第218話 ~魔将軍エルドルの最期② 最後の難関~
「これは……」
高空戦に加勢していたチータの目線からは、起こった異変が最もよく見えていた。遠くに見える、ラエルカン城跡のすぐそばで生じた凄まじい爆発は、まるでそこを噴火口とするかのように、ラエルカンの各地に溶岩を撒き散らした。幼少の頃に読んだ伝奇小説、その挿絵に描かれていたような、真っ赤な放物線を描く破壊の炎が散る様相は、現実として目にした時ここまで恐ろしいものなのか。
不慣れの魔導線をキャルとしか繋いでいないチータには、各地の仲間の安否が計れず不安な局面だ。キャルの位置はわかる。まっすぐそこへと飛ぶ溶岩弾が無いのは安心できる光景だが、ラエルカンに散らばった第14小隊の仲間達はどうだろう。冷静を努めて保とうとするチータの一方、意識せねば冷静でいられぬほどこの状況は気が気でない。各地に着弾した火球は、高き空から見ても目でわかるほど、凄まじい爆発を各地にもたらしている。
「チータ!」
そんなチータのもとへ舞い寄ったのがマグニスだ。カティロスとの一戦を終え、近き空で戦う中で目に入ったチータへと駆け迫るマグニスの姿は、7分の1の生存をチータに伝えるささやかな朗報だ。
「マグニスさんは……」
「ああ、俺は魔将軍の魔力に肌で触れたことがある。この魔力の波動、エルドルのもので間違いねえ」
すでにラエルカンいっぱいに満ち溢れた、術者の殺意に満ちた魔力の余波は、一度魔将軍エルドルと交戦して生き延びた者達なら第六感を刺激されるものだ。一度マグニスが魔将軍エルドルと交戦したことを知っているチータ、その問いかけに行間を読んで応えたマグニスは、チータの聞きたかった答えを最短で導き出している。
「感じられる怨恨、憎悪、断末魔……魔将軍エルドルは……?」
「ああ、活きた術者の魔力とは思えねえ風と炎だが……」
チータとマグニスが薄々と察する見解に一致し、魔将軍の命は確かに途絶えた。だが、死の間際にエルドルの放った魔力が、ラエルカンの各地の命を焼き払おうとしている事実は、推測ではなく事実として目の前にある。そしてその仮説と真実が同時に成立するなら、今のラエルカンに飛散する炎の数々は、術者なき炎であるということ。エルドルが既に死んでいるということなら、そういうことになる。
術者なき炎とは、矛先を誰が定めるのだろうか。術者の残留思念が魔法の矛先を、憎き人間だけに定めて操るなどということがあるのだろうか。魔法とは術者の精神を魔力として具現化したものであり、理論的にはそれも不可能なことではないはずだが、そんなことがまかり通るなら、世界は死者の魔法に居座られた伏魔殿になってしまうのではないか。
そう、伏魔殿。今のラエルカンは、まさしくそんな言葉の似合う世界だ。
「ドミトリー様!!」
「わかっている……!」
百獣王ノエルとの交戦真っ只中、近衛騎士ドミトリーは自らに上空から迫る炎を、大剣を大きく振るって真っ二つにする。正義の日出の魔力を纏うドミトリーの斬撃は、我が身を滅ぼさんとした火球の魔力にも干渉し、真っ二つに切り裂くはたらきを見せている。
割られた炎がその瞬間から軌道を乱され、二つの炎となって廃墟に激突、爆発と火の手を上げていく。ドミトリーと交戦中であった百獣王ノエルも、胸元と片腕に深い傷を負いながら、目の前に広がる炎を見て小さく舌打ちする。
「エルドルめ……! 獲物の横取りは法度であろうが……!」
眼前が炎に包まれていく光景に、ノエルも後方に大きく跳躍し、廃屋の屋上に飛び移って逃れる。魔王マーディスを討伐した勇者の一人、ドミトリーと交戦する中、周囲を取り巻く劣った人間どもを摘み取っていたノエルだが、ちょうど一度撤退するにはいいきっかけでもあっただろう。
降り注ぐ炎の数々は、ノエルに対して向かわない。人類だけを狙い定めたように、ノエルを包囲していた人類の輪に飛び込むばかりだ。ただでさえ、ノエルやその配下達によって戦力を削がれた人類にとって、充分な破壊力を持つ爆撃の数々は利く。着弾して燃え広がる炎は別としても、空から迫る炎はことごとく、人間ばかりを対象としているのだ。
「全隊、炎に対処しろ! この炎は活きている!」
人類を滅さんとする炎に、己が魔力を纏う大剣で触れたドミトリーは実感している。飛び交う炎の数々、これらは術者の意志が込められた炎ではない。術者そのものだ。魔法学に決して明るくないドミトリーだが、火球を切り裂いた瞬間の実感は、魔法を斬った感覚ではなく敵そのものを斬った感覚に近かったものであり、それが先の宣言に続く結果になっている。
(死に絶えよ、人間ども……! 誰一人逃さぬ……!)
