第262話 ~英雄の凱旋~
エレム王都、関所の門をくぐって都入りした瞬間、夕暮れ前の王都入り口は大歓声に包まれた。コズニック山脈へと乗り込み、魔王を討つ旅に乗り出した騎士、傭兵達。魔王討伐を果たした知らせを受けていたエレムの王都は、待ちわびていた英雄達の帰還に、盛大なる拍手と歓声を惜しみなく贈った。
「はいはーい! 皆さん注目! こいつが魔王を倒した勇者の一人、ユーステット様ですよー!」
「おま……っ!?」
「無名の一般騎士から魔王を破った勇者様! さあさ皆さん、顔を覚えて覚えて! こいつがお偉いさんになったら、ご尊顔を覚える機会も……」
ユースの隣ではしゃいで注目を集めてくるアルミナの口を、ユースが慌てて後ろから塞ぎ止める。が、既に時遅し。魔王を討ち果たした三人の勇者、法騎士シリカと勇騎士ベルセリウス、騎士ユーステットの名は、とうに王都まで伝達されているのだ。ベルセリウスは言わずもがな有名人、シリカも元から史上最年少法騎士様ということでそこそこ名の知れた人物であったが、ユースの名を知っている騎士団外の一般人は、そう多くない。ユーステットってどんなお方だろう、と一目見たかった人々の目が、アルミナの煽りに引き寄せられるように集まってくる。
「ぷは……っ! こいつのこと、ユースって呼んで、あげて……っ!」
「やめて、マジやめてくれ……! 頼むから……!」
ユースの両手を口元から振りほどき、周囲の注目を集めようとするアルミナ。心底勘弁してくれという顔で、しぶとくアルミナの口を塞ごうとするユースの顔は、注がれまくる視線に晒されて真っ赤っ赤である。多くの人に、こんな賞賛いっぱいの目線を注がれることに、ユースは慣れていなさすぎるのだ。誇らしい親友を自慢するように謳うアルミナを憎むことは出来ないが、恥ずかしいからやめて欲しいというのがユースの心からの願い。
年の近そうなアルミナとわやくちゃする若き勇者様の姿は、魔王が滅んだという吉報を聞いた直後で、先行き明るい未来を予感する人々にとって、実に心和む見世物だ。初めて見るユースの姿を見て、町娘は笑い、子供たちは羨望の眼差しを向け、おっさんどもは仲良いなお前らと野次を飛ばしてくる。それらに晒され、どう反応していいのかわからないユースは、アルミナの口を捕まえたままおろおろするばかりだ。
「ほーら、ユース! みんなにその顔見せてやれよー!」
「うわっ……!? ちょっ、駄目だって……! 俺そんな……」
背後から忍び寄ったガンマがユースの股下に頭を突っ込み、力任せにひょいっとユースを肩車した。あっという間に高所に担ぎ上げられたユースは、抵抗しようにもぐらつきそうで、為すすべなく注目の的に晒し上げられる。軸のしっかりしたガンマはふらつくこともなく、ぐるりとその場でゆっくり一回転し、周囲に集まった人にユースの顔を見せつける。
ユースの手から解放されたアルミナが、ちょっと離れた場所からユースを見上げ、やっほー、と手を振ってくる。お前っ、とユースがアルミナを制止しようとしたのも虚しく、ユースに背を向けたアルミナの口は饒舌に回りだす。
「ユーステット=クロニクスの名前、覚えてあげてねー! エレム王国のみならず、人類の未来を救ったとも言える、魔王討伐を果たした勇者の一人ですよー! 」
大げさに両手を広げ、胸を大きく前に出して大声放つアルミナは、平穏な日々の訪れに歓喜する人々を上手に焚き付けるものである。野太い声が、いいぞいいぞーと指笛交じりにアルミナの謳い文句を囃し立て、周囲の静かな口をした大人達も、アルミナ後方のユースに向けて拍手を送ってくれる。にひっとユースを振り返り、もっと楽しみなさいよと目で訴えてくるアルミナに反し、ユースは羞恥のあまりに顔を伏せ、頭から煙を噴かせていた。
