第235話 ~胡蝶の夢① 見習い騎士ユーステット~
20年前といえば、魔王マーディスが旧ラエルカンを占拠していた時代だ。皇国ラエルカンの首都が魔王に滅ぼされてから、6年の月日が過ぎたこの年は既に、ラエルカン地方の殆どの町村が、魔王軍の侵略によって滅ぼされていた頃である。
広大な旧ラエルカンの領土、ラエルカン地方全体が魔王軍に属する魔物の巣窟となっていたこの時代、西に隣するエレム王国の緊張感は生半可なものではなかった。ラエルカン首都とエレム王都を結ぶ直線上には城砦都市と呼べるものも多く、魔王軍によるエレム王都への真っ直ぐな侵略はそう簡単に許さなかったが、それ以外の地方町村の守りはどうしても、比較的薄くなる。特にエレム王国は、魔王マーディス本来の本拠地コズニック山脈を南にも抱える国であり、その南と、ラエルカンありし東の防衛に力を注ぐことが最も重要視されていた。
エレム王国領土内、最北東に位置するテネメールの村は、危険な魔物だらけのラエルカン地方に隣する、旧東国との国境に近しく王都から遠き田舎村。魔王軍の領土と化した旧ラエルカン地方に近しきこの村は、危機的な位置に立つ人里でありながら、主要防衛拠点に兵力を注がざるを得ない騎士団の使命も相まって、守りがどうしても希薄になりがちな場所だ。国民の安寧を守らんとする騎士団の配慮により、常に優秀な騎士が派遣されてはいたものの、敵の勢力が一極集中してここを攻め落とそうとすれば、崩れて滅ぶのも充分予想できた実状があった。のどかで緑あふれる村の風景とは遥か異なり、この時代にこの村に過ごした村人の心には、いつ魔物達の侵略で故郷を失ってもおかしくないという不安が、他の町村よりも濃く脈づいていた。
そんな時代、テネメールの村で生まれた一人の幼子がいる。戦乱の世、田舎村の片隅で生まれた平凡な少年は、ユーステット=クロニクスと名付けられた。
彼は同じ年頃の男の子達に比べ、あまり騎士様に憧れを抱くような子供ではなかった。どちらかと言えば童話などを好んで読むおとなしい子供であり、小さな商店を営む母の影響もあってか、指を使った算数がちっちゃな子供の頃から出来ていたタイプだった。友達と一緒に騎士ごっこをすることもあったが、英雄に憧れる周りの子供達とは違い、その遊びの中で主役になろうとするようなタイプではなかった。
そのまま育てば商人か、あるいは役所勤めの血とは無縁の暮らしを営む大人に育っていたであろうユースの転機は、彼が5歳の頃に訪れた。この年は、人里侵攻に乗り出す魔物達の勢いが非常に活性化した年であり、この1年は後の歴史でも、エレム王国に血の雨が注いだ一年と呼ばれている。ラエルカンを占拠して10年余りを過ぎた魔王が、隣するエレムの完全制圧を目指し、侵略戦争を一気に仕掛け続けた年だったのだ。エレム王国領土内、ニジェーヌという村が百獣軍によって壊滅し、アルミナという少女が両親を失ったのもこの年だった。
ラエルカン首都からエレム王都の方面へ攻め込む本筋とは、大きくはずれているテネメールの村。しかしエレムと旧ラエルカンの国境近くであるこの村へ、比較的規模の大きい魔物の軍勢が踏み込んできた。重要防衛線ほどではないにせよ、厚く固められた騎士団員と、魔法都市ダニームの魔法使い達で構成された連合軍。しかし野外戦を経た末に押し切られた防衛部隊は、戦場をテネメールの村に移さざるを得なかった。安全な場所などどこにもない戦場、戦う力の無い人々は防衛軍の指示のもと、逃げ惑う形を余儀なくされる。
