第253話 ~選ばれし勇者の船出~
語り合わずとも、確実にわかっていることは沢山ある。魔王アルケミスはもう二度と、人類と並び立って手を取り合える存在ではないこと。かつての親友同士であったベルセリウスとアルケミスは、互いの存亡のために、命を奪い合わねばならないこと。今尚互いに師弟関係であることを自認し合うアルケミスとエルアーティは、双方が望む未来を掴み取るためには、戦うことを避けられないこと。
限られた者にしか知られていない事実は僅かにある。魔王に滅ぼされたはずであったエルアーティは、どのようにして生き残ったのか。魔王という存在として生まれ変わったアルケミスは、その目で何を見て、その魂でどのような真理を感じ取ったのか。それを知るのは、今のところ当人達しかいない。
「知識は等しく共有すべきものだと貴女は仰るが」
「それは屁理屈」
エルアーティだけが知るあらゆる事実を、その信念に基づく以上は教えて下さいよと皮肉的に言うアルケミス。敵対する相手にべらべらと手の内を明かす馬鹿がいるかと、くすくす笑って返すエルアーティ。一言と一言を返し合うだけで、言外の疎通を完全にこなすほど、二人の感性と口様は今でも通じ合っている。
「ならば、解明しましょうか」
アルケミスが念じた瞬間、彼の周囲に黒い霧が漂い始めた。それはある種、夢魔ナイトメアが人類の各軍を襲撃した時に生じさせた、真っ黒な霧にも酷似したものだ。術者は違えど感じられる魔力の色は同じ、魔王と夢魔の共通点は魔界レフリコスに親しき所。黒い霧の本質は、魔界に通じる何らかであることぐらい、エルアーティもジャービルも見たままで推察できている。
「待って、アル」
それによって、アルケミスが何をしようとしているのかわかるエルアーティが、素早く引き止めるための言葉を繋げた。彼女にしては最速で、強き制止の想いがその一言に込められていたとよくわかる。
「……続きは"向こう側"で致しましょう。私にも、限界がある」
アルケミスの全身を包んだ黒い霧。彼の顔を霧が覆うより僅かに早く、憂いるような目を見せたアルケミスの言葉は、引き止めようとしたエルアーティを突っぱねるものだ。思わず箒を僅かに傾かせ、前に進もうとしたエルアーティの眼前、アルケミスの全身が完全に霧に包まれる。駄目か、とエルアーティが進みかけた体を止めた目の前で、アルケミスの全身を包んでいた霧はぶわりと発散した。
予想どおり、そこにアルケミスの姿はない。忽然と消えてしまったアルケミスがどこに行ったのかは、概ねエルアーティやジャービルにもわかっている。はぁ、と残念そうな溜め息をつき、箒から降りて地上に立つエルアーティに、後方からジャービルとベルセリウスが歩み寄る。
「お師匠様」
「ハロー、ベル。元気そうで何よりだわ」
それはこちらのセリフというか。振り向き、小さく笑って手を振るエルアーティは、ラエルカン上空で魔王に消されたと思っていた賢者の態度にはほど遠い。まるでいつもどおりの素振りを見せる彼女は、死んだと報じられた凶報も全部夢だったのかとさえ思えるほどで、ベルセリウスも再会を喜ぶ以上に戸惑いの想いが先立ってしまう。
「驚きですな。まさか、生きておられたとは」
「あら、まさか私、死亡者として報じられてたりする?」
魔王アルケミスの大魔法とともに、気配ごと消し飛ばされたエルアーティが、亡き者として各国に報じられるのは当たり前だ。はい、とうなずくジャービルに、心底げんなりした表情でエルアーティは肩をすくめている。
「はぁ、帰ったらまず住民票の再発行からね。だるいわ」
「気苦労お察しします」
ルオスの法の番人でもあるジャービルと、死者に数えられて魔法都市ダニームの住民票が抹消されているであろうエルアーティの、極めて俗な語らいが交換されている。ここは敵地、それも魔王の庭、こんな場所で平然と話の華を咲かせる二人の肝には、ベルセリウスもかえって戸惑いから目が覚めそうだ。
「お師匠様、どうやって……」
「そんなの帰ってからでもいいじゃない」
