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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第2章  彼女に集った七重奏~セプテット~
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第30話  ~魔法都市の預言者様~



 優秀な魔法学者の集う総本山とも言われるダニームのアカデミー、その主要施設である大図書館の広さたるや、ユースの想像を遙かに超えたものだった。アカデミー本館の隣に別館として建てられたその大図書館は8階建てで、1階ぶんの広さが、馬が駆けまわっても退屈しなさそうな広大さである。立ち並ぶ本棚も、ユースが背伸びしながら手を伸ばして、ようやく一番上の段に手が届くぐらいの高さが殆どで、ひとつの本棚の密度も凄まじい。読書嫌いのガンマがこんな場所に来たら、間違いなく頭痛に負けて回れ右すること間違いなしだ。


 先人たる学者や魔導士の知恵や知識の集大成ともいえるこの場所、7階の奥に小さな私用空間を設けてそこに住まうことを許された、一人の魔導士がいる。ユース達がそこを訪ねた今も、その魔導士はいつものようにそこにいた。


「……その子は誰?」


 商人オズニーグが少騎士ユースを連れて現れた光景を見て、魔導士は元よりじっとりとした目を、さらに細めて尋ねてくる。高名なその魔導士を初めて見たユースは、名高い魔法使いの姿として想定していたイメージと現実とのギャップに、思わず言葉を失っていた。


「私の同郷である少騎士です。法騎士シリカ様の部下であるそうで」


「……ふぅん」


 ぶかぶかの紫色のローブで身を包むその体躯はルーネ以上に小柄で、その姿を見たユースは相手のことを8歳ほどの少女かと思ったほどだ。顔つきも幼いままで、頭に乗せた藍色のナイトキャップから溢れる紫の長髪が腰元にまで届きそうなぐらいにさらりと伸びている。見るからに、オズニーグの自慢であるミューイの絹の手触りに勝るとも劣らなそうな、柔らかくてすべすべしていそうな髪だ。


 魔法都市ダニームに住まう預言者様と称される魔導士、エルアーティは、その垢抜けないはずの幼い顔立ちから、あまりに不釣り合いな貫禄を全身から滲み出していた。その風貌から緊張感を一切抱かせないルーネとは実に対極的で、二人の魔導士のことを、"凪の賢者ルーネ"、"雨雲の預言者エルアーティ"と呼び分ける学者の気持ちが、ユースにもなんとなくわかった気がした。


「……仕事の話は後でいいかしら。少し、興味が沸いたわ」


 ええどうぞ、とオズニーグが言うより早く、エルアーティがその手に持っていた本をぱたりと閉じ、腰を上げてユースの方へと歩み寄った。そしてユースのすぐそばまで来ると、正面からまじまじとユースの顔を見上げる。年相応に平均的な身長であるユースが、年の離れた妹と対面するような身長差だったが、両者の目線の間で交わされたパワーバランスはそれとは異なる。


 無感情なエルアーティの透き通った瞳が、まばたき一つせずユースの目を凝視する。瞳を通して心まで見透かしそうなほどの衝動に駆られて、ユースも思わず後ずさりしそうになった。


「あなた、法騎士シリカから魔法のことは教わってるの?」


「えっと……はい、まあ……」


「彼女はどんな風に、あなたに魔法を教えてるの?」


 たじろぎながらも、ユースはシリカに魔法学を教えて貰った時の風景をエルアーティに語る。氷のように冷たく揺るがない表情で黙ってそれを聞いていたエルアーティは、ひととおり話を聞き終えても何一つ動きを見せない面立ちだ。


「……なるほど。ルーネの教えを忠実に守っていると見えるわね」


 そう言った瞬間、エルアーティの口元が妖しく笑ったように見えたユース。その目線を追って、自身にユースがどんな印象を持ったかを見抜くエルアーティは、ユースから少し離れて背を向ける。


「彼女といいあなたといい、魔導士には向いてなさそうね」


 まるで自分から興味を失ったかのように離れていくエルアーティに、置いてきぼりをくらったような感覚に包まれるユース。本来なら、いきなりどんな言い草だと気を悪くしてもいい場面だったが、そんな感情も抱かせないほどの不思議な説得力が、エルアーティの言葉にはあった。


