第254話 ~魔界レフリコス~
夕暮れ前のコズニック山脈の山奥、その荒原に立っていたシリカとユース。エルアーティの魔法により、自らの周りを光に満ちた世界とされ、しばらくの時を経て。光が晴れたその時、二人の目の前にあった光景は、二人にとって予想していなかったものだ。
夕暮れ時だったはずの空は、まるで数時間の時が突然に過ぎたかのように、西の山の向こうに日が沈んだ後。山の上から漏れる赤々とした夕陽に照らされる周囲には、まるで昨日まで人が住んでいたかのような建物が並んでいる。エレム王都やルオスの帝都のように、立派な建物の数々が立ち並んでいる一方で、そのいくつかは強烈な破壊力に粉砕されたかのように、崩れたり欠けたりしている。しかし廃墟と呼ぶには、吹きさらしであろう周囲の建物は埃にまみれず、まるで戦争に負けて崩された国の、当日のような風景だ。
「11年ぶりに訪れたっていうのに、ここは何も変わっていないな」
シリカとユースのそばで声を放つのは、かつて魔王を討伐した勇者の一人、勇騎士ベルセリウス。周囲の光景を見て、不可思議さを覚えるシリカとユースは当然だが、強い不可解を抱くのは彼の方こそ更にだ。
「ここは……?」
「お師匠様――エルアーティ様の言葉を借りるなら、魔界レフリコス。魔王の住まう都にして総本山だよ」
かつて魔王マーディスが居を構えていた魔界にして、今は魔王アルケミスの居座る魔界。魔界という単語に、もっとおどろおどろしい空間をイメージしていた二人にとって、ここが魔界と言われてもしっくりきづらい。ただ、見方を変えれば音も無く、夕暮れに照らされる荒廃した都の風景は、不気味な異界と捉えるには充分だ。
言い知れぬ不安に、ごくりとユースが唾を飲み込んだ直後のことだ。ベルセリウスを含む三人の目の前、少し地上から離れた高さに、ちりちりと蛍のような小さな光が集まって生じていく。それは集まるにつれてどんどん大きくなり、子供一人を包み込めるような光の塊になっていく。何が起こるのかは、なんとなく想像がつく。
まぶしいほどではなかった淡い光の塊は、一瞬強く光ったかと思えば、その強さをひそめて光ごと消えてしまう。その先に現れた、箒に座った子供のような大魔法使いの姿は、役者が揃ったことをシリカ達に知らしめてくれた。
「初めて来るわ。わくわくする」
シリカ達の姿を確認すると、エルアーティは彼女らに背を向けて、周囲の光景を広く見渡す。シリカ達からその表情は見えないが、落ち着いて冷静な声の裏側、沸き上がる好奇心を抑えられないエルアーティの胸中はなんとなく感じられる。それが漏れるほど、今のエルアーティは魔界そのものに強い興味を示している。
「ベル。あなたは一度、ここに来たことがあるのよね」
「はい」
「魔王マーディスが居を構えていたのはどの方向?」
一国の首都がさびれたような、魔界レフリコスの風景。ベルセリウスが、あちらですと示す方向には、確かに街の向こう側、頭を出した城の影が見える。なかなかに遠い場所だが、ふわりと箒を浮かせて上空に身を移すエルアーティは、高みからベルセリウスの示した魔王の居城を一度見る。
「ええ、そこで間違いなさそうね。アルの気配もそこから感じるわ」
レフリコス城の姿を視認したエルアーティが地上に降りてきて、満足げにその一言。魔王の居城はややこの位置から遠く、しかしその所在を明言された途端に、シリカもユースも強い緊張感を抱いてしまう。状況は特に何も変わっていなくたって、その存在を意識するだけで、人の心を揺り動かしてしまうのが魔王という存在だ。
「じゃあ、行きましょうか」
ふよふよと、自らの座る箒を前に進め始めるエルアーティ。人が普通に歩く速度と同じぐらいの速さで進む賢者に続き、三人の勇士達がその後ろを歩き始めた。
城への道中は長く、その中でエルアーティの寄り道が多い。夕暮れのレフリコスを、見渡しながら、時に何かに触れ。彼女のように興味津々で周りを見回すほどではないが、シリカやユースも周りの光景には目を配らずにはいられない。ここは一体なんなのか。学者のエルアーティでなくたって、異界そのものと肌で感じるレフリコスの真ん中で、周囲に目を奪われるのは自然なことだ。人間には誰しも、普通程度に好奇心というものが存在する。
