必要もなく、二人が頭の中に思い描いた、あの恋愛小説の筆者の顔への道。
手がかり1。エレム王国第14小隊は、法騎士シリカが率いる部隊として名もそこそこ知れているが、そこに属するメンバーの名前と得物まですべて把握している人物といえば限られてくる。
手がかり2。女剣士キリカのモデルと思しきシリカ、槍使いクローグのモデルと思しきクロム、好色の青年マグリッドのモデルと思しきマグニス。その三人は、第14小隊――当時の言葉で言うなら第14分隊結成時からの付き合いだ。小説内の三人もそんな間柄であり、そんな部分までお話作りに取り入れてくるあたり、筆者は相当第14小隊の内情を詳しく知っている。
手がかり3。恋愛小説を一冊書き上げるだけの筆力と語彙力、集中力がある作者。しかも内容から察するに、筆者は恋愛小説などでよく使われるような単語を押さえている。つまりこの筆者は、日頃から恋愛小説などのお話を読んでいるような人物である可能性が高い。
これだけの要素が揃えば、それなりに候補は絞られてくる。そして最後に、手がかり4を加味した瞬間、とある人物一人に容疑者が絞られるのだ。
「作者の名前、ナルミ=アストマイダーだってよ」
小説の内容にばかり目をやっていたシリカがその文字列を聞いた瞬間に走った、ある閃き。同時に彼女の胸の中に渦巻く怒りが、今宵の炸裂に向けてマグマのように煮えたぎった。
「ただいまー」
夕暮れ時にシリカの家に帰ってきた、一人の人物。よもやこの日、居間に修羅場が待っていることなど、この時点では当然予想していないことだろう。
買い物を済ませてきてふうと息をつくその人物が今に立ち入った瞬間、その人物の第六感がぴりっとひりついた。よくわからないが、なんだか嫌な予感がする。
居間への扉を開けたその人物を待っていたのは、食卓の中心で腕を組んで待っていたシリカ。その隣にクロムとマグニスが座っており、ユースとガンマが気まずそうにあらぬ方向を向いている。
「おかえり」
菩薩のような、異様に優しい笑顔を向けてくるシリカ。この人にだって、優しい一面があることは、日々の付き合いから知っている。だが、これは何かが違う。何かがおかしい。
容疑者が一歩引くより早く、シリカが膝元に隠してあった、くしゃくしゃの小説を取り出す。はじめそれが何かわからなかったその人物の頭に疑問符が浮かぶが、その小説のタイトルを目にしたその瞬間、容疑者の表情が一瞬で凍りついた。
「アルミナ……これはどういうことか説明して貰っていいかな……?」
修羅場に関与するつもりなど毛頭ないチータは無関心を装って杖を磨き、キャルですらこの後の展開を予想して台所に逃げ込み、夕食の準備を進めているフリ。シリカが異常なまでの笑顔を向けて恫喝する対象とされたアルミナは、蛇に睨まれた蛙のように固まっている。
「あ……うぁ……そ、それは……その……」
全身から滝のように冷や汗を流す容疑者の態度。私が犯人です、と、まさしく顔に書いてある。
机を挟んだ向こう側で、眉をひくつかせて笑顔を浮かべるシリカの表情はアルミナにとって、廃坑で自らに殺意の眼差しを向けていたワータイガーより恐ろしいものだ。魔物は殺意を覚えた相手を、一撃必殺で殺しにくる。今のあの人に捕まったら、死なない程度に死ぬほど痛めつけられる気がする。毎日のように訓練で血へど吐くほど痛めつけられているが、きっとそれ以上に――
口をぱくぱくと動かすだけで何も言えないアルミナに業を煮やしたか、シリカががたりと椅子から立ち上がる。その瞬間にアルミナの全身を貫いた恐怖たるや想像を絶するもので、思わず三歩後ろに下がって、居間の入口にあたる扉を超えてシリカから離れる。
「ご……っ、ごめんなさーい!!」
「アルミナァ!!」
絶叫して一目散に逃げていくアルミナと、魔物のように吠えてそれを追いかけるシリカ。己の尊厳を懸けて駆けるハンターと、命を懸けて逃亡する小兎の後ろ姿を、第14小隊の面々が軒並み揃って渇いた笑顔で見送っていた。チータ以外。




