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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第15章  光を目指した組曲~パルティータ~
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第245話  ~遺恨清算③ 前程万里~



 人間は恐れるに値する。激情ひとつでこれだけ変容し、先ほどまでの限界を遥かに超えた速度とパワーで襲い掛かってくるのだから。頭を殴り飛ばす軌道で横から拳を差し向けるディルエラ、それに対して手首を蹴り返し、打ち上げて攻撃を無力化するクロムのパワー。痺れる手先と共に一歩退き、顎を拳で殴り上げにくるクロムを回避しながら、人類の潜在能力への警戒心をディルエラは強める。


 それでもディルエラの心には正しい余裕がある。感情によって一時的に爆発した魔力は、底を尽くのが早いことを知っているからだ。人の心に生じる感情は、術者によって都合の良いものばかりではない。敵を討てねば焦りや苛立ちが生じる、傷を負えば僅かでも心が怯む、忘れかけていた体の痛みを思い出せば死を恐れる本能が必ず騒ぐ。母を殺されたクロムの憤怒は計り知れぬものであり、それが彼の精神力を業火のように燃え上がらせ、過去に例がないほどの身体能力強化をクロムにもたらしている。しかし、それ以外の感情が彼の心に蘇った時、それは怒りを軸にして燃焼する魔力にとってはノイズにしかならない。


 衝動的に生じた怒りがどれほどに強くとも、洗練された精神制御なくして、それが心を一色に染め続けることは絶対にない。時の流れは止まらない、世界が変われば心は移ろう。この世界に生きる限り、意図せずその制約から逃れることは不可能だ。突発的な激情によって自らを危ぶめるほどの力を生じさせたクロムへの油断は無いが、衝動が生み出した偶発的な力には、近き際限があることをディルエラは知っている。だから確かに危機的な今も、焦りや恐れで心を乱すことがない。


「てめぇにゃまだ早い……!」


 交戦姿勢に一切の変化はなし。攻撃を空振ったクロムに対し、蹴りを突き返すディルエラの一撃を、クロムは前に構えた両掌で食い止める。止められたこと自体に危機感を感じはするものの、それによってクロムの腕を貫く確かなダメージが、近しくクロムの心を蝕んでいくことをディルエラは知っている。逃げずに攻めて、確かに前進する。


 ディルエラの足を掴み、だんと足を踏み込んで、獄獣の巨体をぶん投げるクロムの行動には、さしものディルエラも驚いたものだろう。足首を抱え込み、一本背負いのようにディルエラを投げつけたクロムの行動により、ディルエラは顔面からクロム前方の地面に叩きつけられそうになる。こんな形で投げられるのはディルエラにとっても多くない経験だが、数百年に及ぶ戦いの歴史から、本能的に生み出されるディルエラの対応力は侮れない。手から肘までの線でしっかりと前に受け身を取り、巨腕が地面を砕いた瞬間、自分を投げたクロムを引くように右脚を曲げている。同時に左脚を突き出して、右足首を抱えたままのクロムを蹴り飛ばすディルエラの攻撃は、クロムといえど対処しきれるものではない。


 引き寄せられた瞬間に直感的に危機を察したクロムが、片腕を上げて頭を守ったのはいい。ディルエラの蹴りも全力で打ち出せたものではない。それでもクロムの腕にびしびしと悲鳴を上げさせるには充分だ。歯をくいしばり後方に飛ばされるクロムに、素早く立ち上がったディルエラが振り返ると、二度ほど地上で跳ねたのち、両足を地に着けて立つクロムの姿がある。


 負けん気の強そうなあの人間の眼差しからして、今ので心が折れたということはあるまい。だが、幾度かこれを繰り返せば? ぜぇと息を吐いたあの姿からして、無自覚にでも先ほどまでとは違う感情は無意識下に生じ、身体能力強化の魔法も弱まっているはず。焦らず侮らず迎え撃ち、消耗させた末に討ち取ればいいだけの話だとわかっているから、ディルエラはにやりと笑ってクロムを挑発する。


 所詮は偶発的な奇跡的爆発力。安定した精神力と思考の元、己の高められた力をコントロールできる今のディルエラにとって、警戒すべきは事故しかない。そして不測の致命傷を回避するだけの経験力が、数百年ぶんの戦闘経験値を持つディルエラには備わっている。魔獣のような雄叫びとともに猛突進してくるクロムに対し、ぎらりと隙の無い眼差しを返すディルエラは、直後と数分後を同時に見据えて勝利への道を完成させている。


