第238話 ~胡蝶の夢④ 目覚め~
この日、シリカは訓練場に足を踏み入れるのが怖かった。野盗団の制圧を完遂し、報告書を書き上げ、皆が寝静まるような時間帯になって、自室を抜け出して。日中のことなんてすっかり頭から抜け落ちて、出会いの訓練場の扉の前、シリカは大きく深呼吸している。今は扉の向こうにいるであろう彼のことで、頭がいっぱいなのだ。
二週間近く前に持ちかけた提案は、シリカにとってもそう重い気持ちで言ったものではなかった。自分目線、隊の年下の後輩に負けるような奴じゃないはずとは確信できたし、弱い自分であるとすっかり自信を失ったユースに、ちょっと変わるきっかけを与えたかっただけなのだ。実際あの翌日、心機一転、27人中17人を打ち倒したことに始まり、自信を取り返したユースが日を追うごとに星を取って報告してくれる姿に、シリカは嬉しくて仕方なかった。相応の実力を持つ人が、形に出来ずに塞ぎ込んでいた今までが、一新されていく実感があったから。
シリカとしては、それで充分だった。約束したとは言ったって、一つ年上の先輩だとか、同期にして隊の次代のエース筆頭相手に、期間内に一本取れなくても、それを責めるつもりなんて微塵も無い。ユースに対し、明日にでも実戦で使える兵になれると認識したとはいえ、見習い騎士の中にはそんな奴も珍しくない。ラヴォアスの小隊で揉まれた連中なんて特にだ。いくらユースの歳月が積み上げた実力に太鼓判を押せても、それで周りに勝てるとは限らない。今までの燻っていた時期を乗り越え、自信さえ取り戻せる形になってくれれば、それでよかったのだ。
昨夜、期間内に約束を果たせなかったことを伝えるユースの顔を見て、シリカは凍りつく一歩手前だった。咄嗟に作り話であと一日の猶予を作ってしまったが、思いつきでそうせずにはいられないくらい、ユースが"約束"を重く受け取っていることがわかってしまったから。シリカとユースの間にあった熱の差。完遂できなくても自分に満足できるだけの形であればいいと思っていたシリカと、何がなんでも約束を果たすんだと執心したユースの隔たりに、昨日やっとシリカは気付けたのだ。
この扉の向こうで待つユースは、きっと嘘をつかず、果たせたかどうかを伝えてくるだろう。出来たか、出来なかったか。一方ならばハッピーエンドだが、もう一方だったらどうしようと、シリカはここに来るまでずっと考えていた。約束を果たせなかったことを思い詰め、大へこみするような子だったら、軽々しくあんな約束を結んだ自分のことが罪深くすら感じるからだ。そして、あの子はそういう自責の仕方をやりかねない子だと思うから。
深呼吸一度、普段と変わらぬ顔を作ったシリカは、訓練場の扉を開いた。その向こう側、月光に照らされ木剣を素振りする彼の姿から、約束の成否は読み取れない。扉が開かれた音とともにシリカに気付いたユースが、手を降ろしてシリカに振り返る。
「シリカさん……」
「……どうだった?」
良くない方の結果であっても、いいさ構わないよと笑って流す心積もりを作り、シリカがユースに歩み寄る。近付く中で、ふいっとユースが目線を落としかけた瞬間、ちょっと悪い予感を感じたが、結論を聞くまでシリカは察していないふりを貫く。
「一人、勝てませんでした」
「……そうか」
この日のユースは強かった。何としても今日だけは負けてたまるかという想いは、ずっと小隊の最前線を張ってきた先輩から、はっきり一本取る形を勝ち取ったのだ。ラヴォアスという唯一の師の下、剛の剣を学び続けてきた先輩と、ここ短期間でもシリカの柔の剣に肌で触れてきたユース。もしかしたら、僅かでもその学んできたものの差が、本来あったかもしれない力の差も埋めてくれたのかもしれない。