炎の数々から漂う、何者かの魂の叫び。ドミトリーも耳にしたことのあるこの声は、紛れもなく魔将軍エルドルのものだ。エルドルが各地に炎を放ったと言うよりは、エルドルが自身を炎に変えてラエルカンの各地にその手を伸ばしたかのようなイメージが、ドミトリーの中では固まっている。
「黙れ……! 貴様に明け渡すべき命など、この地には一つも無い!」
空に向けて憤怒の大剣を振るったドミトリーが、正義の日出による斬撃の魔力を放つ。巨大なそれは、迫る火球の数々をことごとく切り落とし、エルドルの遺した火の遺産を塵へと変えていく。同時に後衛の魔導士達が放つ水の魔法が、周囲の炎を鎮めていく。局地的な洪水のように魔導士達が水を放つが、それにしてもなお火が容易に鎮まらぬ様ひとつとっても、これらがただの炎ではないことが明白だ。
この近辺に降り注ぐ炎を鎮めることは、時間をかければ可能だろう。ドミトリーもそうした心配を深刻にしているわけではない。遠き空に降り注ぐ火の雨を視野に入れ、各地の情勢こそ気になってならない局面だ。
キャルのまたがるマナガルムは、周囲を焼き払う炎の雨に戸惑いながらも、咆哮とともに吐き出す風で火を打ち払う。自らに飛来する炎は機敏に回避し、自分以上に惑う魔物達をその足で蹴飛ばし、あるいは頭から噛み砕きながらだ。
(この炎、ただの炎ではないな……!)
「どういうこと……!?」
(しっかりつかまれ! 今は振り落とされぬことだけに専念しろ!)
せわしなく駆けるマナガルムの動きに、キャルも振り落とされそうであり、弓を構える暇なくマナガルムの首にしがみつく。背中のキャルを落とさぬように案じているようでは、迫る火の手から逃れられぬほど、空からの火球は激しいのだ。
キャルの味方と思しき人間達も守りながら奮戦していたマナガルムだが、あまりにも不規則に空から振り注ぎ続ける炎には、周囲を気遣う余裕もない。地上を焼く炎の数々が、友軍の人間を焼き尽くしていく様を尻目にして逃れ続けるしかない。そんな中、人間あるいは人間に与する自分だけを狙い撃つ炎の動きからも、マナガルムの目には火球の数々が、只ならぬものであるとわかる。
(炎そのものが術者の魂の集合体だ……! 肉体を捨てた術者の意志が、飛散する魂の欠片となって破壊を各地にもたらしている!)
「そんなことが……!?」
(アルボルではそう珍しいことではない! 太古の魂の眠るかの地ではな!)
