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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第13章  戦に轟く交響曲~シンフォニア~
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第213話  ~ラエルカン市街戦④ 皇国の土へ~



 アジダハーカの右拳の突きをかわすと同時、ガンマの両手が敵の手首に組み付く。投げるための動きではなく、その腕を思いっきり巻き込むように引っ張り、アジダハーカの体を手元に引き寄せるための動きだ。


 アジダハーカの巨体が自らに迫った瞬間に地を蹴ったガンマは、その顎を蹴飛ばす足を振り上げる。硬化した左掌でそれを受け止め、同時に地面を踏み堪えたアジダハーカだが、ガンマの脚力はアジダハーカの手を叩き上げ、自らの手の甲でアジダハーカは顎を殴られる形になる。だが、倒れない。懐すぐそばにいるガンマは跳躍して上昇するままに、自分と同じ目線の高さまで昇っている。そこにのけ反った頭を硬化させ、返す刃の頭突きを向かわせるアジダハーカが速い。


 膝を引き上げ、両手を前に出し、三点でアジダハーカの頭突きを食い止めたガンマだが、空中でそれを受けた肉体は、後方地面に吹き飛ばされる。背中から地面に叩きつけられるも、二度ほど地面を転がるように跳ねた後、掌で地面を押し出して立ち上がる動きに無駄はない。だが、体勢はすぐに整えられても、すぐに猛進してきていたアジダハーカは、既にガンマの目前に迫っている。


 片手を地面に着けた低姿勢のガンマは、アジダハーカにとっては小さすぎる的だ。地表すれすれの水面蹴りを放つアジダハーカに、ガンマは跳ぶべきか退がるべきか。後方に大きく跳躍したガンマの行動はその両方を叶えたと言える。だが水面蹴りを放つ中、墓石の欠片と思しき拳大の瓦礫を拾っていたアジダハーカは、蹴るまま一回転してガンマを正面見据えた瞬間、銃弾よりも凄まじい速度で瓦礫を投げつけてきた。


 形もいびつで重さも速度も充分、当たれば大怪我間違いなしの瓦礫弾丸を、空中でガンマは蹴り払って打ち砕く。だが、やんごとなく着地できていたはずの姿勢がそれによって乱れ、アジダハーカに半身向けて着地しかけたところに、ちょうど相手が突っ込んでくるのだ。肩をいからせたアジダハーカは、落下してくるガンマを殴るでも蹴るでもなく、硬化させた肩を突進するままにぶつける体当たり。右半身に馬車事故のように激突してくるアジダハーカの肉体を、ガンマは左手と右腕、右脚を集めて防御の形を作るが、超重量のアジダハーカが走る速度をそのまま乗せた体当たりの威力は度を越している。三点で衝撃を散らせてなお、右腕を通してあばらまで衝撃が貫かれ、その壊滅的なパワーがガンマを吹き飛ばす。


 吹き飛ばされたガンマが地面に叩きつけて横たわるが、窮地真っ只中のガンマはすぐに地面に手をかけて起き上がろうとする。間髪入れない容赦なきアジダハーカの追撃は、すぐにこちらに向かっている。ガンマが顔を上げた瞬間には、すでにアジダハーカがガンマの頭を踏み砕くべく、足を振り上げた光景が目の前にあった。


 立ち上がってももう手遅れ、掌と足で勢いよく地面を押し出したガンマは、アジダハーカが足を振り下ろすよりも早く跳躍した。4足跳躍の蛙のような不格好な跳躍でも、その素早い跳躍は片足を振り上げたアジダハーカに迫り、頑丈なアジダハーカの胸板とガンマの頭がぶつかる。むせるような痛みにわずかよろめくアジダハーカに、石頭が痛むことに片目をつぶりながらも、宙に身を置いたガンマの空中回し蹴りが、アジダハーカの脇腹に届いた。


 巨人属の魔物とも格闘戦をこなせるガンマの筋力は、硬化したアジダハーカの脇腹も砕けそうな破壊力の蹴りを生じさせる。目を見開いて口の中の唾を吐くアジダハーカの一方、鋼鉄のような脇腹を素脚で蹴ったガンマも、自分の足が砕けそうな痛みに表情を歪ませている。それでもガンマが突き出した拳は、半ば届けば儲けものの苦し紛れだったが、アジダハーカの下腹部に深く入った。


