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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第3章  絆を繋げる二重奏~デュエット~
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第35話  ~大森林と精霊様~



「その、夢にも思わなかったです……まさか、ジャービル様と並んで歩くことになるなんて……」


 目的地であった大森林アルボルを前にして、アルミナはしみじみとそう呟いた。嬉しいことではあるし、土産話としてエレムの知人に話して回れば羨ましがられそうな出来事ではあるのだが、そんな推測をさておけるぐらいには、未だアルミナはこの出会いに現実感を抱けずにいた。


「そう言って貰えるのは光栄だが、私もたいしたものじゃないさ。エレム王国の方々に支えられ、辿り着いただけだったからね」


「そんなこと……私なんか、こうして顔を合わせるだけで何と言えばいいか……」


 まさしく憧れの人物を見上げる目で、ジャービルに眼差しを向けるアルミナ。わんぱくな家族をも黙って見守る父のような穏やかな顔立ちと、高い背丈をスマートに通すような、ほどよい体軸を持つ、渋い魅力を身に纏う男性が目の前にいる。それでもいい年頃であるはずのアルミナの目に、立派な殿方に対する恋慕を抱くような模様が見えないのは、そうした想いを超越して彼に対する敬意が勝るからだ。


 かつてラエルカン皇国を滅ぼし、エレム王国を長く苦しめ、多くの命を奪ってきた魔王マーディス。その討伐の場に立ち合わせた今の勇騎士ベルセリウスに並び、マーディスを討った勇者の一人として名を馳せた、ジャービルに対するアルミナの尊敬心は、彼らを異性として意識する余地もないほどに大きい。特に魔王マーディス率いる魔物の集団に両親を奪われたアルミナにとって、その仇を討ってくれた勇者達への感謝の想いは底知れないし、少女にありがちな恋心さえも抱けないのは年の差ゆえではなく、近付けるだけでも光栄だという想いが根底にあるからだ。


「あ、あの……えっと……」


 ジャービルを前にして、ずっと言いたかった言葉が喉の奥に詰まる。緊張が全身を締め付けて、いつかは絶対言わなきゃと思っていたことをなかなか言い出せない。だけどこの機会を逃せば、もしかしたら二度と伝える機会は訪れないかもしれないと思い、アルミナは勇気を振り絞る。


「魔王マーディスの討伐……本当にありがとうございました。私のお父さんやお母さんも、ここにいれば……きっと、同じことを言っていたと思います」


 憎き、かの存在を討ち倒してくれた人物に、この言葉を言える日がやっと来た。同時に胸を焦がす、今は亡き両親との思い出の数々に一瞬目が潤みかけたが、それを堪えてドラージュの目を見据えて想いを伝えたアルミナの眼差しは、間違いなく目の前の偉人に、真意を伝えられたはずだ。


「嬉しいよ。あの戦った日々が、改めて報われた想いだ」


 アルミナの頭を撫でてそう返したジャービルの笑顔が眩しくて、アルミナは思わず顔を伏せた。計らずして想いを叶えられた幸せは、両親を失って久しいアルミナの胸を、何年も遅れて温かく満たすのだった。






 大森林アルボルは、魔導帝国ルオスの南東、旧ラエルカン地方の東方に位置する巨大な森林である。


 南西エレム、北西ダニーム、北東ルオス、南東ラエルカンを線でつないで四角形を作ると、やや長方形に近い形になる。このラエルカンをアルボルに換えれば、南のエレムとアルボルを繋ぐ直線が、北のダニームとルオスを繋ぐ直線よりもやや長い、台形を描く形になる。各国の位置関係をわかりやすく語れるその位置取りは、各地の学所で地理を学ぶ子供達にもよく教えられるものだ。


 その森林に赴くジャービルに付き添う形で、シリカ達はついてきた。ルオス皇帝ドラージュいわく、この森には精霊様が住んでいるらしく、ジャービルは皇帝に命ぜられて今日、この森に在られると言われる精霊様に会いに来たという。


