第267話 ~賢蘭祭④ 勇者様でもこれは無理~
僅かな湿気と冷ややかな風が吹く、鍾乳洞のような真っ直ぐの道。おばけ屋敷の最終関門、第三エリア"とってもこわいゾーン"は、ここがアカデミー別館内だとは思えないような風景だ。広い一本道の脇には、岩壁のそば各二つのかがり火が順路に沿って設置されており、暗くない道をユースとアルミナが歩いていく。
前に進むにつれて、二人を挟むかがり火は大きなものに変わっていき、鍾乳洞を進んでいくような光景が、非常に明るく照らされる道のりだ。肩がユースにひっつきそうなほど、ユースと近い立ち位置を離れたがらず歩くアルミナだが、彼の腕に組み付いてばかりだったさっきまでよりは、いくらか冷静だとも言えよう。どこか不安げな表情は仕方ないにせよ、目の前の光景がはっきりしているというだけでも、真っ暗闇の時よりはよほど落ち着くのだろう。
「……あれ?」
曲がり角も横道もなく、しばらくそうして歩いていった末、見えてきたのは行き止まり。つるりと綺麗な氷の壁が目の前に広がっており、完全なる袋小路のようにして、ユース達の進む道を塞いでいる。平たい氷の壁には、鏡のようにユースとアルミナの姿が映っており、いくらか厚そうな氷の壁の向こう側には、順路らしき道が続いているような光景も透けている。
二人がきょろきょろと周囲を見回しても、進めそうな道はどこにも無い。目に映るのは両サイドの大きなかがり火、岩壁、さっきまで進んできた道、そして戸惑う自分達を映した鏡のような、氷の壁。先に進もうと思ったら、この氷の壁が溶けてなくなってくれれば話が早そうなのだが、それはあくまでたとえ話であり、現実的な話だとは二人も思っていない。
だが、隣に立ち会うユースとアルミナが顔を合わせたその時のこと。道の左右のかがり火が、ここまでの道のりで後方に置き去りにしてきたものも含め、ぼわりと一瞬大きくなったのち、ふっと消えてしまったのだ。明るかった鍾乳洞に光源が失われ、あっという間に真っ暗闇。突然のことに、慌てた手探りでユースを見つけたアルミナが、ぎゅっとユースの左腕にしがみつく。本日の基本ポジショニング。
何か来るのか、と身構えるユースの目の前、異変は露骨に現れる。目の前にあった氷の壁、それに映っていた自分達の像だけが、闇の中でぼうっと姿を現す。鏡に向き合うユース、彼の左腕にしがみつくアルミナ、闇に戸惑う二人の姿と表情が、真っ暗闇の中でいやに明朗だ。
「こっちだ」
「さあ、おいで」
思わず声にならない悲鳴をあげるアルミナは、呼吸が一瞬完全に止まりかけた。目の前の、氷の壁に映ったユースとアルミナの像が、にやりと笑って二人にそんな言葉を投げかけてきたからだ。自分の顔が、あんな妖しい笑みを浮かべる虚像の光景には、二人の背筋もぞわぞわと鳥肌を立てる。
かがり火を失っていた燭台の上に、極小の炎が再び宿り、真っ暗闇だった鍾乳洞の中を、薄く薄く照らす。にやりと笑っていた、氷の壁に映っていた方のユースとアルミナが、二人の行動とは無関係に振り返って歩きだす。鏡に映ったユースとアルミナが、自分達に背中を向けて歩いていく姿を見ていることしか出来ない二人の目の前、氷の壁が溶けていく。完全に道を塞いでいた大きな壁が、多量の水をかけられた砂山のように、ものの十秒で溶けて無くなっていったのだ。
「……行くぞ」
「う、うん……」
道は目の前に続いている。心強い大きなかがり火に照らされていた数秒前とは異なり、極小の炎がぼんやりと先を照らしてくれている、暗い一本道。ここはエルアーティが作り出した、挑戦者達を迎え撃つ恐怖の空間。それを頭に刻み直した二人は、遠方が漆黒に染められた道を、覚悟を決めてゆっくりと歩き始めた。
