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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第15章  光を目指した組曲~パルティータ~
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第246話  ~夢魔の世界① 悪夢へようこそ~



「……潮時かニャ」


 コズニック山脈の一山、その頂にあぐらをかき、焼いた骨付き肉をぶちぶち食い千切りながら、小さな体の魔物はそう言った。その後ろにはミノタウロスの無残な死体があり、亡骸の殆どが虫食いのように引き千切られた形で、魔物といえど哀れさすら感じる有り様だ。巨体のミノタウロスの3分の1の体躯も持たない、小さなこの魔物の餌になるためだけに、ここで死体に変えられた存在なのだろう。


 魔法のエキスパートである百獣皇は、住み慣れたコズニック山脈全体で起こっていることの数々を、魔法を駆使して広く把握している。人類どもの進軍ルートとは無縁の山頂、そこから各戦域の動向を高みの見物で嗜む立場なのだが、今しがた獄獣ディルエラが敗れた事実を見受けて、山場を過ぎた戦況に一息ついている。


 は~あと溜め息をつき、百獣皇が鈴つきの錫杖を振るうと、後方のミノタウロスの死体の腕肉が、百獣皇の作り出した風の刃でばさりと切り裂かれた。器用な真空波のはたらきで、牛の魔物の腕肉をサイコロ状の形に切り出すと、それを自分の目の前まで跳ね飛ばす風で運んでくるのだ。腰を上げずして目の前に持ってきた肉塊を、百獣皇が錫杖でかつんと叩けば、あっという間に肉塊は炎に包まれる。数秒待てば、間もなくして雄牛の魔物の腕肉レアステーキが出来上がり。


 熱々の肉を、冷えた風をぶつける魔法で素早く冷ますと、百獣皇は大きなステーキを爪先でいいサイズに切り出し、掴んで口に運んでいく。猫舌なので中まで火を通してはいないようだが、それでも腹を壊さない頑丈な内臓をしているようで、くちゃくちゃ貪った後に何食わぬ顔で、再び低き大地に目線を落とすのみ。


「……よくも、食ってくれたなぁ」


 突然、後方のミノタウロスの頭がごきりと回り、おどろおどろしい声で百獣皇に語りかけてきた。今まさにその身を食われている魔物の怨念を思わせる、ぞっとするような現象にも、百獣皇は驚く素振りも見せない。


「機嫌がいい時のオメーは本当に気色悪いニャ」


「くくく、そう言うなアーヴェルよ。少しばかりは付き合ってくれてもいいだろう」


 声の主が誰なのかは、何年もこいつと同陣営であったアーヴェルにはすぐわかる。ミノタウロスの死体の頭蓋骨を操り、まるで死体が口を利くかのように百獣皇と会話しようとする存在。こんなことが出来て、かつ楽しそうにやる奴は、黒騎士もとい夢魔ウルアグワしかいない。


 アーヴェルの推察するとおり、今のウルアグワはともかく機嫌がいい。昨日、一昨日と、コズニック山脈を横断して魔界レフリコスへ向かう、人類の動きをアーヴェルは見てきた。それらの戦場でウルアグワが大暴れし、多数の人間の魂を食い潰してきた姿もだ。それで機嫌がいいのはわかるのだが、死体を操っての怨霊ごっこをしてまで、アーヴェルに話しかけてくる趣味の悪さに辟易する。百獣皇アーヴェルも人のことが言えないぐらい、残酷な魔導研究を実験体を用いて遂行してきたりもしたが、純然たる好奇心から犠牲を顧みなかったアーヴェルと、残忍そのものが趣味のウルアグワとでは似ているようで違う。


「なんか用か。言いたいことがあるなら手短に言え」


「ふむ。強いて言うなら、貴様にも参戦して貰いたいのだが」


「死ね」


 二つ返事で明確に拒否。魔王アルケミスの手を煩わせないよう、魔物達に遠方から魔法念波で指示を送る、司令塔の役割を果たしている今で充分だろと。自分が参戦すれば強力な一兵になり、ウルアグワの望む、人類の大量殺戮も実現できる側面はわかるが、どう考えても負け戦のここへ飛び込めとか、アーヴェルの価値観では言語道断である。