「こらこら」
後ろからガンマに近付き、背中をぽんと叩くシリカに、救いの女神様を求める目でユースが振り返る。そうですよやめさせて下さいよと、哀願するような目のユースには、少し離れて見守るクロムやマグニスも、悪い笑いが止まらない。
「ゆっくりでもいいからちゃんと歩け。後ろの方々がつかえる」
「はーい」
いや、あの、降ろして欲しいんですけど。シリカの注意を受けたガンマは、機嫌よく軽々しい足取りで前進する。全然状況は改善されてないし、自らに注がれる周囲の視線は更新されていくばっかりで、目のやり場にさえ困るんですが。
そうじゃなくて、とシリカに抗議の目を向けてくるユースの隣、言い換えればガンマの隣に並んで歩くシリカも、気恥ずかしそうに周囲に手を振って応えている。え、まさか俺もそうすべきだって態度で示しているんじゃないでしょうね、それ無理ですよ絶対に、と歯噛みし始めたユースに、ようやくシリカが目を合わせる形で見上げてくる。
「気持ちはわかるけど、私も嬉しいんだぞ。お前がそんな風に、みんなに認められる騎士様になってくれてさ」
びっくりするぐらい悪意のない笑顔でそう言われては、余計にユースが閉口して言葉を失ってしまう。ずっと敬愛してきた人に、そんな風に言われてしまったら、喜びのあまり持ち上がってしまう口の端を抑えられなくなってしまいかねない。そしたら自分がどんな顔になるのやら考えた途端、無性に表情を隠したくなり、結局口をぎゅっと絞って顔を伏せるしかなくなる。嬉しい意味でつらい。
天然でユースを袋小路に追い詰めるシリカの語り口が可笑しくて可笑しくて、クロムやマグニスは歩き煙草を嗜みながら、上機嫌でその後ろを追っている。ご機嫌ですね、と二人にわざわざ語りかけてくるチータも、それは何を面白がってるのかわかるから、しかも共感しているのだろう。あー超楽しい、と揚々とした声を返すマグニスも、くっくっと笑いながらユースから目を離さないクロムも、立派に周囲に認められるほどの男になった後輩を、温かい目と悪い目をいずれも内包して見送っている。ずっと自分達を慕い、懐いてくれた後輩が、あんなに華々しい舞台に祀り上げられてる姿を見て、嬉しくならない先輩なんかいない。
「ユースと握手してみたい子とかいるかなー? このお兄ちゃん優しいから、きっと握手してくれるよー」
「っ……!」
「いだだだだだっ!? ちょ、ちょっとユース、絞まってる絞まってる……!」
もうこの恥辱には耐えられない。自分を肩車するガンマの首を、太ももでぎゅうっと絞め上げるユース。いいから降ろせと力ずくで抵抗し始めたユースが、たまらずガンマの腰を降ろさせる。地面に二本の足で降り立ったユースは、着地と同時に痺れた足の痛みも気にせず、早歩きで騎士館への道をすたすた歩いていく。
「こーらー! 英雄様がそんな連れない態度じゃみんなも寂しいでしょー!」
「も、もう勘弁してくれ……頼むから……」
逃げるユースの手を握り、ぐいぐい引っ張るアルミナに、命乞いする兎のような目で懇願するユース。凶悪な魔物に襲われても勇ましく戦える勇気があるくせに、人の目には弱いってのも変な話である。せっかくヒーローになってるんだから胸を張って楽しめばいいのに、と口を尖らすアルミナだが、やはり自覚するほど下っ端騎士で下積みばかりの歳月の末、いきなりここまで上り詰めても戸惑う想いが拭えないということか。凄いねと言われたら、はにかんでもいいからありがとうと照れておけばいいものなのだが、どうもそれを素直に出来ないぐらいには、やっぱりユースは自分のことを過小評価し過ぎということなのだろう。