 ボディを貫く二発の攻撃に、膝から崩れ落ちそうなアジダハーカだが、噛み締められない顎に力を入れ、両手を頭上で組む。自らの懐から生拳突きの反動でわずか離れたガンマに、組んだ両手をハンマーのように振り下ろしたのが直後のことだ。咄嗟に頭上で手を交差させたガンマと、アジダハーカの鉄槌の激突は、ガンマが着地した瞬間に起こったことであり、貫く衝撃は地面の土を散せるほどの衝撃波を生み出した。


 アジダハーカのパワーが、自分の両腕を限界近くまで痛めつける衝撃を伝えてくることに、ガンマも口から小さな悲鳴が漏れたほどだ。この強い肉体で、腕が折れるかと思ったことなんて今日が初めてだろう。そんな初めての経験の余韻も与えることもなく、両腕を上に構えて体が無防備なガンマを、アジダハーカの右脚が勢いよく蹴り上げてきた。


 防御することも出来ずに蹴飛ばされたガンマは、意識が吹き飛びかけた脳裏の中で宙を舞い、アジダハーカから僅か離れた地面に落下する。受身はかろうじて取っている。気絶などしていない。すかさず追撃に移りたかったはずのアジダハーカも、ボディへのダメージがあまりにも大きく、体が言うことをきかずに片膝をついてしまった。ガンマにかなりの決定打を与えた局面ではあったが、むしろそう出来ていなかったら、アジダハーカの方が詰まされていたかもしれない。


 白金色に染まった髪も土だらけ、真っ赤な肌も地面に擦って出来た傷から溢れる血が上塗りされているガンマ。地面を握り締め、苦悶の表情ながらも立ち上がるガンマの正面、アジダハーカも戦人の表情に苦痛を隠しきれていない。クロードの鉄球棒で粉砕されたボディの内面は既にぐしゃぐしゃで、ガンマの追撃はさらに体内を血みどろにしたことだろう。それでもアジダハーカは倒れない。とうに呼吸困難で意識を失ってもおかしくないのに、立つどころか戦い続けられるとは凄まじい気力である。


 負けられないのだ。父として慕った主に報い、母として敬愛した百獣皇に応え、家族の望む未来を叶えるためにずっと戦い続けてきた。ただの一人も同属に恵まれなかった異端者が目指した、勝利を片手に主達を喜ばせる報告を届け続ける生涯。いつか力及ばず我が身が砕け散ろうとも、最後の最後までそれを追い続ける生き方しか、アジダハーカには見つけられなかったのだ。


 だから戦う。戦い続ける。主らはこの戦いを最後に魔王軍残党を離れると言っていた。人類に打ち勝ち、生存し、主らとの新たな道への旅立ちを、勝ったぞという勝利報告と共に幕開けたい。ディルエラはきっと、よくやったと言って頭を撫でてくれる。アーヴェルはきっと、せっかく作った体をめちゃくちゃに酷使しやがってと怒りながらも、傷を癒してくれる。家族が待っているのだ。


 ずしりと重い足を踏み出し、ゆっくりと歩み寄ってくるアジダハーカの姿は、ガンマにとっても死神が迫る光景に等しい。息を整えながら距離を詰め、射程範囲内に入った瞬間、はじけるように急加速してとどめを刺しにくるのが、殺気からも明らかだ。自らも膝から砕け落ちそうなぼろぼろの体で、ガンマが体の軸を正し、ぜはぁと大きな息をつく。握り拳を作ったのは、まだまだやれるはずだろと、自分の体に鞭を打つ行動だ。


 荒廃したラエルカンの地で戦うガンマには、戦う理由が周囲に広がっている。魔物達を野放しにすれば、こうした悲劇がいつかまた繰り返されるのだ。初めて出会った、自らと同じ境遇に生きたアジダハーカを前にしてなお、ガンマの精神に刻まれた信念は、戦う理由を揺らがさない。ただ安寧に生きることを望む、戦う力を持たない人々を守るために戦い続けるという戦士の魂は、第14小隊という勇士達と生きる毎日の中で、ガンマの中に育まれた確たるもの。


 今より幼き頃、ルーネに連れられて訪れた平和なラエルカン。町の人々は優しかった。あの日の楽しかった思い出をモノクロに変え、二度と帰らぬ過去に変えて焼き払った魔物達を、ガンマは決して許すことが出来ない。決して単なる仇討ちではない。同じ悲劇をもう二度と、見知る世界で繰り返させないという、未来に向けた決意の戦いだ。


 アジダハーカの大きな歩幅で、ガンマまでの距離五歩という地点。アジダハーカの足が踏みしめる地が爆ぜた瞬間、放たれた砲弾のようにゼロからマックスまで急加速したアジダハーカがガンマに迫る。限界近しきアジダハーカが、勝負を決めにかかった瞬間だ。


