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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第14章  闇の目覚めし交声曲~カンタータ~
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第226話  ~若獅子の挑戦② 百獣王ノエルVS騎士ユーステット~



 戦いで勝利を収める条件とは、究極的には二つある。一つは敵の攻撃を受けず、自分自身が傷を負わないこと。もう一つは自分の攻撃を相手に届け、致命傷を与えて戦えなくすることだ。


 今のユースには片方が決定的に欠けている。前者はまだいい、生きているうちは足りているで良いのだ。百手の修羅の如く、長いリーチから無数の攻撃を繰り出してくるノエルの攻撃から逃げ惑うだけで、一撃も反撃することが出来ない。目で追いきれないのだ。すべての攻撃を、相手の射程範囲外まで逃れることで回避しているに過ぎず、目に見えて後ずさる形で追い詰められているだけ。


 前方からの狂爪の乱打に集中せざるを得ず、普段なら見落とすはずのない後方障害物への距離感も、正しく把握できないほどだ。自分から廃屋の壁に背中をぶつける寸前、逃げ道なしと血の気が引いた瞬間、側面からノエルの脚が、ユースの二の腕めがけて飛んでくる。


 跳んでかわすしかない。ほんの少し体を後ろに逃がしながらの跳躍で、上昇しながら後方の壁を蹴ったユースは、ノエルの背後遠くを目がけて自らを斜方投射。上向きの力をほとんど加えず蹴ったことで、滞空時間は最小限だ。それで正しい。着地と同時に身を翻した瞬間には、既に間近にノエルが迫っている。あと一瞬滞空時間が長かっただけで、浮いた体に逃げ道はなく、攻撃一閃でとどめを刺されていた。


 ユースへと駆け迫るノエルへ、上空から銃弾を放ったアルミナの一撃も、全くノエルには影響を及ぼさない。額に迫る銃弾を容易に爪先ではじき飛ばした末、減速すらせずユースを射程距離内に収めると、爪を尖らせての突き、前蹴り、爪を薙ぐ一撃、振り下ろす拳、次々にユースへの乱打を浴びせてくる。腰に力を込めた全力攻撃でなくとも、半分未満の力でも人体の粉砕に届くパワーを持つノエルは、一撃一撃が当人にとっては撫でるようなもので、そのぶん手数が多い。敵の動きが一瞬早く、かわされた当たらぬと見えればすぐに四肢を引くから、次の一撃まで時間がかからない。


 ノエルの爪が矛でもあり盾でもあり、それが必ずノエルの懐にある。深く踏み入っても、今のユースに攻め落とせる脆弱な盾ではない。攻められない。一撃はじかれ体勢を崩されたら終わりだ。逃げ惑うように回避一辺倒のユースの姿勢が物語るとおり、ユースには無数の攻撃をかいくぐった末、敵の盾を破って決定打を与えるだけの力が無い。完全にじり貧を強いられたユースの状況は、相手を見てベストの戦い方を選んだノエルの野生力が生み出した意図的なものだ。


 これでは駄目だとユースもわかっている。ノエルの方が先に体力を尽かすはずがない。長々とこんな展開を繰り返されては、いつか刃が自分に届いて死ぬだけだ。今でさえ顔の横をかすめていくノエルの爪先が、肌を冷やす風を突き刺していくこの状況を、なんとか打破しなくては未来はない。切り札はユースにもある。


 2秒の回避時間、その間だけで5度以上の攻撃が浴びせかけられたが、すれすれの生存を果たしたユースの盾には、その長い短時間で集めた魔力が集約されている。胸元目がけて突き出されるノエルの爪先を予感した瞬間、ここが死中の好機だと反射的に判断するユース。正解か不正解かはわからない。


英雄の双腕(アルスヴィズ)……っ!!」


 突き出されるノエルの爪を、振り上げた盾で上空へとはじき上げるユース。退がりながらのユースに刃を差し向けていたノエルは、それだけ前のめりになっている。その腕をはじき上げられたことに、ノエルの体勢が上ずるのも自然な流れである。ここまではいい。それ以上踏み込んでこないノエルの懐に飛び込むべきか、振り上げられた腕を獲物とするべきか。