(それがし)はラエルカンの戦いで充分に義理果たしてきただろ。アルケミスも某の力なんか求めちゃいねえようだし、そこまで協力してやる義理なんかねーよ」


「残念だ。上手くはたらきを形にしてくれるなら、また雇ってやろうと思ったのだがな」


「それがイヤだからもう関わらねーんだよっ」


 魔王マーディスに出会ってしまったのが運のつき、あいつに逆らって敵に回すことも危なくて出来ず、仕方なく媚びへつらって魔王の傘下に入ったはいいが、後年何度人間どもと戦わされ、命の危機に瀕してきたか。マーディスの死によって解放されたと思ったら、ウルアグワに魔王復活の手助けをしろと持ちかけられて。もしも協力しなかったら、こんな奴にどこまで付き纏われるんだかわからず、渋々何年も魔王復活のために協力してきた。もううんざり。ラエルカンの死闘が最後の妥協点、本当に死にかけたし、流石にここらでアーヴェルも、ウルアグワやその主とは縁を切りたい。


 それでも確実に安全を確保された状況で、ウルアグワに力を貸す今回の機会に手を出したアーヴェル。ある意味口の悪いお人好しで、あるいは最後にウルアグワの機嫌を取って、後腐れなく別れるための打算も含まれている。ウルアグワの行動原理は知っているし、ここでごまをすってから絶縁できれば、もう追いかけてこない性格なのもわかっている。


「今日は西の連中がターゲットかニャ?」


「ああ、あそこにも美味そうな奴がいる。是非とも消える前に味わっておきたい」


 3日かけてアーヴェルに血肉を貪られているミノタウロスの頭蓋骨が、人の魂をしゃぶり尽くして貪りたい、ウルアグワの意志を代弁するかのように口を利く。その口から紡がれる言葉は、まるで同時に近々消える運命の自分を示唆しているようにも聞こえる。もっとも、知っているからアーヴェルも、最後までウルアグワのご機嫌取りに付き合ってやろうと考えたのだが。


「まー好きに楽しんで来いや。最後の晩餐をよ」


「くくく、勿論だ。いい見世物になるから、貴様も最後まで見届けていくことを推奨するぞ?」


 まあ、いい見世物にはなるだろうが。魔王の片腕、夢魔による人類の魂の捕食ショーなんて、向こう何年生きても見られるものではあるまい。どんなに悪趣味な見世物であったとしても、後学のためにその有り様を目にしておくのは、アーヴェルにとって悪い話ではない。残忍だとか冷酷だとか、そんなものに吐き気を催す人並みの精神力で百獣皇は生きていないのだし。


 昨日も一昨日も同じものは見てきたのだが、今日は一際違ったものが見られそうなのだ。消滅を前にして、己の欲望のまま動き、その果てに消えていくウルアグワの姿を見届けて終幕。3日間の夢魔の晩餐の締め括りを見てから去るのは、アーヴェルにとっては良い選択肢であると言える。


 ミノタウロスの頭が3周、360度高速で回転して、頭が首から引きちぎられる。どすん、どすんと重いミノタウロスの頭が跳ねる音と共に、今のがウルアグワとの最後の会話になったのだとアーヴェルにもわかった。だとして、何の感慨も沸かない奴だったし、二度と口を利けなくなってここまで嬉しい奴もいない。


「死は終わりではなく、新たなる世界への旅立ち、か。言い得て妙ニャ」


 かつてラエルカンで、アーヴェルと交戦したアルケミスが言い放った言葉。一度死に至り、魔王として復活したかの存在を見返せば、なるほど確かにとアーヴェルも思う。今のように、自らの消滅を恐れないウルアグワも、それを知っているからそうなのだろう。ある意味でひとつの真理、それを知れただけでも、魔王マーディスに出会ってからの時で得た教訓としては大きかったとは思う。


 もっとも、だからと言ってこの命を捨てるつもりはないが。死が終わりではなく、新たなる世界への旅立ちなら、鬼門をくぐることによって背負う底知れぬ苦痛も想像して然るべき。生きた上で歩むこの世界に充分な価値を見出した者こそ、たとえ得る者あったって死だけは強く、拒絶して受け入れない。











