第243話 ~遺恨清算① 明鏡止水~
坂を上る。地平線は見上げた先にある。クロムの手綱に操られる馬は底なしの体力を持つかのごとく、前に頭を何度も突き出して、減速すらせず突き進む。魔法都市ダニームの名馬と知られるその脚は、やがて背に乗る二人を、宿縁深き怨敵の前に導いていく。
そして坂道を駆け上がり、目の前の道が見下ろす先に広がる光景が入った。さらに走れば行き止まり。大河のように山脈を縦断する、深きクレバスのような断崖は幅も非常に広く、鳥でもなければその奈落への大口を、飛び越えることは出来ないだろう。
その断崖を背にして待つ怪物は、あぐらをかいて待っていた。魔物達の大将格、魔王マーディスの片腕として名を馳せた怪物から、数十歩の距離の位置でクロムは馬を止めた。巨大な体躯を持つ最強の魔物、その影形がまだ小さく見えるほどの距離があるが、それでも向こうが機嫌よさげに笑っているのはよく見える。口の端から上向きに生える葉巻は、奴が笑っている口の形を如実に表してくれている。
馬から身軽にひょいと降りたルーネ、それに続いて馬から飛び降り、だんと重い音と共に着地するクロム。葉巻をくわえたまま吸い、鼻息に混じって煙を吐き出す怪物へ、二人がゆっくりと歩み寄る。馬を離れるに際し、その首をぽんと叩いたクロムの合図により、二人をここまで運んだ名馬は踵を返し、やがて戦場となるここから離れていく。
「歓迎するぜ」
「やはり、待っていたのですね」
獄獣ディルエラはあぐらをかいたまま動かない。火をつけたばかりの葉巻を勢いよく吸うと、葉巻は根元まで火種に侵食され、あっという間に吸えぬ長さにまで短くなる。ひと吸いで葉巻がどれほど短くなるか、それで今日の運勢を占うディルエラにとって、これは最大の吉兆を示す結果である。
殆どが灰になった葉巻を指先でつまむと、ディルエラはそれを後方の崖に投げ捨てた。底の見えぬ断崖の底へと吸い込まれた葉巻が、やがて地面に到達するまで何秒かかるだろう。地獄へと吸い込まれる嗜好品の遺産を、ぶはぁと口から吐き出すディルエラは、待ち続けていたルーネ達との再会にぎらりと笑った。
「俺の後ろにあるこの崖の名を知ってるか」
「いいえ」
「"サイデルの胃袋"と呼ばれる。昔はこの大穴の底には化け物がいてな。俺達は飼っていたそいつに餌をやる時、この崖をよく使っていた」
機嫌上々、サイデルとは何かを語りだすディルエラ。その昔、ウルアグワが作り出した不死に近い骸の怪物の名がサイデルであること。死骸を与えればその骨を操り、自らの一部に変える化け物であったこと。以前、騎士団がアルム廃坑攻略の戦いに参じた時、奈落深くのサイデルを地下道を通し、アルム廃坑まで誘導したこと。そして、魔物達にとっても厄介者であったそのサイデルは、既に始末された魔物であること。この際、サイデルを葬ったのが自分であると語らないあたり、ディルエラは自分の力を誇示する趣味がないことがよくわかる。
「俺達にとってこの崖は、お前らの言う所の墓穴さ。死んだ魔物の死体は、ウルアグワやアーヴェルの実験材料にならねえ時、全部ここに投げ捨てていた」
「その昔、ウルアグワが"骨を洗う"と言っていたのは?」
「おお、それだそれだ。懐かしい言い回しだな」
黒騎士ウルアグワは、配下の魔物が充分なはたらきを見せない時、脅し文句としてこの言い回しをよく使っていた。敵を屠らねば骨を洗うぞ、などと言うのが一例だ。この"骨を洗われる"というのは、魔物達の間で"サイデルのエサにされる"という意味として通っていたのだろう。
「最後の喧嘩だからな。俺なりに趣向を凝らせて貰った」
「……あなたなりに、お気遣いを回してくれるのですね」
ここまで辿り着いた三者なら、細やかな説明などなくてもディルエラの言いたいことはわかる。今から始めるのは殺し合いだ。そしてディルエラは、勝利しルーネやクロムを死体に変えれば、魔物達の習慣に則り、二人の亡骸をこの谷底へ葬送すると言っている。