「……で、今日は何? 絹の改良は済ませてきた?」


「ええ。こちらをご覧下さい」


 オズニーグの方に向き直ったエルアーティに、新しく作った絹を差し出すオズニーグ。エルアーティは絹を受け取ると、手の上にそれを乗せ、もう片方の手で二度ほど撫ぜる。


「手触り、光沢、質感、随分変わったようだけど、あなたの満足できる範囲内なの?」


「細かい話を言えば追究したくはあります。まだまだ試作段階ですね。ただ、最低限の妥協点にはようやくたどり着けた次第です」


「なら、いいわ。親和性は充分に確保できている。魔導士のローブの素材として扱うぶんにも充分需要を満たす見込みがあるでしょうね」


 悲報でも告げるかのような冷淡な表情と声で言うのだが、どうやらこれが彼女にとっては日常的なトーンらしい。朗報を告げられたオズニーグが、緊張した面持ちを溶かし、希望の光を見た目に変わっていく。


「それでは……!」


「その絹を持って、服飾店にもう一度売り込みに行ってみなさい。すべての店が、とはいかないでしょうけど、売り先は充分に見込めるはず。あとは貴方の甲斐性次第」


「ありがとうございます! これで、ようやく……」


 エルアーティは、感謝の言葉を連ねるオズニーグを気にも留めない様子で、椅子に腰掛け先ほどまで読んでいた本をまた開く。素っ気ない態度と、それでも感謝の想いを伝えるオズニーグの姿が、傍から見ていたユースにとってはこの上ないミスマッチだ。


 まるでオズニーグから興味を失っていたかのようなエルアーティだったが、ふと、本を開いたまま目線を上げて、オズニーグの方を見上げる。


「ああ、そうそう。"条件"の方はわかってるでしょうね? 上手くいったなら……」


 エルアーティが言いかけたその時のこと。


「――エルア、やっぱりここにいたのね」


 エルアーティの言葉を遮るように、一人の少女――のような姿をした魔導士が彼女に歩み寄り、話しかけた。声の主をちろりと流し目して見やるエルアーティは、友人を迎え入れる意図を示すため、その手の本をもう一度閉じた。


「ルーネ、どうしたの? 後ろの人は誰?」


 エルアのそばに立つルーネの後ろには、見知った一人の法騎士と、見知らぬ少年がいる。風体から彼が魔導士であると悟るのは容易いが、ルーネがわざわざ自分のそばに人を招いてくる以上、何かしらの意図があると知っているエルアーティは、それが何かを思索している。


「法騎士シリカ様と、その小隊に属する魔導士の方だそうなの。エルアに会わせてあげたくって」


「預言者エルアーティ様、お久しぶりです」


「ええ、久しぶりね」


 エルアーティは敬意いっぱいに挨拶するシリカの方を一切向き直らない。興味を抱いた魔導士の少年の方から目を逸らさず、透き通った瞳で対象を観察する。


「お初にお目にかかります。エレム王国騎士団第14小隊傭兵、魔導士のチータです」


 チータは礼儀正しく頭を下げ、目の前の偉人に一礼する。手足の挙動から体の角度まで、しっかりとした教育を受けていたことを思わせるような整った作法の所作に、同僚のユースが若干驚いている。


 エルアーティはそのチータに何も言葉を返さない。頭を下げたチータを凝視したまま、仮面を纏ったかのようにその表情を揺らがさず、チータが面を上げるのを待っている。ようやくチータが顔を上げても、エルアーティの姿は、頭を下げる前に見た姿から殆ど変わっていない。しかし、顔を上げたチータと目が合った瞬間、エルアーティの表情が初めて変わった。


