第252話 ~逢魔が刻~
「……さて、ここまでかニャ」
たった一人でコズニック山脈各地の魔物達を遠方から統率し、各方面からレフリコスへと進軍していた人類を迎え撃つ形を作っていたアーヴェルは、夕暮れ前にしてついに最後の言葉を呟いた。北から迫るベルセリウスの軍勢を迎撃する魔物達、東から攻め入るジャービルの軍勢を迎え撃つ魔物達は、とうとう戦力を尽かして沈黙した。ベルセリウスとジャービルがレフリコスへと到達するのは時間の問題、しかし数千の兵力を携えて進軍してきた各軍勢を、百名以下まで削り落とせただけでも、指揮官アーヴェルの仕事は大成功だ。魔王討伐のために勇者をレフリコスに送り出せればそれでいい、そういう目的意識が人類になかったら、とうに敵軍全滅を果たしたと言える形だ。
ここまでやれれば魔界の意志、魔王にけちをつけられることもあるまい。西からレフリコスへと進む、ダニームの魔法使い達を中心とした陣営を迎え撃つ魔物達に、最後の突撃命令を下したところで、アーヴェルは翼を開いて空へと舞い上がる。効率的な作戦と立ち回りは、その一角の魔物達の将に伝えた。あとはお前達の力でなんとかしろと命じ、魔王の庭から百獣皇が飛び立つ。
魔王の魔力を届かせぬ遥か高空から見下ろして、アーヴェルは腕を組む。これから何が起こるのか、途中までならだいたい読めている。ベルセリウスとジャービルがアルケミスの元へ到達すること、西から迫る魔法使い達の一団の中にある、法騎士が魔王の元へと送り出されること。また、魔王アルケミスも期待しているであろう、運命の隕石がやがて魔界へと突き刺さること。その末に、人類と魔王の最終決戦、どちらに軍配が上がるのか。それを見届け歴史の行く末を知ることが、大魔導士としての百獣皇の知識欲を刺激する。
「……見せて貰うからニャ、アルケミス」
自ら死を選び、魔王として生まれ変わったアルケミス。アーヴェルには決して選べない、一度の死を経て辿り着いた境地。決してその行動理念に共感は出来ないが、その末にアルケミスが目指したものだけは、百獣皇にも理解できる。死せずして、その行く末を見届けられる立場を与えられたアーヴェルにとって、美味しい所取りの現状を嗜む一方、この歴史の岐路は決して見逃せないもの。
面倒ごとに満ち溢れた、魔王に使える長き時。最後の最後でこれを見届けられるなら、運命も良い報酬をもたらしてくれたものだと思う。魔物達にとっての劣勢戦況、優勢なる人類の軍勢。すべてに興味を失ったアーヴェルの瞳は、魔王の本質に手をかけたアルケミスの未来を強く見据えている。
最後の難関だ。魔王の総本山を目の前にして、下級種にあたる魔物が一匹も現れない。ここまで尖兵として現れていたミノタウロスやヒルギガースですら、ここに来て一体の姿も見せない。その上位種たるビーストロードやグラシャラボラス、並びにワータイガーの上位種にあたるワーウルフが最前列に並び、空の魔物達も怪物揃いだ。きっと一年前のユースあたりだったら、一人で一体を討伐することすら適わず、そんな魔物の多数に瞬殺されていたような化け物ばかり。
「突破する! 地滅獣牙!!」
「騎士団、突撃! 一気にたたもう!」
「帝国軍、続け! 敵地を掌握する!」
巨体を誇る魔物達の軍勢、その足元から突き上げる無数の岩石の槍。ひとつひとつが巨人の足のように太く、曲がるそれらの突き上げは魔物達を突き刺すか叩き上げたのち、敵陣をかきわける岩石オブジェの密林のように留まる。大魔法使い達の複合魔力が織り成す魔法に足並みを崩された魔物達へ、ここまで至った一騎当千の戦士達が猛然と差し迫る。
「調子に乗るな……! 旋風砲撃!」
「ここが貴様らの墓だ! 氷結風!」