ベルセリウスの問いを煩わしそうに突き放すエルアーティだが、それは言い換えれば、今から迎える戦いを勝利で飾り、ベルセリウスと共に生還することを志す表れでもある。気難しく、己の胸の内を容易には明かしてくれない賢者様だが、付き合いの深いベルセリウスには、つっけんどんの態度からでも彼女の内心を感じ取ることは出来る。だから、険の取れた顔で師の生還を改めて嬉しく思い、変わらぬエルアーティの姿に小さく柔らかなひと息をつく態度も表れる。
「さて、早速魔界への道を開いても結構なのだけど」
当たり前のように、易々と為せないようなことを口にするエルアーティだが、それは既にここに来る前に、そのための手段を考案していたゆえの発言だ。ラエルカンにて死したと見られ、長く人前に姿を見せなかった賢者が、この日魔王との一大決戦の舞台に上がりにきた以上、何も備えず来ているはずもない。
西の大地を真っ直ぐ見据え、言葉半ばにして沈黙を作り出すエルアーティ。疎通はなくとも、その目が何を待っているのかは、ジャービルにも充分理解できる。アルケミスとの邂逅、エルアーティとの再会、その時間の間にも西からここへ進行していた友軍の存在を、ジャービルもまた察知していたからだ。魔法の扱いに秀でた二人は広いアンテナを持つが、両者ほど鋭い知覚を持たぬベルセリウスでも、西向きの視線を同じくする二人の姿を見れば、その意味するところも読み取れる。
言葉を紡いで暇を潰さないということは、その時はすぐに訪れるということだ。ベルセリウスがそう読み取ったとおり、目線の先からこちらへと駆けてくる人影が、西からレフリコスを目指していた友軍の到着を示唆してくれていた。
合流したシリカ達が、死したと報じられていたエルアーティとこんな場所で再会したことに、はじめ驚きを隠せなかったのは言うまでもない。しばしの間、そのことで話が止まりかけていたが、それを見越したエルアーティの指が、シリカ達を含めたここに集いし者達の意志を、決戦に向けて固め始める。
西からレフリコスを目指した人類、その中でここまで辿り着けたのは5名と一匹。法騎士シリカ、騎士ユーステット、巨獣マナガルムとそれに乗る傭兵キャル、そして魔法都市ダニームの大魔法使い二人。夢魔ウルアグワと遭遇した最後の休息地点から、ここに辿り着くまでに、犠牲者もいくらか出ただろう。それ以上に、賢明なる撤退に枠を割き、必要最低限の頭数と大駒を送り込んだ、ダニームの大魔法使い、総指揮官の判断は良きものだったと言える。危険ひしめくコズニック山脈最奥地、そこから撤退命令に従い、生存前提の退却を果たせた者がいる時点で、歴史的大戦における無用な犠牲は最小限に抑えられたからだ。ここまで至ろうとした、歴戦の兵であったからこそ、引き際正しく撤退することで、生還の見込みを得られるという部分もあるが。
「これより魔界レフリコス、魔王アルケミスの待つ決戦の地へと乗り込むわけだけど」
その前に、エルアーティにははっきりさせなくてはならないことがある。シリカに歩み寄り、尖った眼差しを見上げるように突き刺してくるエルアーティには、シリカも思わず一歩下がりそうになる。それを意地でもそうしなかったのは、魔王に挑もうというこの局面、味方のエルアーティ相手といえども怯むような自分ではいけないという、潜在意識あってのことだろうか。
「あなた、来るつもり?」
「はい」
「覚悟は出来ているんでしょうね」
「……はい」
魔王との戦いで命を落とすかもしれない、それでも来る覚悟があるのか。普通ならばそう捉えられるであろう、エルアーティの問いかけの本質は、厳密にはそこではない。淀みなき回答を一言目には返せていたシリカが、二つ目の回答には僅かな間を開けてしまったのは、エルアーティの真意がわかっているからだ。
「じゃあもうお好きになさい。一生後悔する結果になっても、すべてあなたの責任だからね」
「…………」
近いうち、シリカかユースのどちらかが死ぬと、あれだけ強く告げたのに。それでも結局ユースを連れて来たというのなら、もう何も言うまい。すべては運命の導くままに。それもまた、ユースの運命力を測るための指針になると考えるしかない。
「あなたは来るつもり?」
「はい」
