第281話 ~新たなる日々へ~
謁見の間。玉座に腰をかけた老いし皇帝は、食い入るように目の前の文書に目を通している。年を経ても涙は枯れない、しかし一国の主として強き心概を持つその人物は、胸の内から溢れる想いを自らの内に留め、側近の前で瞳を揺るがす様も見せない。彼をよく知る側近なら、その密書の中に書いてあることが、どれほど彼にとって心を波立たせるものか、わかりきっているのにだ。
「……ジャービル。そなたも、読んでみるか?」
「いいえ、それは皇帝様だけのものです。私は私で、別のものを受け取らせて貰いましたので」
年が明けた魔導帝国ルオス、広く強き国家の主君たる皇帝ドラージュの元へ、賢者エルアーティが訪れたのは昼過ぎのことだ。エルアーティは、目上の皇帝にひとしきりの挨拶と小話をいくつか交わした後、小さな巻物を一つ献上して去っていった。その中には、魔王となったアルケミスと最後に語らったエルアーティが、彼との最後の対話の中で耳にしたこと、すべてが綺麗な文章で書かれていた。
魔界、魔王、その真理を知るべく、魔に身を堕とした真意。ならびに人類の敵となった自らが、父のように見守ってくれたドラージュに対する、裏切りであったことへの懺悔。かつての盟友ドミトリーを手にかけた、魔王としての意志とは異なる、アルケミスとしての精神が抱いた苦しみ。二度と、親友あるいは先輩であったベルセリウスやジャービルとは共に歩けぬことになったことを、己が道を貫いた結果とはいえ、寂しく感じた大魔導士の本音。それを最後、直接彼から聞いたエルアーティは、すべてが終わって数ヶ月の時が経った今、ドラージュ、ベルセリウス、ジャービルの三名に、アルケミスの遺した最後の言葉の数々を記した巻物を作り上げた。これは、アルケミスの親族にさえ作り与えない、世界で3つだけの手紙である。
「……ふふふ、器用な賢者様じゃのう」
「ええ……まるで本当に、彼から直接貰えたような気分ですよ」
どうしてそれだけの時間がかかったかって、エルアーティがアルケミスの筆跡を真似るよう努めたからだ。エルアーティは師弟として、何度も口頭と文書でアルケミスと魔法学について語り合った過去があり、彼から貰った文書や手紙は、ただの一つとして捨てていない。ルーネとアルケミス、エルアーティが世界で最も魔法使いとして信頼する二人の残した書き物に、グリモワールに相当する価値を見出して手元に置いていた賢者。その過去から生まれた、魔法の手紙。限りなくアルケミスに近しい筆跡、文体、言葉遣いで綴られ、ドラージュに宛てられた最後の手紙は、老いた皇帝の目頭を熱くするほどの力があった。
真理を究明しようとする自らを評価し、宮廷魔導士に招き入れてくれたドラージュ。自室や研究資材を惜しみなく提供してくれたドラージュのおかげで、今まで知り得なかった数多くのことをどれだけ解明できたか。名声になど興味のなかったアルケミスだったけど、名を上げることによって多くのことが許され、ルオスの魔導研究所の先人と話す機会も増え、興味深い話を聞けるようになった若い日々。無愛想を自覚するアルケミスに、もっと笑うことを覚えよ、わしのようにな、と、常に優しく接してくれた皇帝。魔王を討ち果たして凱旋したあの日、家族よりも友人よりもまずわしの元へ来い、誰より先に歓迎したいから、と、満面の笑みでわがままを言ったドラージュのことを、アルケミスは忘れてなどいなかった。謁見の間に辿り着き、自分が跪くより早くそれを制し、玉座を降りて歩み寄った末、抱きしめてくれたドラージュの温かさを、アルケミスはちゃんと覚えていたのだ。
最後にエルアーティにそれらを語ったアルケミスの意志も、彼らしい文体と筆跡で再現され、ドラージュへの手紙に書き綴られている。人類であるあなたを裏切ったことは胸が痛む、しかし私は真実に到達した自分自身のことだけは悔いたくない、と、実に彼らしい言葉も同時にだ。静かで、感情を表に表さない一方で、確たる信念とともに歩み続けた大魔導士の遺書は、それがお前だったなぁと、ドラージュの胸を懐かしくさせてくれた。
