第223話 ~嵐のラエルカン⑤ 天罰~
百獣王ノエルは素早い。屈強なる四肢は重量そのものが大きく、それをとんでもない速度で振り回すノエルだからこそ、直撃した時の破壊力も相応となる。生身の人間でこの攻撃を直撃させられて、原型を留めていられる者などいないだろう。すべての攻撃が、人間に対しては一撃必殺だ。
元より最小限の防具しか身につけず、女身ひとつで戦い抜いてきたシリカにとっては、敵がこんな怪物でなくとも、敵の攻撃はすべて致命傷級である。だから、敵の攻撃をかいくぐり、一撃も攻撃を受けずして勝利する戦い方しか持っていないのだ。そんなシリカの機敏さはノエルを正しく翻弄し、頭を殴り抜こうと薙がれた百獣王の腕をかがんで回避すると同時、頭上めがけて振った剣で敵の腕を断とうとしている。
並の魔物が相手ならば、これで腕一本落として優勢確保という局面でも、速すぎるノエルの腕と後退速度がそれを叶えさせてくれない。退がったノエルへと飛びかかるように踏み込み、万物を切り裂く魔力と共に騎士剣を振り降ろすシリカには、ノエルもさらに退がって回避。かわすと同時に爪を振るい、シリカの膝元へ至近距離から血爪斬を放つ手際の良さも優秀だ。瞬時に察して後方へ跳躍、切断の魔力をかわすシリカの判断力も光る。
シリカからの攻撃をかわしたばかりのノエルに、死角たる斜め後方から槍を振るうクロムの速さも、ノエルの危機感を休ませぬものだ。その一撃自体は、裏拳で刃より僅か下を叩き返すことで防ぐものの、向き直った先からクロムが身を一回転させた末に迫らせる蹴り突きには、腕を構えて防御するしかない。限界最大値まで筋力を向上させたクロムのパワーは凄まじく、ノエルの頑丈な筋肉さえも痺れさせるほど。振り下ろした掌でクロムを頭から捻り潰そうとしても、素早いクロムが横に体を跳ねさせて回避。追撃封じにクロムへと蹴りを向かわせるノエルが、さらなる回避をクロムに強いて危機を回避する。
「小賢しい……!」
対峙するシリカとクロムの戦い方に見切りをつけたノエルは、高く跳躍して3階建ての建物の屋上に飛び乗る。敵はいずれも回避力を重視した戦い方を得意とし、一方で細身の騎士が握る剣は極めて異質な魔力を纏っている。触れれば恐らく、と考えるほど、得意の近接戦闘も悪い意味で敵の土俵であると、ノエルは正しく分析しているのだ。
二人には届かぬ高所から、血爪斬による切断の刃を無数飛来させるノエル。雨に混じり、石畳さえ切り裂く切れ味の刃が次々と襲い掛かる。狙いはことごとく的確であり、嵐のように迫る刃の数々は一つ一つ大きく、単純な回避を繰り返すだけでも二人の体力は奪われていく。特に傷ついた体が顕著なクロムは尚更だ。
「シリカ、いけるか……!?」
「届く……!」
射程範囲外に立つノエルを引きずり降ろさなければならないこの状況、シリカよりも跳躍力に優れるはずのクロムが頼ってくることやら、彼の足取りが重いことやら、決着を急ぎたい要素がシリカには山ほどある。付き合いで築き上げた、暗黙の本来の役割分担を完全に無視し、ノエルめがけて一気に跳躍するシリカの行動は、無鉄砲あるいは功を急ぐ我の強い戦い方ではない。
真っ直ぐに自分への軌道を描く跳躍のシリカは、ノエルにとっても絶好の的だ。右脚を振り薙ぎ、足の爪から巨大な切断の魔力、弦月血爪を放つノエルの攻撃を、シリカに回避するすべはない。真正面から、逃げ場なき三日月形の切断の魔力が迫ることに、一切怯まず騎士剣を振り上げたシリカの姿が、勝利目前であるはずのノエルの心に油断を招かない。
「翡翠色の勇断閃!!」
だからノエルも後方に大きく跳び、別の廃屋へと身を逃す道を選べた。振り下ろされたシリカの剣は、剣身を延長したような絶対切断の魔力を纏い、翡翠色の残影はノエルを遥か遠くに構えたその位置から、敵の立つ廃屋ごと縦真っ二つに切り裂いたのだ。地上から見たクロムの目には、上空からのノエルの弦月血爪を真っ二つにし、ノエルの位置まで届く翡翠色の三日月が、廃屋を唐竹割りにするかのような光景が映っている。
「チッ……! これではドミトリーを相手にするのと変わらぬ……!」