 完全にクロムとの一対一に集中できていれば、ディルエラにとって絶対に負けなかったはずの勝負だったのだ。しかし、敏感なディルエラの耳を突き刺した、ざり、という土を引っかく音が、クロムと交錯する寸前のディルエラの鳥肌を刺激した。この音は、いや、まさか。


 逸れかけた意識を視界の情報で上書きし、拳を突き出すクロムの攻撃をガード。腕輪越しに伝わるクロムの素拳の重み、それでも砕けぬ敵の拳骨、舌打ちしながら逆の腕を薙ぎ払うディルエラ。戦人クロムは体を沈めて回避し、頭上をその腕が通過するとほぼ同時、地を蹴りディルエラの懐へ潜り込む。回し蹴りによる脇腹への一撃を、ディルエラが一歩退いて回避すれば、直後にその太い脚がクロムへと突き返される。踵を殴り上げたクロムの鉄拳に、体勢を崩されるより早く後方に低く宙返りするディルエラだが、その意識の端には激烈なノイズがある。


 クロムから目を切れない。差し迫り、拳と脚を振り回し、狂戦士のように攻め立ててくる速きクロムを前にして、ディルエラに音の正体へと目線を移す暇がないのだ。大きく離れるために大きく跳べば、浮いた時間が致命傷になりかねない。殴り返すことでクロムの動きを制止しようとしたディルエラだが、意識散漫になりかけた拳はクロムを捉えるに至らない。そんな瞬間にも、土を掴んだあいつがゆっくりと動き出し、立ち上がろうとする気配が感じ取れるではないか。


「っ……離れろ……!」


 クロムの顎を蹴り上げるかのように振り上げた右足。身をひねって回避する動きを見せたクロムが、すぐに自分の懐に接しにくるのはわかっている。足先がクロムの胸元の高さ相当に達するより早く、素早く踵を地面に振り下ろしたディルエラの行動は、踵で地面を叩いて爆閃弾(ばくせんだん)を発動させる形を実現させる。ディルエラに拳か脚を届かせるより早く、爆風に煽られたクロムの体が、ディルエラから大きく突き放される形になる。至近距離の爆発により、地表の小さな岩石片を体に受け、びすびすと全身に血を流す傷を負いながら。


 自分から遠のいたクロムのことなんか、一瞬どうでもいい。自らの周囲に吹き荒れた砂塵が晴れた末、ディルエラの目線は、立ち上がりかけた彼女に向いていた。そしてディルエラの目線の先、遠くにして頭を振り上げ、前髪をばさりと躍らせた賢者の姿には、ディルエラも我が目を疑いたくなったものである。


 天を見上げ、力なく開いた口で荒い息を吐き、ふらつく体で彼女は立っている。確かに二十年以上前、蹴りの直撃を見舞わせた上に列砕陣(れっさいじん)の追撃をぶちかまして尚、生き延び数年来の再会を果たしてくれた奴だ。あの時よりも強くなっているのなら、かつて以上の屈強さを身につけていてもおかしくないのはわかる。だからと言って、どんな人間をも葬り去ってきた獄獣のパワーを、守備貫通した上で叩き込んでなお生きているだなんて結果は、ディルエラの想定を遥かに超えた現実だ。


「化け物が……!」


 獄獣が人間一人に対して言うとは思えぬ言葉を吐いた瞬間、視界外から猛然とディルエラに迫った者がいる。彼女が、ぎりと歯を食いしばった光景を最後に、クロムに振り返りざまの回し蹴りを放つディルエラ。自らの胴を薙ぎ倒す巨大な脚の一撃を、減速どころかさらに加速したクロムがディルエラの距離感を狂わせる。足先ではなく膝でクロムを捉える形になったディルエラの攻撃は、充分な威力をクロムに届けられていない。腕を構えて防いだクロムは、踏ん張った一瞬にして動から静。吹き飛ばされず、次の瞬間には突き出した鉄拳の一撃で、ディルエラの胸元を突き刺しにかかる。


