第56話 ~ピルツの村跡地② 番犬と凍てついた風~
賢者エルアーティとシリカ達が、対峙するカティロスから目を離さず睨み合う光景を、遠方から見届けるマグニス。カティロスの実力は騎士団においてもあまりに有名なものであり、マグニスがその脅威から逃げ出し、安全な場所で高見の見物をしている、ともとれる光景かもしれない。
しかし、それは間違っている。なぜならマグニスのすぐそばには、もっと恐ろしい脅威が存在していたからだ。
シリカ達から遠く離れた場で、今のマグニスと同じく、カティロスとエルアーティが対峙する姿を見届けている人物がいた。その人物は、数階建ての建物の高さにも並ぶような背丈を持つ、巨大なるお化けキノコの傘の上で、あぐらをかいてじっとたたずんでいる。
「"番犬"アジダハーカさんよ。お前は、何が目的でここに来た?」
マグニスに名を呼ばれたその人物は、それに応じるかのようにゆっくりと立ち上がる。長身のマグニスよりも頭ひとつぶん高いその体躯は、味方であれば頼もしく、敵であるならなるべく対峙したくない大男のそれだ。そしてそれは、この人物が敵であるとはっきり知っているマグニスにとって、あまり嬉しくないシルエット。
草葉で編んだような蓑のような衣服に胴体を包み、肩と肘、膝だけを金属性のプロテクターで覆い守る中、その間に垣間見える腕と脚は極めて太く、見ただけで剛腕と強い脚力を思わせる。裸足の指先は一本一本が小石のようにごつごつしていて、その足で岩場を歩こうとも疲れ得ぬ、強靭な足を持っていることが感じ取れるというものだ。
そして最大の特徴は、振り返ったその人物の顔を覆う、噂に違わぬおぞましい仮面。そのまぶたから眼球が溢れそうなほどにぎょろついた赤黒い瞳を宿し、半開きの口から不並びな歯をちらつかせる雄馬のような仮面は、この世に存在する動物を模したものとは思えぬ、異形の様相だ。そして仮面の横からは、雄獅子のたてがみとも例えられそうな髪が無数に溢れ、蓑で隠れた首元をさらに覆い隠している。
「……賢者エルアーティがいなければ、貴様らを皆殺しにするつもりだった」
「おぉ怖い怖い。今回ばかりは、あの女狐に借りが出来たと思うべきかね」
その人物の声は、おどろおどろしささえも感じるほどに低く、重く、人間のそれとは思えないものだ。初めてその声を聞いたマグニスとて、声だけで相手が人間でないと確信できたのは、珍しい経験だと感じている。
"番犬"の異名を持ち、魔王マーディスの配下であった残党魔物達の中でも、五指に入る実力を持つ怪物、アジダハーカ。そしてそれは、魔王マーディスの遺産と呼ばれる最強の魔物の一角、獄獣の側近としてあまりにも有名な存在だった。
「んで、どうするつもりだ? 首土産もなく、獄獣様のもとへすごすごと帰るつもりか?」
敵の強さを知るマグニスは、よもやここでまともにやり合うつもりなど毛頭ありはしない。それでも敢えてマグニスが挑発するのは、アジダハーカが自分から牙を向けてくるというのならば、それはそれでマグニスにとっては意味のあることだからだ。
その意図を読み取ったアジダハーカは、マグニスに背を向けて、あらぬ方向を眺める。
「俺達が無理押ししたところで、賢者エルアーティの"要塞"は破れぬ。我が主ならば、話も変わってくるであろうがな」
マグニスに背を向けたまま、首だけを回してマグニスの方へ顔を向けるアジダハーカ。その様を見てマグニスが強烈な嫌悪感を感じたのは、首を180度回して後方を向いたアジダハーカの行動が、あまりにも人の姿をした生物の動きとして不自然なものだったからだ。
「貴様を葬るのもお預けだ。貴様はここで、俺の手の内を僅かでも見ておきたいのだろう?」