だが、同期のアイゼンも強かったのだ。ユースが先輩に下克上を果たした姿を見て、ユースがこの隊で一本を取っていない相手は自分だけになった。小隊内の革命を目の当たりにして嬉しかったのは、きっとアイゼンが一番そうだっただろう。だが、それに火をつけられたアイゼンの熱意は凄まじく、決意のもと過去最高の動きを為すユースに対し、決して劣らぬ剣を見せ示してきた。意地と意地がぶつかり合う、15歳の同期入隊者同士の頂上決戦は、今までのどの一騎打ちよりも長い根性比べだった。
先に先輩と接戦を繰り広げ、少しだけスタミナの消費が著しかったユースの方が不利だったのかもしれない。あるいは単純に、まだアイゼンの方が上だっただけなのかもしれない。そんな経緯もすべて後付け、残った結果は、ユースがアイゼンに一本取られて負けたというものだけだ。シリカと果たした、期間内に小隊の全員から一本を取るという約束を、一日の猶予を設けられてなおユースには果たすことができなかった。
「ま、まあその、なんだ……あまり気にしなくてもいいんだぞ? 約束とは言っても、その……」
本音だけ言い放つシリカに対し、ユースはあまり元気のない笑顔だったけど、ねぎらうシリカに小さくうなずいて返してくる。かえってシリカの目には、無理をして平静を保とうとするユースに見えて仕方がない。
「落ちこぼれなんて正しくないよ。これだけ出来るんだ。だから、これからは……」
「……わかってます。頑張ります」
ユースが一礼し、シリカに感謝の想いを述べる代わりに言った言葉。約束は果たせなかったけれど、確かにシリカが言ってくれたとおり、自分にも出来る力があると思えたのだ。先輩含め、同期のアイゼン以外の全員から一本取れる自分を鑑みて、それでも自分が落ちこぼれだと思うほどユースも腐ってはいない。単純に言葉どおり、駄目駄目な自分に塞ぎ込むようなことはせず、これからは自信を持って歩いていきますよ、という意思表明のつもりだった。
そんなユースの頭の後ろに手を回し、ぐいっと自分の胸元に抱き寄せるシリカの行動なんて、ユースからすればあまりにも不意打ちだ。胸当てを身につけたシリカの胸に優しく額を吸い寄せられ、ユースは目をぱちくりさせている。
「もういい、何も言わなくていいから。お前はよく頑張った。無茶を言ったのは私の方だ」
シリカからすると一礼したユースの動きが、目を伏せる動きに見えて仕方なかったのだろう。まして一度ユースが泣いているところを見たことがあるだけに、また泣き出すんじゃないかと推察し、泣くならばそれを見るまいとしたのも、ある意味シリカなりの気遣いだ。いや、泣いてないんですけど。
ユースと出会ったばかりのシリカ、二十歳を手前に迎えた彼女というのは本当に暑苦しい年頃である。別にそこまで落ち込んでるわけでもないユースを胸元に抱きしめ、頭を優しく撫でてくれるシリカの行動に、ユースもどうしたらいいのやら。胸当ては堅いのだが、その向こう側は豊満で柔らかいので、むにゅんと胸当てがシリカへと沈み込む感触を額に受けるユースは、それで頭がいっぱいになる。
しばらくそのまま、ユースの後頭部を撫でていたシリカが、ユースの頭を手放して、落ち着いたかと優しい顔で問いかけてくれた。最初から落ち着いてたんですけど、胸の感触のせいで今落ち着きませんとは、流石にユースも応えられない。
訓練場に腰を降ろして語らう二人の間で、ちょっとした今のすれ違いは解いておく。約束を果たせなかったのは悔しいけど、そんな思い詰めてるわけじゃないですよと。シリカさんに言われたとおり、自分を信じて挑戦してみてよかったし、それでちょっと自信もついたから明日からも頑張りますと。めちゃくちゃ普通の考え方で、ユースはその辺りを説明しておいた。
考えすぎで突っ走ってしまった自分の行動を、今さらようやく自覚したシリカが、うぐぅと額を押さえてうつむいたりして、ユースに見えない角度で顔を赤くしていたものだ。ユース目線でもよくわかる、気持ちが高じれば手が先に出るシリカの地の性格は、この頃は隠す相手もいないため、よく表面化していたものだった。後年は立場やら何やらで冷徹の仮面をかぶることの多くなるシリカだが、一足早くに彼女の内面を見ていたユースは、その後もこの日々の中で知ったシリカのことを忘れていない。
