第272話 ~平和の真価~
ある日の深夜、マグニスが大声で叫びながら、第14小隊の家の窓から飛び出した。夜中の王都に響いたヒャッホーイという叫び声には、夜更かししていた子供たちも、あるいは大人でさえもびびっただろう。謹慎解除の日付を迎えた瞬間、朝まで待ちきれずに遊びに行くバカ野郎の咆哮に起こされたシリカは、最悪の気分で二度寝するはめになった。行動制限をかけられる謹慎期間中、賭場や色町に通えなかったのがマグニスにとってストレスだったのはわかるが、いくら何でもせめて朝まで待てと。
結局その日、案の定朝にも帰ってこないあたり、色町で女でも捕まえてどっかの宿ででも一晩過ごしているのだろうと容易に想像できた。毎日ちゃんと8人ぶんの朝食を作ってきたシリカも、あんな奴知るかとこの日は7人ぶんしか朝食を作らなかったりで、呆れているのが態度に出ていてわかりやすい。謹慎解除の朝ぐらいは、シリカも普段は厳しくあたってきたぶん、ちょっと甘く言葉を向けようとも思っていたのに。窮屈だったぶん、今日ぐらいはちょっと羽目をはずしてきてもいいよ、的な。当の誰かさんが先走って出て行ったせいで、せっかく優しくしてやるタイミングすら飛んでいったわけだが。
何はともあれ、長い長い謹慎期間から解放され、好きに動けるようになった第14小隊。年が明けるまでは、数々の戦役における功績も踏まえ、第14小隊には休日が与えられるとも約束されている。約半月と少しの間、仕事や戦から解放された第14小隊の面々が、好きに動いていい数日があるわけだ。
里帰りする者もいれば、遊びに行く者もいる。騎士や傭兵の身分を忘れ、やがて迎える平日のその日まで、第14小隊が羽を伸ばせる日々がようやく訪れた。
謹慎が解除されれば、シリカが真っ先に行こうとしていた場所がある。エレム王都から馬に乗り、遥か東方の地までまっしぐらだ。シリカとユース、アルミナとキャルの4人を乗せた複数の馬は、まっすぐの東向きの旅路よりも僅かに北向きに斜行し、やがて王都から遠い田舎村テネメールに差しかかる。里帰りを望んでいたユースがここで離脱し、残った3人はそのまま東へ直行だ。ラエルカン地方を僅かに横断し、北上すればルオスの領土内に突入、さらに進み続けたその先には、やがて地平線の先に大森林の入り口が見えてくる。
魔王討伐を果たしたシリカにとって、何より先んじて礼を述べたかった存在は、その先にいる。大森林アルボルの手前、小さな集落に馬を預けて森に入っていくシリカ。それに同行するアルミナとキャルにも、同じ想いを抱く対象がここにいる。やがて大森林アルボルの一角、大精霊にお会いする際によく使われる、小さな泉に辿り着く頃には、朝からの長い旅路で日が既に傾きかけていた時間帯である。
「――大精霊バーダント様、いらっしゃいますか?」
本来大精霊にお会いする際には、特殊な道具が必要とされる。だが、魔王を討伐したシリカから離れ、大森林アルボルに帰る直前のバーダントは、やがていつか会いに来る際には、一度だけそういう儀式も抜きにして、呼び声に応じましょうと約束してくれていた。大精霊に会うための宝具を管理しているのは、ルオス在住の勇者ジャービルだとか、ダニーム在住の賢者エルアーティとか、お偉いさんばかりなのだ。それらをわざわざお借りしに行く手間があっては、せっかくの再会にも面倒が増えるばかりである。
約束の言葉を信じ、泉の前で声を発したシリカの目の前、多くの木の葉が水面の上に集まり始める。人の形を包むようにな形に集まった多量の葉が、一斉に上空へ飛散すれば、そこに現れたのは大精霊バーダントの姿。相変わらず、美しいプロポーションを絵に描いたような体で扇情的な服装、綺麗な挑発に絶世の美女と言えようお顔立ちで、女性であるシリカ達でさえ目の前にした瞬間は、目が離せなくなるようなお姿だ。
「はぁい、お久しぶり! 会いたかったわ!」
開口一番からすごく嬉しそうな顔で、ふわりと浮いた体をシリカに近付け、両手を差し出してくるバーダント。少し高い位置から差し出された両手を、シリカも両手で優しく握り返す。再会を心から喜び、見上げる目の前で嬉しそうに笑うバーダントの表情は、シリカも心まで溶かされそうなほど可愛らしい。
