第227話 ~若獅子の挑戦③ 溢れた想い~
「ユース! アルミナ! まだ!!」
彼女らしくない絶叫が、静まり返った戦場に響いた。背中から倒れた百獣王ノエル、それを目の前に、なんとか立ち上がった二人が、勝った実感を得る一瞬前のことだ。廃屋の屋上で力尽きかけながら、未だ絶命していないノエルの鼓動を見定めていたマナガルム、それの放った思念の声を受けたキャルが、終わっていない戦いを大声で伝えた。
驚いたようにキャルとマナガルムへ振り向いた二人が、言葉の意味を理解して再びノエルを見据えたのも同時、最速。倒れた百獣王の姿がある。ぴくり、ぴくりと大の字に倒れた手の指先を動かすだけで、とうに死んだようにしか見えない姿だ。その一般的な認識を、これまで生命力に秀でた魔物達と戦ってきた二人の意識が、見た目だけに惑わされるなと遅れて警鐘を鳴らす。
次の瞬間、ノエルが上半身をがばりと起こした瞬間には、二人とも心臓が止まりそうになった。思わず後方に跳ぶユース、反射的に翼を開き、即座に構えた銃の引き金を引くアルミナ。自らの額へと迫る銃弾に、かっと目を見開いたノエルは左手を振るい、爪先で銃弾をはじくノエル。そしてその腕の動きに合わせて体を回すと、二人に背を向けて膝をつく形になる。
「にン……ゲン、め……!」
ゆっくりと立ち上がるノエル。ユースもアルミナも、次の行動に移れない。背中越しに振り向くノエルの眼差しが放つ覇気は、力を使い果たした二人の心をわし掴みにする。そしてとうとう二本の足を地に着け、二人を正面に立ち上がったノエルは、割られた頭からどくどくと血を流し、ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返している。血に染まった獅子面の放つ威圧感は、魔王の持つ圧倒的覇気さえも想像させるものであり、空を飛べることも忘れて一歩後ずさるアルミナは、かちかちと歯が鳴るほど唇が震えてしまう。
真正面の二人に向け、声の波動だけで吹き飛ばされそうなほどの雄叫びを放つノエルに、二人の肌がびりびりと痺れた。腰を抜かしかけたように後ろにふらつくアルミナに、百獣王ノエルが地を蹴り、飛びかかったのがすぐ後のことだ。目の前から迫る巨大な怪物の姿を、凍りついたアルミナは目に映しながらも、何が起こって何をすべきかも全く考えられなかった。
アルミナを頭から粉々に粉砕するノエルの掌が振り下ろされた瞬間、横からアルミナに飛びつき、抱きかかえるようにして倒れた騎士がいる。ユースに命を救われるようにして、共々地面へと転がったアルミナのすぐ横、ノエルの掌が地面を爆発させるほどに砕いた。それによってはじけた泥、体を貫く痛み、それでようやく我に返ったアルミナは、自分を抱きかかえたまま途切れ途切れの呼吸を繰り返すユースに気付く。すぐ近くにあったユースの顔も、恐怖と霊魂の疲弊で真っ青に染まっている。
完全に無防備、次の行動に移れない二人の方へ、よろめくノエルがなんとか顔を向ける。頭を真っ二つに割られているのだ。目の前はぐにゃりと歪み、地面に転がっている人間の姿も、下手をすれば大きな石ころに見える。傾きかけた体の軸を正し、血の入った目を大きく開き、それが憎き対象であると再認識すると、ノエルは片足で地面を踏み砕き、支えた体と意識を強引に持ち直す。
「や……!?」
死ね、の言葉も形にならず、大口を開いて掌を振り上げたノエルの姿を、ユースに抱きかかえられたままのアルミナが目にして、短い悲鳴をあげた。我に返ったユースが振り返った瞬間、掌を振り下ろして二人を叩き潰そうとしていたノエルの巨体が、横殴りを受けたように真横に吹き飛ばされる光景がある。
マナガルムの渾身の体当たりが、屈強なノエルの体を押し倒したのだ。獅子のような巨大なマナガルムにのしかかられても、足掻くように体を上に向けるノエルのパワーは凄まじい。しかし次の瞬間、大口を開いたマナガルムの口が、二つに割られたノエルの頭に力強く食らいつく。