空から放たれる風の砲撃、大気も凍らせる凍結の風。大悪魔ネビロスや、獣の下半身を持つスフィンクスの魔法が、多角から人類を迎え撃つ。最前線の騎士や帝国兵達に混ざる魔法使い達が、魔力による障壁を展開し、それらを撃退。一筋縄では崩れない魔物達と、その抵抗をつぶさに察知して抑圧する人類の、一秒ごとに戦局が大きく変わる激戦の火が燃え上がる。
グラシャラボラスの投げる鉄分銅をくぐってかわし、薙がれたビーストロードの大戦斧を跳躍してかわした一人の聖騎士の後ろを追うのは、上騎士にも至らぬ階級の若い騎士だ。この人類陣営、そんな低い階級で参戦するたった一人の男は、聖騎士を薙ぎ払おうとした直後のビーストロードへと果敢に突っ込んでいく。敵の反応速度は素早く、迫る彼に対する前蹴りを放つ速度がそれを体現している。
「英雄の双腕、っ……!」
自らの顔面をぶち抜こうとしたビーストロードの蹴り足を、その盾ではじき上げた瞬間に、予想しなかった足の叩き上げにビーストロードの体がぐらつく。それだけの隙を与えることが出来れば、後方の魔導士様がすぐさまビーストロードに迫ってくれるのだ。剣と魔法を等しく扱い、燃える刀身を携えた帝国兵の一人が、ふらついたビーストロードに流星のように突撃。目にも止まらぬ速さでユースを追い抜いた歴戦の戦士は、ビーストロードの喉元をばっさりと切りつけた直後に、魔物の胸元を蹴って後方に退避。直後ビーストロードの全身が、傷口から爆発するように全身に広がった炎に焼かれ、もがいた末に後方へと倒れていく。
「小癪、な゛……ッ!?」
宙に身を置く帝国兵を魔法で狙撃しようと両手を前に出していた、空の大悪魔バルログ。その視界外から飛来した一閃の矢は、寸分違いなく悪魔の片目をぶち抜いた。のけ反るバルログが目の前を鮮血の色に染め上げて動じるところへ、射手の相方たる巨獣が飛来して頭に前足をかける。
空からマナガルムに踏みつけられる形で地上へと押しつけられたバルログは、地に叩きつけられた瞬間に、マナガルムの前足で頭を潰される形となる。そんなマナガルムの側面から差し迫るグラシャラボラスの鉄分銅も、そちらに頭を振り上げたマナガルムが制止する。怪力無双のグラシャラボラスの放つ鉄分銅を、がちんと前歯で噛み潰すように食い止め、ぎらりと睨みつける目を返して威嚇して返すほど。いかに勇猛なる魔物とて、マナガルムの放つ威圧感と殺気には一瞬怯み、その僅かな惑いがマナガルムの背にまたがる、有能なる射手による一射を回避する時間を潰してしまう。
(恩人よ、戦えるか……!?)
「まっ、まだ……やれる……!」
長期戦、マナガルムの側面に抱えさせていた実弾の矢も底を尽きかけ、キャルは自らの生み出す魔力を矢に変えて放つ局面が多い。神秘の矢の威力は実弾に及ばず、貫通力も低く、敵に強烈な打撃を与えるだけのものでしかない。しかし今射抜いたグラシャラボラスが片目を潰されたように、敵の急所に的確に当てる形でならば、充分な致命傷を与えられる。稀有なる才覚と手腕で、魔物達の急所を寸分違いなくぶち抜くキャルの腕前が、なんとか射手としての仕事を彼女に叶えさせている形だ。
決定力のある実弾の矢を温存するため、魔力の行使をここまで続けてきたキャルの魂も限界が近付いている。マナガルムを突き崩すことが、あの厄介な射手たる少女の無力化に繋がるとわかった魔物達も、こぞってマナガルムへ空から魔法を放ってくる。舌打ちするように、機敏に立ち回ってそれらをかわし続けるマナガルムだが、激しく動く相方の背で、弓を構えられずにしがみつくキャルのことが心配だ。霊魂が疲弊し、体が言うことをきかないから、キャルがそうして動けなくなってきているのもわかっている。
(見くびるなよ、ぬるま湯上がりの野狐達めが……!)
