第224話 ~嵐のラエルカン⑥ 雨が止む~
風吹き雨踊る地上でも、交戦模様は全く変わらない。両軍の術士達にとっては、火術が少し使いづらく、魔法砲撃軌道を魔力の風に煽られがちだという程度の話だ。ぬかるむ地面を裂け、致命的なところでの足元のスリップを回避することに意識を割かれる戦士達は、今でも勇猛果敢に魔物達に立ち向かっている。
(失せろ! 貴様らに我が恩人の友を傷つけさせはせん!)
中でも、この戦場で唯一人類に味方する魔物、マナガルムの暴れぶりは凄まじい。第11大隊という庇護する対象も撤退し、守るべきものが背上のキャルと、少し前を走るユースやアルミナのみとなったマナガルムは、近付く魔物達をぎたぎたに叩きのめしている。後方からキャル目がけて迫るヒルギガースの鉄分銅にも敏感に反応し、身を翻してキャルを逃がしたかと思えば、咆哮と共に喉の奥から放つ真空の刃で、ヒルギガースの頭をばっさり切り裂いてしまう。
脇を固める一人の騎士がいるから、マナガルムも立ち回りやすいというものだ。四方八方から迫る、オーガやミノタウロスのような巨体の怪物達に、恐れもせずに立ち向かっていくユースが、それらの矛先を自分自身に引き付けている。自らを薙ぎ払おうとするミノタウロスの斧を、思いっきり身を沈めてかわしたユースが、駆け抜けざまに魔物の足首を裂いていく光景は、そろそろアルミナも見慣れすぎてきたとさえ感じている。
そんなユースの側面から迫るドラゴンナイトに、上空を舞うアルミナから銃弾が飛んでくるのだ。斜め上空から眼球を真っ直ぐに狙った狙撃には、魔物とてはじき返すか回避するしかない。ユースへ向かわせかけていた剣を振り上げ、銃弾をはじいたドラゴンナイトだが、直後その喉元へ、ユースの振るった騎士剣が食い込む速度が光る。一太刀に致命傷を受けたドラゴンナイトが、首からの鮮血とともにのけぞって倒れた直後、既に別角度から迫るオーガに立ち向かっていたユースの後方、マナガルムが倒れたドラゴンナイトを踏み潰している。
友軍の庇護もなく、たった3人と1匹で駆ける第14小隊が、若さに任せて敵地の真ん中を駆け抜ける。3人のモチベーションの根底にあるのは、勝利のみならずラエルカン中心地であるここへ踏み込み、今なお戦っている仲間達への合流を目指す想いだ。力尽きた仲間達の姿など想像したくもない。戦える限り、共に歩いて帰る未来を求め、再開目指して走り抜ける。並居る障害を打ち破り、巡り会えぬ仲間との再会にすべてを懸ける3人は、とどまることを知らない進軍を続けている。
「ユース、見えた! 真っ直ぐ、そこに親玉!」
風のように素早く立ち回るマナガルム、それより速く地を蹴り走るユースの視界の先、廃墟の真ん中で構えている巨人がいる。ユースがキャルを肩車したぐらいの大きな背丈、岩石のような筋肉に全身を包み、漆黒の道着に身を包んだような魔物は、異常な長身さえなければ練達の格闘家のようだ。それが人間ではないと断定できる要素は、白金色かつ尖った髪の毛の色と反し、血のように真っ赤である全身の肌色だ。
ヒルギガース達の最上位種、エルダーゴアと呼ばれるその怪物との初遭遇。下位種と異なり武器を持たぬその怪物は、枷のような鉄具を手首と足首に装着しただけの姿。飛び道具を得意とする魔物の最上位種でありながら、何も持たぬその姿が語るのは、かの存在はものに頼らぬ飛び道具を持つという事実である。
