エピローグ
「騎士団衛生班から若くしての法騎士の誕生、ウルリクルミの撃破、魔王マーディスの討伐、蘇った魔将軍エルドルの駆逐……そして再び現世に現れた魔王ならびにアルケミスの討伐」
魔法都市アカデミーの大図書館、その一角の私有区画で書物に目を通しながら、口ずさむように快挙の数々を羅列する賢者。椅子に腰掛け、そんな彼女を膝の上に乗せた勇騎士――衛騎士へとその称号を変えた勇者は、何も言わずにそれらを聞き受ける。
「なんと華々しい経歴かしら。ねえ、ベル?」
「あはは……改めて聞くと、自分じゃないみたいですよ」
再びの魔王討伐に深く携わった功績を得て、衛騎士ベルセリウスと呼ばれる存在に変わった勇者。照れたように笑う彼を見上げ、柔らかく笑ったエルアーティは、再び手元に開いた書物に目線を落とす。
「あなたの名前は後世まで語り継がれ、何百年経ったのちも、歴代最高の騎士は何者かという話題が上るたび、候補として名を挙げられるのでしょうね。しかし、いかなる偉人にも言えることだけど、偉人が存在するその時、彼を彼女を育て支えた人物が必ずいる」
「ええ。僕にすれば、お師匠様もその一人です」
近衛騎士ドミトリー、勇騎士ゲイル、聖騎士グラファス、上騎士ラヴォアス。騎士団内におけるベルセリウスの師であった人々だ。
大魔導士アルケミス、勇騎士ハンフリー。ベルセリウスの親友達であり、彼らと共にいた長年の日々が、何度ベルセリウスを支えてくれたかわからない。
賢者ルーネ、魔法剣士ジャービル、賢者エルアーティ。先人として、時に厳しい姿勢を見せつつも、ベルセリウスのことを見守り続けてくれた人物である。こうして素早く思い出せる限りでも、ベルセリウスの脳裏には、ここまで辿り着いた彼の道を作り上げてくれた他者が、これほどいる。
「あなたを歴史上の人物として語るにあたって、そんなあなたを支え続けた人々の存在は、決して避けては通れないでしょう。私が誰かの伝記を作り上げるなら、当人の功績のみならず、そういった所を重視して作っていきたいものね」
昔から、そして今現在でも、勇者ベルセリウスに憧れて騎士となる若者はたくさんいる。星の数ほどだ。彼ら彼女ら若き志は、無意識にでも、あるいは意識してでも、いつかのベルセリウスの背中を追い求め、同じ境地に立ちたいと願うだろう。しかし、彼のようになりたいと思うのであれば、当人らの努力ではどうにもならない問題が一つある。それは、ベルセリウスを勇者たらしめるまでの日々で彼が触れてきた、彼を今の勇者に育てた環境が、同じく若き者達に与えられるとは限らないことだ。
「勇者に憧れ、それに並ぶか超えていくこと。つまるところその言葉の意味は、あなたを支えた恵まれた世界を自らの周囲に正しく見出し、その誰かと共に歩んでいくことにある」
それはあるいは運命力、己の力だけではどうにもならない運を味方につけること? いや、違う。自らの支えとなってくれる心強い人々の存在を忘れぬことは、誰にだって出来ることだ。その力こそが、人をいつか勇者たらしめる最大の要素であると、エルアーティは考える。
勇者とは、快挙を叶える存在のことを言うのではなく、類まれなる功績を残した者の呼び名ではない。そばに立つ人にその存在だけで勇気を与え、ならびに安寧をもたらし続ける存在のことだ。無数の人々にそれをもたらすのが勇者ベルセリウスであると大局視点の認識が語るなら、妻を守り続ける名も知られぬ一人の男さえ、それは妻にとっての勇者様に他ならない。
人は誰でも、大切な誰かにとっての勇者様になることは出来るのだ。そしてそのためには、己を取り巻く美しい世界を決して忘れず、見落とさず、献身的に戦い続けることが必要なこと。闘争でも、お金稼ぎでも、学問に励むでも、それぞれの戦い方を人々は各々に持っている。ベルセリウスは、強くなった。そしてその力を、ここまで自分を大きくしてくれた、あまりにも多き人々に報いるため、常に戦場で振り絞ってきた。彼を勇者たらしめた最大の要因が何かと問われれば、剣の腕も二の次、恵まれた運など三の次、その志そのものであるとエルアーティは答えるだろう。
「あなたが若き日のドミトリーに憧れ、騎士団入りして現代最高の勇者となったように。あるいはあなたに憧れ、法騎士シリカの背を追い求め続けた騎士ユーステットが、現代の若き勇者になったように、偉大なる存在は必ず後世を磨き上げる。そうして歴史の積み重ねが、エレム王国をここまで大きくした」