「ねえねえバーダント様、ベラドンナは?」
「うふふ、そう焦らないの。すぐに呼んであげるわ」
お久しぶりですとかしこまったご挨拶を交わしてすぐ、我慢できずに会いたい妖精の名を口にするアルミナの無邪気な姿も、バーダントから見て可愛いものだ。シリカの両手から離れ、笑顔のままで目を閉じたバーダントが手を広げて念じると、どこからともなく吹く風が、アルミナのすぐ目の前を中心に渦巻く。風はいくつもの大きな蒼い花弁を乗せて巻き、やがて集まってきた蒼い花弁はひとつの花のつぼみを作り出す。見覚えのある、大きな蒼い花が目の前に現れた光景には、アルミナも待ち人との再会を予感して胸が躍る。
「――ぷはっ!」
花弁の多い蓮のような蒼い花が、ばさりと花びらを広げた中から、アルミナと同じぐらいの体格である妖精が姿を現した。腰から下を花にうずめ、ほとんど裸体の上半身を、胸だけ花を編んで隠したような姿が、相変わらず大精霊と同じで扇情的だ。
「やっほー、ベラドンナ! ご無沙汰!」
「アルミナっ!」
妖精ベラドンナが目を開くのと、再会を喜ぶアルミナが声を発したのがほぼ同時。いてもたってもいられないという勢いで、体を前のめりにしてアルミナに抱きつくベラドンナは、まるで久しぶりに再会した姉に甘える妹のようだ。下半身をうずめたままの大きな花を、体を傾けたことで自分の後方に押し出したのは、大き過ぎる花弁がアルミナに抱きつくにあたって邪魔だったからだろう。
「わ、わ、ちょっと……」
「会いたかったよー、アルミナー!」
自分の胸をアルミナの胸に押し付けるほど密着し、頬ずりしてくるベラドンナの愛情表現は、アルミナも戸惑うぐらいに熱烈だ。これだけ愛されるとアルミナもくすぐったく、元々可愛げのあるベラドンナが余計に可愛く感じられ、ベラドンナの頭の後ろに腕を回し、抱きしめ返さずいられない。こういう包容力が、きっと彼女を目下の者から愛される彼女にするのかもしれない。
が、ベラドンナの愛情表現はそれだけでは全然満足していないようだ。アルミナの首元にすり寄せていた頬を引き、アルミナと胸を離した途端、いきなりアルミナの脇の下に両手を差し込み、ひょいっとアルミナの体を持ち上げる。いきなり浮かされてアルミナが驚く矢先、ベラドンナは抱えアルミナを、自分の下半身がうずまっている花の中心に立たせる。それと同時に花弁がうごめくと、ずぶずぶと沼のようにアルミナの脚を足先から取り込んでいく。
「あ、あの、ベラドンナ?」
「ああんもう、幸せっ! アルミナの魂、本当にあったかい!」
捕獲された。すっかり腰まで花に取り込まれ、下腹部を重ね合わせるような距離感で抱きしめられ、首筋に頬をすり寄せてくるベラドンナに、二重の意味でアルミナもぞわぞわする。さらにここからアルミナの危機感を煽るのは、自分を捕えた蒼い花が、ゆっくりと花びらを閉じ始める流れである。流石のアルミナもこれには大慌て。
「んふふ、アルミナっ。もっと、もっと♪」
「やっ、ちょーっ!? 食われるー!?」
そのまま大きな花弁が閉じ、つぼみの形にまとまった蒼い花に、アルミナの体が丸呑みにされてしまった。大丈夫なんですかアレ、とシリカが、閉じた花を指差してバーダントに目線で問いかけるが、くすくす笑って応じるバーダントの態度からして、別にベラドンナがアルミナに危害を加えるつもりというわけではないようだ。
ベラドンナはロートスの樹という、森に迷い込んだ魂を、アルボルに帰化させる魔樹の妖精だ。魂が現世を離れる匂いを感じ取り、以前は今に悲観したキャルの魂を嗅ぎ付け、彼女を森に帰化させようとしたのがベラドンナだった。つまりベラドンナは、他者の魂が抱く匂いに敏感で、アルミナのように今を充実して生きる魂の輝きにも敏感なのだ。ロートスの樹の妖精としての使命とは別に、今の人生を幸せに謳歌する生き物の魂の温かみは、ベラドンナにとっても心地よく、アルミナを抱きしめる形で彼女の魂の温もりを満喫しているという構図である。妖精さんは、人間とは違った意味で、肌を介して魂を愛でるのがお好きな様子。