 至近距離の一撃をも掌で受け切り、手の甲が胸に叩きつけられる衝撃にディルエラが我が身を後ずさらせる。痛みはあるが大きなダメージではない。逆の掌ですぐさまクロムを叩き潰しにかかるディルエラに、クロムも振りかぶった裏拳で手首を殴って狙いを逸らさせる。自らの側面すぐの地面をディルエラの掌が粉砕するが、直後クロムへ頭から突っ込むディルエラの動きは、まるでそうされることを読んでいたかのように速い。と言うより、それ以外にクロムが今の攻撃を凌ぐ手段がなかったように攻めたのだから当然だ。


 胸の前で腕を交差させて防いだクロムを大きく吹き飛ばした瞬間、ディルエラは振り下ろした方の掌とは逆の拳に、魔力を集めている。まずい、急げ、すぐにだ。ゆらりと体を前に傾けたあいつへと向き直ると同時、振り上げたその拳を一気に振り下ろす。


列砕陣(れっさいじん)!!」


 それは真に恐ろしき危機を感じ取った時のみの、獄獣の咆哮に近い絶叫。声と共に生じる、確実にこの一撃で敵を葬るというディルエラの意志力は、魔力発動の瞬間に過去最大の衝撃波を生み出した。まるで一枚の高き壁が、狂牛のような速度で前進する一撃は、絶対に対象を回避させないものだっただろう。前方視界を、自らの技で染め上げてしまうほどの大技を発動させてなお、ディルエラは前方に駆ける壁の背から目を切れない。


 衝撃波の壁の真ん中をばさりと切り裂き、亜光速の如き速度で自らに迫った一つの弾丸は、ディルエラに死を予感させるには充分なものだっただろう。間に合えと願うほどの想いで両腕を引き上げ、前のめりの頭の前で交差させた瞬間、ディルエラの腕に突き刺さる賢者の拳。その破壊力は、ただでさえ鋼鉄にも勝る強度を誇る獄獣の腕、それが身体能力強化の魔法でさらに屈強になってなお、芯である太い骨が折れそうになるほど重い。


 動揺を隠せないディルエラの眼差し、腕を隔てたその向こう側、ルーネは激突の反動で我が身を貫いた衝撃に、片目を閉じて小さくうめいている。生きている。柔らかい胸の奥、骨も内臓もずたずたにされているはずなのに、人の肉体が生存するために必要な条件すらこいつは超越するのか。超人、怪物、そんな言葉よりもさらに適切、人外という言葉でルーネを例えることも、今のディルエラは厭わない。


「負け……っ、ま゛せんっ……!」


 幼子のような高い声もがらがらに枯らし、強固な精神を口にしたルーネが、直後ディルエラの交差させた腕の交点を蹴り上げた。激突の衝撃で怯んでいたディルエラの腕をはじき上げ、反動で地面に急落下したルーネ。着地の瞬間、一瞬の間もおかずに地を蹴ったルーネの速度は、対応する間も与えずにディルエラの鼻を拳で突き砕く。


 一撃で顔面の形も変わるような破壊力を受けたディルエラが、数歩後ろによろめくのも当然だ。それでも倒れずぼやけた視界、類まれなる聴力と肌で察する気配の感知力、ルーネとクロムの動きを的確に見定めるディルエラだから今日まで生き残ってきた。側面から素早く迫るクロム、脇腹目がけて彼が突き出す拳を、身をひねって突き出す膝の一撃で真正面から迎撃する。膝が砕けそうな痛みと、限界を迎えかけたクロムの拳が割れた実感。見ずともわかる、痛みを堪えてディルエラの膝を蹴り上げてきたクロムの一撃をディルエラは甘んじて受けるのみ。軸足になりえる一本の中枢を傷つけられてなお、その打撃ベクトルに準じて後方に宙返りする所まで計算済み。


 着地の瞬間に足裏から放つ爆閃弾(ばくせんだん)の爆風は、近しきクロムとルーネを同時に吹き飛ばす。遠のいた難敵二人、討つべきはどちらだ。舞い上がる周囲の砂塵を振り払った瞬間、地面に叩きつけられて数度跳ねるルーネを見た瞬間、絶対にこちらだと確信。ろくに受け身も取れぬほどに全身粉々のルーネ、討つならこの瞬間以上の好機などない。