魔の万物を切り裂く勇者、近衛騎士ドミトリーに近似する魔力の使い手、しかも回避に特化したその戦い方はドミトリーより極端。一撃くらわせられれば勝てる相手というのは確かでも、それが当たらねば意味がない。相性最悪の敵とシリカを認識したノエルは、回避の跳躍で身を退かせた勢いのまま、地上へと飛び降りて退散の走駆へ移る。
「行ってくる……! お前はもう退がれ……!」
「……ああ、任せた! 決めてこい!」
地上に降り立ち振り返ったシリカに駆け寄ると、クロムはばしんとシリカの肩甲骨を叩く。重くて痛い、男の力だ。だが、叩き抜くわけでなく体重を預けるようにして叩いてきたクロムの力加減を鑑みれば、もう自由自在に戦えるコンディションではないことがシリカにだって伝わってくる。
残る敵将、ノエル、ディルエラ、ウルアグワ、アーヴェル。それらに対抗するだけの力を、追った末に発揮する余力はクロムにも無いだろう。やれると信じてノエルに挑んで、本物の死の一歩手前まで迫ったのだ。意地を張って、これ以上の死地に駆け出す無謀を計るほど、クロムも向こう見ずではない。
頑張って来い、という戦友の眼差しと笑顔を受け止め、シリカはノエルの飛び移った先へと走り出す。その後方、彼女の姿が見えなくなってから、クロムが歯をくいしばったのは、魔力で誤魔化していた全身の痛みが目を覚ましたからだ。
「くそ……勢いに身を任せるとろくなことがねえな……」
撤退への足を、ゆっくりと走らせ始めるクロム。魔将軍エルドルの討伐に携わり、その勝利に貢献しただけでも充分なはたらきだった。3人目、第14小隊が雄の撤退は、結果を導き出しての上での名誉ある帰還への道である。それは、彼より先に戦場を脱落した二人の仲間や、各地の魔物を討伐した末に帰路を選んだ名も無き戦士達にも言えることだ。
チータは思い出していた。魔物の血にすがって力を得た兄ライフェンが、その罪深き血そのものに裁かれて命を落としたことを。私欲のためにカルルクスの里を崩壊させる糸を引き、その罪を裁かれて処刑された父グレゴリーのことを。
裁かれるに値する大罪を果たした者が、すべからく報いを受けてきたように、百獣皇アーヴェルもまた人類にとって裁くべき対象。長き歴史の中で、百獣皇アーヴェルに葬られてきた命がいくつあっただろう。天が人に味方するならば、あれは少なくとも死を以って償うべき存在であり、アーヴェルがそれを拒むと言うのであれば、何者かが裁きの手を下さねばならない。
裁くべきは誰か。アーヴェルに家族や友人を奪われた人々? アーヴェルによって身体の一部を損傷し、不自由な余生を送らされる者達? あるいは人類の無念を背負い、悲願成就のために戦場へと飛び込んだ戦士や魔法使い達? 悲哀か、復讐か、正義感か。アーヴェルを裁くに相応しき者が持つべき理念とは何なのか。
魔法使いとは、希望の実現と精神が密接である存在だ。幾星霜の魔法使い達がアーヴェルの討伐を願い、望み、叶えられずに命を落としてきた歴史が語るのは、どの誰もの精神が、アーヴェルを裁くに足る精神を持ち合わせていなかったという一事。
今の自分に、それを叶えるだけの力があるのか。チータは何も、百獣皇アーヴェルに奪われていない。家族や知人を奪われたわけでもなければ、こちらから喧嘩を売った今日以外、アーヴェルに凶刃を向けられたことすらない。もっと言えば、アーヴェルを人類の敵であると認識する頭は持っていても、数多くの人々を殺めてきたアーヴェルの罪深さを、許せぬと憤慨する考え方も強くない。冷たい自覚はあるけれど、自分の目的を叶えるために他者の命を奪ってきたんだろうな、と、半ば納得に近い答えをはじき出し、正当化しない程度に行動原理を理解すらする。
アーヴェルを討伐することとは、百獣皇に対する人類の復讐であり、断罪だ。こんな自分に、数々の人々が討ち果たしたいと願ってきたアーヴェルに対し、裁きを下す権利があるのかはわからない。それでもたった一つだけ、危機を冒してまでアーヴェルに迫り、絶命をもたらす魔法を直撃させてやりたい理念がチータにはある。数年前には、こんな自分が未来にいるとは思えない考え方だったけど。
(チータ、もう少しよ……! つらいだろうけど減速しないで……!)