 魔導帝国ルオスや魔法都市ダニームにとって、大森林アルボルは鉱山にも勝る宝庫であると言っていい。長年の時を経て生きてきた森には、桁外れの樹齢を誇る大木や、森の精霊の加護を受けたと言われる泉から湧く水が採れる。これらが、非常に高い親和性を持つ資源として、魔法都市や魔導帝国の発展の礎として、何度も縁の下を支えてきた。たとえば神木を素材に作られた紙でできた魔法書は、意図を伝えたいと筆を走らせた書き手の意図を、読者の魂まで深く伝える神秘的な書物となり得るし、アルボルの泉で汲んだ水によって作られた魔法薬は、採取した者の疲れた霊魂まで癒し、長時間の魔法の使用を魔導士に許す秘薬となることも多い。


 大森林アルボルに対しての知識がほとんど無いアルミナが、素朴な疑問の数々をジャービルに尋ねると、こうした話を前置いてこと細やかに説明してくれた。魔法使いというものは、持つ知識を人に話す時には、実に楽しそうに話す者が多い。ジャービルもそんな一人だ。


「そうなんですか……でも、そんな宝島のような場所なら、野盗とかに荒らされたりしないんですか?」


 たとえばエレム王国の南、コズニック山脈にある炭鉱の多くは、エクネイス国が管轄する鉱山だ。こうした場所で無断採掘を行えばエクネイス国との紛争となるのは当然だが、アルボルはどこの国の領地でもない。ここで採取したものを売りものにしようと企てても、何の罪にも問われず、ルオスやダニームに高値で売れるようなものが、山ほど獲得できるだろう。宝島、と形容したアルミナの見解は非常に的を射た表現だ。


 しかし、ジャービルは首を振る。そうはならない事情があるから、この森は平穏なのだと。


「この森に住まう精霊様が、そうはさせない。無断で悪意ある者がこの森に立ち入り、秩序を荒らす者が現れれば、あらゆる裁きがその者を襲うと言われている」


 ジャービルが語る、この森を守る精霊様は、シリカ達の暮らすエレム王国には広く知られていない多くの神話に名を出す、有名な精霊として知られている。主にルオスやダニームの、特に魔法学に携わる者たちの間で有名な神話の数々にシリカ達が疎いのは、ある意味では当然のことである。


「そうだな……君達も、"わたあめ"の話は耳にしたことはあるだろう」


 第14小隊の面々が、その言葉を聞いて一つのイメージを固める。大森林アルボルの精霊を語る神話に詳しくなくとも、その単語だけは世界中に知られる強い意味を持つからだ。






 綿雨(わたあめ)、と形容される、世界的に恐れられる大災害。それは読んで字の如く、ある日晴天の空より、遠方から舞い降りた、大粒のタンポポの種のような綿が無数に降り注ぐ事象である。その光景そのものは太陽と風に映える綿の数々によって、空が綺麗に彩られる形で形容されるのだが、その種が地上に降り立った時、その光景は一瞬で、人間達にとっての地獄と変わるのだ。


 地面に降り立った種は、その瞬間に種子から根を発し、地面に食らいつく。同時に、まるで成長を早送りしたかのように芽吹き、つるを伸ばし、あるいは葉を茂らせ、あっという間に成熟したひとつの植物の姿に変わるのだ。ひとつでこうなる種子を抱いた綿の数々が、次々と同じ地に降り立てば、どうなるかなど結果は知れている。


 綿の雨に晒された地は、たとえ人里であろうとも、ほどなくして無数の種子によって生じた植物に居座られ、緑溢れる群緑地と変わってしまう。種子の根は人里の屋根にも容赦なく根付き、石造りや金属性の建物に降り立った種子は、根を張れる場所を求めてどこまでも根を伸ばし、やがては根とツタで人工の建物をがんじがらめにして、自らの椅子へと変えてしまう。草や花へと変わる種子ならばまだ建物の上に座るだけで済むが、家屋の屋上に、大木へと変わる種子が居座った場合、その重みで家屋は押し潰され、中に住んでいた人間の命ごと植物が食いつくす形になる。


 そして、種子が人間の肉体に付着した場合はどうなるか。語り継がれるだけでも聞く者の背筋を凍らせる話だが、その種子から生じた根は人間の柔らかい肌を貫き、人間に寄生して急成長する植物があっという間にその者を呑み込んでしまうというのだ。人里を壊滅させるという事実を持つ綿の雨の襲来を恐れる逸話もさながら、人を食らう事実を持つ種子そのものの恐ろしさが、"わたあめ"と可愛らしく形容されるこの大災害の危険性を、何よりも強く多くの人々に伝えている。