 コズニック山脈の西から進軍し、魔王の総本山へと進軍する部隊の動きは順調だ。敵の本拠地すぐにそば、迎え撃つ魔物達も確かに強い。山脈奥地に居座る魔物は、山の浅部で外来者との遭遇を強いられやすい境遇を格下に押し付ける立場であり、それを我が物顔で出来るだけ、魔物達の中では上位にあたるということ。


「来てるなー、バルログの大群が」


「ちょ、ちょっとビーストロードもワーウルフも多すぎじゃないですか?」


 靴裏の火車で空を駆けるマグニスと、優雅の翼(スパィリア)を羽ばたかせて空を舞うアルミナが、空の軍勢に混じって戦況を見渡せる状況にある。山脈の浅き場所においては、魔物達の首領格にさえなれる怪物が何匹も何匹もこちらへ向かってくるのも見えるのだ。それでもまだまだ厚き層がこの後方に控えているのは明らかで、長い戦いは終わりが見えてこない。レフリコスはまだもう少し遠い。


「亥の隊、構えろ……! ビーストロードどもを一掃するぞ……!」


「辰の隊、集え! 空の魔物どもを掃伐する!」


 策もなく迎え撃っては、消耗は当然にして隊の壊滅も視野に入る化け物の群れ。魔王の本丸を叩くために集められた精鋭の軍勢を以ってしても、その事実は変わらない。それを最小限の被害で打破し、道を拓くための単純な戦法を、魔法都市ダニームの大魔法使い達が形にする。数人の魔法使い達が一箇所に集い、一人では唱えられぬ大魔法を実現しようとする組み合わせが二つ。


(ユース、ビーストロード達を迎え撃つぞ。隊長もそばにいるな?)


(勿論……!)


 魔導線(アストローク)で自らとユースを繋ぐチータは、僅かにユースと離れた場所から疎通を取る。念話魔法(テレファシス)を得意としないチータだが、こうして強固な魔力の糸で繋がった唯一の仲間とはスムーズに疎通が出来る。そしてチータがユースにそう持ちかける背景には、彼のすぐそばで大魔法を発動させようとする魔法使い達の魔力が、ビーストロード十数匹に向けられている姿がある。


「他の世を侵す匪賊達、いたずらに荒らせし大地の報いを知れ……!」


「神よ、僅かなる力を――万億の悪を貫く五指の力を与し給え……!」


 させぬとばかりに空を駆けるガーゴイル、ネビロス、バルログという悪魔めいた魔物の軍勢が、魔力を集わせた魔法使い達に狙撃魔法を放ってきた。だが、計算された陣形を組む魔法使い達が、悪魔達の放つ炎、風、光の魔法による狙撃を食い止める。一体のネビロスが、後方の亥の隊、魔法使い達に放ってきた風の

砲撃を、封魔障壁(マジックシールド)で制圧するチータもその一人。そうして稼いだ僅かな時間が、最高の形で友軍の大魔法を誘発させる礎となる。


「「「大地の征服(グランドスラム)!!」」」


「「「雷魔の掌光(フラッシングラスプ)!!」」」


 人類に差し迫っていたビーストロード達が踏み鳴らしていた地表が、突如にしてひび割れる。高き空から見て、壮大な地上絵が突如現れたかと思えるほどの地割れは、ある地点を急激に沈め、ある地点を突然に隆起させる。平地が切り立った島の数々にいきなり変えられたかのような光景は、その地殻変動の範囲外の人間達でも驚くほどの光景だ。


 その地割れから飛び出す稲妻は上空に向かって放たれ、いくつもの魔物を撃ち落とした。雷撃の破壊力は大気中を走る稲光のまぶしさからも明らかで、強靭な肉体を持つガーゴイルやネビロスがそれを受けた瞬間、全身真っ黒焦げにして落ちていく姿からもわかる。稲妻が密林のように地割れから無数に飛び出し、少数の空の魔物だけが偶然的にその攻撃を回避し、当たれば次々撃墜されていく。何十匹もいた空の魔物達が、たった一つの雷の大魔法で殆ど戦闘不能に陥ったところで、人類の攻勢がそこへとどめを刺す。


