第269話 ~人生設計~
さて、賢蘭祭の翌日は騎士館も大忙しだ。年に一度の魔法都市ダニームのお祭りは、今年も例年どおり準備やら警備やら後片付けやら、当然ながら多くの人材を必要とした。同盟国家であるエレムもそれには協力し、騎士団員を遣わせるなどしていたのである。というわけでお祭りが終わると同時に、人事報告や収支決算などの書類を作る必要があり、賢蘭祭翌日は、騎士館のオフィス陣営に仕事がなだれ込む。
こういう仕事に回るのは、戦陣を退いた参謀職が殆どであり、参謀職では若手にあたる法騎士ダイアンがその多くの仕事を担っている。大きな資料室で数名の部下と一緒に、山積みの書類に目を通し、整理し、何とか一日でそれらを片付けねばならない。古傷のせいで脚の悪いダイアンだから、使う部下の頭数もそこそこに確保されており、作業効率はそんなに悪くない。まあ頑張れば、夕過ぎにはすべての仕事が片付く見込みだ。
「……うん?」
大忙しでどたばたする資料室に、思わぬ来客が訪れた姿には、振り向いたダイアンも思わず二度見したものだ。いかにも恐る恐るという表情で、おずおずと顔を出すシリカの姿が、ダイアンならびに資料室で働く騎士団員には意外すぎる。何しに来たのかと。
「あの……お疲れ様です……」
「どうしたの?」
仕事を中断し、歩み寄って尋ねるダイアンの目の前で、借りてきた猫のようにしおらしい表情のシリカ。強い意志力こもった眼差しで戦場を駆ける彼女とは真逆、うつむいて上目遣いでダイアンを見るシリカの姿は、いかにも何か後ろめたそうな顔色だ。
「その……お手伝いしたくて来たんですが……ダメでしょうか……」
あーあー相変わらずだなこの子はと、ダイアンも思わず吹き出した。シリカとは付き合いも長いし、だいたい考えていることはわかる。どうせ、謹慎中の身分ながら賢蘭祭に遊びに行く許可まで貰ったことで、騎士団の慮りに頭が上がらない想いなのだろう。せめて祭り明けの騎士団の仕事を手伝い、ちょっとでも配慮に報いたいという発想なのが、ダイアンにはよく読み取れる。
「賢蘭祭の後夜祭でもそれなりに飲んでるでしょ? 二日酔いは大丈夫?」
「あっ、はい、それは大丈夫です。これでも弱い方ではありませんので」
どうだか。酒好きの騎士や帝国兵が集った盛大な後夜祭に、魔王を討ち果たした立役者が混じっていて、酒を勧められていないはずがない。昨夜は彼女本来のキャパ以上に飲んできているだろうし、二日酔いの頭痛もちょっとぐらい抱えているだろう。それを表に出そうとせず、子供のように握り拳をぐっぐっと胸の前で握り締めるシリカの姿が、ダイアンの含み笑いを誘ってしまう。
手伝わせて下さい、と眼差しで強くお願いしてくるシリカが、脚の悪い自分を気遣って来てくれたのだってわかるのだ。本来、謹慎中の者を職場に入れるのはご法度なのだが、シリカもそれぐらいわかっているはず。それでも来て、力になりたいと言ってくれる後輩を突っぱねるのって、やっぱり難しい。厳しい上司、例えば聖騎士ナトームあたりに見つかったらえらいことになりそうだが、こういう時に法よりも情を取ってしまうのがダイアンという人間である。
「やれやれ、それじゃお願いしようかな。人手が多いのは助かるしね」
「あっ、ありがとうございます……! 頑張ります……!」
上には内緒だよー、と呼びかけるダイアンに、周囲の騎士達も笑って快諾だ。お偉いさんにこれがバレたら、大変なのは彼らもであろうに、目をつぶってくれる優しい連中である。こうして新しい借りを誰かに作ることもわかっていただろうに、何かせずにはいられなかったシリカの愚直さは、しばらく彼女と離れていたダイアンにとっては懐かしい姿だ。それぞれに丁寧に頭を下げ、すみませんと一言添えてから仕事に移ろうとするシリカも併せ、何年経っても彼女は彼女のままである。