「ええと、まあ……自信が持てたなら、いいことだよ」
「シリカさんってけっこうアレですよね」
「どれだ」
「上手く言えないけど、あれです」
「ああ、うん、やっぱり上手く言わなくていいよ。知ってるつもりだから……」
苦笑するシリカの脳裏には、そんな自分をからかうクロムやマグニスの姿が思い浮かべられているのだろう。この性分を何度表に出し、二人に揶揄されてきたことやら。何度恥をかいても変えられない気質なのだから、もう本人も諦めかけているのだけど。
明日からは忙しくなり、こうしてここで会うことも出来なくなるであろうシリカとの最後の日。今までは顔を合わせるたび、約束の挑戦を果たすための特訓ばかりで、落ち着いて話すことよりそっちばかりが優先がちだった。最後の夜ぐらいは二人とも、剣ではなく口で語らいたいと思ったのか、この日はなんでもないような話を重ね、月明かりの下で笑い合うばかりだ。
「――来月からは私は昇格して、新しい隊の指揮官に就任することになるんだ」
「そうなんですか?」
「第14分隊という、たった3人の部隊なんだけどな」
昇格に伴い、指揮官を務める隊を新設されるというのはよくある話だ。たとえば騎士階級の者が上騎士に昇格し、分隊ないし小隊の隊長になるとか。今の話を聞いてユースが想像したのもそんな感じであり、まさか目の前のシリカが、今すでに高騎士で法騎士に昇格する数日前だなんて夢にも思っていない。
「もしも、だけど。君がよければ、見習い騎士を卒業した後、私の隊に来てくれないかなと思ってる」
それはユースにとって、嬉しい一方畏れ多くすらある言葉だった。たった二週間だけど導いてくれて、そのおかげで小さな小さな革命でも起こすことが出来たのだ。そんな先人に、一足早くの勧誘の言葉を向けて貰えたという事実だけで、ユースは目を輝かせてしまう。
「いいんですか?」
「うん、必ず歓迎する。今はまだまだだけど……きっと君は、もっと強くなれるはずだ」
4つ年下のユースに対しても、当時のシリカはあまり自分の弱さを隠さなかった。いきなり分隊の隊長に就任して不安なこと。そこで部下となる二人も、自分にとっては尊敬できる二人で、上手く引っ張っていけるか自信がないこと。そんな自分を支えてくれる人がいるなら、ひたむきに努力を重ねてきたであろうユースのような者が一番だと、はっきりこの場所でユースに話してくれた。
「君は15歳だったな。まだ先のことではあるけど、覚えていてくれたら……」
「絶対忘れません……! その時は、よろしくお願いします!」
先のことなんてわからない。ユースが17歳となる頃には、彼にシリカよりも敬える人が出来て、そちらに流れていっても変な話ではないのだ。それでも嬉しそうな顔で、シリカを追いかけていくと宣言してくれるユースの言葉が、この時のシリカにとってはたまらなく嬉しかった。
「頑張るんだぞ。つらいことがあっても、もうくじけるんじゃないぞ?」
「はいっ!」
たった二週間であった、ユースとシリカが初めて出会った日々は、こうして幕を閉じた。第14分隊の隊長として、あるいはラヴォアス小隊の生まれ変わった筆頭騎士として。それぞれの騎士人生に向けて旅立っていく二人は、力強く握り合う手を最後に、再び巡り会う暇での短い別れを告げ合った。
こうして昔の夢を見るのは久しぶりだ。過去を夢に見るときは、それが本当に経験した記憶を追いかけているだけのものにも関わらず、夢か現かわからない不可思議な感覚に包まれる。ユースにとって特別忘れられぬ、シリカとの初めての日々だったから、夢ではない本物の残影であるとわかるだけ。