「化けきれてないわよ、子狐」


 口の端を少し吊り上げ、エルアーティは鼻で笑うような表情を浮かべる。チータの表情が僅かに強張ったのを見て、エルアーティは冷たい瞳を一度だけまばたきして隠した。


「……エルア。あなた、何か知ってるの?」


「何も知らないわよ。あなたと同じでね」


 先程までチータのみに目線を固定していたエルアーティが、自らに話しかけたルーネを向き直ってそう告げた。所在なさげにチータが立ちすくんでいると、再びエルアーティはそちらに目をやり、言葉を失いかけているチータに次の言葉を投げかける。


「自己紹介は一度でいいわ。二度目にあなたの名を聞く時には、それはまた違う意味を持つ」


 チータ本人にだけ伝わるような言い方を敢えてするエルアーティに、言われた当人は無表情の眉をひくりと動かす。


「あなたは……」


「知らない、と言ってるでしょう? 私は真実しか語っていない」


 チータの問いに、敢えてかぶせる形でエルアーティは言葉を繋いだ。自身の口から語りきれなかったエルアーティへの問いは彼女の耳に届かなかったが、尋ねたかった疑問に対する答えがしっかりと返ってきていることに、チータも珍しく歯噛みしている。


「あなたの底は見えた。もう顔を見せてくれなくていいわ」


 両者の間に漂う重い空気におろおろとするルーネをさておき、きっぱりと言い捨てたエルアーティはふいっとその目線を商人オズニーグに向けた。まるで、先ほどの話の続きをしましょうか、と言わんばかりに。


「条件は覚えているわよね? この作業が上手くいった暁には、絹の精錬過程における新親和性物質の化合術は、私の知識として頂くわ。それでよかったわね?」


「ええ、存じております」


「私がいつかこの手段を学会で発表することあらば、あなたの絹と同じものを作れる者は増える。商売敵は必ず増えるでしょう。あなたはそれでも自身の腕を信じ、前に進めるかしら?」


「望むところです。私以上にこの絹を素晴らしい形で織り成せる者など、誰にもいないと私は強く信じております」


 ある意味では虚勢とも捉えられかねないその言葉を言い放つオズニーグを、エルアーティは笑うでもなく、蔑むでもなく、無表情で聞き受けていた。その氷の瞳から彼女の真意を読み取ることは、ルーネ以外の誰にも不可能なことだったが、オズニーグは胸を張って自身の言葉に想いを込めている。


「そう。それならもう行きなさい。時は金なりでしょう?」


 こんな所で油を売っている暇があったら、という含みを込めた言葉をエルアーティが放つと、オズニーグがもう一度頭を下げて礼を述べる。しかし、そのまま回れ右をすることはなく、


「そういえば、もう一つの条件は……?」


「私を楽しませること、という条件? 満たせていなかったら、とっくの昔に話を聞いていないけど」


 賃金など不要と出会った最初に告げ、その時同時にオズニーグに突き付けた条件をエルアーティが暗唱する。良き答えを聞けたオズニーグは、満足したと行間で語る魔導士に、それは何よりでしたと一言添えて、もう一度頭を下げる。


「重ね重ね、ありがとうございました。必ず、良き結果を貴女の耳まで届かせてみせます」


「ええ。応援していなくはないわ」


 図書館を去るオズニーグの背中は、表情で語らずとも希望を背負って旅路を歩く商人の姿そのもの。それを見送るユースは、同郷の人物が前向きな未来を手にしたことを、心中密かに祝福していた。


「エルア、どうだった?」


「化合術を導き出すのに半日かかったわ。私も衰えたかしらね」


「そうじゃなくて、楽しかった、っていうのが気になって」


 ああ、とエルアーティは呟いて、ルーネの方を向き直る。どういう意味よと、ずずいっとルーネに迫るエルアーティに、ルーネがたじろいで後ろに下がる。


「普通に楽しかったわよ。難題とされるであろう問題を解くのは好きだからね。あの商人、なかなかの無理難題を突き付けてきたものだから、いい頭の体操になったわよ」


「やっぱり、難しかった?」


「あなたも、手に負えないと思った問題を私に丸投げするその習慣、どうにかしたら?」


「あぅ……で、でも、エルアなら何とかしてくれると思って……」


「まあ、算法より手肌と実験で結果を導くあなたには不向きな問題ではあったわね。適材適所ということで納得してあげなくもないわ」


 背の小さな大魔導士二人が言葉を交わすその光景は、街角の少女の語らいに見えて仕方がない。日頃どちらがイニシアチブを握っているかが一目でわかりそうなのも、また特徴だ。