 どんな国でも、悪い子供に対する叱り文句があり、たとえばエレム王国では一時期、悪いことをする子は魔物にさらわれてしまうよ、という教訓がよく流行った。魔王マーディスが顕在だったあの頃、人里に魔物が襲い来ることも多く、そうした定型句が子供達を躾けるにあたってよく用いられたものだ。魔導帝国ルオスにおいてのそれに代わる叱り文句は長年決まっていて、悪いことをする子には"わたあめ"が近づいてくるんだよ、という言い回しが主である。それで子供が怖がるぐらいには、魔導帝国ルオスにおいての綿雨(わたあめ)の認知度が高いということだ。






「大森林アルボルの精霊様の怒りに触れた者は、森の外に逃げても綿雨は決して逃がしてくれず、やがてその身を緑の魔力に呑み込まれ、消えていく。そうした言い伝えがルオスにある」


 綿雨に滅ぼされた村や町は、大森林アルボルの精霊の怒りに、何らかの形で触れたというのが定説だ。ルオスの子供達に語られる逸話は子供向けに具合よく書きかえられているが、通説として厳密に正しいのはこちらである。


「この森は精霊様の加護によって強く守られている。ならず者達が立ち入って、荒らせるような場所ではないはずだ」


 森林の到るところには、精霊の使いと呼ばれる存在も数多く存在しているという。風貌や特性から、ある意味では魔物とも形容できるであろうその存在が、森の秩序を守る番人として無法者を葬る役を担うことも多いそうだし、森を守る精霊の意志というものは決して絵空事ではあるまい。


「しかし精霊様にお会いになって、何をなさるおつもりなんですか?」


 シリカの問いに対し、ジャービルは意味深な表情で応じる。


「精霊様に、尋ねたいことがあるのです。その一部始終を、エレム王国の方々にも直接見聞きして頂きたい。必ず意味を持つ結果になると、我々も半ば確信しております」











 やがて辿り着いた、森林奥深くに現れた小さな泉。広いこの森の中ではありふれた光景のひとつと言える、小さな水場を目の前にして、ジャービルがその手に握った、木彫り細工の人形を自身の前に差し出す。美しい女性をかたどったような、精巧な木彫り人形だ。


「それは……?」


「森の精霊様にお言葉を授かるための宝具だよ。森の奥の神木を削って作ったものだと言われている」


 大森林アルボルの奥地には、前人未到とされる場所が広大に広がっている。そんな地のいずこかにある神木の位置など誰も知る由はないし、これが精霊様から人間達に与えられたものであるのは、尋ねたアルミナにもなんとなく察せたことだ。


 ジャービルは木彫り細工の人形を差し出したまま、小声で何かを呟いている。それが森の精霊を喚ぶための詠唱であることは誰の耳にも感じられ、やがて泉を取り巻く空気が渦巻いて、大いなる魔力の流れがこの場に生じる。魔法の扱いに不慣れなユースやアルミナにさえ、それは感じられた。


 そして、泉の上に数多くの葉が舞い、人の形を包むように集まる。直後その葉の数々が一斉に上空に飛散したかと思えば、葉の陰に隠れていた場所に、艶めかしい女性の姿をした神秘的な人物が姿を現した。


「ふう、っ……私を喚んだのは誰かしら?」


「精霊バーダント様、ご無沙汰しております」


 ジャービルが呼びかけたこの人物こそ、大森林アルボルの平和と秩序を守る偉大なる精霊であり、その名をバーダントと名乗る存在そのものであった。すらりと伸びた長身に豊満な一部分、程良く絞られたウエストは、絶妙なプロポーションを表す流麗な肉体の曲線美を演出しており、泉の上に浮くその肉体のふくらはぎまで届く翡翠色の長い髪は見るからに美しく、その先端は羽毛のように風にたなびいてふんわりと踊っている。ジャービルとシリカ達を見下ろすその瞳は妖艶に揺らめいて、その目がちらりと第14小隊の少年騎士に向いたその瞬間、ユースは思わずその目を逸らした。