高空を舞う姉ミュラーと自分を繋ぐ、一本の強き魔導線。大空を縦断する、か細くも切れないそれが、二人の滑空軌道を結ぶ動線のまま、百獣皇アーヴェルに迫っている。魔法剣士ジャービルや勇騎士ゲイル、長き嵐の戦いをここまで生き抜いてきた者達への応戦に、アーヴェルも全力を注いでいる。大魔法とその魔力が飛び交う空の中、たった一本のかすかな魔導線の存在には、さしものアーヴェルも集中してなどいられない。ただでさえ熟達の魔法使い達が、連携を取るために網の目のように魔導線を繋ぎ合っているというのに、その中の一本にどうして気付けようか。
チータやミュラーの動きなど意にも介せない激戦区の中、アーヴェルの飛空軌道は二人に無関係であり、ゆえに二人にとっては不規則極まりない動き。二人を繋ぐ魔導線にアーヴェルが触れた瞬間が勝負。その好機はまだ訪れない。だが、あと少しで触れていたという局面が何度か繰り返されている。アーヴェルの動きに二人の飛空軌道が近づいてきた。
(チータ、聞いてる!? 動きが落ちてるわよ!?)
魔導線を介して伝わる、ミュラーの思念を受け取るチータ。返事はない。アーヴェルを追うことを無感情に遂行しながら、脳裏に駆ける想いの数々は、この戦いとは遠き記憶の世界のことだ。
初めて第14小隊に入ったあの頃、ただのひったくりを裁きと称し、火だるまにしてやった時のことはよく憶えている。あれがあの時の、自分の信念が為した行動だったから。あれが原因で今の仲間達とひと悶着を起こし、特にユースと口喧嘩までした。あの時は正直、自分の行動の何が悪かったのかなんてわからなかったし、だから迷いもなくあんなことをした自分があった。行動の善悪を問うならば、今でも是非を断定できるわけじゃないけれど。
だけど、法か道に反する者は、無条件に裁かれて当然なのだろうか。だとして、誰に裁く権利があるのか。あの時、実害を被ったわけでもない自分が苛烈な"裁き"を、知りもしない老人のために、知りもしない男を火だるまに変えたのだ。法の番人気取りで、道理に反する者を裁く権利が誰にでもあると信じていたあの頃の自分の思想を、過ぎた昨今よく考える。ユースと今でもこの話をすれば、きっとあの時の自分のことを肯定してはくれないだろう。
咎を裁く権利は誰にある? 幼少の頃から思い描いていた、天罰を意味した名を冠する大魔法は、裁くべき対象に向けて放つもの。今のアーヴェルがその対象であり、同時にその手を下すことの意味を考えることは、精神と直結する魔法の行使において切り離せないものだ。許すまじき者を目にした時、決して逃れ得ぬ最強の魔法により、この手で裁いてやるという幼心の正義感を、二十歳を迎えてあの頃と違う考え方を持つ自分が行使しようとしている。
人は歳月とともに必ず価値観を変遷するのだ。5歳の自分がここにいれば、許せないという無垢な想いだけで、百獣皇アーヴェルを討つためのこの魔法を放っていただろう。今の自分はあの時と違う。違う心で解き放つ大魔法は、ちゃんとかつて思い描いたものと同じ形で実現するだろうか。
(チータ!! 返事を……)
(……大丈夫だよ)
きっと、大丈夫だと信じている。この大魔法を夢想した幼き自分、罪を裁くことの本質を思い悩む今の自分では、確かに全く観点が違う。ただ一つ確かに共通するのは、悪人を無条件で許せないと考えられた幼心と、親友の故郷を奪った百獣軍の長を許してはならないという、今の自分が持つ仇討ちに近き正義。
