第25話 ~タイリップ山地④ 魔獣ミノタウロス~
山林の一角が炎に包まれ燃え上がっている。半ば山火事の地獄絵図に巻き込まれ、逃げきれず命を落とした野盗もいたほどだ。
「業火球魔法!」
カリウス法騎士と交戦するガーゴイルが、大火球を次々と放ち、森林を焼き払っていく。魔力を纏った二本の剣でそれらを弾き、いなし、抗うカリウス法騎士は火球の直撃によるダメージを受けるには至っていなかったが、立ちこめる熱気に体力を奪われ息が上がり始めている。
決着を急ぐカリウス法騎士がガーゴイルに接近し、両手に握った二本の剣で連撃を放つものの、ガーゴイルの素早い腕と爪先の動きが、その剣撃をことごとく打ち払う。ガーゴイルの方も決して余裕があるわけではなさそうだが、長く致命傷に到らしめることが出来ずにいるカリウスの方にこそ、焦りとプレッシャーが生じる。
自身への攻め手に暇が生じれば、ガーゴイルは翼をはためかせて跳躍し、木々の枝を握って空中でカリウスを見下ろす形を作る。そしてその左右を舞うインプの群れが、カリウスに向けて火球を放つ。
「くそ……!」
魔力を注いでその攻撃を捌くこと自体は、カリウスにとって苦ではない。問題は、自身の霊魂をはたらかせて生み出す魔力に、いつ限界が訪れるかという危惧だ。霊魂の過剰な疲弊はやがて身体と精神に明確な不具合を生じさせ、衰弱した肉体では今と同じように戦うことが出来なくなる。
全力で戦ってなお、致命傷を与えられないガーゴイルとその配下達の総力は、自分と同等かそれ以上。体力を失ったのち、それを打ち倒すことが出来る可能性を見るのは、気の抜けた楽観視に他ならない。
突破口はある。多量の魔力と、身の危険を糧に勝利を掴み得る強行策。それが、結果を伴わなければ命を落とし得る危険な手段でありながらも、半ばじり貧のカリウスに迷いはなかった。
「む……!」
空中から見降ろしてくるガーゴイルに向かって跳躍するカリウス。しかし、彼の狙いはガーゴイルそのものではなく、親分を脇に控えて笑っているインプの一匹だ。
目にも止まらぬ速さで右手の剣でインプを切り裂いたカリウスは、左手に握る剣を振るって空中のガーゴイルにも剣撃を繰り出す。左手で木の枝を握るガーゴイルは、足を振り上げてその剣撃を爪先ではじき返す。そして、右手の上にインプの放つ火球よりも一回り大きい火球を即座に生じさせ、落下するカリウスに背後からそれを投げつけた。
剣を振るって空中で身を翻したカリウスが、火球を切り裂く。地に足をつけたカリウスは再びガーゴイルの方向へ跳躍し、今と同じ動きでインプを断ち切り、また着地した。
「まずは配下を片付けようという試みか……悪くはないがな……!」
ガーゴイルが口を開けると、その口から人の拳ほどの火球が次々と撃ち出される。素早い動きでそれらをかわすカリウスは、次々と火の手に包まれる足もとの草木に目もくれず、今度はガーゴイルに正面から立ち向かうように跳躍した。
待っていたとばかりにガーゴイルは枝に捕まっていた手を離し、両手を前にかざす。翼と魔力でその位置から動かぬままに、ガーゴイルは高い魔力を掌に集めて火球を生み出した。
「消え失せろ! 業火球魔法!」
真っ正面から自らに向かい来るカリウスに、人間一人を呑み込めるほどの巨大な火球が襲いかかる。ぐっと歯を食いしばったカリウスは剣に魔力をありったけ注いで、その火球を正面から×の字に切り裂いた。
勢いそのままにカリウスの剣と衝突した火球は、切り裂かれてカリウスに道を示した次の瞬間、衝突のエネルギーと切断されて行き場を失った魔力の混在に、その場で爆発してカリウスの背後で火の手を上げる。ほとばしる熱気と風と魔力に背中を打たれながらも、カリウスはそのまま正面から、ガーゴイルの胸元を二本の剣で深く太刀を入れた。