「……すけべ」


「うるさい……」


 いい年頃かつ、なにに免疫のないユースにとってはあまりに直視し難い光景で、それをアルミナに指摘されてもろくに言い返すことが出来ない。腋より下、胸周りだけを隠す萌黄色のチューブトップに、下半身の大事な所は、花や葉を編んだような装飾で隠しただけの着飾り。健康的な肌色が光る腋や肩、へそや生足を余すことなく目の前の相手に晒し、スレンダーかつ小顔も手伝って、肉体美の黄金比を容易く感じさせるその御姿は、目の保養になるような不健全極まりないような。少なくとも、人里をこんな人物が歩いていたら、その風貌と美しい顔立ちに、殆どの男達が二度見したあと釘づけになるのは間違いない姿だ。


「今日はお連れの方が多いわね。私の鑑賞会かしら?」


 そう言って、空中でくるりと一回転してぴしっと決めポーズを取るバーダント。ふざけているのか真剣にやっているのかはわからないが、自分の体の曲線美がよく見えるような角度をしっかりと目の前の相手に見せしめているあたり、肉体主張の意識はあるようだ。


「今日は、お尋ねしたいことがありまして」


「ん、何かしら。わざわざ私の所にまで来て聞きたいこと?」


 スリーサイズは秘密よ? と、口元に指を当ててウインクする精霊の姿からは、気さくな大人の女性を思わせる軽さしか感じられない。これが偉大なる聖霊様なのか、と言われると一般人の持つイメージとは少々遠いものであるが、彼女と向き合うジャービルの目は真剣そのものだ。


「先月、ビゼルの村に"アルボルの火"が降り注ぎました。精霊様は、これに関与しておられますか」


 アルボルの火というのは、大森林アルボルを発祥地とする綿の雨による生物災害を表す、かしこまった言葉だ。そしてビゼルの村というのは、ルオスとダニームの間にあり、中間点より少しダニーム寄りの位置にあった、小さな村のことである。


 シリカ達も三国を駆ける時事情報を新聞を通して見ているが、ビゼルの村に綿雨が降り注ぎ、白昼あっという間にその村が壊滅したという事実は知っている。エレム王国の間では、綿の雨の恐ろしさを感じるだけの情報であったが、魔導帝国ルオスの捉えた見解は異なるものだった。


「ビゼルの村とはどこの村かしら? 人里の地名で言われても、私は詳しくないからね」


「大変失礼致しました。ビゼルの村とは――」


 人里に住まぬ精霊が、人間が名付けた地名を聞いても話を理解しづらいことはジャービルも当然わかっている。敢えてその名を一度出したのは、後ろのシリカ達に何の話をしているのかを示唆するのが目的だった。ジャービルは一礼し、ビゼルの村と呼ばれた地の位置を細やかに説明し、綿雨の被害によって、村がどのように変わり果てたのかを話す。


 説明を聞き終えたバーダントは腕を組み、考え込んで記憶を辿る仕草を示す。腕に押しつけられた胸の谷間が強調され、ユースがまた目のやり場に困っている。


「森の秩序を乱した者の潜む地に、逃さずアルボルの火を放った過去は少なくないわ。だけど今の話を聞いた限りだと、そんな場所に種を撒いた記憶は無くってよ」


「……そうですか」


 精霊バーダントの返答が示した答えは一つだ。ビゼルの村は綿の雨によって壊滅したが、それは大森林アルボル、あるいはそこに住まう精霊の意志によるものではないという事実。


「長い歴史の中では、アルボルの火(スワローヘルバ)に近似した魔法を使う者も少なからずいたわ。あの程度の術ならば、私のような強い霊魂を持つ者でなくとも実用できるでしょうから」


 人も魔物も含めてだが、綿の雨を降らせる魔法を唱える力を持つ者は存在し得るとバーダントは示唆してみせた。眼差しに、綿の雨が降ったからと言って、すべてが自分の仕業だと思ってくれるな、という意志を冷ややかに込めてである。