 手を開いたアジダハーカの平手がガンマを横から薙ぐ。蹴り上げて対処しようとするには、広がった掌は大き過ぎる。ガンマが咄嗟にとった行動とは、組んだ両手をフルスイングして、アジダハーカの掌をハンマーのように殴り返す一撃。食い止められようものなら、ガンマの腕でも脚でも掴んでとどめに移行しようとしていたアジダハーカが、それを出来なくなるほど、その一撃は重い。硬化した掌でさえも砕かれそうになる。


 すかさずアジダハーカに正面から飛びかかろうとしたガンマと、それを殴り潰そうと拳を振り下ろそうとしたアジダハーカ、どちらが速かったか。手を伸ばせばアジダハーカの胸部に手が届きそうであった距離、ガンマの頭を上から叩き潰したのはアジダハーカだ。頭上で交差させたガンマの腕が、アジダハーカの鉄拳によってばきりと音を立て、砕け散ったのが耳でわかるほどだった。


 それでもガンマは止まらなかった。いや、地面に足を踏みしめて耐えた、短い時間は確かに止まった。だが、制止したアジダハーカの拳を、折れた腕で振り払ったガンマは、同時にアジダハーカの顔面目がけて跳躍する。右腕はもう使い物にならない。アジダハーカの後頭部にまで手を伸ばし、右膝をアジダハーカの鼻先に突き刺すと同時、怪力の左腕で頭を引き寄せたことが、アジダハーカの頭を凄まじい破壊の挟撃で粉砕する。逃げ場の無い衝撃で顔面を砕かれたアジダハーカが露骨によろめき、体が後方に傾く一方、アジダハーカの頭を手放したガンマがその鼻先を蹴り、少し高く跳躍する。


 アジダハーカの目はそれでもガンマを見逃していない。落下してくるガンマ目がけ、右拳を突き上げる決死の一撃だ。一方空中で身を翻したガンマは落下するまま、後頭部を地面に向けた状態から、勢いよく首を引いて体を回転させる。ガンマの空中での踵落としと、アジダハーカの拳の突き上げが激突する。


 アキレス腱周辺の骨と筋肉が壊れそうな衝撃が脚を貫くガンマの対極、鋼のように硬化させていたアジダハーカの拳が、明らかにこれまでと違う音を立てた。ごしゃりと今まで誰も聞いたことのないような音と共に、金属のように硬化させていた筋肉が崩壊し、ひび割れて砕け散ったのだ。その拳を破壊したエネルギーは一筋にして腕を貫いていき、アジダハーカの腕までをもばしばしとひび割れさせて砕いていく。腕が破片となって我が身から離れていく感覚は、痛みよりも先に肉体の敗北をアジダハーカに伝え、その一瞬でアジダハーカの精神が一つの限界を迎える。


 体内含め、崩れかけていた肉体を随所硬化させて誤魔化していたのが、揺らいだ精神によって総崩れする。滅茶苦茶にされていた体内がとうとう限界の悲鳴をあげ、アジダハーカの心臓や肺が、どくんと活動を危ぶめた。それでも引いた脚でなんとか倒れず、踏みとどまったアジダハーカだったが、崩れかけた体勢で着地したガンマが、アジダハーカの目前で拳を引いている。


 その一瞬は両者にとって長く感じられたものだ。とどめの一撃が自らに向けられていながら、限界を迎えた体がついていかないアジダハーカ。一撃のとどめをくらわせる最後の好機、拳に全力いっぱいのパワーを集めるガンマ。そして、隙だらけのアジダハーカの胸をガンマの握り拳が貫いた瞬間、岩をも砕く破壊力がアジダハーカに対する決定打となった。


 斬られても、焼かれても、打ちのめされても、決して人類の前で一度も倒れなかったアジダハーカが、ガンマの正拳突きを最後にその身をぐらつかせ、倒れた。受け身も取れず、背中から倒れ、後頭部を地面に打ち付けてだ。同時にその口から、真っ赤な吐瀉物とさえいえるような多量の血を吐き、天に向けて吐いたその血の雨は、アジダハーカの顔と首元を一瞬で赤く染め上げる。


 勝負はあったと、どちらの本能も正しく理解していた。その場で片膝つき、砕けた右腕を抱え込むガンマも、かすれた呼吸とともにぼやけた空を見上げるアジダハーカも。勝利の実感は確かにあれど、一歩及ばねば死は確実だったという戦いの終幕には、ガンマも未だに生きた心地がしなかった。


