第234話 ~闇の覚醒③ タイムリミット~
撤退した戦士達は、亡国ラエルカン領土から大きく離れた場所に留まる。一度撤退してその駐屯地に辿り着いたら、再び戦場に立ち返ることは推奨されない。後に控える本国の帰還に伴い、生存者の確認をするにあたって、総指揮官への負担が大きくなるからだ。必要あって、一部の指揮官に許可を受け取ってそうする例も稀にあるが、それは滅多に行なわれないことである。そもそも撤退という行動に踏み込んだ時点で、再度戦場に復帰するケース自体数少ないのだから。
エレム王国方面から進軍した、西からラエルカンに進軍した師団の生存者は、ラエルカンと城砦都市レナリックの間にある、イーロック山地のふもとで駐屯していた。第14小隊のクロム、マグニス、ガンマ、チータの4人が撤退した先もここ。遊撃手として、亡国北東からマナガルムと共に単身突入したキャルも、撤退先は独自の判断でこことした。彼女には指揮を下す人物がいなかったため、撤退に際してどこにいても、指揮官の計算を狂わせることがない。
この5人のうち、チータは救援部隊の馬車に積み込まれ、撤退部隊を待つことなく城砦都市レナリックまで担ぎ込まれた。明らかに自身の魔力の限界を超え、百獣皇アーヴェルと戦い抜いた彼は、魔王マーディスの遺産への致命傷と引き換えに、自身の霊魂が明確に尽きかけていた。魔力とは、霊魂にはたらきかけることで、精神力を具現化させ、望む何かを実現させるために使う力だ。過剰な魔力の捻出は、霊魂を著しく疲弊させ、それは肉体と精神を繋ぐ霊魂のはたらきを不完全にさせる。
基本精神が肉体の生存を望み、心臓の鼓動や呼吸の自然性を保つような当たり前のはたらきさえ、霊魂が疲弊し果てると、当然のように行なわれなくなる。完全に霊魂不全に陥るほどまで、魔力の過剰捻出が著しかったチータは、息をしているのかわからぬ様子で、目を開けたまま気を失っていた。彼のかつての師、ティルマが自分自身も疲労困憊している中でも、彼の霊魂を再活性させるための魔力を注ぎつつ、城砦都市レナリックまでチータに同伴する形でついていった。一刻も早く、心身治療の魔法に秀でた魔導士の集う、レナリックの医療所に担ぎ込まないと、チータの命も危ないと診断された結果である。
アジダハーカとの交戦で、もはや戦える体でなくなったガンマも、クロムの強い推奨によって救援馬車に押し込まれ、レナリックへの帰還を強制させられていた。本人は帰りたくない、みんなが戻ってくるまで待ちたいと強く訴えたものの、いくら人外なる体力と治癒力を持つとはいえ、怪物に何度も殴られ蹴られ、砕けまくった体を身内が放っておけるものか。普段はガンマを弟のように可愛がるクロムでさえもが、厳しい顔で帰還を勧め、マグニスが怒鳴るように帰れと叫んだのをとどめに、ガンマもレナリックへの帰路を進んだ。
きっと、それは正しかったのだろう。イーロック山地を抜ける馬車内で、糸が切れたガンマはそのまま意識を失い、真っ青な顔で昏睡状態に陥ったと後に報告されている。少しでも早くレナリックへと着き、迅速な治療と治癒魔法の施しを受けられる形でなければ、その後彼の命があったかどうかもわからない。
クロムやマグニス、マナガルムの背のキャルが、ラエルカンからの帰還者を、まだかまだかと待つ時間は本当に長く感じられた。亡国からこちらに向かってくる、生存者の姿が小隊の仲間達のものでないと視認するたび、不謹慎でもちくしょうという想いに駆られてしまうのだ。死闘を乗り越え生還した者の姿に、残念さを感じるなどひどいものに感じるかもしれないが、最も親しかった仲間がなかなか帰ってこない状況とは、それだけ胸が焦げる苦しさを伴うものである。
そしてようやく、よく知る誰かの姿が見えた時、目の良いキャルがマナガルムの背中を揺さぶった。腹の内を百獣王ノエルに滅茶苦茶にされ、走るだけでも苦しいはずのマナガルムは、背上で顔面蒼白のキャルの想いを優先し、苦しい足を亡国からの帰還者に駆け向ける。がふりと血を吐き走るマナガルムを、優しいはずのキャルが気遣うことも出来ないのは、ゆっくりこちらに向かってくる親友の姿が、見ただけで瀕死寸前のものであるとわかってしまうから。戦場で共に戦った盟友の神狼を案ずる暇もない。