「ご無礼をお許し下さい」


「気にすることはないわ。こうして私のせいでないことを話せる機会を設けてくれたことで、人類との要らぬ軋轢を避けるきっかけにもなる」


 大森林アルボルを愛する精霊バーダントは、人間達に森が忌避されることを好まない。敵意を以って森を襲撃する輩には容赦しないとはいえ、争わないに越したことが無いのは当然である。そしてそれは勿論ルオスの代表たるジャービルも同じことで、だからこそこの場では言葉も慎重に選んでいる。


「わざわざ見ない顔を連れてここに来たあたり、あなたやルオス皇帝も、私の仕業ではないと薄々は感じていてくれてたのかしら。その事実を証明する機会を、作りに来てくれたということ?」


「ご理解頂けて有難い限りです」


 察しの良さにジャービルが謝辞を述べると、バーダントはクイズに正解したような上機嫌な顔つきになる。そんな精霊が指をパチンと一度鳴らすと、不意にバーダントの手元に、折れた獣の牙のようなものが表れる。それをひょいっとジャービルに投げると、思わずジャービルもそれを受け取った。


「感謝の意を込めて、今日のお土産は奮発しておくわ。サイコウルフの牙よ」


「よろしいのですか?」


「先日森で天寿を全うしたばかりのサイコウルフがいてね。そのまま土に還すのもいいのだけど、あなた達ならその使い方にも間違いは起こさないだろうし、その手に委ねるのも選択肢だわ」


 サイコウルフとは、青く光り輝く体毛を持つ魔物のことである。高い身体能力と魔力を持ち、素早い動きと力、加えて魔法を用いて獲物を追い詰める、敵に回せば極めて危険な存在である。ある時は殺傷能力を持つ風の魔法を使い、ある時は自らを守る水のカーテンを生じさせる魔法を扱うサイコウルフの牙は、高い魔力を持った魔物の亡骸の一部として、高い親和性を持つと言われている。これを素材に何かを作れば、その生産物もまた高い親和性を持つ。貴重な魔法資源と言えるだろう。


「謹んでお受け取らせて頂きます。ありがとうございます」


 精霊からそれを受け取ったジャービルを見て、チータも内心では少々羨ましいと思ったものだ。それだけサイコウルフの牙は、魔導士にとって高い価値を持つ物質なのである。そして、そういった使い道を誤れば悪意の温床にもなり得るものを気軽にジャービルへ差し出してくるあたりからも、精霊がルオスの人間に一定の信頼を寄せていることが察せられるというものだ。


 親和性を持つ物資と、深く美しい自然に溢れた大森林アルボル。それが悪意ある存在に荒らされることなく、今日も美しき緑を抱く大いなる森として顕在させる、心優しき精霊にこうして巡り会えたことは、シリカ達にとっては貴重な経験だった。











「ビゼルの村を襲った綿の雨は、アルボルの精霊様によるものではない。おわかり頂けましたか?」


「はい。ジャービルどのは、それをある程度推察されていたのですか?」


 大森林アルボルを離れ、西に向かって馬を歩ませながら、シリカとジャービルが語らっている。わざわざアルボルまでシリカ達を同行させた真意を、改めてジャービルが説明する時間だ。


「綿の雨が降り注ぐことは、アルボルの精霊様の怒りに触れた故というのが一般説です。その教えそのものを布教することはルオスも認めていますし、事実を広めることにはむしろ前向きです。ただ、何者かが作為的に、綿の雨を降らせているとなれば問題なのですよ」


 ドラージュ皇帝率いる帝国ルオスによって行われた調査によると、どう考えてもビゼルの村に、アルボルの精霊の怒りに触れたと思われるきっかけが見つからなかったそうだ。アルボルから乱暴に森の財産を乱獲した者が、とある人里に潜伏し、それを追う"アルボルの火"が村を襲った過去もあるのだが、過去にそういう実例があった際、ルオスの交渉によって、無実の村をそうした形で襲わぬことに極力努力して欲しいという約束が、人類と精霊の間で取り決められている。単なる口約束には過ぎないのだが、事実としてバーダントがそれに対して前向きに取り組んでくれていることは、過去に人間と精霊の間に交わされた、数々の触れ合いで証明されていることだ。