それはさておき、花の中に閉じ込められてしまったアルミナ。花弁に包まれた狭い空間は、甘い香りで満たされており、それだけでも頭がふんわりとろけそうなのに、首筋に頬ずりするベラドンナの鼻息が、肩をくすぐってくるからたまらない。身動きとりようもないアルミナの体にベラドンナの腕が巻き付き、股下にベラドンナの太ももを潜り込んできて、柔らかいベラドンナの肌がアルミナの全身を刺激する。何がやばいって、油断したら口から変な声が漏れてきそうなぐらい、全身をくすぐるベラドンナの手つきと柔肌の猛攻が激しい。
「ね、ね、アルミナ、いいでしょ?」
「何がいいのよー!? ひゃっ、ちょ……やめ、っ……!」
中で必死に抵抗しようとするアルミナの動きに合わせ、二人の愛の巣になった大きな花が、ゆさゆさ揺れている。体じゅうのいろんな所を指先と肌でなぞられ、堪えきれなくなったアルミナの、くぐもった嬌声が漏れてくるまで時間はかからなかった。外から見たら、中でどんなことが行なわれているのか、知りたいような知ったらアルミナが気の毒なような。
「あはは、ベラドンナったら――あっ、ほら。あの子も来たわよ」
なんだかどきどきしながら、アルミナの捕えられた蒼い花を眺めていたキャルの肩を、ふよりと近付いたバーダントがぽんと叩く。食い入るように蒼い花を見ていたキャルがはっとして振り向くと、振り向いた先のバーダントの後方から、大きな何かがこっちに走ってくる。
(久しぶりだな、恩人よ)
「マナガルムさんっ……!」
目の前で立ち止まり、腰を降ろして顔を近づけてくれたマナガルムの鼻先に、キャルも頬をすり寄せて再会の嬉しさを表現する。巨大な狼、鋭い牙、その大きな獣の顔を間近に見れば、普通は慄きもしようはずのマナガルムに、キャルは恐れどころか慈母を前にしたように安らいだ笑顔だ。凶獣と呼んでも差し支えのない、魔界アルボルで長く生存してきた強き魔物が、口の端を上げて優しく微笑んでいる表情は、そうそう見られるものではないだろう。
蒼い花の中で喘ぎ声を漏らしながら、次第に抵抗する力も失ったアルミナが、内側から花を揺らすことさえ出来なくなったことなんて、マナガルムのことで頭がいっぱいのキャルは意識もしていない。客観的にアルミナとキャルの有り様を等しく眺めるシリカだけが、これが普段の行いの差なのかななんて考えて苦笑いを浮かべていた。が、そんなキャルもちょっとピンチ。
「はわっ!? ちょ、ちょっと……」
(私の子供達もあなたには会いたがっていたよ。手荒な歓迎だが受け取ってくれ)
マナガルムの後ろから追いついてきた、大犬ほどのマナガルムの子供達が、こぞってキャルに群がってくる。マナガルムも屈強種の割には子沢山のようで、5匹の子マナガルムがキャルの体を押し倒す形だ。キャルに大森林アルボルで保護された一匹をはじめ、末っ子を優しく介抱しようとしてくれた人間の女の子に、マナガルムの子供達が熱烈に迫ってくる。草むらの上に倒されたキャルの全身に鼻をすり寄せ、我先にとキャルの顔を舐めようとしてくる五匹に、キャルも戸惑い身動きがとれない。
「あはは、くすぐったいよぉ……! ちょっ、離れ……マナガルムさんも見てないで……」
(恩人が喜んでくれているようで、何よりだ)
なんだか5匹の野犬に女の子が襲われているかのような光景だが、愛される実感にはキャルも幸せそうに笑うばかり。上機嫌でキャルに群がる子供達と、それを受け入れ喜ぶキャルの姿を眺め、マナガルムも満足げな声で高みの見物だ。シリカも見ていて、楽しそうなキャルの姿には胸が温かくなる。
微笑ましく魔物達とじゃれ合うキャルの横で、蒼い花がゆっくりと花びらを開く。優しい手つきでアルミナを抱きしめるベラドンナ、両手で股下を必死で隠したまま、開きっぱなしの口で上天を仰いでぐったりしたアルミナ。満足した想いを開花に示したベラドンナが、密着した胸をアルミナから離した瞬間、ふらりと後方にアルミナが傾いたことからも、今のアルミナは完全に骨抜きにされている。