ありがたみも糞もないそんな配慮が、気遣いであると思えるのが、普通の発想ではないはずなのだ。伝わると思っていなかった不器用な敬意の払い方を、汲んでルーネが返答したことには、ディルエラも薄ら笑いを消さずにいられない。
「人間にとっての俺は、単なる殺戮者でしかねえはずだが」
「……対立する以上、支持することは出来ませんが、更なる強さを求める想いまでは否定できません」
ディルエラが呆然としかけるほど、人間である上で自らの思想を理解する者との対面は、唐突であり期待すらしていなかったこと。言葉を失うディルエラを前に、ルーネは言葉を紡ぎ続ける。
「そうでなければ"飼い"の思想が説明できませんので」
「…………」
無言で懐から葉巻を取り出し、口にくわえて火をつけるディルエラ。役者が揃えばすぐにでも殺し合いを始めようとしていた獄獣が、開戦を先延ばしにしようとした意思の表れだ。一服の隙、仮にルーネが突然襲い掛かってくるという可能性のリスクを背負ってでも、今のディルエラにとってこの邂逅は、予想以上の価値を持つ。
「学者の性なのか」
「わからないけど……少しだけ、お話しておきたい」
それはルーネも同じだっただろう。夫を目の前で殺した、憎きはずの獄獣を前にして、普通だったら今すぐ飛びかかっても許される状況。それでも自らの胸を撫ぜ、心中に渦巻く想いを鎮め、決着をつける前にディルエラとの対話を望むルーネ。クロムが怪訝そうに尋ねたように、知的好奇心からそうするわけではない。何故それを望んだのかは、ルーネでさえも今はわからない。
始まらぬなら、と、煙草を取り出し吸い始めるクロムの肝も、恐ろしき獄獣を前にして据わりきったものだ。ご両人ご自由にどうぞ、とルーネの背中をぽんと押すクロムに促され、ルーネは隣の息子よりも一歩ぶん前に出る。
「あなたは強い。しかし、それは私達との戦いの中だけでのこと」
「世界は広いもんだぜ。俺より強い化け物なんざ、この世に掃いて捨てるほど溢れてやがる」
何百年もの生涯の中、世界中を渡り歩いてきたディルエラは、何度も自分よりも強い存在に遭遇し、命の危機を潜り抜けてきた。コズニック山脈より遥か南の大国、三つの頭と六本の腕を持つ人型の怪物が統べる王国に踏み込んだ時もそうだ。6つの刃を振り回し、人外級の怪力と剣術を操る王との戦いで敗れたディルエラは、敵に決死の一撃を食らわせた末に逃亡し、必死で追っ手を振り切った末に生存した。それがディルエラにとっては比較的最近のことで、三百年前のことである。
人間社会が作り上げた、殺生を不許とする掟は自然界では通用しない。もっと言えば、殺生や復讐を法で肯定する人間社会もある。生存を望むなら、自らの命を脅かすものは、自らの手で振り払わねばならない。そのために必要なものは何か。それは理不尽な支配を人類に強いようとした魔王に抗うため、人類が手にしようとしてやまなかった、"力"と何が違うだろう。人道に反すると言われようが、"渦巻く血潮"を追究しようとしたラエルカンを知るルーネが最も、その思想の理解に手を伸ばしやすい。
「力を培うために必要なこととは何か。自分自身より勝る力の持ち主を上回ることだろう?」
「だからあなたは、強き戦士達と出会うたびに"飼って"きた」
「弱い奴と戦ってもこの力を高めることは出来ねえからな」
どんな脅威もねじ伏せる実力こそが、自らの生存を約束してくれるものだとディルエラは知っている。かの南の大国から逃げ延びた後、とある砂漠に乗り込み、流砂を操る恐ろしき大蛇との戦いに望み、さらなる実力を得た。やがて数年の時を経て、新たに手にした力を持って、六本腕の人型の怪物を叩き潰し、その王が支配していた国家を十年ほど支配した時間は満たされていた。贄を求めれば血肉には困らなかったし、空腹とは無縁の生活を勝ち取った報いは、王との死闘で味わわされた痛みに釣り合うものだった。