平和がこの世に取り戻され、何もかもが希望に溢れた毎日。だけど、一つだけが足りないと感じてやまなかったドラージュは、決してその言葉を口にしなかった。人類を裏切る形になり、魔王として人類を苦しめる根源となった彼を、平穏の今惜しむことを口にすることは、一国の主として出来るものではない。
だけど、でも。
「偉大な魔導士だった、なぁ」
「今でも偉大ですよ。私は少なくとも、そう思っています」
「むー、気を遣わんか、少しは。気楽な立場で好きにものを言いおってからに」
偉大な魔導士"だった"。過去形で言うなら、公の発言としても角は立たない。その裏に隠された本音を、平然と代弁できるジャービルの立場を、ドラージュは少しだけ羨ましく思う。ジャービルとて公の場で今のを口にすればまずいが、二人きりで誰も聞いていないこの空間上、ドラージュの前でのみ言うだけなら問題には発展しないのだから。王たるドラージュは、それさえ戒めねばならないというのが、最高位に立つ人間だけが持つ苦悩である。
人間誰しも、心から尊敬していた、あるいは心から信愛していた人物が、とてつもない愚を犯してその身を堕としても、そのすべてを否定できない時がある。それが人間の情の為す惑いでもあり、愛が形作る背徳だ。アルケミスが犯した罪は、きっと永劫人類史において赦されるものではないし、彼の名は悪魔を語る口伝のように歴史に刻まれていくのだろう。彼が遺した、魔王や魔界に対する新事実を解き明かしたという功績を以っても、なお。
そうして鬼門をくぐった彼の志を知る者が、ほんのわずかでもこの時代に残れば充分だ。誤解されることも多かったが、決してアルケミスは完全なる冷血漢ではない。エルアーティによく似て、真実の究明のために手段を選ばない側面もあるし、魔王となったこともそうだったが、彼にも愛した人物がいたのは確かなのだ。ドラージュ、ベルセリウス、ジャービル、ドミトリー、そしてエルアーティ。心を通わせられると信じ、そばにいて幸せな日々を歩めていた自覚のあった彼ら彼女らに敵対し、命を奪い合う立場に向かっていくことが、果たして彼にとって何とも思えないことだっただろうか。真実の究明に対する想いが勝ったと言えばそれはそれまでかもしれないが、その裏にあったはずの葛藤を無視して彼を語ることは、決して賢い行為ではない。
魔法とは、術者の精神を具現化したものだ。心無き者に、真に運命にはたらきかける大魔法は決して実現することは出来ない。大魔導士として名を馳せたアルケミスの実在そのものが、彼が強き精神力と、その裏に不器用な感情を併せ持つ人物であったことの証明であり、それが魔王として転生する彼を実現した。そうして人類史に明確に刻まれた魔王学は、ウルアグワやエルドルのことを指し示した"魔王マーディスの遺産"という言葉とは全く異なる、人類に遺された大いなる英知、"魔王アルケミスの遺産"である。
「のぅ、ジャービルや」
「ええ。私も彼から頂いたメッセージに、自室でゆっくり目を通したく存じます」
一人にさせて欲しい、というドラージュの想いを、聞かずして先読みしたジャービルは、自分都合で席をはずす弁を作って去る。ジャービルの気遣いに、礼にも等しい笑顔を向けたドラージュに一礼すると、玉座のそばを離れたジャービルが去っていく。
誰もいない、皇帝一人だけの謁見の間。高い天井を見上げ、我が子のように愛した大魔導士の顔を思い出す。手にした手紙から伝わる彼の思念が、お気になさらないで下さいと語りかけてくる気がしたのも、アルケミスの想いを届けてくれたエルアーティの"魔法"の為せる業だろうか。
「……子は親よりも長生きするものじゃと、何度も教えたであろうに」