自らの狙いをそっくりそのまま読まれ、マグニスはひひっと笑う。彼からすれば見え見えの魂胆だと自分でも思っていたし、勝てはしないものの距離を充分にとったこの状況下、アジダハーカが自らに襲撃を試みたとしても、逃げおおせる自信はあったからだ。
「脳味噌筋肉の獄獣様、その右腕と聞いていたが、思ったより考えられる奴のようだな」
敵の主を蔑む呼称で呼ぶことも、また挑発。相手が忠義心に厚く、主を尊敬、あるいは崇拝する人物であればあるほど、この手の挑発はよく利く。
アジダハーカが仮面の下で、どんな表情をしているかはわからない。ただ、微動だにしないその姿と、マグニスの言葉に対して怒気を放つ気配が無いことから、挑発によって心を乱すようなことにはなっていないと読み取れる。
「貴様のような人間ばかりなら、魔族の天下もすぐそばにあるというのにな」
そう言って首を回して正位置に戻すと、アジダハーカは勢いよく足元を蹴り出した。数階建ての建物の屋上から飛び降りるかのような高さから、地面に勢いよく両の足をつけて着地したアジダハーカは、相当な衝撃が脚を貫いたはずにも関わらず、地面を駆けて去っていくのだった。
取り残された結果になったマグニスだが、心中ではほっとしていたものだ。アジダハーカが走り去った方向はシリカ達がいる方向でもなかったし、脅威との接触は今日のところ、避けられたと言ってもいいだろう。マグニスはふうと息をついて、腰元から煙草を一本取り出して火をつける。
「……ああいう奴が、一番つけ込みにくいんだよなぁ」
煙を吹き出し間を置いて、思わずそう呟かずにいられなかったマグニスの胸中は、先行きの危うさを痛感したことに暗い影を落としていた。魔王マーディスの残党魔物達は、いずれも怪物揃いであったことは知っている。ただそれだけならば、こちらの兵力が尽きぬ限り、いくらでも人類の勝ち筋はありそうなのだ。盤上の駒取りゲームでも、手筋を誤らなければ小駒で大駒を刺すことは可能なのだから。
魔王マーディスという元帥を失って、かつてより遙かに弱体化したはずの魔物達の組織。しかし、自らの言葉にあのような返し文句を見せてきたアジダハーカの姿は、ある意味では、かつて魔王マーディスの兵として戦う、強いだけの魔物達とは一線を画すものがあった。
魔物は、人間より強い。身体的にも、魔力の扱いにも。だから魔物は、人間を侮る。かつての魔王マーディスが、絶大なる力を持ちながら人間の勇者達に敗れたのも、その驕りが要因にあったのは間違いない事実だろう。アジダハーカの発言は、そうしたかつての魔物達とは真逆の態度である。
獄獣を脳味噌筋肉と呼び、敢えてマグニスは敵を侮る態度を見せた。それを聞いてアジダハーカが、そんな人間ばかりであればよいのにと言ったのは、敵を見下し侮る者は必ず足を掬われるという事実を知っているからで、それをかつて魔王が滅んだことから学んだと推察できる。
魔王マーディス亡き今と、過去の魔物の相違点。知恵のある魔物達は魔王を倒した人類という敵を見直し、見下さなくなったということだ。そうした敵には、慢心につけ入り隙を見出す手法が通用しない。巷では魔王がいなくなったことで、今は平穏な時代が近づいていると前向きな風が吹いているものだが、第一線で魔物達の残党と戦うマグニスは、今の時代こそがかつて以上に恐ろしい時代だと感じている。
「……ま、それを確かめられただけでも、収穫ではあったか」
吸いかけの煙草をポイ捨てし、キノコ生い茂る村跡地に火種を放置するマグニス。どうせ生存者のいない村、山火事の様相となっても知ったことではないという態度だ。
マグニスは近場の、今乗っているキノコに近い背のキノコに飛び移り、それを繰り返して徐々に低い位置に移っていき、やがて地面に降り立つ。そのまま村の入口に向けて駆けるマグニスは、エルアーティがいる以上シリカ達も大丈夫だろう、という正しい読みに基づいた行動をとっている。