それでも時が経つにつれ、夢は覚めて現実と向き合わねばならない時が訪れる。王を失い強者なき自らの国に、自分へと立ち向かう者はいなかった。戦いから十年間も離れる中、体をなまらせる自分を実感すれば、やがて王を超える誰かが自分の前に現れた時こそ、自らの死期だと予感してならない。奪い取った国を解放し、飽くなき戦いの日々へと歩きだしたディルエラの行動は、支配こそが全てであった魔王マーディスの思想と似て非なるものだ。
「強くなる見込みのある奴を手放し、再び俺の前に現れる時を待つ。短い時間であっという間に強くなるお前らは、俺にとっては力を失わねえための最高の苗床だった」
「収穫を誤れば、自らの命が危ぶまれると知ってなお」
「必要なことなんでな」
"飼った"ベルセリウスやルーネ、シリカは後年力をつけ、ディルエラを追い詰め撃退した。ディルエラにとってはそれこそが、強い生存欲に反する行動だと捉えられがちだ。それでも永く生きていくためには、リスクを背負わねばならないこともあると、ディルエラは長き経験則からはっきり確信している。
「人間って奴らは金を稼ぐだろう? それと一緒だ」
「そうですね。大人になれば働かなくては生きていけないのが人間社会です」
「お前らの金稼ぎと、俺の強さ稼ぎはほぼ同じだよ。疎かにすれば、数年後の自分が死を迎えることを俺は知ってる」
この世界は、望むことだけをして自由に生きていけるほど幸せには出来ていない。仕事なんかせず、遊ぶばかりでずっと幸せに生きていける人間社会は相当に存在しない。それと同じで、生き延びるためにはそのための実力を衰えさせず、あるいはさらに高めていかなければ、やがて自分よりも強大な存在と敵対した時に危ういのが自然界。わざわざ強き敵が生じることを促し、自らの力を高めるための糧として"飼った"ディルエラの真意はそこにある。
コズニック山脈に初めて訪れ、絶大なる力を持つ魔王マーディスと"不幸にも"遭遇した時のディルエラは賢く立ち回っていた。当時の百獣軍の長、ノエルとの一戦でマーディスに自らの強さを見せ示し、敵わぬかもしれぬ魔王の配下へと下ることで、命の危機を回避した。そうして魔王の配下として、エレムやルオス、ダニームやラエルカンの人類と戦う日々の中で、ディルエラは着実に力を養い続けた。我が儘な魔王の命令に従う、肩身の狭さに少し疲れながらも、それによって人類との交戦の機会を得、さらなる力という報酬を給わっていたディルエラの生き様は、まるで大商人に仕える傭兵に近いものだ。
「ラエルカンは食った。お前のように故郷を奪われた奴が、敵意をむき出しにして再び俺の前に現れることを期待してな」
「それだけのために」
「そうだ」
そんなことのために故郷を、友人を、家族を奪われたルーネ。しかし今、その事実を突きつけられてなお、ディルエラを見据えるルーネの目の色は変わらない。ふざけるなと一喝して激昂してもおかしくない現実を目の前にして動じないのは、ルーネにとってそれは予想された回答であったからだ。
「何故お前は、復讐の目で俺に立ち向かって来ない? 以前の戦いでもそうだったな。お前は俺の知る、他のどんな人間とも違う」
「復讐は復讐を呼び、永遠に終わらぬ悲劇の連鎖を呼ぶ始まりだからです」
ルーネの根底にあるのはその信念。恨み、憎しみ、そうした感情で敵を葬り去ることが、再び返す刃で自らを取り巻く人々に降りかかることを、ルーネは本能的に恐れてやまない。だから彼女は、復讐心が胸のどこかに留まる限り、戦うための、敵を殺すための身体能力強化の魔法を使えない。魔法とは術者の精神に強く依存するものだ。