「アルミナ……!」
クロムやマグニスがマナガルムを追うその前で、物静かな性分のキャルが空に向けた叫び声。二人の騎士を、背中とその腕に抱えたアルミナは、大きな翼をはためかせながらゆらゆらとこちらまで帰ってくる。目の前もかすむ、ぼやけた視界の中、キャルの姿をなんとか確認した途端、翼の折れた天使のように降下するアルミナには、キャルもぞっとして血の気が引いたものだ。
二人の家族を抱えたアルミナは、限界間近の体と魂を最後まで振り絞り、ゆっくりとラエルカン西の平原に着陸した。急ぐようにマナガルムがアルミナのそばに辿り着いた瞬間、キャルがマナガルムの背中から飛び降り、膝が砕けたのかというほど体勢を崩す。ノエルにマナガルムが打ち抜かれるに際し、背中から振り落とされて地面に叩きつけられた際、キャルの体も相当なダメージを追っているのだ。低くないマナガルムの背から地上に降り立つに際し、彼女の体を貫いた痛みも計り知れない。
「あ、アルミナ……シリカさん……ユース……」
それでも歯をくいしばってアルミナに駆け寄るキャルに、ユースとシリカを地上に降ろしたアルミナは、首を動かし小さく口を動かした。ようやく再開できた、キャルの名を口にした動きだった。だが、目の焦点も合わぬアルミナの声は、かすれて明確な音になっていない。翼を生み出す不慣れな魔法を行使し続けた彼女は、ベラドンナの補助やバーダントの加護あってとはいえ、魔法を使ったこともない自らの霊魂をぼろぼろに使い果たしている。精霊や妖精により、大きな魔力の捻出がより容易になったとはいっても、霊魂への負担がゼロになるというわけではないのだから。
「やべえな……! チータやガンマよりひでぇ……!」
駆けつけたクロムやマグニスも一目でわかる、アルミナならびにそれに担がれた二人の危篤状態。アルミナは日頃から乱暴な体の使い方に慣れていて、キャルより受け身慣れしているとは言っても、ノエルやディルエラとの戦いで何度も地面にその身を投げ、柔肌あちらこちらが腫れ上がっている。それに加えて霊魂の過剰捻出、霊魂の瀕死、それに伴う精神が本能的に望む肉体への生存活動遂行の不全。ようやくキャル達のもとへと辿り着き、緊張の糸が切れたアルミナは、半身で地面に横たわって胸を前後させている。
呼吸していることがそれで確認できるだけ、瀕死間違いなしのアルミナさえ他の二人と比べればましだ。ノエルとの、ディルエラとの死闘で何度も打ちのめされた体など見ただけでわかるユース。さらにはかつてない英雄の双腕の連続使用で、魔力も霊魂も尽き果てた彼は、アルミナと違い、完全に体を静止させて動かない。息をしているのかどうかもわからないのだ。うつぶせに地面に倒れ、ぴくりとも動かないユースの背に、クロムが最速で耳を当てる。心臓が止まっていても驚いてはいけない有り様だ。
篭手も胸当ても草摺もなく、まるで非戦場に生きる町娘のような姿で倒れ、動かないシリカの姿なんて、別の意味で彼女の生命の危機を悟れる姿である。理想発動したシリカの英雄の双腕を貫通し、彼女の体を叩きのめした獄獣の破壊エネルギーは、血色の失われたシリカの顔色、肌の色から明らかだ。美しい金髪は頭から流れる血に染まり、背を下にして倒れた彼女の首は、上天を見上げる力もないかのように、横にぐるんと倒れている。胸の上下がなく、息をしているのかわからないのもユースと共通する。
「マグニス、シリカを貸せ」
「聞けませんね、旦那こそ死にますよ」
ユースの胸が命の鼓動を弾ませていることを確かめたクロムは、揺らし過ぎぬ程度に素早くユースを背負い上げた。そのままシリカも担ぎ上げようとしたクロムに対し、マグニスが明確に拒否したのは、今のクロムも決して良い体でないことが明白だからだ。魔将軍エルドルの炎に全身を晒され、ノエルとの交戦を後に踏み、さらに砕けた体のクロムは、身体能力強化魔法の自己治癒力を加味しても、充分に死を意識しなければならない体。表面上普通に駆け、動いている彼が、身内を救うために相当な無理をしていることを、マグニスは見過ごさない。
