第248話 ~夢魔の世界③ 絶望の闇へ~
ユースの放つ剣による攻撃を、ウルアグワはその魔剣でことごとくはじき返す。自在に空を舞う力を持ち、重力を忘れたように動けると聞く黒騎士だが、今のところそんな素振りもない。地に足を着け、まるで正統派の騎士のように、ユースが繰り出す剣の連続攻撃を受け流している。
魔王マーディスの遺産の一角、かつては勇騎士ベルセリウスと長く戦い続けたほどの手練。そう広く知られる黒騎士ウルアグワに、今のユースが単身立ち向かって勝てるのか。ユース自身が誰よりも、そんな不安を胸に抱き、努めてそれを押さえつけながら戦っている。流麗な動きで後退し、無限の広がりを見せる空間上で、ウルアグワは苦もなくユースの剣をはじき返している。
「どうした? 私を殺せぬなら、貴様が死ぬのだぞ?」
涼しい声でユースの焦燥感を煽るウルアグワ。ひとたび動き出せば、何年もかけて慣らした剣を握る腕は、ユースの望むままにしっかり動いている。不安や恐怖、ノイズを心中に抱えながらも、決してユースの動きが劣化しているわけではない。それでなお、余裕を崩さず金属音を鳴らし続け、自らにユースの刃を触れさせないウルアグワの動きが、さらにユースから勝利への希望を削いでいく。
しばらくそうして守っていたばかりのウルアグワが、不意に剣を返してきた。ユースが下からウルアグワの騎士剣を叩き上げた瞬間から、剣を握る腕をウルアグワは肩を軸に一回転。人間の関節が為せるとは思えぬような動き、一回転した腕がユースの下から剣を振り上げてくる反撃にも、ユースは体を引いて回避する。心を追い詰められたって、戦いの場においての全力は出せている。
一度攻勢の流れを断たれたユースに、今度はウルアグワの剣が差し迫る。一秒間に、何度もだ。喉元を剣先で裂く絶妙な遠距離からの一閃、それを後退して回避した矢先に迫るのは、いつの間にか振り上げられた騎士剣の振り下ろし。一歩踏み込んだウルアグワの剣は、ユースの頭を真っ二つにする軌道を描き、咄嗟にそれを察せたユースは、また一歩跳び退がって回避せざるを得ない。ウルアグワの攻撃は、寸前で正しく回避してカウンターを実現できるほど、読める太刀筋を作ってくれないのだ。
埒があかない、突破口は自分で作らねば。ユースの胸元を真っ二つにする高さで剣を薙ぎ払うウルアグワ、それをユースが左腕の盾ではじき上げる。英雄の双腕の魔力を唱えずして纏った盾は、重いウルアグワの一太刀を上へと殴り上げ、同時に胸元ががら空きになった黒騎士の姿が目の前。
鉄仮面と甲冑の境目、踏み出すと同時に喉元めがけて騎士剣を突き出したユースの狙いは正しかったはず。しかし直撃寸前、身軽に体をひねったウルアグワが容易にユースの攻撃を回避する。次の瞬間、それと同時に一歩踏み込んだウルアグワの左手が、ユースの首元に勢いよく差し迫る。
親指と人差し指の間で、喉輪の形でユースの喉元を痛打したウルアグワの一撃に、ユースは目を見開いて口の中のものを吐き出す。あまりの威力に体が一瞬浮いたかと思った直後、顔を上げられずに、げはっと息まで吐き尽くすユース。倒れこそしなかったものの、完全に動きが止まってしまったユース。しかしウルアグワは、すぐにとどめを刺したりはしない。
「隙だらけだな。楽にしてやろうか?」
「っ……う゛ああ、っ……!」
死を示唆されたユースが、殺されてたまるかという叫びとともに、苦し紛れの剣を振るう。我が身の右から迫るユースの剣に、縦に構えた剣で壁を作るようにしてウルアグワが防御。確かになかなかの力だ。しかし、喉を潰された直後のユースが全力渾身を注げるはずもなく、力の入らぬ構えでも騎士剣のフルスイングをウルアグワが食い止められるほど、今の一撃は力ない。
完全に剣を止められたユースの顔が青ざめた瞬間、ウルアグワの左の膝が、勢いよくユースの腹へと突き刺さる。全身甲冑、膝も鋼の塊だ。痛烈な一撃に、今度こそ肺の中のものを全部吐き出さされ、蹴られた威力で体を浮かせた直後のユースが、膝から崩れ落ちてしまう。