平安なるこの世界に、たった一つ欠けた我が子の残影。そばに帰ってきてくれなかった親不幸を口惜しみ、ドラージュは最初で最後の深い溜め息をついた。
「――というわけで、明日からはルオスからも増援が参ります。好きにこき使ってやって下され」
「いいえ、そんな。深き慮りに感謝するばかりです」
ルオスの宮廷魔導士の一人たる、大魔導士エグアムを以ってしてぐらいが、賢者ルーネと等しい位で言葉を交わせる人物の選別に適切だ。齢70を超え、百獣皇アーヴェルと交戦し続けられるほどの実力を身に付け、ルオス皇帝のそばで働くことを許された人物の位高さというのは、それだけ賢者に比肩するものということだ。逆に言えば、魔法都市ダニームという国家相当の都市において、賢者という事実上第2の位に就くルーネに並ぶということで、エグアムも相当な地位を持つ人物であるとも逆証明できるが。
「それでは、良き一日を。ラエルカンの完全再興、心待ちにさせて頂きますぞ」
「はい。全力で頑張って、とっても早く実現させちゃいます!」
元気いっぱいに応えたルーネを、頼もしい孫に微笑む顔で見返して、エグアムは雲のようなものを足元に形成すると、それに乗ってルオスに帰っていく。風格や長い白髭も相まって、仙人のような方だとルーネも改めて感じる。
「お疲れさん、おふくろ。お偉いさんとの語り口でも、あんたは相変わらずだな」
「こんな感じでいいのかなぁ? エルアにはいつも、堅苦しい口調より自然体のあなたの方がいい、って、よく言われるんだけど」
「ルーネ姐さん、お堅い言葉吐いたら本当堅いっすもん。ふんにゃり喋ってる姐さんの方が可愛らしいっすよ」
使者エグアムとの会談を終えたルーネに話しかけるのは、この日ラエルカン復興活動の下見に訪れたクロムとマグニスだ。騎士クロムナードの指揮下という名目のもと、伴われてついてきたガンマも、怪力を活かして復興活動の手伝いをしているし、キャルもどこかでお茶汲みなどのご奉仕に努めているのだろう。
「第14小隊からは、あなた達が?」
「ああ。俺やガンマは力仕事を担う形で、マグニスは火術を利用して地表開拓にあたって貰う。キャルはまあ、台所かな」
「あー、それ本当素敵。キャルちゃんの作るご飯、すっごい美味しいですものね」
「ま、キャルは他に事情もありまし……ああ、アイツアイツ。見るからでしょ」
ラエルカンの復興支援に働く男達は、廃墟同然の大地を再び人里に蘇らせるという、気の遠く感じるような作業に、毎日汗水垂らして従事するのだ。そこに料理の達人が参入するというのは、一日3回の幸せが大きく確保されるということ。きっと復興支援の毎日、朝昼夕のキャルは何人もの男達向けに調理場で大忙しであり、料理店の店主顔負けの激務に追われることになるだろう。それだけ、彼女にしか出来ない、価値のある仕事であるということだ。
また、ひひひと笑いながらマグニスが親指で指し示す先には、ちょうどお茶汲みのキャルに近付いて、たどたどしく話しかけている少年がいる。ラエルカンの復興には、エレムの南の小国エクネイスも協力しており、その国で哨戒魔導士の卵として生きるストロスも、この復興支援に携わっていた。
「それじゃあ、君もしばらくラエルカンに?」
「うん……力になれるか、わからないけど……」
「そ、そっか……僕も一緒に頑張るし……手伝えることがあったら、何でも言ってくれよ?」
エクネイスから派遣されているストロスが、どの程度の期間ラエルカンに滞在する予定であるのかは不明だが、キャルと一緒に働ける仕事場だとわかったら、滞在期間を延ばして貰えるよう師匠辺りに頼んだりしそうだ。遠方で、キャルを前にしたストロスを初めて見るルーネでさえ、気恥ずかしげな少年の胸の内にある青春を、容易に読み取ることが出来る。
「あなた達4人っていうことは、ユース君達は?」