「それはそうと、ルーネ。あなたどうしてこんな子を私の所に連れてきたの?」


「さっきお話した感じだと、すごく頭の良い子だなって思って……ほら、エルアと話したいっていう人はいっぱいいるし、あなたもこの子に興味は持ってくれるかなって……」


「あなたの面目を潰さないために言っておくけど、別に初めから興味が無かったわけではないわよ」


 チータをもう一度見やるエルアーティの目は、相変わらずの眼差しだ。しかし徐々に表れる変化として、チータの方を見るにつけ、一度ごとに毎回興味を失ったかのような色が増している。


「私は、変化の無いもの、進化の見込めぬものをもう一度見ることは時間の無駄だと思っている。愛すべき花の美しさや、先人の知識を集めた書物を、心に残すだけでなくもう一度目に通したいと感じられる、そんな魅力もあなたにない以上、私はあなたとの再会を望めそうにはないわね」


 初対面の相手を突き放した言葉に、チータがその目に僅かな炎を宿す。チータの激情が火を吹いた光景を目にしたことがあるシリカは、もしものことが無いよう、彼を止める準備をすでに整えている。


「……僕には未来がないと、あなたは仰いますか」


 低い声で問いかけるチータに、エルアーティは肯定の色を宿した眼差しを返す。


「事実を隠すために敢えて何かを語らぬ者は、自らの過去にある汚点を認めた者。汚点を隠すことを選んだ者は、自らの過去から目を背けた者。そして自らの過去から目を背けた者の手に、未来を切り拓く力は宿らないわ」


 畳みかけるように連なるエルアーティの言葉が、胸中の真相を知るチータの胸に深く突き刺さる。同時にそれは、チータが語りたくない何かを胸の内に秘めていることを知っているシリカにも、何らかの確かな意味があることを強く示唆して見せていた。


「"秘せし魔導士を信ずること非ず"。あなたも、この言葉を聞いたことはあるんじゃなくて?」


「え、エルア……? その言葉をここで使うのは……」


「あなたが作った言葉でしょう? "魔導士の本質を語る格言"。」


 絶妙に使われるべき場面で他者の言葉を引用したエルアーティは、格言の主であるルーネを困らせ、そのことを意地悪に喜ぶ表情を浮かべている。魔導士と呼ぶよりも魔女と形容した方がよさそうなその笑みには、傍から見ていたユースも、彼女に対する印象を改めたものだ。


「ふふ、そうね。私も預言者と呼ばれる身だし、お節介を焼いてあげてもいいけど」


 そう言ってエルアーティは、思わぬ方向に歩み寄る。それはこの場を黙って眺めることしか出来ずに立ちすくんでいた、ユースの方向へだ。


「あなた、悪くないわ。いつ腐ってもおかしくない果実のような弱さが目立つけど、それを好む人の口に収まれば、さぞかしその人の舌を満足させるのでしょうね」


 エルアーティの妖しい唇の動きと、細められた妖艶な目つきがユースを圧倒する。客観的に見て自分よりも10ほど年下の少女の顔つきなのに、その目に吸い込まれそうな衝動に駆られるユースは、黙ってその言葉を聞くことしか出来ない。指先でユースの顎をつぅ――っと撫ぜてくすりと笑うエルアーティに、ユースはエルアーティの瞳から目を逸らすことも出来ず、後ろに逃げることさえも出来ぬままに追い詰められていた。