 アルミナの放つ一発の銃弾ひとつとっても、稲妻を逃れたばかりでふらつくガーゴイルの額を撃ち抜けば、充分な致命打となるのだ。マグニスのような術士はもっと柔軟に動き、稲妻を受けてもなんとか翼を動かすバルログの顔面に火球を当てて撃墜。不安定な飛行であるのが見えた一体のネビロスにも、臨機応変に炎の砲撃を直撃させてとどめを刺す。そんな仕事が出来る魔法使いが、人類空軍には山ほど揃えられているのだ。雷魔の掌光(フラッシングラスプ)の魔法で一気に崩れた敵軍を、ここぞとばかりの集中砲火で一気に壊滅させていく。


 それは地上軍もそう。大地の征服(グランドスラム)によって足元を突然崩された地上の魔物達は、ほとんどが体勢を崩すか、場合によっては躓かされ、巨体の自重によって足首を砕いてしまった者もいる。隆起と沈降を瞬時にもとの形に戻した地上が平坦になった瞬間、地割れに飲み込まれるようにして挟まれた魔物は、仕留められたと思ってよい。そしてそうならなかった魔物達へと一斉に迫るのが、エレムの騎士とルオスの帝国兵達だ。いかに強敵、長きハルバードを振るう怪物ビーストロードでも、完全に体勢を崩された瞬間に迫る人類を迎え討つのは初手が遅れる。


 ユース一人では荷が勝ちすぎるビーストロードでも、遅い初撃のハルバードの一振りも、冷静かつ減速もせず、容易にユースはくぐり抜けられた。それでも接近するユースに対し、ハルバードを振るって流れた体を操って蹴りを放つ柔軟性は凄い。しかし苦し紛れに過ぎないその一撃に対し、跳躍したユースがビーストロードの頭に接近、さらに振るった剣で怪物の頭部をばっくりと切り裂くのは、彼の力量からして難しいことでもなんでもない。


「開門、雷撃錐(プラズマデルタ)


 ユースがそうして、ビーストロードの虚を突いた致命傷を与えると確信していたチータが、頭を割られた直後の怪物の頭上に、三つの輝く空間の亀裂を作る。そこから放たれる稲妻は、中身まで届くビーストロードの深き傷に直撃し、頭蓋の中まで強烈な電撃を届けるのだ。魔物の体表から直撃させても致死率の低いチータの魔法だが、瀕死直前かつまだ動く、強靭な生命力を持つ魔物に、死に至るまでの道を加速させる威力は確保できる。ビーストロードの後方に着地するユースだが、チータのアシストがなかったら、まだ後方からのビーストロードの反撃を恐れねばならなかった。頭を割ってもあいつらは死なないんだから。


「舐めんな……!」


 ユースの振り返る先で、絶命と気絶を同時に果たしたビーストロードが倒れ、重い音を立てたのと同時、別方向ではもう一つの戦いが早き決着を迎えている。白髪と赤い肌に全身を染め、人間離れした姿で片膝ついたワーウルフに迫るガンマ。崩された体勢からでも、地を蹴って拳を突き出すワーウルフの的確な反撃は見事だが、その拳の下へと潜り込んでかわしたガンマは、尖った肘をワーウルフのみぞおちに突き刺している。


 激突のパワーで後方に突き飛ばされ、同時に内臓まで潰される衝撃で血を吐いて倒れたワーウルフを、続けざまに片手で振るう大戦斧を振り下ろしたガンマが、真っ二つに叩き潰す。こうして、足並みを崩した魔物達の隙さえ突ければ、一気に切り崩す精鋭が前にいるから、大魔法を唱えた魔法使い達の苦労も正しく報われる。


「よし、亥の隊も辰の隊も退がれ! ここまでよくやってくれた!」


 これだけの広範囲制圧力を持つ大魔法、放った術者も魔力を使い果たして当然だ。力を合わせて大魔法を行使した魔法使いの中には、すでに片膝をつくほどに憔悴している者も、仲間に肩を借りている者もいる。敵の一団を撃破するのと引き換えに、継戦能力を失うほど、魔力を練り出し霊魂をすり減らした者達へ、ルーネに代わりこの一団を仕切る総指揮官が、撤退せよとの指令を放つ。多数の戦力の撤退、喪失とともに得たアドバンテージを、残存して進軍する者達が繋いでいく。


