第268話 ~賢蘭祭⑤ 総ての後夜祭~
二日間に渡った楽しい賢蘭祭も、日没を迎えて終わりが近づいてきた。出店商人の多くも引き払い始め、ぎゅうぎゅう詰めの船や馬車に乗り、帰省もしくは宿探しに近隣の町村へ動き出す。夜の魔法都市ダニームを照らす光の下、あれだけごった返していた人混みが消え、閑散とした場所が多くなってくる光景が、祝日の終わりを象徴する寂しさを醸し出している。
多くの人々が賢蘭祭の思い出を胸に、家族や友人と上機嫌で町を離れる中、すかすかの馬車や船に乗って、こんな時間からダニームに訪れる者達がいる。祭りはもう終わりかけという時間、ダニーム行きの陸路も海路も過疎気味で、実にスムーズにダニームに集まってきた者達。特別な宴会席に訪れるために来た彼ら彼女らはみな、ダニームのアカデミー本館に集い込む。
「さて、あとはルーネ様だけかの?」
「そのようだな。お忙しいのであろう」
アカデミーの中央多目的ホール。エレム、ルオス、ダニームの戦人が一同に集うこの席は、魔王軍殲滅のために戦い抜いてきた騎士や帝国兵、魔法使い達が集結する祝いの席。魔王討伐の後、各国でセレモニーは行なわれたものの、こうして三国の戦人を揃えての祝賀会を開く機会は、各国それぞれ忙しかったためもあり、なかなか設けられなかった。そんなわけでせっかくだから、賢蘭祭終わりの後夜祭の一つに、戦人ばかりが集まる場が催されることになったのだ。政人や一般人のような、戦人にあらざる人々の後夜祭は、別の場所で華やかに開かれている。
円形の大ホールの中央付近で目立つのは、エレム王国騎士団の中でも古株かつ、未だ現役として戦場を駆け続けてきた老兵達。この宴会の主催者である賢者様を心待ちにする聖騎士クロード、相槌を打つ聖騎士グラファス。二人にとっては旧知の仲である上騎士ラヴォアスや、勇騎士ゲイルもそばにいる。かつて魔王マーディスが闊歩していた時代、戦陣の最前線を駆け抜けていた彼らは、こうした祝いの場では必ず一緒だ。還暦前後になってもずっと親しい間柄、第14小隊の8人も、いつしかこんなふうになっていくのだろう。
「エレムの方々はいくつになっても老いませんなぁ」
「あの人達は結構特別な部類に入ると思いますけどね」
「これ、おぬしら! ルオスも活気を出さんか! 若いのにエレムの年寄りに元気で負けてどうする!」
ルオスの勇者ジャービルがラヴォアス達の活気を称えれば、エレムの勇者ベルセリウスも笑って応じる。そのやりとりを見たルオスの大魔導士、帝国においては勇騎士相当の階級を持つ老魔導士エグアムが、ルオスの若者に対して檄を飛ばす。宴会が始まれば、同盟国の皆様よりも先に酔い潰れたりするなよ、という警告だ。
「おうおう、エグアムのじーさんよ。俺達を年寄りと仰るが、あんたの方が年上だろう?」
「はっ、30年前から老け顔の小僧が生意気な口を利くでないわ。言うておくがわしもまだまだ現役の身、おぬしらのような若造に負けはせんぞ?」
上騎士ラヴォアス64歳、大魔導士エグアムそれより一回り上。爺さん二人が尖った口調で挑発し合い、エレムとルオスの呑み比べフラグをばんばん立てていく。信頼し合う同盟戦人とはいえ、酒の席では肝臓勝負の最大の好敵手だ。エレムとルオスの若者達も、陣の最前線に立つ親分爺さんの後ろで、あいつらには負けられねえなと対抗意識を燃やしている。
まあまあ御大、とエグアムをなだめるジャービル。まだ始まってもいねえだろ馬鹿野郎、とラヴォアスの耳を引っ張って下がらせるゲイル。上層中の上層に当たる先人達のやりとりを、すぐそばで見届けるシリカやユースは、周囲の方々の格の高さに凍り気味。24歳と20歳の若い騎士にとって、50歳を超えてなお現役の偉大な先人を前にして、緊張しないで済むわけがない。第14小隊の面々も、特別肝の太い三人を除けばどことなく動きが固い。