「それじゃ、収支報告の書類がそこにまとめてあるから目を通してくれるかな。君は一昨年も同じことやってるし、要領はだいたい知ってるね?」
「はいっ!」
嬉々とした無邪気な表情で、ダイアンに導かれて書類の前に座ったシリカは、一転真剣な表情で一枚一枚に目を通し始めた。ユースと面識の少ないダイアンだが、一度彼の生真面目さは目にしているし、こうして改めてシリカを近くで見ていると、この師ありにしてあの弟子ありなんだなと実感する。これだけ似るならよっぽど仲良くやっているんだろうなと、想像に及ぶのもすぐのことだ。
法騎士という重責を背負い、第14分隊の隊長となって巣立っていったシリカのことを、当時のダイアンはひどく心配していたものである。あれから数年、新天地で可愛い後輩達と巡り会い、幸せにやっているであろうシリカをほのかに感じられただけでも、彼女の師たるダイアンにとってはこの上なく胸の温まることだ。
「あれ? 旦那、騎士館に行くんじゃなかったんすか?」
「シリカがダイアンとこに行ってるからな。後日に後回しだ」
昼下がり、賢蘭祭帰りの酔い覚ましに外を歩いてきたマグニスが帰宅すると、居間でクロムが火のついた煙草で灰皿をとんとん叩いている。今日は出払うと言っていた彼が、こうして自宅でゆったりしている姿には、マグニスもちょっとだけ驚きだ。
席につき、自分の煙草に火をつけるマグニスの行動に伴って、居間が二人ぶんの煙草の煙でもんやりと満ち溢れる。喫煙者たる二人にとっては、実に肌に合う空気だ。シリカがいたら窓ぐらい開けろと苦言を呈されそうだが、当の彼女がいないとわかっているせいか、二人ともその辺りの配慮もぞんざいなものである。
「騎士団やめるって話、どうするつもりっすか? やっぱ決意は変わりません?」
「まあ、そのうちな」
シリカもマグニスも、第14小隊全員知っていることだが、クロムはもう長く騎士生活を続けるつもりはないのだ。元々彼は騎士団入りした経緯からして特殊だし、今は状況も変わってきたため、そろそろ騎士団をやめて次の人生に踏み出すことを、クロムは今から未来図に描き起こしている。
喧嘩屋の異名で知られる豪傑から、騎士団の傭兵として慣らしていた頃のクロムは、やがてシリカと知り合い友人同士となった。それが早かったのは両者の縁にとって幸運だっただろう。しばらくその後、クロムにとっての恩人であるアイラーマン夫妻が、騎士団によって過去の罪を暴かれ、断罪されてしまったからだ。シリカとクロムが出会って間もない頃の話であったが、あの一件はクロムが騎士団を個人的に見限り、もう関わり合いになりたくないと感じるに足りるほどの、深い遺恨を作ってしまった。
それでもクロムが騎士団の傭兵であり続けたのは、友人であるシリカを支えられる立場を離れようとしなかったからだ。当の一件ではシリカも相当に苦しんでくれたようで、事あるごとに接点を作ってクロムのやりきれなさを和らげようと話しかけてくれたり、そういう彼女の人間性をクロムは見落とせなかった。騎士団は好きになれないが、シリカのことは支えてやりたい。そんな想いから葛藤あれど、騎士団の傭兵業を継続したクロムをそうさせたのは、シリカとの縁に他ならない。
本当は騎士階級を手にするつもりなんて無かったクロムだったのだが、第14分隊が大きくなり、第14小隊と名を変えてから、隊の中に指揮官を務められる騎士が二人欲しくなったから、クロムは動いた。実力も知恵も申し分なく、騎士の資格を得るのは容易であったし、それ以来第14小隊は、法騎士シリカと騎士クロムナードの二人の指揮官のもと動く小隊として活動してきた。
今はもう、成長した騎士のユースがいる。指揮官としての手腕はまだまだ至らないかもしれないが、少なくとも第14小隊の連中は、ユースを中心に動けるだけの信頼を彼に寄せている。もう、クロムが己の我を捨ててまで、騎士であり続ける必要がなくなったのだ。だからクロムが騎士団を辞めようとしていることに関しては、表立って話さなくても誰もが意識していることである。それを歓迎するかは別としてだ。