 若者をからかって満足したエルアーティはチータの方を振り返り、ここで一瞬だけ透明な瞳に色を宿す。


「果実が映えるには土と緑が必要なのよ。同じく果実であることしか出来ないあなたでは、彼の魅力を知ることは永遠に叶わないでしょうね」


 それだけ言って、エルアーティは自らの椅子に向かって歩き、腰を下ろす。そして机に置いてあった本を開き、話は終わりだとばかりに読書を再会する。


「エルア……」


「わかりやすく話したつもりよ。彼が自らで気付くことに意味を持てる、最大限までね」


 手元の書物から目を逸らさないエルアーティの姿は、読書の邪魔だから帰れという言外を全身から語りおおしていた。はぁと溜め息をついて、ルーネはチータに、ごめんなさいと頭を下げ始める。紹介した身としてルーネがチータを気遣う気持ちはわからなくもないが、チータは小声で、


「……別に、大丈夫ですよ」


 そう返すのみだった。











「本当にごめんなさい……本当は、よく気がついて優しい子なんだけど……」


 アカデミーの外までシリカ達を見送りにきたルーネは、今日五十度目ぐらいかというほどのお辞儀を深々とシリカに送っている。腰が低いのはわかるが、ここまで一貫して低姿勢な賢者様というのも、なかなか会うまでは想像できなかったものだ。


「いいえ、彼にとってもいい経験になったでしょう。ご紹介頂けて、有難かったですよ」


 ふてくされている、とはいかないまでも、高名な預言者に辛辣な言葉を投げつけられたチータの表情は、普段の無表情に増して目つきが悪く見える。敢えて顧みずにそう言うシリカの姿勢から察せられるに、シリカもエルアーティの言葉にはいくつか思うところがあったのだろう。


 シリカの目から見て気立ての良いルーネ、そして彼女が親友と称する人物。エルアーティの刺のある口ぶりには、シリカも傍から聞いているだけで肝を冷やしたものだが、何かしらの意図あってのことであるはずだとシリカは信じている。それだけ目の前にいるルーネという人物は、シリカにとっては信のおける人物だった。


 親友の悪意無き意図を汲み取って貰えたことに、ルーネは申し訳なさそうに、しかしその目の奥には深い感謝の意を持って、シリカに対して微笑んで返す。目の前にいる法騎士の友人、それが親友である魔導士の彼女の理解者であることを受け止めたルーネの胸中の喜びは、その笑顔にすべてて集約されていたと言えるだろう。


「あと、シリカ様。エルアから、あなたに伝言があるそうです」


「え?」


 私に? とばかりにシリカは目を丸くした。高名な預言者たる人物が、わざわざ自分に対して言伝を残すことなんて、想像もしていなかったことだ。


 告げる僅か数瞬前、ルーネの目が娘を見守るような母の目に変わる。一児の母であった彼女がシリカを見る今の目は、その先を案じる親心に満ちた目で、その口から想いの丈が溢れる。


「自分にもっと自信を持っていい、とあの子が言っていましたよ」


 シリカは苦笑いを抑えられなかった。先ほど顔を合わせた僅かな時間でその本質を見抜いてきたエルアーティの目ざとさと、その言葉を友人からの言伝と言いながらも、それを自身の目でも見定めていたからこそ、今の優しい瞳でそれを言葉にして伝えてくるルーネに対してだ。


「心に深く刻み込んでおきます。決して忘れませんよ」


「頑張って下さいね」


 アカデミーを去り、エレム王都まで帰る船に向けて歩く3人を、ルーネはずっと見送っていた。彼女の顔色も明確にはわからぬほど遠ざかった頃に振り返っても、背筋を伸ばして自分達を見送っているルーネを見た時、幼く見える賢者の静かな品格を、ユースは僅かに感じ取ることが出来た。











「さて、ユース。長い旅路を御苦労と言いたいところだが、訓練の時間だぞ。わかっているな?」


「はい」


 自宅に帰り、アルミナやキャル達に迎え入れられたシリカは、着替えをする暇も作らずユースに上官の顔でそう言い放った。ユースも彼女の想いをあらかじめ察していたかのように、携えていた騎士剣の鞘を握って力強い声で応じる。