 戦力を消耗した結果になろうとも、死者無くその形を実現させただけでも、作戦は成功だと言えるはず。明日を勝ち取るための最終戦争、勝利と引き換えに死んでいい者など一人もいないのだ。勝ち得た安寧の日々を歩める権利が、戦う者達にだけ与えられないのはおかしな話である。


「総軍ももはや二割程度か……これで届くか……?」


 総指揮官たる大魔法使いが懸念を口にするのは二つの理由がある。一つは、進撃開始地点からレフリコスまで、今でちょうど70%を通過した所だという点。兵力は開始時点の20%前後まで減り、各々は疲労を抱え、ここから先はさらに敵軍本拠地に近くなり、強敵が多い場面も増えよう。そのぶんここまで残ってきた者達は、ここまでに退いてきた者達よりも個々の能力が高いため、押し切ることは絶望的な話ではない。作戦の本核は、総大将ルーネの言い残して去っていった言葉のとおり、法騎士シリカをなんとかレフリコスに送り出せればいいことにある。何百人も残してレフリコスに辿り着くような、普通の戦争で目標とするようなことは初めから無理な勝負であり、目的さえ叶えられればそれでいい。


「……来てはいないのか」


「今のところは……」


 レフリコスに近付くにつれ、隊の中枢を担う者達の不安を煽る闇は濃くなる一方。もう一つの多大なる懸念、それは単なる勢力図から読み取れるものではなく、不意に訪れる天災を恐れる感情に近い。


 二日前、東からコズニック山脈を進軍する、魔法剣士ジャービル率いるルオス軍を、突然にして黒い霧が襲った。それは多数の人間を飲み込むと、まるではじめからそこにいなかったかの如く、文字通り"消して"しまったのだ。神隠しの霧、とでも呼べそうな黒い霧の猛威はとどまることを知らず、霧を吹き飛ばす魔導士達の抵抗もあって被害は最小限だったものの、何人もの優秀な兵が"消されて"しまった。これに真っ向から抗い、霧に触れてなお消されず生還したジャービルにより、黒い霧の術者はすでに割れている。


 昨日、北からレフリコスを目指す勇騎士ベルセリウス、それが率いるエレム王国騎士団を中心とした軍を、同様の黒い霧が襲った。先日、黒い霧に襲われたルオス軍との交信により、その存在を前もって知っていたエレム軍は、魔導士や魔法使い達の協力の甲斐あって、致命的な被害を受けることはなかった。それでも何人もの騎士や魔導士が黒い霧に呑まれ、消され、いくつも帰らぬ人が生じたのは痛い。戦力的にも、同志を奪われた者たちの心もだ。


 一昨日は東のルオス軍、昨日は北のエレム軍、そう来れば例の黒い霧が次に人類を襲うのは、もしかしたらここ、西から魔王の総本山を目指すダニーム軍だと連想できてしまう。友軍から魔法によって届けられる交信により、黒い霧を放つ術者が、夢魔ナイトメアであることも割れている。さらに言えば、黒い霧そのものが、夢魔ナイトメアという存在そのものである可能性が高いとも、霧に触れて生還したジャービルやベルセリウスの証言から知れている。対策を練る時間はあったし、対抗策もそれなりに揃えてきた。


 だからこそ不気味なのだ。長年、その正体や本質を長らく人類に晒してこなかった、黒騎士ウルアグワの愛馬として知られるナイトメア。それが昨日と一昨日の二日間で、あっけないほど自らの本質や正体を、人類の前に晒している。そこから知れた情報で対策を講じるのは難しくなかったが、それによって簡単に退けられるような存在だろうかと、話がうま過ぎて逆に不安さえ感じるものだ。


「今のところは目先のことに集中しましょう。次の軍勢が……」


「――待て! 全隊、止まれ!!」


 賢者に代わり総指揮官を務める大魔法使い、老いた喉から放たれた大声は周囲の友軍の耳を貫き、同時に隊全体の脳裏に響いた静止命令は、その術者の念話魔法(テレファシス)によるものだ。真正面から迫り来る魔物の群れを前にして、真っ向から迎撃しようとした人類軍が、戸惑いを隠せぬままブレーキをかけ、山脈の一角で人の群れが立ち止まる。


「来ているぞ!! 卯と酉の隊は陣を張れ! 寅の隊は気を抜くなよ!」


 黒い霧に抗うための策を抱えた魔法使いの部隊に、総指揮官が指令を放つ。一気に緊張感を増す人類の正面から襲い掛かる魔物達を、第14小隊を含む最前列の者達が迎え撃たねばならない。不意にして強いられる、万全な形でない魔物達を迎撃する状況は、ここまでの戦いで疲労を覚え始めた戦士達の心に鞭を打つ。怯みそうになる想いを、気概で上塗りして奮い立つ。


(……来る!)