エルダーゴアがユースに構えた掌を向け、むんと力を込めた瞬間、掌から飛ぶ大きな光弾。それは雨の中で真っ直ぐユースへ飛来し、横っ跳びに回避したユースの後方に着弾すると、石畳と土を跳ね上げる大爆発を起こす。飛び散る石畳の破片と土を回避するマナガルムも、背中のキャルがしがみつかずにはいられないほど、素早い足取りで地表を駆けている。
「勝負どころよ、ユース……! 絶対、勝つ……!」
「わかってる! 行くぞ!」
一瞬ユースと同じ目線を滑空し、決意の言葉を届けにきたアルミナへ、ユースが返すのは開戦前最後の決意共有だ。並んだ人間二人を目がけ、両手に握る輝く気弾を放ったエルダーゴアに、片や空への急上昇、片や低い跳躍で飛び越える二人の姿が続く。ユース達を捉えられなかった気弾は、そのまま彼ら後方のマナガルムへと迫るが、マナガルムも素早く我が身を逃すことで、減速しないままにしてエルダーゴアに差し迫っている。
雨の勢いがやんできた。嵐から、強い雨風という天候に変わりつつある戦況に、マナガルムの背中でかがんだキャルが、再び弓を握る。やれるはず。自らを家族であると再び招き入れてくれた二人の力となるべく、小さな決意が戦場で静かに輝いている。
「ふむ、アーヴェルもここまでか。よくやってくれたものだ」
百渦狂嵐の魔力によって支配されていた空が、ゆっくりと支配者の魔力を失っていくのがわかる。次第に雨の勢いが弱くなってきたように、風の中に含まれる魔力も薄まっていくだろう。嵐によって空を支配していたアーヴェルの脱落を推察するウルアグワは、鉄仮面の奥で小さく笑い、よく働いてくれた同胞を心の奥でねぎらっていた。
戦いの真っ只中でそんなことを気がけるウルアグワへ、地を駆けて迫る巨大な斬魔の魔力。水面から顔を出す鮫の背ビレのように、地表から建物数階ぶんの高さの牙を出して駆けるそれを、自由自在の身のこなしでウルアグワも回避する。あれに真っ二つにされると、色々な意味で厄介だ。
凄まじい速度と気迫で迫る、勇者ドミトリーの大剣も、ウルアグワは巧みな動きで回避している。反撃の剣は殆ど振るわない。力技では勝てない相手であると知っているし、そもそも剣術で勝てる相手ではないとわかっている。反撃すらせず、飄々と逃げ惑うウルアグワには、近衛騎士ドミトリーも面白くない展開だと舌打ちする。
討伐できないことが問題なのではない。過去数十年の戦いの中、ウルアグワがドミトリーと戦う時というのは、いつもドミトリーの足止めが狙いだった。今回もそうだと言うのなら、それは人類にとっては最強札を釘付けにされる展開であり、あまり歓迎できるものではない。だが、人類総軍出撃のこの構図、ドミトリー一人止めるのにウルアグワという構図は釣り合わない。ベルセリウスもいる、ジャービルもいる、ルオスの将軍格にあたる魔導士もいれば、勇騎士や聖騎士も山ほどいる。魔物達は、一体の将で数名の人類を仕留めるか縛るぐらいのアドバンテージを得なければ、とても全体を制圧できるような戦争ではないはずなのに。ディルエラ、ノエル、アーヴェルという大将格多し敵軍とはいえ、それだけで他の全軍を撃滅されるほど、人類連合軍全体は弱くない。
「ウルアグワ……! 何を企んでいる……!」
「さあな」
宙に逃げられては厄介な構図、ドミトリーも上方薙ぎの攻撃を多く織り交ぜ、ウルアグワを逃がさない。平面移動を繰り返し、距離を取るようにドミトリーから逃れ続けるウルアグワだが、状況と構図を見比べれば、むしろドミトリーがウルアグワを拘束しているともとれる。各地の血を操る魔力も、エルアーティによる制圧魔法によって行使できないウルアグワにとって、この状況は何もできずに逃げ惑う構図でしかない。それでもウルアグワは笑っている。