 どちらも不正解。頭上へと逃げたノエルの手首を切り裂こうと、ユースが騎士剣を振り上げようとした瞬間のことだ。右腕を振り上げられたノエルの左脚が、とんでもない速度で真正面からユースに襲い掛かっている。第一の矢がはじかれようと、瞬時に第二の砲弾を放つノエルの連続攻撃は、そのまま腕を斬ろうとしていても、懐に飛びこんでいても、ユースを捕えて粉々にしていただろう。結果としてユースは、後ろに跳び退がって恐怖の一撃から逃げるしかない。地を蹴った直後、伸びきったノエルの脚が自分の鼻先まで届きかけ、突風に目を潰されかけた瞬間には一層肝が冷える。


 ノエルのパワーにも抗い得た、英雄の双腕(アルスヴィズ)の切り札もこれで露呈した。ノエルもそれを念頭に置いた戦い方をしてくるだろう。先程までとまったく変わらず、すぐさまユースへと近付き連続攻撃を放ってくるノエルだが、これ以上増えない手札を晒した時点でさっきより最悪だ。まして渾身の英雄の双腕(アルスヴィズ)でも、隙すら作れずなんら状況を変えられないと思い知らされたユースの心も、絶望に足を一歩踏み入れている。気持ちでも負けそうになったらどうやって勝てばいい?


「駄目! アルミナ!」


 ユースに活路一切なし、客観的に見てわかる事実。空からこの状況を見届けるアルミナは、ユース以上にそれがよくわかる。第三者の介入なくして、ユースの死が確約された未来が変わらないこともだ。後方の空から、ノエルへと急降下するように接近するアルミナは、胸元のベラドンナの制止する声も振り切っている。


 ノエルの腰を後方上空から撃ち抜く銃弾を放ったアルミナに対し、風を切って迫る弾の気配を察したノエルは地を蹴って跳躍している。ユースからノエルが離れた。だが、低空位置にあるアルミナへと、背を向けたままノエルが急接近してくる光景は、彼女にとってもユースにとっても最悪の未来図が脳裏をよぎるものだ。


 射程距離にアルミナを捕えた瞬間、体をひねって回し蹴りを放つノエルの一撃は、敵の跳躍前からすでに上昇していたアルミナをかすめて空を切る。それだけ早く動いていてもぎりぎりなのだ。保険に保険をかけまくった最速行動でこうなのだから、踏み込み過ぎては即死ものだと思い知らされたものだ。そんな確信を顧みる暇もなく、上空のアルミナ目がけて爪を振るったノエルが、獲物へと切断の魔力を飛ばしている。血爪斬(ブラッディクロウ)は銃弾に勝る速さで迫り、剣よりも鋭い切れ味を持つ必殺の一撃だ。


「死んじゃうから、本当に……!」


「黙ってて!!」


 上天まっすぐ飛翔していた状況から、背中を真下に向けるほど体を逸らしたアルミナが、折れた軌道でノエルの魔力を回避。あんな化け物に攻めかかることなんて、死に急ぐだけだと叫ぶベラドンナの声も、今のアルミナには通じない。何もせずに、黙って殺されるユースを眺めていろなんて死んでも嫌だ。


 ぐるんと体を回して下を向いたアルミナは、着地寸前のノエルへと頭上から銃弾を放っている。爪先ではじくことも出来たノエルは、地に足が着いた以上そうしない。地に降り立った直後の自分へと差し迫る、恐れ知らずの生意気な騎士がいることぐらい見えている。


 アルミナの銃弾を地面のひと蹴りで逃れたノエルだが、位置をずらしたノエルの動きを先読みするかのように、的確に接近するユース。ここまで生き残ってきた人間、いかに若そうに見えても侮るべきものか。それぐらいの判断力を見せる実力者であるからこそ、油断なき反撃を返すのみ。回転後ろ蹴りを一突きだ。


 百獣王の体重を乗せたこの一撃、いかに英雄の双腕(アルスヴィズ)でも退けられるものだろうか。爪が来るならよかったところを、読みをはずしたユースは盾に集めた魔力に頼る愚策を消去。飛び越えてノエルの頭上を舞うしかない。まずい。シリカ譲りの回転剣技を、ノエルの頭を真っ二つにする形で振るうが、百獣王ノエルの回避力はエルダーゴアより上。苦し紛れの一撃で相手が怯むなら儲けものだが、その期待すら踏みにじるかのように、頭を下げて回避したノエルが、着地へと向かうユースへと既に迫っている。予想される中での最悪の展開、逃げ場なし。