大森林アルボルの奥地、かつて滅んだ森の魂の収束地たる魔界アルボルでは、この世に留まった魂の数々が、生者の世界に影響をもたらすことも多かった。森に魂を招き入れるため、キャルの魂を引き寄せようとしたロートスの樹をはじめ、根元に眠る魂を吸い上げた樹木が落とす、エブルートと呼ばれる魔物もそうだ。大精霊バーダントですら、生存を望んだ魂の未練が集った集合体であり、その存在そのものが、この世に残った魂が実在世界にはたらきかけられる証明となっている。
魔物の覇権を突き崩そうとする人間、それに加担するマナガルムのような存在に対し、エルドルの憎しみの集合体である魂は、破壊の炎となって襲い掛かる。空から自らの眼前へと迫る火球と目を合わせた瞬間、マナガルムの眼には、あるいはその首にしがみつくキャルでさえ、魔将軍の憎々しげな眼光に突き刺された実感があった。
(消え去れ! ここは貴様の世界ではない!!)
今は無き森が復元された魔界アルボルに、数少ない"実在者"として存在しているマナガルムは、一喝の咆哮とともに吐き出す風で火球を、エルドルの魂を消し飛ばす。消えた炎に投げ出されたかのように、マナガルムとキャルを貫く怨念は、魔将軍エルドルの憎しみがいかに深いかを、両者の魂に刻みつける。
(恩人よ、滅されてはならぬ! この世を離れた死者に道連れにされる愚は、一度で充分であろう!)
「っ、うん……!」
ぎゅっとマナガルムにしがみつくキャルは、一度ロートスの樹に狂わされ、自ら命を捨てようとした身。死した魂の呼び声に引きずられ、地獄へ行くことがいかに恐ろしいことかは、身を以って知っている。背中のキャルを守るため、燃え盛る廃墟を駆けるマナガルムだが、自分周囲に落ちた火球の拡げた炎は、逃げ道を防がんばかりに燃え立つばかりだ。
天高く吠えたマナガルムの魔力が、周囲各地の地面から水を噴き出させる。噴き出すと同時に鎮火を遂行し、降り注ぐ水となって再び広く火を鎮める水だ。数少ない生存者である魔導士達も、水の魔法で炎を消すことを為しているようだし、この周囲の火が収まるのに時間はかからないだろう。次々に降る炎はとどまることを知らないが、終わりはいつか必ず訪れるはずだから。
だが、事実として降り注ぐ炎は人類の多くを焼き、死体の山を築き上げている。それでも飽き足らず、地上の人類を食らいつくそうという炎の数々は、魔将軍エルドルの強欲な殺意の象徴だ。
魔力で火の雨に抗うすべを持たないガンマは、周囲の兵とともに火の手から逃れるしかなかった。時に炎と爆風に煽られ、地面に膝や手をついた仲間達に肩を貸し、立ち上がらせて引っ張るパワーも健在だ。だが、アジダハーカとの戦いで傷ついた体は決して万全ではなく、目まいすら覚える感覚でガンマは地上を駆け回っている。
血を目覚めさせ、姿を変貌させればいくらか楽にもなるだろう。ガンマにはそれが出来ない。変わり果てた自分の姿では、友軍の人々を怖がらせる結果になる。差し伸べようとした手を払われることを恐れるガンマには、全力を発揮する選択肢が失われている。
「危ない……っ!」
若き騎士の気付かぬ真上から降る巨大なる火球。騎士を力強く突き飛ばし、その脅威から逃れさせた後、自らも大きく横っ跳びして離れるガンマ。直後地面を吹き飛ばすほどの爆発を起こした火球の威力は、直撃していれば死んでいたとよくわかるものだ。
突き飛ばした騎士が慌てふためきながらも立ち上がったことに、ちゃんと助けられたとガンマは思わずほっとした。力任せにし過ぎて人を怪我させる経験が、幼い頃に多かったから――そうした過去が生み出す一瞬の油断が、ガンマ目がけて飛来する火球への反応を一瞬遅らせる。