「ぬぅが、っ……貴様……!」
激痛を通り越した命の危機をその身で強く感じたガーゴイルは、即座に両拳を頭上の上で組んで、眼前のカリウスに向けて振り下ろした。剣を頭上に交差させてその攻撃を受けたカリウスだったが、空中で真下に向けて自らを叩き落としてくるその攻撃に、地面に勢いよく引き寄せられるように落ちていく。
土を巻き上げて強く地面に着地したカリウスの足の裏が痺れる。空中に漂うガーゴイルは痛みに胸の傷を右手で押さえており、その手の陰から溢れる悪魔の蒼い血が、手傷の深さを物語っている。
カリウスも息が上がっている。勢いを殺さぬままの業火球を両断するために注ぎ込んだ膨大な魔力は、カリウスの霊魂に著しい負荷をかけた。身体と精神を支える役割の霊魂が、そのはたらきを完遂できず、本来の体の疲れ以上に、カリウスは自分の肉体が重く感じてならない。
それでも前に進む。傷を負って地面に随分近い位置まで降りてきたガーゴイルに対しカリウスは直進し、迎え打つガーゴイルはその大口を開け、火球のつぶてを無数に放ってくる。
勝負所を察したカリウスは火球の数々をかわさず、正面から切って落とし続けてガーゴイルに一直線に突き進む。最も恐れていたカリウスの姿勢にガーゴイルは、勝負を懸けてその両手を目の前にかざす。そこから放つのは、何度も見せた自分自身最大の火炎魔法。
「業火球魔法……!」
業火球がガーゴイルの掌から離れ、カリウスの正面から襲いかかる。交差させた剣を以ってそれを受け止めながらも、なおもカリウスはその足で地面を蹴りだし、自らを押し返そうとする業火球に反し、剣で業火球を抱えたまま前進を続ける。魔力によって凝縮された業火球に魔力で介し、ほぼ物理的に近い力で自らを襲う業火球の圧力に、カリウスの両腕が悲鳴をあげ軋む。
視界いっぱいを業火球に遮られながらも、その火球を剣の交差点で抱えたまま、カリウスは勢いよくその先にいるガーゴイルに向かって、気力を振り絞るように吠えながら直進する。そしてその剣を前方に振り抜いて、切断せずに業火球をそのままガーゴイルに向けて撃ち返した。
業火球魔法を斬り裂いたカリウスをその爪で迎え打つ、そのはずの構えをとっていたガーゴイルが、予想外の反撃に思わず跳躍して業火球をかわす。それを見たカリウスはすかさずガーゴイルに向かって跳躍し、射程内にガーゴイルを収めた瞬間、胸元から頭頂部までにかけてと、首元を一閃のもと断つ一太刀と合わせ、ガーゴイルの喉元を中心とする十字の太刀筋を刻み入れた。
空中でのけ反ったガーゴイルの肉体がそのまま力を失い、後方に倒れるような形で地面に落ちていく。体重に見合うだけのずさりという大きな音とともに草木の上に落ちたガーゴイルは、ぐはぁと血をひと噴きしたあと、力尽きたように動かなくなった。
「――撤退だ! ここまでとする!」
燃え盛る山中で、近くにいる者達のなるべく多くに伝えるべく、カリウスは声を絞り出して唱える。火の手が回りつつあるこの森で、疲弊した騎士達がこれ以上の深入りを続けることに、カリウスは限界を感じ始めていた。何より自身の疲労も相当なものであり、この状況で命の危機にある同志達がそばにいたとしても、正しく守り抜くことは確証できるものではない。
カリウスの撤退命令を聞き受けた騎士が、彼より遠くに立つ騎士に向かってさらにその指令の内容を叫んで伝える。数秒の間をおいて、ここまでで生存して辿り着いた騎士達すべてにその命令が届き、カリウス率いる大隊は退路に向けて駆けだしていた。