「つーても、今日明日すぐってわけじゃないですよね?」
「向こうさんと相談してからのことだな。正職者は色々めんどくせえや」
なんだかんだで好きじゃない騎士団に仕えてきたとはいえ、働かせてもらって稼ぎを授かってきた立場のクロムは、後ろ足で砂をかけて好きな時に辞めます、という態度は取らない。その辺りは彼も、義を軽視しない考え方を持っている。ちゃんと第14小隊の直属の上司であり、騎士団一部の人事権を担っている法騎士ダイアン辺りと話をつけ、辞める時期に折り合いつけた上で辞めていく算段なのだ。クロムが向こうさんと形容しているのも、法騎士ダイアンのことだろう。
「旦那、ダイアンのこと嫌いでしょ。俺が旦那だったら、あいつの顔に辞表ぶん投げて辞めますけどねぇ」
「ガキじゃあるめえしそんなことするかよ。あれも随分昔のことだし、いつまでもそれで揉めたって仕方ねえだろ」
恩人であるアイラーマン夫妻の罪を糾弾した騎士団の行動は、他ならぬダイアンの指揮によるものであり、正直今でもクロムはダイアンのことを好きになどなっていない。ダイアンも、自分に対するクロムの感情ぐらいわかっているだろう。大人同士だから表面上はいさかい無く付き合っているが、両者の間には決して埋まらない溝が確かに存在しているのだ。何年も前のことに端を発する遺恨とはいえ、やはり恩人の平穏をいたずらに踏みにじられたとしか思えないクロムにとって、そのわだかまりは時によって溶かせるものではない。
「えーっと、魔王ぶっ倒した直後ぐらいでしたっけ。あの時も旦那、ダイアンに話しにいったんでしょ? そん時は向こうさん、何て言ってました?」
「ひとまず謹慎期間が解けるまでは待ってくれって言われたよ。まあ筋は通ってるけどな」
「結局向こうは、旦那を辞めさせたくはないんすよね。わかってたことですけど」
「はいはい光栄光栄。知ったこっちゃねえけどな」
そりゃあ騎士団、魔将軍エルドルと真っ向から戦ったような一兵を、そうそう手放したがるはずがない。何かと理由をつけて引き止めるダイアンの姿勢は、騎士団の戦力を確保したい上司の態度として自然なものであり、それに足るぐらいの実績をクロムは積み重ねてきた。いくら人材には事欠いていない組織でも、有力な人物を容易にみすみす手放すほど、贅沢に驕った人事を回すことはないものである。
もっともクロムが意地でも辞めますよと言い張れば、力ずくでも辞めさせまいとすることは騎士団にも出来ないので、強引に話を進めようとすればそれは難しくない。問題は義の観念だとか、シリカとの付き合いだとか、そういう人となりの都合があってクロムも強攻策を取れないことにあって、それでなかなか辞められない状況に陥ってしまっているだけの話だ。
あまりマグニスがクロムが出て行くことを現実視していないのは、その辺りの都合を知り得ているからであり、今日明日いきなり状況が変わると思っていないからだ。それに、いつかふとクロムが騎士を辞め、第14小隊を離れる時が来たとしても、別に心まで離れるわけじゃない。強く繋がる間柄であるがゆえ、同じ組織に属しているかなど、大人同士の関係においてはたいした問題ではない。
「ジーナ姐さんと同棲する頃には流石に潮時っすか?」
「まあ、そんなところだ。その時には、そういう事情も踏まえて話を進めるつもりでいるよ」
クロムには結婚を視野に入れて付き合っている女性がいて、彼女が店を構えるためのお金をクロムが貯えていることも、マグニスは知っている。その夢が叶う時が、クロムが自分自身の人生を歩き始める時になるのだろう。一本目の煙草を吸い終えたクロムが、灰皿にそれをぐりぐり押し付けて火消しする姿を眺め、柄にもなく幸せそうな顔をしてらっしゃるなとマグニスもにまにまする。