我が子の手を引き必死で駆けるナイアは、ユースの息が切れ始めたと見るや、抱き上げて走りだす。一児の母には過酷と言えるほど苦しいことだ。振り返る余裕もないナイアの胸に抱かれていたユースは、母の肩の上に顔を出す形で、自分たちに後方から迫る魔物の姿を見ていた。騎士団に属する屈強な騎士や傭兵、大柄な大人を上回る巨体のオーガが追いかけてくる姿は、5歳の子供にとって恐ろしい光景。
そのオーガが棍棒を振り上げ、全力でナイアの背中目がけてぶん投げてきた瞬間、幼きユースも思わず大声をあげてしまったものだ。我が子の悲鳴、言い知れぬ悪寒、思わず振り返ったナイアの目に映ったのは、一人の騎士の後ろ姿。巨人の魔物の腕力で投げつけられた、ずっしりとした大きな棍棒を、ナイアとオーガの間に割り込んだ騎士が、我が手に輝く大盾ではじき飛ばしたのだ。
早く行け、という切羽詰った騎士の声を受け、再び走りだすナイア。母に抱かれたユースの目には、オーガに立ち向かう騎士の姿が映っていた。逃げる母の動きに合わせて遠のいていく、オーガと交戦する騎士様の後ろ姿。その戦いの結末はユースも知らない。ただ、身を呈して自分達を守ってくれた騎士様の姿は、幼き少年の心に深く焼き付けられた。
やがて村を襲撃した魔物達の掃伐も果たされ、なんとかテネメールの村は地図上から名を消さずに済んだ。翌日からの大人達は、村の復興と怪我人の治療で大忙しだ。しかしあの日、母の腕の中に守られるだけだった幼い子供の脳裏に残ったのは、自分達を守ってくれた強い騎士様の姿。焼け落ちた家屋より、血の沁みた土や池より、ユースの心に刻み付けられた騎士様の後ろ姿は濃いものだった。
魔物達がいなくなり、ようやく我が家に帰り着いたナイアに、彼女の一人息子が騎士になりたいと口にした。少年は憧れたのだ。怖がるばかりだった自分を守ってくれた、強くて立派な騎士様の後ろ姿に。ユースが物心つく前から、すでに夫を病で亡くしていたナイアにとって、ユースはあの人が遺してくれた唯一の忘れ形見だ。ただでさえ戦乱の世、騎士様の殉死がすぐそばに繰り返されるこの世相、唐突に騎士を夢見た我が子の言葉に、ナイアはどんな胸中だっただろう。
一人息子が初めて口にした明確な夢を、ナイアは一切否定しなかった。決して裕福でもない家計の中から、村の剣術道場にユースを預けるためのお金を捻出し、通うことも許してくれた。飽きて引き返すか、痛みを伴うであろう修練を超えて前に進むか。正直、挫けて剣の道を諦め、戦人としての人生から遠ざかるユースでいた方が、ナイアにとっては嬉しかったのではないだろうか。
素直で勉強家寄りの育ちをしていたユースは、母の想像を遥かに超え、剣術道場での毎日を大切にした。一度だって寝坊や遅刻をしたことはないし、道場で教わったことを家に帰ってから復習したりと、彼の時間の使い方は一気に剣の道へと偏った。夕食を食べながら、あの日自分達を守ってくれた、盾の騎士様の勇姿を目指す夢を語るユースの眼は輝いていた。周りの母親経験者から聞いていたことだが、子供というのは本当に、しばしば親の想定を超えた道に進んでいくものだ。大人になれば商人が似合いそうなユースのこれまでを見ていたナイアにとって、ユースの姿は、子供は親のものではないということを強く実感するのに充分なものだった。
あの日ユース達を守ってくれた騎士様に、あれ以来ユースは一度も再会できていない。戦死したのか、あるいは医療所に担ぎ込まれた後、本国に帰還してしまったのか。憧れの人に会いたいと考えることさえせず、毎日のように剣術を極めようとするユースは、1年も経つ頃には子供用の木剣が手に馴染むほど、腕前を形にしていた。ちょうど彼が6歳の頃、法騎士ベルセリウスが魔王軍の将格にあたる巨人、ウルリクルミを討伐して聖騎士に昇格したこと話も、エレム王国に知れ渡る。ユースにとって、初めて名を覚えた高名な騎士様が、他の誰よりベルセリウスであったのは、そうした巡り会わせもあった。