アルミナのお尻をぺちんと叩き、もうやめてあげようよと目で訴えるキャルを見て、アルミナもはぁ~っと溜め息をつく。確かにちょっと悪乗りしてた部分もあったけど、大好きな親友が魔王を倒した英雄になって、みんなに立派なその姿を見届けて欲しい部分の方が大きかったのだが。まあ、ユースが嫌だと言うのなら、強行すべきではないというのもわかるから、そろそろ引き際なんだろうなとアルミナも気持ちを切り替える。
「あんた本当、すごい事やってのけたのよ? もう少し胸張ったっていいはずなんじゃないの」
「……俺、みんなに見放されなかったらそれでいいとしか思ってないし」
彼が言う"みんな"というのは、第14小隊だとか、先輩や友人だとか、ユースにとって好きな人達のことだ。要するにユースが頑張るのって、大好きなみんなのそばに胸を張っていられる自分でいたいからであって、至らずして好きな人に見放されるのが一番怖いという話。だから、顔も知らない人達に賞賛されたって大喜びはしないし、顔を真っ赤にして伏せることしか出来ないのだ。シリカだとか、アルミナだとか、クロムだとか、尊敬する人ないし親しい人に褒めて貰えれば、そういう時がユースにとって何よりも幸せなんだろう。
そういう奴だとはわかっていたけど、謙虚を通り越して卑屈とさえ言えてしまうその思考回路には、アルミナも日々呆れそうになることが多々。見方を変えれば、ユースにとって特別な人の一人の中に自分が含まれているということだから、そういう意味ではアルミナもちょっと嬉しいかなとも思えるのだけど。
「心配しなくたって私達、あんたのことずーっと頼もしい奴だって思ってるわよ。そういう器用じゃないあんたのことも、全部好きになった上であんたと一緒に過ごしてきたんだからさ」
「…………」
「もうちょっと胸張って周りに手を振るなりしてあげなさいよ。あんたも昔、勇者ベルセリウス様や法騎士シリカ様に憧れた時期があったんでしょ?」
そんな二人と並んで戦い、魔王の討伐を果たせたのが今なのだ。強く憧れた二人の騎士様と並ぶ立ち位置で、凱旋する英雄として迎え入れられた今の状況を、誇らしく思えなきゃ勿体ないよとアルミナは言っている。からかうように囃し立てた少し前の自分が正しかったとは言わないけど、今のあんたは昔の自分とは全然違う、立派な騎士様になったんだよという言外は、アルミナの語り口からユースには伝わっている。
「ほら! 頼りない顔してないで、立派な騎士ユーステットの勇姿を見せてあげなさい!」
快活な笑顔でユースの背中を叩くアルミナが、猫背のユースを強引に真っ直ぐにする。小さく悲鳴をあげるほどの痛みに、一瞬拗ねた顔を見せたユースだが、両手を頭の後ろに組み、誇らしい親友を温かい目で見るアルミナを目の前にすると、沸きかけた怒りも煙のように消えてしまう。
「……ん」
アルミナの言葉に耳を傾けていた間は聞こえなかった、周囲からの歓声が再び耳に入り始める。やっぱり、やったよ俺と堂々とした胸を張るには、この状況は慣れな過ぎる。ただ、頭を冷やしたアルミナの言葉はユースの戸惑いを鎮め、さっきよりも落ち着いた心持ちで、周囲を見渡すだけの余裕をユースにもたらしてくれている。
初めて騎士を志した頃の自分と、同じぐらいの小さな男の子が、母の手を握りながら目を輝かせてこっちを見ているのだ。無邪気な瞳を目の前にして、ユースも気恥ずかしさを抱く一方、じんわり胸の奥が熱くなっていく実感が沸く。逸らしそうな顔をこらえ、小さな男の子に不慣れに手を振ってあげると、反応を得た男の子は、嬉しそうな笑顔を返してくれた。
「……凄いな、あいつ」
「うん……アルミナって、ユースのこと誰よりも知ってると思う」
本腰据えて話し込めば、誰かに手を触れるぐらいまでユースを励ますことが出来ている。自分には出来ないことを、自然とやってのけるアルミナの姿を見て、不器用な付き合い方しかユースと出来てこなかった自分に、シリカはちょっと胸が痛んだりもする。キャルがシリカに返したとおり、ユースのことを誰よりもよくわかっているのは、自分ではなくアルミナの方なんだろうな、とも。