 中衛を駆けていたマナガルム、それが突然大きく跳躍し、背に乗るキャルも驚きを隠せない。結果的に魔物達の尖鋭となって急加速していたコカトリスと高度が一致し、すかさず矢によって額を撃ち抜くキャルの柔軟性は確かに見事。だが、マナガルムが跳躍したのは敵を屠るためではない。


 マナガルムが跳んだ地点から、まるで湯煙のように沸き立つ黒い霧の出現は、一気に人類の中衛を混乱の渦中に陥れようとする。触れて取り込まれれば、神隠しのように人が消されると知らされた霧。それはまさに不意打ちのように人類の輪の中に現れ、所々から噴出して広がろうとする。


魔導線(アストローク)を張り巡らせろ! 繋げ!」


「好きなようにはさせぬ……! ナイトメアめ……!」


 白兵戦の中枢、騎士や帝国兵達が真正面からの魔王軍と激突すると同時、魔法使い達が魔力の糸を一斉に張り巡らせる。突然現れた黒い霧、それを抑圧するための対抗策は非常に単純なものでありながら、同時に出遅れぬ迅速さが求められるもの。広がろうとする霧が人々を取り込もうとするより早く、魔法使い達は素早い下準備を完遂させている。


「寅の隊! 全魔力を注ぎ込め! ナイトメアを封殺する!」


「参ります! 呪術穿ち(イルバフル)!!」


 ナイトメアに抗うための魔法を実現させる魔法使いの集まり、その中心人物の一声と同時に、人類陣営が立つ地上に張り巡らせた魔力の糸が光る。それが放つ退魔の光が、地表を闇に染めんとする黒い霧を抑圧し、広がろうとする霧が光に押し返されて縮んでいく。




「くくく、やはりもうこの手は通用しないか」




 その声が聞こえた者もいれば、耳に出来なかった者もいる。少なくとも、その声を認識した者の背筋をぞわりと撫でるような声だった。空を舞うアルミナが、不意にその声に集中力を奪われ、顔を引きつらせてしまうほどのおぞましい声。集中力が命である射手、その意識に声だけで割って入る声のおどろおどろしさは普通ではない。


「まずい……!」


 だからアルミナも一瞬気付くのが遅れた。突然彼女の上空に霧が集まり、瞬時にして現れた怪馬の魔物は、霧の流れから肉体の形成まで2秒かかっていない。それが蹄でアルミナの頭を踏み砕くように襲い掛かる光景に、空で急加速したマグニスが半ば体当たりのようにしてアルミナを抱きかかえにかかる。


 マグニスの突進に横っ腹を貫かれる痛みに目も覚めたアルミナだが、一瞬前に自分がいた場所を、夢魔ナイトメアの巨体が通り過ぎていく姿は確認できた。アルミナの胴元を右腕に抱えたまま、後ろ手で火球をナイトメアに向けて放つマグニスだが、火球直撃の瞬間に全身を霧に変え、ナイトメアは発散するように姿を消す。


「げほ、っ……! す、すみません、マグニスさん……!」


「飛べるか……!? 絶対に周りから目を切るなよ……!」


 翼を広げたアルミナをどんと突き飛ばすと、両掌を体の側面に広げ、二つの掌から無数の火球を四方八方に撒き散らすマグニス。彼に差し迫る魔物達へと襲い掛かる火球が、魔物の視界を遮り、いくつかは魔物の体に着弾してダメージを与える。その隙に靴裏の火球を回転させ、飛空体勢を整えたマグニスは、乱された動きを狙い撃ちにされる局面から脱出する。ちらりと目線を送ったアルミナも、翼を操り比較的安全な空域に身を逃している。それでいい。


