第279話 ~シリカとユース① 湯っくりしていってね~
僅かにぬるつくこの湯のことを、チータはあまり好かないと言っていたが、ユースはかなり気に入っている。確かに最初は大丈夫かなと思ったけど、湯の中で掌で腕を撫ぜたりすると、滑りよく肌を撫でる自分の手の感触が心地よい。まるで極上の石鹸を溶かしたお湯で、体の汚れや疲れを洗い流しているかのようだ。
ほぼほぼ未開発のまま放置されている解放湯だが、広い温泉ところどころ、湯から頭を出す岩の数々の先には蛍懐石が備え付けられている。日は沈んだこの時間帯でも、無人の解放湯が夜闇に包まれないのはそのおかげ。点在する高原によって、全体がぼんやり照らされており、濁った湯の白さもわかりやすく視認できる。
「はぁ……あんまりくせになって、のぼせたりしないようにしなきゃ……」
寒空の下に頭だけ出して、冷える体を芯まで温めてくれるお湯。露天風呂は昨日も経験したが、やっぱり極楽という言葉がよく似合う。岸のそばは浅すぎて、座っても胸までしか浸からなかったので、ユースは広い温泉の真ん中近くに身を移したが、この辺りが一番心地よい。浅くなったり深くなったりの湯の底だが、突き出た岩槍のそばにいい段差があって、そこに座るとちょうど肩まで浸かれたのだ。ここ最高、というスポットに辿り着いたユースは、岩槍にもたれてほぅと息をついていた。
あまりにお湯が気持ちいいので、鼻まで浸かってこぽこぽと泡を作ったり、至福の時間をユースものんびり過ごしていたものだ。お湯の中で肩を撫で、お湯の感触を嗜んだりと、大きな動きも取らずにじっくりこの極楽を堪能する。そんな時、ふと、ちゃぷちゃぷという水音が近付いていたのだが、今の幸せでお腹いっぱいのユースは中々気付かない。
ん? と近付いてくる水音にユースが振り返ったのは、その音源がずいぶん近付いてからのことだった。振り返った先は湯気で満ちていて、ぼんやりとした何かがこちらに向かってくる、おぼろげな像しかない。この解放湯、他にも人が来てるんだな、という印象を抱いたところまでは、正しかったし何も問題なかった。
「い゛……っ!?」
その口が湯の中に浸かっていなかったら、そんな悲鳴が温泉に響き渡っていただろう。がぼりと口から漏れた、大泡の音しか鳴らなかったのは、ユースにとって幸いなことだったかもしれない。目の前からこちらに向かってくる何者か、それがまさかと思えた瞬間、ユースは素早くその身を逃がし、岩陰に隠れる。
長い金の髪を携えた、美しい体の曲線美を誇る誰かさんのシルエットには、思いっきり見覚えがあったのだ。なんであの人がここに、と、岩陰に背中を合わせて隠れたユースが、跳ね躍る心臓を抑えようとする中、その誰かさんは近場の岩に背中を預ける。さっきまでユースがしていたように、岩槍に背もたれに座り込み、肩まで湯に浸かるのだ。
「はぁ……」
心地よい湯に甘い息をつくシリカの声に、ユースは見ずとも相手の正体を確信する。何年も一緒にいたあの人の声、息遣いひとつでも聞き間違えるわけがない。解放湯の真ん中で一息ついたシリカのすぐそば、彼女に見つかっていないユースが、一人心臓をばくばく鳴らしている。
(や、やばい……これ、もし見つかったら……)
ユースはずるずると体を湯に沈め、どうしようかと全力で頭を回転させる。思わず隠れてしまったが、それはそれで余計に後ろめたく、まるで自分が意図的に覗きに来たような錯覚に陥る。当然そんなつもりはなくたって、これで見つかったら、すけべ心から潜んでいたんだろうと強く批難される予感がしてならない。
シリカの位置は、だいたい彼女の放つ水音が止まった場所で把握している。岩に隠れたユースの位置から、ちょっと顔を出せば確認できるだろう。なんとか彼女に見つからないよう、この場所から逃げなきゃと思ったユースは、そーっと岩から顔を出し、シリカの居場所を確認する。
(っ……!)