今でこそ孤児院で巡り会えた人達との絆を大切にするアルミナだが、血の繋がった家族の特別さを語ってくれた彼女のことを、今でも忘れることは出来ない。アーヴェルの率いた百獣軍により、故郷を滅ぼされたあの日がなかったら、今でもアルミナは、その大切な家族と過ごせていたかもしれない。奪ったのは百獣軍、そしてそれを統括していたアーヴェルだ。大切な仲間である彼女の、かけがえなき宝物を無に帰したアーヴェルに対し、胸の奥から込み上げるこの憤慨。これがある限りきっと、天罰を求めるこの大魔法は、夢見たとおりに実現できるはずだとチータも信じられる。
自らの魔力をすべて振り絞っても、叶えられるかわからない大魔法なのだ。それでも出来ると心から信じられる。魂が叫ぶ感情の熱源は、友人である彼女の存在であり、失いたくないと思える心の中の仲間達。たとえ独りでも生きていけると信じ、サルファード家を飛び出したあの頃の自分には、決して到達できなかった境地だろう。少し気恥ずかしくさえ思えるこの感情も、仲間達と力を合わせて勝利を掴むことを信条としてきた、今では戦友と呼べるユースの見せてくれた背中が肯定してくれる。
沸騰する衝動、迷いを晴らす戦友の姿の記憶、今も魔導線を介して命を預けてくれた姉の実在。ほら、そこにいる。人類の誰もが果たせなかった大願に向け、迷いなく駆ける自分の背中を押してくれる仲間も、手を引いてくれる血の繋がった家族も。
「神おわす空よ、人類の……いや、絆への報いに殺生を求むる、我が独善に応え――」
ミュラーと自分を繋ぐ魔導線の未来図と、アーヴェルの飛空予想図が一致した。詠唱とともに、自らの中に渦巻く魔力を練り上げ、一気に最高潮まで持っていく。口にした詠唱を一度途絶えさせたのは、幼心の自分が抱いた信念を改め、今の自分が想う心根への書き換えを、口走る詠唱に顕すため。それが今の自分にとって、最高の精神状態で魔法を叶えるための引き金となる。
「罪深き二つの魂へ絶対なる裁きを……! 我生きし証を、空に描く刻印として遺し給え……!」
我欲のために身勝手な殺意を握る自分を、神が赦さぬならば受け入れよう。断罪とは、他の命を道理で否定し、本来道徳で否定されるほどの痛みを他者に与える罪深さを、法で正義に変えて自らを赦す行為。裁く者とは同時に自らを裁かねばならないのだ。百獣皇アーヴェルの命を奪わんとするチータは、裁きの力を借りる空の意志が、自らに等しき断罪を下すことを既に覚悟している。
「っ……!?」
チータとミュラーを繋ぐ魔導線と自らが重なった瞬間、百獣皇アーヴェルの全身を貫いた悪寒は唐突だ。思わず低空、魔導線の一端であり術者のチータに意識を移したアーヴェルだが、既に魔法は発動している。もう間に合わない。
「天罰!!」
空を包んだ膨大なる雨雲、積乱雲。嵐の魔力で構成されたそれは、自発的にいくつもの雷を地上へと吐き出す、活きた雷雲そのものだ。チータの魔法発動とまったく同時、天高きミュラーへと落ちる、大自然が生み出す特大の稲妻。それはミュラーへ直撃した瞬間、チータと彼女を繋ぐ魔導線を介して、一気にチータの方へと駆け抜ける。その途中点に位置する、アーヴェルの体を貫くことを兼ねて。
咄嗟に雲散霧消の魔力を発動させたアーヴェルでも間に合わぬ、光の速度で駆け抜けた稲妻。壊滅的な電圧と破壊エネルギーを持つ一筋の稲妻は、たとえ魔導線を断たれても、一度定められた軌道を真っ直ぐに駆け抜けたのだ。そしてその稲妻そのものは魔法ではなく、雷雲が抱いた電流という、大自然の所有物だ。魔法を打ち消すための魔力を展開したアーヴェルの切り札も意味を成さず、暗い嵐の中で誰もの目が潰される閃光とともに、特大の稲妻がアーヴェルを貫いた。
自らをも駆け抜けた稲妻に目の前を真っ白にされながら、チータは目の前に戻った光景の中、空中のアーヴェルが真っ黒焦げになって傾いた姿を視認した。成功だ。姉の体を駆けた稲妻が彼女を傷つけずに通過するための魔力も遠隔操作できたし、自らを貫いた稲妻を、空へと発散させるための魔力も展開できた。もう、上出来だと言ってもいい。