あの後騎士団を駆け抜けた、史上最年少の法騎士が生まれたという一報。その法騎士様の名を聞いた時、ユースは我が耳を疑ったものだ。見習い騎士なんかの自分と気安く話していたあの人が、既にあの時高騎士の立場であり、しかも年明けと共に法騎士の地位に就くほどの人だったとか、普通に想像できるわけがない。シリカと会わなくなってから3日後、ぎりぎり年明け前にアイゼンから一本取り、少し遅れて約束の形を果たせたことも、そのニュースを聞いた時には頭から吹っ飛んでしまった。
シリカと接点を持つラヴォアスが、そのことをシリカに伝える機会があった。応える形でシリカがラヴォアスを通じ、ユースにねぎらいの言葉を向けてくれた時は、本当に嬉しかった。よく頑張った、そのまま絶対諦めず、もっと強い自分を目指すんだぞ。その言葉だけで、16歳のユースに、1年間遮二無二頑張り続けるモチベーションが沸いてきた。小隊内では最年長になり、アイゼン以外の敵なしで少しぐらい鼻が高くなってもいい時期なのに、怠けるどころか今まで以上に修練に明け暮れて。その向上心が隊全体に伝染するのだから、前年以上にラヴォアス小隊全体の、成長具合は著しかったものだ。
やがて見習い騎士を卒業したユースに、待ち焦がれていた第14分隊からの誘いは舞い込んだ。二十歳になったばかりの法騎士が隊長を務めるという、本来ならやや不安も生じるはずの部隊に、一切の迷いもなくユースは参入した。ラヴォアスやアイゼン、後輩達を離れ、新たに出会うクロムやマグニス。そして1年と少しの時を経て再会したシリカ。見習いの3文字を手放し、少騎士の階級を経た少年の騎士人生が、本当の意味でここから始まっていった。
確かにシリカは厳しかった。出会った頃の二週間の優しいシリカは、ある意味思い出を美化しすぎた、夢の中だけの彼女だったかなと思うぐらい。任務の無い日はしこたまぶちのめされ、体の痛みが治まる日は一日だってなかった。そこまで長くなかったユースの半生の中で、ラヴォアスよりもきつい上官なんていないと思っていたのが、あっさり塗り替えられてしまうほどにだ。
でも、厳しいのは剣の道が絡んだ時だけ。庭先の花壇に植える花の種を、一緒に買いに行く時なんか、たかだかどの花がいいかだけで随分時間をかけたりもした。田舎育ちで花には詳しかったユースが、何の花がどんなふうにいいかを話せば、シリカはすごく参考にしてくれたものだ。二人で買ったストックの花の種は、今も庭先で綺麗な花を咲かせている。ストックの花言葉の数々はどれも、今の平和がいつまでも続いて欲しいと願う、二人の想いを象徴するものだ。
シリカ、クロム、マグニス、ユース。4人の好きな食べ物が何であるかを各々がしっかり覚えていて、誕生日を迎えればその人の好きな食べ物が食卓に並んで。台所に立つのはいつもシリカだが、彼女の誕生日にはユースが代わりに夕食を作り、シリカの好物であるコーンスープを作ったりもした。クロムに教えを請い、練習して、シリカの一番好きな味を作って喜ばせた時のことは今でも忘れられない。そのしばらく後、ユースの誕生日にシリカが作ってくれた山菜のパスタは、薄い塩味に僅かなチーズをまぶしたユース好みの味付けだったりと、何につけても4人の暮らしの思い出には捨てるところがない。すべては歳月の中で繋がっている。
見習い騎士時代に先輩の立場に立ったことのあるユースだから、誰かの上に立つことが大変なことであるのは知っている。下に情けない姿を見せれば、導くことも出来なくなる。甘い顔ばかりしていたら未熟な後輩が、このままでいいんだと誤認するかもしれない。見習い騎士のユースの隣にはアイゼンという、厳しい教え方も優しい教え方も並立できる最年長がいたし、誰より厳しいラヴォアスがいたから、ユースは後輩に対して強い当たり方をする必要はなかった。だからこそ、そうした厳しさを為す誰かがいることの意味も、第三者の目線でユースは知っている。