剣術道場に通っていると、王都の騎士団をみんなで訪れようという機会も作ってくれたりするものだ。初めて王都で見た騎士様は誰もが立派に見え、騎士様を目指すユースの想いは歳月とともに強くなる。その際、若き芽にものを教えるのが好きな上騎士ラヴォアスに、軽く指南して貰える機会もあった。元から基礎練習を素直に怠ってこなかったユースは、テネメール剣術道場の他の子供達と比べて最も、基礎のよく出来た子だとラヴォアスにも映る。若いうちはそれでいい。ラヴォアスにその時言ってもらえた、基礎練習を大事にする自分を大事にしなさい、という教えを、その後もユースは遵守し続ける。
騎士見習いとして騎士団に入門できるのは12歳からだ。その前の最年長、11歳の頃のユースというのは、剣術道場の中では負け知らずの強さだった。他の誰より自在に木剣を操れる手腕がしっかりと育まれていたし、まぐれ負けを許さない安定した手腕を確立していたものだ。剣術道場の師範はユースの才覚をはっきりと肯定し、ユースの未来を相談しに来たナイアに、騎士を本気で志すに値する器だと断言した。それを聞いた夜のナイアが、複雑な想いに駆られて悩んだのも想像に難くない。この頃には既に、魔王マーディスの討伐が果たされていていたが、戦人の道を進む一人息子が心配になるのは、極めて当然のこと。
12歳の誕生日を迎えたユースが、改めて意を決し、騎士団に入隊したいと母に告げる。その日が訪れるまでに結論を導き、我が子がそう言ったときにはすべての迷いを捨て、笑顔で肯定しようとあらかじめ決めていた母の強さは目立たない。頑張りなさいね、と優しく背中を押してくれた母の言葉は、ユースにとってどれだけ支えになっただろう。故郷を旅立つユースの胸が、希望でいっぱいで不安などなかったのは、間違いなくそんなお母さんがいてくれたからだ。
王都に上がり、母とともに騎士館の門を叩いた12歳の少年。夢への第一歩が本当の意味で始まったこの時のことを、片時たりとも忘れたことはない。ユースもそうだし、ナイアもそうだ。
村一番の才覚溢れる少年と称されたユースは、上騎士ラヴォアスが指導官を務める小隊に、見習い騎士として配属される。幼い子供というものは、年上に対する礼儀が欠けていたりして当たり前だったりもするのだが、剣術道場や母のしつけがしっかりしていたユースは、ちゃんと敬語も上手に使う、出来た新人だった。どんなものかなとラヴォアスの前に披露した剣術も、面白味に乏しいぐらい、基礎に重きを置いた堅実なもの。初日でユースのことを、素直で真面目な子なんだなと認識できたのは、彼を初めて見た全員に共通する想いである。
ただ、やはり田舎村の一番星と言っても、いざ最年少の見習い騎士として騎士団に入隊し、その中で目立てるほどユースも秀才ではなかった。特に上騎士ラヴォアスは指導者として非常に厳しく、彼の元で鍛えられる見習い騎士というのは、だいたい1年もたずにやめていくか、他の教官に教えて欲しいと別の指導者に流れていくのが殆ど。小隊というのは30名以下が原則なので、隊員が上限値に達すれば新規加入者は入れないのだが、ラヴォアスの小隊は一度も上限値に達したことがない。それだけみんな、配属されるときつ過ぎてやめてしまう、厳しい厳しい上官だったのだ。
そんなラヴォアスの元で1年以上頑張れた見習い騎士というのは、師の的確な指導を吸収するだけの素養と、めげない根性を持った子供達ばかりなのだ。1年先輩の見習い騎士に、ユースがこてんぱんにやられた、騎士団入り3日目のことは、なかなかユースにとってきつい挫折だったかもしれない。故郷では負け知らずだった少年が、王都に上がれば手も足も出ずにやられると、幼いプライドにかなり傷がつく。まあ、そうした挫折をみんな経験してなおやめなかった子供達だから、ラヴォアスの小隊に残った騎士達は強いのだけど。