解けた氷の壁が作り出した、浅く大きな水溜りを歩く音すら、一本道ではよく響く。ぴちゃぴちゃという二人の足音が、前進を実感させると同時に、危険な何かへと自分達が近付いている示唆にも感じられる。何が起こっても負けるものか、と決意を固めなおす二人の気概は、ある意味戦場に臨む時とあまり変わらない。百獣皇ノエルや獄獣ディルエラにも勇気を振り絞って立ち向かった二人だけに、その決意から来る心根は、頑強であるはず、なのだが。
鍾乳洞のような一本道を抜け出たその先には、うっすらと足元に生える湿った草、荒廃した草原を駆けるような寂しい風の音。開けた大きな空間に出た二人の目の前は、雲に覆われた月に照らされる程度の明るさしか無い、夜の廃墟のような雰囲気が漂っている。いや、十字架型の何かが乱暴に地面に突き刺され、傾いてそびえる墓石のような影を見るに、墓地のような場所と言った方が適切か。
オバケが夜中に運動会でもやってそうな空間を、ユース達は進んでいくしかない。背の低い草が風に揺れ、かさかさと立てる音が、静かな墓地にはよく響く。建物内であるはずなのに風が吹く時点で、エルアーティの細やかな演出が利いているのだろう。あくまですべて、賢者様が仕掛けた演出であると自分に言い聞かせ、メタな発想で恐怖心に蓋をしようとするユース。おばけ屋敷ではそういうのもありだ。完全にこの異世界感に心を捕えられ、真っ白な頭でユースの腕にしがみつくアルミナの方が、おばけ屋敷にとっては可愛い客だけど。
「う……」
「アルミナ?」
「いや……あそこ、多分……」
びくびくしながらアルミナが、ある十字型墓石の根元を指差す。確かにそこには、暗闇の中でもぞもぞ動いている何かがある。気にするなよ、と返しながらも、ユースもそれから距離を取った道を選んでの前進だ。迂闊に近づいたりしようものなら、あの辺りから腐った手ががばっと生えてきて、足首を掴んできたりしかねない気がする。ユースの個人的な印象論だが、エルアーティってそういう悪趣味な罠が好きそうだし。
だが、十字型の墓石は無数にある。その根元の土が、もぞもぞうごめく場所もそれなりに多く、それらを避けようと思ったら道が無い。あっちでもない、こっちでもない、墓石の根元の土がもぞもぞしていない通り道はどこかに無いのかと、ユースの足が行き詰まる。アルミナも同じで、ユース以上に不審な墓石のそばを通りたくないのか、おろおろしながら道を探している。
「……アルミナ、行くぞ」
「ま、待って……心の準備が……」
根元が怪しい墓石に囲まれたここから脱出するには、どれか一つの墓石の近くを通るしかない。言ってもここだって、アカデミー内に広くつくられただけの限られた空間。あっちから来たので、順路はあっちだろうなという目測はついているし、ユースがくいくいとアルミナをそっちに導こうとする。埒があかないと主張するユースの意図を感じた上で、アルミナは深呼吸を繰り返し、覚悟を決めている。しばらくそうして、いいわよ、と震えた声で言い放つアルミナと一緒に、ユースが墓石のそばの道へと踏み出す。
ゆっくり、ゆっくり、しかし墓石に近付いた瞬間に急加速して、根元の土がうごめく墓石のそばを通過する。ユースもアルミナも息ぴったりの速さだ。正直通過する瞬間は、どうか何も起こりませんように南無三という心地だったのだが、何が起こるでもなくユース達は、不気味な墓石の近くを素通りすることが出来た。
が、実は何も起こっていなかったわけではない。何も起こらなくてよかった、と、はぁ~っと息をつくアルミナの横、ユースの全身から嫌な汗が噴出し始めている。アルミナはユースの腕に顔を寄せ、前を向いているだけだったのだが、念のため後ろを振り返っていたユースは、目の前の光景に、止まらぬ悪寒を抱いていた。いや、あれ、冗談だよなと。
「…………!? ちょ、ちょっとユース……!?」
ほっとしていたアルミナを引きずるかのように、表情を引きつらせたユースが前へ前へと足早に歩こうとする。戸惑いながらもユースの速い足についていくアルミナだが、冷静なのは今むしろ彼女の方だろう。通過した墓石を振り返ったユースの目の前にあった、墓石のそばに立つ何者かの影は、ユースの冷静さを奪い去るにはあまりにも充分だったのだ。