「チータ!?」
おかげで、作り出せる限りの全ての魔力を吐き出してしまった。肉体と精神を繋ぐ自らの霊魂が麻痺したかのように、沸き上がる生存欲に反し、意識が遠のいていくのがわかる。精神が望むとおり体を動かすことも出来ず、霊魂に呼びかけても魔力が生まれず、空を飛ぶ魔力さえ作れないチータの体が、重力によって地面に引き寄せられていく。青ざめた顔で叫んだミュラーの見据える遥か下、目を閉じたチータの姿が、豆粒のように小さくなっていった。
「羅刹……ッ、復興……!!」
もう一つの影、空で全身を真っ黒焦げにされた魔物の体も、頭を地面に向けて真っ逆さまに落ちていくはずだった。それが突然、ある空中座標一点でぐるりと体をひっくり返し、全方位へと強烈な魔力の波動と突風を放出する。落雷が突然アーヴェルに直撃したことに面食らいつつ、それがとどめになったと気楽な見方をしていなかった魔法使い達。彼らの放った魔法の数々を、アーヴェルから全方位に放たれる魔力の波動が退ける。
「ッぐ、ギ……し、死ぬとこニ゛ャ……! あぶねぇ……!」
落雷によって炭にされたローブの胸元に爪を突き立てたアーヴェルは、その爪でローブを破り捨てる。風雨の彼方へその召し物が去っていく中、見上げるアーヴェルの両目が真っ赤に光り、息を荒げる口の端から、突如ぎゅっと伸びた牙が顔を出す。落雷の直撃を受け、なおも死に至らなかった百獣皇に、あと一手だと迫ろうとした魔法使い達の認識が、一瞬にして別の思考に捕われる。
雨の壁の向こう、真っ黒な邪気によって姿さえ霞む百獣皇の姿。それでもわかる、その小さな翼が突然に巨大化し、小悪魔のような羽が大悪魔の翼のように広がった事実。最も早くアーヴェルへと水の砲撃を放った魔法使いが、邪気の向こう側にいる百獣皇にこの攻撃は届かない、と、無意識に確信してしまう魔の予感。アーヴェルへと迫ろうとしていたジャービルやゲイルでさえ、思考放棄して今のアーヴェルに近づくことは危険だと予感したことは、間違いなく正解だ。
邪気を振り払い、術者から放たれた稲妻の砲撃は、魔法使いの水魔法を容易に吹っ飛ばし、敵の術者に凄まじいスピードで迫り来る。熟達の魔法使いゆえ旋回飛行して逃れられたが、一瞬早かった嫌な予感さえなかったら、象をも飲み込むこの巨大砲撃から逃れる時間はなかっただろう。そして自らを纏う黒い邪気を脱ぎ捨てたアーヴェルの姿は、すでに変異を完遂させている。
小さな肉体に変容なし、大きくなった翼と伸びた牙だけなら大きな変化ではなかろう。頭から生え揃った、風雨にたなびく長いたてがみと、大きな猫目が血のように真っ赤に染まったその姿には、相対する魔法使いも警戒心を強める。僅かながら錫杖を握る腕が太くなっていることからも、見た目だけではなく、大きな本質変化をその身にもたらしたことは明白だ。
百獣皇アーヴェルの最後の切り札、羅刹復興。体内に巡る自らの魔物の血を最大限まで覚醒させ、眠らせていた力を解放する秘術だ。己の精神と魂に根付く本質に手をかけ、自分自身でも悟りきれなかった力を引き出す秘策は、朽ちかけた肉体を限界まで動ける形まで動かし、生存欲に富む自らの精神力から自己最強の魔力を生み出す。
「死んで、たま゛るか……! てめぇらなんかに、この゛命は渡さねぇ……!」
猫のような小さな体から放たれる、百獣の王の如き凄まじい咆哮は、雨と嵐の荒れる空でも響き渡るほど凄まじい。改め果敢に迫る魔法剣士、ジャービルを見据えたアーヴェルが、最後の戦いに向けて錫杖を構えた。