だからルーネは、ラエルカンを滅ぼされたあの日から数年間、戦うことが出来なかった。かつてラエルカンの一兵として戦っていた時は、友軍の仲間を殺された恨みや憎しみも、己をよく知るルーネが自分自身をコントロールして、押さえ込むことが出来た。だが、夫も後輩も故郷さえも、まるまる全て奪われたあの日から、魔物達の姿を見るたび、胸の内から沸き上がる黒い感情を抑えられなくなった。それほどまでに故郷を焼き払われた痛みは深く、苦しく、抑え切れない憎しみがルーネの心に根差した。それは彼女の根底の、復讐の連鎖を恐れる信念に強く反し、戦うための力さえも失わせていたのだ。
「それでなぜ、お前は俺を殺そうと出来た? 復讐以外に答えがあるのか」
「大切な人を守るためです」
ルーネのすぐ後ろに、その人物はいる。掛け替えなき一人息子。それだけではない、獄獣を野放しにしていては、命が危ぶまれるやもしれぬ、大切な人はたくさんいる。知己のシリカやユースもそう。だからルーネは戦いにきた。極めて簡単な答えでしかなく、戦士達なら誰でも共感できる思想だ。
「なぜお前は長く俺の前に現れなかった」
「復讐心を胸に戦うことは、私の魔法に反します。あなたと戦うために私に必要なものとは、私の中にある憎しみの感情を打ち消し、その目的のためだけに戦う精神に他ならなかった」
「今は俺のことが憎くないとでも言うのか」
「ええ、理解できますから」
「壊れてるな、お前は」
「……もう、元には戻れないと思います」
寂しげに笑うルーネは、自分が普通の人間でなくなったことを知っているのだ。人が優しくなるために必要なことは、自分とは違う思想を持つ他者の行動理念を、想像で以って補う思考力だ。時をかけ、ディルエラの思想を究明し、その行動原理を理解した今のルーネは、かつてほどディルエラに対する怒りや憎しみを抑えることに成功している。力を求める思想は、実際のところ理解できなくもない。祖国を奪われたことも、その理念に基づけば、納得のいく行動によるものだと結論づけられるからだ。そうして他者を理解した時、人は理解できない者に対する疑念や憤慨を、仮初めの答えで和らげることが出来る。
それで祖国を奪われた憎しみまでもを噛み砕けるものだろうか。普通の人間、愛する人を何百人も殺され、故郷を粉々にされた悲しみを、敵の思想を想像で補っただけで、わかるよと納得して受け入れ、憎しみを解消など出来るものだろうか。戦えなくなった自分、それを変えたかったがゆえ、自らの精神を無理にでも理解へと近付け、ディルエラの危険な思想にまで想像を届かせ、憎しみを抑えて戦う力を取り戻す。それはもはや、狂気にも近い自らへの洗脳と言い表して何ら差し支えない。ルーネは今の自分の精神が、いかに人として壊れたものであるかをわかっている。
「私は人類の怨敵でさえあるあなたの理解に努め、人として憎むべき対象をそうと捉えられぬ者。そんな私を未だに受け入れ、居場所を残してくれた人々に報いるしか、私の生きる道は無いのです」
魔物は討つべき、憎むべき対象。人類共通の思想のはず。祖国を奪われるという経験をしてなお、敵方に理解を示し、憎悪を抱かず歩み寄ったルーネは、人の誰にも合わせる顔が無い。魔物達を討伐し、それらに殺された友人や家族に報いた、哀しき喜びに打ち震える戦士にも、今のルーネは心から共感できない人間になってしまった。なぜって、魔物達を心から憎む想いを、既に自分の中から排斥するための洗脳を、自らに施してしまっているからだ。
「あんたはそれで満足なのか」
「幸せよ。私の力を、大好きな人達のために使える日がまた訪れた」
重い声で後ろから問いかけたクロムに、普段と変わらぬ笑顔で応えるルーネ。後悔などしていないのが表情ひとつでわかる。たとえ今の対話で我が子に見限られようと、戦うことで愛する誰かを守れるなら、それでいいのだと心から想っている目だ。