 クロムに砕きかけられた膝の損傷も、決死の魔力で補強して。全力最速で砲弾のようにルーネへと迫るディルエラの眼前、なんとか両手と右膝、左足で地表に踏みとどまったルーネの姿がある。かろうじて自らを制動させ果たした瞬間、苦痛で意識を削がれたルーネの至近距離には、すでにディルエラが迫っている。もう撃滅裂衝波(げきめつれっしょうは)も必要ない。おふくろ、と絶叫するクロムが予感するとおり、今のルーネにディルエラの打撃一つ入れば、間違いなく今度こそルーネへの致命打となる。


 拳を突き出したその瞬間、ぎっと顔を上げたルーネの純真な眼差しが、ディルエラのひしゃげかけた顔面に突き刺さった。怒りでも憎しみでもない、守りたい誰かを守るためだけにここへ来た、子供のように純真かつ、往年の勇者にも劣らぬ意志力に満ちた目。そしてこの日、今までで最も彼女の中に強く芽生えた感情、勝利しただけでなく生還し、守り抜いた人と再び歩いていくことを望む想いが、過去以上に彼女の精神力を凄まじい魔力へと変えていく。


 地を蹴った瞬間のルーネをディルエラは完全に見失った。どこに消えたかと感じる暇もなく、空振った拳が地面を砕くより早く、ルーネはディルエラの頭の角に手をかけていた。角を握るルーネの手、それを中心にして腕を軸にして回転したルーネは、片手を引くとともにもう片手を離し、角を鉄棒のようにして回転するはずであった、体の向きを変える。結果として残ったのは、ディルエラが見失うほどの速度で跳んだ彼女の速度が、それを失わぬままにして彼女を回転させ、獄獣の後頭部を足の甲で蹴り飛ばすというもの。


 角に何かが触れた瞬間に生じた、後頭部への凄まじい打撃には、ディルエラも完全に意識が吹っ飛ぶ寸前だった。足元のルーネを殴り突こうとしていた肉体が前のめりに崩れ、顔面から地面へと雪崩れ込むディルエラ。こんな獄獣の姿を、誰が見たことがあるだろう。蹴った反動でディルエラから離れる方向に飛ばされたルーネは、渾身の一撃を放ったことでいくつか体の筋を切ったかのように、半身で地面に叩きつけられて転がる形となる。


 一瞬動かなかったディルエラ。それでも強く、がんと地面を両掌で叩き、上体をがばりと跳ね上げて立ち上がる。すぐさまルーネとクロムの中点を、視界中心に捉えられる方向を向き直るが、朦朧とする意識を拭い去り、げはぁと荒い息を吐く。


列砕(れっさい)(じん)……!」


 これで最後だ。勝負を賭けた特大の衝撃波。先ほどの一撃と同じ、巨壁が駆けるかのような衝撃波をルーネとクロムに向けて放つディルエラ。次の一手はもう決めてある。相手が何をして来ようが、衝撃波の壁を追うように駆け出したディルエラの狙いは変わらない。


 ちゃんと聞いているのだ。ルーネが地面を引っかいて舞い、クロムの方へと跳んだ地表の"音"も。クロムを襲うはずだった、不可避の衝撃波の壁が、彼の立っていた位置の前でばさりと切り裂かれる。切断の魔力を手刀に纏う、迫幻刃(はくげんじん)によってルーネが衝撃波を割るであろうことは、先ほどの光景からディルエラには読めていたこと。


 目の前の壁が割れた瞬間のクロム達の目の前には、すでにディルエラが迫っていた。右の掌に魔力をかき集め、必殺の奥義を放つ準備は出来ている。かろうじてクロムの前まで追いつき、衝撃波を割った末に地面に倒れたルーネ、その後方に立つクロム。どんな方向に奴らが逃れようと、この一撃だけは絶対にはずさない。ディルエラの殺意がそのまま魔力に、意志力が不可避の魔手を生み出し、二人に襲い掛かろうとしている。


撃滅裂衝波(げきめつれっしょうは)!!」


 斜め上からクロムを叩き潰しにかかる掌の振り下ろしは、その方向の末に倒れたルーネも含んでいる。突然すぎる二人が動けぬ中、二人まとめてあるいは片方を確実に葬り去れる一撃。必殺の掌が斜め上方から振り下ろされる光景は、限界を迎え始めたクロムに絶望感すら生じかけさせたものだ。