何年も一緒にいたら、シリカが出来上がった人でないことなんかユースにだってわかる。想い高じて前のめりになることだって多いし、騎士人生に懸けすぎて浮世離れしたところもある。シリカと初めて一緒に歩いた創騎祭、武装していないシリカをただの街娘だと思った男達が声をかけてきて、シリカがおろおろした目をユースに向けてきたこともある。笑っちゃ悪いのだけど、助けを請うようなその目線に、ユースはちょっと笑っちゃったりもした。その後しばらく、ちょっとシリカがむくれてしまったが。
ユースに出会う前のシリカが、最も近しく親友だと称していたのはクロムとマグニスだ。だから第14分隊が発足された時、二人はシリカと同じ隊に配属された。ある意味で3人だけの特別な集まりですらあった、第14分隊に遅れて参じたユースは、敬愛する人達に混ざれたのが嬉しいのか、ずっと3人の後をついてきた。強いだけでなく優しいクロム、だらしなく見えて確かな芯を持つマグニス、暗い時代を抜け出すきっかけをくれた、誰よりも信頼してやまないシリカ。敬愛の眼差しで迷わずついてくる後輩の姿って、3人にとってどれだけ可愛い奴だっただろう。
そんなユースの気持ちに応えるように、ユースからでもわかるぐらい、シリカはユースとの時間を大切にしてくれた。後輩をしごく訓練の時間は別にしたっていい。家の飾りを買いに行く時も、騎士館に話をうかがいに行く時も、ちゃんとわざわざユースに声をかけてくれる。クロムやマグニスに聞けばいいような人生相談だって、時々ユースに持ちかけてくる。色気がないと言われるがユースはどう思うかとか、昨日の自分の商人様への態度はどうだったかとか、おおよそ後輩に聞くなよと言えるような問いを、大真面目な顔で聞いてくる。その都度ユースも彼女の望む答えを返せたかどうか自信がなかったけれど、胸の内をさらけ出してくれるシリカの態度がなんだか嬉しかった覚えはある。突っ張って、強い自分の姿だけ作ろうとするような人じゃないから、今でもユースは軽い口でシリカと接することが出来る。少騎士が気兼ねなく話せる法騎士様なんて、縦社会育ちのユースにして普通そうそうあるものじゃない。
ラエルカン奪還作戦の5日前、ユースはシリカに真剣勝負を申し立てられた。勝てばなんでも言うことを聞く、そう約束されてだ。あの時、結局勝つことは出来なくて、やっぱり自分はここ一番で、ちょっと至れないタイプなのかなとへこみかけたりもした。シリカと約束したのはいいが、あと少しのところで全員から一本を取れなかった、15歳の冬の時のように。
でも、ちょっとだけ安心した想いもあった。後輩としてじゃなく、弟のように可愛がる目で見るんじゃなく、一人の男としてちゃんと見て下さいと、勝てば言うつもりだったのだ。何でも言うことを聞いてくれるって言ったんだから。いざ勝てても、それが言えただろうか。負けてほっとするなんて、別の意味で意気地がない自分をどうかとも思ったけど、きっとまだ早いんだとユースは思うことにした。しっかり力を培って、やがて本当の意味でシリカを超えることが出来るなら、それはその時でいいはずだって。決してそれはその場凌ぎの納得ではなく、元よりある目標を忘れず前に進んでいくための、若き勇士の新しく塗り替えられた決意でしかない。
自らの半生を過去から順に追いかけた、走馬灯のような過去の残影の数々。それが途絶えた時、そこにあるのは現在だろうか。記憶の投射が失われた闇の中、光が差すような不思議な目の前の光景。死に物狂いで戦い抜いた最後の記憶、シリカと共に獄獣ディルエラと戦ったあの時が、自分の人生の終幕か。そんなはずない。そんなことでいいはずがない。まだまだやり残したことが沢山ある。果たせないままのことが山ほどある。
目を開くとしたら今だ。若き体がバラバラになりそうな死闘を乗り越えた彼の体、その死を望まない精神は、そしてその精神を肉体に訴えかける魂は、まだ滅してなんかいない。永遠の眠りなんてまだ嫌だ、そんな彼の眼がゆっくり開いた時、過去から繋がる現在と未来の日々が再び始まっていく。
「あっ……」
