第232話 ~闇の覚醒① 師弟の再会~
「ドミトリー様……!」
かつて魔王を討伐した勇者、近衛騎士ドミトリーの率いていた少数精鋭の中隊。彼に率いられ、近くして戦っていた戦士や魔導士達が、屈強な魔物達を犠牲者なく掃伐し、ドミトリーの下へ集まってくる。数十名の人類の猛者が、百を超える怪物達と戦っている間、敵将の一角と一騎打ちしていた指揮官へだ。
そして、今しがたドミトリーも、決着らしきものを迎えたところだ。黒騎士ウルアグワの甲冑が、勇者の大剣によってバラバラにされ、ドミトリーの前の地面に散り落ちている。勝利を確信して後方の部下に振り向いたドミトリーだが、後方のウルアグワの残骸から意識を逸らしていない。死んだふりからの不意打ちなんて、卑劣を絵に描いたようなウルアグワの得意分野である。
「終わったのですか?」
「今日のところはおそらく、な」
中身のない鎧と鉄仮面、装甲だけがひとりでに動くかのような存在、黒騎士ウルアグワは、未だにそれを完全に討伐する手段が導き出されていない。その漆黒の鎧を粉々に砕けば、ひとまずその日は動かなくなり無力化できるが、日を改めればまた同じ姿で現れてきた。粉砕したウルアグワの鎧を、忌々しいと思いながらも回収し、魔導帝国の結界牢獄に幽閉してなお、まったく同じ姿でいつかは現れるのだ。
仮説はここ数年でいくつも立っており、黒騎士とは生ける鎧の魔物の総称であり、それを再生産できる魔導士が敵軍にいるのだろうか、という説も一時期有力であった。だが、ウルアグワが常に一体しか同時に現存しないことや、新たに現れる黒騎士が討伐前の記憶なども持ち合わせていることなどから、そうした結論もやや強く推されなくなっている。何より、その仮説を正解としたところで、未発見の術者とやらを討たねば話にならない。結局、いくつも推論が重ねられつつも、ウルアグワ完全討伐という目的までは届いてこなかったのが実状である。
ドミトリーが言うように、ウルアグワの無力化に成功したと見える今も、所詮は一時凌ぎにしか過ぎないと見て正しいだろう。ただ、このラエルカン戦役において黒騎士が跋扈する可能性はこれで潰えさせられたと見て、それは前進である。
魔将軍エルドルの討伐完了、百獣皇アーヴェルの逃亡は、もう全軍に報告されている。目撃者のいない百獣王ノエルの討伐や、獄獣ディルエラの撤退が知れ渡るまでにはまだ時間がかかるだろうが、黒騎士ウルアグワの無力化はここに完遂された。魔王マーディスの遺産と呼ばれた四天王、さらには百獣皇が魔王マーディスの側近となる前、百獣軍を率いていた大将を討ったことで、ラエルカンを占拠した魔物達の頭はすべて落とした。残党の魔物達も決して侮れないが、圧倒的な実力を持つ五将に比べれば、烏合の衆と呼んでも差し支えない。
敵軍の最高戦力の掃伐、ならびに最高指揮官の根絶。亡国ラエルカンを舞台とした長き戦いは、ウルアグワの無力化を以って終わった。事実上の人類の勝利、それが変わらぬ結果だろう。
「あとはディルエラやノエルだが……」
「――ドミトリー様!」
勝利を確信せぬ勇者のもとへ、友軍の魔導士が飛来する。ドミトリーが率いた中隊に属する、魔導帝国ルオスでも名の知れた、熟達の魔導士だ。
「エルアーティ様から報告です……! ただちに、全軍退却せよとのこと……!」
「……何?」
帝国兵は、魔力による遠方から届きし声を、一字一句違わず報告する習慣が当然ついている。そんな帝国兵の口から、退却の文字が聞こえたことに、ドミトリーも耳を疑いたくなった。撤退でもなく、後退でもなく、退却。それは敗北を認めるに等しい行動であり、どれだけやるべき仕事が残っているように思えても、すぐさま全軍退くことだけを考えよという命令。エルアーティから命令を受け取った魔導士の、困惑する表情を見てドミトリーも、退却とは聞き間違いではないのか、と問い正す気がしなくなる。
ラエルカン奪還軍の総指揮権は、近衛騎士ドミトリーと魔法剣士ジャービルの二人に一任されている。エルアーティも魔法使い師団の総指揮官であるが、全軍指揮に関しては第二の実権を持つ立場。現場の判断を尊重し、指揮官ドミトリーの判断の方が優先される局面ではあるのだが――