無言で口をつむぐシリカの隣、ユースに問いかけたエルアーティへの回答は早かった。まあ、予想できた答えでもあるから驚く要素もない。そのためにここまで来たのだろうし、相手が魔王だろうが何だろうが、出来るだけの限りを尽くし、僅かでも力を添えようとするユースの性格ぐらい、しばらく同居した数日の経験からわかりきっている。戦場において、自分の命よりも大事なものをいくつも周りに見出してしまう、ユースの悪い癖もだ。
"片方"がどちらであるかを思えば、どうもこちらだと思えてならないエルアーティだが、実際のところはまだわからない。それもまた、当の人物の運命力がやがて結果を導くだろう。すべてを天命に委ねたエルアーティは、二人から目を切ってキャルの方へと歩いていく。
「無念でしょうけど」
「はい……わかっています」
マナガルムの背から降りたキャルは、本人は毅然とした態度のつもりで、しかし活力の削げ落ちた瞳でエルアーティに応えた。魔力の過剰消費、霊魂のすり減り、これ以上戦うだけの力をキャルが充分に持っていないことぐらい、エルアーティでなくても一目でわかる。ユース達とともにここまで共闘し、シリカやユースをレフリコスの前まで送り出してきただけでも、充分以上かつ限界を上回る活躍だったと言えよう。そんな彼女を魔王との決戦に連れて行くなんて、キャルの死を約束するような話だ。
「お疲れ様。今はもう、お休みなさい」
(恩人よ)
「……はい」
キャルに寄り添うように座るマナガルムへ、エルアーティはキャルに抱きつくような形から、優しく彼女の腰を降ろさせる。糸が切れた人形のように、マナガルムに寄り添うように座り込んだキャルは、ぐったりとその身を巨獣の体毛に寄せて、深い息をついた。ぐらぐらしそうな頭をなんとか前に落とすと、眠ったようにうつむいて聞こえぬような呼吸を繰り返すキャルの姿は、もう立ち上がることさえ難しいほどに疲弊しきったことを表している。
勇騎士ベルセリウス、魔法剣士ジャービル、法騎士シリカ、騎士ユーステット、二人の大魔法使い、そして賢者エルアーティ。魔王の庭へと赴くことが出来る人材は7人。大切なのは、ここからだ。役者が揃えばするはずだった話をすべく、エルアーティはベルセリウスとジャービルの方を向き直る。
「私は当初、ベルとジャービル氏と共に3人で魔界へ赴くつもりだった。魔王の討伐、封印と引き換えに、誰も現世に帰れぬかもしれない選択肢だったのだけどね」
ベルセリウスやジャービルにとってはぞっとするような話のはずだが、二人の表情は全く揺らがない。作ったものではなく、始めから、命と引き換えに大願を為せるなら充分だと自然に考える、恐れ知らずの戦士の思想が二人の根底にあるからだ。もしもその道をエルアーティが二人に持ちかけていたとしても、結果にそれが伴うならば、二人は迷いもせずに話を呑んでいただろう。
「だけど、気が変わったわ。最小限の犠牲とともに、魔王の封印を為せるかもしれない選択肢もある。そうした道があるとするならば、あなた達はそれに同意してくれる?」
「詳しいお話を」
ジャービルの問いかけに、うなずくエルアーティが作戦の本核を話し始める。それは賢者エルアーティにしてはあまりにも不確かで、確実性に欠ける手段。まして勝算という要素を大きく削いだような選択肢。しかしそれを最後まで聞き受けたジャービルは、難色を示すどころか深々とうなずいている。
「……いいでしょう、興味深い」
「ベルは?」
「お師匠様を、信じます」
やれるとエルアーティが言うならば、敬愛する師の言葉を信じるベルセリウス。賢者に対する信頼から、ジャービルもそれはほぼ同じことだ。加えてジャービルには、エルアーティがそれを為そうとすることへの興味深さが上乗せされ、何よりもそれは、"大魔導士"アルケミスの掲げた意志の実現にも繋がる気がしてならない。
ジャービルは、アルケミスのことをよく知る人物だ。同じ故郷に生まれ、年の差あれども互いのことを信頼し合えた関係。そんなジャービルが、アルケミスの意志を汲み取る決断を、勝算を僅かに危ぶめてでも受け入れてくれたことに、エルアーティも無表情の奥で心から感謝している。