いい具合に場が温まり始めた頃、宴会場の扉のひとつが、ぎぃと木の音を立てて開く。多くの者が振り向く目の前、扉の向こうから現れたのは、紅潮した頬で僅かに息を切らした賢者様。走ってきたのだろう。
「皆様、遅くなりました。すみません」
「ルーネ様が来たぞー! ぬしら、スタンバイせい!」
「よし、高台を持ってこい。急げよ」
とびっきりの歓声と拍手でルーネを迎える、大ホールいっぱいの騎士、傭兵、帝国兵、魔法使い。ルーネの席である中央付近では、帝国兵が中心に高台を設置する中、6人の騎士が位置取りを変えている。いよいよ宴が始まる。
とてとて小さな体でホール中央に駆けていくルーネの後ろを、ゆっくりとゆっくりと歩いていく意外な付添い人の姿には、周囲も少し驚きだ。騒がしくなるのが見え見えの、戦士集いし宴会場になんて、エルアーティが訪れることなんて間違いなく初めてだったから。周囲の目線も顧みることなく、上座近くのベルセリウスのそばまで歩み寄ったエルアーティは、あぐら座りのベルセリウスの股下へ、彼を背もたれにしてちょこんと座る。まるで当たり前のように。
「珍しいですね、こんな席にお師匠様が来るなんて」
「いいものが見られそうだしね」
それが具体的に何なのかは知らせず、エルアーティはベルセリウスにもたれてルーネを見守る。高台を目の前にして戸惑うルーネに近付いたクロードが、高台の意図を説明する。
「ルーネ様、あれをやりましょう。久しぶりに」
「……懐かしいですね。いいでしょう」
微笑んで、同郷の聖騎士からシャンパンを受け取ったルーネは、ひょいっと跳躍して高台に飛び乗る。5つでよいですかな? とルーネを見上げて問うクロードに対し、調子がいいから6つにしましょう、とルーネは返してくる。その言葉に大笑いしたクロードは、予定外であったシャンパンを一本、一歩退いていたグラファスに手渡す。グラファスも小さく笑ったことに察すれば、何をするのかは伝わっているのだろう。
「何かやるんですか?」
「ラエルカン流の乾杯だよ。まあ、見とけや」
問いかけるシリカにそう答え、シャンパンを握ったラヴォアスが位置につく。彼と同じくシャンパンを握る、勇騎士ベルセリウス、魔法戦士ジャービル、勇騎士ゲイル、聖騎士グラファス、聖騎士クロードを合わせた6人で、ルーネを囲む形だ。かつて魔王マーディスを討ち果たした喜びを共有し合った男達、彼らの世代における主役達だ。シリカ達、若き者達には見て知ることが出来なかった、亡国ラエルカンの思い出の欠片を、古き世代が現代に美しい花火として描こうとしてくれている。
準備は万端。主催者のご挨拶を待つように、乾杯のグラスや酒瓶を持つ周囲が静まり返る中、ルーネは高台の上でひとつの深呼吸。自分自身の緊張をほぐすと同時、始めますよの一言を、口にせずして開宴を示唆する振る舞いだ。
「皆様、本日はお集まり頂き、本当にありがとうございます」
周囲の言葉なき盛大な拍手が、はじめの一言を飾り立てる。緊張がほぐれないユースも、周りの行動に追従するように拍手に加わり、体を僅かでも能動的に動かせたことで少し肩の力が抜けた。
「私たちは戦人。右手に剣を、左手に盾を握る毎日は、きっとこれからも長く続いていく。しかし今宵だけは、剣を酒に、盾を友人の手に代え、心ゆくまで楽しみ参じましょう。私たちは戦場を駆ける幾千の矢のひとつである前に、大安を願い幸せを望む、一人の人間に過ぎないのですから」