やがてカティロスが退けば、シリカ達も村の入口に向かって撤退するだろう。一足先に村の入口に向かい、後はシリカ達の撤退を待つのみでいい。一服後のマグニスは、視界の悪いこの空間に単身たたずむことの危険さを自らに言い聞かせ、素早く地を蹴ってその場を離れ、駆けていった。
「あら、やっぱり無事だったのね」
村跡地の入口で、念のために周囲に注意を払っていたマグニスに、キノコ生い茂る村跡地から現れたエルアーティが声をかけた。その後ろにはシリカもユースも、チータも無事な姿を顕在で、マグニスとしてはひと安心といったところだ。
「奴さんはどうなった?」
「逃げたわ。特に何をするでもなくね」
「あ、そうすか。強敵っすね」
マグニスの言葉にくすくすと笑って返すエルアーティは、そうねと一言漏らした。
エルアーティ達と対峙したカティロスは、顔だけ見せると、すぐに立ち去ったという。何をするでもなく、言葉を交わすでもなく、退きの一手をすぐに導き出したカティロスの姿は、その実シリカやユース達にとっては有難いものだったが、マグニスとしては残念な結果だ。
「あんたがあれを掃除してくれりゃ、人類にとっちゃ大進歩だったんすけどねえ」
「向こうから手を出してくれない限りは無理よ。私はそういう戦い方しか出来ないから」
エルアーティの戦い方が攻撃的なものでないことは、ある程度は知れ渡っている話だ。魔法都市ダニームの賢者と呼ばれる二人の一角であるエルアーティは、恋女房のもう片方に反し、防御や反撃に秀でた魔法を数多く扱う傾向にある。自らに襲いかかる敵に対して決定的な反撃を与えたり、そばに立つ者を守る魔法には右に出る者がいない一方、自分から攻撃する戦法は不得意なのだ。
「あなたの方はどうだったの? 土産話ぐらいはあるでしょう?」
「あー、番犬に会いましたわ。この村跡地に調査に訪れた奴を、葬るつもりだったっぽいっすね」
番犬の名を聞いただけで、エルアーティにもシリカにも、それが何者を示しているかがすぐわかる。それほどまでには、番犬アジダハーカの二つ名が、人々の間に定着した単語だということだ。
「"番犬"に"凍てついた風"といえば、奴らの右腕として動く遊撃手として有名ね。その双方が同じくして行動していたということは、黒騎士あたりの指示かしら?」
「でしょうね。獄獣はバカに見せかけ勘のいい所があるとはいえ、参謀よろしく部下を派遣するようなタイプじゃねえでしょうよ」
「ふむ。ということは、やはりマーディスの遺産どもが、この村跡地に無関係というわけではなさそうね」
カティロスとアジダハーカは、明確に魔王マーディスの率いていた陣営の駒だ。それらがつい昨日綿の雨に襲われて壊滅したようなこの地に訪れ、ここへ調査に赴いた者達を葬ろうとしていたという事実は、綿の雨を振りまいた何者かと、魔王マーディスの陣営に繋がりがあることを容易に推察させてくれる要素である。
そしてそこから導き出される、その先にある結論は何か。シリカを向き直るエルアーティは、残酷な真実を告げることを厭わない、冷ややかな目。
「私はこの村を襲った綿の雨の使い手は、人間だと結論づけている。そして、魔王マーディスの遺産どもも、この村の壊滅に一枚噛んでいると読んでいる」
それらの仮説がすべて正しいとすれば、何を意味するか。表情の曇りかけたシリカだったが、現実から目を逸らさないだけの覚悟は数秒前に固めておいたつもりだ。
「……魔王マーディスの遺産達と、手を結んでいる人間がいると?」
「私の仮説に誤りが無ければ、ね」
言葉を失うユースと、だろうなとばかりに煙草に火をつけるマグニス。エルアーティのすぐそばで、作られた無表情を浮かべるチータが、思わず杖を握る手に力が込めるものの、それはここにいる誰もが流石に気付き得なかった事実だ。