今や世界有数の、どこの国の自衛力と比較しても劣ることの無い、誉れ高き騎士団となったエレム王国騎士団。その礎となったのが、ユース達の世代にとってはベルセリウス達であり、ベルセリウス達の世代にとってはドミトリー達であり、ドミトリー達のとってはさらに上の世代。黄金世代、と言われる分厚い時代は、確かに何年かおきにしか訪れない。それでも上の世代に負けないよう、自分達の立ち位置をがむしゃらに駆け抜けた者達が、時代をそれぞれ作ってきた。後年それが歴史家に、どのように評価されるかなど関係ない。上に憧れ、下を導き、等しき世代と手を取り合って、毎日をひたむきに戦い続けた者達の世代が連綿と繰り返されていく限り、歴史家も夢を見るような黄金の時代は、やがて必ず訪れるのだ。
まさに今こそ、そんな時代なのではないだろうか。聖騎士シリカと騎士ユーステットという勇者が、天寿を遥か先にした若き世代として、今後何年もを、なおも腕を磨きつつ騎士団の歴史と共に生きていく。衛騎士ベルセリウスというあまりに偉大な男もまた、向こう数年まだまだ現役として動き続けるだろう。そして中間世代の法騎士や聖騎士達も、魔王マーディスやその遺産と戦い続け、生き延びてきた猛者ばかりであり、彼ら彼女らもまた、向こう数十年をシリカ達の世代を導く者として歩み続けていくのだ。
「私達の最大の幸福は、記録としてではなく記憶としてこの時代を知り、共に歩んでいけること。あなたと同じ時代に生まれ、生きられたことを、私はこの上ない幸せであると感じているわ」
百年後の歴史家が、この黄金時代を知識として知れば、同じ時代に生きてみたかったと性分から思うだろう。それを今から確信し、今の良き時代を自分は生きていると認識できること自体が、類まれなる幸福だ。それこそまさに、運命様に味方して貰えないと巡り会えない幸せであると言えよう。
「さて、あなたやシリカ、ユーステットを超える勇者は、今後果たして現れるのかしら?」
「必ずそんな日も訪れますよ」
ただの謙虚ではなく、歴史が証明してきた史実から学んだベルセリウスが即答する。近いうち、シリカやユースの背を追って、騎士団入りする若者達の時代が訪れることを、ベルセリウスはわかっている。そしてまだ見ぬ若き世代が追い求めるのがあの二人で、それに倣って歴史を駆け抜ける者がいるならば、いつか必ず二人を追い求めた若き勇者が現れるだろう。
自分だって、勇者になれたのだ。ドミトリーという、ラヴォアスという、エルアーティという人々の背を追いかけてきたからだ。偉大なる人物を追いかけていく大いなる志こそ、人を尊き境地に導く希望そのもの。そんな彼らの追いかける、燦然と輝く光がシリカやユースなら、その光がやがて必ず、二人に並ぶ勇者の誕生に繋がっていくと、ベルセリウスは信じている。
「まだまだ早死にはしたくないものね」
そう、そんな未来をこの目で見たいから。シリカが、ユースが、新しき世代を照らす真の太陽となった時、その下で力強く咲く向日葵を見たいから。まだまだ長生きしたいと思えるなら、人の心は何歳になっても、溢れる希望を忘れず歩いていけるはず。
「お師匠様は何歳まで生きるつもりですか?」
「少なくとも、シリカやユースが年老いて世を去る姿を見届けるまでは生きるつもりよ?」
「それってお師匠様、大還暦に達しててもおかしくないと思うんですけど」
「今、ユーステット=クロニクスの生涯を書き綴った歴史書を、リアルタイム更新で書いてるんだもの。これを最後まで書ききらぬままにして世を去りたくは無いわ」
現在60手前のエルアーティ。きっと数年後も同じことを言い、ユースよりも年下の誰かの生涯を追うことをはじめ、それが死ぬまで自分は生きるんだと言っている彼女の姿が、今からベルセリウスの目に浮かぶ。少なくとも、自分よりはこの人長生きするんだろうなって、ベルセリウスも思わずにはいられない。ルーネにも同じことが言えるが、年老いてなお未来に希望を抱いて生き続けるお婆ちゃん達には、本当に適わないなって思う。お二人とも、見た目だけは若々しすぎるぐらいだけど。
「今年からもう、面白そうだもんね。だってほら、あの二人が今日から出向く国って」