犠牲者は決して少なくない。479人の戦士達の集団として動き始めたこの大隊は、この時すでに13の命を散らせた後だったのだ。火の手に包まれつつある山中の中に戦い続けることは、さらなる殉職を招くという真理を、指揮官カリウスは強く確信していた。
「っ……!」
森の奥から鎖つきの分銅が、大気を貫き凄まじい速度で襲いかかってくる。太ももを狙うその一撃をシリカは身をよじってかわすが、かわすたびに前進する勢いを殺されてなかなか前に進めない。おまけにその分銅は、シリカに当たらなかったという結果が出た途端、まるで生き物のように即座にユーターンして持ち主の手元に帰っていく。その手綱たる鎖を切ることも出来ない。
そしてシリカが、敵の放つ凄まじい殺気の出所にいよいよ辿り着く僅かに前、突如横からもう一つの強い殺気が、シリカの第六感に強くはたらきかけた。
「グゥガアッ!」
木々の間から現れた巨大な図体をしたオーガが、シリカの頭を吹き飛ばすべくその棍棒を勢いよく振り抜いた。駆けながら跳躍してその攻撃を回避したシリカは乱入者を睨みつけたが、空中にあり動きに不自由するシリカの隙を見事に突き、森の奥から鎖つきの分銅が銃弾のようにシリカを襲う。
頭部を狙われたその攻撃をシリカはその剣で上方に叩き上げ、直撃を免れた。その反動で空中での体勢を崩しかけたシリカが、落下に至るまでに足を下に向けて体勢を整えるが、落ちる先を見据えたオーガが、落下するシリカを迎え討たんとすべく駆け寄ってくる。
「悪いが、付き合ってやる暇などない……!」
落ちてきたシリカに向け、オーガがその棍棒をフルスイングしたその時だ。シリカは迫り来る棍棒にその剣を振り下ろし、上から叩く。その衝突点を中心軸とし、回転するシリカの体がオーガの棍棒を乗り超えて地面に着地する。確実に仕留めたと思ったオーガが戸惑いを隠しきれぬ中、着地と同時に地を蹴ったシリカはオーガに迫り、一太刀のもとオーガの首に剣を通過させる。
刎ね飛ばされたオーガの頭が木の幹にぶつかると同時に、シリカの右側から再び襲いかかる鎖付きの分銅。こめかみを狙ったその攻撃をしゃがんで避けると、分銅が即座に舞い戻っていく先に向けてシリカは再び走り出す。痙攣するオーガの死体も、もはや今はシリカの意識から綺麗に掃除され、山中に潜む最大の脅威に対して法騎士は一直線に進んでいく。
そして、見えた。人外であることをその肌の色からも主張するガーゴイルやインプとは異なり、限りなく人間に近い肌の色をした魔物が、前方の木々の間に立っている。右胸を露出させた衣服を纏い、人の顔に限りなく近い作りをしたその表情を見るに、ある意味では人間的な魔物だと言えるだろう。ミノタウロスに勝るとも劣らない巨大な背丈と、鍛え抜かれた人間の闘士よりもさらに太い、人間離れした大きな腕と足を持ち、遠目から見ても筋肉の塊だとわかる右胸が、それだけでその存在が人間ではないと確信できる最大の特徴だ。
右手で握った少し先に分銅を携えた鎖、その長い鎖の伸びる反対側には巨大な錨のような形をした金属の塊、それを左手に持つその魔物は、敵が自らを視認できるほどの距離に迫っていることを知った今となっては分銅を投げてこない。ゆっくりとこちらに、重い足取りで歩いてくる。
法騎士シリカも死を覚悟してこの戦いに臨む。魔王マーディスが率いていた魔物の中でも名高い、鎖と暴力的な怪力を以って多くの人間を葬ってきた怪物、ヒルギガース。一対一でこれと戦うことはおろか、こうして対面することすら初めての敵に、シリカの全身が死闘を見越してひりついた。
「行くぞ……!」