マグニスも、アーヴェルの魔法で地面に叩きつけられたことで、全身軋む状態であることは間違いない。それでも今のクロムに、軽くもない3人を担ぐことを認めるわけにはいかない。一人は自分が持つ、シリカを預かるのは自分の仕事だと訴えるマグニスの眼差しが、クロムのそれとぶつかり合う。
「……お前、絶対に落とすなよ」
「落とせっていうフリですかね」
「お前ぶっ殺されてえのか」
「冗談に決まってんでしょ」
渋々呑んだクロムの言葉に、シリカを背負いながら笑っていない目でクロムに軽口だけ返す。冗談も全く笑えないこの状況だとわかっていても、マグニスも思いつくままでいいから、何か口にせずにはいられないのだろう。家族三人がこれだけ
ずたずたに引き裂かれ、生き延びられるかすらわからぬ状況に追い込まれた現実に、誰が普通に冷静な想いで動けようものか。真に必死である時ほど、荒い育ちの男達は、必要以上に殺伐とする。
クロムよりも早くアルミナに駆け寄り、両手でお姫様を抱くようにアルミナを担ぎ上げるマグニス。靴の裏に火車を生み出し、シリカとアルミナをその身に抱えたまま、わずかに身を浮かせるマグニスに、クロムは真正面からきつい眼差しを返してくる。無いのはわかっているが、落としたら本気で許さんという釘を突き刺してくる。
「駐屯軍には第14小隊全員生還、ならびに危篤ゆえの早期撤退と伝えておく。レナリックで会おう」
「あいよ、後ほど」
「キャル。心配なのはわかるが、後から帰って来い。勝手な行動で指揮官を困らせるなよ」
クロムに返事を返し、空を駆けて西のレナリックへと空を駆け始めるマグニスは、背中を低く丸めてシリカを落とさぬ形を作り、最速で人里の医療所へと向かっていく。完全に意識を失っているかとさえ思っていたシリカが、僅かしがみつくように腕に力を込めてくれたことが、マグニスをほんの少し安心させてくれる。馬車やマナガルムに預けて地上を駆ければ、抱えた二人の体を激しく揺らすため、それを忌避したマグニスは、二人を揺らさぬ安定した滑空で西へ舞う。
マグニスを尻目に語りかけてきたクロムへ、キャルは涙でぐしゃぐしゃの顔を伏せ、確かに小さくうなずいた。目を拭い、嗚咽を漏らす彼女の表情から、どれだけ三人のことが心配でならないかなんて、誰が見たってわかることである。それでも彼女が、傷ついた三人とともに人里に帰っても、出来ることなんて一つもないのだ。マナガルムという相方を持ち、継戦能力も僅かに持つ彼女は駐屯地に戻り、生還した騎士や兵に万一の襲撃が加えられた時、戦わねばならぬという僅かな使命がある。共に帰ることは出来ない。
たとえ非情でもキャルを置き去りにして、背負ったユースを揺らさぬ歩法で走りだすクロム。快馬にも勝る脚力が生み出す速度は凄まじく、それでいて背中の怪我人に負担をかけないふわりとした走り方は、何年も用心棒人生を経た者が辿り着く特別な技能である。そして振り返らないクロムが信頼したとおり、キャルは涙を拭ってマナガルムの背に飛び乗ると、撤退軍の駐屯地へと帰還し始める。
元気に動けるもの僅か3名、そんな3人さえもが満身創痍。除く5人は、今後生きて地を踏めるかさえ定かでない重傷者ばかり。歴史的大戦に踏み込んだ戦士達に残された壮烈な爪跡は、第14小隊に描かれる姿が、悪い比喩のごとく全体の状況を表している。数え切れぬほどの戦死者、それを遥かに超える無数の重軽傷者。その後者の中には、命を取りとめても後の人生を今までどおりに歩けぬ者もいるだろう。人類の総力を上げて臨んだラエルカン奪還戦争は、幾千もの人生の犠牲の上に立つ、歴史上でも数少ない出来事だ。