魔物達の魔法攻撃から逃れた直後のマナガルムへ、猛然と差し迫る一体のギガントス。トロルやスプリガン、地震魔法を扱える巨人属の最上位種の身体能力は高く、マナガルムも側面から迫るそれへの対応が一瞬遅れたほどだ。石造りの建物をも粉砕する、ギガントスの鉄拳がマナガルムへと迫る中、額を突き出し頭突きで真正面から迎撃するマナガルムの対応は、本来無謀とさえも言えるはずのもの。
巨獣の頭は砕けない。ぎり、と歯を食いしばるマナガルムの眼差しが歪むが、死と常に隣り合わせの魔界アルボルで生き残ってきたマナガルムの強さは折れない。百獣王ノエルの攻撃を受け、なおも戦い続けたマナガルムの耐久力は、その石頭にも如実に表れている。
「翡翠色の――」
マナガルムがうなり声とともにギガントスの拳を押し返せば、自分の拳が砕けたかと思えるほどの痛みにギガントスが拳を引いて退がる。瞬時、マナガルムの側面から巨獣を追い抜くようにして迫る、法騎士の殺気に危機感を抱いたギガントスは、さらに大きく後方に跳び退いていた。だが、もう間に合わない。
「勇断閃!!」
法騎士シリカの振り上げた騎士剣は、剣身よりも遥かに長い切断の魔力を携え、混戦模様の戦場でも目立つほどの三日月残影を残す。シリカから離れたギガントスもその軌道に捕えられ、万物を切り裂く絶大な魔力がギガントスを真っ二つにした。二つに割られた魔物の巨体はそのまま後方へと流れ、おびただしい血を噴く亡骸となって転がる。
そんなシリカへと斜方から放たれる、魔力の塊と思しき気弾が飛来したのも直後のこと。つぶさにその気配を感じ取り、回避すべくバックステップしようとしたシリカだが、敵弾とシリカの間に割り込んだ誰かの姿が、その必要をなくしてくれる。英雄の双腕を構えた若き騎士が、輝く盾で遠方より放たれた、エルダーゴアの気弾を上空に跳ね飛ばしたからだ。
「ユース……!」
「大丈夫です……! 戦えます!」
傷ついた魂、体を動かすのは苦しい。だけど本来霊魂に鞭打って抽出するはずの魔力は、彼の肩にしがみつくベラドンナの支えあって、過不足無く普段どおりに生み出せている。ユースの精神に呼応して魔力を生み出そうとするユースの魂、それに近しく同調することで、魔力を生み出す支えとなるベラドンナの魂が、まるでどんな親和性物質にも勝る魔力捻出触媒だ。
シリカが回避していれば、彼女の後方マナガルムを襲っていたであろう気弾。ユースが一枚その間に入ったことで、二人の友軍を守り抜くことが出来たのだ。中衛上がりの若き騎士、視野の広さと仲間を守るための立ち回りなら誰にも負けない。積極果敢を形にし、敵陣を破る力をここ最近見せてきたユースだったが、彼本来得意の立ち回りをさせればやはり最高の動きをし、それがシリカにこの上ない頼もしさと安心感をもたらしてくれる。
「ついて来るんだぞ……!」
「はいっ……!」
自らを狙撃したエルダーゴアへと差し迫るシリカ、追うユース。その後方からシリカ達を追い抜く形で魔力の矢を放つキャルが、遠方のエルダーゴアに牽制。眼球狙いの一射をかわしたエルダーゴアに、迫るシリカが翡翠色の魔力を纏う騎士剣を食いつかせ、難敵を真っ二つにするのも時間の問題だ。キャルのまたがるマナガルムも、無言でシリカを支え続ける大精霊バーダントの加護が、そうした未来を実現させると信じて全く疑っていない。だからキャルの一射を最後にシリカを追わず、雄叫びひとつ上げて別方向へと突風を吹き荒れさせる。