「姐さんとは最近どうなんすか~? 会える時間も限られてるし、向こうも新しい男に出会っちゃったら人生計画も破綻するかもしんねえっすよ?」
「だから謹慎解けたら時間作るつもりだっつーの。他人事だとお前、平然と縁起でもねえこと言うよな」
まあ、のろけめいた話で幸せそうな顔しやがった先輩には、悪友同士の語らいで意地悪のひとつでも言いたくなってしまうのがマグニスだ。クロムも苦笑いで応じ、静かな昼下がりを二人で時間を潰す流れに乗るのだった。
「はい、乾杯。今日はありがとう」
「お疲れ様です」
ひと仕事終えた夕頃、ダイアンの誘いでシリカは小さなバーで夕食のお供をしていた。現役騎士時代は、安上がりの下町の居酒屋で乾杯するのを好んでいたダイアンだったが、年を経て収入と共に好みも変わったかとシリカも思ったほど、小奇麗で静かなバーでの乾杯だ。まあ、せっかくの二人きりなのだし、女性のシリカと一緒に行くことに配慮したダイアンのチョイスなのかもしれないけど。
「謹慎中で動きづらいだろうけど、楽しくやってるかい?」
「一人を除いてみんなのびのびやってますよ。大きな山が片付いた後ですしね」
「一人っていうのはユース君?」
「ええ、いつもどおりです」
やっぱりね、とダイアンもくすくす笑わずにいられない。魔王討伐を果たしてしばらく、平穏を取り戻した世界において謹慎中の身となれば、平和の立役者達として長い休暇を貰っているようなものだ。それぞれが肩の重荷をはずしてゆっくりしている中、そんな日々でも訓練場で毎日剣を振るっているであろう生真面目君の姿が、ダイアンにも想像できて仕方ない。
「修練好きなのはいいことだけど、もうちょっと他のことに視野広げてもよさそうだけどな、あの子は」
「一応考えてはいるんですよ、上が許してくれるなら、彼を少しの間養成所に勧めてみようかな、とも」
「あ、それはいいね。騎士団としても歓迎だよ」
養成所というのは、騎士団内における軍部専門教育所のことだ。ここは指揮のいろはとか、兵法だとか、戦場における武人の知恵を授けてくれる場所であり、言うなれば軍学校みたいな所である。たとえば高騎士から法騎士に昇格するにあたっては、ここでいくらかの専門教育を受けてからでなければいけないので、ユースの将来を考えれば、騎士団としてもユースがここに通ってくれるのは大歓迎である。まさか魔王を打ち倒した騎士の一人である彼を、生涯高騎士以下の器で終わらせたいだなんて、騎士団も考えてなどいるまい。
謹慎期間中にそういう場所で時間を潰していいのかな、というシリカの疑問は、問題ないよとダイアンも解きほぐしてくれた。立場がどうであれ、普段はちゃんとしている若い騎士が、時間を作って勉強しに来るなら騎士団としては、単に歓迎の話である。ある意味では任務を授かれない謹慎中の立場、養成所に通うための時間も取りやすく、格好の機会であるとも考えられる。将来を見据え、ユースを養成所に通わせてみたいというシリカの考えは、この時期の時間の使い方としても理に叶っていると言えよう。
「騎士団としても、今の君達の謹慎期間についてはあまり重く考えていないんだ。元々、魔王マーディスの遺産との抗争が片付いたら、しばらく君達には休暇をあげるつもりだったしね。働きづめだったでしょ?」
「昨年あたりから大変でしたもんね……今となっては、終わった話ですけど」
苦笑してしみじみと口にするシリカの態度からは、本当にここ一年が大変だったという想いが隠しきれずに溢れまくっている。タイリップ山地で獄獣や黒騎士が出没して以来、魔王マーディスの遺産達の活動が活発になってきた示唆を感じ、以降の任務ではそれらといつ出くわすかと、シリカもずっと気が気でなかったものだ。フィート教会制圧という、連中とは無関係の任務にさえ、蓋を開ければ裏には百獣皇の影。サーブル遺跡ではとうとう獄獣と真正面からのご対面だ。あの時のことは、今想い返しても肝が冷える。