もう、仕事は終わっているのだ。楽しまなくては損。今のウルアグワの行動原理はそんなところである。
「ぐはは、流石だわ人間ども! お疲れさんよ、アーヴェル!」
小降りになってきた雨の中、人間達を次々叩き潰してきた数分を経て、獄獣ディルエラは大声で笑った。嵐が去りつつあるということは、アーヴェルが離脱したということだ。あれが死ぬまで戦い続けたというのは考えにくいし、ほうほうのていで逃げ出したというところだろうが、あのアーヴェルを逃走させるほどに追い詰めた人類空軍には、ディルエラも遠方から賞賛する。それだけ身内から見ても、アーヴェルというのは強い存在だったから。
死屍累々の塗れた廃墟の真ん中、誰も自分のそばで動く者がいないことを確認したディルエラは、懐から葉巻を取り出してくわえると、指を鳴らして火をつけて吸う。雨の勢いがやんで、ようやく一服できるのだ。何度試しても今日は大凶の葉巻占いだが、普通に吸うぶんには何ら差し支えはない。適度な煙を肺まで吸い込み、満足げにぶはぁと煙を吐く。相変わらず旨い。
勇騎士2名、聖騎士4名、帝国佐官3名、法騎士十数名あまり。魔導士や傭兵、下層騎士を葬ってきた数なんてもはや数え切れない。雨が洗い流していなかったら、ディルエラの手足は爪の間まで血みどろのままだっただろう。葉巻の根元が指先で塗れるため、一本まるまるを満喫することは出来なかったものの、満足できるだけの一服を果たしたディルエラは、半ばの葉巻をぴんとはじいて捨てる。さて、やるか、と内心でひと呼吸をおいたのは、ちょうど自分に向けて近付いてくる一人の騎士の足音を聞いているから。
こいつの足音を、過去に何度聞いただろう。マーディスの片腕として戦場を駆けたあの頃、自分が出陣する戦場には殆どこいつがいた。獄獣ディルエラの名が人間どもの間で広がって、自分へ挑んでくる人間も限られていたあの頃、これを倒すならばこいつだと差し向けられ続けてきたこいつには、何度も煮え湯を呑まされたものだ。一度完全敗北したあの日以来、互いの命尽きるまで戦い抜いてやろうとしたことは一度もなかったが、今日はそろそろ雪辱を晴らしてやってもいいかもしれない。エレム王国の人間どもと喧嘩をするのも、今日で最後なのだ。
遥か昔に"飼い"を宣言されて数年、成長した姿で獄獣を撃退した勇者。飼われる側から捕食者の側へ、そんな大番狂わせを実現し、今や強者の立場にいる勇騎士を、この日ディルエラは雪辱者として迎え撃つ。遠方から駆けてくるその姿が見えた時、ようやく整った決戦の舞台でこれと戦うことの出来るディルエラの胸は、最後の祭りを待つかのように踊ったものだ。
「待ってたぜ! ベルセリウス!」
挨拶代わりに地面をぶん殴ったディルエラが、遠方から駆け迫る勇騎士に向けて凄まじい地走りを放つ。道いっぱい、地表を遥か上空に跳ね上げて走る衝撃波を、空を蹴る魔法で三段高く跳躍したベルセリウスが横に身を逃すことで回避、廃屋の屋上の上空を駆けるようにしてディルエラの位置へと迫っていく。
上空から騎士剣を振り下ろして落下するベルセリウスに、ディルエラは掌底による迎撃を突き返す。当たれば即死の一撃を、落下しながら宙を蹴ったベルセリウスが、僅かに直線軌道を屈折させたことで空振る形になる。そしてディルエラの指をベルセリウスの剣が切り落とそうとした瞬間には、敵の動きを即時見改めたディルエラの素早い判断が、体ごと横に逃がして手先を剣から回避させる形となる。
「ディルエラ……!」