「いつか私の罪深さは私自身を滅ぼし、死後もまた私は、救い無き煉獄を彷徨い続けるのでしょう」
ディルエラに向き直り、確信する自らの未来を冷静な声で述べるルーネ。これが彼女の人生のすべてだ。余生を孤独に過ごそうが、罪の重さに胸を焼かれようが、その代償に得た今の力があるからこそ、殉じて生涯を懸けられる。
「やがてその日が訪れるまで、私はもう立ち止まるわけにはいきません」
その言葉を境に、葉巻を吹き捨て立ち上がるディルエラ。始まりの予感が肌を打つ。戦死、冥界行き、それが今日ではないとはっきりと言い表したルーネの言葉は、ディルエラとの因縁に終止符を打つこの戦いを、勝利を以って乗り越えるという決意の表れだ。
「法騎士シリカ様にあなたが敗れたと聞いた時、必ずあなたは再び私達の前に現れるであろうと確信しました。あなたは形にならぬ結果を身につけぬまま、私達の大地から逃げ延びるような存在ではない」
「ラエルカンでの戦いを最後に、本当ならばこの地から去るつもりだったんだがな。あれを最後に去るわけにもいかなくてよ」
戦果とはすなわち実力の向上。大精霊の加護を受け、近衛騎士ドミトリーにも劣らぬほどの、圧倒的な万物を切り裂く剣を手にしたシリカとの交戦は、勝利で飾れればディルエラにとっての最高の土産だった。培ってきた力は大精霊の力を得た騎士にも勝るものである証明ともなり、それだけの結果を出せたなら、この地を離れてまた別の地で力を養う日々に移ればいい。もとよりこの地方でこれ以上の狩りをするには、自分のことを知っている人間が多すぎて、不要なリスクが高まってきた頃だ。引き際はそろそろあった。
だが、予想していたレフリコスへの人類の進撃、ましてその中にルーネが混ざっているのであれば話は別だ。一度飼ったルーネに敗れて数年、あの時よりも強くなった我が手でそれを乗り越える好機。この地を去る前の最後の手土産に、ルーネと一戦交えることは、ディルエラにとって何より望ましい。
「俺は以前よりも強くなった自信がある。だが、お前もあの時より強くなってるな」
「あの子が私の魔法に名前をつけてくれたんです。いつまでも、弱いままの私ではいられないから」
幼くして身体能力強化の魔法を習得したルーネは、その魔法に長らく名をつけてこなかった。そばにいて当たり前だった魔法、詠唱もなく発現できたその魔法に、名をつけるという必要性がなかったのだ。だが、一度ラエルカンを滅ぼされ、戦う力を失ったルーネのため、その魔法に名をつけてくれた親友がいた。彼女の名付けてくれた魔法の名が、やがてルーネに再び立ち上がる道を指し示してくれた過去に、今でもルーネは心から感謝してやまない。
完全なる平和と安寧の永続。誰もが心の奥底で願い続け、決して叶うことのない理想郷。天災、人類同士の諍い、魔物達との抗争。何千年も続いた人の歴史の中で、平安と混沌の時代は何度も繰り返されてきた。人々のすべてが一切の危機に襲われることもなく、生まれて死ぬまでを安穏と生きられることが保証されたユートピアは、きっと今後も訪れない。11年前の魔王討伐を迎えても戦いが終わりを迎えなかったように、この戦いが終わっても、いつか別の形で必ず人類を脅かす何かが、遅かれ早かれ姿を現すだろう。この世界は人類だけに対して、特別に優しいものではない。
数年の苦闘の末に掴み取るのが、刹那的な安らぎの時に過ぎなくても、苦難に立ち向かい、平安を取り戻そうとする者は常にいる。形を変えて常に襲い掛かる、人類を襲う脅威達が織り成す無限地獄。その真理を意識してなお、戦うことをやめず、永遠の安寧という決して辿り着けぬ理想郷へと踏み出す者達は、誰もが長い冒険をその足で刻む旅人だ。
「始めましょう。私はあなたを討ち滅ぼし、完全なる安寧への第一歩を踏み出します」