 だが、アジダハーカは動いた。ゆっくりと、ごろりと腹を下にして、地面を引っかくようにして地面を這おうとする。戦うための動きではないことが明らかであり、ガンマから離れていく逃亡の動きでもない。その動きが意図するものが何であるのかはガンマにもわからなかったが、アジダハーカが最後の力を振り絞って向かう先に目を贈れば、それが何を目指しているのかが見える。


 消えかけた意識を必死で正し、死に場所へと辿り着こうとしていたアジダハーカに、一つの手が添えられる。それはアジダハーカの後ろから近付いて、地面を這うアジダハーカの左腕を自らの首の後ろに回させて、彼を引きずろうとするガンマだった。


「おま、え……」


「黙ってろ……死んじゃうぞ……」


 アジダハーカの重い肉体を引きずるのは、満身創痍のガンマにとっても苦しいことだ。だが、歯を食いしばってアジダハーカを引っ張り、彼が目指す最後の場所へとガンマが導いていく。今の今まで戦っていた敵が、真意を知ってか知らずか自分の願いを叶えようとしてくれていることに、アジダハーカも戸惑う想いを隠せなかった。


 アジダハーカ=シェルレーカー。三つの顔を持つ彼の名は、三つ首の竜アジダハーカの名を冠して、ディルエラがつけてくれたものだ。そしてその姓は、生まれる前のアジダハーカを擁していたカプセルに刻まれていた、本来ならばアジダハーカを生まれさせていたはずの魔導学者のもの。人類でありながら、魔物達の中に生まれ、同属にも恵まれなかったアジダハーカに、自分が何者であるか考える時が来ても、確かな指針となる人の姓を与えてくれたのはアーヴェルだ。それはアジダハーカが人間であるという象徴であり、同時にそれはアジダハーカにとって、異種族の自分を受け入れてくれた、獄獣と百獣皇の温かさを実感させてくれるものだった。


 主の期待に応えられず、胸を張って帰れる場所を失ったアジダハーカ。死の間際にあった彼に最後の力を与えたのは、自らと同じ姓を持つ、顔も知らない誰かの墓。ラエルカンが滅ぼされていなければ、自分をこの世に生まれさせてくれていたかもしれない、"人間"の母親の墓石だ。すがるように墓石に這い寄ろうとしたアジダハーカの気持ちは、ほんの少しだけだがガンマにもわかる気がした。


 周りの誰とも違う存在として生まれ、血の繋がった親の顔も知らないまま歩んできたアジダハーカ。半生の末、最後の最後で行き場を失ったが求めたのは、抽象的な誰かの愛。育ての親ヴィルヘイムやルーネに、惜しみない愛を注いで貰った幸せな人生を歩んできたガンマでさえ、本当なら自分の母となっていたはずの誰かはどんな人だったんだろうと考えてしまうことはあったのだ。


 ガンマの体を頼るすべにするかのように、太い腕でガンマの首にしがみつくアジダハーカ。それは彼にその意図あらば、ガンマの首をへし折ることも出来た動きだ。殺意なきその行動を誤解することもなく、ガンマがアジダハーカの方に顔を向け、屈託のない笑みを向けてくれたことが、アジダハーカの心に初めての感情を沸き上がらせる。


 父はいた。母もいた。友人にはただの一人も恵まれなかった。醜い自分の肩を担ぎ、血に染まった首元にその手を触れてでも、力になって引っ張ってくれる"人間"との初めての出会い。自らの体温と同じ血を超えて伝わる、他の誰かの体温は、肌を通してアジダハーカの体にぬくもりを伝えてくれる。


「もっと……違う、形で……」


「言うなよぅ……俺だって、そう思ってるんだから……」


 ガンマから顔を伏せたアジダハーカの声が弱々しかったことからも、途切れた言葉に続く言葉が何であったのかはガンマに伝わっていただろう。敵対する立場同士でなく出会えていたならば、世界でたった二人、本当の意味で分かり合える友人になれていたかもしれなかったのに。姿形は全く違う二人でも、特別な生まれゆえに抱いてきた孤独を埋めてくれる友人に出会えていたなら、今とは違う温かい日々を歩めていたかもしれない。神様の意地悪なところは、手遅れになってからそんな出会いをもたらして、喪失感ばかりを授けようとするところだ。