エルダーゴアに迫るシリカを狙い撃とうとしていたスフィンクス達が、突風に煽られて体勢を崩し、一体はマナガルムが喉奥から放つ風の刃で喉元を断たれて。さらに跳躍したマナガルムが上空のネビロスへと一気に迫り、悪魔の頭部を噛み砕いてシリカへの狙撃を叶えさせない。邪魔者なくエルダーゴアへと接近したシリカの一太刀、それを回避したエルダーゴアを上空からキャルが実弾で狙撃し、肩口に深い傷を残す。怯んだその瞬間、エルダーゴアの脇を駆け抜けたユースの刃が魔物の腕を一本断ち、それに気を取られたその時こそ、剣を振り上げたシリカの一閃が魔物を断つ一瞬前。
頭頂部からシリカの剣に真っ二つにされたエルダーゴアの姿が出来上がるまで、開戦開始から何秒での出来事だっただろう。間違いなく、魔王軍の中でも屈指の実力を持つ怪物の一角であり、それを短い時間で討伐する結果は、人類にとっての大きな追い風である。見えぬところでシリカへと迫る魔物の足止めを叶えてくれていた、多芸なる魔法使いや帝国兵の協力もあってのことだが、それこそが人類の成す結束力。残り少ない兵力で、本来一対一では討伐の難しい魔物の大群を迎え撃つ人類は、変わり映え続ける戦況に遅れを取らない連携で、魔物達を押し込んでいく。
「この機を逃すな! 優位を確立するぞ!」
「いいや、もうこっちのモンだ……! このまま一気に押し潰せ!」
多勢受けの状況から敵数を削り、状況はやがて拮抗状態へ。それをさあここからだと捉える慎重な者、流れは決まったとどめを刺せと果敢な者、人類間で見解の相違があるとすればその程度だ。劣勢本来の戦況から、敵陣突破の光が強くなってきた今になり、勢いを強めて押し切ろうとする騎士や帝国兵の勢いは止まらない。何よりもここまで来た、各国の精鋭ばかりが揃った集合体、それを叶えるだけの力が個々に充分備わっているのが最も大きい。安寧を目指し、長年に渡って力を培ってきた者は、何も第14小隊や騎士団だけではない。
必死なのは魔物達も同じ。支配者たる魔王のため、何よりも自分達の存亡のため。それを踏み倒し、宿願への道を拓かんとする人類の突撃が、一体二体と魔物達を摘み取っていく形で魔物達を追い詰める。何年も、何年も、魔物達に脅かされ続けてきた人類の逆襲が、山脈奥地で安寧を貪っていた魔物達の焦燥感を煽り続ける。
「ユース、あと少しだぞ……!」
「わかってます……!」
その中心を駆け抜ける、若き法騎士の姿は友軍の注目を集めるものだ。賢者ルーネの掲げた旗印のとおり、彼女を魔王の待つ地へと送り出すのが攻軍の目的。だからシリカの動向に、周囲が常に目を光らせているのはある意味では当たり前のことだ。
そんな彼女のそばに立ち、及びきらずながらも抜群の立ち回りを見せる若き騎士。初めてユースの姿を見る者も多い戦況下、頼もしき法騎士シリカのそばを駆け回る彼の姿に希望を感じた者は少なくなかった。魔物達の撃滅、魔界への突破口の実現、それを叶えさせてくれると感じさせてくれる勇姿の数々の一つに、確かにシリカとユースの姿もまた数えられていた。
かつて魔王マーディスとの決戦に臨んだ二人の勇者。ベルセリウスとジャービルは、魔界レフリコスの入り口たる場所を、おぼろげながらも覚えている。彼らのそばに立つ、魔法使いや魔導士達の魔力を介し、別角度から進軍していた二人が通信を取り合い、目的地を前にして合流するのは難しいことではない。
「――ジャービル様!」