中央市場の面影を残す大通りでは、出店がばらばらに粉砕された残骸も多く、腐っていない林檎や蜜柑の果実が散らばって転がっている。大きな火に焼かれたと思しき荷馬車の残骸が、崩れ落ちきっていない形で残っている。何人もの商人が出入りしていたと思しき市場の隅には、古臭い帳簿が無造作に落ちていたりもするのだ。それを拾い上げ、帳簿の中身に目を通すエルアーティの行動は、まるで遺跡をまさぐる発掘者のようなものだ。
「何年前の商業記録なのかしらねぇ」
相当に興味深いものを目に出来たような満足な声とともに、エルアーティは拾い読みした帳簿を捨ててしまう。静かな魔界に冊子がぱさりと落ち、寂しくぱさぱさとページを躍らせるが、捨てられても崩れないほど、紙が朽ちずにいい状態のまま残っているということだ。ここ、魔界が存在するようになってから、何年の歳月が経っているのか知らないが、討ち捨てられた紙、帳簿が朽ち果てていないということ自体、この世界の不思議を体現する光景である。
落ちていた蜜柑のひとつを拾い上げ、皮をむくエルアーティ。食べる? と言って差し出してくるエルアーティの行動には、流石にユースも遠慮しますと言ったものだが、差し出された果実を見た時の違和感は当然のもの。いつから転がっていたのかわからない蜜柑、それが、皮の中身は新鮮なままであり、口にしたって腹を壊さなさそうなものだったからだ。拾ったものを口にする気ははじめからないが、その不気味さがユースの強い拒絶を引き出したと言っていい。
城に近付くにつれて、荒廃した周囲の光景に、血生臭さが増してくる。折れた剣、欠けた斧、弦を張ったままの弩弓。地面に転がるそれらに混じり、血だまりの真ん中に割れた兜が落ちている光景は、まるで頭を割られた戦士の死体だけが、防具を遺してぽっかりと消失したかのようなものだ。民家の数々が粉砕され、子供が抱いて寝そうな可愛らしいぬいぐるみが、頭の半分を焦がして街角の隅に落ちている光景も、無性に痛々しさを感じられて仕方ない。割れていない窓を探す方が難しいぐらいで、血飛沫でびしゃりと塗れた壁の方がよく見つかる。
そうした血飛沫を指先で撫でるエルアーティだが、流石に血は乾いて固まっているらしく、エルアーティの指先が塗れることはない。しかし、赤みが指先を汚すことから、固まった血が鮮度を保っている事実を知り、エルアーティは目を光らせている。知れば知るほど、ほぼ未開のまま調査などされていなかった魔界の様相が見えてきて、それが好奇心の塊である学者の本能を強く刺激する。
「ねえ、ベル」
周りを調査しながらでも、少しずつ前進していたエルアーティだったが、進みを止めてベルセリウスへと近付き、語りかけてくる。魔王との決戦を目前にして、それが頭から離れないシリカ達とは異なり、今のベルセリウスは、周囲の怪訝さに意識を傾けている表情だ。
「あなたが11年前にここを訪れた日も、夕暮れだったのよね」
「ええ。我々は、日中にここを訪れたはずでしたがね」
かつて魔王マーディスを討ち果たすため、ここを訪れた日のことをベルセリウスは思い返す。まだ日も高く、コズニック山脈の最奥地に乗り込んだベルセリウス達。アルケミスやジャービルに導かれ、魔王の邪気が漂うこの地へと辿り着いた頃には、日は既に沈んでいた。彼ら4人の勇者の体内時計は、まだおやつ時を過ぎた時間帯だったような気がしたものだが、長き旅の末にそれも狂ったのかもしれぬと、その時は意識しなかった。だが、今回は違う。確かに日が沈むよりも前に、エルアーティの魔法によりレフリコスへと辿り着いたはずだったのに、まるで時間が早く進んだかの如く、周囲は赤い夕陽に照らされている。
そして、荒廃したレフリコスの光景は、11年前に訪れたあの時と何一つ変わっていない。それだけの長年が経てば、紙切れや果物は朽ちて当然、石造りの建物だって砂に変わり始めていてもおかしくないはずなのだ。かつて訪れた時のまま、時を止めたかのようにたたずんでいるレフリコスの風景には、一度ここを訪れたベルセリウスこそが最も違和感を感じている。