何度かくじけそうになることがあっても、ユースの支えであり続けてくれたのは、ユースよりも半月ぐらい早くに騎士団入りした、アイゼンとの仲が良くなれたことも理由かもしれない。二人とも、12歳の頃には先輩に、鬼教官ラヴォアスに、毎日毎日ぼこぼこにやられたものだ。同い年の同期が次々と小隊を去っていく中、折れない心を持つ友人がそばにいると、自分だけ去るのはなんだか嫌、という意地も出る。
今はこんなだけど、しっかり腕を磨いていけば、上に追いつき下を導ける立場になっていける。12歳で下を導くことを意識する発想が出ること自体、お人好しな性格が出ている気もするが、ともかくユースはそう信じてやってきた。騎士団入りして1年経ちかけたその頃、親友アイゼンとの一騎打ちで敗れ、一番負けたくないライバルの下の立場になったことは悔しかったけど、それすらもこの時は、次につなげていくバネになっていた。
ユースの心に暗雲が立ち込め始めたのはその少し後だ。ユースが13歳になった春、12歳の見習い騎士が、ラヴォアスの小隊に入門してくる。ラヴォアスの方針で、新人の相手をするのが一つ年上のユースということになったのだが、この一騎打ちでユースが負けてしまったことは、彼の心に相当に不安な想いを落とすことになる。曲がりなりにも一年やってきて、昔先輩に勝てなかった自分の姿とは真逆、新しく入ってきた年下の見習い騎士に負けたことは、ユースにとってショックな出来事だ。
めげずに修練に打ち込むユースだが、成長の早い周りの速度に差をつけるどころか、ゆっくりと置き去りにされていくようなあの感じは、毎日味わっていると、真綿で首を絞められるかのようだ。人より努力しないと人より強くなれない、さりとて、人より努力したからって人より強くなれるとは限らない? そんな疑念を必死で頭から振り払うも、歳月とともにユースの不安は大きくなる。先輩は強い、唯一の同期であるアイゼンも強い、そして後輩も強い。自分と手合わせする後輩の眼が、すでに超えた自分よりも強い先輩、たとえばアイゼンと訓練する方がいいと考えてるんじゃ、と感じるユースの後ろ向きは、焦りと合わせて不自然でもなんでもない。
ラヴォアスの小隊は個々の能力高さも認められ、若くして魔物の討伐に派遣される形で、実戦特訓を積む形もよく取られた。その都度、築き上げた実力でジャッカルなどの魔物を討つ後輩に比べ、戦果の一つも上げられないユースの気後れは凄まじかった。1年目ならまだいい、そんなものでも。2年目でなおそんな自分を痛感するにつれ、ユースの自信はどんどん喪失されていく。
実はこの頃から僅かに表面化しつつあったのだが、元々ユースの憧れる騎士様像というのは、先陣切って魔物を打ち倒す勇猛なそれではなく、そばに立つ仲間が傷つかない勝利を作る戦士なのだ。テネメールの村で騎士様に助けられた時にすり込まれた理想像は、意識的にでも無意識的にでも、前衛になかなか出ようとせず、友軍を攻め滅ぼそうとする側面の魔物への対処へとユースを突き動かす。やってやるぞと意気込んで、前に前に飛び出す同士に比べ、功績が上がらないのは自然なことなのだ。
ユースが憧れる騎士様がベルセリウスだと聞いていたラヴォアスも、気付くのがかなり遅れてしまっていたのだが、思えばこの頃から既に、中衛志向のユースのスタンスは固まっていたのかもしれない。普通ベルセリウス様に憧れる少年と言えば、彼が最近になって上げ始めた破竹の功績に憧れるものだという一般的な推測が、思いっきりノイズになっていた。