「真実を本当に追いたいならば、望まぬ仮説を感情に捕われて捨ててはならない。あくまでこれは学者としての言い分だけど、参考にして貰えれば幸いよ」
シリカに対して教訓を述べるような口様のエルアーティ。聞き受けたシリカも、言葉の意図をしっかり受け止め、はいと返事を返すのみだったが、エルアーティが言葉を向けていた相手はシリカのみならず、周囲にいる第14小隊の全員とも捉えられる光景ではあった。
少なくとも、チータはそう感じた。もっと言えば、自らの境遇を加味すれば、エルアーティの言葉は自分に対して向けられたものだとしか思えなかった。
ピルツの村の跡地の奥。死に絶えた村の中心地に、二つの影がある。それはつい先ほど、シリカ達やマグニスの前に顔を出した、獄獣と黒騎士の側近たる二人。
「どうだった?」
「エルアーティと顔を合わせたのは久しぶりだが、以前よりもなおも怪物じみていた。マーディス様がご存命だったあの頃よりも、遙かにね」
魔物じみた声で尋ねるアジダハーカに対し、カティロスは女性のような、人間的で高い声を返す。バンダナで隠された口元から漏れたその言葉に、アジダハーカもそうかと返すのみ。
魔王マーディスが討伐されて、10年余りの年月が経つ。その当時よりもさらに魔力を高め、人類の中でも強力な人物として現存するエルアーティの存在は、魔物達にとっても極めて目障りな存在だ。カティロスもアジダハーカも、表情の変遷を殆ど出さぬ態度の反面、この地でエルアーティの気質を再認識したことは、今後を想うにおいて影を落とす要素になり得るものである。
しかし、二人の表情に不安はない。なぜなら二人はその実力に加え、魔王マーディスの遺産と呼ばれる三匹の強大な魔物が、味方についている。自らの主達に向ける絶大な信頼を思い返せば思い返すほど、魔王マーディスがいなくなった今となってもなお、魔物達の劣勢を想うほどにはなれない。それが二人が、その胸に抱く確信だ。
だから、エルアーティの実力がどうであるかなど、それが強敵だと元より知っている二人にとってはたいした問題ではないのだ。それよりも、この地に赴いたエルアーティが、人間達が、何を持ち帰るかによって今後の行動を定めることの方が重要だ。二人をこの地に差し向けた黒騎士ウルアグワも、そういった思考を二人に求めているだろう。
「エルアーティはどこまで勘付いている?」
「人間が、綿の雨に関わっていることまで気付いているでしょうね。私達が顔を見せたことは、ともすれば今後動くにあたって、まずかったかもしれない」
「そうでもあるまい。人間どもが、勝手に内部分裂することに繋がるなら、それはそれで望ましい」
人間が、魔物が、両方がこの村を襲った綿の雨に関与していることを、エルアーティは仮説として持ち帰るだろう。その結果、自分達が人間の一部と手を結んでいることが露呈することに対し、カティロスは懸念を示すが、アジダハーカは関係ないとばかりに一蹴する。
「何はともあれ、報告からだ。ウルアグア様は今、どこにおられる?」
黒騎士ウルアグワの側近であり、かの存在の位置を知る手段を持つカティロスに、そう尋ねかけるアジダハーカ。自らに任を授けた参謀への報告を半ば提案するアジダハーカだったが、カティロスは数秒沈黙を挟み、問いに答えるかと思えば違う答えを返してきた。
「いや、まずはアーヴェル様にお伝えしましょう。手を打つならば、その方が迅速だと思う」
カティロスの口から語られる、魔王軍の残党魔物の中でも特に名の知れた魔物の名。その言葉にアジダハーカも僅かに考えるが、やがてうなずくかのように仕草を見せ、そうだなと一言返す。
「あの方は、今どこに?」
「ウルアグワ様によると、今はタイリップ山地にて羽を休めておられるそうよ。一度騎士団が攻めきったあの地は、今こそ単身隠れ住むにはうってつけだそうだから」