「ハンフリーの奴は強かったぜ……! 次はてめぇだ……!」
着地と同時に身を翻し、正面見据えた獄獣が言い放つのは、既に葬られた我が友人の名。胸の奥から込み上げる怒りを必死で抑え、騎士剣を握る手に感情の渦を持っていくベルセリウスは、愛剣に封魔聖剣の魔力を集中させる。あらゆる力と相殺するこの魔法があってこそ、初めてディルエラという怪物に、剣技を以って戦いを仕掛けることが出来るのだ。
だが、ベルセリウスも知っている。すでにディルエラが完成させたであろう、獄獣最後の切り札を。それは一度ルーネに対して火を吹いた奥義であり、目撃者であったエルアーティが証言することが真実ならば、絶対防御の封魔聖剣への対策としてディルエラが編み出したものだ。その秘奥義の中身は既に知っているが、知っていてもそれを受ければ、いかにこちらの切り札あろうともそこで勝負は決められてしまうだろう。
獄獣の最たる恐ろしきは、歳月とともにその力を高めることだ。ベルセリウスは誰よりも、それをよく知っている。溢れ出る感情を抑え、最強の存在と名高きこれを討つことに、雑念を捨てて挑まなくてはいけない。そんなベルセリウスの確固たる決意を、向き合うディルエラもしっかり受け取っている。
「さあ、殺し合いだ! 楽しませてくれよ!」
「行くぞ!!」
魔王マーディスが率いた残党との最終決戦地。亡国ラエルカンを舞台に再び巡り会った両者の間に、長き因縁の終わりが訪れる。勇者ベルセリウスか、獄獣ディルエラか、どちらかの死を以って。少なくとも両者は無意識に、その時が今であると直感的に妄信していた。
ラエルカンに潜伏する、もう一つの絶大なる悪意。その存在は、二人の武人が覚悟した未来さえ、別の一色に塗り潰して異なる運命をもたらすほどのものだ。
真っ暗闇の意識の中、自分を揺さぶり起こそうとする誰かがいる。不確かに揺らめく世界の中、チータがようやく重いまぶたを開けた。魔力を使い果たし、気を失って、空から真っ逆さまに地上へと落ちていった最後の記憶が語るのは、ここがあの世なのかなというおぼろげな確信だ。
目の前の光景もかすんでいて、自分の顔を覗きこんでいるのが誰なのかもよくわからなかった。ぼんやりと、綺麗な女性だと想った。だけど、ゆっくりと視界が鮮明になってくるにつれ、それが誰なのかわかってくる。半泣きの表情で自分を覗き込むその人物は、雨の中でずぶ濡れになった顔でも、それが全部涙に見えるぐらい目が潤んでいた。
「チータ……っ!」
「う……姉さ、ん……?」
とっくに死んだと思っていたチータは、霊魂の疲弊で言うことを聞かない体を動かせず、ぼんやりとミュラーの顔を見上げていた。確かに目を開け、生存を確認できた弟の姿を目の前に、深い息をついて胸を撫で下ろすミュラーだが、チータの口から出る言葉はまるで正反対で。
「……姉さんも、こっちに?」
「死んでないわよっ! 馬鹿っ!」
周囲に立つ魔法使い達には文脈が理解できない発言も、姉のミュラーは意図を察知し即答を返してみせる。ここはあの世か、と、勝手に早合点したチータの発言に、自分まで死んだことにされてはたまったもんじゃない、という叫び声である。
「え……だってマグニスさんもいるし……」
「おいコラ、俺まで勝手に死んだことにされてたのか」
横に目線を流したら、すぐそばにマグニスもいたのだ。アーヴェルの魔法に撃ち抜かれ、地上へ真っ逆さまだったマグニスの姿は見ていたし、まー間違いなく終わってただろうなと。確かにチータのさっきまでの状況を鑑みれば、目を開けてそばにいたのがマグニスや、アーヴェルとの交戦域にいたミュラーというのでは、そんな勘違いもあるのかもしれないが。というか、死後の世界の実在をするりと信じたりするあたり、唯我独尊に見えて案外チータも信心深かったりするのかもしれない。