地獄の痛みと形容するのも生易しい、割られた頭の傷にマナガルムの牙を突き立てられる悪夢に、百獣王ノエルが絶叫をあげてもがく。マナガルムの胴体に爪を突き立て、のたうつ踵で地面を砕き、のしかかった巨獣を引き剥がそうとする。早く息絶えろと顎に力を入れるマナガルム、ばたつく百獣王に揺らされる相方の背中にしがみつくキャル、吠え叫ぶノエル。地獄絵図とはまさにこのことを言うのだろう。
「ッ……ガアァッ!!」
それでも屈さぬノエルの膝が、マナガルムの腹部を突き上げ、その肉体を頭よりも上の方向へ向けて蹴飛ばした。ズタズタの内臓でいっぱいの腹を蹴り上げられた衝撃には、マナガルムも顎の力を失い、引き剥がされるようにして力なく飛ばされる。背中に乗せたキャルが振り落とされたことも、今の一撃で意識を失いかけたマナガルムは認識できていない。
地面に爪を突き立てて立ち上がろうとするノエルは、体を起こすことが出来ない。それでも首を持ち上げて、憎き人間どもを見据えようとする。飛びそうな意識の中、地面に倒れたままのアルミナを睨みつける。
そこに一人しかいないとノエルが認識した瞬間には、すべてが終わっていた。剣を握って跳躍した騎士が、ノエルの額を地面まで真っ直ぐ串刺しにしたからだ。一度割られた頭の傷を、さらにもう一度貫かれたノエルの全身がどくんと跳ね、己の喉元を踏みつけるように着地した騎士が、剣を片手に自分を見下ろしているのが、百獣王にとっての最後の光景だ。
その一撃で精も根も尽き果てたユースは動けず、そんなユースを横からその手で掴もうと持ち上げたノエルの生命力は、どこまでも死を知らぬ化け物の姿とさえ思えるものだった。だが、ユースの眼前、真っ赤だったノエルの目から血の気が引き、ぐるんと眼球を裏返したその時、震えながらユースへと持ち上げられた手も、どさりと地面に落ちた。
剣を抜くことも出来ないユースの前、百獣王ノエルがとうとう息絶えたのだ。魔王マーディス存命の時代より、長く人類を苦しめてきた怪物は、最期まで抗う者への憎しみを失わぬまま死んでいった。
「ユース……!」
ノエルからよろめくように離れたユース。這うように、だけどなんとか立ち上がり、駆け寄ってくれたアルミナに寄りかかるようにして、ユースは荒い呼吸を繰り返す。精気さえ失ったかのような目でうつむいて、剣とアルミナを支えに立つユースの姿は、限界を迎えた以外に抱ける印象がない。痛みに叫ぶ自分の体をこらえ、なんとかユースを支えるアルミナも、つらい自分のことも忘れてしまうほどだ。それぐらい、今のユースは横から見てまずい。
戦場のど真ん中、次に魔物が襲い掛かってきたら終わり。どうやってユースを安全な所まで導けばいいのか、アルミナが焦る頭を回そうとした時のことだ。アルミナの体を自分から離れたユースが、よろよろと歩き出す。その後ろ姿に一瞬言葉を失いながらも、アルミナはユースの肩を掴み、後ろから引き止める。
「やめなさいよ! もう無理でしょう!」
「行くんだ……! まだ、戦える……!」
「無理! 絶対に死んじゃう!!」
「離せ……っ!」
乱暴にアルミナの手を振り払い、目的地も見定まらないくせに歩き出そうとするユース。しかし、アルミナの手を振り払った勢いで、よろめいたユースは片膝をついて崩れる。すぐに立ち上がろうとするユースに、アルミナが駆け寄って背中から抱きつく。黙って見送れる姿ではない。
「撤退しようよ! それでも生きて帰れるかわかんないんだよ!?」
「嫌だ……! まだ、戦う……!」
「やめてよおっ! 本当に死……」
「うるさい! 俺だって男だ! シリカさんを守るんだ!」
しがみついたアルミナの重みを押し返し、立ち上がるユース。吐き出された声の気迫だけで押し返されたかのように、アルミナはユースを離してしまった。今の叫びでまた一本糸が切れたのか、剣を握ったまま両手で膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。もう一度組み付いて、息を整えたら駆けだしそうなユースを引き止めたいアルミナも、気圧されたように手を出すことが出来ない。今のユースを引き止める、正しい言葉がどうしても見つからないのだ。
(……バーダント様は、向こうにいる)
そんなユースの脳裏に響いた声。同じ声が、アルミナとキャルにも届いている。一度アルボルで聞いたその声にユースが振り向くと、地面に倒れてキャルに気遣われていたマナガルムが、真っ直ぐこちらを見据えている姿が見えた。