ただ一つ明確なのは、魔王マーディスの遺産達を撃退したことは事実。すなわちラエルカンを奪還することは、事実上果たしたという結果だ。魔物達の有力なる将を失った魔物達は、今も僅かに掃伐されず、亡国ラエルカンに脈づいているが、日を跨いで再び進撃すれば、今日ほどは難しくなく根絶することも出来るはず。敵軍の無力化には成功し、奪われたラエルカンの地を取り戻す勝利が、人類の手の中に握られたのは確かである。
勝利という事実さえなければ、山のような犠牲の数々は耐え切れぬほど重い現実だ。命を懸けて戦い抜いた戦士達に報いられた結果が残ったのは、せめてもの幸いであったと言えるだろう。
魔王マーディスによるラエルカン占拠、その魔王からの皇国奪還、時を経て再びの魔王の遺産によるラエルカン強奪。三度に渡った皇国の地を舞台にした戦役に続き、第四次ラエルカン戦役と呼ばれる苛烈な戦いの結果は、その後各国に知れ渡る。撤退ないし退却はしたものの、事実上ラエルカンに息づく魔物達の無力化には成功できたこと、ならびに人類の勝利と言える戦果報告には、どこの国も想定していた最悪の結末を退け、希望をもたらすものだっただろう。
勇者ドミトリーの落命、魔王アルケミスの出現。この二事さえなければ、死者の魂を弔う国葬にもっと意識を向け、生還者を労う執政者の忙しさがあったはずだ。勝利はしたが、脅威は完全に絶えたわけではなく、戦いはまだ終わっていない。その現実が、各国軍部による、負傷者の治療を別の意味で急がせる。戦い終えた戦士達を必死で生存に向かわせる目的だけでなく、やがて訪れる次なる戦いのために、戦う力をより早く取り戻させることまで意識しなくてはならないからだ。医者も、治癒魔法の行使者も、うめく怪我人を癒す中、再び彼ら彼女が黒き戦場に呑み込まれていくことが脳裏に浮かび、沈痛な想いで医療所を駆け回っている。
勝利は朗報、しかし知己の早逝に胸を痛める者も各国には多いだろう。そんな人物の中に含まれる、魔法都市ダニームに住まう賢者は、知らされた事実を意識しないような足取りで、アカデミーの大図書館でたたずんでいる。そんな彼女を探し当て、歩み寄った勇者が声をかけるまで、誰一人として傷心の賢者に声をかけることは出来なかった。それだけ、無表情で図書館内をうろつく彼女の姿は、隠しきれぬ悲壮が滲み出ていたのだから。
「ルーネ様」
かの戦役から1日経った夕暮れ前のことだ。ある本棚の前でたたずむ彼女に語りかけられた、一人の騎士の言葉。知り及ぶ勇者の声に、振り返らずして相手の名を察した賢者は、本棚をまさぐっていた手を止め、動かなくなる。
「……お好きなところにお掛け下さい」
言葉に従うように、図書館に点在する机の前、一つの椅子に腰掛ける勇騎士ベルセリウス。彼が座るまで本棚の前でしばらく動かなかったルーネは、やや彼を待たせる形で、ベルセリウスと向かい合う席に座る。
沈黙はいらない。ベルセリウスは、騎士団の代表としてここへ来た。既にルーネにも知らされているであろう、ラエルカンを舞台にした戦争がもたらした結果を、はじめ挨拶を述べた後にベルセリウスが復唱する。戦争は人類の勝利で幕を降ろしたこと、近衛騎士ドミトリーが命を落としたこと、その亡骸ありし地から去る大魔導士アルケミスの姿があったこと。そしてそのアルケミスの姿に、人類の味方としてこの世に蘇った気配が全くなかったこと。
そして、大魔法使いエルアーティの落命。かつて師と仰いだ賢者の死を復唱するベルセリウスと、唯一無二の親友の死を改めて聞かされるルーネ、どちらの胸の方が痛んでいるかなど誰にも計れない。しかし、現役の戦人として身内の死を乗り越えて歩まんとするベルセリウスに対し、ルーネの眼差しも決して揺らいでいない。
「エルアの死には、私も悲しみを禁じ得ません。しかし、私達がこれから考えていかねばならぬことは、近く訪れるであろう脅威を退けるための手。そうですね?」
「仰るとおりです」