「ユースっ!!」


 空中のユースへと勢いよく滑空したアルミナが、真横からユースに体当たりするようにして、彼の軌道を強引に変えてみせた。代わりにユースの位置へアルミナが留まる形となるが、ぶつけた肩の痛みをこらえてノエルに向けた銃口、そこから銃弾を放つアルミナの一撃は、迫るノエルをほんの一瞬だけ怯ませた。


 歩速が一瞬衰えただけで、銃弾も容易に爪先ではじかれたが、ここ一番の局面で僅かに敵を足止め出来たことは途轍もなく大きい。突き飛ばされて地面に向かうユースが、それでも空中姿勢を整えて着地できる実力者と読むノエルは、アルミナへと跳躍して飛びかかっている。この判断も的確だが、今生じた一瞬の間が、アルミナに逃れるための時間を作った。


 ユースが地に足を着けて降り立つ目の前、背上を突き放すように翼を羽ばたいたアルミナが急下降、殴りかかるノエルの攻撃をかわして沈み込む光景が展開される。そのまま上昇放物線を描き続けるノエルだが、覗き込むように下の二人を見据えた瞬間には、既に足の爪に魔力を集めている。いつ、どこからでも、ノエルは攻撃に移れる。


 空中で体をひねったノエルは、軽業師のようにその足を二人に向けて振るった。足の爪から放たれる弦月血爪(クレセントクロウ)の魔力は、まるで人を数人背中に乗せられる怪鳥が、翼を広げて突進してくるかのように巨大なもの。見ただけで気を呑まれそうな三日月形のカッターに、自分から地面へと叩きつけられるかのように急下降したアルミナと、顎が地面につく寸前まで身を沈めるユース。二人のすぐ上を駆け抜けていった切断の魔力は、駆け抜けるままに地面を抉り、泥を跳ね上げて大地に深い傷跡を残していく。石畳が地割れのように深い穴傷を開けられている。


 着地寸前、容赦なき最速の血爪斬(ブラッディクロウ)の追撃を放つノエルは、ユースとアルミナ両方に切断の魔力を飛ばしている。地面に自ら叩きつけられた直後のアルミナに、これから逃れる手段はない。すぐに体を跳ね起こしても立ち上がっても、すでに目の前にはノエルの刃。自らに迫っていた血爪斬(ブラッディクロウ)を回避するを兼ね、アルミナとノエルの間に割って入ったユースがいなければ、完全に終わっていただろう。


 決死の英雄の双腕(アルスヴィズ)により、ノエルの血爪斬(ブラッディクロウ)をその盾で受け、腕が折れそうなほどの衝撃にもこらえたユースが、迫る切断の刃を上方に逸らせただけでも奇跡的だ。そうして体勢の上ずったユースに、飛ばした切断の魔力を追い抜くような速度で迫ったノエルの巨体こそ、若き騎士に死を予感させる死神の影。最速にして決定打、駆けた勢いも乗せたノエルの正拳突きは、予想できても今のユースに回避できるものではない。


 胸の前に盾を急落下、英雄の双腕(アルスヴィズ)の魔力を纏う、同時に後方へ地を蹴って衝撃を逃がす。そのベストを尽くしてなお、ノエルのパワーは完全にユースに対しての決定打だ。ノエルの拳を受けた腕がぎりぎり折れずに済んだのも、そのパワーの殆どがユースを吹っ飛ばすためのエネルギーに使われたから。百獣王のパワーを一身に受け、後方へと叩き飛ばされたユースは廃屋の壁へと一直線。ひびわれた石造りの壁が粉々に砕けるほどの勢いで叩きつけられたユースは、肉体の芯まで砕かれて、瓦礫と化す廃屋の向こうへと消えてしまった。


 殴り飛ばされたユースが、地に屈した自分の頭上を通り過ぎていく悪夢を目で追った直後、振り返ったアルミナの眼前にはすでにノエルがいる。振り上げた爪が自らに振り下ろされる一瞬前、アルミナの中で時間が止まったように感じられたのは、確定した死を魂が確信してしまったからだ。一瞬で脳裏を駆け抜けた走馬灯のような思い出の数々は、世を去るアルミナに与えられた最後の時間だったと言える。