「おーい、シリカ」
そんなことを考えていたら、周りに反応するのを忘れるぐらい上の空になっていたシリカに、後ろから近付いたクロムが語りかけてくる。これもまた、人のことをよく見ていて、いい所で声をかけてくれる友人だ。
「あんまり、焦るなよ」
「……どういう意味で?」
「自分なりに解釈してくれれば一番いい」
色々励ましてやりたいものの、踏み込みすぎると悪い意味でかき回すことになるので、クロムも言葉を選んでいる。あまり直球にものを言わず、シリカにその言葉の解釈を委ね、あくまでシリカの意志で動いて貰わなければいけないのだ。それでこそ、今まで意識してこなかったことにをシリカが意識するきっかけ、それを良い形で作れるのだから。
マグニスでさえも基本的にはそうなのだが、悪友二人は何だかんだ言って、シリカのことを案じて、ものを言ってくれていることが多いのだ。声色次第でそれは顕著にわかりやすいもので、クロムが妙な意地悪や悪戯心で今の言葉を言っていないこと、話の進め方も慎重になっていることは読み取れている。
「……頑張ってみるつもりだよ」
いい解答だ。悪意なき上機嫌の笑顔を向けてくれるクロムの姿に、それでいいんだの無言を受け取ったシリカは、アルミナと並んで前を歩くユースを追いながら、周囲の歓声に手を振っていた。
魔法都市ダニームに帰り着いた魔法使い達も、同じく故郷の熱烈な歓迎を受けていた。直接の魔王討伐に関わった魔法使いはいなかったが、誰もが勇者を魔界に導くため、歴史の日陰で全力を尽くしてきたのだ。その各個の功績は決して史書に載るようなものではないが、同じ時代に生きた者達はみな、戦場に赴いた勇敢な知人の姿を、たとえ歴史に刻まれなくとも誇らしく感じて迎えてくれるものだ。
最後の功績を上げた者だけを賞賛し、命を懸けて戦い抜いた万の凡兵にも目もくれぬほど、戦人を見送った人々の心は冷たくない。戦い抜いて勝利に僅かでも貢献した者、すべてを勇者と解釈する考え方は、極端なものではある一方、決してそこまで的外れではない。安寧を勝ち取るための、命を懸けた魔王や魔物との戦いというのは、挑むだけでもそれだけ重いことなのだから。
英雄凱旋を迎える人ごみを小さな体でくぐり抜け、ようやくアカデミーの自室に辿り着いたルーネは、ほうと息をついて体を落ち着かせる。魔王討伐が達成されたのは昨日の夕暮れ、コズニック山脈からの帰り道は非常に長く、勝利からの撤退というゆっくりとした足取りも相まって、勝利確定の瞬間からまる一日以上過ぎたのが今の時間帯だ。日は沈み、町は街灯に照らされる時間帯だというのに、戦人の生還を喜ぶ人々の騒ぎはとどまることを知らず、アカデミーの外から聞こえる歓喜の声は絶え間ない。やり遂げた、その実感を汗ばむ手で再認識すると、ルーネも独りで安らかに、笑顔を浮かべずにいられない。
ディルエラとの一戦でぼろぼろになった体だったが、生を望む自らの意志力は、人並み程度に歩ける程まで体を支える魔法を、絶えることなく実現させてくれている。今や寝ていても発動させていられるほど、この身に馴染んだ身体能力強化魔法のおかげで、既に死んでいてもおかしくないはずの体で生き延びられたのだ。落とさなかったこの命を、近く訪れる再興の日々には惜しみなく使おうと、既に次のことに頭を回している辺りが、やはり魔法都市の要人を務める賢者の切り替え速さなのだろう。