シリカとユース、また、二人をここまで導いた大魔法使い両名にも同意を得て。うん、と小さくうなずいたエルアーティの中で、はっきりと魔王討伐への道が定まった。
「法騎士シリカ、騎士ユーステット、そしてベル。地獄へ旅立つ覚悟は出来たかしら?」
魔界レフリコスへと踏み込む、魔王を討つための新時代の勇者達。かつて魔王マーディスを討ち果たした一人である勇騎士ベルセリウスを据え置きに、彼の師として名高き賢者エルアーティ。そして、かつて魔王が討たれたあの頃には、戦士ですらなかったシリカとユース。偉大なる魔法剣士ジャービルをその頭数に含まず、魔界に踏み込む新たなる勇者の名が、レフリコスを前にして掲げられる。
4人での旅立ち。明確な意味を持つ出撃だ。
「魔界は本来、来る者拒まず。魔界レフリコスへの道が閉ざされているのは、魔界の主たるアルケミスの意志によるものであり、それは彼が私の力を解明しようとしていることに由来する」
箒の柄で、ざりと地面を突いたエルアーティの全身から、じわりと溢れ始める色濃き魔力。誰も目にしたことのない、新境地を切り拓いたとも言える、人類未踏の魔力の色には、見届ける魔法使い二人もジャービルも驚きを隠せない。魔法学の権威、魔法都市ダニームにおいての賢者という、特別な地位を不動とするエルアーティの実力は、やはりルーネと同じで他の追随を許さない。
「道を開くわ。まずはベル、あなたよ。ジャービル氏も、準備はいいかしら?」
「勿論です」
エルアーティの放つ魔力、ジャービルの操る魔力。それがベルセリウスのもとへと集い始め、淡くまばゆい光で彼の体を包み込む。周囲からではベルセリウスの姿を視認できぬほどの光、しかし光は目を刺すような強い者ではなく、淡い光に包まれたベルセリウスから周囲が目を離せない。
魔界レフリコスは"ここ"にあるのだ。かつて魔王を討ち果たした人類の快挙は、その真実を副産物とし、それがエルアーティに新次元の大魔法を実現させる礎を作り上げた。閉じかけた目をゆっくりと開く賢者、魔法学者は、一つの真実さえ手にすれば、そこから紡げる新たな境地を末広がりに導き出すことが出来る。
「……聖地開拓」
ベルセリウスを包んでいた光が、ほんの一瞬だけ強くなった。周囲が目を細める眼前、強き光はやがて消え、勇者を包んでいた光の消失とともに、そこにいた人物もまた姿を消している。黒き霧に身を包み、やがて晴れた末に姿を消したアルケミスと同じ、あるいは逆、光に包まれていたベルセリウスが忽然と姿を消す形の実現だ。
「さて。次はあなた達よ」
「はい」
「……はい」
緊張した面持ちを隠せないユースの隣、堂々とした表情のシリカの姿を見て、ユースは自分も本来ならばこうあるべきだと思っただろう。そんなユースを見て、ふっとエルアーティが笑ってしまうのは、やっぱりこの子もまだまだ幼いとよく見えてしまったからだ。
再びエルアーティが魔力を練り上げ、ユースとシリカのそばに立つ二人の大魔法使いも、それを支える準備をする。ベルセリウスに対して一度成功させた魔法、エルアーティは先ほど以上の自信を持ち、シリカとユースを新世界へと送り出す構えに入る。
「私もすぐに後を追うわ。不安がらず、私の力に身を委ねなさい」
言葉だけで、不思議と安心させてくれる声。頼もしさとは、そういうものだ。ユースが信頼するシリカの言葉をずっと信じてこられたように、それと同じぐらい、エルアーティが魔法で何かを叶えようとする時に放つ声は、聞く者の不安を拭い去ってくれる。
「聖地開拓」
ベルセリウス一人をレフリコスに送る時と違い、今度は対象が二人同時。それでも一度の成功が、より強い自信を持ったエルアーティを作り、速やかに二人を光で包む魔法を実現する。卓越した力を持つ賢者とて、その精神模様が魔法の実現に強く反映されることは例外ではないという良い例だ。
光が消え去ったその場所に、シリカとユースの姿はなかった。だが、"そこ"にいる。かつての亡国、レフリコスがあったこの場所に。現世とは隔離された現世の裏側にある、今の世の魔界レフリコスに。