ベルセリウスは、そのために訪れたのだ。エレム王国騎士団の総本山では、今も新たなる脅威の出現に対し、次なる道を求めるための会合が行なわれている。魔導帝国ルオスでもそうだろう。そして魔法都市ダニームに生きる、人類の英知の象徴たるもう一人の賢者の言葉を給わるため、騎士団の代表として訪れた勇者。親友の急逝に傷心の想像難くない彼女に、それを踏まえて最も話が出来るのは、エルアーティを最も敬愛した愛弟子であった、彼をおいて他にいないだろう。
己の感情を顔に隠すことを不得意とするはずのルーネが、悲しみに表情を揺るがさないのは、すでに悲痛を乗り越えた後と見ていいのだろうか。目先の使命に意識を注ぎ、胸中の痛みに蓋をしているようにしか見えない姿を前にして、戦人としての表情を突き返すベルセリウスも楽なものではない。人の心を外面だけで、すべて知れると思ったら大きな間違いだ。
「アルケミス様は、そうですね……なんと称しましょうか……」
そんなルーネが天井を見上げ、口を引き絞る姿には、ベルセリウスの方が構いませんよと一言押す。かの大魔導士の親友であったベルセリウスに対し、少なからずショックな言葉を発する一瞬前のルーネは、相手の心中を心遣うことを忘れていない。
「魔王、としてこの世に顕現したものと捉えて、間違いありません」
「魔王、ですか」
「生前のエルアーティが遺した魔界理論、魔王マーディスの本質に対する仮説、ならびに蘇生魔法を魔将軍エルドルに対して成功させた魔物達の実状から、そうした結論に至ります」
詳しい話を聞くことをベルセリウスはやめにした。親友が魔王と成り果てた現実を突きつけられ、冷静でいろというのは酷な話だ。それを耐え抜き未来への道を求めるには、さっさと話を進めて貰った方が助かる。
「コズニック山脈――いえ、魔界レフリコスを総本山とした魔王マーディス。それと今の魔王アルケミスが同一の存在であるならば、彼がコズニック山脈に立ち返ったことにも納得できます。彼は恐らく、魔王生み出せし魔界レフリコスへの帰還し、それそのものが目的だったと推察されます」
魔界という言葉は、かつて魔王を討つため、その居城に踏み込んだ勇者達にしか馴染みのない言葉だ。つい少し前、大森林アルボルに潜む魔界の中に踏み込んだ小隊もあったが、あそこに魔界があることは、広く人類には知れ渡っていない事実である。
「魔界とは、生前の未練を抱えし霊魂を集わせ、それらが未練を叶えるための大樹を生み出す温床となる"界"のことを言います。魔界レフリコスは恐らく、生前に"支配"への未練を残した魂の集合地であり、それが支配欲に満ちた魔王、マーディスを生み出す界としてこの世にある」
魔界の本質を知る妖精ベラドンナ、それが事実を第14小隊に語った内容と殆ど変わらぬ、ルーネの語る魔界への仮説。二人の賢者が長き時を経て導き出した、魔界なる触れたこともない世界への仮説は、これほどまでに真実に近付いている。それを事実だと断定できる決定的なファクターがなく、賢者達がそれを正解として語ってこなかっただけであり、ルーネはほぼそれが答えだと確信して話を進めている。ここにいるのがルーネでなくエルアーティであったとしても、同じことを言っていたはずだ。
「恐らく復活した魔王、アルケミスは、魔王として完全ではないか、あるいは既に完全であったとしても、さらなる力を獲得する為、魔王と同じくした志の魂集う、レフリコスへと還ったのでしょう。彼がコズニック山脈に向けて帰還した理由があるとすれば、それ以外に考えられません」
アルケミス自体が、単体でもその猛威を振るえば、疲弊した人類の多くを一網打尽に出来る存在なのだ。長き戦役を切り抜けてよろめく人類の軍勢、それに火を放てば僅かでも後の自らへの脅威を排斥できたはずなのに、それをせず撤退を選んだことには必ず理由がある。現に人類にとっての大駒、ドミトリーとエルアーティを葬るという必要過程だけは、その手でしっかり遂行しているのだから。
絶大なる力を持つ者は驕るものだろうか。たとえそうでも、為すべきことだけは為すからこそ、王は王として君臨し続けられる。新たなる魔王が退いた一事に隠された目的を推察するルーネは、自らと親友の二人で作り上げた魔王推察論から、悪意の本質を的確に指摘する。