アルム廃坑攻略を皮切りにラエルカンの崩落、二度も獄獣と対峙して殺されかけた経験を持つシリカにとって、魔王マーディスの遺産との全面抗争の矢面に立つことは、常に死の恐怖が隣り合わせの毎日だった。自分の命にとどまらず、大好きな第14小隊の仲間達の命も背負っているのだ。ディルエラの手中に捕えられて死を目前にしたユースやアルミナ、アジダハーカとの交戦で死に瀕したガンマ、家族を失う恐怖に震え上がった経験もそれだけ実際あったのだ。傷つき戦い抜いた記憶より、精神的につらいことの多かった一年間であり、何も失わずに終わりを迎えられた今というのが、思い返せば奇跡的だったようにさえ感じられるものである。
騎士団員、誰もが身を粉にして戦い続けた一年間だったが、この若さでそれだけの苦境に何度も立ち続け、遺産どもの多くを討ち果たした第14小隊。終わった今に休暇のひとつでも与えねば、騎士団としても若い奴らに報いが足りないと客観的に言っていい。どうせしばらく大きな仕事はないのだし、その辺りは騎士団も優しく振舞ってくれるものである。
「謹慎期間が解けるのは年末前だったかな。その後も、ちょっと色々考えてて、しばらく君達には休んでいて貰おうと思ってる。傭兵の子達が望むなら、仕事あげてもいいけど」
「そんなに長いお休みを貰ってしまっていいんですか?」
「うん、年明けぐらいから働いてもらおうと思ってね。まあ、まだ草案段階だけどさ」
ダイアンいわく、これはナトームとダイアンの間でのみ交わされている発案であり、上層部にかけ合って実現させていく方針のようだ。何か考えがあるのだろうなとは思う一方で、シリカ達を働かせたがるナトームまでもがそれに乗ることには、シリカもつい不安げな顔をしてしまう。謹慎期間中に何か目をつけられて、いよいよ本格的に見限られてしまったのかな、なんて発想にも届いてしまうから。自分がらみのことだとつくづくシリカは自信に欠け、思い付きがネガティブになりがちである。
「まあ簡潔に言うとだね。君はそろそろ一人の女性として身を固める下地を作るべきなのだよ。うむ」
口調だけ厳格なお仕事風味、しかしにっこり笑ってそんなことを勧めてくるダイアンに、シリカは色んな意味で溜め息が出そうになった。それは武人としての悩みの次に、シリカにとって切実とも言える問題だから。
「真面目な話、好きな人とかいないの?」
「今はあんまり考えられないですよ……あれだけ忙しかった後ですし」
「でもしばらくの暇はここまででもあったでしょ? その辺り、全然進めてないの?」
そりゃもう、第14小隊のみんなと平穏に過ごせる毎日が幸せすぎて、魔王討伐から約一ヶ月余り、シリカはずーっと第14小隊と過ごす時間に毎日を費やしてきた。ここ一ヶ月の思い出を思い返してみたら、アルミナやガンマとお買い物に行ったこととか、キャルと台所に並んだこととか、クロムやマグニス、チータに誘われて駒遊びに付き合ったとか、そんな記憶ばっかりだ。恋人探しなんて、とてもとても。
「あんまり考える気になれないんですよね。今はみんなといる時間が、本当に楽しくて」
「勿体ないなぁ。僕から見ても、君はいいお婿さんに恵まれて然るべきの器量だよ?」
好きな人なんてまだいませんよ、と示唆するようなシリカの主張には、ダイアンもおかしいなと感じたりもするのだが、ちょっとまだ顔には出さない。シリカは周りのことを考えすぎるから、自分の気持ちにも鈍感でわかっていない可能性が低くない。だから、さりげなくもう少し深みまで探り手を入れてみる。
「法騎士スズを知ってるね? 君は面識が無いだろうけど、彼女は本当に素晴らしい女性だった。あんなことがあって残念なことになったけど、僕はいつか彼女に本気で告白しようと思った時期もあったんだよ」