で、速攻で隠れた。やばい、あれは見ちゃいけない。岩に背中を預けたままのシリカが、幸せそうな表情で湯から腕を上げ、その掌で自分の腕を洗っていた。豊満なバストの上部が、胸まで使った湯面から顔を出し、丸裸のシリカを示唆する光景だけでも、ユースには刺激が強すぎる。いつだったか夏の海で、シリカの水着姿を見たこともあったけど、今の姿から受け取る刺激はその比ではない。
想い人の一糸纏わぬ姿を一瞬でも目にしてしまっただけで、ユースみたいな生真面目君を襲う罪悪感ってもの凄い。しかも、相手の許可を得ずに隠れた場所から見てしまったのだ。見つかったら怒られるとか、そんな生易しい恐怖ではない。もしも見つかろうものなら、本気であの人に軽蔑されてしまうんじゃないかという戦慄が、ユースの心臓をぎりぎりと締め付ける。
「…………?」
否応なしに荒くなる呼吸を、両手で口と鼻を覆うことで押さえつけるユースの後方。ざばりとシリカが立ち上がる水音がしたのは、ユースにとって最悪の出来事だ。ユースが慌てて岩陰に隠れた時、僅かに起きた水音や波紋にも、敏感に気付いた彼女がこちらに向かってくる。なんだろう今の音は、と、不審に対して物怖じもせず近付いて確かめる彼女の度胸が、今のユースには魚雷である。
ユースが隠れていた岩陰の裏まで辿り着き、目線を落とすシリカ。そこにユースの姿はなかった。確かにこの辺りから、さっき不審な音がしたのだけど。
「気のせいだったかな……?」
気のせいどころか、ユースはすぐそばにいた。白く濁った湯の底に、胸をひっつけるぐらいに潜って体全体を隠していたのだ。深さと濁り湯、蛍懐石に照らされた程度の薄暗さのおかげで、湯面の上からシリカに姿を視認されずに済んだが、別にこのピンチが去ったわけではない。
(ど、どうしよう……こっから、どうしたら……)
そりゃもう、見つかりたくなければ逃げるしかない。濁った湯の中では周りの光景を目で確かめることも出来ず、自分が脱衣した場所もどっちだかわからないが、ともかくここを離れるしかないのだ。素っ裸でのほふく前進、心臓を高鳴らせながらのユースが、どうか見つかりませんようにという想いで、湯の底を這いつくばる。
そのままシリカがじっとしていてくれれば嬉しかったのに、じゃぶじゃぶ歩く彼女の水音が、湯の底のユースの耳を刺激する。やっぱり何かいるんじゃないか、と、勘の鋭いシリカが、不審者の正体を確かめるべくうろついているのだ。湯の中のユースには、そういうやばさを痛感させる音だけが届けられる一方で、どこに彼女がいるのかわからないから困る。
恐怖に胸を詰まらせながら湯の底を這うユースだが、あられもない姿のシリカがそばにいることとか、自分も丸裸でその近くに居合わせていることとか、色んなことが心臓を刺激してくるのだ。ただの素もぐり以上に息が苦しくて仕方ない。普段のユースの肺活量なら、もっと長く潜っていられようはずだが、興奮の収まらない心臓と肺が悲鳴をあげ、窒息するから空気をよこせとユースに命令してくる。
見つかる見つからない以前に、このままいったら死ぬ。普通に死ぬ。一か八かで湯の中から、慌てぬ速度でゆっくり頭を出し、ユースが外の空気を吸い込んだ。ぶはっ、と大きな声を発して息を吸い込みたかったところだが、物音立てられないこの状況、努めて穏やかな肺運動で静かに息を吸う。
「ふぐ、っ……!?」
静かに荒い息のまま、今のシリカがどこにいるのか確かめる。ぐるりと後方を見たその時、すぐ近くに彼女はいたのだ。温泉に立ち、太ももまでを湯に沈めた彼女の後ろ姿。要するに、湯面の上は全部見えたのだ。
うなじや背中はまだいい。腰より下がダメ。絶対に相手の許可を得ずに見てはいけない、張りのあるシリカのお尻を見た瞬間、慌ててユースはもう一度湯の中に沈む。
ごめんなさいシリカさんそんなつもりじゃなかったんです、と、心の中で懺悔する暇もない。潜る直前、振り返りかけた彼女の姿がはっきり見えたのだ。目は合ってないと思うが、多分今のでシリカにも、そばに誰かがいることがはっきりわかっただろう。ざぶざぶと早足に、ユースのいる場所への歩み寄ってくるその音が、何よりの証拠である。
ユースも必死、見つかりたくない、捕まりたくない、嫌われたくない。水底を急いで這い、その場所から体を逃がしていく。今しがたまでユースのいた場所を、シリカが踏みしめるタイミングには間に合い、何もない湯の底を踏みしめたシリカが、周囲をきょろきょろと見渡している。シリカも女、全裸ですぐそばに何者かの気配がするこのシチュエーション、気が気でないのは当たり前。神経を研ぎ澄まし、何者かの気配を必死に感じ取ろうとしている。
湯の底を移動するユースの姿は、どうしたって彼女から見えず、それがユースの最後の綱。どこに逃げればいいのかわからないユースは、混乱する金魚のように湯の中を泳ぎ、行くべき先を見失っている。こんな状況で冷静に動けるユースだったら、それはそれで知能犯の才能があるんだろうけど、あいにく彼にはそういう才能がないらしく、必死に逃げるために動いている一方で、シリカからは大きく離れられていない。息の続く限り、かなりの距離を進んでいるつもりのユースだが、実際のところはそんなに。
真っ直ぐシリカから離れる方向に進んでいたつもりだったのに、白く濁ったお湯の向こう側、誰かの綺麗な足首が見えた瞬間、ユースの胸を締め付けた戦慄はただごとではない。なんで!? と、完全にパニックを起こす一歩手前。しかしぎりぎりの判断力で以って、進行方向を切り替えたユースは、今度こそシリカから離れる方向に向かって泳ぎ出す。とっても息が苦しい。死にそう。
(ん゛っ、が……!?)