 惨殺の一撃、そのノエルの爪が振り下ろされなかったのは、背後からノエルの延髄めがけて、一閃の矢が飛来したからだ。アルミナを仕留められたはずの一撃より速く迫ったそれに、素早く振り返って爪を振るうノエルが矢をはじき返す。後方からの攻撃にも隙を見せないノエルの戦闘勘が、結果的にアルミナの命を僅かに先延ばしにした。


「アルミナ……!!」


 放心寸前だったアルミナを呼び覚ますベラドンナの叫び声が、無我夢中で地面を突き放すと同時に翼を広げるアルミナの、生存への行動を形にした。振り返ったノエルの眼前、空高くへと素早く逃げた彼女の姿が見えるが、すぐに矢を放った不届き者を見据え直すノエルは、老いた傷つきし巨獣に殺意を向ける。


「逆らう者には容赦せぬ……!」


 ノエルの一撃を受けてなお立ち上がったマナガルムが、咆哮と共に放つ突風と真空の刃で、駆け迫るノエルを真っ向から迎え撃つ。その巨体さえ吹き飛ばされそうな突風に、地を蹴る加速度と推進力で勝って差し迫るノエルは、真空の刃もキャルの放つ矢もかいくぐって近付いてくる。敵を射程範囲内に捕えたノエルの突き出す爪、痛む体に鞭打ってノエルを飛び越えたマナガルムへ向け、振り返りざまに爪を振るう形で、血爪斬(ブラッディクロウ)の刃を放つノエル。空中で身を捻り、それに対して吠えると同時、マナガルムは眼前に展開した水の盾で受けきってみせる。切断の魔力は水の盾を貫かない。ここはマナガルムの魔力の方が上回っている。


 内臓まで粉砕されたマナガルムに、あと何度こんな芸当が出来るだろう。吠えただけで口の中が、腹から逆流する血でいっぱいになる。着地と同時にキャルの放った矢も、容易にノエルは爪先で撃退。上空から銃弾を放つアルミナにも、血爪斬(ブラッディクロウ)を飛ばして銃弾を切り落とし、同時に彼女をも狙い撃つ一撃を放っている。大きく体を傾けてよろめき、かわしたアルミナも咳き込んでいる。地面に一度体を叩きつけた直後なのに、無茶な動きは体を痛めつけるばかりだ。


 無傷のノエルがマナガルムへと駆け迫る。地を蹴り廃屋の頂上に逃れても、血爪斬(ブラッディクロウ)という飛び道具を持つノエルは攻め手に欠かない。血を吐きながら逃れ続けるマナガルムも、もはや全力最速の行動を行使できていない。マナガルムの背上で身を揺らされながらも矢を放つキャル、歯をくいしばって引き金を引くアルミナ、たった二つの小さな武器を、差し向けられるたびノエルの爪が踏みにじる。


 好転の予感なき戦場。傷ついた二人と一匹が、やがて力尽きた末に屠られるまでのカウントダウンも一桁を切っている。開戦から僅かな時間で優劣の定められた戦場は、救援が駆けつけるまでの時間すら稼げていない。孤立した戦場の一端で、灯火の消えかけた命が百獣王の前でゆらめいている。


 天は自らを救う者を救う。彼女らの命を救えるのは今、彼女らしかいないのだ。二人と一匹、そしてもう一人。ふらつく足取りに鞭打って、砕けた体を引きずって、なおもこの戦場に舞い戻ろうとする、小さな影の再来をノエルは見逃さない。思わず彼の姿をノエルが振り返ったのは、満身創痍の獲物達を仕留めようと攻め立てていたこの十数秒で、あれだけの一撃を受けた人間が立ち上がってきた驚愕ゆえ。マナガルム目がけて振るっていた爪をかわされ、次の一撃を差し向ける手も止まるほど、早いその復帰は予想外のものだったのだ。


「貴様……!」


「っ……負ける、か……! お前なんかに……!」


 むせかけた呼吸の中から絞り出す、気持ちだけの言葉もしっかりとノエルの耳に届いている。お前"なんか"。王を侮るその発言に、ノエルの怒りが最高潮まで高められたことは言うまでもない。そうではないが、これが狙った挑発なら、最善最高のタイミングで成功させたものだったと言える。