「ああ、決まったよ。ユースを分隊の隊長として、指揮官としての腕を確かめる遠征だ」
「当分あいつらと会えねえのは寂しいが、代わりにルーネ姐さんと一緒にいられる毎日は嬉しいっすしね。しばらくお世話にならせて貰いますよっと」
「うふふ、ありがとうございます。でも、こんなお婆ちゃんのご機嫌取りするぐらいなら、若い女の子をもっと口説いた方が楽しいわよ?」
「さっすがー! ルーネ姐さんは話がわかるッ!」
60手前かつ見た目幼女だが、やっぱりルーネはシリカと違って寛容だと、大喜びのマグニス。男臭い復興現場だが、魔法によって復興を手伝う、女性の魔法使いも参加しているのだ。ルオスからはミュラーやティルマも時々参じるであろうし、土方の目立つ風景でも女っ気に飢えることはないだろう。まあ、悪い意味で一線超えるようなことになったら、流石にルーネも黙っちゃいてくれないだろうから、ある程度は当然の自戒が前提にあるが。
楽しく語らう三人に、後ろからのっしのっしと歩み寄る巨体。気付いたルーネがぺこりと一礼し、振り向くクロムとマグニスの前には、これまたルーネにも比肩する偉大な人物だ。
「よぉ、クロム。久しぶりだな」
「おう、ご無沙汰。親父は相変わらずいかついな」
マグニスさえも、うへぇと苦笑する威圧感。アユイ商団の元締めであり、クロムの育ての親であるジュスターブは、クロムの頭に手を置いてにんまり笑う。巨漢のクロムの頭に手を置き、上から見下ろし葉巻をくわえた口の端を上げるこの人物、流石クロムを育てただけあってでかい。体躯だけではなく、荒っぽい商人や傭兵も黙らせるその存在感そのものを形容するには、でかいという言葉以上に適したものがない。
「せっかく来たんだから、お前らも手伝っていくよな?」
「まあそのつもりだが、こいつはあんまり乗り気じゃねえようで」
「勘弁して下さいよ~、大親分。俺って力仕事って柄じゃねえっしょ~」
「人手なんかいつでも不足してんだよ。ケツの穴小せぇこと言ってねえで来いや」
苦笑いでぼやくマグニスを、ひらりと掌一枚下から仰ぐ仕草で招き、土木現場に歩いていくジュスターブ。諦めろ、と笑うクロムの横を、あ~あ楽しいはずの遠足が、と不平垂れながら、マグニスがついていく。誰に対してもマイペースな態度が目立つマグニスとて、流石にあれを相手に好き勝手言うのは難しいようだ。アウトロー達にはアウトロー達なりの、この人に逆らっちゃいけないという線引きがある。
振り返り一礼するジュスターブに手を振り、二人を見送ったルーネ。血の繋がった我が子のクロムを引き取り、滅び行くラエルカンから逃れさせた上に、あれだけ立派な男に育ててくれたジュスターブに対するルーネの感謝は、とてもじゃないが計り知れないものだ。彼の姿が見えなくなるまでしっかり見送り、一人になったルーネはふぅと一息つくと、ある一角へと歩いていく。
大きな大理石で作られた慰霊碑は、ラエルカンの魔導研究所跡地の裏、墓地であった場所に作られたもの。以前一度目の復興に際し、平和を祈る記念碑として作られた、"エルアの石碑"とは別のものだ。その根元には、二度目のラエルカン奪還のために戦い抜き、命を落とした者達の中で、とりわけラエルカンに関わりが深かった者達の名が刻まれている。
ひとつひとつの名に目を通し、偲ぶ中でもその末席、密かに書かれた一つの名を見て、ルーネは胸をちくりと痛める。今の歴史上、この石碑のその人物の名を刻むことは許されず、遠回しに刻まれた誰かの存在。"シア=シェルレーカーとその一人息子"と刻まれた言葉の真意を知る者は、人類の中で3人しかいない。
「……あなたとは、一度でもいいからお話してみたかった」