戦の勝利を飾るルーネの言葉は必ずこうだ。戦う力を持たない人々の暮らしを守り、広き平穏を勝ち取るために戦い抜くのが戦人。我欲を捨て去り、死を拒む想いを忘れ、血を流さねばならない時が多いものだ。しかしいかなる戦人たれども、その根底にあるはずの人としての心を忘れてはいけないと、ルーネはかつてより強く願ってやまない。だから、聖戦から解放された戦人をねぎらうための祝賀会というものを開き、誰もが自らの楽しみのために騒げる場を作ることを、ルーネはいつの世も肯定的に捉えてきた。
近くを見下ろし、賢者たる面立ちでそう言って、ルーネは顔を上げる。主催者としてのかしこまったご挨拶はここまでだ。広き宴会場を見渡し、戦を乗り越え生存した同志達に再び会えた喜びを隠せなくなったルーネの表情は、ふわりと彼女本来の無邪気な笑顔に戻ってしまう。
「今日は皆様夜を忘れ、心行くまで酔っ払って下さいね! 酔った勢いで過ぎた粗相をしちゃう心配は不要です! どんなに暴れても、目に余ったら私がぶっ飛ばしちゃいますから!」
おお怖い怖い、と、粗相慣れした豪傑どもが笑う中、シャンパンを握る6人の男が酒鉄砲の瓶を全力で振る。行きますぞ、と5人のパートナーに目配せするクロードが、ラエルカン流の乾杯を知る男として、花火を打ち上げるタイミングを伝えている。
「常に、常磐に、常しえに……! 人々の未来に、末永く、倖い多からんことを!」
最後の一文字をルーネが口にした半秒後、パァンとシャンパンのコルク6つが発射される銃声音が響いた。ほぼ同時、全方位からルーネ目がけて発射される、とんでもない速度のコルク弾丸。それをその場でくるりと一回転したルーネは、シャンパンを握った右手を使わず、一瞬で左手に6つ全てをキャッチする一発芸を見せる。指の間に4つ、畳んだ掌に2つ挟んでだ。
「かんぱぁいっ!!」
蓋を失った6つのシャンパンの銃口が放つ、酒のシャワーを浴びるルーネが、自らのシャンパンのコルクを手の甲で叩き上げ、天井まで吹っ飛ばす。パアンと豪快な音とともにコルクがはじけると同時に、手に捕えていた6つのコルク蓋も上天に投げ飛ばしてだ。ルーネの握るシャンパンから真上へと噴き出す酒、美しい放物線を描く7つのコルク、彼女だけの一発芸に沸く中で、乾杯の一言とともにグラスや酒瓶を掲げる宴会者達。酒の集中砲火でびしょ濡れになりながら、握った酒瓶の口をくわえ、一気に飲み干すルーネの姿が、一口目の酒を口にして満足しかけた者達を、さらに盛り上げてくれる。
「お酒は絶対になくなりませんよー! ものっすごい量を仕入れてますから! 品切れ気にせず、今日は好きなだけ飲み明かして下さいねー!!」
私財ぶん投げて大宴会を背負って立つ太っ腹賢者様を前にして、酒好きの男たちが盛り上がらぬはずがない。泰平の世を迎えたことを大声で謳うための祝宴は、大ホールの天井が吹っ飛びそうなほどの大歓声とともに幕を開けるのだった。
夢のような幸せな宴会とは、まさにこういうことを言うのだろう。若き者達には尊敬の眼差しを惜しみなく注げる先人達、若き世代が新時代を拓く力となってくれたことを、上から目線ではなく真に敬意を注いで返す練兵達。暗黙の了解で無礼講さえ厭わない酒の席で、誰一人として最低限の礼節を損なっていない。始まって
しまえば上座も下座も関係なく、自由気ままに動いて親しき者と語らえる上、いくら騒いでも叱られない。開宴時のやかましい歓声に近い騒ぎ声が、そこらかしこで野太い笑い声として繰り返されている。
「よぉ、ルザニア! 楽しんでるか?」