目の前で跪いてうめくユースを見下ろしてなお、ユースにとどめを刺す素振りを見せないウルアグワ。腹を打ち抜かれ、がくがくと体を震わせるユースを、ただ満足げに眺めるだけだ。それでも騎士剣を落とさず、必死で呼吸を整えようとしながら、ユースが騎士剣の柄をぐっと握り締める。それを目にした瞬間に、ウルアグワの足がユースの顎を捉え、屈していたユースが後方へと吹き飛ばされる。
背中から地面に叩きつけられ、受け身も取れずに後頭部を地面に打ち付けたユースは、何もない闇の上天を目の前にしてなお、視界がぐにゃりと歪む実感を得る。呼吸もろくに出来ないまま、今までに口にしたことのないようなうめき声が溢れ、起き上がろうにも意識がはっきりしてくれない。ウルアグワはすぐそばにいるのに。かしゃん、かしゃんと金属音を立ててゆっくりと歩み寄る、黒騎士の足音が近付いてくる。
「私はな、魔王マーディス様に初めて作られた存在なんだよ」
ユースに近付いたウルアグワは、片膝ついてユースの顔を覗きこむ。苦悶に満ち溢れたその顔を眺めながら、剣を握らぬ方の左手で、倒れたままのユースの喉を掴むのだ。それによって、開ききっていなかったユースの両目が見開かれ、ウルアグワがユースの抱く苦痛を実感する。
「魔界レフリコスに集められた魂から、初めて魔王様の手によって作られた私は、マーディス様の目的を叶える、魔界の意志として生まれた。あの方の望む未来、すなわち"支配"を実現をより現実に近づけるためにだ」
魔界レフリコスの本質を知らぬユースには、その言葉が真に意味するところはわからない。レフリコスが、支配の未練を抱きし魂の集う伏魔殿であり、やがてそれらの魂によって生み出された魔王が、支配そのものを目的とする暴君であることなど、ユースは知らないのだ。だが、今の言葉でユースにも理解できるのは、ウルアグワは人類を苦しめようとする魔王の意志を、一身に肯定する存在であるということ。間違いなく、人類にとっては絶対悪たる存在だ。そう聞こえる。
「マーディス様が討たれたあの日から私は、魔界レフリコスの意志は、失った支配者の復活へと動き出した。それは貴様も知ってのとおり、叶えられたわけだ。私の役目はもう終わった。じきに私という存在が消え、魔界レフリコスへと還っていくのも間もなくだ」
黒騎士ウルアグワ、夢魔ウルアグワは、一度マーディスが滅んだあの日、一つの役目を終えている。魔王の側近として、主を支え続けるという存在理由をだ。だが、魔界の意志たるウルアグワは、魔王という主君の復活を渇望する思念から生存し、やがて魔王アルケミスという主君を作り上げた。すべての存在理由を失い、生きる意味を失ったウルアグワは、やがて魔界レフリコスの一部へと自らが還る自分を知っていた。だから、夢魔ナイトメアと黒騎士ウルアグワは同一の存在であり、ナイトメア討たずして黒騎士は消えぬという秘密をも、人類に明かされることを厭わなかった。どうせ近々、自分は魔界に消えていくのだから。
抵抗しようと騎士剣を握る手を振り上げようとしたユース。しかしウルアグワの膝が、ユースの右の二の腕を押し潰す。目も覚めるような痛み、腕が折れたかと思えるような衝撃で、首を絞められたまま悲鳴をあげるユースの声は、もはや声にもなっていない。身動きひとつとれず、ささやかな抵抗も許されぬまま、いたぶり尽くされる一方だ。
「魔王様の復活を実現させ、消える前に私は私の意志で動くことを許されたのだよ。魔王様のために動く以上に優先されることなど無いが、私にもちゃんと自我はあってな。だからこうして許しを得た今は、己の望むままに動き、楽しませてもらっている」
鈍い腕への痛みに苦しみながらも、飛びそうな意識の中でユースはウルアグワを睨みつけようとする。諦めない、心を折らない、どんなに絶望的な状況に追い詰められても。そんな奴だからこそ、自我のままに動ける今のウルアグワにとって、これほど遊び甲斐のある相手はいないのだ。