すごくどこかで見覚えのある、全身甲冑のシルエット。いや、あれがこんな場所にいるはずがないと、頭ではわかっているはずなのに、一刻も早くあれから逃れたくて仕方ない。動悸と息切れが同時にユースを襲うほど、さっき目にした光景はインパクトがある。
「逃がさん……」
「ひ……!?」
悲鳴をあげたのもアルミナではない。突然聞こえた何者かの声に、肩を跳ねさせたのはアルミナもそうだが、裏返った声を思わず発したのはユースの方だ。今のは聞き間違いだろうか。いや、絶対そうだろ、そのはずだろ、まさかと一瞬思って悲鳴をあげたけど、まさかそんなわけないはず。
「貴様だけは、絶対に……」
やばい、これはやばい。すべてエルアーティの作った演出だと、あれほど自分に言い聞かせていたはずなのに、ユースの平静心はその声で一気にぶち壊された。アルミナがそばにいなかったら、恐怖のあまり一気に駆け出して逃げていたに違いない。無我夢中でアルミナを抱き寄せ、彼女の頭を両腕で抱え込む形にし、彼女を守ろうとする形を作らずにいられない。
だって今の、完全にウルアグワの声なんだもの。墓石の後ろに立っていた甲冑男の影も、完全にウルアグワのそれだったんだもの。どんな理屈で上塗りしたって、これはユースが目にして耳にして、落ち着いていられたものではない。
「や……っ!?」
冷静さを欠いたユースの挙動に伴い、アルミナもいっそう不安を感じ始める中、何かががっしりとアルミナの足を掴んだ。平坦な草むらの地面から、地表を突き破った人の手が生えてきて、アルミナの足首を捕えたのだ。アルミナを抱きかかえていたユースにも、急に前進する動きを引き止められた彼女が、自分の腕からずれた感触として異変を感じ取っている。
「アルミナ!?」
「やっ、離し……おねが、お願いだから……っ!!」
自分の左足首をがっちり掴んだその手を、半ばパニック状態でアルミナが振りほどこうとする。その手を右足でげしげし蹴り、力がゆるんだ拍子に引き抜くと、後ずさってその手から離れる。荒い呼吸を繰り返し、目を白黒させてユースの胸に顔を寄せ、がたがた震え出すアルミナ。さあやばくなって参りました。
次の拍子、新たな魔手がにょろりとユースの背後から忍び寄る。その手は冷たく、ひたりとユースの首を後ろから包み込み、奇襲に驚いたユースは大慌てだ。反射的にそれを引き剥がそうと、両手を首元に持っていくユースだが、それに伴いずっとアルミナを抱き寄せていた手が、ついにアルミナを手放す形になってしまう。
この空間を包み込む賢者の魔力は、その一瞬の隙を見逃さない。アルミナの背後、どこからともなく伸びてきた二本の手が、後ろからアルミナの両肩を掴み、勢いよくユースから引き剥がした。突然の後方への力に引き寄せられたアルミナは、踵を土と草につまづかせて尻餅をついてしまう。腰を貫く痛みがないのは、尻餅をついたその場所だけがぶにゅんと柔らかくなり、客を怪我させないための賢者の魔力が精密にはたらいてくれたからだ。そういう意味では安心設計。
「やっ、いやっ……!? ユース……ユース、っ……!」
地面から生える手に、ぐいぐい肩を押し付けられ、立ち上がることが出来ないアルミナの前方には、確かにユースがいるはずなのだ。しかしこのタイミングで、墓地を僅かに満たしていたかすかな光も消え、何も見えない真っ暗闇で、アルミナはユースの姿を視認することが出来ない。闇の向こう側、魔手に首を絞められて苦しそうにうめく、ユースの声だけが聞こえてくる。
「あ、アルミナ……っ! だ、大丈夫……大丈夫、だから……!」
ユースの方からもアルミナの姿は見えない。なんとか彼女に声を届け、恐怖を克服できるように気丈な言葉を投げかける。のだが、実は、ユースの言葉はアルミナには届いていなかったりする。アルミナがユースを呼ぶ声も、ユースの方には届いていなかったりする。ここは、そういう空間なのである。