「……よし、撤退しよう。詰めの甘さを指摘されるかもしれんが、それでも構うまい」
「よろしいのですか?」
「ああ。……俺も、少々よくない胸騒ぎはする」
決断要素は2つある。1つは、総指揮権を持たぬはずのエルアーティが、それを越権してまで総軍に退却を呼びかけたこと。賢者から魔導士に届けられた、漠然とした危機の予感の内容まで聞かずとも、エルアーティが並々ならぬ危険性を感知していることは確かなはず。でなければ、彼女が退却などという強い言葉を使うことに、合点がいかないからだ。
もう1つは、ドミトリー自身が感じていること。総軍の被害が著しい、苦しい戦いであったことは確か。それでも、ドミトリーの想定していた苛烈な戦いを大きく下回る戦争だった。十数年前、魔王マーディスが鎮座するラエルカンの奪還戦争に乗り出した時は、もっと苦しかった。あの日と違って敵軍にはマーディスがいないが、こちらもアルケミスやルーネという強力な駒が欠けているのだ。ドミトリー自身もあの日より老いているし、当時彼と並んで戦った多くの練兵の多くも今はいない。若い芽や、当時若かった戦士達の成長がそれを補ったと思えば聞こえはいいが、それにしても魔物達が想定より手ぬるい。
上手くいき過ぎ、と形容するにはきつい戦いでも、漠然と安定し過ぎた事の運びには、ドミトリーも一抹の不安を感じずにいられない。魔物達の残党狩りのことは、また時間をかけて考えた方が得策だと、遠回りでも肯定できた。そうして率いた中隊に召集命令をかけ、ドミトリーは退却命令をラエルカン全土に打ち出すよう、そばの魔導士に命令した。
「爆滅」
その時、ラエルカンの一角で口走られた、小さな詠唱など誰も耳にしていなかった。しかしその魔法は、ドミトリーの率いる中隊のやや近く、とはいえ術者の位置を平地で見渡せるなら、相手が地平の小粒に見えるほどの距離で、確かに発動していた。
術者を爆心地とする、凄まじき大爆発の魔法を、発動の瞬間まで誰一人として感知することが出来なかった。ドミトリーから見て正面方向、彼に報告するために駆けつけた魔導士の背後方向、そして魔導士がぞっとする気配に振り返った瞬間には、既に眼前が光で満たされ、真っ白な光景のみがある。
人も、魔物も、木々も、廃墟も、大地さえ飲み込む破壊の炎熱。術者を中心とする、敵味方の区別なき破壊魔法の風は、一瞬にしてラエルカンの一角を支配する。術者を中心とした円形放射状が、まるで巨大なドーム状の光に包まれたのなんか刹那のことで、次の瞬間には岩をも溶かす大魔法の焦熱と激風が、風船を破裂させる大気のように炸裂する。
遥か彼方から見てもわかるほどの、途轍もない大爆発が結果として残った。各地戦闘中の魔物、人類、それら殆どが思わず爆音の方を振り向いてしまうほど、その破壊は凄まじく。そして振り返った者達の目の前で、亡国の一角が無双の破壊力で吹き飛ばされる光景が、残影として明確に残った。
「来た……!」
この爆発に最も心を躍らせたのが、夢魔ウルアグワ以上に賢者エルアーティだ。完全に大きく発動した大魔法の余波は、エルアーティがラエルカンに張り巡らせた魔導線を強く刺激し、勿論その数本は賢者の魔力を超過して破壊されてしまった。それでも結構。自らのセンサーに引っ掛かった、大魔法の術者の正体を一瞬で悟ったエルアーティは、未知への期待に輝かせていた目をさらに一新する。
術者を知って、まさかという想いは無いでもない。だが、他者を疑うことはあっても自分の魔法だけは絶対に疑わない。想像を超えていた事象が今、このラエルカンに実現したことを確信したエルアーティは、後方から迫るナイトメアにぐるりと振り返る。
その動きを目の前にして、黒い霧を放って賢者を包囲しようとしていたナイトメアも、急停止して技を中断する。二つの眼光が光るかのようにしてナイトメアを見据えたエルアーティの目は、言葉なくして、邪魔をするならこの場で消してやろうという威圧感に満ちている。彼女は先程まででも全力であったと見ていいが、状況が変わり、探究心で満ち溢れた今のエルアーティの精神力が、今まで以上の魔力を絞り出すであろうことは、ナイトメアにも読み取れる。加えてここまでの交戦時間の中で、エルアーティはナイトメアの精神模様や戦い方を、もう既に分析し終えている。