 だが、ユースの寿命は恐ろしい速度で短くなった。全身ずたずたのユースへと差し迫るノエルは、激情任せの凄まじき速さ。気合を一喝、身を奮い立たせて目を鋭くするユースだが、絞り出した体の動きが実現するのは、差し迫るノエルの爪や脚を回避し続けることだけ。今にも息が絶えそうな中、百獣王の憤怒の形相を前にして、開ききれない薄目で体を傾け、沈め、流す。頭上をかすめる蹴り、退がった自分の胸前まで迫った爪、一瞬前まで自分の立っていた地面を砕く拳。腕をほんの少しかすめただけで、ずばりと接触以上の裂傷を促す絶大なパワーが、返す手も導き出せないユースをどんどん追い詰めていく。


 無我夢中、自暴自棄、やけくそとも思えるほどの速度でノエルへと迫ったアルミナの行動は、命を賭けてでもこの状況を変えたいと思った、彼女の精神の真骨頂。やめてと絶叫したベラドンナの声すら耳に入れず、ノエルの背中に体当たりするように迫るアルミナに、百獣王が気付いていないはずがない。止まる気配のない捨て身の突撃に、振り向きざまに回し蹴りを放つノエルの眼光は、一瞬それを見たアルミナの胸元のベラドンナも、盟友の頭が爆散する未来を思わずにいられなかった。


 勝利と生存、それを願ってやまないアルミナの翼が一瞬にしてひとまわり大きくなったのは、心から活路を求めた彼女の精神が為した、魂から絞り出される魔力の急噴出によるもの。ノエルの脚がアルミナを轢き殺すまさに一瞬前、急加速とともに高度を沈めたアルミナの残影は、百獣王さえ完全に獲物を捕らえた錯覚を得たほどだ。脚が空を切った認識をノエルが得たその瞬間、怪物の脇すぐそばを駆け抜けたアルミナの銃口が火を吹き、百獣王の厚い筋肉を銃弾が貫く結果を残す。


 ユースの目でも追いきれなかった一瞬の錯綜だが、回し蹴りを放ったノエルの動きが一瞬鈍ったことだけは、隙を見逃すまいとする戦士の血が見逃していない。身のすぐ横を駆け抜けていくアルミナの体とすれ違う形で、一気にノエルへの距離を詰めたユースが、首だけ振り返ったノエルの喉元へと迫っている。完全に虚を突いたこの一撃でさえ、振り下ろす爪で叩き落としてくるのだから、やはり一度魔王の側近を務めた怪物の名は折れない。


 それと同時にノエルの側面から、肩口を狙い済ました一閃の矢が迫る。近衛騎士ドミトリーに傷つけられた大きな傷を貫いた矢には、さしもの百獣王でも目が覚めるような痛み。怯みかける、しかし一切の隙を見せてはいけない局面。見開いた目が語る王の闘志は、矢によるダメージをも握り潰し、目の前で剣を地面に叩きつけられたユースへの前蹴りを実現させる。


 地を這うほどの低さから繰り出される蹴りに、跳躍と同時に盾を構えたユース。日頃後方に逃がしていた衝撃を上方へ、全身全霊の英雄の双腕(アルスヴィズ)の魔力を盾に集わせ、自分を殺し飛ばそうとしていたノエルの脚の力を、上向きの力へと受け変える。百獣王の凄まじい脚力を受けたユースの肉体は、自らの肉体へのダメージを飛翔の力へと殆どを変え、天高くまでその肉体を叩き飛ばされる形となる。


 限りなく上一直線に近い、ユースの体が描く鋭い放物線。落下予測地点はノエルも読んでいる。なんとかユースを救おうと、吠える突風と真空の刃でノエルを狙い撃つ、マナガルムにもノエルは屈しない。爪を振るい、血爪斬(ブラッディクロウ)の魔力を飛ばし、逃れようと廃屋の屋上を蹴ったマナガルムが、次の屋上で膝から崩れ落ちかけた頃には、ユースの落下予測地点で上天を見上げるノエルの姿がある。


 迎えるだけか。そうではない。最高点に到達し、捕食者へと真っ直ぐ落ちてくる生意気な人間へ、沸き立つ殺意を魔力に変えたノエルは、それを足の爪に収束させている。


「死ね……!」


 その場で跳躍、後方宙返り、足の爪で三日月の形を描いたノエルの爪先が、空へと向けて特大の弦月血爪(クレセントクロウ)を放った。地に足を着けたノエルの眼前には、既に対象に向けて空へ駆ける、巨大な切断の魔力の後ろ姿がある。そして落ちていくユースの眼前にあるのは、豆粒のように小さな地上のノエルから放たれた、急接近してその巨大さを主張する殺意の刃。