目を開けたユースのことにいち早く気付いたのは、同じ医療部屋で、隣のベッドに身を預けていたアルミナだ。長く眠っていた彼が目を開け、体を起こそうと頭を動かした瞬間が、動く者の少ない静かな病室で、アルミナの視界内ではよく目立った。
アルミナから見てユースを挟んだ向こう側、二つ隣のベッドで体を起こせないシリカの体を拭いていたキャルが、アルミナの声に反応して振り向く。彼女の目線は一度まっすぐアルミナに向いたが、視界内でユースが目を開けていることに気付いたキャルは、思わず目の焦点を二度ユースに合わせる。目の動きだけで二度見してしまうほど、待って待って待ち焦がれたユースの目覚めだったのだ。
「ユース……!」
シリカから手を離し、慌ててこちらに向かってくるキャルを、顔だけ回してユースは見定める。つい体を起こそうとしたのだが、打ちのめされた体へのダメージはあまりにも大きく、腹筋に力を入れるだけで全身を駆け巡った痛みでユースはうめいてしまう。
「っ……つ……!?」
「無理しないで……からだ、ひどいんだから……」
ユースの両肩に優しく手を添え、起きるなと制するキャルの声は、行動の必死さとは裏腹に優しいものだ。自分よりも年下、下手をすれば妹のようにも見える小さな体のキャルの顔が、動けずに下から見上げると母のようにも見える不思議。それぐらい、ユースの生存が確定した今ここになり、涙目の笑顔で見下ろしてくれる彼女の顔は優しい。
状況がわからないユースに、キャルは成り行きをすべて話してくれた。第14小隊のみんなは全員生還したこと。しかしその中で一番傷のひどかったユースとアルミナ、シリカはエレム王国騎士団の本拠地、騎士館の医療所に担ぎ込まれたこと。特に、大精霊や妖精の加護なしに霊魂を酷使し、体も限界を迎えていたユースの昏睡が長く、あのラエルカン戦役から3日経ってからの、ようやくの目覚めだったこと。目覚めぬユースに、騎士館の顧問魔法使い達が回復を促す魔法をかけ、放置すれば衰弱して死ぬだけだったユース達の命を繋いでくれていたこと。
そして、獄獣ディルエラを退けたこと。ユースよりもやや早く目覚めていたアルミナの記憶していた、誇るべき勝利を耳にしたユースは、今にして思えば信じられないという顔をせずにいられない。
「……夢じゃ、なかったんだ」
「うん……ユースも、アルミナも、シリカさんも、勝ったんだよ……」
体は動かない。今でも軋む体の痛みが顔に出る。起きられないままだけど、キャルが聞かせてくれた勝利報告を耳にして、ユースはほうと安堵の息をつく。
「いたたた……お疲れ様、ユース」
「あっ、ちょ……アルミナ、寝てなきゃ……」
「へへ、ちょっとぐらいいでしょ」
重そうな体を引きずってベッドから降りたアルミナが、ユースへ歩み寄っていく。キャルが静止するとおり、アルミナの体も相当に痛めつけられているのだ。雨上がりの泥まみれの地面に、何度も自ら体を叩きつけた彼女は、今も右肩が上がらないというのが見てとれる。左脚を引きずって歩くのは、挫いたとかそういう具体的な怪我抜きにして、体じゅうが痛いせいでバランスが取りきれないのだろう。
ユースのベッドまで辿り着いたアルミナは、膝をついてユースのベッドに腕と顔を乗せ、ぶら下がるような形でユースの顔を覗き込む。何をするかと思ったら、ユースの額をその手で撫で、にひひと笑ってくるだけだ。お前は俺のお姉ちゃんか何かかと。
「ホントかっこよかったわよ、あんた。頼もしかった」
「なんかそれ、やめてくれないかなぁ」
「だって嬉しいんだもん。またあんたとお話できてさ」
ちょっと目を潤ませて笑いかけてくるアルミナの、ここしばらくの寂しさをユースは知らない。先に目を覚ましたアルミナは、ずっと目覚めないユースやシリカを眺めることしか出来なかったのだから。医療所の人やキャルは、二人の一命が既に取りとめられていることも話してくれたが、もしかしたらユースやシリカが、二度と目を覚まさなかったらどうしようと思うこともあった。人がいなくなり、何の音もなくなったこの部屋で、自分の呼吸音だけ聞こえて、二人の息をする音も聞こえない深夜帯、アルミナはどれだけ不安だっただろう。