やるべきことはいくらでもある。ラエルカンの復興ひとつとっても、いくつ段階を踏んでやっていくのか、そのためにかかる予算はいくらか、その資金はどこから調達するかと、軽い草案時点で問題は山積みである。大きな災いと人類が直面した時、本当に大変なのはそれを乗り越えた"後"、災いによって失ったものを補って、社会を復興させていくことなのだ。無くなったものを再び作り上げていくことの大変さというものは、手元にあるものを守っていくための戦いとは、また別次元の困難を数多く含むものなのだから。
とはいえ、平和への宴を喜ぶ町の空気の中、一人で知恵を絞っても仕方ない。ひとまず今日はゆっくり休み、明日から各地の復興に向けて頑張ろうと決めると、替えの法衣や下着を持って、ルーネはアカデミーの浴室に向かっていく。今のこの時間帯、人が集まるのはどんちゃん騒ぎの町中か、負傷した戦人やそれを見舞う人々の集まった医療所ぐらいのもの。アカデミーの浴室なんて過疎の時間帯であり、今のうちにお風呂を独り占めして、さっぱりしてから深い眠りにつく。それで明日は早起きという流れが、ルーネの時間の使い方だ。
大きな浴室、大きな鏡、その前で一矢纏わぬ姿になったルーネは、小さな自分の全身を鏡越しに眺める。体を伸ばしたり、手を握って開いてしながら、筋の動きを確かめるが、致命的におかしな部分は見当たらない。慢性的な体の痛みがちょくちょく気にかかるが、とりあえず問題ないレベルだと安心して、湯を汲みルーネが体を洗い始める。所々の生傷に湯が沁みたりもするが、綺麗な体で布団に入りたいなら我慢するしかない。激戦を終えてからまる一日後、砂や血にまみれたままの体で寝るなんて、そっちの方がルーネは嫌。
石鹸をつけた布で体をこすると、傷に響いて痛くて仕方ないが、苦行同然のそれを厭わないぐらいには価値観が徹底している。思わず一人の浴室で、小さな喘ぎ声を漏らしながらの身清めだったが、泡まみれの体をお湯で流した後のさっぱりした感覚はやっぱり格別だ。こうして苦行にあたる方、体のお掃除を先に済ませたルーネは、傷が痛んだりしない楽な方の仕上げ、頭を洗う流れに移っていく。
元々髪の長いルーネだが、ツインテールをほどくとさらにボリュームが露骨になり、小さな背中が全部隠れてしまうほどだ。鏡の前の風呂椅子に座り、背中を丸めて目を閉じたルーネは、泡でいっぱいになった長い髪をわしゃわしゃと洗っていた。一人の浴室、自分だけの世界で納得いくまで体を洗える時間というのは、戦い終えた後のルーネにとっては相当なリラックスになる。
他者の気配に敏感な彼女らしくないことだが、頭を洗うことに集中していたルーネは、後方の浴室の扉が開いたことに全く気付いていなかった。共同利用の大きめの女湯、誰かが踏み込んできただけなら、他愛もない事柄だったと言えるだろう。服を脱いだ姿で、ルーネだけの浴室に踏み込んだその人物が、特別な誰かさんでなければだ。
あるいはルーネが気付かなかったのも、当然と言えば当然ったのかもしれない。後ろからルーネに忍び寄ったその人物は、いたずらしたくて気配を消しての接近だったのだから。
「ひゃわっ!?」
その誰かさんは、奇襲範囲内にルーネを捉えた瞬間、背中を隠したルーネの後ろ髪を突き抜ける掌で、持ち込んだ大粒の氷でルーネの背中を冷やした。湯で温まったはずの背中を、突然の氷点下でぴちょりと冷やされたルーネは、悲鳴をあげて思わず跳ねるように立ち上がりかけていた。
立ち上がれなかったのは、驚きのあまり立ち上がりそうになったルーネを、当の誰かが後ろから抱きしめてそうさせなかったからだ。髪越しの背中に、誰かの胸が当たる感触にルーネが戸惑う中、彼女を抱きしめる帰還者は、頬をルーネの首筋にすり寄せる。
「ただいま、ルーネ」
小さな体の自分と同じような体格、女の子のような柔肌。触れ合う感覚から相手が誰だかわかりかけていたルーネにとって、その声を聞くのは答え合わせに近い。ひと月前のラエルカン戦役で命を落としたと報じられていた、凪の賢者にとっての唯一無二の親友が、ルーネのすぐ後ろで無邪気に笑っている。