ぎりぎりで側面上空から落ちてくる火球から逃れたガンマは、空中で爆風に煽られて投げ出され、不運にも尖った瓦礫の突き出した廃墟の壁に背中から叩きつけられる。頑丈な体でもこればかりはつらい。吐瀉物が込み上げてくる体内を貫く痛みとともに、地面に転がったガンマがえづいて立ち上がれない。
術者の怨念を抱いた火球が、そんなガンマを空から狙い撃つのが直後のことだ。見上げた瞬間、燃え盛る太陽が自分に向けて急接近する光景には、ガンマも死を覚悟した。もう、かわせない。
「しっかりせい……!」
そんな火球を横入りする形で、鉄球棒によって叩き飛ばしてくれた人物がいなかったら。魔力の扱いに特別秀でるわけではないが、魔物達との歴戦の日々により、抗魔の魔力ぐらいは武器に纏える聖騎士クロードが、雄々しい言葉と共にガンマを屠ろうとした炎を撃退してくれた。
「守りたいものを守るんじゃろう……! 己を捨てねば出来ぬことじゃ……!」
クロードは、ガンマが変異した姿のことを知っている。どうして今のガンマが、出来るはずのその力を行使できないのかも知っている。わかっていて尚、それを口にする。誰かの命を守ろうと思えば、捨てねばならないものも沢山あるのを知っているから。捨てずに守ろうとして、狭い救いしか為せない現実を、何十年も戦い続けてきた聖騎士は見てきたから。
「頼む、わしの部下達を救ってやってくれ……! たとえお主が差別されるようなことになっても、わしやルーネ様は決してお主を見捨てぬから……!」
そして、懇願。どんなに全てを投げ打っても、一人で何もかもを守れるような世界ではないのだ。さらに降る炎を鉄球棒で打ち払い、アジダハーカに傷つけられた体で咳き込みながら、クロードは強くも哀しき背中をガンマに示している。
そうだ、迷わなくていい。第14小隊のみんなが、ルーネ先生やこの人がいてくれるなら充分だ。たとえみんなに嫌われたって、人々が安心して暮らせる世界を目指して戦ってきた騎士、帝国兵、魔法使いの仲間を守れるなら、この力を全力で振るうことも厭わない。浅黄色の髪を徐々に白く染め始め、肌の色も赤々しく変えていくガンマの胸に、もはや迷いはない。その決断の早さが、彼が叶えたい多くをこれまで叶えてきた。
「……俺、どうすればいいですか」
「部下を撤退するよう促してくれ。もう、この戦場で戦える者も一握りじゃろう」
そう言ってクロードは、胸につけた聖騎士の階級章を握り、後ろのガンマに投げ渡す。誇り高き騎士団の、誉れ高き聖騎士の階級章など、一介の傭兵の手に本来渡していいものではないはずなのに。そもそも昔気質のクロードなんて、本来の性分から言えば易々とそんなことをする人物ではない。
「……わしの名とともにそれを掲げ、撤退を唱えれば、部下も信じて動いてくれるじゃろう」
「わかりましたです! 騎士様は!?」
「わしはまだ戦える。後ろの者達を頼んだぞ」
自身の体も傷つきながら、祖国を取り戻す戦いに戻ると宣言するクロード。心配する想いはあれど、覚悟を決めた男に引き止める言葉が届こうか。ガンマも同じ性分だから、クロードの道を言葉や態度で遮るようなことはしない。
「頑張って下さいです……!」
「おう! 生きて会おう!」
後方に駆けていくガンマの足音を耳で見送りながら、跳躍したクロードが空の火球を打ち返す。低空を滑り、クロード後方の地上を焼き払おうとしたエルドルの炎を退けたのだ。着地の瞬間に鼻を鳴らしたクロードの脳裏に、この瞬間から後方への配慮は無い。信じる若き意志に後軍の命運は託したのだ。
駆け出したクロードは死地へと舞い戻る。たとえ今日が人生最期の日であったとしても、故郷を取り戻す戦いに漕ぎ出す戦士の心に、立ち止まるという選択肢は一つもなかった。
「よっしゃあエルドル死んだあっ!! お疲れニャ!!」