木々が常にシリカの視界の前にあり、ヒルギガースの体のどこかを常に隠していた過去を一新し、ヒルギガースの全身がすべてシリカの目の前に晒される。それと同時にシリカはヒルギガースに直進し、迎え討つべくヒルギガースは右手に握った錨のような武器を構えた。
鼻息を鳴らして、ミノタウロスがその大斧を振り回す。殺意に満ちたその攻撃を後ろに跳ねてかわし、続いて振り下ろされる斧の一撃をあわやのところで横に跳んで回避するユース。すぐそばに何度も聞こえる、ミノタウロスの斧による風切り音が、恐怖心を煽ってくる。
ユースの周囲には、事切れた騎士の体がいくつも無残に転がっていた。強敵と知りつつもこの怪物に勇敢にも立ち向かい、逆に兜ごと頭を叩き割られた者。どうすべきか迷う中でふとその矛先を向けられ、戸惑いの中で肩口から腕を断ち切られた者。恐怖のあまり逃げ出そうとしたところを、背中から真っ二つにされた者。死屍累々のこの戦場の中にあって、もはやミノタウロスのそばに立つ者で、戦える者はユースとガンマしかいないという、極めて危険な状況だ。
「んの野郎……!」
ユースに迫るミノタウロスの左方から、ガンマがその大斧を振りかぶってミノタウロスを襲う。その攻撃を得物の斧ではじき返したミノタウロスだったが、その隙を突いて懐に向かったユースが、ミノタウロスの腹筋に深く一筋の太刀を入れた。
血が噴き出し苦痛に表情を歪めるミノタウロスの反応も一瞬のみ。次の瞬間にはその太い足でユースを蹴り飛ばし、その攻撃を盾で受けて後方に跳んだユースは、衝撃を逃がしたものの体を後方に一気に持っていかれ、背中から木の幹に叩きつけられる。
肺を潰されたかのような苦しみに瞳孔を開くユースに、とどめを刺すため前進しようとするミノタウロス。しかし大斧をはじかれて一度姿勢を崩したガンマが、体勢を立て直し、もう一撃を繰り出す。危険なこの一撃をずっと強く警戒しているミノタウロスは、素早く向き直って斧を構え、振り下ろされる斧を受け止めた。
拮抗した力が二つの斧の間で火花を散らし、ガンマとミノタウロスの腕がぎりぎりと震える。同い年の人間達の間でも背の低さが目立つ小柄なガンマが、巨大な怪物ミノタウロスと力を拮抗させるこの事実に、もはやミノタウロスはガンマをただの人間だとは捉えていない。燃える瞳を宿したガンマがミノタウロスの斧を右に押しのけ、さらにもう一撃をミノタウロスに対して振りかぶる。
ガンマの重い一撃をまた斧で受けたミノタウロスが一歩退がったのを見て、ガンマは二撃目三撃目と畳みかかる攻撃を繰り出す。巨体に見合わぬ俊敏性を持つミノタウロスも、あまりに大きな敵の大斧をかわしきることが難しく、その斧で受け、いなし、やり過ごすことに全力を傾ける。
再び両者の斧がぶつかり合い、力のベクトルが正面衝突して両者の動きが止まった瞬間、今度はミノタウロスの方が攻勢に移るべく、ガンマの斧を押し返さんと前に力を加える。押し返されてよろめいたガンマを頭から真っ二つにすべく振り下ろされるミノタウロスの斧を、ガンマは咄嗟に右へ跳びのいて回避。そのままミノタウロスの胴体を斬り落そうと大斧を振りかぶるが、ミノタウロスは斧を手放しガンマに突進、その巨大な右拳をガンマの顔面をぶち抜かんばかりに突き出してきた。
大き過ぎる斧を振りかぶっていたガンマは、懐に迫られるとその相手を武器で捉えられない。即座に危機を感知したガンマが斧を引き、その横っ面でミノタウロスの拳を受けるが、圧倒的なそのパワーに押されて吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられて頭を打ちつけた。