エルアーティの魔法により、異なる世界に肉体を、精神を、霊魂を転移させられること。未知の経験は得てして不安を伴うものだが、シリカとユースには本来ほどの大きな不安はなかった。同時に魔界へと送られた、信頼する誰かがそばにいる実感は、孤独であり得た魔界への旅路を寂しくないものとしてくれる。
光に包まれたかのように、真っ白な周囲。そんな中、きらめく微小の流れ星の如く、二人のそばを駆け抜ける光の珠玉。その場に立って動かぬ二人が、後方へと駆け抜けていく光の珠玉を見届けることは、相対的に我が身が前に動いているかのような錯覚を覚えるものだ。
これが、魔界への旅なのだろうか。幻想的とも、あるいは白昼夢かとも思えるような光景を目の前にして、二人はこの貴重な体験をただ堪能してもよかった。だが、二人だけの世界で立ちすくむシリカが、ふっとユースに振り向いたことに、目の前の光景に意識を奪われていたユースも振り返る。
「……すまない、ユース」
目線を等しくするシリカが開いた口は、思いもよらない彼女の言葉を形にした。どうしていきなり、そんなことを言われたのかわからないユースが、思わず首をかしげそうになったのも当然だ。
だけどその後のシリカの行動には、そんなユースの想いも一瞬で吹き飛んだ。そっとユースの右手首を握ったシリカが、ユースの手を持ち上げたかと思えば、自分の左胸にユースの掌をそっと押し当てたからだ。
「し……っ、シリカさんっ……!?」
心臓が口から飛び出そうな衝撃と共に、顔を真っ赤にしたユースが後ずさりかける。それを逃がさないかのように、ユースの掌を自分の胸へとぎゅっと押し当てるシリカ。豊満だと知っているシリカのそれ、胸当て越しにでもわかる柔らかさに、ユースの頭が一瞬で支配されて言葉を失ってしまう。
「わかる、かな……私だって、その……」
殿方の手を自分の胸に押し当てるだなんて、普段のシリカなら絶対にやらない。そんな場所、仮に同性かつ心を許しているアルミナに触られたって、やめてくれと本気でお願いするような人。そんなシリカが、その表情に羞恥すら表さず、気弱な眼差しをユースに向けている真意は何か。
いきなりの行動で頭が真っ白なユースは、始めうろたえることしか出来なかった。頭がぐちゃぐちゃになって、何も考えられなくなって当たり前だ。そんなユースが、自発的に思考を巡らせるよりも早く、掌から伝わる大きな鼓動は、空っぽだったユースの心をゆっくりと目覚めさせていく。胸当て越しの柔らかな感触は、確かにユースにとっては刺激が強すぎるかもしれない。しかしそれ以上に、防具越しに伝わるほどの心音を鳴らすシリカの胸中とは、彼女のどんな想いを自ずと体現したものか。
「怖い……なんて言っちゃ、いけないんだけど……」
4つ下の後輩、導くべき部下の前、頼りない表情を見せることは、本来法騎士として良くないことだ。二人きりの世界、誰も見ていないこの空間内にて、しかしユースを目の前にして、それを最も隠さなければならない時があるなら今なのに。平常心の仮面を失い、隠しきれぬ不安をあらわにするシリカの表情は、掌を通じて伝わるシリカの鼓動と実に通じ合っている。
思わず左の掌を、自分の左胸に添え当てるユース。自分の鼓動が、自分の左手によく伝わる。自分だって不安でいっぱいなのだ。魔王との決戦の舞台という、未開かつ死闘が待つとわかりきった境地に至る中、不安や恐怖が内在しないはずがない。心音が証明する自らの不安と全く同じものが、右手を介してシリカから伝わってくれば、それは自ずと互いの共通する感情を幹に、心を通い合わせる糸となる。
少し考えればわかるはずのことだったのに。魔王を討ち倒す希望の柱となるよう言われ、新たなる魔王へと立ち向かう立場にされ、怖くない人間ってどれだけいるだろう。エルアーティに、覚悟は出来たかと問われ、淀みなく答えたシリカの強さだけが、彼女の真実の姿だったとでもいのだろうのか。ユースから見れば年上でも、たかだか24歳の騎士がいきなり魔王討伐の主役へと駆り出され、不安も抱えずに巨悪へと立ち向かっていけるはずがない。そんな当たり前のことさえ、シリカに対する強すぎる尊敬心から見失い、彼女だって一人の人間に過ぎないということを失念するユースだから、まだまだ幼いとエルアーティに笑われる。