「そしてその行為が魔王アルケミスの力を高めるのであれば、やがて彼はより強大なる存在となり、私達の前に現れるでしょう。その時を無策で迎え撃つことあらば、それが人類の未来が滅され、魔王が私達の世界を支配する時代の幕開けとなる」
「……策はありますか」
「あります。極めてシンプルなものです」
懸念を口にするベルセリウスに、恐れるなという言外を含む力強い言葉を返すルーネ。日々と変わらぬ、澄んだ綺麗な声。重さを含まず、これだけの意志力を声に込められるのは、それだけの精神力を以って人を導く者が辿り着ける賜物だ。
「魔界レフリコスに隠遁する魔王を、かの存在が開花するより前に、こちらから赴き滅却するより他に手段はありません。一度レフリコスに帰還した魔王は、期が熟すまで王たる我が身を、危機に晒す事は決してしないでしょう。魔王を討つならば、魔界に足を踏み入れて戦わねばならないとされる根拠は、そもそもここにあるのです」
「11年前のように」
「そう。そして魔王が自ら本陣を発つ日が訪れるとするならば、その頃には手遅れであると結論付けていいと思います」
ルーネの提示する人類の勝利条件は、単純明快にして実に恐ろしい話だ。魔界で力を蓄え始めた魔王が、人類を支配できる力を得る前に討伐せねばならない。魔王にとっての得意舞台、魔界レフリコスにこちらから足を踏み入れてだ。しかもそれを、魔王が人類を支配するだけの力を得る前に為さねばならぬという、時間制限つきである。極めてシンプル、と形容される結論に限って、隠れた課題と乗り越えるべき障害を孕んでいるというのは、誰もがよく経験する世の常だ。
「時間がありません。私達人類は一刻も早く戦うための力を取り戻し、魔界に根差す魔王アルケミスを討ち果たさねばならないのです」
「ご助力願えますか」
「是非」
ルーネの出陣をも視野に含めたベルセリウスの言葉に、彼女ははっきり頷いた。賢者エルアーティ亡き今、魔法都市ダニームに籍を置く旧ラエルカンの遺産は、人類にとっての希望の光の一つ。戦乙女として名を馳せたルーネと交わす約束は、彼女の強さを知るベルセリウスにも勇気を与えてくれる。
「エレム王国騎士団の方々は、どれほどで再び剣を握れるでしょうか」
来るべき日に向けた重要な確認。重軽傷者はぴんからきりまで、そんなことは当然として、その上でどれほどの戦力が最速で取り戻せるかを、戦人としてのルーネは重く問う。旧ラエルカンの一兵として皇国を導いていた日々と同じくして、勝利のための道筋を手探りで求める精神が溢れている。
「ひと月で戦線復帰出来ない者に対しては、残された時間のない今、戦力として数えぬ方がいいでしょう」
それが概ねの基準なのだ。優秀な国家顧問医師や、騎士団専属の有能なる魔法使いによる治癒魔法を受け、ひと月で再び以前と同じく戦える体に戻れない者は、完治後も後遺症が残ってしまうか、あるいは完治までもっと時間がかかるかのどちらか。聖騎士ナトームや法騎士ダイアンは前者にあたり、初めて獄獣ディルエラを打ち破った日のベルセリウスは、再び以前と同じように戦えるようになるまで三ヶ月の治療期間を要した。不完全に見えて治癒魔法の偉大さは確かなものであると同時に、それでも救えぬ体があるからこそ、命の貴さは決してどんな世界でも見失われない。
「……法騎士シリカ様はどうですか?」
不特定多数の兵に対して問うた後、まるでそれが枕に過ぎぬかの如く、ルーネが一人の騎士の名を挙げる。思わぬ言葉に、質問を質問で返すことが良くないと知りつつ、ベルセリウスもその真意のほどを確かめずにはいられない。
「何故ですか?」
「いえ、その……エルアの言葉を借りるなら、ですが……」
不意打ちのように亡き親友の顔が頭に浮かんだか、目に見えてルーネの表情が陰りを見せたが、話を終えるまで賢者は立ち止まらない。伏せかけた顔を上げ、真っ直ぐにベルセリウスを見据えたルーネの目には、ベルセリウスにももう一人の賢者の遺志が宿っている気がした。