ダイアンの褒め言葉に、シリカが恐縮ですと言うより早く、ダイアンの口が思い出話に手をかける。酒を口にし、思い出深い過去を語りだすかのようなダイアンには、シリカも口と酒を止めて拝聴する姿勢に入る。まさかこの顔この態度で、ダイアンの目的がシリカの内面探りを目的にしているなんて、シリカの目で見抜けるはずもない。
「君はスズじゃない。清廉潔白であった彼女とは違うけれど、彼女には無かった熱さが君には宿っている。きっと、クロム君やマグニス君との付き合いや、可愛い後輩との日々がそういう君を作り上げてくれたんだとも思うけどね」
今の自分を形成したのは第14小隊の仲間達だとシリカには自覚があるし、それを肯定するダイアンの弁は、シリカもしみじみうなずく。話題の中心軸めいたものをこうして提示し、シリカに気付きの思考を巡らせないダイアンの語り口は、上手くシリカの思考回路を密かに縛っている。
「今の君は、人間的にも騎士としても、僕が好きだった法騎士スズに並ぶ人物であると確信している。はっきり言って、僕個人としても、今の君は見過ごしたくない女性になってるよ」
「そんなこと……」
「本音だよ。スズを引き合いにしてまで、後輩におべっか使う性格はしてないからね、僕は」
かつて尊敬してやまなかった法騎士スズ、それに並ぶとまで言われただけでも恐縮ものなのに、突然ダイアン本人からも、熱烈な言葉を頂けたかのような心地に、シリカも戸惑うばかりである。いくら鈍いシリカといっても、今のダイアンの言葉に求愛の気配を感じられないほど頭でっかちではない。
「君から見た僕っていうのは、どうなのかな」
「え……と……」
心から困った表情で目を伏せてしまうシリカを見るダイアンの目が、普段彼女をからかう先輩のそれではない。ダイアンも表情作りが上手いものだ。嘘偽りのない気持ちを口にするから、表情に嘘を作る必要もなく、そうした表情が真なる意味で、シリカを想い巡らせる武器になることもわかっている。すべて計算ずくだ。
「その……素敵な男性だと思ってますよ。未だに独身でおられるのが、不思議だとずっと思っています」
「だったら、とはならないの?」
手加減なしの追及が続く。ここが正念場だ。気を抜かずに問い詰めるダイアンは、シリカの幸せを願ってやまない人物の一人である。軽い気持ちでこの駆け引きに臨んでいるわけではない。
しばらく黙り込み、何かを考え込むようなシリカを前に、次の言葉を待ち続けるダイアン。彼女から引き出した声と表情から、シリカの心の奥底にあるはずの真実を引きずり出したい。それは決して自分のためではなく、己のことにこそ最も気付きにくいシリカの支えになればと思ってのことだ。
「……今は」
やっと口を開いたシリカの、申し訳なさそうな顔が印象的だった。うん、とうなずき続く言葉を待つダイアンに、僅かな間を挟んでシリカが真意を紡ぎ続ける。
「……私にも、考えたいことがありますので」
ああ、やっぱり、と、ダイアンも心の中で納得することが出来た。誰かに好意を寄せられたら、中途半端はせずに真正面から向き合うシリカのことだ。こうして露骨にすまなそうな表情で、今にも頭を下げそうなシリカの態度からしても、これは振られたと見て間違いないだろう。というかダイアンも、かつて愛した女性スズにシリカの姿をなぞらえて、恋人関係になろうとする節操は好きじゃないし、本気でシリカを口説いているわけではないのだ。振られるとやっぱり、ちょっと来るものがあるけど。
でも、今のでわかった。ダイアンと向き合うシリカの瞳の向こう側には、見逃せない誰かの存在があって、そんな彼の姿が頭から離れないから、今の話に構っている余裕がないんだって。長く恋なんかしないまま、こんな年に至ってしまったこともあり、女性としてのシリカの考え方は幼いものなのだ。好きな人が一人いるなら、その人以外の男性のことを、異性として強く認識するのも不徳に感じられるぐらい、彼女の根底にある貞操観念は頭が堅いままである。