あらかじめその事をカティロスに伝えていた辺りも含め、黒騎士ウルアグワは今回の件を報告する相手に、その魔物を選ぶべきことを予見していたともとれる。そう感じたカティロスにすれば、黒騎士の先見の明は、味方としてこの上なく頼もしい存在に感じられたことだろう。
「そうと決まれば急ぐとしようか。報告などは早く済ませねば、あの方は簡単にへそを曲げるからな」
「ええ」
村の跡地の所々に散見する、地面に転がった亡骸の数々にも目をくれることもなく駆けだす二人。その中でも特に、通り道にあった死体を踏み潰して意にも介さないアジダハーカの振る舞いは、人の命に対する愛着など一切持ち合わせぬことを示すそれ、そのものだった。
魔法都市の権威、ダニームのアカデミー。その大図書館に腰を据え、この日も読書にふける一人の大魔導士がいた。その魔法使いは、ピルツの村跡地からこのダニームに帰るや否や、誰にも挨拶の一つもせず、この場所に引きこもりに戻ってきた。仮にも三国同盟の任務の一貫として、自らもピルツの村跡地への調査を任せられたというのに、その辺りの報告よりも自分の趣味を優先、というわけである。
まあ、エレム王国には法騎士達が調査結果を報告してくれるし、自分がここに帰ってくれば、唯一無二の親友の方から、こちらにものを尋ねてくれるだろうという打算もあってのことではある。当の親友はダニームにおいて発言権も信用も確かなものだし、めんどくさい報告作業はそちらに任せて、自分は書き上げたい論文でも完成させよう、というのがエルアーティの望むところだった。
ピルツの村跡地でシリカ達と別れたエルアーティは、馬に乗る4人を置き去りにして、空路を経て単身帰ってきた身だ。愛用の箒にちょこんと座り、馬より速く空を進むエルアーティの魔法には、騎士団の4人も驚いたことだろうが、そんなことはエルアーティにとっては興味もないことである。あとはここでおとなしく待って、親友がここに来てくれるのを待つのみだった。
「……あら」
そんなエルアーティのもとに現れた、一つの影。親友である魔法使いを待っていたエルアーティの期待に反し、彼女の前に姿を見せたのは、一人の魔導士だ。
「賢者エルアーティ様。今日は、ありがとうございました」
彼女がそばにいたことで、凍てついた風カティロスの殺意に瀕することなくあの地を去れたことを、その少年は知っている。その感謝の旨を伝えることを枕に、エルアーティを訪ねた魔導士、チータは頭を下げた。
「それだけの用事で来たわけじゃないでしょう。私は忙しいから、要件は手短にお願い」
前置きもご挨拶も要らないから、言いたいことだけさっさと言えと振り向きもしないエルアーティ。チータの姿を見もせず、書物に目を通す姿は、初めて会った時の無愛想さを如実に思い返させる。ピルツの村跡地での、ご機嫌ないし感情豊かなエルアーティが、今となっては嘘のようにも感じるほどだ。
「我が名を伏せていたことを、深くお詫び致します」
初めてエルアーティと出会った時、チータとのみ名乗ったことは、紛れもなく姓を隠そうとしていた自らの意思によるものだ。礼節において、名乗らぬことは礼儀以前の問題であることぐらい、ルオスの名家に生まれたチータならば、当たり前のように知っていること。詫びる筋合いはある。
「謝罪は聞き受けた。あなたのご用は、それだけかしら?」
「はい。この後、ルーネ様にも同じ旨をお伝えに行くつもりです」
チータはルーネにも、姓を隠して名乗った過去がある。エルアーティに頭を下げる以上、そちらにも謝罪に向かうというのは一貫している主張だ。
「ルーネになら、私が伝えておいてあげてもいいわよ。近いうち、会うでしょうから」
「お心遣い深く痛み入りますが、これは自分で伝えたく存じます」