「彼女に運命力を感じるのです。魔王を打ち破る、輝く剣となるであろう可能性を」
「……彼女が運命の日までに立ち上がれるかはわかりません」
「その時は私の推察が正しくなかったということでしょう。しかし彼女に運命を導く力があるのなら、必ずその時までに彼女は立ち上がる。それが運命力です」
エルアーティの弟子であったベルセリウスは、賢者が好んだ運命力学の話を何度か聞いている。それに基づくルーネの理論は、エルアーティの語る運命力という言葉に沿っている。らしくあるのかないのか判別つかないその態度は、ルーネ自身も未来を掴むための道へと手を伸ばし、暗中模索であることの表れと捉えることも出来る。
「もしも彼女が、来たるべき日までに立ち上がることあらば――」
続けざまに語ろうとしたルーネが、そこまで口にして急激に言葉を詰まらせる。何を言おうとしたのか続きを待ち続けるベルセリウスの前、その後にあったはずの言葉はなかなか出てこない。僅かな沈黙が二人の間に漂う。
「……その時は、運命の導くままに」
時間にしてたったの3秒。その短時間で、そんな簡単な言葉を吐く前に賢者の脳裏にあった思索は何だったのか。問い直す暇も与えられぬまま、ここにきて明確に目の色を曇らせたルーネの異変には、ベルセリウスの敏感な感知力もしっかり反応している。
「騎士団の方々には、そうお伝え下さい。傷が癒えれば、法騎士シリカに私のもとへ訪れるようにとも」
「承りました」
話はここまで。今もエレム王都の医療所には、深手に苦しむ重軽傷者がいる。元々騎士団衛生班上がりであり、治癒魔法を得意とするベルセリウスは、そこへ赴くための時間も割かねばならない。周囲は勇騎士様が医療所であくせく働く姿に畏れ多く感じるだろうが、ベルセリウスにとっては知ったことではない。苦しむ者がいて、出来ることもあるのに放っておけるわけがない。
アカデミーを後にするベルセリウスを立ち上がって見送った後、ルーネは再び席に座る。机に両肘をつき、組んだ手に額を預けて苦悩する賢者の姿を見ている者は誰もいない。今となっては主なき、賢者エルアーティの私有区画内でうなだれる彼女の脳裏、無二の親友の後ろ姿が浮かんでいることは想像に難くない。
過去に目を向けるなら親友の死への悲しみ、そして未来に目を向けるなら。エルアーティがかつて残した予言の一つは、ルーネも親しい間柄ゆえ聞き及んでいる。それはシリカのみに向けられた言葉であったはずだが、エルアーティはユースの運命力をルーネに語る際、彼に関する予言もルーネに伝えていた。それは今この世で、シリカとルーネにしか知らせれていない、今まで一度も"予言"をはずしたことのない預言者の宣言だ。
"このまま行けば近いうち、シリカかユースのどちらかが死ぬ"。そしてエルアーティとは異なり、シリカに強き"運命力"を感じているルーネの推察が真で、それが再び魔王討伐に向けて発つ日が訪れたらどうなるだろう。彼女を敬愛してやまない彼が、シリカの出陣を見送るだけに留まってくれるだろうか。考えられない。エルアーティの予言が当たるなら、二人が魔王討伐に向けて出陣するようなことが叶うその時、誰かの命がこの世から消える日になってしまう。
死ぬと強く予示された者を、そうと知りながら戦場に送り出す未来が見える。過去に目を向けようと、未来に目を向けようと、そこにあるのは罪深き煉獄でしかない。ベルセリウスを前にしてとうとう口に出来なかった暗黒の秘密は、抱えたルーネの胸を有刺鉄線のように締め付ける。
人の心に落とし込まれる絶望こそ、魔王が人類を支配するための最大の武器なのだ。それを知るルーネは胸中の闇を振り払い、明日に目を向けていくことがいかに重要であるかを知っている。それでもたった一人の空間に残され、孤独な想いを封じたまま胸が張れるほど、ルーネも決して強い人間ではない。
「……エルア」
涙など昨夜のうちに枯れ果てている。唇を引き絞り、誰よりも頼もしかった親友の名を口にした彼女に、応えてくれる人物は誰もいなかった。