「あっ、お疲れ様ですマグニスさん。楽しませて頂いてますよ」
エレムの騎士にもルオスの帝国兵にも、ダニームの魔法使いにも戦う女性はけっこう多い。ダニームの魔法使いには綺麗な人も多く、片っ端から声をかけて楽しんでいるマグニスだったが、やはり一度縁のあった騎士ルザニアに声をかけるのは忘れない。この宴会では最も若い一人であるルザニアは、礼儀正しく周囲にお酒を注いで回っており、そういう自分のあり方をちゃんと楽しんでいる。真面目な子だ。
「お酌してばっかじゃ楽しみきれてるとは言えねえなあ。お前はもっと、酒席の楽しみを覚えなきゃな」
「えっ……あわわわ……ちょ、ちょっと……」
ルザニアの手を握り、ぐいぐい傭兵仲間達の輪の中に引きずり込んでいくマグニス。ちょっとガラの悪い連中に見える集まりに引っ張り込まれたルザニアは、はじめ緊張していたが、流石マグニスと馬が合う連中なだけあり、可愛らしいルザニアを前にして朗らかにテンション高。女を口説くことに慣れた男たちは、ルザニアの緊張をほぐす優しい語り口もお手の物だ。
ルザニアは、あまりこっち側の世界に来るべき人間ではないと、裏路地育ちの傭兵達もわかっている。少し酒が進み過ぎそうになった彼女にも、飲み過ぎるなよとしっかり忠告するほどに。酔わせて具合よく明日以降へつなげていく対象として、ルザニアを認識していない証拠だ。宴会慣れした優しい男達に囲まれて、ルザニアが新しい楽しみ方を覚えていくのに、そう時間はかからなかった。
「おい、ガンマ。あのバカを止めてこい」
「はいよー!」
法騎士という立場であろうに、若い自覚からか周りにお酌して回る勇者様がいるのだ。あいつはどこに行っても周りを気遣い過ぎて、逆に俺達を満足させない奴だとクロムも苦笑い。こっちだって、毎日頑張ってきたシリカが少しぐらいはめをはずして、楽しく過ごす姿を見守れたら嬉しいというのに。
「シリカさーん! 兄貴から注文入りましたー!」
「へゃっ!? ちょっ……ガンマ……!?」
いきなりシリカの後ろから組み付いたガンマが、怪力任せにシリカをお姫様抱っこの形に抱き上げる。戸惑うシリカをよそにして、どうしますかーとクロムに問うガンマへ、クロムはある方向へ親指をくいっと突く。その先には、ルオスの帝国兵と飲み比べしているクロードやラヴォアスがいる。
「揉まれてこい」
「揉まれてこいだそうでーす!!」
軽々ひょいっとシリカを高く持ち上げ、ガンマがクロード達の方向へシリカをぶん投げた。けっこう距離があるのに、人間ってあんなに簡単に投げ飛ばされるもんだろうか。宴会席の上空を、女の悲鳴をあげて飛来するシリカに気付いたラヴォアスが、人間砲弾になって飛んできたシリカをキャッチする。この人もなかなか、人間離れした腕力かつ強靭な体の軸を持っていらっしゃる。
「おーい大将、そいつ宴会の楽しみ方を知らん馬鹿野郎なんで、色々みっちり教えてやって下せぇや」
「おー、そうかそうか! よしシリカ! ここからは、お前の武功を祝う祝賀会だ!」
「やっ、ちょ……わ、私はその……!」
既に何十杯もの酒を呑んで酔い始めたラヴォアスは、懐かしい愛弟子との再会に上機嫌。ましてやそれが、魔王を討つほどの器になったとなれば、立派になってくれて嬉しくて仕方ないだろう。ラヴォアスが煽れば、周囲の騎士や帝国兵も、勇者になったシリカを歓迎し、褒め倒し、ばんばん優しく体を叩いてくれる。シリカ目線ではとんでもなく格上の人達が、拍手や歓声で迎えてくる光景っていうのは、誇らしいとか感じる以上に畏れ多くて仕方ない。顔を真っ赤にしてうろたえるシリカの姿が、やっぱあいつはユースに似ているなとクロムを笑わせていた。