(行け。シリカとやらを助けたいなら、そこへ向かえばいいはずだ)
マナガルムが鼻先で示す方角。それはユースにとっては何よりの道しるべで、ユースを抑えたいアルミナにとっては死神の鎌の切っ先。自分があれだけユースを止めようとしていたことだって見ていたくせに、余計なことをしてくれたマナガルムには、アルミナも思わず怒りの眼を向けずにはいられない。
(止められないことはお前にもわかるはずだ。私にも、わかるのだから)
マナガルムがアルミナに伝える真実は、わかっていたはずのアルミナに突きつけられる形になる。百獣王ノエル討伐という快挙を起こせた今なら、何だって出来ると思えてもいいぐらいなのだ。そんな大番狂わせよりも叶えがたい現実とは、走り出そうとしたユースの心を引き止めることなんて、誰にも出来やしないという事実。一番そばで彼を見てきたアルミナこそ、それがわからぬはずがない。わかるけれど、どうにかしたいという想いが強かっただけだ。
「ユース……!」
マナガルムに一礼するように会釈したユースが、示された方向へ走りだす一瞬前。倒れたマナガルムにしがみついていた少女が立ち上がり、ユースへと駆け寄ってくる。一日じゅうマナガルムの背中に揺られ続け、痛んだ体を先ほど地面に叩きつけられ、上がらない左腕を力なく垂らしたキャルの姿は、走り出そうとしたユースも心配になるほどのものだ。なんだかんだでシリカに鍛えられ続けていたアルミナとは違い、繊細なキャルの体は、もう今日弓を握って戦い続けられるような体ではないだろう。それでも涙目で駆け寄ってくるキャルは、ユースの前で立ち止まり、はぁはぁと息づいて言葉を絞り出す。
「絶対、死んじゃ嫌だよ……! 必ず帰ってきて……!」
これ以上の力になれない自分を認めた彼女が訴えるのは、当たり前で、だけど全てに優先して叶って欲しい願い。真っ直ぐな瞳から届く率直な想いは、傷ついてなお戦場に立ち向かう戦士の心から、命を捨ててでもという狂気を吹き飛ばす。我を忘れて戦いに向かおうとしていたユースの目が、ゆっくりとだが普段のユースの眼の色に戻ったのがその証拠。何のために戦うのか、それは死と引き換えに守るべきものを守るためではなく、愛する人と再び平穏を過ごせる日々を取り戻すためではないのか。
悲痛なほどの訴えを声にしたキャルの頭を、横から優しくくしゃくしゃと撫でた者がいる。半泣きの顔で振り返るキャルの目の前にいたのは、まるで日頃と変わらぬ優しい笑顔を携えた姉。
「……大丈夫よ、私もついてるんだから。みすみすこんな奴、死なせてたまるもんですか」
空を飛ぶ必要もないのに翼を広げ、頼もしい姿を見せようとするアルミナ。魔力の無駄遣い、霊魂の不必要な疲弊。それでも見送る立場のキャルに、少しでも気概の強さを示そうとするのがいかにも彼女らしい。それが虚勢に見えないほど、愛用の銃を片手に胸を張るアルミナの姿は、歴戦の戦士にも劣らないほど堂々としたものだ。
「行ってくるよ、キャル。私とユース、シリカさん。みんな揃ってエレムに帰るからね」
伏せたキャルの目が滲んでいることなんて見なくてもわかる。ぐしぐしと目をこすり、小さくうなずいたキャルの頭から手を離すと、アルミナはその眼差しをユースに差し向ける。強くて、厳しくて、意志力に満ち溢れた目だ。
「やるわよ、ユース!」
「……ああ!」
一瞬キャルの方を見返すユースの背中をばしんと叩くアルミナ。今さら振り返るなと促すアルミナの手に押し出されるように、マナガルムの示した道を走りだすユース、後に続くように駆け出すアルミナ。そんな二人の背中を、顔を上げて見送ることも出来ないキャルは、荒廃したラエルカンの真ん中で泣きじゃくるばかりだった。
(……恩人よ、来てくれ)
マナガルムの思念がキャルを呼び寄せる。ぐい、と涙を拭って駆け寄ってくるキャルの前、マナガルムはゆっくりと立ち上がる。キャルが背中に乗れるよう、首の位置は下げたままにしてだ。体の外から中身まで、満身創痍のマナガルムだが、それでも最後の仕事を果たすまでは力尽きられない。