ウルアグワは騎士剣の柄を手放し、刃の部分を手甲で握ると、まるで包丁のような長さで騎士剣を握る形にする。それをゆっくりと振り上げたウルアグワの行動により、不屈を貫いていたユースの心が完全に恐怖の一色に染まる。身動き取れぬユースの目の前、上天に鈍くウルアグワの剣の切っ先が光った瞬間、短尺のウルアグワの刃が勢いよくユースの頭へと振り下ろされた。
「支配とは何か。他者を屈服させ、自らの意のままに動く存在とすることだ。自らより力を持つはずであった存在を操ること、意に沿わぬ者が服従せざるを得なくさせること。まあ、細分化すれば色々あるのだがな」
後頭部を地面に接したユースの顔のすぐ横、地面に突き立てられたウルアグワの刃。頭を串刺しにされるかと思ったユースは、止まらぬ汗と過呼吸を溢れさせ、指先ひとつ動かせなくなってしまった。目の前にある黒騎士の鉄仮面が、完全に自分の生殺与奪を握る存在と認識させられ、微動だに出来ないユースの姿がある。
「マーディス様に生み出された我々は、それぞれが細分化された"支配"を至高の喜びとする観念を持つ。エルドルは意に沿わぬものを破壊する"支配"、ノエルは自らに劣る者を従えさせる"支配"。そして私は――」
ユースの首を握るウルアグワの左手に、ぐっと思い力が込められる。脈と喉を締め付けられる苦しみにユースが喘ぐ姿を見て、ウルアグワは心底楽しそうな感情を声に表し始める。
「こうして、屈服させた者をいたぶる"支配"が何よりも楽しい。人間達も、弱い者虐めというものが好きだろう?」
ウルアグワはユースの首を掴んだまま、身を引いてユースの体を引き起こす。そして立ち上がると、人形の首を掴んで吊るすかのように、ユースの体を宙に浮かせるのだ。
「私達は魔王様の手により、人間の魂の一部が集まって作られた存在だ。支配を望む感情、本能、それを記憶した魂のな。私達をこうした存在たらしめるのは、他ならぬお前達人間なのだよ」
魔王マーディスの最期の言葉。また会おう、愛すべき人間達よ。人の魂の醜い感情の渦から生まれた魔王にとって、人間の存在そのものが生みの親なのだ。だから魔王マーディスは、支配せんと苦しめた人間達が、抗う末に自分を滅ぼしかけたあの時でさえそう言った。それはウルアグワも本能の奥底では同じ事であり、人間達がいたから今の自分があるのだと知っている。
「自分よりも下の者を虐げたことはないか? 幼い子供は、弱い蟻の足を引きちぎって遊んだりするだろう? 気に入らない人間が自分より下の立場にいれば、理不尽に殴りつけたりなじったりもするだろう? 私はそうした人間達の、卑しい感情の集合体だ」
今この世界にユース達を捕え、隔絶した場所で一人一人をむごたらしく殺してきたこと。その悲鳴をユースに聞かせ、恐怖に煽られるユースを見て笑っていたこと。この世界最後の生き残りであるユースを、抵抗する力を失うほどに痛めつけ、苦しむ顔を見て悦楽に浸ること。それらの行為は、すべてが人の魂に記憶された嗜虐心の集合体である自分にとって、最高の喜びであるとウルアグワは言っている。
「楽しいぞ……満足に動くことも出来なくなった者を、こうして痛めつけるのは。貴様は何年生きてきた? 思い出も、楽しかった日々も、歳月の数だけあるだろう? その末に貴様が辿り着いたのは、こうして身動きもとれぬまま私になぶり殺される、最悪の結末でしかなかったわけだ」
それがウルアグワにとって、楽しくて仕方がないのだ。希望に満ちていたはずの未来を閉ざし、突然の闇に突き落とされた者の絶望を、長くいたぶることで楽しみ尽くす。それこそが、自らの手で、光ある未来があったはずの者の命運を捻じ曲げる存在にとって、最高の形で"支配"を実感できる形。
言葉にされればなおのこと、そんな未来にされてたまるかとユースも必死になる。二の腕を踏み潰され、持ち上がらぬ右腕の代わりに左手で、自分の首を握るウルアグワの手首を掴むのだ。それによって逃れられるわけでなくても、お前なんかに屈しないという想いの主張にはなる。