実はこの第三エリア、種も仕掛けも入り口付近の時点から仕込まれていたのだ。入ってしばらく、二人を照らしていたかがり火。二人の姿を映した巨大な氷の壁、鏡。あれがここ、"とってもこわいゾーン"の肝となるエルアーティの新魔法、想起を発動させるスイッチになっていた。
まず、明るい光で二人の姿を照らす。照らした二人の姿を、氷の鏡に映す。それに際し、エルアーティの想起という魔法の魔力、その凝縮体である氷の壁で、ユースとアルミナの精神模様の奥底を覗き込む。氷の鏡は人の心を覗き込む瞳の如く、二人の記憶の奥深くから、"今までの人生の中で最も恐ろしかった記憶"を探り当てる。
二人を照らすという仕事を終えたかがり火は、あっという間に消えて二人を一瞬の闇に置き去りにする。この時点で、二人の感覚を狂わせ、現実と異なる世界を見せたり聞かせたりする、想起は発動している。光に目が慣れ、完全なる闇に目の前を奪われた二人の視界は、ここから既に現実世界を見られる目ではなくなっているのだ。端的に言えば幻覚を見せられており、氷に映った自分達の姿が、自分達と違う動きをしているように見せられたのもそのせいだ。
何も知らぬまま、想起の魔力に捕えられた二人は、そのまま順路を進んで墓地めいた空間へ辿り着く。墓地の光景は実際にそういうデザインなのだが、このいかにもな雰囲気に身構える客は、よもや自分の目が既に、自在に幻覚を見せられてしまう状態だとは思わないだろう。何が現れるかわからない墓地を捕獲対象が歩く中、やがて頃合いを見計らい、幻覚見せて揺さぶってやるという仕組みである。
ユースのこれまでの人生で、最も恐ろしかった経験といえば、やっぱり夢魔の世界でのウルアグワとの遭遇だろう。あれはもう、トラウマレベルと言ってもいい。そんなユースが振り返った瞬間に、黒騎士のシルエットという幻覚を見せてやれば、どうしたってユースは冷静さを失う。あとはこの墓地、足元すべての土や草が、実は水と木と金と土の魔力を合成したものであり、状況に応じて形を変えて、客人を襲える武器にされているので、これを使う。水と土の魔力でその形を変え、木の魔力で芯を得た土は自由自在に動き、手の形になったそれは金と火の魔力で感触や温度を得る。まるで人の手のようなものになってユースとアルミナに襲い掛かっていたのは、ここ一帯の土が変形したそれらである。
隙を見て、アルミナとユースを孤立させれば、あとはもう仕掛け人である賢者様の掌の上。対象の記憶の奥底、トラウマを読み取った想起の魔力が、悪意いっぱいに暴れ出すのはここからだ。
こちらはアルミナ側。目の前が真っ暗なのは光を失ったせいでもあるが、彼女が闇を好まず、恐れる側の人間だと読み取った想起の魔力は、アルミナの視界を遮断している。仮にこの区画を、物理的に強い光で照らしたとしても、今のアルミナの目には何も映らない。
土を変形させた、人の手めいたそれらがアルミナを、地面に捕まえて放さない。尻餅ついたままの彼女の両肩を、ぐいぐい地面に引き寄せて、背中から倒されてたまるかとアルミナも肘を突っ張っている。しかし新しく生えてきた二本の手が、アルミナの両足首を掴みにかかり、その感触がアルミナをよりパニックに陥れる。
そんな中で、前方から、ぐしゃりという骨が砕けるような音がしたら、何を連想してしまうだろう。屈強な拳がユースの頬を殴りつけ、顎が砕けた音ようなとともに、くぐもった悲鳴をあげるユースの声が聞こえてくる。もっとも、これも幻覚。想起の魔力は、アルミナの聴覚にまで侵食し、存在しない恐ろしい音を、アルミナの脳裏に刻み付けてくる。ちなみに闇の向こうでは、数本の手に動きを拘束されたユースが、大丈夫だとアルミナに呼びかけているのだが、そっちはアルミナの耳には届かないよう遮られている。今のアルミナの耳の奥には、見えない眼前でいたぶられているユースを予感する音しか響いていない。