地に倒れた敵を追撃してとどめを刺すつもりだったミノタウロスがそう出来なかったのは、それとほぼ同時に後方から、騎士剣を掲げたユースがミノタウロスの背中を深く切りつけたからだ。口の中を胃液に満たしながらも吐き気を堪える少騎士の刃が、雄牛の姿をした怪物からうめき声を引き出す。
犠牲になった騎士達が、命を懸けてでもミノタウロスに浴びせた太刀により、ミノタウロスの胸より下の全身は傷だらけだ。太ももには、持ち主を失った騎士剣も一本刺さったまま。それでもミノタウロスは未だ倒れず、長い手を斧に伸ばしてユースを睨みつけると、ユースの胸を真っ二つにすべくその斧を横薙ぎに振るった。
目いっぱい体をかがめてその攻撃をかわしたユースはすぐに地面を蹴って、その剣をミノタウロスの腹部に突き刺す。長い騎士剣が分厚いミノタウロスの腹筋を勢い任せに貫き、口から血を吐くミノタウロスの目下、ユースが歯を食いしばって騎士剣を引き抜いた。
魔物の傷口から溢れるおびただしい返り血にユースが片目を閉じ、一歩離れようとした時だ。ミノタウロスの大きな手がユースの頭を鷲掴みにし、ユースの動きが止まる。直後その手に万力のような力が込められ、頭が握り潰される1秒前を実感したユースの恐怖は、言葉では言い表せない。
その刹那、ユースの頭を握り潰す寸前だったその手の力が抜け、ワンテンポ遅れて抵抗しようとしていたユースの首が空振る。その眼前に飛び込んできたのは、その大斧でミノタウロスの腕を横から斬り落としたガンマの姿。ユースの頭を掴んでいた右腕はミノタウロスの胴体から離れ、樽を落としたような重い音とともに地面に転がった。
右腕を失ってなお、渦巻く殺意を断ち切らないミノタウロスは、首を回してガンマを見ると、左足で回し蹴りをガンマに向かって放ってきた。地面から振り上げられる蹴りを斧の平面で受けたガンマは上空に吹き飛ばされ、木の幹の高い部分に打ちつけられたのち、不安定な体勢で地面に叩きつけられた。
それとほぼ同時にユースが、ミノタウロスの真下から顎元へ、鋭い騎士剣の突きを放った。顎元からミノタウロスの頭を貫く剣は頭頂部まで貫通することは叶わなかったものの、ミノタウロスの口内を突き抜け、その頭部に内部から深く突き刺さる。渾身の力を両手に込めていたユースだったが、剣が止まったことを理解するとすぐさま剣を引き抜いて、一歩下がるために地を蹴ろうとした。
それとほぼ同時に繰り出される、ユースを見定めたミノタウロスの左足の前蹴り。思わず盾を前面に出したユースだったが、体を後ろに逃がして衝撃を和らげてもなお腕を貫く激痛とともに、ユースは吹き飛ばされて後頭部から木の幹に打ちつけられる。
一瞬、完全に意識が飛んだ気がしたが、直後に木に叩きつけられた背中の痛みのせいですぐに目が覚めた。なんとか足の裏と膝で地面を踏みしめて立つ形で着地はできたものの、ぐにゃりと歪んだ目の前の光景に、ユースはミノタウロスの存在を探す。眼差しはちゃんとミノタウロスの方に向いている。ふらつく意識のせいか、目の焦点がなかなか定まらない。
一歩、二歩とそんなユースに向かって歩み寄るミノタウロス。ようやくユースの目がミノタウロスの位置を正しく認識し、朦朧とした意識の中で剣を構えるが、直後ミノタウロスの体がぐらつく。その動きを攻撃への第一歩だと誤認したユースは、いよいよ死の覚悟を無意識の奥で決めていた。
だが、ミノタウロスはそのまま倒れ、動かなくなった。何人もの騎士に斬りつけられ、右腕を斬り落とされ、頭部を突き貫かれたミノタウロスの肉体に、ようやく限界が訪れたのだ。
その姿をようやく視認したユースも、まだ構えを解くことが出来ずにいた。前のめりに倒れたミノタウロスから溢れる血が、地面にじわりと血の池を作っていく光景を、虚ろな目で見届けてからやっと、目の前の敵の絶命を認識して剣を降ろすことが出来た。