 それで死ぬのか、何もせず。そんな覚悟で獄獣に喧嘩を売りに来るものか。破れかぶれでも差し違える覚悟でもない、何が何でも勝利を手にし、遺恨晴らして親子で共に生きていくためにここまで来たのだ。掌が無防備なクロムを捉える寸前、その場で一気に後方に倒れこんだクロムが、ディルエラの掌の狙い筋から逃れると同時に脚を振り上げた。


 渾身の蹴り上げは、ディルエラの手首に直撃し、僅かにディルエラの掌の軌道を上ずらせた。クロムを空振り、ルーネを叩き潰すはずだった掌は僅かに逸れ、横たわる小さなルーネの頭上の地面に突き刺さる。この一撃に勝負を懸けていたディルエラが地面を殴りつけた瞬間、狙いと違う結果に一瞬思考が硬直しかけたのも無理はない。


 それでもこの体勢はまずいと一瞬で察し、大きく一歩退いたディルエラの対応は速かった。しかし、地面を地面を砕いたディルエラの掌を掴んだルーネの方が、一瞬速かったのだ。掴んだ獄獣の手に引っ張られるようにして、同じ方向に動いたルーネは、引かれた瞬間に手を離して我が身をディルエラに投げ出す。クロムから大きく離れたはずのディルエラ、その胸元へとん、とぶつかったルーネの感触にディルエラの血が凍る。


華絶(かぜつ)、っ……!」


 目線を落としたその先には、ディルエラの胸に左肩からぶつかった直後のルーネが、ほんの僅かな距離を生じて、右の掌を引いている姿がある。もう間に合わない。それでもルーネから大きく離れようとしたディルエラの抵抗も虚しく、既にルーネの口は最終奥義の名を唱え始めている。


「――滅砕掌(めっさいしょう)!!」


 ディルエラの胸を打ち抜く、今日最後の力を振り絞ったルーネ渾身の一撃。ディルエラ自身も一度痛感したその破壊力が、ルーネの掌と獄獣の胸が触れ合った瞬間に発動する。獄獣の胸の奥まで突き抜けた衝撃は、そこを爆心地に一気にディルエラの全身へ駆け抜けるのだ。鋼鉄も粉砕する、瀑布にも風穴を開ける、獄獣の最強たる筋肉をも断裂させる凄まじい破壊エネルギーが、内側から肉体を粉々にしていく事象とは、さしもの獄獣の命をも地獄へ突き落としにかかる。


 掌で押されるままに、あるいは離れようとした勢いのままに、ルーネから数歩後方に退がったディルエラが、内臓ひとつ吐き出したような血の塊を、大口から吐く。バケツの中身をひっくり返したような血が大地をびしゃりと塗らした直後、後方にぐらりとディルエラの巨体が傾いていく。腕も、脚も、それを動かす筋肉も、生命を繋ぎ留めるための内臓も滅茶苦茶にされた獄獣の命が、今まさに継戦能力を完全に失った事を象徴する光景だ。


「っ、げふぁ……ッ!」


 それでも、ディルエラは片足を勢いよく引き、倒れず地面に踏み止まった。既に立ち上がっていたクロムが、地面に背中から落ちて倒れたルーネに駆け寄る前、倒れぬままにディルエラは何歩も後ろに退がっていく。ルーネを抱きかかえるようにして起こすクロム、首だけ回してディルエラから目線をはずさないルーネの前で、ディルエラが早くない速度で後退する。


 ある場所まで退がり、ディルエラの足が止まった。後ろに重心を預けていたディルエラが、前に体を傾け、にやりと二人を睨み返す。継戦能力はおろか、本来なら死んでいて当たり前のほどに、体内は壊れきっているはずなのに。それでも生き永らえているのは、生存を望むディルエラの精神力が、今日手にした新たなる魔法の礎となり、命を保っているからだろう。


「い……っ、言ったよな……俺を滅ぼすのは、お前らじゃねえってよ……」


 途切れ途切れの呼吸から、ディルエラが絞り出す最後の言葉。自らの死は今ではない、開戦前にそう口にしたディルエラの決意が、土壇場で初めての神獣復興(ソウルオブベヒーモス)の発動を実現させたと言っても過言ではないだろう。あれもある意味では、ディルエラにとって生還への切り札の、少し離れた前詠唱に近いものだと言えるのかもしれない。