やや遅れて気付いたラヴォアスも、夜遅くまでユースと話し込み、そうした騎士像を目指すユースの道を肯定する時間を作る。たとえ戦果を上げられなくともいいとし、犠牲少なく勝利を手にすることを目指せる戦士なんて、貴重とさえ言える立派な志だ。一方で、結果を上げられないことを気にしているであろうユースに、その言葉まっすぐでものを言ったら、繊細な彼の心に追い討ちをかけかねないから、言葉の選び方は慎重に。そのまま頑張れ、絶対にやめるな、必ずお前は立派な騎士になれる。結果的に具体性を欠いた言葉でユースを励ますことしか出来ないのが、ラヴォアスにとっても歯がゆかったが、長く上手くいかず、心の折れかけたユースにとって、少なからずその言葉は救いになっていただろう。
ユースに限ったことではなく、自覚するほど厳しい指導のラヴォアスの下、やめずにしっかりその腕を磨ける見習い騎士なんて、愛着抜きにして才覚には恵まれているのだ。どんなに強い戦士だって、長い人生の中で、必ず大きな壁にぶち当たる時が来る。その時に折れない強き心を培うという意味で、ラヴォアスという騎士の下で修練を積むことは、他の誰に騎士道を学ぶより育まれる。先輩に勝てない、後輩に見下されてるような気がする、そんな挫折だらけの毎日を歩みながらも、断固この小隊を離れなかったユース。まして誰より早起きして、自主鍛錬の量も小隊内最大だったユースに対し、ラヴォアスは辞めて欲しくないと切に願っていた。個人贔屓はしない、だけどユースが騎士としての道を諦めないよう、ラヴォアスも毎日が必死だった。たった30人以下の見習い騎士達、みんな可愛い。ユースだってその一人。
15歳の見習い騎士にとって、後年のユースのように、仲間を守る力に特化するような戦い方をしっかり形にすることはまず無理がある。もっと歳月がかかるものだ。それだけ中衛というのは仕事が多く、幼いうちには為せない立ち位置なのだ。だけどユースはそういう自分をつい目指してしまう。攻撃性に富む、ラヴォアスの小隊に属する見習い騎士に比べ、勝負の決め手となる力が比較的培われない。
15歳の夏、この小隊に入って僅か半年の13歳の新人に、苦戦しまくった末の辛勝を得たユースが、胸を張って自分の成長を主張できるだろうか。先輩お手合わせありがとうございましたと言ってくる2つ下の後輩に、息を切らして力の無い笑顔を返すユースには、ラヴォアスもまずいと感じたものである。その晩、3年間で積み重ねてきたものは無駄なんかじゃないぞと力説したラヴォアスの言葉も、ユースの胸にちゃんと届いていたか怪しいものである。
騎士団全体の見習い騎士を見渡せば、他の小隊の見習い騎士のもとで修練を積む若い奴らより、ユースの方が総合的に上なのは見えきっていることだ。だからラヴォアスも一度、精一杯言葉を選んだ上でユースに、他の教官の元で教えて貰うかと問うたこともある。ラヴォアスの小隊では下から数えた方が早いユースでも、よそに行けば上半分には食い込むだけの力があったから。万に一つもこの提案が、見込みないからよそへ行け、と捉えられないよう、山ほど前置きしてラヴォアスも語りかけたものである。
残念なぐらい真っ直ぐなユースが、厳しくても自分のことをよく案じてくれたラヴォアスのことが好きで、この小隊を離れたくないと言い返すのだ。厳しさに疎まれることの多い鬼教官にとって、目頭が熱くなるような主張だ。だからラヴォアスは、ユースに約束を持ちかけた。自分の小隊に属し続けるなら、必ず騎士見習い卒業の17歳まで、絶対に辞めるなと。その1年半で、必ずお前を立派な騎士に育ててみせるからと。差し出された手を力強く握り返し、約束してくれたユースの姿には、何十年も名指導者として生きてきた老兵さえ、まだまだ頑張っていかなければと再決意せずにいられなかった。