怖いに決まっている。怖くなかったら壊れ過ぎている。一度意識してしまえば明らかで、どくどくと波を打つシリカの心音は、今にも吐きそうなぐらい不安でいっぱいのシリカの内面を、ユースの手を介してよく伝えてくれる。いよいよ魔界、最終決戦の地。そんな瞬間を迎えたシリカが、押さえ込んでいた感情を溢れさせる姿は、獅子の前に放り出された兎とさえ思えるほどに弱々しい。
「……一人じゃ、無理だよ。こんな私じゃ、頼りないかもしれないけれど……」
エルアーティがそばにいても、共闘するのが心強き勇騎士ベルセリウス様だとわかっていても、抑えきれない不安は決してゼロにはならないのだ。ユースの右手、手首をぎゅっと握るシリカの行動は、本当だったら逃げ出したい気持ちさえ溢れるシリカの心中を、痛々しいほどに訴えかけてくる。
「……一緒に、戦ってくれ。お前がそばにいてくれると、それが一番安心するんだ」
誰より近くで、シリカのそばでずっと戦ってきた男がいる。それは人に合わせることを得意とするクロムとは違い、無心で彼女と自然に呼吸を合わせ、最善の動きと連携を形にしてくれる奴だ。言葉も仕草も必要なく、求めるより早く動き、二人で一つの意志を持つかのように息が合う。背中を合わせ、自らの後方を任せた時の安心感は、意識するまでもなくずっとシリカを支え続けてくれた、唯一無二の型でもある。
エルアーティに告げられた不吉な予言のことを、シリカはユースに話していない。その上で、どうしても、今となっては自分にとって一番頼もしいユースから離れることが耐えられず、鬼門をくぐる所までユースを連れてきてしまった。はじめに謝ったことの真意がそれであることは、決してユースには伝わっていない。それすら未だに話せない、シリカの中で渦巻く自責と後悔は、茨のようにシリカの胸を締め付けている。覚悟は出来ているんでしょうねと言われたって、最悪の結末を迎えようものなら、エルアーティの言うとおり一生後悔することしか出来ないというのに。
「シリカさん」
真っ赤にしていた顔も元の色を取り戻し、真っ直ぐな瞳で、うつむきかけたシリカを見返すユース。弱さを隠せず見せてしまった人を、笑ったりからかったりする感性など持ち合わせていない。これだけ真っ直ぐ、自分のことを必要だと言ってくれた人にユースが返すのは、淀みなき素直な自らの想いに他ならない。
「俺は、いつだってシリカさんと一緒です。そばにいて下さい」
見習い騎士を卒業した日から、ユースはずっとそうだったのだ。毎日の光景で、恒常化していた二人の並び立つ姿は、ユースにとっても今さら手放せぬもの。たとえば急に、ある日シリカがいなくなったとして、昨日までと同じように生きていけるほどユースだって強くない。それだけ自分にとって、シリカが必要な存在であったことなんて、ユースがわかっていないはずがない。
二人いてこそ最善なのだ。怪物サイデルを、獄獣ディルエラを、力を合わせて打ち破ってきた過去が、それを二人に決して疑わせない。勇者とは、勇敢さをその胸に携えていればそうだというものではない。呼び名や称号とは後からついてくるものであり、その者の存在が、共に戦う者に勇気を与え、もたらすものであってこそ、その人物は初めて勇者と呼ばれる。シリカがユースにとっての勇者様であり続けたのならば、今のユースもまたシリカにとって、保てぬ勇気を補ってくれる勇者様に相違ない。
「行きましょう、シリカさん……!」
「……うん」
力強い、決意に溢れた眼差しを返すユースの姿を見て、シリカは握りっぱなしだったユースの手首を手放した。光の珠玉が飛来する先、行き先と感じられる方向へシリカが目を向けた時、ユースも同じ方向を振り返る。魔界が待っている。絶大なる力を持つ魔王が待っている。その悪峰を乗り越えた先、巨悪滅され安寧を取り戻された明るい未来が待っている。二人の眼差しは目下の不安を飛び越え、目指すべき希望を見据えた勇士の光に満ちている。
彼に出会えて本当によかった。この人と巡り会えて本当によかった。言葉にされぬ、心からの想いが二人の胸に根差したその時、光に満ちた旅は帆を畳み、魔界レフリコスへと二人を降り立たせた。