直後、ユースの頭の中で特大の花火が散った。朦朧としかけた意識、後方シリカに偏った意識、そのせいで、濁った湯の向こう側にあった石槍に気付くのが遅れたのだ。頭から岩石に激突したユースは、同時に肺の中に残っていた、なけなしの空気を吐き出してしまう。これが完全に致命傷だった。
「ぶは、っ……!」
耐え切れなくなったユースは、頭を押さえたまま湯から顔を出した。あまりの頭へのダメージに、一瞬完全にシリカのことすら忘れてだ。鈍く痛む頭を抱え、ぜぇぜぇと息を乱すユースは、ちゃぷちゃぷと後ろから近付いてくる誰かさんに全く気が付いていない。
ぽん、と背中を叩かれたその時、ユースが凍りついたのは言うまでもない。ぎぎぎと首を動かして、後ろを振り向いたユースの前には、顔を真っ赤にした誰かさんがいる。頬を真っ赤に染め、ひくひくと笑ったように口の端を上げた彼女の顔からは、穏やかでない感情がわかりやすいほど溢れている。
「な、何を……してたのかな……? こんな所で……」
胸を片手で隠し、覗き魔をとっ捕まえた目で見下ろしてくる彼女の目を見て、ユースの心が完全に折れた。もう駄目、終わった、完全に最低野郎認識されたと思った。シリカの顔を見上げた目線を降ろせば、彼女の豊満な胸も視界の中心に捉えられるシチュエーション下、完全に心の砕けたユースの目は泳ぎもしない。
「し、シリカ……さ……」
じわ、と涙ぐみ始めるユースの目を見たら、悪意なんかなかったというのがやんわり伝わりもするのだ。いきなりのことで頭に血が昇り、ユースの肩を強く掴んでいたシリカも、ユースの反応を見て少し頭が冷えてしまうのだった。
「ああ、チータね……なるほど……」
ひとつの岩槍を挟んで、背中合わせの二人。ちゃんと説明しろ、と突きつけられ、涙ぐむような声で事情を説明したユースにより、シリカの中でも色々線が繋がった。この解放湯にシリカを導いたのはマグニスであり、あれはチータと悪意が似通う先輩だ。あいつらグルだったんだな、と容易に確信するまで、そこまで時間はかからない。
「シリカさん……俺、そんなつもりじゃ……」
「わかってるよ。お前は、そんな奴じゃないもんな」
優しい言葉を背中越しに伝えられ、ユースは別の意味で泣きそうだ。本気で見限られ、もう口も利いて貰えないことすら覚悟していた中、この言葉を向けてくれるシリカがどれだけ女神様に感じられたことか。もっともそれも、日々のユースが積み重ねてきた信用によるものが一番大きいのだけど。
「……で、な。ユース……その……」
静かな温泉、二人きり。お互い、丸裸の相手の姿を視界に入れないよう、背中を向け合う中、夜の秘湯で新しい話を切り出したのはシリカの方だ。
「……見た?」
ふぐっ、と息を詰まらせて、ユースが頭からぼふんと煙を出す。ほっとしたのも束の間、脳裏に記憶された禁断の像が、一気に鮮明に蘇る。残念ながら男の子、あの衝撃映像はそう簡単に、頭から綺麗に掃除できるものではない。
問う方のシリカも目線を落とし、口をつぐむようにもごもごして、返事を待ち続ける。ちら、ちらと背中を合わせた岩に目線を送る仕草は、ユースの答えが気になる態度の表れだ。
「み……っ、見て、ませんっ……」
この子はどうしてこんなに嘘をつくのが下手なんだろう、と、シリカも声色だけで痛感する。くすっと笑うシリカの声に、嘘を見抜かれたことを感じ取ったユースは、思わず小さく丸くなる。
「あ、あの……シリカさ……」
「帰ったら、チータとマグニスはしっかりとっちめてやることにしようか。お前も協力してくれるな?」
「あ……はいっ」
穏やかなシリカの声を聞き、ユースがちょっと冷静さを取り戻す。怒りの矛先を示されて、もちろん俺もあいつらに一言言ってやらなきゃ気が済まない、というのを、ユースが声で表現する。まあ、チータはユースに詰め寄られるぐらいで済むかもしれないが、シリカを甘言で誘ってここまで導いた主犯のマグニスは、後でシリカにめっためたにされるのであろう。勧善懲悪が確定した。