風も吹かない、羽虫のような些細な命の気配もない。廃墟といえど、人が住まわなくなったその地には、必ず他の存在が安住の地とし、侵入者の存在にざわついたりするものだ。無音や静寂という言葉でも形容するには不充分、虚空の中に取り残されたかのような魔界レフリコスの存在が、ベルセリウスの言葉を受け取ったエルアーティの興味をそそり続ける。
「ふふ、アルボルと同じ。あなたもそう感じているでしょう?」
シリカを振り返り、そう言い放つエルアーティ。その眼差しの先にいるのは確かに法騎士。しかし、彼女が言葉を差し向けた相手はシリカではない。シリカの中に内在する、別の魔界の主として君臨する大精霊に、エルアーティは話しかけている。
シリカの背後に風が舞い、大精霊としての姿を現すバーダント。露出の多いその姿形を現せば、見るからに目のやり場に困りだすユースの姿も面白いが、エルアーティの眼差しはバーダントに向いたままだ。
「――現世と魔界の境界は、本来存在しないはずなのだけどね」
「それはレフリコスの主となった魔王、アルが境界を閉じているからでしょう」
魔界は本来来るもの拒まず。少なくとも、太古の大森林が滅びる前、かつての姿を残し続ける魔界アルボルはそうだ。現世とは隔絶された次元にありながら、到達を望む者がその地に足を踏み入れれば、いつそこへと踏み込んだのかもわからぬまま、魔界に足を踏み入れることが出来る。大昔に魔界アルボルに立ち入ったエルアーティもそうだったし、シリカ達もアルボルに踏み込んだ時はそうだった。
かつて魔王マーディスを討ち果たすため、ここレフリコスに到達したベルセリウス達もそうだった。山奥、当たり前のようにたたずむ都の姿を遠目に視認し、近付き踏み入れば、いつの間にか日は沈み廃墟の中を歩く自分達がいた。以前魔王を討伐するため、魔界レフリコスに踏み込んだあの時は、エルアーティが行使したような、魔界へ到達するための特別な魔法を用いることなく辿り着けたのだ。
「あなたも同じようなことは出来るのでしょう? バーダント」
「ええ。私がアルボルを離れている今、かの地に踏み入ろうとする外来者が現れぬよう、あの世界は現世との接点を断ち、何者も出入り出来ない空間にしているわ」
魔界の主の意志一つで、本来この世界の存在ではない魔界とは、侵入者の到達を認めない聖域に変えられるということだ。今のレフリコスもそうなのだろう。魔界レフリコスがどこであったかを知るはずのベルセリウスやジャービル、彼らがその地に踏み入った今日、レフリコスの姿はなかった。エルアーティの魔法があって初めて、ここ魔界レフリコスに辿り着くことが出来たと言える。今、バーダントが魔界アルボルを現世と切り離した世界としているように、今はアルケミスが魔界レフリコスを現世から切り離しているのだろう。
「界の主の意志にも背き、魔界への道を開くなんて魔法を使うのは貴女が初めてよ?」
「偶然の副産物よ。ルーネのおかげとも言えるのだけど」
親友の名を口にする時、本当にエルアーティは機嫌よさげに笑う。その言葉の真意そのものは、ヒントの無い謎かけのようで全く読み取れるものではないが、問うて確かめるのも今ではない。
「だいたい見えたわ、魔界の本質。あとはアル本人に聞いてみれば、もっと確かなことがわかるでしょう」
エルアーティは、ナイトキャップに取り付けた一粒の宝石を手にすると、下手投げでひょいっとユースに投げ渡した。合図もなく、急にそれを投げ渡されたユースは、戸惑いながらもそれを受け止める。流石にしばらく騎士をやっているだけあって、不意打ち気味でも飛んできたものに対する反射神経はしっかりしている。
「ユース、それを持っていなさい。私がそれで合図を示したら、あなた達も駆けつけて欲しい」
「え……」
そう言ってエルアーティは、ユース達に背を向ける。魔界の中心、レフリコス城に体を向けたエルアーティの行動を予見したベルセリウスは、彼女の一歩目よりも早くエルアーティに近付く。
「お師匠様、まさかお一人で行くつもりですか?」
「ええ、ちょっとアルと話がしたいのよ。出来ることなら、二人きりで話がしたい」
魔王となったアルケミスとの、一対一での対峙。三人の仲間がそばにいるにも関わらず、そんな危険な行動に出ようとするエルアーティには、間違いなく何らかの意図がある。当然、それを容易に認可するわけにはいかぬベルセリウスだが、敢えて虎穴に飛び込もうとする師の意志力を感じ取れば取るだけ、引き止めることが難しくなる。