「ユース……っ、むぐっ!?」
恐ろしいことが目の前で起こっているとしか思えず、泣き叫ぶようにユースの名を呼ぼうとしたアルミナの口を、後ろから伸びてきた手が塞いでしまう。首を振り乱し、それを振り払おうとするアルミナだが、口を塞ぐ手の力は強く、アルミナに声を発させてくれない。塞がれたままの口で、離してお願いと絶叫するアルミナの想いもむなしく、さらに地中から生えてきた手が、突っ張ったアルミナの肘を握り締める。
伸ばしたままで踏ん張っていた肘を、曲げさせられたアルミナは、とうとう背中を下にして、地面に押さえつけられる形になる。そんな中でも、ユースのいた方向から聞こえる音は、より過激さを増していく。なんと言うかこう、ぐちゃり、めきり、ぶちぶち、という、とってもえげつない音のオーケストラ。しかも体を破壊されていると思しき、ユースの悲痛な叫び声のおまけつきだ。たとえばの話だが、これが幻覚の音だとわかっていたとしても、耳にして落ち着いていられるものではあるまい。
ましてやアルミナは、今聞かされている音や声が、幻覚だとは知らないのだ。やばい、殺される、滅茶苦茶にされる。ユースが挽き肉にされているかのような音を間近に聞き、ろくに身動きとれないアルミナは、まさに死にもの狂いで暴れようとする。しかし彼女を捕える手はどんどん増え、仰向けに倒れたアルミナの足首、膝、太もも、手首、腕、肩を掴む手が、がっちり彼女を離さない。次第にそれらが指先を立て、みちみちとアルミナの肌を圧迫してきた瞬間には、肉を引きちぎられるのではという恐怖で、アルミナの顔面が蒼白になる。
「んぐ、っ……!? かっ、ぐ……むぁ……っ!」
アルミナの口を塞いでいた手は、指先を揃えてアルミナの口の中に突っ込んできた。指の腹で舌を押さえつけられ、えづきそうな苦しさと声を発せない口を作られたアルミナは、やめてお願いと首を振り乱す。しかし、そんな彼女の目の前に、ゆらりと新たな手が生えてくる。それは掌をアルミナに向け、曲げた親指と小指が真っ直ぐにアルミナの両目に向いている。まるでその指で両目を抉られるのではないかという恐怖、すでに涙でずぶぬれになった目を閉じることも出来ず、必死で目の前の掌からアルミナが顔を逸らそうとする。
地中から生えてきた最後の二本の手が、アルミナの頭を両サイドから挟み、ぐいっと掌の方に顔を向けさせる。顔を逃がそうとすることも出来なくなったアルミナが、涙目で向き合う真正面から、殺意しか感じられない掌がゆっくりと迫ってくる。わざとゆっくり。その掌で顔の皮を剥がれる予感すらするアルミナに、迫られる恐怖をじっくり味わわせるかのようにだ。さすが術者が意地悪なだけあって、自立して動く土の手どもも性格が悪い。
もうおしまいだ、とアルミナの心がへし折れ、急速にアルミナの目の前が真っ白になっていく。潤んだ瞳に真っ黒な掌が近付き、彼女の頭にその指がかけられたその時、完全にアルミナの意識は吹っ飛んでいた。
こちらはユース側。彼の方も想起の魔力により、視界を真っ暗にされているのはアルミナと同じであり、近くの地面に引き倒された彼女の姿が見えていない。どこかに消えたアルミナを追いかけて探したいが、地面から生えた手はがっちりとユースを捕まえ、自由になどさせてくれない。しかも想起の魔力の器用なところは、ユースに巻き付く触手のような伸びる手が、ユースの右手首をぐるぐる巻きで捕えた上で、その後首に絡みついているところである。ユースがウルアグワの魔手に捕われた時と同じ捕まり方であり、彼のトラウマを掘り起こした魔力が、一番ユースにとって嫌な捕まえ方をしている。
ユースの耳に届けられる幻覚の音もひどいもので、助けてとか、もうやめてとか、何かに必死で抵抗しつつもどうにも出来ない、アルミナの悲鳴ばかり。恐いというより、仲間が滅茶苦茶な目に遭わされているのに、近くにいる自分がそれを耳にしつつ、何も出来ずにいるという生殺しシチュエーション。これも広義では、ユースにとっては恐ろしい経験には違いないのだが、本来おばけ屋敷が演出するべき怖さっていうのは、多分こういうものではないのでは。