「そっかぁ、残念だな。これでも本気だったんだよ?」
「すみません……その……」
「いいんだよ。真剣に考えを巡らせてくれただけでも、男としては光栄なことだ」
残念も何も、いいんだよも何も、知りたい何かを掴めたのだからダイアンは満足だろう。こうしてこっそり裏側から探りを入れ、シリカに申し訳ない顔までさせてしまったのは何だが、価値のある未来に繋げていける予感はしている。つまりは最後、シリカが想い人を自分から見つけ、その先へと歩いていければ一番なのだから。ダイアンが心底で望んでいることとは、それに他ならない。
「くそ~、それにしても悔しいなぁ。君を僕に振り向かせないということは、君にも既に好きな人がいて、そっちに首っ丈だとしか思えない。いいや絶対そうだ、君はもう誰かに恋をしているんだ」
「なんですかその理屈」
「僕はもう確信したぞ。相手は誰なんだ、クロム君か」
「あいつはもう恋人いるじゃないですか。知ってるでしょ」
ナルシストめいたジョークを並べ、普段のようにシリカをからかう口ぶりで、先ほどまでの沈痛になりそうな空気を洗い始めるダイアン。普段どおりのこの人に戻り、シリカも笑ってそれらに対応する。またそんな話ですか、と慣れた口ぶりであしらうシリカも、沈みかけていた表情がゆっくりと柔らかくなる。
「じゃーマグニス君か。ちゃらんぽらんに見えて、彼も意外としっかり者だからねぇ」
「いやー、無いです。人間としては買ってますけど、恋愛対象とかありえませんから」
「ああ、それを聞いて安心した。流石にシリカも騙されはしないか」
「当たり前ですよ。知ってます? ついこの間も――」
謹慎期間中にも限らず女をはべらせ、朝帰りしてきたマグニスに対する愚痴を、シリカが苦笑い交じりで語り始める。こうなればもう、空気は清浄化されたようなものだ。ここから簡単に話を繋いでいくだけで、さっきの話もすっかり過去に流れ、普通の夕食の時間に戻っていくだろう。
「ちゃんと手綱握っておかなきゃダメだよ? 監督不行き届きで責任追及されるのは君なんだからね~」
「笑い事じゃないですよ、まったくもう。あの破天荒ぶり、どうにかならないですかねぇ」
愚痴めいた語り口でも、第14小隊のことを語る時のシリカは本当に活き活きしている。彼女を楽しい気分に乗せるには、それを聞いてあげるのが一番簡単だとわかっているから、シリカと語らうのはダイアンにとって退屈しないものである。対話する時に一番楽しい時というのは、話すことと聞くことを両者が楽しめている時。後輩の今を聞くことが楽しみであるダイアンにとって、第14小隊について話すことが楽しいシリカとの対話というのは、双方が楽しめる席となる要素を最初から兼ね備えている。
食えない誘導尋問も片付けて、時が満ちるまで穏やかな晩餐。久しぶりの恩師との夕食を嗜む時間には、シリカもダイアンの複雑な親心を知る由もなく、楽しい時間をただただ過ごしていた。そんな彼女を見守れるだけでも、ダイアンにとっては満ち足りた時間だ。
まして今日は、かねてから心配していた、シリカ個人の幸せに届きえる希望の綱が、ちょっと見えた気がしたから。身内に対する感情を抜きにして、あれだけ苦しい戦いにひたむきに臨み続け、ようやく今の平和を勝ち取ってくれた勇者が、自分自身の幸せに巡り会えぬまま生涯を閉じたら、ダイアンとしても面白くない。ちゃんと素敵な殿方に巡り会い、その人物と手を取り合って歩いていくシリカの姿を見届けたいと、ダイアンは強く願っている。欲を言えば、彼女の花嫁姿がいつか実現するのなら、それを近い場所で見届けたい、とも。
仕事ばかりで好きな男の一人さえ出来ないまま、今日まで至ってやしないかとやっぱり不安だったのだ。懸念に反してそんなことはなく、シリカもちゃんと一人の女としての目を持っているじゃないか。そう今日はっきり読み取れただけでも、ダイアンにとっては満足だ。