ありがとうございます、と言ったあと、もう一度、すみませんでした、の言葉とともに、深々と頭を下げるチータ。言うべきことは言って、あとは邪魔をせぬよう帰るだけのチータは、そのまま速やかに回れ右をして立ち去ろうとする。
「随分素直になったわね。その顔を見せなさい」
背を向けたチータに目線を送るとともに、チータを引き止めるエルアーティ。思わぬ申し出に少し驚いたチータだったが、従って振り返ると、そこには目に色を宿したエルアーティがいる。
「誰の影響でそうなった? やはり、お固い法騎士様のもとで働いているから?」
語りかけるエルアーティの口調は、ベラドンナに問いかけた時ほどの、質問の答えに興味を示したような声色ではない。チータにもなんとなく、枕代わりに放った言葉であるとは察することが出来た。
「それとも、あの未熟な少年騎士と触れ合ったから?」
僅かに額を下げ、上目遣いでチータを見やるエルアーティ。この言葉こそ、本当にエルアーティがチータに問いたいことであると、態度からも声色からもはっきりとわかったものだ。
その問いに対する答えが、イエスなのかノーなのかは、正直なところチータにもわからないこと。だから、やや曖昧な返答を返すことしか出来ないが、チータは思うところを素直に吐くことを選ぶ。
「……先月末から、あいつに魔力の使い方を教える立場になりました。あいつと接する機会が増えて自分がそう変わったのであれば、それはそうなのかもしれませんね」
第26中隊とお別れし、第14小隊に帰ってきた翌日、ユースがチータに魔力の扱い方を教えて欲しいと言ってきた過去を、チータはここにきて初めて騎士団に属する者以外の人物に話した。この事を知っているのは、第14小隊のメンバー達と、チータと語らうことの多いダイアン法騎士だけだ。
チータの言葉を聞いて、エルアーティはふっと笑った。何が面白かったのであるかは見ただけではわからないが、なんとなくチータにも、その反応は予想できていた。
「魔法使いはすべからく、世界に触れて己が見識を広げるべし。ようやく実践する気になれたかしら?」
魔導士にとっては基礎の基礎、当たり前の教えとも言われる真理を、エルアーティが敢えて復唱する。そしてそれは、ユースのことを気が合わぬ人間であると判断し、数ヶ月間彼と接点を作ることに努めてこなかったチータの過去を、まるで見透かして皮肉を言うような言葉。
「……はい」
エルアーティがそんなことまで見抜いているとは、わざわざ思わない。それでも彼女の言うことが、今までの自分の過ちを指摘するような発言である以上、チータはそういうことだと捉えるかのように、小さくうなずき返すのだった。
エルアーティは再び書物に目を向けて、チータから目を逸らす。彼女がチータに言いたかったことをすべて吐き終えたことを示す仕草は、ある意味ではわかりやすい。
「ルーネに会いたいなら、ここで待っていればいいわ。向こうの方からこちらに会いに来てくれると、私にはわかっていることだから」
そう言って、沈黙の間をチータに放り投げるエルアーティ。何を言い返すでもなく、近くにあった本棚から目を引いた一冊を取り出し、近場の椅子に腰かけてここで時間を潰すことを選んだチータの態度は、エルアーティの提案を受け入れたことを表わしたものだ。
静かな図書館。二人が手元のページをめくる音だけが、やけに大きく聞こえる。やがて数分後、エルアーティの待ち人がここに訪れるであろうまでの間、チータはつい最近まで敬遠していた、気の合わぬ少年騎士のことを、なぜだか妙に思い返さずにはいられない。
「出会いとは総じてかけがえ無きものよ。それに意味があると気づけたものなら、尚更ね」
静寂の中でふとエルアーティが独り言のように呟いたそれは、今のチータにとっては生涯を通して大切な教訓であろうとして、魂の奥底まで沁み入るのだった。