自らの魂を破壊の炎に変え、ラエルカンを焼き払う炎として降り注がせる魔将軍エルドル最後の魔法、魔神復興の炎が拡散する様を見て、百獣皇アーヴェルは大喜びだ。長かった。本当にここまでが長かったのだ。
「丸め込み」
空にも勢いよく飛んでくる火球を、魔力の網でばさりと捕まえたエルアーティは、それをそのまま別方向の魔物に投げつける。友軍の魔法使いに迫ろうとしていたガーゴイルやワイバーンが、エルアーティが放ったエルドルの魂を受け、業火に焼かれて落ちていく。
「傲慢、支配欲、反逆者への憎悪……エルドル……マーディス……」
魔力で触れたその瞬間に、炎の本質とその奥に眠る魂の意志を感知したエルアーティは、術者の名と、かつてその主であった魔王の名を連想する。思考に捕われ動きが一瞬単調になったエルアーティに、すかさず風の砲撃を放つネビロスもいる。
「……遅延」
自らに直撃しそうだった風の砲撃を、かざした掌が発生させた魔法障壁で止めるエルアーティ。それによって食い止められた風はそこに留まり、移動したエルアーティがいなくなった後、再び軌道を取り戻して直進する。軌道上に飛び込んだ一体のコカトリスを葬ってだ。
「これはまずい」
高空でアーヴェルを追っていたエルアーティが、素早く地上に向けて箒を導いていく。急下降する大魔法使いは、魔王軍いち厄介な百獣皇の追跡を打ち切ってでも抑止すべき、邪悪なる意志が地上で渦巻いている気配を察知したからだ。
「ニャはっ、流石はエルアーティ……! 某にとっては都合のいいことだがニャ!」
ご機嫌で空高くへと舞い上がるアーヴェルは、表情とは裏腹、この日最大の魔力を体内に練り上げる。この日のために編み出した最大の魔法、これを封切らぬままにして葬られることは避けたかった。だが、これを発動させたが最後、生存への道は一気に拓けると言っても過言ではない。
「風雨の帝はここに在り……主求めし狂飆よ、我が掌に跪け……!」
前詠唱とは、精神状態を魔法を行使するにあたって、最善の状況に持っていくためのおまじないに近い。無尽蔵の魔力を持ち、どんな魔法も容易にこなすアーヴェルが前詠唱を挟むということは、それだけこの魔法に懸けているということ。
大魔法使いでさえも一目置くような大魔法を、平然と叶える百獣皇アーヴェル。その存在が懸けるほどの大魔法だ。アーヴェルの全身から溢れ出す魔力は、空にて追いかける魔法使い達の背筋をぞわりと凍らせる。
「百渦狂嵐!!」
百獣皇アーヴェルの全身から放たれた魔力が、天に放たれ雲を突き破る。それは激戦続きであったラエルカンの戦いを、さらに過酷なものへと変える前兆だ。
元々エルドルは一度息絶えた身。完全に蘇生させることなどほぼ不可能なことだったのだ。あれはあくまで、人類と魔物達の亡骸から集めた霊魂をかき集め、コズニック山脈奥地の魔界にて眠っていたエルドルの魂と掛け合わせ、この世に顕現させたものに過ぎない。
エルドルの魂そのものは生前の姿を記憶しているから、かの魂に似た精神を持つ霊魂と共に時間をかけて蘇生させれば、しばらくこの世界で活動させられる体も再生できたというわけだ。魔王マーディスの腹心であった黒騎士ウルアグワは、主であった魔王の魂の様相もよく知っているし、そのマーディスが生み出したエルドルも魂の根底は同じだ。よく知るエルドルの魂に、どのような霊魂を添えてやることが、エルドルの復活の支えになるのかも初めから把握できている。
とはいえ、目指すさらなる目的のため、限りある霊魂をエルドルだけに注ぐこと惜しんだウルワグワの中途半端な蘇生は、魔将軍エルドルの肉体を完全に再生させることが出来なかった。不完全に再生したエルドルの肉体を、屍人を作りだす技術でまかない、半ば無理くりで作ったのがエルドルの肉体だったのだ。エルドルの霊魂が保つ肉体は、短期間なら維持できようが、時が経てばやがて腐敗し、自然と土に還っていただろう。半屍の肉体のエルドルが滅びるまでに、自らを一度葬った人類への報復の機会を与えたウルアグワの思惑どおり、ここまでエルドルはよく働いてくれた。死の間際、自らの肉体と魂を、こうして魔神復興の弾丸に変え、ラエルカン各地の人間どもを葬る仕事までしてくれたのだから、ウルアグワにとっては予定以上のはたらきだ。