リスクの伴う行動だと誰もがわかりきっていること、それをわざわざしようとするものに、目的意識が無いはずがない。まして信頼する賢者がそうしたいと言うのなら、人類の未来が懸かっている今だからこそ、その上でそうしたいというエルアーティの強固な意志が読み取れる。
「段取りは?」
「対話そのものは成立しても、やがて交戦にはなるでしょう。戦いが始まれば、ラピスラズリを介してあなた達に伝える。それから駆けつけてくれれば充分よ」
「アルケミスと、一対一で?」
「あなた達が来るまでは絶え凌いで見せるわ」
"要塞のエルアーティ"と呼ばれる彼女の、守りに入った時の堅固さは折り紙つきだ。しかし一度アルケミスに敗れた、あるいは敗れたかのように消えた彼女の言葉を、信じて送り出せるものだろうか。そんなベルセリウスの懸念を吹き飛ばすためなのか、一度エルアーティは体ごと彼の方へと向き直る。
「今日は最高に調子がいいのよ。少なくとも、一対一で私が敗れることはないから安心なさい」
「……そうですか」
小さく笑い、自信満々の言葉を口にするエルアーティ。世の中に絶対という言葉は無く、それを一番わかっているはずのエルアーティだ。それでもまるで、絶対に負けることはないと断言したかのようなエルアーティの眼差しは強く、必中の予言を口にするときの目の色と全く遜色のない。ベルセリウスも、不安こそ一抹残れど、エルアーティの言葉を真正面から受け止めた末、小さくうなずき師の道を肯定する。
「いいわね、ユース。そのラピスラズリの宝石を手放さないように」
「……わかりました」
ユースに念を押すと、エルアーティはベルセリウスやユース、シリカに背を向ける。そして箒を一気に加速させると、ローブがはためくほどの速度にまで至り、レフリコス城に向けて空を駆けていった。
「ベルセリウス様……」
「お師匠様なら、きっと心配ない。僕達は、僕達の足で向かうことにしよう」
エルアーティを追う形で、レフリコス城への道を歩き始めるベルセリウス。エルアーティがアルケミスのもとへ辿り着くまでの間、じっとしているのもかえって疲れる。平常の足で歩き、魔王住まいし城へとゆっくり近づいていくぐらいで丁度いいだろう。
賢者に残される形で、レフリコス城へと歩きだす三人の騎士。魔界は騒がず、彼ら彼女らを見届けるだけで、静かなる姿だけを晒し続けている。
魔界レフリコスの中心、白金城の中枢とも言える謁見の間。魔王として生まれ変わってからの数日間、ずっとここで過ごしてきたアルケミスは、玉座に腰掛け息をついている。僅かながら、ほっとしたような表情であるのは、決してエルアーティ達の前から一度逃れたことによるものではない。アルケミスにとって、最も障害となるものは他者ではなく、自らに内在するもう一つの存在だ。
「……静かにしていろ。今に、貴様の望むとおりのことになるさ」
ひとり呟くアルケミスの胸の内、彼に命令されたもう一つの人格が、彼の魂が揺らぐほど吠え始める。魔王たる我に命令するな、貴様は私の望むまま動けばよいのだ、そんな怒号が自らの胸中から強く響く声を、魂で受け止められるのはアルケミスだけだ。意のままに沿わぬ者に、怒りの感情を抱かずにいられない、支配欲にまみれた魔王の魂。落ち着いた佇まいが常のアルケミスは、ずっと自らの肉体と意志を乗っ取ろうとする、その存在を退け続けている。
限界が近いことはアルケミスもわかっているのだ。魔王として生まれ変わったことにより、目的はある程度果たせたと言っていい。それでも意識が保てる限り、どこまでも追究したいものがアルケミスにはある。今すぐにでも、大魔導士アルケミスとしての人格を呑み込み、その肉体と精神を完全に乗っ取らんとする魔王の意志力に、アルケミスの精神力が屈せずに抗い続けている。
玉座から見上げれば、高き天井に接する巨大な真っ黒の球体がよく見える。魔界レフリコスに存在する、支配夢見し未練を残し、世を去った者たちの魂の集合体。これらの化身がかつての魔王マーディスであり、支配者たる魔王に従う黒き球体は、今もアルケミスの命令を待ち焦がれるかのように、不気味にでこぼこと蠢いている。そう焦るな、と、はやる魂の数々をなだめるアルケミスは、支配する側に立つというのも面倒なものだと、生来から抱いていた価値観をより強く実感する。