ガンマから、百獣皇アーヴェルから真相を聞いたエルアーティから、ルーネは彼の生い立ちを知ったのだ。"渦巻く血潮"の技術を生まれる前から施され、魔物の手に渡ってこの世に生を受けたアジダハーカの存在を、断じてルーネは見逃すことが出来なかった。人類の敵として、数々の人間を葬ってきた大悪とされる彼を、こうして戦死した者達の名と並べて刻むのは、本来ならば道理に反している。しかし、彼をそうして生まれさせ、人として生まれるはずであった命を、人類と敵対する孤独な存在たらしめたのもまた、ラエルカンの深き罪業なのだ。彼に与えられた名をそのまま刻むことは出来なくたって、その存在まで歴史から忘却していくことは、なおも蘇り生きていくラエルカンの地に許される傲慢ではない。
後輩であったシアの生み出した遺産は、皮肉にも魔物達に利用され、人類を脅かす大駒になってしまった。それでも彼は、確かに"人間"だったのだ。ラエルカンの歴史を語るにあたり、絶対に忘却してはならない"犠牲者"の存在は、今後も密かに、しかし確かにこの地に刻まれていくことになるだろう。
敵対していた者の死も悼む、ルーネの思想は美化しやすいものではない。人類にとっては背信行為であり、その自己満足は彼女を慕う者の心に陰りを落とすだろう。そうした自分の生き方、価値観が正しいものであるのかは、今のルーネにはわからない。きっと今後も、明確に不動の答えが出る日は訪れないだろう。そうして憎しみを失った境地に至れたからこそ、故郷を失ってなお立ち上がり、獄獣ディルエラを退けたルーネがいたのも真実だ。
数多くの者を偲ぶ石碑の前に立てば、亡き夫ニコラの顔が自ずと脳裏に蘇る。自分は正しかったのかと問いかけようとしても、故人の幻は何も応えてくれない。現世に取り残されたルーネに出来ることとは、故郷ラエルカンを守るために命と心を賭けた者達の想いを、叶え取り戻した現在を手放さず、傷ついた姿から蘇らせていくことだ。それが何よりの彼らに対する手向けであることは、賢者でなくとも誰もが正しく知る真理。
「ルーネせんせーい! ちょっとー!」
石碑の上天、空を見上げていたルーネを遠方から呼ぶ声。大きな廃屋の屋根が、数人がかりでも動かせず、力を貸して欲しいと訴えに来たガンマの声だ。砕いて小さくして運んでもいいが、ひと繋がりのままで動かせるなら、手間も時間も随分省けるだろう。そして、ガンマやクロードには出来なくたって、ルーネには可能なことだ。
「……はい、行きましょう」
亡き者を偲ぶ想いは胸にしまい込み、明日に向けて歩きだす。語るは易し、行なうは難し。それを叶える心根を持つ者が、一度失われた人類の誇りを、再び形にするため努めているのが今のラエルカンなのだ。盟友を失った騎士、帝国兵、魔法使い、傭兵、商人、誰もが二度と帰って来ないものを時に思い返し、それでも二本の足と腕で、これからの未来を切り拓いている。それらを束ねる者として、同じことが誰より早く出来る人物だからこそ、賢者ルーネも皇帝ドラージュも、最高指導者として信頼されている。
自分の数倍の大きさの屋根の端を握り、持ち上げ引きずるルーネの豪快さは、見慣れた復興者の目には景気の良い見世物だ。人は、大きな財産を失っても、手元にあるなけなしの希望を片手に生きていける。そんな人物が集ったラエルカンの地が息を吹き返すのも、きっとそう遠い未来ではないだろう。
「さあ、入っておいで」
同じ日、エレム王都では一つの歓迎会が開かれていた。第14小隊の故郷であるシリカの家、居間の入り口を開いたシリカに導かれ、たどたどしい眼差しで彼女は入ってくる。
迎え入れるユースとチータ、特にアルミナには馴れ親しんだ顔だ。第一声を心待ちにする、新しい仲間達の前で、若き騎士ははにかむように不器用な笑顔を作る。やっぱり、緊張しているようだ。
「……騎士、ルザニア=フォーシスです。今後とも、よろしくお願いします」