「ああ、お師匠様のご友人がお姫様を……いや、今はもう女王様でしたっけ」
「ね、楽しそうでしょ?」
くすくす笑うエルアーティと、まったく底意地の悪さが抜けきらない人だと笑うベルセリウス。自分に対しては甘えることも多く、危害を加えてくる人ではないけど、この人に意地悪に気に入られてしまったユースのことが、ちょっとベルセリウスも気の毒になってくる。分隊の隊長として遠征に赴くことが決まったユースの行き先を、当の西国はどうかしらと推薦したエルアーティの企みは、その話を聞いた時からだいたいわかっていたことだけど。
「まあ、苦労するでしょうけど乗り越えられるでしょ。あの子達の凱旋、心待ちにしておくわ」
「まったく、親心なんだか試練売りなんだか」
「両方よ」
上機嫌で書物に目を通す目を微笑ませるエルアーティ。賢者の瞳はいつだって、過去と未来と現在のすべてを見通している。すべてを、美しいものを見るような恭しい眼差しで。
出航した船の甲板で、シリカが物憂げな顔をしていた時間もそう長くはなかった。冬の潮風は冷たく身に沁みるが、それ以上に心を温めてくれる光景はいくらでもあったから。
「例の国は、そうだな……新聞などを見る限りじゃ――」
「――大変そうですけど、素敵な人が国をお治めになってるんですね」
これから向かう国のことを知りたがるルザニアに、物知りのチータがあれこれと教えてくれている。ああ見えて面倒見のいい奴なのは知っているけど、彼のような人物が一人いてくれるだけでも、新しく仲間になったルザニアがみんなと打ち解けるまでの時間は短くなるだろう。新天地でこれから頑張っていく身のルザニアを、前向きな彼女へと変えていく環境が既にあるのは、シリカにとっても嬉しいことだ。
「あんまり乗り出すなよ、落ちても知らないぞ」
「だから手握っててって言ってるでしょー! ほらほら、ねー!」
船の舳先が波をかき分けていくのが見たくて、船の最善面まで乗り出そうとするアルミナ。後ろ手を出す彼女の手をユースが握ると、アルミナはすごく嬉しそうに笑い、身を乗り出して見たかったものに目線を向けた。まったく、幸せそうなことである。
気恥ずかしげにアルミナの手を握るユースの姿を見て、胸がちくちく痛むのも本当だ。港での一件から、これからどうすればいいんだろうと不安になり、ちょっと落ち込んだ時の心模様も蘇りそうになる。だけど、それに勝って心を満たしてくれるのが、幸せそうに今を過ごす二人の姿であるのも事実なのだ。確かに妬けそう、胸が痛む。だけど目指す何かを勝ち取るために、毎日頑張ってきた二人の姿を、一番そばで見守り、導き続けてきたシリカにとって、平穏泰平の二人の姿は、そうしたわがままな焼きもちも打ち消してくれる。
恋だの何だのと自分を詰問して困らせてきたり、挙句にはシリカを題材にした素人小説まで作って配っていたアルミナだけど、無力な女の子が銃を手にしたあの日から、どれだけ頑張ってきたかは忘れられないのだ。家族を奪われ、戦いの日々で全身に傷を作り、決して楽ではなかった半生の末に、あんなに幸せそうに笑って過ごせる後輩の姿を見て、歩み寄るシリカも微笑む表情を抑えられない。
「わ、シリカさん?」
「危ないぞ。私も支えておいてやるが、あまり無茶な乗り出し方はするなよ」
アルミナの両腕を下から握り、間違っても船から落ちたりしないよう、しっかり捕まえるシリカ。アルミナがキャルのお姉ちゃんなら、シリカもまたアルミナにとってはお姉さんだ。頼もしいシリカを振り返って嬉しそうに笑うアルミナと、笑顔で応えるシリカの姿が、二人の絆を本当によく象徴している。
ありがとう、とばかりにユースを振り向いてうなずくアルミナを見て、ユースもアルミナの手を離す。シリカがいてくれるなら安心だ、というアルミナの気持ちが、ユースにだってよくわかるから。たまにはこうして、シリカを独り占めする幸せを、アルミナにだって分けてあげたくなる。
少し下がって、二人で仲良く船の前に立つ二人の後ろ姿を見るユースは、近い場所まで歩いて来たチータに目配せする。わかってるよ、とばかりにうなずいたチータにも、何かあったら魔法で頼むよというユースの語りかけは通じたのだろう。
「……あの、アルミナ」
「何です~?」