胸の中心に手を当て、改めてふぅと息をつくアルケミスは、今も胸中で騒ぐ魔王としての意志を抑制し、人としての自我を保っている。魔王として生まれ変わってから、ずっと保ち続けてきた、人間の大魔導士としての人格は、まだ消えていない。内在する魔王の魂、それが望むいくつかのことと折り合いをつけ、妥協し、魔王の支配欲を抑え続けてきた。だが、この先どんな結末を迎えようと、自分の人格と魂が魔王のそれに乗っ取られ、大魔導士アルケミスはこの世から消え失せてしまうことを、彼は誰よりも既に早く確信している。その日が今日であることもだ。
死にもよく似た、自らの消失。恐れる素振りも見せず、魔界の主だけが座ることを許された玉座に腰掛けるアルケミス。自らの抹消を恐れるぐらいなら、はじめから魔王などという存在を目指してはいけなかったのだし、そもそもそれさえアルケミスにとっては、意味のある犠牲であったと言えよう。あとは、魔王を目指した真の目的を達成するため、それを為してくれる偉人の到着を待つだけだ。
「……来て頂けましたか」
白金に包まれたレフリコス城、その門をくぐり、無人の城内を箒に乗って駆ける何者かの存在。初めてこのレフリコス城を訪れるはずの賢者が、迷いなく自らへの道を真っ直ぐに進んできている実感。ついにこの時が訪れたのだと、アルケミスは小さく笑わずにはいられない。本当に嬉しかったからだ。
開きっぱなしにしていた謁見の間の入り口。二つに開かれた扉の間を抜け、真っ赤な絨毯の上を減速しながら飛来する紫の人影を、アルケミスは微笑みとともに受け入れた。魔王と呼ばれしその者の小さな笑いは、決して邪悪なる存在の悪辣な笑みではない。
「アル」
「お待ちしておりました」
玉座に腰を落ち着かせたままのアルケミス、それから大きく離れた場所で、同じ目線の高さに箒を浮かせて止まるエルアーティ。アルケミスの座る位置は、エルアーティの真下の床より高い位置にあり、身を浮かせて箒に座るエルアーティの高度がアルケミスと同じぐらいに落ち着く。
「……少し頭が高いですよ、お師匠様。少し高さを抑えて貰えますか」
「それは重要なこと?」
「ざわめくので」
エルアーティの目線の高さと、アルケミスの目線の高さが同じ。これではまずいのだ。アルケミスがわざわざ口にしたことを重く受け止め、エルアーティは僅かに箒の浮く高さを下げる。それに伴い、安心したようにひと息をつくアルケミスの態度も、エルアーティの観察眼にはしっかり捉えられている。
「アル、あなたは……」
「まだ、貴女の知るアルケミスですよ。今のところはね」
謁見の間に飛び込んだ瞬間から、頭上に蠢く真っ黒な球体の存在を、エルアーティはその目で確かめている。その球体から、無数の魂の残留思念が溢れていることもだ。その、支配欲にまみれた魂の集合体と同じ魔力の黒い気配が、アルケミスの方から強く感じられることも、エルアーティにとっては重要な推察要素。
我は支配者なりとする"魔王"としての人格が、自分以上の目線で口を利く存在を強く忌み嫌うのだ。アルケミスの中に確かに内在するはずの、魔王たるもう一つの意志が騒ぎ立てることを、アルケミスの瞳を通じてエルアーティは感じ取る。それを刺激することが、今のアルケミスにとって望ましくないことも、先を憂いる彼の表情から察知できる。
「私にはもう、時間がありません。お師匠様、時間の限り、お付き合い頂けますか」
「ええ、いくらでも。私はそのために来た」
冷徹な魔女、妖しく微笑む幼い顔立ちの賢者、興味を示したものへ目を光らせる学者。今のエルアーティの表情に、それらは一つも合致しない。かつて心を通わせた、愛弟子との最後の語らいに対して真剣な眼差しを差し向ける大魔法使いの表情こそ、アルケミスにしか見せない導師エルアーティとしての表情だ。
大魔導士アルケミスが、人の世を敵に回してまで魔王へと堕ちる道を選んだ理由。想像によって答えに及んだエルアーティは、その解答を確信して知っている。