元々そろそろの潮時、エルアーティがこの様子では尚更だ。蒼い炎を脚に纏う怪馬ナイトメア――夢魔ウルアグワの本核は、賢者を真正面に見据えて離れ、ぶるると荒い息を漏らす。
「もういいわね?」
「ああ、行ってこい。貴様にとっても面白い見世物になるはずだ」
ウルアグワの言葉を最後に、エルアーティは背を向けて、一気に大魔法の爆心地へと駆けていく。同時に再度の退却命令を、人類総軍に発信しながらだ。賢者の先見に引っ掛かっていた、悪しき予感は奇しくも正解で、その恐ろしさが友軍の想像を超えているであろうことを思えば、やはり退却命令は正しかった。これ以上、初見の化け物を相手に徹底交戦を試みても、被害を大きくして敵を討てずに終わるだけだ。
流星の如き速度で空を駆け、目指す空へと突き抜けるエルアーティ。その後ろ姿を黙って見届けた夢魔ウルアグワは、小さく笑うように息を漏らすと、自らの体を霧に変え、大気に混ざる極小の存在となって、静かにラエルカンの空を後にする。
役目は終わった。あとは根城に立ち返り、君主の帰還を待つだけだ。
遠方で起こった大爆発に際し、多くの者が抱いた想いというものは、何が起こったの一言だ。同時に、あれほどの大魔法を使える者がいたのかという危機感が立つぐらいのもの。そんな中で友軍の魔導士や魔法使いから、エルアーティの唱える退却命令を耳にすれば、誰もが目の前の戦いに決着をつけてすぐ、亡国から去るべきだと判断するのも早い。
そんな中、明確にその足を退けない者が二人いる。一人はルオスの最強兵、魔法剣士ジャービルだ。空を舞い、魔物空軍の掃伐にかかっていた彼は、友軍への支援や指揮さえも近くの佐官に一任し、かの爆心地へと翼を曲げていく。遥か、遥か遠くで起こった大魔法の僅かな余波、それは魔導士としても類まれなる才を持ジャービルの第六感を刺激した。術者の正体にも、まさかという想いが沸く。
そしてもう一人は、エレム王国騎士団の勇者、勇騎士ベルセリウスだ。エルアーティやジャービルのように、魔法の扱いを本職とする彼ではないが、今の魔法には嫌な予感を感じずにはいられない。単に、破壊の爆風が数多くの友軍を葬ったかという懸念ではなく、今の魔法の魔力の余波がこの身に触れ、直感に届く術者の名には、自分の感覚を疑わずにはいられない。
魔王マーディスを討伐した勇者、ベルセリウスとジャービルの胸に共通する想い。それは感知した術者の正体に、何度思索を巡らせても信じられないという一念だ。死んだはずではなかったのか。なぜこんな所で今、触れ慣れたあいつの魔力の気配を感じなくてはならないのか。どこからどう理屈を繋げようとしても、論が一本の線に繋がらない。起こった事象と想定する遠方の構想、二つの現実が破綻しかけている。
決して好奇心ではない、何が起こったのか確かめねばならぬという使命。ラエルカン奪還軍が退却への動きを始める中、ただ二人、魔王討伐を果たしたかつての勇者が突き進む。片や空から、片や地上から、その翼と足に一切の迷いはない。
歴史が変わるその瞬間に、一度魔王討伐という節目に立ち会った者の勘は敏感だ。そしてそれが指し示す未来への道を、事実をもとに導き出す宿命を彼らは背負っている。
圧倒的破壊の爆撃に呑み込まれたラエルカンの一角は、かの術者を中心に巨大な更地を作っていた。まるで巨大隕石が落ちたかのように、巨大なクレーターの中心から歩いてくる人物を、爆風によって全身を焼かれて廃墟に激突、立ち上がれぬ近衛騎士ドミトリーは見据えている。西の空を背にしたドミトリーに対し、ゆっくりと歩み寄ってくる者の正体は、かすれた視界の中でも明確に理解できた。
「貫骨針」
夕日を前にこちらへ向かってくるその人物の握る、先端に竜の頭を模した杖。その杖先の目が光ると同時、そこから瞬迅の弾丸の如く針が放たれ、ドミトリーの周囲で横たわる魔導士、戦士達の頭に突き刺さる。爆心地に近かった者は一瞬で灰にされ、遠かった者は吹き飛ばされ、絶大なるダメージを受けつつも生存していた。それらに無情なるとどめを刺した、群青色の法衣に身を包むその人物は、無残な死体に変わって動かなくなった死体を見ても顔色ひとつ変えず、歩を進めてくるのみだ。