仮面の奥でどす黒い嗜虐心を燃やすウルアグワが、持ち上げていたユースの体を少し下げる。自分とユースの目線の高さが等しくなれば、歯を食いしばって折れまいとするユースの顔がよく見える。3秒間、その顔を見て記憶に刻み付けたのち、騎士剣を握った右の拳を、ユースの腹へと勢いよく抉り込ませる。同時にユースの首を手放すウルアグワにより、腹をぶち抜かれたユースが後方へと吹き飛ばされ、力なく地面に転がる。その一瞬の間に、屈してたまるかと心を保とうとしていたユースの顔が、腹への一撃で大きく一変する光景を一瞬で目に焼き付けられただけで、ウルアグワにとってはいい見世物。
半身で寝そべる体も起こせず、かすれた目で、開いた口から胃液を垂らすユースは、丸くなって体をひくつかせることしか出来ない。抗うどころか、何も考えることが出来ない。痛み、苦しみ、真っ暗な目の前。飛びそうな意識の外から割り込んでくる、甲冑包みの黒騎士が歩み寄ってくる音に、恐怖心だけが自ずと湧き上がってくる。這いずってでも逃げたい気持ちさえ込み上げてくるが、言うことを聞かない体のせいで、それすら出来ないことが絶望を生む。
「貴様は人間どもの中でもなかなかの手練だったな。それだけの力を培ってくるまでに、どれだけの歳月を注ぎこんできた? 毎日毎日、強くなるために努力してきたのではないか? つらいことがあったとしても、それを乗り越えた先にある明るい未来を信じ、ここまでやってきたのではないか?」
遠くに飛ばされ動かなくなったユースへ、ゆっくり近付きながらウルアグワは問いかける。ウルアグアはユースの半生を知っているわけではない。だが、人間のことをよく知るウルアグワは、力をつけた人間というものは、その裏で苦行に耐えて未来を夢見、尽力してきた過去があることをわかっている。才覚の大小はあるにしてもだ。ディルエラを打ち負かした騎士の一人に名を連ねたユースなんて特に、その例に漏れない存在であると、容易に確信できたことである。
「そうして一途に努力してきた奴ほど、希望なき最期へと突き落とすのが楽しいんだよ。今の貴様は本当にいい顔をしているぞ? 光ある未来を信じてきた末に、こんな闇の中で絶望に打ちひしがれ、死を待つだけの世界に陥れられた気分はどうだ? なまじ強くなったことが、貴様をこんな運命へと導いたと、過去の努力を悔いる気分にならないか?」
歩み寄ってくるウルアグワの声は、まさに死神の囁きのようで、ぼろぼろのユースの心を蝕んでいく。それでも体を震わせていたユースが、丸めた体をゆっくりと回し、両膝で地面を踏みしめる形にしたのは、どうしても今の言葉が聞き捨てならなかったからだ。
「ならないだろうな、貴様のような奴は。だからこそ遊び甲斐がある」
そう、いくら皮肉を垂れられても、今のウルアグワの言葉にうなずくことだけは絶対に出来ない。悪を討ち、力なき人々を守るための自分を目指してきた信念は、どんな浅ましい言葉を投げつけられようとも、そのための日々を否定することなど出来ないのだ。それが己を滅ぼす過ちだというのなら、同じ志で毎日を歩んできたシリカも間違っているのか。第14小隊のみんなも間違っているとでも言うのか。魔王という大悪に立ち向かうため、血と汗を流して戦う力を培ってきた、幾千万の戦士達への冒涜には、ユースだって黙ってなどいられない。
だからウルアグワはユースを煽るのだ。命を奪わず、剣と盾を扱う腕を断つでもなく、戦うために必須な両脚を奪うでもなく、言葉でユースを炊き付ける。ユースのように真っ直ぐな人間なんていうのは、ウルアグワのように悪辣な発想で他者を痛めつける存在に、絶対に屈したがらない奴だ。それをウルアグワもわかっているから、戦う力の本軸まで奪うようなことをせず、痛めつけ、思想を語ってまた立ち上がらせ、無力を悟らせ何度でも絶望させる楽しみがある。
こんな奴にだけは絶対に負けたくない。そう魂を奮い立たせ、ゆっくりと立ち上がるユースの気概さえも、ウルアグワにとっては掌の上の出来事なのだ。ユースが立ち上がるのを待つように、一度立ち止まるウルアグワ。体に鞭打ち、ようやく両足で足元を踏みしめ、剣を構えて黒騎士を見据えるユース。全身にねばりつく苦痛のせいもあり、その目は開ききらず、呼吸もすぐに絶えそうな息遣い。痛めつけた当人のウルアグワでなくとも、今のユースが引き出せる力というのは、彼の100%でないのがわかる有り様だ。