「死なねぇ限り、俺の勝ちだ……! てめえらに黙ってくれてやるほど、俺の命は安くねぇ……!」


 もはや駆けてクロム達から逃れる力もないディルエラ。最後に獄獣が選んだ、生存の道とは何か。かつて魔物達が、役に立たぬ魔物の死骸を投げ捨て、サイデルの餌とするために使っていた崖が、ディルエラの後ろにある。既に片足の半分を崖っぷちにかけたディルエラは、この後の自分の行く末を定めている。


 底も真っ暗で見えぬほどの深き谷。満身創痍の肉体で身を投げて、生きていられるはずもなかろうに。それでもこのまま座して殺される道を選ぶなら、新たなる身体能力強化の力にすがり、自らを屠ろうとする天敵から離れる道を選ぶのがディルエラだ。一厘の一厘にも満たぬ生存への可能性だろうが、絶対にディルエラは生存へ残された唯一の道を手放さない。


「――あばよ」


 前に出ていた方の足を、後方に大きく引いたディルエラが、背中から崖下に吸い込まれていく。倒れるように体を後方に倒した獄獣が、二人の目の前から消え失せた事実は、血と痛みに満ちた戦いの幕切れとは思えぬほど、静かで閑散とした結末。消える直前、まるで自らの生存を信じたかのように笑ったディルエラの表情が、二人の脳裏に最後の光景として克明に残されるのみだった。


 ディルエラが目の前から消えた数秒後、どこかで落石が地面を砕くような轟音が聞こえた気がした。それが谷底にディルエラの肉体が落ちた音だとしたら、何秒かけて落ちるほどにその谷は深かったのか。獄獣の最期を確信するには充分な重低音を聞き受けたクロムは、抱きかかえたルーネを一度地面に寝転がせ、自身も尻から後方に座り込んで大きな息をついた。


「……終わったな」


「うん……」


 仰向けに力なく寝そべり、胸を上下させるルーネは確かに生きている。きっと自分では、指一本動かせる状態ではないのだろう。彼女の魔法は、もはや戦うためではなく、切れかけた命を繋ぎ留めるためだけに発動し続けている状態だ。それが彼女の命をここまで保たせたなら、クロムにとって果て無き道(オデッセイ)は、自分に代わって母を支えてくれる恩人のようなものだろう。


 ふう、ともう一つ息をつき、ルーネをもう一度抱き上げるクロム。今度は先ほどのように、体を起こすだけに留まらず、お姫様抱っこのようにルーネを抱えてだ。死んだように全身だらりと力なく、抱え方を誤れば人形のように折れそうな、ルーネの首の後ろに手を添えて。もう一つの手で、細くて華奢なルーネの膝裏を持ち上げて。ゆっくりとある方向に歩きだすクロムの足は、戦い終えて帰還の道へと向けられたものだ。


「よく生きてたな。あんたは不死身なのか?」


「あはは……わかんない……でも、死にたくなかった……」


 精も根も尽き果てた目でクロムを見上げるルーネだが、それほどまでに憔悴してなお、どうしても死にたくなかった。かつては祖国を守るためなら、この命を失っても惜しくないと考えたこともある戦乙女。そんな昔の彼女とは一線を画し、何にも勝って生きて帰ることを、我が子とともに再び歩いていくことを夢見た彼女の想いが、ぎりぎりの所でルーネ自身の命を繋いだのだろうか。精神力あっての魔法という理念が真実なら、それ以外に彼女の生存を説明できる言葉がない。


 初めておふくろと呼んでもらえて。こんなに強く育ってくれた息子と共に、長年己の心に残り続けてくれた遺恨に立ち向かえて。続きを紡げず、どうしてこの世を去れるというのだろう。逞しい我が子の腕に抱かれたルーネの見上げる先、世界一愛する唯一無二の我が子の顔を、最期の思い出に死んでいくことなんて出来るはずがない。いっぱい長生きして、子供を愛せる喜びにこの子が出会える日まで、見守っていたくなるものだ。


「……なあ、おふくろ。ここに来る前に言いかけていたことだが」


 忘我のうちにクロムを見つめていたルーネの意識に、クロムの一言が差し込まれる。何の話だろう、と一瞬考えるルーネだが、頭の回転が速い彼女はすぐに正解に辿り着いた。生きて帰れたら話したいことがある、勝ってからのお楽しみだがな、と、ディルエラとの交戦前にクロムが言い残していた。かしこまったように話を切り出す態度も併せて、きっとそれが答えなのだと思う。