はじめ花の中にアルミナを招き入れた時のように、彼女の脇に両手を差し込んだベラドンナがアルミナの体を持ち上げ、草の茂る地面に優しく降ろす。立ったままでいることも出来ず、腰が抜けたようにその場に座り込むアルミナは、紅潮した頬と乱れた呼吸を繰り返しながら、両手で胸とお腹を隠すようにうずくまってしまった。何か大事なものを取られてしまった女の子の顔である。
「ああ、きもちよかった……アルミナ、またやろうねっ♪」
「お、お願いだから、これっきりにして……」
屈服させられたかのようなとろけた目で、力なくベラドンナを見上げたアルミナの声も、今のベラドンナには届いているんだか届いていないんだか。両手を頬に沿え、幸せいっぱいの顔で頭を振るベラドンナの悦っぷりを鑑みるに、やっぱりこれは聞いちゃいないんだろうなと実にわかりやすい。アルボル帰り、アルミナがキャルの体をおもちゃにしていたというのをユースに聞いていたシリカも、因果応報ってあるんだなぁと思う。
「さあさ、森のみんなも私の友人達を歓迎するわ! 今日は楽しんで帰ってね!」
熱愛歓迎を演出したバーダントが胸の前で掌を鳴らすと、草陰から小動物たちが集まってきて、シリカの前に群がってくる。たくさんの動物に急に集まってこられると、無性に警戒したくなってしまいがちなものだが、シリカがそうならないぐらい、それぞれの動物から感じられる気質は、敵意や攻撃性ではなく歓迎の一念だ。
小さなリスが樹上からシリカの肩に飛び乗り、シリカの頬に頭をすり寄せてくる。くすぐったさにシリカが片目を閉じる上天、鳥たちが歌声のように鳴き声を交錯させ、兎たちがシリカを足元から見上げてくる。可愛らしく首を傾ける兎たちの仕草には、実は可愛いものも好きなシリカの胸をきゅんきゅんさせてくれる。思わずその場にしゃがみ込み、兎の頭を撫でてあげれば、嬉しそうにくつくつ震えるその姿が、たまらなくシリカの胸を温かくしてくれる。
あの日シリカ達を迎え撃ったギガントスやグレイマーダーも現れて、3人を快く迎え、森の美しい名所を案内してくれたりした。基本的には捕食対象でしかない人間達のことも、大精霊にもてなせと言われれば、歓迎して受け入れてくれるようだ。危害さえ加えてこないのであれば、アルボルの魔物達にとって人間は、特に憎しみを持つ対象ではない。
「あっ、こらこらグレイマーダー、あんたは人間に触っちゃダメよ。加減してるつもりでも、あんたケガさせかねないから」
「むぅ……脆い人間というものは面倒だな……」
「アルミナ、こっちこっち! プレシオが背中に乗せて、河下りさせてくれるってさ!」
魔物達と戯れ、歓迎されるなんてなかなか出来る経験ではない。戦場とは違う心持ちで、ゆっくり歩くマナガルムの背上で森の風景を見回すキャルも楽しかっただろう。再会してすぐの時は熱烈すぎる愛に溶かされたアルミナだが、並んで歩くベラドンナとの会話は、時も忘れるほどに弾んでいた。奇縁の末に仲をつないだ、アルミナとベラドンナ、キャルとマナガルムの親子。それらの姿を後方で見守る、シリカとバーダントも時々顔を見合わせ、幸せなこの時間を心一杯楽しんでいる想いを交換する。
出会ったあの頃は敵対する立場とさえ言え、次には過酷な戦場で生死を懸けつつ力を合わせた仲。すべてが終わった今となっては、どれももう、いい思い出であったと言えるだろう。あなた達に出会えてよかった、と、言葉にせずとも表情にすべてが表れているシリカに対し、同じ想いだと笑顔だけで伝え返してくれる大精霊。シリカとバーダントの間に芽生えた確かな絆は、そのやりとり一つで二人の魂を温もりに満たしてくれる。
再会できれば、まず第一番にいくつもの戦の中で助けてくれた恩を、感謝の言葉で表そうとしていたシリカ。そんなシリカにその言葉を吐く暇も与えず、ただこの時間を楽しめる空気を作ったバーダントの、流れるような段取りも見事なものだろう。堅苦しいことは抜きにして、ただこの安寧なる時間を満喫する。シリカ達がそう出来るよう、流麗に取り計らったバーダントの心遣いが、戦いの日々から介抱された彼女達に、優しい安息をもたらしてくれていた。