「……ユースも、あまり無理しちゃ駄目だよ。怪我をしたら、意味がないから」


 小声で的確な指摘をするキャルに、ユースは血気盛んな口調のまま、わかってるよと返した。これから3日間が、彼にとっての正念場となるのだ。


「騎士昇格試験まであと少しだもんね。今度こそ頑張ってきなさいよ」


 アルミナの言葉に背を押され、ああと意気込む返事を返し、訓練場に歩いていくユース。彼を導くように前を歩くシリカの背中からは、まだ芽吹かぬ少騎士の未来を切り拓く助けにならんとする、固い意志が強く滲み出ていたものだ。






「突きの扱いが雑になってきているぞ! 戦場で疲労を言い訳に命を失うつもりか!?」


「いいえ……!」


 シリカの怒号響き渡る訓練場で、ただ一人彼女と何度も木剣を打ち鳴らすユース。一撃たりとも彼女に太刀を浴びせることが出来ないまま、自らの全身にあざを作り続けながらも、少年騎士は顔を上げて何度も立ち向かっていく。激しく息切れた口元も、全身から吹き出す汗も、ユースの肉体が限界いっぱいまで力を振り絞っていることを如実に物語っている。


「甘い……!」


 シリカの右方に隙が見えたと睨んだユースの太刀筋が、そこへ鋭く横薙ぐ斬撃を放つ。瞬時シリカはユースを遙かに上回る速度で剣撃を放ち、木剣を握ったユースの手首を強く打ちつける。衝撃に木剣を落としたユースの脇腹に叩き込まれる、シリカの木剣の鋭い一撃。


 胴体を鈍く貫く衝撃に、ユースがくぐもった悲鳴を漏らすとともに、片膝をついて崩れ落ちる。見下ろすシリカは、敢えてゆっくりと木剣を振り上げ、ユースの頭目がけてそれを振り下ろした。


 全身を包む苦痛の渦中にいながらもユースは左腕に装着した盾を掲げ、シリカの木剣をはじいて全力で後方に跳躍する。着地の瞬間、苦しみに背いて無理をさせた肉体がせきを切ったように悲鳴をあげ、顔を上げてシリカを見据え直すユースの目が虚ろに泳ぐ。


「私の戦い方を既に知っているお前が、敢えて見せた隙に易々と騙されて踏み込むとはな。そんな甘えた戦い方で、実戦を乗り切れると思っているのか……!」


 地を蹴ってユースに迫るシリカの木剣が、ユースに雨あられのような斬撃の数々を作って襲いかかる。後ずさりながらそれらを捌くユースの木剣をかいくぐり、何発もの剣撃がユースの全身を打ちのめす。二の腕、太腿、肩口と、鞭を打つかのようにユースを攻め嬲るシリカの連撃は、時が経つにつれてユースの体力を奪い、ユースの肉体を捉える回数を徐々に増やしていく。






 痛みと体の軋みに堪えながら、倒れることなくシリカに立ち向かう少年騎士を眺める者がいる。3日後の運命の日に向かって歩みを続けるユースを見守る、第14小隊の傭兵の少女が二人。そして、預言者にその少年を引き合いに出されて言葉を授けられた、魔導士の少年が、遠く離れた場所から静かにユースを観察していた。


 いつ腐ってもおかしくない果実のような弱さが目立つ、そう呼ばれた少年騎士。果実であることしか出来ない自分にその魅力を知ることは出来ない、そう突き付けられた自分。言葉遊びが好きな魔導士とは何度も顔を合わせてきたチータも、エルアーティが放った言葉の真意は未だ計り知れずにいた。


 未来が無いと言われた自分が変わっていくきっかけが、あの少騎士ユースのいる場所にあるとでも言うのか。にわかには信じがたい仮説を胸に抱き、チータは今にも血へどを吐きそうな顔色で木剣を握るユースから目を離さず、静かにたたずんでいた。




「自らの過去から目を背けた者の手に、未来を切り拓く力は宿らない……か」


 独り言のようにつぶやく魔導士の少年は、その胸を常に占めていたかつての過去を思い返し、その想いを表情に表わすこともなく、静かに、動かず、未来に向けて駆け続ける少年騎士を眺めていた。

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