「結婚を意識して付き合ってる女がいる。そいつはダニームに店を開きたいと言ってる。俺はそのための金を稼げたら騎士団を辞めて、そいつと一緒にダニームで暮らすつもりだ」


 淡々と語り始めながら、少し離れた場所に放してある馬の元へと歩いていくクロム。察しよく何の話かすぐに辿り着けたルーネでも、一瞬ちょっと何を言ってるのかわからなくなる内容だった。あんまりにも急すぎて、頭に言葉の意味がするりと入ってこない。


「まあ、近くに住むようになる以上、ちったあ親孝行できるように努めるわ。……俺がそれに満足するまでは長生きしてくれよ」


 目を丸くしていたルーネを抱えたまま、何歩も何歩も歩いて。クロムも多少は気恥ずかしいのか、その間一度もルーネに視線を落とさなかった。こんなことを急に言われて、ルーネがどんな顔をしているのかも少し気になっていたが、少し目を合わせるのがやっぱりしづらくて。目を合わせぬまま二人が馬に向かって歩いていく姿が、閑散とした山の荒原の中にある。


 ちょっと踏ん切りのついたクロムが目線を落とそうとした矢先、小さな誰かの手がクロムの襟元をぎゅっと掴んだ。お姫様抱っこされていたルーネが、動かすことも出来なかった腕を持ち上げ、クロムの胸に顔をうずめて震えている。見えないが、どんな顔をしているかなんて、こうなればだいたい想像はつく。


「無理すんな。体に響くぞ」


「っ……だめ……今、そんなの……」


 軽く笑う声を放つクロムと、嗚咽混じりの声を絞り出すルーネ。これが少し前には獄獣ディルエラに敢然と立ち向かっていた、頼もしい賢者様と同一人物とは思いにくくなる。だけどある意味、若き頃からクロムが目指した、強さと優しさを併せ持つ父ジュスターブの理想像と、形は違えとルーネという人物は近しい。こんな人が自分の本当の母親だったんだと知れば、つくづく自分は家族に恵まれていたのだと、クロムも思わずいられない。


 宿敵ディルエラにとどめを刺すことは出来なかったが、それはもういい。何かの間違いであいつが生きていたとしても、もういい。初めて力を合わせて戦った母と共に、長年人類を脅かしてきた獄獣に立ち向かい、決着をつける形を経てなお生き延びた。それを叶えられただけでも、クロムにとっては大きな財産だ。勝利し、生きて帰る、それも獄獣を相手に。愛すべき人と手を取り合って、困難を乗り越えたことそのものが、一生誇れる思い出として向こう何十年もの人生を、光溢れるものへとしてくれるのだから。


 馬が見えてきた。単身でのルーネ達との交戦を望んだディルエラが、邪魔者を払い魔物の配下もそばに置かなかったせいか、名馬はのんきに草をかじっていた。まったくこっちは死ぬような想いで戦い抜き、今でも軽いルーネを抱きかかえるだけで体が痛むというのに、何なんだよとクロムも苦笑してしまう。


「ほら、おふくろ。帰るぞ」


 額をクロムの胸に押し付け、小さくうなずいたルーネは、もう声も出せないらしい。どいつもこいつも。自分たちに気付いて、あぁもう終わったんですかと首をかしげる馬にいらっと来て、クロムはぴょんと跳び、どすんと馬の背に尻を乗せた。ちょっと痛かったのか、馬はぶるると不満げに息を吐くが、気にせずクロムは馬に跨る自分の前に、ルーネを座らせる。


 馬の首の根元まで尻を前進させるクロム。その前に座らされたルーネは、傾く馬の首に座る形でクロムにもたれる形になり、手綱を握るクロムの腹がルーネの体を支える柱になる。かなり変な乗り方で、馬も嫌がりそうだが、ルーネが楽を出来る姿勢を作るならこれでいい。いいから走れ、と馬の腕元を蹴るクロムに命じられ、実に不服そうにいなないた馬が帰路へと走り出した。


 形の悪い馬の首根っこに座ると、尻が少し痛くなる。それでも今のクロムにとって、それはたいした問題には思えなかった。それよりも、クロムの腹にしがみついたまま、すんすん言い続けるルーネに対し、鼻水で俺の服を汚すなよ、と頭を撫でるので忙しかった。

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