「それにしても俺、やがて勇者様になるお前さんと一緒に戦っていたんだよなぁ」
「勇者様とか……あ、あんまりそういう呼び方は……」
テネメールの村の酒場で、ごつい男に勇者様と呼ばれ、ユースは顔を赤くして縮こまっている。魔王討伐から何ヶ月も経ち、色んな人に勇者様勇者様と呼ばれてきたユースだが、未だにその呼び方には慣れないようだ。ユースの中で勇者様と言えば、人間的にも騎士としてもあまりにもまぶしい、ベルセリウスのような人のための称号として記憶しているから、根本的にその呼び方は自分にとって畏れ多いのだ。
ごつい男というのは、主にエレム王国第11大隊と共に行動してきた傭兵ケルガーで、ラエルカン戦役の市街戦にてユースと並んで戦った人物だ。各地の復興が進められる世相の中にあり、ここテネメールもしばらくかけて立て直されてきたが、やはり一度魔物達に荒らされた爪跡は深く、今も多くの人々が集って村の復興に努めている。そんな中、実はここテネメールの生まれであったというケルガーも、自ら志願してテネメールの村の復興に携わってきていた。あの時互いの生まれも知らないまま共闘していた二人が、こうして不意に再会した今日、同郷と知って酒を酌み交わすのだから、世間とは狭いものである。
「魔王を倒した勇者様となればモテるだろ。彼女の一人ぐらい出来たんじゃないのか?」
「そんなの全然……っていうか、またこの話題、そろそろ嫌だなぁ」
ユースの左のケルガーとは逆側、右側に座る商人オズニーグも、ここテネメールに生まれた人物だ。今は魔法都市ダニームに店を構える立場だが、故郷がこういう有り様ともなれば、週一の休みを週二の連休にして、テネメール復興に携わるために帰郷することもある。いかんせん、復興というものには金がかかるものであり、こうして経済界を主戦場にする商人が協力してくれると、村としても非常に助かるのだ。週に二日テネメールに訪れるオズニーグと、今日里帰りしたユースが顔を合わせられたのは、奇しくも巡り合わせがよかった。
そりゃああれだけのことをやってのけたユース、以前よりも黄色い声を受けることは多くなった。しかし騎士団の養成所に通ったり、第14小隊のみんなとの時間を楽しんだり、最も多くは自主鍛錬に励んだり、意外に当人の行動は殆どが内向きだ。間違いなくモテ期が訪れている今だというのに、勿体ない話である。里帰りするや否や、母のナイアにもそんな話ばっかりされ、逃げるように村巡りに繰り出したユースだったけど、親からすればそんな息子が心配になっても当たり前ではなかろうか。
「傭兵の俺と違って、お前さんは稼ぎも安定した騎士団員だろ。安定した収入をきっちり貯えていける立場だし、女も安心して声をかけられる立場だろうしな」
「今回のことで昇格も見込めるんだろう? 給料が上がれば、いつかの結婚式に向けての金も稼ぎやすいな」
まったく大人ってやつは、どうしてこうカネ金した話が好きなのだろうか。まあ、ようやく商人として安定した稼ぎを得てから、妻を幸せに出来る自信を確立できたオズニーグや、女房や一人息子を養うために傭兵業を営み続けているケルガー、金に対する現実視が強いのは仕方ない。金を稼げれば必ずしも立派な男だと言うわけではないが、世帯を持つ身として稼げる男でい続けることに、失えぬ執着というのは必ず沸く。嫁さんを愛しているなら、特にだ。
「なあ騎士様よ、魔王を討ち果たしたこいつのことだから、飛び級昇格ぐらいはあるんだろ?」
「どうでしょうねぇ……騎士団は原則として、飛び級の昇格は認めない方針でいますから」
酒場の席を囲んでいるのは4人。ユースの向かいに座っているのは、チータが第14小隊してからの始めての任務、海辺の魔物退治に臨んだ時、ユース達と共闘した小隊の隊長だ。テネメールの村の復興に手を貸すよう、彼も小隊ごとこの村に派遣された身なのだが、まさかあの時一緒に戦った年下のユースが、ここまでの大物になるなんて、ノーマーだって夢にも思わなかっただろう。騎士昇格試験でユースと直接対決したこともあるから、ユースの腕が非凡であることぐらいはわかっていたけど、まさかここまでとは流石に。