「時にシリカ様は、"緑の教団"という言葉をご存じですか?」


「存じております。魔導帝国ルオスを聖地とする、大森林アルボルを信仰する教団のことですね」


 大森林アルボルは、森そのものが持つ人類への大いなる恵みや、深く美しい大自然を抱く姿から、古くからその地を崇める者達が数多く存在する。加えて精霊様が確かにいるという神秘的な事実も手伝って、アルボルを崇め奉る宗教団体も存在している。それが"緑の教団"だ。


 森を崇めろとは言わぬまでも、森に害意を抱かぬことは魔導帝国ルオスにとっても広く推奨したい思想であり、その教団の活動には帝国も協力的である。精霊バーダントもこの教団の存在には理解を示してくれており、教団の存在と森の関係にも軋轢はなく、むしろ関係は良好だ。


「緑の教団の教えの一つとして、森の怒りに触れた者はアルボルの火に襲われる、というものが聖書の浅い部分にも書かれております。その教え自体は、帝国も同意するのですが……」


「それを利用して、良からぬ考えを起こす者もいると?」


 チータが口を挟むと、ジャービルもうむと頷く。言いたいことは、チータが端的に表現した。


「人為的に綿の雨を降らせることが出来るのならば、アルボルの火を騙り、大災害を恐れる人々の恐怖心を煽って、人心を操ることも可能だということです。綿の雨が降る原因を精霊様に押し付け、人々が畏れ奉る精霊様の威を借りて、無茶な要求を強いることも出来る」


 "森の精霊様の怒りを鎮めたければこの壺を買え"、の理屈である。人為的に綿の雨を降らせることが出来る者の存在が示唆され、また、それが魔物にあらず人間の仕業であるとすれば、大森林アルボルの精霊の想いを重んじるジャービル、あるいは帝国ルオスにとっては許し難い詐欺行為だ。そうした可能性を見た帝国ルオスは、ビゼルの村を襲った綿の雨が精霊様の手によるものであるかをはっきりとさせに、大森林アルボルまで足を運んだというわけだ。ルオス皇帝の側近であるジャービルが、こんなお使いのような任務を授かったことには、それだけの強い意味がある。


「エレム王国騎士団の方々にご同行頂いたのは、その事実の証人となって頂くためでありました。今回精霊様から告げられた事実を、聞き受けたルオスが単に発表するよりも、直接それを耳にして頂いた方が、信憑性もあるでしょう。それが今回、ご足労を願った所以でございます」


「それだけ、貴方達もこの件には全力を投じられているのですね」


 シリカの察したとおり、わざわざ異国の者を歩かせてまで虫の多い森の中へ歩かせたことは、事実を確かな事実としてエレム王国に伝えたかった、帝国ルオスの想いの表れである。大森林の意志を騙り、森の名を汚してまで何かを企てる者がいるかもしれないという事実に、帝国ルオスは強い敵意と、そんな人物いるならば確実に駆逐したい想いを抱いている。


「私から約束できることではありませんが、いざの場合はエレム王国も協力を惜しまぬと思います。今回同行させて頂いたことは、我々にとっても重要な経験になりましたよ」


「そう仰って頂けると、無理を言った身としては救われる思いです」


 魔王マーディスの討伐に帝国ルオスが協力してくれた過去もある。エレム王国と帝国ルオスの関係は、元より強固に良好だ。両国の代表者たるシリカとジャービルは、愛国心に満ちたその目を、相手の国にも向ける眼差しで笑い合い、形に見えぬ敬意を言葉で交換するのだった。






 アルボルからある程度、西に離れきった場所で、ジャービルは挨拶を交わして、一人北へ馬を向けてのお別れだ。旧ラエルカン皇国領地であるここより北にルオスが、西にエレムがある。わざわざここからシリカ達まで北上して一度ルオスに戻っては、明らかな遠回りになってしまう。


「さて、帰るか。まだまだ時間はかかるが、ゆっくり帰路につこう」


 シリカと彼女の率いる3人の部下が、夕暮れ前の草原を馬に乗って駆ける。きっと王都に着く頃には夜も深く更けているだろうし、今回の任務は今までの中でもなかなかの遠出になったものだ。


 2日離れただけでも、大きく文化の異なるルオスを見た後に帰る故郷は、また一風変わった懐かしさを醸し出してくれるだろう。短い長旅も悪くないものだ。

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