「……辿り着かれましたか、ベルセリウスどの」
蒼き鎧に身を包む勇騎士ベルセリウス、黒い軍服を纏う魔法剣士ジャービル。いずれも友軍の将がここまで到達することを信じて疑わなかった身であり、かつての一大決戦と同じ舞台で再会したことに、特に意外さを示さない。ほっとした、という顔も見せなかったほど、ベルセリウスとジャービルは互いの実力を信頼し、相手がここまで来ることを信じて疑っていなかった。
「随分と減りましたな」
「引き退がらせましたよ。あまりにも、危険でしたので」
「そうか……やはり、そう感じるか」
ベルセリウスの後方から来る魔法使いは2人、ジャービルに至っては側近の魔導士一人だけ。ここに至るその直前、両者とももっと兵力を抱えていたはずだ。それらを撤退させ、こんな人数で魔王との決戦に挑もうとする二人の勇者の判断は、普通に考えて愚策であるとも感じられることなのだが。
「……アルケミスが呼んでいます」
「貴殿にも聞こえたのだな。――退がれ、エグアム」
ベルセリウスの言葉を受け、ジャービルはたった一人の部下をも退がらせる。御武運を、と一言残し、後軍の元へと下がっていくルオスの老魔導士、エグアムの動きに迷いはない。元より途中から、そういう段取りだったのだ。
「ここまでありがとう。ゲイルやグラファスに合流し、決着の時を待って頂きたい」
ベルセリウスもまた、たった二人だけ従えて来た魔法使いを退がらせる。不安げな表情は隠せぬものの、歴戦の魔法使い達はベルセリウスの言葉のままに撤退する。彼らもまた、この先に待ち受ける運命を直感で感じ取り、それが賢明だと予感する部分もあったからだ。
勇者ベルセリウス、ジャービル。たった二人、魔界を前にした二人の人間が、参りましょうの一言を最後に歩き始める。進む先は、かつて魔王との決戦の舞台であったレフリコス。歴史的に言い変えるならば、滅びる前の王国レフリコスがあった場所であり、跡地すらも無くなった山奥の一角だ。
魔物達が近くにいる気配すら無いのは、二人にとって怪訝に感じることではない。レフリコスを前にして、魔王の呼ぶ声が聞こえた二人には、アルケミスが自らのもとへ二人が辿り着くことを望んでいると、心のどこかで確信しているからだ。行く手を阻む、魔物の姿がないことも、魔王となったアルケミスの望む形であると想像に及べる。
そして、見えた。あまりにも特異なく、人としての姿で自分達を待つ魔王は、山奥に開けたある一角の真ん中、丸く大きな石に腰掛けて二人を真正面に見据えていた。
「……アルケミス」
「ご無沙汰しております、ジャービル様」
同じルオスの生まれにして、アルケミスにとっては数少ない、真の敬意を払えた偉人。レフリコスの魔王という、支配こそがすべてという魔王となった今でありながら、腰を上げて立ち上がったアルケミスは、離れた位置で立ち止まるジャービルに小さく一礼した。
「ベルセリウスもだ。よく来てくれた」
「……ああ」
無音の山奥、渇いたさえアルケミスの魔力が封じ込め、静かな荒原で三人が向き合う形となる。かつて魔王マーディスを打ち果たした三人、その二人は並ぶようにして今も人類の希望として、もう一人は今や人類の敵として、その二人の正面離れて立っている。
「アルケミスよ、なぜこんなことを」