「お前を膝枕してる姐さんに助けられたんだよ、俺もお前もな。感謝しとけよ?」
くいくいっとチータの頭上に親指を向けるマグニスを見て、チータはぐぐっと重い首を上に向ける。正面の位置にいるミュラーとは違い、確かに後ろから膝枕してくれている人がいるようだが。
見上げたその先にいたのは、眼鏡をかけて気恥ずかしそうにはにかむ大人の女性だった。なんだろう、どこかで……と数秒考えたのち、チータの脳裏に電流のような閃き。突如、慌てたように転がって膝枕から逃げたチータが、地面に体を打ちつけるが、痛みも気にせずチータはその人物から距離をとる。
「せ、先生……!?」
「あはは……来ちゃいました……」
全然、まったく、チータには知らされていなかったことなのだが、ラエルカン奪還を目指すこの戦いに、彼女も傭兵としてルオス軍に紛れて参加していたのだ。かつてサルファード家の使用人であり、チータに魔法を教えてくれた先生、父グレゴリーに嵌められて理不尽な追放を受けた彼女は、疑い晴れた現在、こうして魔導帝国と関わる形となったのだ。
世界一敬っていた人に、膝枕してもらって目を覚ますという失態を見せたチータが、こうやって慌てるのも無理はない。冷徹に見えて、弱い相手もいるんだなと、マグニスが意地悪に笑っている。雨に塗れた石畳に座り込み、かつての師、ティルマ=ハイン=リクラプトを見据えるチータの眼は真ん丸だ。こんな顔、一度だって人に見せたことはない。
直接戦闘に秀でるわけではないティルマが、空軍魔導士の数々を補佐してきた中、アーヴェルの魔法に捕えられて死ぬ直前であったマグニスも救ってくれたこと。また、力尽きたチータが落ちてくる姿も見捉えて、安全に地上へ降ろしてくれたこと。その辺りの事情はミュラーやマグニスが話してくれた。久しぶりすぎる恩師への再会に、あまり頭に話が入って来ないチータだが、後ろに座ったミュラーがチータを支えてくれるおかげで、力を使わずティルマを見据えて話を聞くことが出来た。
「アーヴェルは……?」
「逃がした。まあ、それでも再起不能には違いあるまい」
気になる百獣皇の行方を問うチータに応えたのは、年老いた勇騎士ゲイルだった。チータの雷撃を受けたアーヴェルは、その身の奥底に眠る力を解放させ、最後の徹底抗戦を見せたという。数分前の圧倒的魔力を見せていたアーヴェルの姿もかすむほど、たてがみを生やした後のアーヴェルの強さは凄まじく、ゲイル含め殆どの空軍はアーヴェルに近付くことも出来なかった。接近して、アーヴェルの肌をかすめる武器を一度だけ振るえたのが、魔法剣士ジャービルただ一人だったという。
決死の魔法で人類をことごとく振り払い、ジャービルにも大魔法を一発くらわせて怯ませたアーヴェルは、南の空へと真っ直ぐに逃げていったという話だ。元より生存欲が誰よりも強い魔物、窮地が迫れば逃亡するのは当たり前で、姿を変えて力を引き出す最後の魔法も、逃亡のための最後の魔力を振り絞るための切り札だったのだろう。人類数千人規模で追い詰めてなお、最後の最後まであんなカードを控えていた地力には驚きだが、一度その札を解き放てば、清々しいほど尻尾巻いて逃げるあたりが流石とも言える。あのまま逃げず、まともに戦い続けられていれば、ジャービルはともかく他の魔法使い達も、アーヴェルに殺されていただろうという予感はするから、幸運だったかもしれない。