「そ、それじゃ俺、上がりますね……シリカさんはゆっくり……」
「あ……」
ざばぁ、と後方で立ち上がるユースの音を耳にして、シリカは思わず岩槍の向こう側のユースに振り返る。湯気の向こうに男の裸の姿が見え、慌てて前を向き直って顔を逸らすシリカ。早く脈打つ胸を抑えつつ、ばしゃばしゃとシリカから離れる方向へ歩きだすユース。
「ま、待て……ユース、ちょっと……」
本当なら、身を乗り出してユースの手を握ってでも引き止める積極性が、普段の彼女にはある。ユースの裸体、後ろ姿を目の前にして、目で追うことが出来ないシリカは、石槍に背を向けたまま震える声を放つだけ。だが、ちゃんとそれが耳に届いたユースが足を止めたので、彼女なりの努力は実を結んでいる。
「し、シリカさん……?」
「ちょっとだけ……ちょっとだけ、お話していかないか。ここなら、誰も見てないし……」
今、心臓の鼓動音が大きいのはシリカの方だ。一方ユースも、誰も見てないここが丁度いいとばかりに、話をしようと持ちかけてくるシリカに、再び胸が高鳴り始める。色恋沙汰に唐変木なユースといっても、心は思春期の少年のままだ。どきどきする胸、荒くなりそうな呼吸、それらにきゅうきゅう締め付けられつつも、立ち止まったユースがその場にゆっくり腰を降ろす。
「……そんな所じゃなくって」
もっとそばに、というシリカの声が、ユースを近くに引き寄せる。シリカと離れた場所に腰を降ろしていたユースが、振り向かないまま後ろにゆっくりと下がり、再び岩槍に背中をひっつける。小さな岩石ひとつを挟み、手を伸ばせば届く距離。高鳴る二人の胸は、その弾みで湯面に波紋を起こすんじゃなかというほど強い。
引き止めたはいいものの、シリカも何を話すのか決めていたわけではないのだ。どうして引き止め、もう少し話をしたいと言い出したのかと言えば、二人きりの時間が特別に感じられたというだけ。話の種も見つからず、しゃなりと座った太ももの間に差し込んだ両手をもじもじさせながら、シリカが口の端を絞っている。
「え、えっと……シリカさん……」
「……何?」
「ふ、二人でどこかに遊びに行こうって話、ありましたよね……なんかこう……今がそんな感じだなぁ、って……」
しばらく生じた沈黙。シリカが言葉に迷うなら、きっかけだけでも自分がと、緊張した口を動かすユース。どれだけ不得意なシチュエーションでも、なるべく自分から行動を起こそうとするユースの前向きさは、ずっとシリカが見てきた彼の生き様そのままだ。
「そう、だな……ふ、二人きり、だし……」
「で、ですよね……二人だけ、ですしね……」
片腕引き上げて、自分の胸をぎゅうっと押し抱くシリカ。ああもう落ち着けこの心臓、そうだ二人きりだ、話したいことがあるんだろうと、自分に何度も言い聞かせる。自分の気持ちにはもう気付いている。それを口にする勇気ぐらい、もっと怖い魔物達に立ち向かっていた時のことを思えば、振り絞れるはずだとシリカも自分を囃し立てている。
「そ、その、シリカさん……こんなこと言うと、変に思われるかもしれないけど……」
心の準備を整えるより早く、ユースが先に言葉を放つので、シリカも出鼻を挫かれてしまう。それによって、自分発信の言葉を先送りにしてしまうのは、彼女の弱さでもあるのだけど。
「俺、シリカさんと……シリカさんと二人だけって、いうの……あんまり嫌じゃないし……」
まずい、これはかなりまずい。何かを言おうとしていたシリカの心臓が、予期せぬ嬉しい言葉を期待して、冗談じゃない速度で高鳴り始める。胸が張り裂けそう、という言葉の使い方が間違っているけど、本当に胸の高鳴りで息苦しくなってきた。