「……こんな、ことが」
決してドミトリーも、諦めや絶望を抱いたわけではない。ただ、立ち上がろうとしたその老体を支えるには、無双の爆風に吹き飛ばされ、焼かれた体は不充分だった。足腰立たず、遠方に落ちた自分の大剣に手を伸ばすことも出来ず、その人物が近付いてくることを、建物に背中を預けて待ち続けることしか出来ない。何よりも、目の前に現存するその人物の正体に、不可解を抱く想いが強すぎる。動けぬまま、そんな想いが頭を支配する。
その人物は、ドミトリーの僅か前で立ち止まり、掌をドミトリーの頭に向けた。死を直後に迎える、勇者ドミトリー最後の光景は、何年経っても20代のまま、時が止まったかのような盟友の端正な顔立ち。何年か前に会った時と同じく、腰まで届く長い髪を、真っ直ぐ一本にまとめた姿も変わらないものだ。そんな彼と顔を合わせる再会に、突き出された掌が遮るように立ちはだかっている。
「――ドミトリー」
「……教えてくれ。どうして、お前が」
最期を前にして、共に魔王を討ち果たした友に問いかけた、勇者ドミトリーの言葉。己の内面を他者に見せぬことで有名だった大魔導士の眼が、その時僅かに揺らいだことが、ドミトリーの見た最後の光景となる。
「お前にはわかるまいよ」
かつての友の頭に向け、掌から放つ破壊の波動を放つ。発射の衝撃で砂塵が舞い、術者の髪と法衣がばさばさと揺れる前、焦熱の塊であった波動がドミトリーの頭部を吹き飛ばす。彼がもたれかかっていた廃屋の壁を貫き、巨大な風穴が開いたことが砂塵の晴れた末に見える頃、そこには首から上を失った歴戦の近衛騎士の亡骸がある。
魔王マーディスに最後の一撃を加えた勇者の落命にして、二人目の勇者がこの世を去った瞬間だった。根元を崩された廃屋が、近衛騎士ドミトリーの亡骸を瓦礫の山で埋めていく様を、この世を去ったはずの一人目の勇者は無感情な瞳で見つめていた。
「間に合わなかったのは人類にとっての大きな損失だけど」
瓦礫の山の前、目を閉じて祈るような表情をしていた人物の後方、一人の人物が一声を放つ。勇者を無残な死体に変えたその人物は、表情を動かす気配も振り向く気配も見せない。大魔法使いとして名を馳せた賢者の接近になど、大魔導士たる彼の魔力は当然気付いている。
「一番乗りであなたとの再会を果たせたのは収穫だわ」
誰よりも早くこの場に駆けつけたエルアーティは、大魔導士の後方の空中で、箒に座って身を浮かせている。人類の誰もが知る、絶大な魔力と実力を持つ人物を前にしてなお、萎縮するどころか世間話を振るような態度で語りかけられる魔法使いは、この世に決して多くない。
「お師匠様」
「久しぶりね、アル」
振り返る大魔導士。魔王マーディスを討伐した4人の勇者の一人、アルケミス=イブン=ズィウバークは、かつて師と仰いだ賢者を前にして、小さく頭を下げた。
「聞きたいことが沢山あるのだけど、さほど時間はないのでしょう?」
「ええ、ベルセリウスやジャービル様がここへ向かっている気配がする。それまでに私は、引き上げなければなりません」
同じルオスに生まれ育った、アルケミスにとっては良き先人であったジャービル。そして故郷を違えども、いつしか唯一無二の親友と互いに呼ぶようになったベルセリウス。二人と同じく、エレム王国騎士団を導く偉大なる勇者、ドミトリーを葬ったばかりのアルケミスは、ゆっくりとエルアーティに歩み寄ってくる。まだ、距離がある。
「ねえ、アル。一つだけ教えて頂戴」
ただ一つだけの問い。エルアーティとの距離を縮めぬまま、構えもせずにアルケミスは立ち止まる。今さら、時間稼ぎをしたがるような賢者ではないと知っているし、そんなつもりなら強攻策に出る自分の実力も知っていよう。勇者が駆けつけるまでの時間が無い中、付き合うと決めたアルケミスの判断は、自信ともエルアーティに対する信頼とも取れるものだ。
「あなたは百獣皇アーヴェルに殺されたと聞いた」
「はい」
「死を免れたの? それとも、死んだの?」