「先輩凄すぎですよー! 獄獣ディルエラや百獣王ノエルを倒したなんて!」
「やっ、あのー……わ、私はそんなたいしたことは……」
アルミナにべったりの後輩、第19大隊の華である傭兵プロンは、宴会佳境でようやくアルミナを見つけると、きらっきらした目でアルミナを見上げてくる。元々彼女にとってのアルミナは、普通に最も尊敬する先輩の一人だったのだが、それがここまでの結果を出したことに伴い、もはや神格視するレベルにまで達したと模様。最も身近に尊敬する人が、一躍周囲も認めるほどの快挙を成し遂げた姿というものは、後輩にとっては感動するに値するものだ。
「プロンからアルミナ君のことは聞いていたが、まさかここまでの子だったとはなぁ」
「第26中隊に来ないか? 月に一度参戦してくれるだけでも、僕達は満足だよ」
「お前、その引き抜き癖どうにかならんのか? 気持ちはわからんでもないがな」
プロンの属する第19大隊の長、法騎士タムサート。若き精鋭を惜しみなく揃えた第26中隊の長、法騎士カリウス。ラエルカン戦役でアルミナやユースと共に戦った法騎士エミュー。今の聖騎士ナトームが現役であった頃、その下で育てられた同門の三人だ。偉大なる先人を見続け、目の肥えた三人の法騎士から惜しみなき賞賛の声を受けるアルミナは、流石に日頃の彼女ほど元気に胸を張れていない。流石にここまでお偉いさん達に声を揃えて褒められると、本気で嬉しくてもじもじしてしまう。
「引き抜きの話なら俺だって持ちかけたいんだぜ? うちの大隊にはプロンもいるし……」
「ダーメでーすー! 先輩は、第14小隊にいるからこそ先輩なんです! いくらタムサート隊長とはいえ、そこに下手な水を差すのは許しませんよ!」
「ちょ、ちょっとプロンちゃん……? 飲み過ぎてない……?」
まあ良い具合に酔っているのだろう。とはいえ、アルミナと同じ隊に属せれば一番嬉しいはずのプロンが、己よりもアルミナにとって一番の選択肢を優先し、法騎士様にさえ反論する姿というのは、酔った勢いででもアルミナのことを真剣に考えている証拠だ。私の大好きな先輩を困らせるようなことはやめて下さい、と詰め寄ってくるプロンには、法騎士タムサートもたじたじである。
「ねっ、先輩! 先輩は、第14小隊の皆さんのことが大好きですもんね!」
「んっ……う、うん……」
「世界一ですよねっ!!」
「そっ、そうだけど……うあぁ、なんか恥ずかしい……」
言える機会に自分から言うぶんには困らない言葉、だけど他人に引っ張り出されると無性に恥ずかしかったりするのはよくあることだ。大事なことは日頃から言わないと、肝心な時に出てこないんだよ、とキャルの魂に訴えたアルミナも、これではもはや形無しである。
「私、先輩のことが大好きです! でも、先輩がそばにいてくれるより、先輩が先輩にとって一番幸せな場所にいてくれる方が嬉しいです! こんなナンパに惑わされて、第14小隊を離れちゃダメですよっ!」
「あっ、うん……わ、わかりました……」
こんなに熱い奴だったのか、この子は。両手で手を握られ、真剣な眼差しで訴えかけてくるプロンの姿に、人と向き合うことに真摯なアルミナでさえもがたじろぎ気味だ。アルミナを魂の熱さだけでここまで押し込み、言葉を失わせた奴なんて今まで一人もいない。
私先輩みたいな人になりたいんです、とか、どうやったら先輩みたいにカッコイイ女になれるんですか、とか、この後も熱く詰め寄ってくるプロン。ダメだ、この子いい具合どころかだいぶ酔ってる。単に酒を飲み過ぎたせいではなく、信仰心が大暴走している。流石のアルミナも、カシス色の吐息を至近距離から吐くプロンの甘い息に、頭がくらくらしてきた。