「……エルア」
「あなたも無事で何より……」
久しぶりの再会、あるいはあの世から帰ってきたかのような再会でも、普通調子で語り口を回そうとしていたエルアーティ。その言葉が半ばにして途切れたのは、後ろから抱きついてきたエルアーティを、ルーネが力ずくで乱暴に振りほどいたからだ。幼い見た目どおりの力しか持たないエルアーティは、大人にも勝るルーネの力に振り払われ、背中から浴室の床に叩きつけられる。
「いっ、たあっ……あんまりじゃな……」
痛みに顔を歪めながら、上体を起こそうとしたエルアーティの目の前には、立ち上がったルーネが向き直った姿がある。温厚で優しい表情、あるいは頼りない子供のような顔ばかりを周囲に見せやすいルーネが、露骨なほどの怒りを目に宿し、エルアーティを見下ろしている。
裸同士、胸ぐらを掴むもののない状況、仰向けに倒れたエルアーティの顔の横に、ルーネが勢いよく両手を着いた。この瞬間には、流石にエルアーティも肝が冷えた。怒るだろうなとは思っていたけど、久しぶりに怒気を孕んだルーネの瞳に真っ向から向き合うと、エルアーティだって思わず息を呑んでしまう。
「あなた……っ! 私がどれだけ心配したと思ってるの!? どうして一度も、みんなの前に顔を出してくれなかったの!?」
音が反響しやすい浴室には、ルーネの高い怒鳴り声がよく響く。耳が痛くなるほどの大声を張り上げるルーネの目の前で、エルアーティは真っ直ぐ彼女の顔を見上げている。それは顔の横に両手を置かれて、逃げ場がなくて目線を逸らせないからというわけではない。
「知ってるでしょう! 私があなたのこと大好きだって! 心配するのも知ってたでしょう! 生きていたなら、どうしてすぐに帰ってきてくれなかったの!」
訃報を聞いたその時には、頭が真っ白になってしまったぐらいに親しかった親友。あの日彼女の代わりにラエルカンに出撃したのが、自分だったらとその後も何度悔いたかわからない。なのにひょこっと顔を出し、当たり前のように飄々と語りかけてくるエルアーティだから、ルーネも喜び以上に抑えきれない感情が沸く。エルアーティがどういう性格かを知っているルーネは、彼女がどういう意図で、こんな帰還を果たしたかも予想できているのだ。
「あなたのことだからどうせ……!」
「ええ、ちょっとびっくりさせたくて」
「っ……!」
まくし立てるルーネの頬に手を添えて、うふっと笑うエルアーティを見て、上から相手の動きを拘束する立場のはずのルーネが、今にも泣き出しそうな顔になってしまう。あれだけ心配して見送って、親友の死を聞かされて泣き、悲しみを乗り越えたと思ったらひょっこり帰ってこられて、どうして長い間顔を見せてくれなかったかと言えば"びっくりさせたかったから"。返す言葉も失って、口の端を絞ったルーネの両目から、堪えきれなくなった涙がぼろぼろ溢れ出す。
「あなた、本当に最低……っ! 私が……私が、どれだけ……!」
「はいはい、泣かないの。私はこうして生きているんだから」
「どうしてあなたって、そんな……! 私のこと、知ってるくせに……!」
「泣いてる貴女も可愛い」
濡れた髪から滴る雫に混じり、大粒の涙をエルアーティの顔の上に落とすルーネを、幸せそうに見上げるエルアーティ。泣きじゃくり、言葉を紡げなくなったルーネの首の後ろに手を回し、エルアーティは自分の胸元に抱き寄せる。小さく未熟な賢者の胸元に顔を沈めたルーネは、握り拳をふるふる震わせながら、言葉に出来ない怒りをエルアーティに訴えている。