本当に、ここ一年でユースが大化けしたことは、去年ぐらいの露骨に未熟だった頃の彼を知る者達には、驚きが隠せないものである。トネムの都の自警団を纏める、アーティスという男も、同じようなことを言っていたものだ。乗馬が下手な、法騎士様の後ろでおどおどしたユースの姿しか知らない人達からすれば、こんな勇者に当時気付けるわけがないという話である。
「やっぱり分隊すら率いる機会が今まで少なく、指揮能力を疑問視されているみたいでしてね。なんとかその辺りを示すことが出来れば、手腕も顧みて昇格は間違いないでしょうけど」
「こまけぇこと言うよなぁ騎士団も。いいじゃねえかそんなの」
「ですよなぁ。魔王ぶっ倒して昇格すらナシじゃ、俺が騎士だったらやる気なくしてますぜ」
騎士じゃない連中は好き勝手言ってくれるものだ。まあ、それが一般的世論と言えばそれも正解だけど。一方でノーマーも、ユースを昇格させない騎士団の方針にはいくらか理解を示しているらしく、だからこそ二人の意見に単にはうなずかず、腕を組んで難しい顔をしている。
そもそもユースと近しい関わりのない、ノーマーがそんなゴシップを捕まえて耳にしている時点で、ユースが昇格しない事実を風の噂で聞いて、何故だと気になって情報を集めた証拠である。騎士団側の主張を聞かず、立場の変わらぬユースという話だけ聞いたら、ノーマーからしてもそれはおかしいんじゃないかと感じるということだ。
「こういう場合の騎士団の常套手段としては、恐らくユーステット君に分隊を率いる任務を渡し、指揮能力の証明を促すという形だと思うんですよ。現時点でも騎士団では、ユーステット君に上の階級相当の昇給を認める方針のようですし、階級が伴った方が騎士団としても歓迎でしょうからね」
「おー、給料は上がるのか。やったじゃねえかユース」
「当然っちゃ当然だろうけどな」
お金の話はもういいんですけど。そうわざわざ口にせず、複雑な顔を見せるユースの口数が少ないのは、単に周りが年上ばかりで、縦社会育ちゆえに口が周りにくくなっているためだ。別に、カネめいた生臭い話が好きじゃなく黙り込んでしまっている、とか、そういうわけではない。
「ユーステット君の上司は法騎士シリカ様だから……法騎士ダイアン様や聖騎士ナトーム様ということになるのかな?」
「そうですね」
「じゃあ、近いうちにどちらかに呼び出されることになると思うよ。お二人のことだから、こういうことにはしっかり考えてくれているはずだからね。細かい方針も、言伝じゃなく直接してくれると思う」
「……だったら、法騎士ダイアン様がいいな」
「ははは、わかるよ。ナトーム様は怖いからね」
短期隊長就任期間の際、報告書を届けるために一対一でナトームに会ったが、そりゃもうプレッシャーが凄い人だった印象は強い。あれと真っ向から向き合って、あれこれ言われるのは無性に怖いし、ノーマーも例の聖騎士様の怖さには強く共感してくれているようだ。
「とりあえずユースの昇給は確実なようなので」
「ここはユース持ちだな」
「あの?」
酒代を奢れってか。金なら持ってるだろお前、と、遥か年下のユースに場代をたかってくるオッサンどもに、ユースも素早い抗議を差し込む。もちろん冗談なのは明白だが。
「勇者様~、ちょっといいとこ見せてくだせえや~」
「可愛い小市民がおねだりしてるんですぜ~」
「可愛くないです酒臭いです、ちょっと離れて下さい」
揉み手ですり寄る金の亡者たちに、ユースも笑いながら応じている。勇者様と呼ばれるのはくすぐったいが、その称号をダシにして財布を節約しようとする冗談には、冷たくあしらうのが正しい突っ込みだ。堅いこと言うなよ~、と、楽しくしつこく肩に手を回してくる大人どもを、ひょいひょいかわすユースの動きがスマートだ。流石戦い慣れた騎士、回避能力が高い。
「若い子が上り詰めていく姿を見てると焦るなぁ。僕も頑張っていかねばね」