そばのキャルをちらちらと見て、助けを求めるアルミナだが、当のキャルはじっとりとした眼差しを返してくる。要するに助けてあげないよ、という意思表明。先輩ちゃんと私を見てくださいよ、とアルミナの両手を握り、愛いっぱいの目線で串刺しにしてくるプロンを前に、完全にアルミナが追い詰められている。
「……べたべたされるしんどさ、ちょっとは思い知ったら」
日頃から隙あらば、可愛いキャルを愛玩して撫で回してきたアルミナのつけが、こんなところで巡ってきた。止まらないプロンをなだめる匙も投げたタムサートは、プロンの後ろ姿を眺めながら、カリウスやエミューと共に一杯交わしている。誰も助けてくれない中、熱愛を注がれるアルミナはプロンが落ち着くまで、ずっと目を泳がせてしどろもどろしていた。
「まったく、みんな好き勝手やってるな」
「チータ? 先生にはもう挨拶してきたのか?」
「うん、姉さんにもね」
アイゼンやバルトのような、親しい騎士仲間とひととおり楽しんできたユースが、宴会の場でばったりチータに出くわした。向こうも古くからの縁とは楽しく語らってきたらしく、無表情の裏に満足げな気質がほんのり溢れている。
「で、ユースはエルアーティ様にはご挨拶したのか?」
「……しなきゃいけないのはわかってるけどさぁ」
「流石に何のお礼もしないのは良くないだろうに」
蘇生までさせて貰った立場なんだから、顔を合わせるこの機会に挨拶の一つもしないのはちょっと。当然ユースもずっと意識していたことだが、やっぱりあの人は怖いのだ。ましてとんでもなく大きな借りを作ってしまった今、あの意地悪思考回路で何を言われるかわかったものではない。あれはそういう人物だ。
それでもチータに言われて踏ん切りつけたのか、エルアーティの方に歩いていくユースなんだから真面目なものである。別にチータもユースをエルアーティに会わせて、嫌がらせをしようとしたわけではないのだが、言われてすぐに行動に移してしまうあたり、本当素直な奴だなと思う。
「……あの」
「あら、ユース。ご機嫌うるわしゅう」
誰とも話すでもなく、大ホールの中心で周囲を眺めるだけで楽しんでいたエルアーティは、近づいてきたユースにはしっかり反応してきた。そういえばいつの間に、ユーステットからユースと呼ぶようになっていたのだろう。
「あなたもね、チータ。レフリコス戦役では頑張ってくれたようで」
「聞いているのですか?」
「あなたが夢魔に引きずり込まれた彼を救ったんでしょ?」
周囲の華々しい功績に隠れがちの、勇者ユーステットを最大の窮地から救った友人のことを、エルアーティは決して軽視しないようだ。彼女の言う、ユースの運命力が彼を勇者としての道に進ませたのなら、チータに出会えたことも大いなるユースの運命力の一つか。あるいはユースの潰えかけた運命を覆すほどに、あの場所に居合わせたチータの運命力が強かったのか。いずれにせよ、シリカとユースの繋がりも運命を語る上でははずせないが、チータとユースを結んだ縁も、エルアーティにとっては見逃せない。
「本当、あなた達って興味深いわぁ」
「えっ」
ユースが思わず短い声をあげたのは、エルアーティの放った言葉によるものではない。今の言葉を吐き終えたエルアーティが、そばに置いてあった酒瓶をくわえ、ぐいっとラッパ飲みしたからだ。しかもあの角瓶、中身の色も見合わせてウイスキーにしか見えないのだが、ストレート? しかもよくよく見れば、エルアーティの脇には、カラの角瓶がごろごろ転がっているではないか。まさか全部この人が?