「戦うつもりであるならば、まだそれだけの力がアーヴェルにもあったのだろう。それでも逃走したということは、もはやこの戦場においては撃退したと言えるはずだ。ひとまずは、我らの勝利と見ていいだろう」
「……そうですか」
客観的な事実を述べる勇騎士ゲイルも、最も討つべき対象を討ち漏らしたことには明るい顔をしてはいなかったが、最大の脅威を撃退できたことを良しとする目は失っていない。雨が小降りになって、風がやんできていることからも、確かに百獣皇アーヴェルの嵐の魔力が、ラエルカンから去っていることは明白だ。
熾烈な空中戦は終わったのだ。犠牲も多く、一番欲しかった首は取れなかったが、討ち漏らした最強の魔導士が、各地友軍に爆弾を落としていく未来は閉ざすことが出来た。確かなる勝利である。
「さて、チータ、撤退だ。ジャービルのおっさんはまだ戦場に戻ったようだが、空軍の仕事はここまで。後は頼れる大人達に任せて、な?」
「……そうですね」
立ち上がろうとするチータだが、やはりあそこまで霊魂を極限酷使すれば、精神の望むとおり肉体を操ることが出来ない。立つことはできたものの、ぐわんと頭の中がひっくり返った気がして、初めて立った赤ん坊のようにその体が傾いていく。
「ほら、捕まりなさい。無理しないの……っとと、あんた重くなったわねぇ」
チータに肩を貸してくれたのがミュラーで、なんとか倒れずチータは地に足を着けて歩ける形になる。マグニスやゲイルが手を貸さないのは、姉弟水入らずの光景というだけでなく、戦場真っ只中で周囲から襲い掛かる脅威に対し、いつでも応戦するためである。アーヴェル包囲網に参加していた魔法使いという、心強い練達の魔法使い達もあり、ここから戦場外への徒歩も、危険過ぎる茨道ではないだろう。
終わった。それに生き延びた。姉のぬくもりを借りた肩に受け、チータは深い深い溜め息をつく。そんな彼の横に並ぶティルマが、杖を握ったままだらりと落ちたチータの手を握り、顔の高さまで持っていく。その行動を思わず目で追うチータの目の前に、自然と恩師ティルマの顔がある。
「……大きく、なってくれたんですね。嬉しいですよ」
愛弟子の独り立ちを見届けることなく、かつてルオスを追放された魔導士。遠き恩師から離れてなお、自らの道を歩いてきた愛弟子は、自分の手を離れてこんなにも大きくなった。百獣皇アーヴェルへと果敢に迫り、それどころか決定打の一撃を叩き込んだという、人類史に名を残しかねないほど心強い魔導士にだ。遠く離れた若かりし弟子が、再会した今これほど立派な姿になっているという事実は、かつての師としてどれほど感慨深くて嬉しいことだろう。
気恥ずかしそうに目を伏せて、小さく会釈するチータの姿は、ある意味では最も彼らしいものだ。普段とちょっと違うのは、誰にも見せない角度で、無邪気な笑顔を漏らしてしまったことぐらい。やっぱりいくつになったって、一番尊敬してやまない人に、こうして褒めてもらえる喜びというのは、己の心に嘘をつけるものではない。
連合空軍とともに戦場を去るチータとマグニス。第14小隊の半数が戦場を去った中、ラエルカンの火は雨を失ってさらに燃え上がるはず。撤退する中、後方のラエルカン中央区を遠く見返すマグニスも、未だ帰らぬ仲間達を密かに案じる想いを隠せない。
長き奪還戦争も折り返し地点を遥かに過ぎ去り、終焉を目前に迎えている。二度滅びたラエルカン、その地に眠る勝利の女神が誰に微笑むのかは、未だ誰も知り得ない未来図だ。