「シリカさん!!」


 霧散したナイトメアの動向は容易に視認できない。しかし霧がある地点に集まり始めたことを見受け、その殺意の矛先を見定めることは出来る。殺気に敏感なガンマが大声で叫んだその瞬間、振り返ったシリカの眼前上空、黒い霧が結集しながらこちらに迫ってくる。まるで真っ黒な隕石が落ちてくるような光景だ。


「っ……精霊様、御力を……!」


「通用するかしらね……!?」


 素早く構えたシリカの前、現れた怪馬の魔物はいなないて猛進してくる。吠えたけるその声の奥深く、邪悪ににやつく夢魔の悪意が聞こえた気がして、シリカも思わず騎士剣の柄を握る手に力が入る。断つべきは魔物の存在そのものか、いや、友軍の志を踏みにじらんとする怪物の悪意そのものだと、己が魂が叫ぶ。


翡翠色の(ネフリティス)――」


夢魔復興(ソウルオブナイトメア)……!」


 迫る、まだ遠き夢魔めがけて騎士剣を振るった瞬間、目の前で怪馬の形をとったナイトメアが肉体を霧に変えようとした光景が見えた。それでも構わない。悪を穿つための太刀は、既に空を駆け始めている。


勇断閃(ドレッドノート)!!」


 シリカの騎士剣の尺を超越した切断の魔力が、刃の軌道に沿い、翡翠色の巨大な残影を残した光景とは、敵軍も友軍も一瞬目を奪われそうになるほどのもの。それは自らを霧に変えたナイトメア、真っ黒な霧の巨大な集合体を、真っ二つに切り裂いた。地上に舞い降りた暗雲のようなそれは、切断された上の半分がぞわぁと消えていく一方、下部に残った黒霧の塊は勢いをとどまらせない。


「これで充分だ……! 貰うぞ……!」


 霧の塊は突如にしてぶわりと膨れ上がり、地上軍目がけて津波のように襲い掛かる。広域にて立ち回る戦士や魔法使い達、シリカ含む数十名を一気に押し潰す黒い霧は、それが自らに迫ると知った者達の目の前を闇に染め上げていく。


 闇に呑まれる、そう感じて目を閉じたシリカの前に、盾を構えて立ちはだかった者がいたことに、シリカは気付くことが出来なかった。彼が唱えた英雄の双腕(アルスヴィズ)の詠唱は、最後の一文字を唱えきれぬままに途絶え、その事実が思わずシリカの目を開かせる。


 少し離れた場所にいたチータには、そこで何が起こっていたかがよく見えていた。空から迫ったナイトメアは、シリカの翡翠色の勇断閃ネフリティス・ドレッドノートに真っ二つにされる寸前、我が身を黒い霧に変えた。霧はシリカを中心とした前衛広くを押し潰し、地上を真っ黒な一色に染めた。そしてあの瞬間、シリカの前に立ちはだかったユースの盾は強く輝き、目の前から迫る霧を押さえ込んでいた光景も、確かに一瞬見えていた。


 地上を押し潰した膨大な霧は、ほどなくして地に落ちた水のように飛散して消えてしまう。それと同時に地上から消えたのは、黒い霧だけではない。シリカの周囲にいた数十名の戦士達は忽然と姿を消し、その中心にシリカだけがぽつりと残された光景がある。戦士達と近しく戦っていた魔物達すらもが姿を消し、一瞬にして戦場は閑散としてしまうという、嘘のような風景が形になる。


「……ユースっ!?」


 突然の異常事態の中、一人叫んだ法騎士の声。応える者は一人もいない。あまりに現実離れした、神隠しの霧が起こした現象に、アルミナも、キャルも、ガンマも、マグニスも頭が追いついていない。チータですらもそれは同じで、シリカが叫んだ声を以ってして始めて、誰かの姿が消えてしまった事実に気がついた。


 夢魔ナイトメアの推参。それが引き起こした出来事の中で、第14小隊にとって最も重要なことは、無数の敵が消されてしまったことなどではない。シリカを守るために飛び出した一人の若き騎士が、この世界からまるごと消し飛ばされてしまったという事実は、5人の心を凍りつかせるには充分なものだった。

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