まあ、想起で読み取ったユースとアルミナの精神を鑑みるに、仲間が死を迎えることこそ、二人にとっては最も恐ろしいことでもあるのだけど。死闘続きの魔王軍との戦い、ユースにとってはアルミナが、アルミナにとってはユースが、あわや死ぬ場面に直面し、背筋が凍った経験は一度や二度の話ではない。あれは二人にとっては全部トラウマである。結局その辺りが二人にとって、最も恐ろしい経験だろうと読み取った想起の魔力は、こういうふうに二人を攻め立てているわけだ。ある意味、目的には合致しているけど。
とまあ、アルミナが無残な目に遭わされ、次第に声も発せなくなっていくという音を、身動きとれずに聞かされるユースは、別の意味で泣きそうである。彼を捕える土の手は既に数を増やし、足首を捕え、腰に巻き付き、絶対にユースをアルミナがいる場所まで到達させてくれない。離せ、やめろ、やめてくれと絶叫するユースの絶望感は半端なものではなく、とうとうアルミナの声が聞こえなくなってくるにつれ、ユースの顔色から血の気が引いていく。ひどい。
「次は、貴様の番だ」
カシャン、カシャンと闇の向こうから聞こえてくる足音は、アルミナを救いたい想いで一心だったユースの意識に差し込み、全身の血を凍らせる。いや、実際には幻覚の音と声であったし、あいつが今さらこんな場所に現れるはずがないのは理屈で考えればわかるのだが、悪夢のような音を聞かされて冷静でいられないユースに、今の状況を正しく判断できるはずがない。やがて、闇の向こうから現れた全身真っ黒の甲冑に身を包んだ存在は、その姿を目にした瞬間のユースの心を、一瞬で恐怖一色に染め上げる。ちなみにこれも、想起の魔力がユースの記憶から読み取って作った、ウルアグワの形状を再現した土人形。
ここまで来るともう、アルミナの心配をしている場合じゃない。死よりも恐ろしい世界に引きずり込まれかけた経験から、アルミナを助けに行くために足掻いていたユースの動きが、迫る黒騎士から逃れるために拘束を振りほどこうとする動きに変わる。ちょっとこいつだけは本気で無理だ。あれほど案じてならなかったアルミナのことでさえ、一瞬で頭から吹っ飛んでしまうほど、ウルアグワという存在はユースにとってのトラウマである。とってもこわいゾーン、これは確かにとっても怖い。
「さて……どのようにして遊んでやるかな」
無我夢中で自らを縛りつける手を振りほどこうとするも、ユースは全く身動きが取れない。地中から生える手の数々は、ユースを立たせたままにして足首を、胴を、胸を、腕を、首をがっちりと捕えている。そしてウルアグワみたいな土人形がぬうっと手を伸ばし、ユースの喉元を掴んでくる。安心設計、首や喉を怪我しない程度の力加減なのだが、呼吸を苦しくする程度の握力だけでも、今のユースのメンタルには抜群に利く。
過去にユースがウルアグワに受けたような仕打ちも、本当にここで再現したら死人が出てしまうので、ウルアグワを演じる土人形にもそこまでのことは出来ない。首を絞めるとか、逆の手の指先二本をユースの目の前にちらつかせ、目玉をくり抜く示唆を見せるとか、腰元の鞘から抜いた剣をひたりとユースの首先に当てるとかして、ユースを怖がらせるのみだ。身動き取れない状況で、こんな奴を懐に入れてしまった恐怖は途轍もなく、これから自分はどうなってしまうんだろうという想いから、ユースの足の震えは止まらない。まあ、今のこれは正しい意味で怖がらされている、のかもしれない。