「さあ、私を殺してみろ。さもなくば貴様は私に敗れ、二度と目覚めぬ永遠の闇に魂を落とすことになるぞ」
剣をひゅんと一振りして、ウルアグワがゆっくりとユースに駆け寄り始める。速くない駆け足、明らかに全力でない速度。どこで急加速するかわからないその挙動に、ユースが全神経を集中させて、迎撃のタイミングを見計らう。
ここだ、と思った。急加速から一気に距離を詰めたウルアグワが、ユースの胸元めがけて剣を突き出す。それをぎりぎりのところで身をひねって回避したユースは、ウルアグワの隙だらけの側面へと身を逃がす。反撃に転じるにあたって、最高の形をここにきて実現できた。
がむしゃらに、回転するままに振るった騎士剣を、ウルアグワの延髄めがけてユースが振り抜いた。ほぼ無心で繰り出したその一撃は、敵の急所へと間違いなく直撃したはずだ。全身甲冑のウルアグワ、されど首の後ろに叩き込まれた鋭い太刀筋は、ユースの手が痺れるほどの反動とともに、ウルアグワを前のめりに傾けさせる。
やった、と思ったユースの目の前、その想いはぐるりと振り返るウルアグワによって打ち砕かれた。完璧な一撃を与えたのに、それがどうしたとばかりに振り返るウルアグワから、ぞっとしたユースは跳んで離れざるを得ない。そんなユースへ駆け迫るウルアグワの姿には、もはやユースも冷静でない一太刀を、フルスイングで返すことしか出来なかった。
ウルアグワの肩口、甲冑に打ちつけられた全力の太刀筋。効いているように思えない。減速することも全くなく、一気にユースの懐にまで飛びこんできた黒騎士は、ユースの後頭部に左手に回して髪を掴む。そのまま自分の胸元をユースの胸に押し付け、ぐいと体重を預けかけてきたウルアグワにより、ユースは腰砕けに後ろに倒れそうになる。しかしウルアグワはそれを完全には許さず、ユースの頭の後ろを掴む手を押し引きし、両膝ついて崩れ落ちたユースの体勢を強いてきた。
「ひとつ、教えておいてやろう。この世界で私に殺されるというのは、どういうことなのかを」
片膝立ちのウルアグワに、両膝立ちで体を後ろに傾けさせられる形で、ユースはウルアグワにその顔を覗き込まれる。決死の反撃を成功させても、全身甲冑包みのウルアグワには傷一つ与えられない。その事実が、ユースから生存への道をまたひとつ奪い、より先行きが見えなくなったユースに対し、敗者の辿る末路をウルアグワが語り始める。
「今の貴様は、私の夢魔復興により、肉体も精神も霊魂に圧縮された姿でここにいる。つまり今の貴様は、貴様の魂そのものなのだ。肉体や感情、精神がそこにあるように感じるのは、霊魂が記憶したそれらを、貴様の魂が仮初めの形として体現しているに過ぎない」
その状態で、魂のまま殺されればどうなるかわかるか、とウルアグワは問う。想像にも及べないユースの目が戸惑う正面、その解答によってユースを恐怖のどん底に落とせると知っているウルアグワは、楽しみにしていた一言を口にする。
「貴様の魂は、永遠にこの世界に捕われるのだよ。現世へと帰る道もない、生まれ変わる輪廻の巡りへと飛び立つことも出来ない、そんな魂となる。そしてこの世界の創造主たる私は、やがて存在そのものを消していくわけだが、私には魔界レフリコスという還るべき場所がある」
ウルアグワは自らの消滅とともに、魔界そのものと一体化する。あるべき形に戻るだけなのだ。つまりウルアグワは、滅するとは言っても己の作り出した世界をレフリコスの一部に取り込ませ、この世界で"殺した"魂を、魔界に持ち帰ることが出来る。そこまで至ればウルアグワの宣言したとおり、ユースの魂は魔界レフリコスに完全に捕われ、輪廻へ飛び立つことも解放されることもなくなってしまう。
「今のような苦しみが、ここで死ねば終わりだとでも思っていたか? 魔界には、永劫の時間がある。人の肉体が老いて滅びるような概念は霊魂にはない。私とともに魔界に連れ去られた貴様は、毎日、毎時間、毎分私との時を過ごし、百年でも千年でも何万年でも、私の遊びに付き合うしかなくなるんだよ」