目を覚ましたユースのことを、一番近くで実感するアルミナの、心からほっとした笑顔。泣き虫のキャルほどではないにせよ、片目をこするアルミナの仕草が、自分をどれだけ案じてくれていたのかユースにもよく伝わる。同い年のアルミナに額を撫でられるのは変な気分でしかないが、掌を介して伝わる人肌のぬくもりは、生きて再び仲間達と顔を合わせられた幸せをユースに実感させてくれる。
「……お疲れ様」
アルミナとは反対側の方向から、ユースに向けられた声。首だけ回して振り返ったユースの目の前には、彼と同じくベッドから起き上がれないであろう彼女の姿がある。
「シリカさん……」
「よく、頑張ってくれたな。本当に、助けられたよ」
夢の中で今しがた見てきた、遠き日のシリカと同じ柔らかな笑顔。別にシリカは変わったわけじゃない。戦人の仮面を身につけてきた彼女の素顔が、ああした優しさに溢れたものであることを、ユースは何年もの付き合いから知っている。
だから、尚更帰ってきた実感が沸くのだ。戦場ではない場所でなら、当たり前のように出会えるシリカの顔。生きてまた再会する実感を得るために必要なものは、肌を合わせることだけとは限らないのだから。
互いにどんな言葉をその後に繋げようか迷っている間に、ユースのお腹がきゅるりと鳴った。アルミナはぷふっと吹き出し、シリカやキャルがくすくすと笑う中、一人だけユースは赤くなった顔を隠すことも出来ない。腕を動かすのも億劫なのだから。シリカから逸らした顔を天井に向けたところで、アルミナがにまにまして横から見つめている。
「何か、ご飯持ってくるね」
「あ、うん……お願いする……」
「あ、ちょっと……キャル、待ってくれ」
ユースのそばを離れ、部屋を出ようとしたキャルを、慌ててシリカが呼び止めた。振り返ったキャルは一瞬きょとんとしたが、何かを思い出したかのようにシリカの方へと歩いていく。
「ご、ごめんなさい、シリカさ……」
「ま、待て待て、ちょっと待て……ユース、向こう向いてろ」
毛布にくるまったシリカが、それを持ち上げようとしたキャルに抵抗しながら、ユースにそんな言葉を向けてくる。くすくす笑いながらアルミナがユースの頭に手を伸ばし、ぐいっと自分の方を向かせる。
「いて、っ……!? な、何す……」
「いーからいーから、じっとしてなさい」
ユースが目覚めたのを見て、慌てて毛布の下に体を隠したシリカだが、さっきまでキャルに体を拭いてもらっていた彼女は、人前に見せられる格好ではない。そしてシリカは自分で動くのが難しいのだが、はだけた衣服を整えて貰うのもキャルに助けて貰わなきゃいけない。キャルがユースの食事を持ってくるまでの間、汗の滲んだ素肌を毛布に擦らせて待つのは、シリカも嫌だろう。
「ユース、絶対にこっち向くなよ。絶対だぞ」
「あ、はい……なんとなくわかりました……」
静かな一室で、衣服と人肌が擦れ合う音は妙によく聞こえる。シリカが強い声で訴えかけるとおり、振り向かないだけでなく目を閉じるユース。そんなユースが、意味もなく口をきゅっと絞る様子を見ると、アルミナもにまにました笑いが止まらない。
「すけべ」
「うるさいっ……」
別にこうしてからかわれること自体が楽しいわけじゃない。だけど今は、こうして当たり前の会話を交わせること自体が嬉しい。顔を赤くしたユースは、目を閉じたまま拗ねたような顔を浮かべるが、その内心に息づく安らぎを感じ取れるのか、アルミナもユースの視界外で幸せそうに笑っている。
エレム王国第14小隊。ラヴォアスに導かれていた5年間も、今にして思えば満ち溢れていたはずだ。実質以上に美化されがちな過去に勝り、今こそが一番幸せな場所にいると実感できる幸福は、何にも勝って代えがたい。