無性に背筋がぞわりとするユースから、さりげなくそそくさと離れるチータ。その挙動に気付いたユースが、一歩エルアーティから後ずさって離れようとしたが、悪い予感は既に的中している。ユースの目の前、にやりと笑ったエルアーティが立ち上がり、目を光らせている。
やばい、獰猛な肉食動物の目だ。ぞっとしたユースがもう一歩下がろうとしたが、エルアーティの眼差しはそれだけで、逃げるなとユースに意志力を強く訴えかけてくる。言葉も使わず、蛇の眼差しでユースを蛙にしたエルアーティが、動けないユースにゆらりと近付いてくる。
「ねえ、ちょっと付き合わない? あなたのこと、もっと知りたいわ」
嫌です絶対嫌です。少し入っている酒の勢いでそう言おうとしたユースの口を、一瞬早くエルアーティの指先が塞いだ。それだけで言葉を封じられたユースは、騒がしい宴会場の真ん中で、賢者とたった二人の鳥かごに閉じ込められたかのように、心と体を縛られて動けなくなる。
「いいでしょう? 痛くはしないから……」
「こらぁ」
妖艶な瞳をユースに向けていたエルアーティを、後ろからひょいっと持ち上げた誰かがいる。彼女と同じく幼い体つきだが、エルアーティの後ろから両脇に手を入れたルーネが、お人形さんのように軽々とエルアーティの体を浮かせている。
「あらあら、邪魔されちゃった。せっかくいいところだったのに」
「エルアってば、相手が嫌がってるのわかっててそういうことするでしょ」
「そうかしら? 彼もそろそろ、いじめられる快感を覚えてきたように見えるけど」
「いやいやいやいやいやちょっとちょっと!?」
エルアーティの呪縛めいたものが、ルーネの介入で一気に解けたのか、心外な語り口を必死で否認するユース。流石にここはノーと答えておかないと、もはや尊厳に関わる問題にまで発展する。
もういいわよ、降ろしてとエルアーティに言われ、ルーネが宙ぶらりんになっていたエルアーティを地に着ける。礼はいいからもう行きなさい、と、冷たくない声で言ったエルアーティに従い、ユースは足早に賢者達の前を去っていく。深々体を90度近く折り、エルアーティの後ろのルーネに頭を下げたユースの姿からは、助けてくれたルーネに対する感謝の気持ちが、可哀想なぐらいよく現れていた。
「あーあ、こうなったらルーネの体で埋め合わせして貰おうかしら」
「はいはい、やめてやめて」
ルーネに振り向き、体を寄せてちゅっちゅっと唇をすぼめて近づけてくるエルアーティに、実に慣れた手つきでルーネも拒否。ほとんどウイスキーの匂いしかしない彼女の吐息だが、これでも別に酔ってなんかいないようだ。エルアーティのルーネに対するべったべたの愛情表現は、酔ってなくても酔ってても普通にある。
「ねえ、男くさい宴会場じゃ盛り上がらないわ。ベッド行きましょう?」
「やめましょう? ねっ?」
エルアーティは還暦が近付いた今でも、独身かつ経験もないそうだから、本当にそっちのケがあるのではと実しやかに噂されていたりもする。まあ、ルーネいわくそうではないらしいから、大丈夫なんだろうけど。誤解されるような冗談を自分から好んで使うエルアーティだが、周囲の目を気にするルーネが、太陽のような笑顔で釘を刺してくれば、やれやれとエルアーティも肩をすくめるしかない。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
腰を降ろしたエルアーティは、目の前に座ったルーネに角瓶を渡す。嬉しそうに受け取ったルーネは、新品の蓋を空けた瓶を両手で可愛らしく持つと、んくんくと喉を鳴らしていくらか飲む。注がない割らない顔色変えない、この人も酒に対する耐久力がどこかおかしい。
はぁと一息ついて、うふふと幸せそうな声を漏らして笑うルーネ。笑うところがあったとは思えぬ、突然じみた笑いだったが、エルアーティにはどうして笑ったのかがすぐわかる。幸せなんだろうなって。
「あーあ、期待はずれだわ」
「何が?」
「ようやく訪れた平和を実感して、酔ったあなたが不意に泣き出す顔とか見たかったのに」