 無意識にでも、魔力を盾に集め始めていたのは、同じような局面をワーグリフォンとの戦いで迎えた経験が活きていたのだろうか。逃げ場の無い空、向かう先から迫る致死の魔力。生き残ることを望むなら、とるべき行動など一つしかない。考えるより早く動く体というものは、積み重ねてきた力が過去から生み出す、数々の戦場を生き抜いてきた者にしか与えられない。


英雄の双腕(アルスヴィズ)……っ!!」


 構えた盾に衝突する、百獣王ノエルの切断の魔力の巨大な弧。ユースの精神、ノエルの精神、それらを具現化した生と死の魔力が、激熱を以ってぶつかり合う。ワーグリフォンの魔力を遥かに凌駕する、百獣王ノエルの必殺の魔力を前にして、ユースの魔力が破られて切り裂かれる一歩前。


 嫌だ、負けたくない、生き延びたい。魔力を介して伝わるノエルの、自分を息絶えさせたいという濃厚な精神力に、触れた瞬間に折れそうになったユースの精神力が火を噴き返す。閉じた未来、闇の中、それを切り拓くための英雄の双腕は、文字通り盾を構えたユースの左腕を、剣を握ったままの右拳で押し支える形が何より体現している。終わってはいけない、負けてはいけない、まだ何も成し遂げていない。空高く絶叫、百獣王にも勝る咆哮とともに腕を押し返したユースの精神力は、完全に自分を真っ二つにするはずだったノエルの魔力に屈しない。それが生み出す魔法の力は、ユースへ向かって一直線だったノエルの弦月血爪(クレセントクロウ)が、衝突した対象に打ち返されて、地上のノエルに真っ直ぐはね返される結果を形にした。


 必殺の奥義が自らに向け、そっくりそのまま返ってくるなど、ノエルほどの歴戦の強者とて前代未聞の出来事だ。唖然一歩手前の驚愕、何が起こったか理解できぬ光景、それでもノエルの血が叫ぶ野生力は、後方に跳び退くことで巨大なる切断の魔力をかわす結果を導き出す。すんでのところで危機を逃れたノエルの眼前、殺意の魔力が本来の対象ではなく、飛散する泥とともに地面に深き爪跡を残していく。


 自らの弦月血爪(クレセントクロウ)の回避に完全に意識を奪われたこと、土が跳ねて眼前が曇ったこと、考えずに頭が導き出した、さっきまで自分がいた場所にユースが落ちてくるはずだという先入観。たった一瞬の百獣王の静止、それが勝負の明暗を分けた。高空から重力加速度に引っ張られ、凄まじい速度で落ちていくユースに、背中からしがみついた誰かがいる。空に飛ばされたユースと同じ高さまで昇り、彼がノエルの弦月血爪(クレセントクロウ)をはじき返すより早く、その身を未来の勇者へと滑空させていた彼女。奇跡を起こし、百獣王の力を打ち返せるあいつだと信じていなければ出来なかった、最速の行動だった。


 いけの一言を大伸ばしにして叫ぶアルミナの翼が、抱きついたユースの体を予定落下点ではなく、ノエルの頭上へと一気に押し出した。目をつぶって絶叫するアルミナ、全身の痛みを握り潰して敵を見据えるユース、はっと気付いたように上空を見上げるノエル。振り上げられたユースの騎士剣が、これ以上ない最高の軌道と間で、百獣王に襲い掛かる。


「がグ……ッ!?」


 若き騎士の鋭い剣は、空高くから百獣王ノエルの頭に食らいついた。咄嗟に振り上げたノエルの腕をも骨ごと切り落とし、止まらない剣がノエルの頭皮を貫き、頭蓋骨の中身まで一気に届く。屈強な腕を切断することで強烈なブレーキを得た騎士剣は、ノエルの頭の中で半ばに止まり、それによってユースの下半身は、剣を軸に回転させられる。


 ノエルの腹に膝からぶつかりそうになった瞬間、畳んだ足でノエルの体に着地する形を作るユース。足裏で蹴飛ばすようにして離れたユース、同時に引き抜かれた騎士剣、振り回されるようにしてユースの体から離れるアルミナ。叩きつけられるように地面に転がった二人の前で、割られた頭の傷から血を噴き出すノエルが、蹴られた勢いで後方にのけ反り、倒れた。

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