息も詰まりそうなほど恐ろしくなり、表情を歪めさせたユースが必死で足掻きだす。頭を掴んだウルアグワの手に抗うように、髪が千切れてでも頭を振り回そうとする。離れろ、触るなとウルアグワの胸を押し、必死で距離を取ろうとする。目の前で無感情な鉄仮面を見せ付けるウルアグワが、こんなにも恐ろしい存在だったなんて想像できなかった。
絶望に満ち溢れたユースの表情を眺めながら、しかしウルアグワはユースを逃がさない。顔を自分と向き合わせ、目を逸らすことさえ許さない。その顔をもっと見せろ、泣き叫んでも構わない。そんなウルアグワの悪辣な心の声が聞こえた気がしても、恐怖に満ちたユースの心はもう立ち直れない。
「"向こう側"に行っても、貴様は永遠に私の下だ。霊魂になってしまえば、もう我が身を鍛えて力を強くすることも出来ないのだからな。勝てない相手に蹂躙され、いたぶられ、虐げられる側の魂として、ずっと私を悦ばせてくれ。無残な死を遂げる覚悟も充分に掲げ、戦場に臨んできたのが貴様ら騎士だろう?」
嫌だ、絶対に嫌だ。死ぬことだって怖いのに、殺された後も永遠に捕われて、痛めつけられ、苦しめられる永遠の存在にされるなんて。抵抗したってウルアグワには攻撃も通用しない、向こうに捕われたらどんなに努力したって力の差を覆せない。それを聞いたら向こうには絶望しかない。怯えきった表情のユースは、どんな逆境に直面しようと、絶対に諦めてこなかった彼の心が、完全に砕けた色を表している。
ユースの心が再起不能になったことを確信したウルアグワは、仮面の奥で小さく笑った。その顔が一番見たかったんだと。そして、不屈の若者が崩れ落ちた今日がウルアグワにとって始まりの日であり、ユースの魂を粉砕したこの日から、折れたユースの魂を玩具にし続ける毎日が幕を開ける。もう充分だ。いかにもそれを態度に表すかのように、ユースの髪を掴んだまま立ち上がったウルアグワは、立たせたユースの頬を、剣を握った拳で勢いよく殴り飛ばした。
ふらつくようにウルアグワから離れたユース、その距離感。意識が飛びかけたユースが倒れなかったのは、彼にとって幸運なことだっただろうか。よろめいてウルアグワに向き直った瞬間、ウルアグワが突き出してきた漆黒の剣を、今のユースには認識することも出来ないのに?
ふと、胸の真ん中が冷たくなった気がした。あれだけ全身痛くて苦しかった感覚も、一瞬で吹き飛ぶような異物感。ふと目線を下に降ろしたユースの眼前には、真っ黒な剣が自分の胸に貫かれた光景がある。それは夢でも幻でもなく、ウルアグワの剣がユースの胸を突き刺し、背中から切っ先を突き出させた現実の象徴だ。
「あっ……あ……」
「くくく、いい顔だ」
真っ白な頭と意識を失ったような口で、目を見開いたユースの表情。これから地獄へ送られる実感を得、絶望に砕けた者の表情は、向こう側に行った後では見られないものだ。陶酔の声を漏らすウルアグワの前、何も考えられなくなったユースの手から、ずっと手放してこなかったはずの騎士剣が、力なく抜け落ちる。
からんからんと騎士剣が地面に落ちた直後、ユースを串刺しにした剣を、ウルアグワが片手で持ち上げる。騎士剣に貫かれたユースの体が前に傾き、斜めに構えたウルアグワの騎士剣の刃の部分、百舌の早贄のようにユースが吊り下げられる形となる。ウルアグワがゆらゆらと剣を揺さぶれば、ユースの体がずぶずぶと、柄の方へとより深く沈み込んでいく。背中からどくどくと溢れる血、あるはずの痛み。それらのひとつも意に介することも出来ず、ユースの意識がゆっくりと遠のいていく。
この世界で絶命した者の末路、それを一手に"支配"できる未来の自分が、ウルアグワは楽しみで仕方ない。やがて滅びると知ってなお、そんな未来が約束されているのなら、消えることも全く恐ろしい話ではない。死は終わりではなく新たなる世界への旅立ち、まさにそのとおりだ。
一つの絶望、一つの狂喜。騎士剣半ばで串刺しにされたまま、だらりと力なく吊り下がるユースの姿を見て、ウルアグワは、小さく笑うのを堪えられなかった。