「いっ、てぇ……ユース、大丈夫か……?」
斧と体を引きずってガンマがユースに駆け寄ってくる。ここが戦場でなかったならばその場でへたり込んでしまいそうなほど、心身ともに憔悴しきっていたユースは、息を呑みながら、ガンマの問いかけに小さくうなずくことしか出来なかった。
途切れそうな意識を、首を振って正すユース。その瞬間、強打した頭にとてつもない痛みが走り、鈍い頭痛が強い不快感を全身に主張する。それでも、神経を尖らせて周囲の様子を見定める。生存を喜ぶより、せっかく拾った命をここに加わる追撃で落としてしまう恐れの方が勝るのだ。銃を構える野盗がまだ周りに潜んでいないかを、ふらつく頭で必死に探し求める。
その姿を見受けたガンマは、ユースの背中に自分の背中を合わせて立つ。見えぬ後方は自分が担うとともに、近くに仲間がまだいるという事を体でユースに伝えるためだ。死屍累々の戦場の中、緊張感と恐れで精神的にも限界が近かったユースの心に、わずかに余裕が出来、息を整える時間がユースの中でしっかりと作られる。
10秒ほどそうしていただろうか。ガンマから離れるようにユースが一歩前に出ると、ガンマはユースの方を向き直って、行くか、と語りかけた。振り向くユースは、今度は首を縦に振るだけでなく、うん、と声を発してガンマに対して答えた。
肩口にミノタウロスの返り血を浴びた少騎士と、斧を携えた彼の親友である傭兵が、軋む肉体に鞭を打ってアルミナ達が駆けていった方向へ走りだす。戦いはまだ終わっていない。この戦場で命を散らした数多くの騎士達を振り返るべき時は、今じゃない。
それでも山中を駆けるユースは、胸に渦巻く悔しさと哀しみに、歯ぎしりせずにはいられなかった。名も知らぬ騎士達が命を賭して戦い、その末に自分達は勝利を収め、生き延びることが出来たのだ。仲間の死を礎に前に進む生存者の痛みは、二十歳を前にした少年の心が血を流すには充分すぎるものだった。
南方から沼地に辿り着いたグラファス聖騎士とは対照的に、北方から沼地に辿り着いたボルモード法騎士率いる大隊。犠牲者も少なく、当初553人いた騎士達も、その半分以上がここまで戦えるまま立ち並ぶことが出来た。多くの騎士が、戦闘不能になった仲間達を守るために戦線を退いたという事実を含めてだ。
ボルモード法騎士も、薄々は感じ取っていたことだ。野盗の動きがやや誘導的で、わかりやすく目立つこの場所に野盗団の逃げ足が向かっていたこと。ここに辿り着いたその時から、ボルモードの長年の勘が、計り知れぬ危険を察知していた。
「……あァ、人間か。待ちくたびれたぜ」
ボルモードの目の前にいたのは、日の光届かぬ深い木陰に隠れ、その巨体の影のみを騎士達の視界の中に晒す魔物の姿。そして人間が自分の視界の中に飛び込んできたことを確かめるや否や、加えていた葉巻を捨てて立ち上がった。
大きな足音と共に、ボルモードを先頭とした大隊に向かって歩いてくるその巨体。やがてその姿が夕暮れ前の日光に晒されて、漠然としたシルエットから明確な魔物の姿へと変わっていく。
「貴様……!」
その正体を目にしたボルモードは、思わず言葉を発せずにはいられなかった。法騎士の少し後ろで最前線を共に走ってきた上騎士と高騎士も、目の前の魔物の姿には愕然とした想いを顔に表わした。
「さァて、土産を持ち帰らせて貰うぜ。エレム王国の騎士団様達よ」
法騎士含む、200人以上の騎士達が正面にいることを知った上。その魔物はたった一体で迎え撃つ立場だというのに、にやりと笑って返すのだった。