乗ってくれ、と語りかけてくる相棒に従うまま、キャルはマナガルムの背中に乗る。小さくうめいたマナガルムを案じたくなるキャルだが、振り返らなくても優しい彼女の想いを察せるマナガルムは、ふんと鼻息を鳴らして立ち上がる。まだまだ走れる、こんなところで死ぬつもりはないと、無言にして態度で表せる強さは、下手な武人よりも余程人間らしくて雄々しいものではないか。
(さあ、行こう。私も故郷の子供達に会いたくなってきた)
険しい大自然、アルボルで生き抜いてきた母なる巨獣は、そう簡単には屈しない。我が子の命を守ろうとしてくれたキャルを安全な所まで連れて行くまで、絶対に倒れるわけにはいかないのだ。その仕事を終えた後だって、アルボルに残してきた子供たちが大きくなるまで、見守ってやるという使命がある。多少の魔物との遭遇があっても、死力を尽くして踏みにじり、生存への道を駆け抜ける覚悟がある。
背中にしがみついて震えるキャル、傷ついてなお守るべきもののために走り出したユースとアルミナ。優しさ、強さ、折れない心、人間どもの中でも若い方であろうに、たいした器だとマナガルムも思わずにはいられない。子供たちを遺して先立った、頼もしい夫の姿と重ね合わせても、アルボルからの縁である三人の姿は、決して見劣りしないものだと思えた。
廃墟を駆ける中でマナガルムは考える。自分の子供達も、あんなふうに強く育ってくれれば嬉しいと。
ラエルカンの各地は既に閑散とし始めていた。人類も、魔物達も、将格を次々と失い、撤退した人類や息絶えた魔物達に放置された戦場は、雨上がりの夕日に照らされて無情な美しさに輝く。ウルアグワの魔力に操られかけた戦場の血飛沫も、エルアーティの魔力に抑圧されていなくたっておとなしくしている。生者がおらず、標的も殆ど見当たらないからだ。
法騎士シリカが駆けつけたこの場所は、ラエルカンの大教会。ほんの少し前までこの方向から、破壊音と戦士達の叫び声が聞こえていたからだ。至ったその頃には、あるいは正確には、数秒前から激しい交戦音は絶えている。いっそう破壊された廃墟の風景と無残な死体、吹き飛んだ石畳の下に寝そべる地面が、雨水や血を沁み込ませてぬかるむばかりの光景だ。無音、無風、血の匂いだけが漂う教会前には、ぬかるみに残された足跡が、教会へと向かって伸びている姿だけが残っている。
シリカも顔を知るような、名高い聖騎士の遺体がすぐ横にある。彼の命を奪ったばかりの怪物が、今は教会内に居座っているのだ。駆けていた足を止め、惨状を目の当たりにして心臓の音を自認するシリカも、折れぬ心を眼差しに表して教会に踏み入れていく。決して勢いよくではなく、一歩一歩の重ささえも確かめるようにだ。
「来たか」
入り口をくぐったシリカの前に広がる大聖堂。目線の遥か先、大きな教壇を座布団代わりにしてあぐらをかく大柄の魔物は、葉巻をくわえたまま低くそう呟いた。遠くてその声ははっきりと聞き取れなかったが、高所から遠き自分の人影を見下ろして、そいつが機嫌よさげに笑っていることだけは確かめられる。
その獄獣は、ラエルカンすべての大地を走る足音を聞き分ける"耳"を持っている。"飼った"人間、法騎士シリカがどこにいるかもそれでわかっている。戦場巡りの末、ラエルカン大教会前に再び辿り着いて暴れる自分、その音を聞きつけたシリカがここへと向かっていることも"聞いて"いた。少し後に控えた"収穫"前、僅かな一服を嗜んでいた獄獣の葉巻がまだ長いのは、今しがた火をつけたばかりだということなのだろう。
「……ディルエラ」
「歓迎するぜ。楽しみにしてたんだ」
教壇の上であぐらをかいていた獄獣ディルエラが、畳んでいた片膝を立てる。ゆっくりと大聖堂を縦断し、自分へと近付いてくるシリカが、突然一気に駆け迫ってきても、好きな時に脚力を以って動ける姿勢を作っているのだ。単に座り方を変えただけの行動に見えたって、油断も隙も見せないディルエラの態度は、その全ての行動に表れている。
教壇の横に置いてあった、人間大の女神像の頭をディルエラが掴む。石の塊である女神像を軽々と持ち上げたディルエラの前、大聖堂の真ん中でシリカが立ち止まって騎士剣を構える。あんなものだって飛び道具に出来る腕力が、ディルエラにはあるのだ。行動のみで牽制してきたディルエラが、葉巻をくわえた口の端を持ち上げ、上機嫌に笑っているのが、近付いた今ではさっきよりよく見える。