笑い声と幸福に満ちた宴会場を見渡す二人。血生臭い戦場ばかり駆けてきた戦人が、苦しみのすべてを忘れ、こんなにも楽しそうな一夜を過ごしている。主催者であるルーネが見たかったものはこれであり、それを見た幸せに感涙するルーネとか、そういうのを期待してたらしい。底意地の悪い親友である。
あははと笑ったルーネの態度は、そんなことで泣いたりしないよと自信を持ったものなのだろう。感受性が人一倍強いルーネなら、充分にそんな展開も見込めていたエルアーティだったが、この態度を見て完全にその希望は潰えたと見えた。ああ残念、本当に残念と表情に見せるほどの顔で、エルアーティは浅く息をつく。
「……白状するとね」
並んで座るルーネとエルアーティ。二人の眼差しは騒がしい宴会場に向いており、互いの瞳の色は見えていない。顔を見ただけで互いの考えていることがわかる親友同士、というたとえ話はよくあるが、この二人が互いの心に触れ合う時、表情もいらない。声だけで充分だ。
「先にもう、済ませてきたから」
「そう。勿体ないことしたわね」
賢蘭祭が終わりを向かえ、自室に戻って一人になった時、抑えていた想いが止まらなくなってしまったらしい。本当に、多くのことが生じ、消えていった、長き戦乱の時代だったのだ。全てを乗り越え、ようやく本当の、完全なる泰平が人類の手に取り戻されたことの感慨深さは、隣人を、友人を、家族や故郷までもを奪われたルーネにとって、言葉で言い表せるものではない。見たかったルーネの涙を見る好機を逃したことを、勿体なかったと腐った言葉を吐くエルアーティだが、同時に、だから遅れて来たんだろうなとも冷静に分析している。
「お疲れ様。よく頑張ったわ」
「……うん」
ルーネに向き直り、自らの角瓶を差し出すエルアーティ。少し恥ずかしい数時間前を明かしたルーネが、誰にも言わないでねとお願いする表情には、エルアーティも微笑んで約束するしかない。ありがとう、という言外を、角瓶を優しく当てにいく乾杯の音に乗せ、二人の賢者が瞳を通じて心を繋ぎ合う。
顔なんか見なくても、お互いの考えていることがわかるはずの間柄。わざわざ意図して顔を合わせるのは、見合うことでより深く、互いの幸せを共有したいからだ。
酒をちょっとだけ口にして、うるさい宴会場を視界の真ん中に据える二人。ようやく訪れた平穏に、隠せないほどの幸せを感じてやまないルーネ。そんな親友の幸福を実感できるなら、普段は煩わしいはずの男どもの騒ぎ声だって、エルアーティにとっては悪くないものだ。親友を幸福たらしめてくれるなら、何であってもエルアーティには痛くない。
元々賢蘭祭は、魔王を討伐できようが出来まいが、開催する予定だったのだ。いかに戦乱の厳しい時代であっても、例年必ず貫いてきた年一のお祭りが開かれないという形になったら、人々の心は必ず蝕まれる。直接魔物達の脅威に脅かされないだけましにしたって、それらの脅威に常に怯える人々が、ささやかな楽しみまで奪われてしまっては、それこそ人の心が大悪や脅威に呑み込まれたことに、何ら変わりない。
状況は大きく変わった。魔王のような脅威に恐れなければならない時代でも、人々の心に宿るはずの安息までは手放さない。そうした意志力のもと開催決行されるはずだった賢蘭祭は、魔王の討伐を果たした上で行なうことが出来たのだ。苦境を意識せずにいられなかった時代を終え、明るい未来の始まりの象徴として、人々の笑顔で溢れる賢蘭祭を見た時、ダニームの魔法使い達は何を思っただろうか。こんなもの、ルーネでなくたって目頭が熱くなっておかしくないのだ。この何にも代えがたい平穏な時代の幕開けに至るまで、どれほどの犠牲と悲しみが積まれてきたか、幸いにも長生きした者に限って、胸が張り裂けるほどよく知っている。
常に、常磐に、常しえに、人々の未来に倖い多かれ。言葉にしたのは賢者様、願い望んだのは幾多の意志。絶大なる力を持つ魔王、獄獣、夢魔、百獣皇、百獣王、魔将軍――それらをことごとく打ち破り、ついに末永き平穏を獲得したのは、決して諦めなかった人々の総意が勝ち取った、砕けて割れない結束力と意志力の結晶だ。
平穏なる時代であれば当たり前のように見られるはずの、脅かすものを恐れず笑い合える普通の団欒。それの拡大構図を絵に描いたかのような、戦士達が血を忘れて騒ぎ合えるこの光景。それこそがまさに、時代の変わり目の象徴だ。