その約束がなかったら、ユースはあの日まで騎士をやめずに続けられただろうか。15歳の秋、親友のアイゼンはとっくに最年長の16歳の先輩と、互角ないし勝らんという実力を手にしている。そんな彼が、力を形に出来ないユースのことを、見下しもせずに対等に接してくれる目線さえ、嬉しくありつつ痛く感じて気後れすらする。息が上がるほど苦戦した末に勝った2つ下の後輩も、実戦ではもう魔物を一匹討伐し、やるじゃないかと先輩に褒められている。あれが自分を超えるのは何ヵ月後? 何週間後? それとも明日? 一つ下の後輩が、とっくに多くの戦果を上げ、自分との対人訓練で、手応えがないとばかりに覇気に欠けた目をする毎日には、日を追うごとに心の傷が増えていく。
順調に物事が進んでいる時、人は努力しやすいのだ。毎日の積み重ねが、そのまま成功に繋がっている実感を得やすいから。失意の底でも諦めず、日課の訓練、自主鍛錬を積む少年の心が、見た目以上の重荷を心に背負っていたのは想像に難くない。そんな毎日すら、もしかしたらこのまま頑張っても、自分が芽を吹く日なんて来ないんじゃないかと考える時間が増え、木剣を振るのがつらくなる頻度が高くなっていく。逆境の中でもめげずに立ち向かってこそ人は強くなるというが、15歳の少年にとってそれは、言葉で語る理想論ほど軽いものではない。
敬愛する教官との約束を最後の綱に、ぎりぎりの心を支えて毎日を過ごしたユース。何度も心に差し込んだ、騎士を諦め故郷に帰るべきなんじゃという想いを退けた末、彼に訪れた転機は本当に唐突に訪れたのだった。
その日は胸に渦巻く想いが妙に濃く、諦めた方がいいのでは、という迷いが一段と強かった日だ。夜の騎士館、訓練場の片隅で一人木剣を素振りしていたユースは、とうとうこの日満足に振れないまま木剣を降ろしてしまう。自主鍛錬では100回以上の素振りが当たり前だった、この頃のユースにして、50の素振りでやめてしまうなんて相当に珍しいことである。
約束したけど。笑顔で見送ってくれた母さんに恩返ししたいけど。やめたくないという想い、自分の才覚を見限ってしまいたい不安が交錯し、前も後ろもない闇がユースを圧迫する。どうしたらいいのかわからなくなってしまったユースが目を滲ませ、ぐしぐしと目を拭ったその時のことだ。
「……誰かいるのか?」
はっとして涙目のまま振り返った、ユースの目の前に現れた彼女。窓から差し込む月の光に照らされた彼女は美しく、涙を拭き取り顔を向けたユースの目を奪うには充分なものだった。
騎士剣を握る彼女は、少し前に魔将軍エルドルとの交戦を経て、負った傷を癒すためにしばらく戦線を退いていた高騎士だ。ふとしたその日の巡り会わせ、初めて顔を合わせた彼女の名など、当時のユースが知るはずもない。後に史上最年少の法騎士として祀り上げられる彼女だが、この時は騎士団にその名が広く知れ渡ってはいなかった。
「ここで出会ったのも何かの縁だ。一度剣を交えてみないか」
「……いいですよ」
いくつかの会話を挟み、木剣を手にした二人。二十歳に満たぬ、若い二人の在りし日だ。この日を境に、真っ暗闇だったユースの目の前が、少しずつ光を得て、少年が希望に手を伸ばす志を取り戻す日々が始まっていく。
15歳の見習い騎士ユースと、19歳の高騎士シリカが出会った日。彼らの人生において、これに勝って運命的な日は、後にも先にもなかったと言えるだろう。