ここに辿り着くまでの短時間で、エルアーティは山ほどの仮説を立てていた。死んだはずのアルケミスが再びこの地に現れたことに始まり、爆撃の大魔法の魔力を介して伝わった、人類殺戮を目的とする術者の意志。魔力は術者の精神を具現化したものなのだから、触れただけでエルアーティには、アルケミスの魔法が、人類に与するための魔法でなかったことぐらいわかっている。
アルケミスがドミトリーの命を奪う前から明確であった、ラエルカンに現れしアルケミスが人類に仇為す存在となった事実。ウルアグワの暗躍、エルドルの復活、アーヴェルという類稀なる大魔導士の存在。すべてを総じた末、死んだはずのアルケミスが敵対者として蘇ったという現実、その本質を見極めるための短い問いに、アルケミスは短い返事を返す。
「一度、死にました」
「今のあなたは生きている?」
「ええ、活きています」
その回答だけで充分だ。少なくとも、エルアーティにとっては。一度死んだという事実のみならず、はっきりと自信を持ってアルケミスが、今の自分は活きているという答えを返したことで、エルアーティの魔法学者としての英知が輝き始める。学者とは、わずかな手がかりから新たな世界を切り拓き、世界を取り巻く真理の果てまで手を伸ばす存在。辺の長さを3つ定めれば、角度など聞かずとも三角形の形状は定められるように、すべてを知る前からすべてを知ることが学者の真髄だ。
明確でなかったものが一つ確かになるだけで、学者の脳裏は一気に世界を駆ける、網の目のような光の筋を伸ばす。エルアーティが最も得意とする、魔導線を無限の網のように張り巡らせる聖戦域の魔法は、そんな彼女の本質を最も明確に具現化した魔法であると言えよう。
「よろしい。愛弟子が導き出した真髄への道、確かに給わったわ」
「ふふ、いくつになっても師に褒められるというのは嬉しいものですね」
冷血漢にさえ見える冷ややかな顔立ち、そんなアルケミスが、決して冷酷ではない表情で笑った。それを見たエルアーティも、駆け引きや作り顔ではない柔らかな笑みを返す。共に魔法の真髄を、世界の真理を、まだ見ぬ未来と運命を見定めようと、無限の空を見上げて語り合った二人は、その思い出を忘れていない。
現実主義の冷徹魔女に見えて、運命なる不確かなものを解明しようとするエルアーティの熱き魂。世の何にも興味がないような表向きに反し、未知への探究心に満ちたアルケミスの果て無き眼差し。互いの胸の内に宿る揺らがぬ信念を知る二人は、年の差を、風体の差を越えて敬意を払い合う、数年来の良き師弟関係だったのだ。今ここに至ってなお、エルアーティのみならず、アルケミスはそれを忘れてなどいない。
彼が彼である限り、それは決して忘れられないことなのだ。だからこそエルアーティは、言葉も無く確信できる。目の前にいるのは、変わり果てた勇者などではなく、何年もの付き合いで知るアルケミスのまま、変わらぬ彼であるのだと。
「いいわ、遊んであげる。消せるものなら消してみなさい」
「ご鞭撻心より感謝致します」
だから、わかる。今のアルケミスは人類の敵であり、その人物にとって、賢者エルアーティは抹消すべき厄介な存在であるのだと。ベルセリウスやジャービルが駆けつけるより早く、エルアーティを葬り去り、この地を去ろうというアルケミスの目的が、口にされずともはっきりしているのだ。
賢者と大魔導士の大勝負。単身葬られ得る危険性を知りつつ、エルアーティがたった一人で最速の再会を果たしたのは、アルケミスから核心の言葉を聞き取るため。そしてその言葉を胸に、真実を究明するエルアーティの旅は始まる前、立ちはだかるのはかつての弟子。求めるものを引き出したエルアーティに、アルケミスは生存への道を残さない。
エルアーティの全身から溢れ出す、人類無双の防衛力を持つ賢者の魔力。アルケミスの杖の先に集結する、人類最強の魔導士と名高き者の魔力。魔法を戦闘手段に選んだ二人の偉人、その盾と矛が命を賭けてぶつかり合う戦いが、今始まろうとしている。
「愛してるわ、アル。また会えるといいわね」
「答えはありません」
運命に選ばれた魔法使い達の狂宴。人類と魔物達の戦争が幕を降ろしたラエルカンにて、誰もその戦いを見届けぬ、最後の一戦が始まった。