 シア=シェルレーカーの名が刻まれた墓石の前に辿り着き、ガンマはようやく足を止めた。アジダハーカを地面に降ろし、体を引き上げ、墓石に背中を預ける形にまでしてくれた。力なく、折れた右腕をだらりと垂らしながらも、ガンマはアジダハーカに優しく微笑みかけてくれる。一人じゃないぞ、と、アジダハーカの母の墓石がそばにあることを言い表してくれたガンマを目の前に、アジダハーカは生涯の最後、友人に恵まれたことの幸福を受け止めていた。


「……行ってこい」


「……うん」


 立ちすくむガンマを見上げ、醜いはずの顔が朗らかに見えるほど、アジダハーカは優しい笑みとともにそう言ってくれた。奇縁に対して想うところはあれど、ガンマの戦いは終わっていないのだ。死にゆく自分に構うことなく、守りたいものを守り抜く戦いに向かえとアジダハーカが言うのは、最期の願いを叶えてくれたガンマに対する、せめてもの恩返しだったのかもしれない。


 右腕が使えなくなっても、左腕と脚さえあれば、まだいくつか出来ることもあるだろう。戦えなくても、戦線を離脱した者をラエルカン外の撤退陣まで導くことぐらいは出来るはず。アジダハーカに背を向けてラエルカンを駆け出したガンマを、薄れかけた意識の中、見失うまでアジダハーカはずっと目で追っていた。






 かつて魔王マーディスが人類を苦しめていた時代、旧ラエルカンの人類は魔王への対抗策として、"渦巻く血潮"を編み出した。屈強な魔物達に抗うため、魔物の血を身に流し、人外なる力を得た新人類は、同時に人の形を捨て、醜い姿となってかつての日々を生きていた。聖騎士クロードのように、人としての姿をそのまま留めて力を獲得できた者など、他に例を見なかったのだ。


 それでも彼らは、見放されることはなかった。奇怪なる姿になろうとも、祖国を守るために人の体を捨てた者達は、その志を敬われ、賞賛の声すら授かっていた。自分の意志で人の体を捨てた者達は、変わり果てた自分を周囲が見放すことだって覚悟していた。それでも、守り抜いた人々が崩れた手を握り、殻に覆われた体を家族が抱きしめて迎えてくれたこととは、彼らにとっての何よりの救いだっただろう。


 覚悟とともにそうした半生を選んだ者達とは違い、選択肢すら与えられず、人でも魔物でもない存在として生まれさせられる者とは。賢者ルーネが何年もかけて、クロードという唯一の成功例を頼りに、人の形でガンマを生み出すことに成功させたことは、間違いなくガンマにとって最大の幸運だっただろう。魔王去りしこの時代、ガンマがアジダハーカのように人ならぬ姿に生まれていれば、ガンマの居場所は果たしてどこにあったのか。勉強嫌いのガンマでも、旧ラエルカンの近代史だけは他人事には思えず、その史実を聞くたび、自分がいかに恵まれたものだったかを知れたというものだ。


 本来ならば人として生まれていたはずの人生を曲げられ、姿形も人ならぬもの、魔物達の何とも違う形でこの世に生まれたアジダハーカ。魔王亡きこの時代、渦巻く血潮が生み出された目的も失われた今、どこに生まれていれば彼の居場所らしきものがあったのか。アジダハーカにとって、親と慕える獄獣や百獣皇がそばにいたことはせめてもの幸運だったのかもしれないが、人として人の世に生まれていればもっと別の人生があったことは、誰の目にも明らかなこと。歴史は一本、仮定の話に意味はなくとも、そうした違った可能性と時間軸の存在の示唆が、渦巻く血潮を"呪われた技術"として人々に認識させている。


「ガンマ……か……」


 初めて出会えた、この世でたった一人の自分と同じ、生まれる前から人ならぬ生涯を強いられた者と、永遠の別れを経て生きていかねばならないガンマ。死にゆくアジダハーカの方が、そんなガンマの将来を案じて憂いてしまうほど、同胞なき生涯とは空虚で孤独に満ちたものだった。最後の最期でそんな同胞に出会え、それに肩を貸して思い出と共に世を去れる自らこそ、幸福であると感じて目を閉じるアジダハーカの価値観は歪んでいるのだろうか。それがもしも正しくない思想であるとするのであれば、それは決してアジダハーカが責められるべきものではないはずだ。


 渦巻く血潮と共に滅びた、過去の皇国ラエルカン。母の墓石と故郷の土に抱かれたアジダハーカは、ここが自分の在るべき場所だと信じて息を引き取った。

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