「時にお前は、脳味噌筋肉だと言われたことはねえかな」
「……あまり言わないでくれるかな。気にしているんだ」
「そうか、そいつは悪かった」
ディルエラは握った女神像を、勢いよくシリカの後方上空へと投げつけた。石の塊、女神像は教会入り口の上部に激突して粉砕、同時にひび割れた教会の天井を粉砕し、瓦礫の山を入り口へと降らせる。後方で、女神像によって砕かれた教会の天井が、入り口を塞ぐ瓦礫の山になったことは、耳に入る音の数々からシリカにもわかることだ。
壁面に点在する窓ありしとはいえ、正面きってのここへの突入口は失われた。広大な大聖堂をバトルフィールドに選んだディルエラとの、救援介入者の期待できない一戦。自分より強き者との、完全なる一対一だ。確かにこの状況を招いてしまったというだけでも、数秒前の利口でない自分をシリカだって意識する。ディルエラの言葉の意味はよくわかる。
一段高い教壇からよっと飛び降り、大聖堂の床に着地したディルエラは、それだけで軽く地面を震わせた。何もしていない、ただその超重量だけで生み出す振動だ。葉巻を指先で口元から引き抜き、はじき飛ばして口から濃い煙を吐くディルエラは、煙の向こう側で自分を見据えるシリカと目を合わせる。動かぬシリカの前で、左足を一歩出して構えるディルエラは、背負ったままの大戦斧を手にかけぬまま、利き腕の右手を引いている。
「……全力で来るんだな」
「ハンデなんかくれてやるかよ」
サーブル遺跡で初めて出会った時、ディルエラは武器を握らず、小動物に対するハンデだと言い放った。本質はそうではない。人間は、ディルエラの怪力を以ってすれば、武器など用いずとも一撃で破壊できる存在なのだから。大振りの武器を使うことは、的の小さな人間に対しては威力過剰かつ、命中率を落とすだけの愚策であり、素手の格闘戦こそ対人間におけるディルエラの全力だ。
あの日の言葉をシリカが鵜呑みにしていなかったことに、ディルエラは心底に満足を覚えていた。飼った人間は、最高の状況で自分と戦い、殺されて貰わなければならない。遊び心で吐いていた大嘘を真に受けず、素手で戦うことを選んだ自分を全力と認識するシリカ、それが相手でなければ飼った価値が無い。
最後に勝つのは必ず自分。敗北の末にあるのが自らの死である以上、そんな時のことを想定してディルエラは"飼い"を選ばない。望む形の中で最高の獲物を前に、ディルエラが大足を振り上げ、ふんと大きな鼻息と共に床を叩く。その瞬間に足裏から、ディルエラから前方半円状に床を走る衝撃波は、大聖堂の床を叩き上げて駆け抜ける。
ディルエラ真正面のシリカが騎士剣を振り下ろし、衝撃波を割った末、シリカ周囲の大聖堂の椅子の数々が破壊され、シリカ後方の道だけが綺麗な形で残る。両脇の長椅子が破壊され、跳ね上げられた後に降り注ぎ、瓦礫の山に変わるのだ。大聖堂は、平たい戦場へと書き換えられた。
「短い時間で随分代わり映えたな。食べ頃ってやつだ……!」
長い時間、戦場を駆け巡っていたシリカの足取り、交戦した魔物達の動き、彼女に討ち取られたと思しき配下が転がる音。すべてを聞いていたディルエラは、かつて顔を合わせた時と今のシリカが全く違う戦場力を持つことを知っている。人はただでさえ、短い時間で容易に変わり映えるものだ。大精霊バーダントがシリカに加護を添えていることなど知らずとも、今までとは違うシリカが目の前にいることに、ディルエラは一切違和感を感じていない。
油断、慢心、一切なし。捕食者と挑戦者が対峙するラエルカンの大聖堂。張り詰めた空気を打ち破る、拳の骨をぶつけた獄獣の鈍い音。それを決戦の合図と受け取ったかの如く、シリカの眼差しがいっそう闘志を宿して敵を突き刺す。始まるのだ。
「さァ、殺し合いだ! かかって来い!」
言葉を最後に息を吸い、崩れかけた教会を声だけで揺るがす獄獣の大咆哮。人の体も吹き飛ばしそうな轟音を真正面から受け止めたシリカが、戦場を蹴飛ばし一気にディルエラへと迫った。