「俺は誰にも止められねえよ。今までもそうやって、全部踏み潰してきた」
二人の声を聞き受けたクロムが、煙草をつまんでぴんと指先ではじく。静かに身体能力強化の魔法を発現するクロムの気配に、振り向かぬままルーネはかすかに笑った。確たる意志を以って望んだ、生涯で最大の一戦。それを支えるため、こんなにも心強い誰かがそばにいてくれることが、孤独な半生を歩んできた賢者の胸に、掛け値なき勇気をもたらしてくれる。
「常に、常磐に、常えに――人々の未来に倖い多かれ――」
ずっと望んで願い続けた想いを叶えるため、ルーネはその魔法を発現する。魔法とは、術者の描く理想を叶えるための、精神力を具現化した魔力による賜物だ。病弱であった幼少の頃、元気に外を走れる自分を夢見たルーネの力は、やがて"果て無き道"を歩み続けるための力へと変わっていった。少女から学者へ、学者から戦乙女へ。戦乙女から賢者と二つ名を変えた今になっても、戦うことで叶えようとした理想への想いは、過去と変わらず色褪せない。
「果て無き道……!」
獄獣ディルエラとの最終決戦。貪欲に力を求める獄獣の欲望さえをも受け入れ、かつ人の未来を食い潰すその意志を超え、人類が切り拓くことの出来る安寧の未来への道を証明する。祖国の仇を討つよりも、夫の仇を取るよりも、この戦いには大切な使命が懸けられている。この世の誰にも負けないほど、人々の先行き明るい未来を夢見続けてやまない戦乙女の大魔法は、発現した瞬間に空気の一つも揺らがさない。その身に渦巻く身体能力強化の魔力は、外界に一切の干渉をもたらさぬほど、純然と彼女自身の中だけに循環し、完全なる形でルーネの肉体を最大限まで強化する。
「やるぞ、おふくろ」
「ええ」
背の低いルーネに拳を突き出したクロムに、ルーネは拳を軽く合わせた。目を合わさず、真正面の獄獣を見据えた二人の心が、その行動ひとつでぴったり重なる。触れただけで感じる、母の無比なる強き意志力、それに応えんとする我が子の信念。片足引いて構える親子は、槍と拳をディルエラに突き出し、二人を正面に見据えたディルエラが、がつんと拳を胸の前で打ち鳴らす。
「……いつか必ず、俺を超える誰かが俺を討ち倒し、それが俺の最期の時になるんだろう」
何百年もの生涯の中、死に瀕したことは何度もあった。山よりも大きな巨竜との戦い、屍術士にかけられた呪いで生死の境を彷徨った日々。あるいは自分より弱い人間数千人に一斉襲撃を受け、敵の全滅と引き換えに、意識も遠のくほど血みどろにされた過去。すべて乗り越えてきたからこそ、ディルエラはここにいる。乗り越えてきた末に、無双の怪物と恐れられた獄獣たる強さがある。
「だが、俺を滅ぼすのはお前達でもなければ、その時は今でもねえ……!」
片足で地面を叩く轟音と共に、眼前に立ち並ぶ二人を睨みつけるディルエラ。それらが自らを死の淵へと追い込む強敵であることを、はっきりと認識している眼だ。だからこそそれを討ち倒し、さらなる高みへ昇ることが、自分自身の数年後、数十年後を支える礎になると知っている。たった一戦に、向こう何年間にも渡る意味を見出したからこそ、ディルエラはルーネ達の前に現れた。これもまた永き生存欲だ。
獄獣を友軍の誰とも交戦させず、我が手によって葬る決意を固めたルーネ。母の想いを一身に受け止め、長く切れていた縁を繋ぎ、支える意志を形にするクロム。この大地に住まう人間達との戦いの集大成を、ルーネ達を相手に締め括らんとするディルエラ。したたる敗者の血を勝者の血で上塗りするであろう、最後の戦いが始まる。
「かかって来い! てめえらの強さを食わせろ!!」
「行きます!!」
地を震わせるほどのディルエラの咆哮が、上天の雲をも突き抜けん勢いで轟いた。コズニック山脈のすべてにも届くとも思えるほどのそれを開戦の合図に、ルーネとクロムが同時に地を蹴った。