上騎士ノーマーも、出世は遠い身ながら一人の男として、階段を上って生きたい立場である。年下のユースの昇格が近いものと予感され、やがては自分の階級も追い抜いていくのではないかとなれば、ノーマーだってうかうかとはしていられまい。自分は魔王を討伐できるような器でなかったとわかっているし、別にユースと張り合う発想ではないのだが、やはり年下が出世していくであろう姿を目の前にして、自分も一念発起ぐらいでないと駄目だろう。曲がりなりにも上騎士の地位に立つノーマー、男としてそうした前向きな思想を自然に抱けるほどには、彼も一人の男である。
ユースが一瞬何かを想い巡らせ、その隙を突いてケルガーとオズニーグが、両サイドからユースの肩に腕を回した。さあ商人様、交渉の時間ですぜと煽るケルガーに、任せて下さいと笑うオズニーグ。本気で実現させるつもりはない、ユースから、わかりました負けましたよ奢りますよという言葉を引き出すための作戦会議だ。目の前で、そんな会話をこれ見よがしにする二人にはユースも、あなた達大人でしょ恥ずかしくないんですかと真っ当な突っ込みを返して笑うだけだ。
どんな風に攻めればユースは根負けするかな、と冗談会議を繰り広げるケルガーとオズニーグに挟まれ、酒を口にするユース。昇格なんて強く意識してこなかったけど、ノーマーの言葉を聞いて、少し考えてしまう。昇格していくことが出来るなら、いつかは肩書きだけでも、シリカに追いつくことが出来るんじゃないかって。
今でも尊敬するばかりで、追いつきたいけど届かない法騎士シリカ様だけど、どんな形ででもシリカの隣に並べれば嬉しい自覚があるユースには、階級というものについて考えた時、ちょっとした目標も出来てくる。
やがて法騎士の立場に自分が手をかけられるなら、それもある意味ではシリカに追いつくことが出来たと言える日になるんじゃないかなって。
「ユース、どうした?」
「あ、いや……」
大人二人でおふざけの会話を嗜んでいたケルガー達も、神妙な顔で考え事に耽りかけたユースの姿を見たら、冗談を打ち切って普通に声をかけてくれる。やっぱり根はしっかりした人達だ。だからユースも、酒に任せた行き当たりばったりの会話にも、心から楽しんだ上で相槌を打つことが出来る。つまらない人間と酒の席をともにしても退屈なだけで、ケルガーやオズニーグ、ノーマーはそういう人物ではない。
「……俺もいつか、法騎士様って呼ばれてもいい人に、なれるのかなって」
誉れ高い勇騎士の称号などより、法騎士という称号を夢にした口を利くユースの言葉が、シリカを意識したものであるのは明白だ。シリカと彼の絆を知らないケルガー達に、そこまでのことを読み取ることは出来なかったが、シンプルに今の言葉を受け取った返答を返すのは簡単だ。
「なれるさ。ちっせえ殻なんて打ち破って、でっかい花咲かせてみろよ」
「魔王を討伐した勇者様なんだぜ。出来ねえことなんてあると思わなくていいさ」
「応援するよ。君にはそれだけの力があると、僕は信じているぞ」
ケルガーも、オズニーグも、ノーマーも、お世辞を抜きにした素直な想いを口にしてくれている。年上のアドバンテージが積み重ねた人生経験なら、年下の持つ最大のアドバンテージは無限の可能性。これから次第で白くも黒くもなる、その白くとはどれだけ明るく輝くかも未知数であり、まして大願成就したユースの快挙から感じる可能性は、傍観しているだけでも周囲には先が楽しみになるものだ。
法騎士ユーステット。彼自身の努力や、これからの運命の巡り合わせ次第では、そんな文字列が騎士団の史書に刻まれる日も訪れるかもしれない。ただ毎日を腕の向上のみに費やしてきたユースの意識に、そんな夢が小さく芽生えたのが今日この日。きっかけは本当に些細な酒の席の会話だが、思いもしなかった未来図への道が、ふとしたきっかけで見えてくることは往々にしてある。
そうした夢を抱く余裕もない、忙しく厳しい時代が終わったのが、何よりも良いきっかけと始まりでもあったのだ。ゆとりある日々の中にあってこそでなければ、見えてこないものもある。