「き、機会があったら、また……こういうのも、したいなって……あっ、いや、そのっ……! こ、こんな風に一緒にお風呂に入りたいとか、そういうのじゃ……」
誤解されたくないユースの慌てふためく後半の弁解も、殆どシリカの耳には届いていない。都合が合うなら、また二人きりになれたら嬉しいと言ってくれるユースの言葉に、シリカの胸がきゅんきゅん締め付けられる。ずっと弟のように可愛がってきたユースの言葉、それにここまで胸の奥を熱くしてくれる現実を前にして、シリカもぐいっと口の中のものを飲み込む。
やっぱり、この想いは本物だ。元々可愛い後輩で、好きな人間ではあったのだ。その普通の、好きを、ずっと強くした感情が、間違いなく自分の中にある。うつむき、背中を丸め、胸をぎゅうっと押さえたまま、肺の奥に詰まった空気を鼻で深く溜め息にするシリカ。彼の胸に詰まった覚悟が、その行動を皮切りに、外界に飛び立とうとしている。
「アルミナから……聞いたんだけど……」
「は、はいっ?」
長く続いた弁明を遮るように、後ろからシリカが放つ声。裏返った声で、丸まった体を伸ばすユースの後ろでは、顔を真っ赤にしたシリカが唇を震わせている。
「ら、ラエルカンで……お前、言ってたらしいな……」
「な、何がです?」
「お……」
シリカの言葉がぴたりと止まる。あれが決定打だったのだ。獄獣ディルエラに打ちのめされ、立ち上がることも困難であった自分のもとへ、駆けつけ救ってくれたユースのことを、あんなにも頼もしく感じたことはなかった。戦いを終え、やがて医療所で目が覚めた時、そばで力強く戦い続けてくれたユースを思い出すたび、胸がずきずきしていたところに。
「俺だって男だ、って……シリカさんを、守るんだ、って……」
耳まで真っ赤になって、ユースが息を詰まらせる。ああ言った、確かに言った。あの時は必死で、シリカを助けに行きたい想いから、思わず案じてくれるアルミナまで振り払って。なんでシリカさんがそれを知っているんだって。ああそうか、あいつか、って。
(あ……っ、アルミナあっ……!)
恥ずかしさで消えてしまいたい想いを、必死に親友を批難する想いで上書きし、ユースが精神力をキープする。シリカに知られた、あんな言葉を。その一事でとっくにもう、ユースは頭をかきむしってうずくまりたい想いでいっぱいだ。ほんとに今ここでそれをやったら、湯に沈んで溺れちゃうのだけど。
「そ、それって……どういう意味、なのかなあって……」
違う違う違う、そういう誘導尋問めいたことをしたいんじゃない。自分の気持ちはわかってるんだから、相手に問う前に自分から胸の内を開くのが筋だろう。必死で自分に言い聞かせながらも、大事な一歩を踏み出すことが出来ないシリカの臆病な一面が、本人も嫌になるぐらいにじみ出ている。
「ユースは、その……私のことは……?」
だから、そうじゃなくって。体が、口が、言うことを利かないなんてシリカも初めてだ。本当の想いを相手に伝えて、拒絶されることが無意識に怖すぎて、相手の気持ちを先に確かめたくなる。ずるいことだってわかっているのに、自分発信で本核に手をかけることが出来ない。
「お、俺は……その、っ……」
ぎりりと歯をくいしばり、自己嫌悪めいた感情で胸中を満たすシリカ。そこへ帰ってきたユースの第一声は、シリカの雑念を吹き飛ばし、聴力すべてをユースの言葉を聞くために傾ける。
聞きたいような、聞きたくないような。ユースが決定的な言葉を吐くまでの、たった3秒の沈黙が、シリカにとっては何十秒にも感じられるほど長く感じた。
「シリカさんのこと……好き、ですよ……?」
たった二人だけの世界。少年だった男が発した言葉は、岩槍越しに法騎士の胸を貫いた。