いよいよという時に、本当にひどい友人だと思う。意図的に人前に姿を見せて来ず、こうしてサプライズの生還をエルアーティが演じようものなら、自分がこういう反応をすることも全部わかっていたくせに。ルーネの頭を胸の上で抱きしめ、満足げな表情を浮かべるエルアーティの今は、見なくても読み取れる。いっつもこうして意地悪して、困ったり泣いたりする自分を見て楽しむエルアーティの性格の悪さは、自分の死を演出の一つに組み込んでまで、こうして形になって現れる。
「嬉しいわ。私のために泣いてくれる人なんて、あなたぐらいのものなんだから」
「馬鹿……! だからって……!」
「私、幸せよ。ありがとう、ルーネ」
こういう、人に好かれにくい性格なのは、エルアーティ自身が一番よくわかっているのだ。そんな自分を掛け値なく愛し、死を迎えかけた自分のために泣いてくれたであろうルーネのことを、エルアーティは誰よりも愛している。そうでなければ、彼女に代わってラエルカン戦役に乗り込み、自らの命を懸けての戦いになど乗り出さなかった。人類の命運なんて、たとえ魔王が人類を滅ぼす結末になったとしても、それもまた人の運命としか思わない冷徹さが、エルアーティの地の性格。彼女が人類の味方をし、積み上げた英知を魔王軍との戦いに注ぎ、命を失う危機を乗り越えてでも戦い抜いたのはすべて、人類の安寧を望む一人の親友の願いを成就するためでしかない。
愛しているから、もっとその人の色んな顔を見たい。笑顔のルーネも泣くルーネも、エルアーティは全部ひっくるめて愛おしい。でも、ルーネにとって大切な人が失われ、悲しみに暮れる形のルーネの姿だけは見たくない。胸がずきずきする。だから、自分の死で悲しんでくれたルーネの表情を確かめた上で、あなたは何も失ってないよと言ってあげられる今が、胸を痛めずルーネの涙を眺められる唯一の機会と言える。
たとえそういう性質の悪い楽しみ方をして、ルーネに嫌われたって構わないのだ。もしも、たとえば、ルーネに一生口を利いて貰えなくなったとしても、ずっと彼女を慈しむ自信がエルアーティにはある。普通の人には理解できない価値観を持ち、比類なき実力を併せ持つ孤高の大魔法使い。長く周囲にそう称され続け、等しい目線で語れる友人に長く恵まれなかったエルアーティにとって、いつしか巡り会えた世界唯一の親友は、無償の愛を迷わず注げるたった一つの宝物。
歪で真っ直ぐ、意地悪で無垢なるそんなエルアーティの愛を、厭わず受け止められるのもまた、世界でただ一人ルーネだけだろう。奇縁と呼ばれてあまりに名高い、陽と陰の賢者が手を結ぶ絆の奥深くには、誰にも知り得ぬ二人だけの魂の交わりがある。
「お疲れ様。人々の倖いは守られたわ。私達が、貴女が勝ち取った未来よ」
「っ、馬鹿あっ……!」
すすり泣くルーネを抱きしめて、エルアーティはほうと安堵の息をつく。思い返せばやり遂げた。ルーネが望んだ、人類の未来を脅かす災いの撃退、人の世の平安たる未来の獲得。サプライズを楽しんで怒られはしたものの、平穏な世界で笑顔を取り戻したルーネの日々を、未来に刻んでいけるのが確かなのだ。それさえ叶えられたなら、今後のことはエルアーティにとって、すべてが些細なことでしかない。
明日からしばらくルーネは自分につんけんして当たるだろうけど、それは意地悪した自分に対する普通の報い。他の者には幸せいっぱいの笑顔で接せられる、明るいルーネの姿を今日から毎日眺められるなら、そんなものはどうだっていいこと。そういう友人だって知っているからこそ、意地悪されてもルーネは心から彼女を憎むことが出来ないのだ。
不謹慎な悪戯を楽しんだエルアーティへのやりきれない怒りも、彼女が生きて帰ってきてくれた事実が上塗りし、抑えきれない喜びの象徴が目から溢れてくる。親友の胸の中で泣き続けるルーネは、よかった、よかった、と、何度も何度も胸の奥で繰り返していた。