顔を合わせれば問うべきだったことを、ジャービルがごく普通の語り口で問いかける。アルケミスはふっと笑い、責務に従じるジャービルの責任感を、相変わらずだと懐かしむ。あなたのことだから概ね予想はすでについているでしょうに、それでも確かめる辺りがあなたらしいですね、と。
「見届けて頂ければ充分ですよ。あなた達が生きて帰れれば、ですが」
「私達を生きて帰らせるつもりはないのだな」
「ええ、残念ながら」
自らの庭を脅かす人類を、生かして帰らせる道理がないのはごく当たり前のはず。そんな問いをするジャービルの口様は、まるで的がずれているようにさえ感じられるものだ。それを、何を馬鹿なことをと嘲笑しないアルケミスの態度は、やはりこの人は自分のことをよく知っている人物だと感じるからだろう。
やはり大魔導士アルケミスの観点から言えば、ベルセリウスならびにジャービルは殺すには惜しい人物。そう出来ないのは自らが魔王たるゆえだ。それに一抹の惜しみを感じていながらも、すべてを受け入れた上で魔王として生まれ変わったアルケミスに、今さら迷いもない。彼の中に内在する魂や意志が二つ以上あるにせよ、その身で為せる行動は一つしかないのだから。
「……では、始めようか」
サーベルをひゅっと振り、戦いの幕開けを示唆するジャービル。彼に遅れて無言で騎士剣を構えるベルセリウスは、胸の内にある疑問や迷いを握り潰している。アルケミスとジャービルの間だけで交わされる真実、そのすべてを傍から読み取ることは難しい。しかし、為すべきことが一つしかない以上、勇騎士ベルセリウスに残された道は、かつての親友を討ち果たして勝利を掴むことしかない。
「お待ち下さい」
死闘を覚悟する二人を制止するのは、他でもないアルケミス自身だった。構えたまま、アルケミスの言葉を呑み、第一歩を踏み出さない二人を前にして、魔王はなかなか次の言葉を紡がない。沈黙が、かつてのレフリコスであった地上を再び包み込む。
ベルセリウス達と向き合い、北を向いていたアルケミスが僅かに首を動かす。彼にとって右の上空、北東の空を見上げるアルケミスが目で追ったのは何か。その向こうから飛来する、小さな小さな影の正体を知っているのは、今のところアルケミスと、コズニック山脈の上空に身を置くアーヴェルしかいない。
「相変わらずの選民意識だこと」
遠き空、地上の三人には聞こえぬはずの声で呟いたその人物の声が、ベルセリウスにもジャービルにもよく聞こえた気がした。魔王と対峙し、目を逸らさなかったベルセリウスが思わず振り返る一方、彼女の来訪を驚かないジャービルはアルケミスを見据えたまま。その瞳には、かつての師との再会を心待ちにしたアルケミスが、空を見上げる様が映っている。
ベルセリウスも見た。勿論、アルケミスもだ。紫のローブに身を包み、矢のように空を駆けてくる賢者は、風に飛ばされそうなナイトキャップを片手で押さえて。箒にまたがる魔女を思わせる、幼き姿をした賢者の襲来を目の当たりにして、当惑するベルセリウスと口の端を上げるアルケミスの態度は対照的だ。やがて賢者はベルセリウスとジャービルの前の地上へと舞い降り、地に足を着けぬ高さで僅かに箒を浮かせたまま、真正面に魔王アルケミスを見据えた。
「お師匠様……!?」
「知識とは独り占めせず、等しく共有するべきものよ?」
「それだけは最後まで、貴女とは気が合いませんでしたね」
自らの来訪に驚く、後方のベルセリウスに目もくれず。舞い降りた賢者エルアーティは魔王アルケミスを前にして、再会の挨拶より早く、口癖に近い教えを口にした。