少し緊張したような小声で話しかけるシリカと、目の前の光景に上機嫌で軽い声を返すアルミナ。きっと後ろのユースに聞かれたくないから小声なんだろうな、とは、アルミナも薄々感じ取っている。
「……負けない、からな?」
ほら、やっぱり。振り返らないままにして、アルミナはいっそう表情が緩んだ。それは余裕の笑みでも、臆病な彼女を笑うでもなく、憧れの人が挑戦者のような心持ちで自分に語りかけてきた、新鮮な経験からくる表情だ。
「私、真剣勝負には全力で臨むタイプですよ?」
「……望むところだっ」
かかってきなさい、と自信満々のアルミナ。既にもう敵の大きさに屈しかけつつ、それでも負けたくない意地だけ張り、口調だけ強くも弱い声を返すシリカ。さて、年上はどっちでしょう。
こんなに自分に対して屈服しかけるシリカなんて、今までになくって、可笑しくて可笑しくて。思わず堪えきれない、くすりとした笑い声を漏らしてしまうアルミナ。笑っちゃよくないのはわかってたから、せめて顔は見せまいとしていたが、声まで出てしまっては笑ってるのがばれてしまう。
「……このぅ」
「ひゃー、ごめんなさいごめんなさい、上官さま笑ってごめんなさーい」
アルミナの体を揺らし、船から落としちゃうぞこいつ、というふりを見せるシリカに、アルミナは慌てて、だけど笑って振り向いて、シリカの胸に胸をうずめる。危ないことしないで下さいよー、と、胸元から上目使いで微笑むアルミナの頭を、ごめんごめんと撫でるシリカの表情も優しい。
「何やってるんですかシリカさん、危ないでしょー」
彼女らしくないいたずら、まあ冗談だとはわかっていても、軽い口で苦言を呈しに歩み寄ってくるユース。ユースとしてはいつもどおりの絡み方、振り返るシリカは思わず苦笑い。お前のことが根底にあってああいうやりとりになったっていうのに、こいつわかってくれてないのかと思うと、シリカも複雑である。
「しっしっ、あんた離れてなさい。私はシリカさんとガールズトークしたいの」
「何そのノリ。なんか今日のお前自由すぎないか」
「いーからいーから、ほらほらあっち行った!」
素っ気なく追い払われ、なんだよとちょっと拗ね気味で近付いてくるユースを、チータが冷めた目で迎える。別に呆れるとかそういう目じゃなく、こいつ相変わらず大事なとこでつまづいてる奴だなあって。
「お疲れ」
「ホントさー、アルミナ……」
「これからもっともっと大変だろうけどな」
不吉な予言を差し込んでくるチータに、何が? と問うても具体的な答えは返ってこない。視界内に入るルザニアの態度も、なんだか生温かい目で見守ってくれているような目つきで、何やら気味悪い。仲間入りして間もないルザニアさえ、なんとなくこれからのユースの受難を察しているというのに、肝心の本人が先行きを見えていないっていう、これだから朴念仁は。
「ユース」
追い払われた矢先、ユースを呼び寄せてくれるシリカがいる。この人に呼んでもらえたら、ちょっと拗ねてたユースもすぐに機嫌を直し、はいと返事して足早に帰っていく。シリカの片腕に抱き寄せられ、撫でられた猫のように溶けたの笑顔のアルミナは、シリカの腕に抱きついてユースのことなんか見てない。
「そろそろ、陸が見えてきたぞ」
「……ほんとだ」
水平線の向こうに見えてきた何かは、これから渡る新しい大陸の入り口だ。ゆっくりと進むこの船が、そこに辿り着くまではまだかかるだろう。だけど、新しい日々が始まることを示唆し始めた光景には、自ずとユースも無性にどきどきしてくる。
誰もが今を必死に生きていて、ユースだってその例外ではないのだ。向こうに渡ってもしっかりしなきゃ、と自分に言い聞かせるかのように、すぅはぁと短い深呼吸をするユースは、女心に確かに鈍感。ちゃんとした自分を目指すことに必死で、周りが見えなくなってしまう人で、そういうユースだから好きになれたんだろうなって、シリカも見守りながら感じている。
「頑張ろうな」
「……はいっ!」
騎士ふたり、意気込み確かに。目指すは未来、立派な自分、そして愛する仲間達との幸せな日々。二人が夢見る共通の理想郷は、今も昔も変わらない。そして理想とは、自らの手で掴み取るもの。一番の幸せを感じられる時というのは、自分自身の手でそれを掴み取った時だ。
その手を伸ばそう、まだ見ぬ明日へ。光は必ずその先にある。