ラエルカンで死を迎えた多数の命、それらの魂がさまようこの地は、もはやウルアグワにとって充分なほど、目的を叶えるための苗床だ。もう、予定は達成されたと言っていい。自ら参戦することもなく、裏で悲願達成のための布石をばらまいてきた数時間だったが、ここからは存分に遊んでいい時間となる。
各地の魔導士達が、エルドルのばらまいた炎――言い換えるならば暴走するエルドルの魂を鎮火して消し去っている。やがてエルドルの残した死の遺産も、鎮まる火とともに消えていくだろう。頃合いを見計らったかのように、ぽつぽつと降り始めた雨は、魔将軍の殺戮の終焉が近付いた知らせであると共に、新たな嵐の前触れだ。
「ご苦労だったな、エルドル。後は全て、私が引き継いだ」
ある瞬間、廃屋の奥から飛び出した黒い影が、空に舞っていた魔導士の一人を背後から突き刺す。戦場に慣れ、殺気の感知には敏感なはずの魔導士が、気付きもしないまま背後から剣で貫かれるほどの速度。何が起こったのかもわからぬまま、胸を貫く冷たい痛みに血を吐いた魔導士が、剣をひねって振り切った黒騎士の手によって、上半身をかっさばかれて地上に落ちていく。
「ぜ……っ、全隊に報告! 黒騎士ウルアグワ……」
真っ青な顔で叫びかけた空の魔導士に急接近したウルアグワは、まるで重力を無視するかのように身勝手な軌道で迫り、容易にその剣で人間の頭を切り落とす。わざわざ残忍な殺し方を選んでいる。頭の中身をむき出しにした人間が、どちゃりと地面に落ちた無残さは、その光景だけで人々に恐怖と戦慄を落とし込むことを知っているからだ。
数多くの魔導士が、突如現れた恐ろしき敵将に魔法を放つ中、ウルアグワは高度を急速に落として回避。地上でおののく騎士を、帝国兵を、魔導士を、木々を潜り抜ける蜂のように間隙を縫い、通りがけにその体を切り裂いて絶命させていく素早さは、目で追う暇もなくしたいの山を築いていく。
併せて12の人間を葬った末、13人目の人間にウルアグワが剣を仕向けた瞬間、連続する殺戮が止まった。曲がり角、廃墟の陰から突然現れ奇襲をしかけてきた黒騎士の太刀筋にも、すかさず反応して騎士剣で打ち返す法騎士がいた。ウルアグワも、ようやく自分を止められる者がいたかと鉄仮面の奥で笑うと、法騎士から離れた地上に降り立つ。
「黒騎士ウルアグワ……!」
「ほう、貴様は知っているぞ。シリカという名だそうだな」
ディルエラは"飼い"認定した相手のことを、よく楽しげにウルアグワに語っている。サーブル遺跡やアルム廃坑の邂逅で、完全に"飼う"と決めたシリカのことは二度ウルアグワに話しているし、ディルエラが言っていたシリカという人物像にもよく一致する。
単に、外見だけの問題ではない。己の非力を強く自覚しながらも、人類を刺す脅威の数々を挫くため、決死の想いを常に宿した眼差しがまさにそれ。ウルアグワにとってすれば、思いつく限りの絶望の沼に叩き落して、苦痛と涙いっぱいの顔で泣き叫ばせてやりたくなる目だ。
「絶好の玩具だ。少し、遊んで貰おうか」
「っ……!」
黒騎士ウルアグワが全身から放つ禍々しいオーラは、向き合う者に無条件で、漠然と恐ろしい予感を意識させるものだ。気合の一声を発することも無意識に封じられ、乾坤一擲の想いでシリカがウルアグワに駆け迫った。
雨が強くなる。人と魔物の血で満ちた大地を洗い流すこの雨は、これから流れる無数の血をも流し、ラエルカンの大地に染み込ませる魔性の雨だ。