第14小隊に正式入隊した新しい仲間を、4人の拍手が温かく迎えてくれた。昨年末の短期移籍期間では、実力も容姿も将来性も華のあるルザニアは引っ張りだこだったのだが、最終的に彼女を短期間獲得したのは第19大隊。法騎士タムサートも、彼女をこの隊に定着させてやろうと意気込んでいたものだ。ルザニアを獲得できなかった指揮官騎士達、特に法騎士カリウスあたりにうらめしい目で見送られながら。
が、いよいよ今年に入ってルザニアが選んだのは、なんら先月とは脈絡のない第14小隊。元々ルザニアは、法騎士シリカ様に憧れて騎士団入りしたのだし、彼女の隊を選べるというなら、迷うことなどなかっただろう。ましてここには、敬愛する先輩のアルミナや、シリカの一番弟子の名に恥じぬ頼もしさを見せてくれたユースだっている。シリカに育てられ、こんなに尊敬できる人物になった二人を見れば、なおさらその後ろ姿を追いかけて、シリカのもとで教えを乞いたくなるっていう発想も、すごく普通。
それに、第19大隊でそんな未来をルザニアに勧めた裏切り者もいる。今年に入って所属する隊を選ばなくてはならない、ルザニアの相談を受けたプロンという友人は、シリカのもとでユースさん達と一緒に頑張るのがきっといい、と、隊長の願いと真逆の道筋を勧めたのだ。プロンはプロンでアルミナのこともすごく尊敬しているし、名高いシリカも、一度デートめいたことをしてユースの人の良さを知っているから、きっとルザニアにとってはそれがいいと確信したのだろう。
つくづくだが、カリウスもタムサートも、リクルートしたい指揮官を泣かせる部下を抱えたものである。アイゼンの真摯な相談のせいで、カリウスは第26中隊にユースを獲得し損ねた過去があるし、今年はタムサートがプロンによってルザニアを獲得し損ねているんだから。
「えぇと……不束者ですが、よろしくお願……」
「嫁入り前の挨拶じゃないんだから! もっと肩の力抜いて抜いて!」
席を立ち、緊張するルザニアに近付くと、後ろに回って両肩を握ってかくかく揺らすアルミナ。おたおたするルザニアが目を泳がせていると、後ろから抱きついたアルミナの胸が、ルザニアの背中を刺激する。肩の後ろから乗り出してくるアルミナの顔を向くと、すぐ近くで太陽のような笑顔を浮かべる彼女がいる。
「これから、一緒だね。よろしくっ」
「……はいっ」
ほぐれた笑顔でうなずくルザニアを、アルミナが両腕の中から解放すると、ルザニアは改めてユースに、チータにお辞儀する。ユースとアルミナ、チータは同い年。一つ年下であることを知るルザニアは、やっぱり礼儀正しい性分に見合って、行動ひとつひとつが丁寧だ。
「もう聞いていると思うけど、ユースを中心とした第14分隊は、3日後にはエルピア海を越え、西国への遠征に向かう。君にも一緒に来てもらうつもりでいたけど、ついてきてくれるかな?」
「はい、どこまでも」
「長く、祖国を離れることになる。それでもいい?」
「皆さんと一緒なら、どこに行くことも寂しくありません」
聖騎士となったシリカが確かめる言葉に、ルザニアははっきりとした眼差しと声で応えた。二十歳に満たぬ少女、故郷を離れて異国で長く暮らすのは、不安と寂しさがつきものだ。それに勝り、憧れの人たちと今後を歩ける希望を掲げたルザニアの心には、今や迷いの二文字はない。
「ありがとう。私達、第14小隊を家族だと思い、親しくして貰えると嬉しいよ」
「はいっ!」
元エレム王国第44小隊所属、今やその小隊の唯一の生き残りとなったルザニア。哀しき過去は、輝ける未来で上塗りしてくことが出来るのだ。人の心の傷を癒すのが時の流れなら、明るい未来や現在の日々は、その治癒を最高の形で促す特効薬。打ちのめされ、ようやく立ち上がって前を向くことが出来るようになった少女にとって、敬愛する人達と共に歩いていける今の日々は、未来を指し示す光として燦然と輝いている。
人生とは、分かれ道多き長い旅路。つらいこともあれば、それに等しい数だけ、幸せへの道も必ずある。