とりあえずまあ、いつまでも手を出してこないウルアグワが長く続きすぎると、ユースだってそのうちいつか「あれ?」って思い始めることだろう。悪辣な言葉責めと、凄惨な拷問を予感させる触れ方を繰り返し、しばらくユースの精神をいたぶっていたウルアグワ人形だが、真実を悟られる少し前ぐらいに引き際を決め、やがてはユースから一歩離れてくれた。やはり頭を真っ二つにしてやるのが一番だな、とか何とか言って、漆黒の剣をユースの前で一振り。まずい、殺される。死を予感したユースが必死で抵抗するも、彼を捕えた手の数々はユースを解放してくれない。
「さらばだ」
満足げにそう言い放った土人形は、ゆっくりと振り上げた剣を、勢いよくユースの頭に振り下ろした。もう駄目だ、と顔を伏せて、ぎゅっと目を閉じたユースの頭を、土で固められた剣が直撃する。直撃した瞬間に、適度な硬度で形状を保っていた土の剣が砂に変わり、あまり痛くない衝撃をユースの頭に届けて砕け散る。妙な感触に、おそるおそるユースが顔を上げて目を開くと、そこにウルアグワの姿は無い。ユースが目をぎゅっと閉じている間に、土人形はとっとと崩れて消えていた。
ユースの全身を縛っていた手の数々も、役目を負えてただの柔らかい土に変わって崩れる。強く自分を拘束していた力がいきなり失われ、前のめりに膝から崩れるユース。何が起こったのかさっぱり理解できていないが、とりあえず殺されてはいないということだけわかった。はっはっと短い呼吸を繰り返し、四つん這いの姿勢のまま、ユースはしばらく動けずにいた。
じきにアルミナのことを思い出したユースは、うなだれた頭をがばりと上げ、アルミナの名を叫ぶ。返事が返ってこないので、血の海に沈んだ彼女を想像したユースが、闇の中で涙目になってくる。
「――ここだよ、ユース」
今のユースに、闇の中でアルミナを探せる気力があるはずがない。幻覚の声だが、アルミナのいる方向の地面から、生気のあるアルミナの声が発されたあたりは、エルアーティの魔力が見せた鬼の情けである。声のした方向に這ってでも近付くユースが、近しい場所で倒れたアルミナに辿り着くのに時間はかからない。
アルミナの全身を縛っていた土の手はすでに消え、恐怖のあまり気を失ったアルミナが、どこも傷ついていない体で倒れていた。視界の悪い中、手探りでアルミナの体を撫で回すユースは、触っちゃいけない場所まで触っているが、今の彼はそれどころじゃない。アルミナの体が無事であることを確かめ、アルミナの胸に耳を
当て、心臓の鼓動音を耳にした瞬間、あまりにもほっとする想いにユースの全身から力が抜けていく。完全に失神したアルミナはぴくりとも動かなかったが、静かなこの場所で彼女の呼吸音も聞こえる。
心底胸を撫で下ろしたユースは、仰向けのアルミナの柔らかい胸に耳を置いたまま、脱力しきってしばらく動けなかった。下心なしで、本気で。
結局この後、冷静さを取り戻したユースが、アルミナをお姫様だっこして、第三エリアの出口まで運んでいった。憔悴しきったユースの精神模様を感知する、第三エリアの結界魔力はもう満足なのか、本来ならば追撃あったはずの魔力による仕掛けも、もう稼動しなかった。お疲れでしょうしもう勘弁してあげるわ、とばかりに、薄暗いながらも道を淡く照らしてくれる第三エリアの配慮が、帰り道のユースを導いてくれた。
第三エリアを抜け出た者が辿り着く出口、そこをくぐったユースの前には、第14小隊のみんなが待っていた。アルミナは失神したまま未だに目を覚ましておらず、ユースもおばけ屋敷に入る前と比べて、すっかりやつれ果てた顔色だ。昨日おばけ屋敷に挑戦し、想起による各々のトラウマを狙い撃ちにされたシリカ達も、疲れ果てたユースをからかうようなことはせず、お疲れ様、よく頑張ったと、優しくねぎらってくれたものである。普段だったら、情けねえツラしてるなぁってからかってきそうなマグニスでさえもが。
二度とエルアーティには関わりたくないとユースは思った。抱えたアルミナを近くの公園のベンチに寝かせ、彼女が目覚めるまでずっとユースは、空を仰いでぐったりとしていた。疲れましたと。