「さて、と」
闇の中でつぶやいた存在は、ごろりと寝転がっていた体を起こし、くあ、と大きなあくびをする。うるさい地上での喧騒を耳にして眠れるはずもなかったが、ずっと体を横にしている時間は退屈で、いざ動こうという時に体がだるい。
かつてラエルカンの民が逃走経路に使っていた地下道に潜むその存在の耳には、地上で起こっていることのすべてが、地面を介して届いている。どこで誰が戦っているのかも、地面に倒れて動かなくなった者が死体になったことも、何よりも地面を叩く雨の音も。まさにこの時間帯、突然振り出した雨音こそ、この存在にとっての出陣のきっかけだ。
百獣皇アーヴェルの秘術である百渦狂嵐は、ラエルカンいっぱいに影響力を持つ大魔法。その力が生み出す風雨は、エルドルの火の魔力を遮るものでもあるため、エルドルが力尽きるまでは発動させない取り決めだった。それが地上で発動したということは、エルドルが墜ちたこととほぼ同じ。エルドルの巨体が一度倒れた音も耳にしているし、確信材料は充分に揃っている。
エルドルが討伐されるほど人類が進軍すれば、それだけ死体の山が築かれる。弱い人間は既に淘汰され、今の地上に生き残っている者達は、選ばれし強者だけだろう。葉巻をくわえて寝起きの一服をしながら、闇の中を歩くこの存在にとって、弱者など興味の外。強き者との戦いこそが糧、この地を離れる前の最後の戦いにおいて、妥協はしたくない。
気になるのは、何度葉巻で占っても灰がすぐ落ちる、大凶の運勢。まあ、今さらどうでもいいことだ。この日自分が人類に討ち取られるなら、それもまた運命だと獄獣は考えている。
闇を抜け、ラエルカン大教会の地下から姿を現したその存在。暗闇の中から顔を出し、目を差す光も、この魔物の眼を痛めつけることは出来ない。人がいるはずもない、荒廃したラエルカン大教会の中を歩き、くわえた葉巻を吹き捨てる。荒れ果てた大聖堂の地面を踏みしめ、閉じられた大教会の扉の前に立ち、扉の向こうにいる人類の数と気配を確かめる。
「16、20、24……まあ、いい数だな」
頭数30に近い、ここまで生き残ってきた強き戦士や魔導士達の軍勢にも、魔物はにやりと口の端を持ち上げるのみだ。軽い肩慣らしにはちょうどいい雑魚掃除だろう。地表を介しての音では察知できない、空の魔導士もいくらかいるだろうが、多少の手添えがあっても体をより温める要素にしかなるまい。
魔王軍最強と謳われた怪物の抱く自信は、傲慢でも驕りでもなく事実を正しく認識したもの。教会の扉を勢いよく蹴り砕いたその一撃は、よもやそこから人類最悪の化け物が現れるなど予想だにしていなかった、人類の兵の虚を突く。蹴り砕いた教会の扉の破片が、不運な人間二人の頭を粉砕したのもささやかな出来事だ。
即死した人間と、勝ち目の無い最強の化け物と突然対面し、恐怖に包まれた生存者とでは、どちらが不運なのかわからない。あまりにも予想外の遭遇に、扉の破片に命を奪われた仲間を気遣う暇もなく凍る人間を前にして、自らを戦場に解き放った獄獣が殺意の笑顔を見せる。
「さァて……! 真の殺し合いはここからだぜ……!」
百獣皇アーヴェルがラエルカン全土に生じさせた風雨は、すでにラエルカンの地上を満たしている。横殴りの凄まじい雨が吹きすさび、人類同士の掛け声もかき消されるほどの嵐の中、獄獣ディルエラの太く大きな声はよく通る。そして息を吸い込み、天を仰いだ獄獣の行動は、これより始まる人類と魔王軍残党の、最終決戦の狼煙を雨の中で上げるためのもの。
獄獣ディルエラの恐ろしき咆哮が、大地を揺るがし雨を裂き、空まで届かん轟音となって響き渡る。雨音より、荒れる風より、雷音さえよりも巨大なその雄叫びは、ラエルカン全土に決戦の幕開けを知らしめた。




