第210話 ~ラエルカン市街戦① 魔王軍の逆襲~
ラエルカンを取り巻く外壁は、決して流麗な円形を描くような綺麗な形ではない。ただ、その外壁を超えて入国するための関所から、ラエルカン城への距離は、どの関所からも同じである。どの方角からラエルカンに突入した者も、最終到達地点であるラエルカン城までの道のりは概ね等しい。
各関所から城までの距離を10とすると、5まで進んだあたりで必ず上り坂に辿り着く。ラエルカンから仮に建物をざっと取り除くと、城が位置する場所を最高点とする丘のような形になっているのだ。高所に位置するラエルカン城の位置取りは、権威の象徴の一つでもあるが、首都内に攻め込んできた敵に対し、城から見ると見下ろすように戦えるという利点もある。その利点は今、魔物達の手中にある。
「退がるな! 引きつけようとしても奴らは降りては来んぞ!」
「ヒルギガースどもが密集していて進軍出来ないんだ! 空から潰してくれると助かるんだが……!」
「第7部隊、敵の空軍に追い回されている……! こいつらを片付けんことには……!」
傾斜と高低差を武器にして人類を迎え撃つ、ラエルカン中央市街部の守りを固める魔物達の頑強さは、激闘を切り抜けてここまで辿り着いた兵でも手を焼くほどのものである。ただでさえミノタウロスだとかヒルギガースだとか、一般認識では怪物級の魔物が最前列で鉄砲玉扱い、その上位種が後ろを構えたり共に突撃してきたりする上、高所からの特攻であるため勢いも凄まじい。ならばと空からと攻めたくても、ガーゴイルや上位種ネビロス、加えてもう一段上の大悪魔バルログが空で構えている。
さらにはマンティコア、ワーグリフォン、ケルベロスのような、アーヴェルやウルアグワの創造した怪異生物も散見し、ものによっては空と地上の両方で活躍する魔物もいる。特に空に至っては、それらを親分に構えたワイバーン――つまりは普通なら単体でも怪物されるような大型の竜が、空狭しと無数に飛び交う光景は、まさしく魔物達の楽園の一言。こんな世界に身を投じるなど、歴戦の戦人でもなければ絶対にしてはいけないことである。
「ええい地上のスフィンクスども、手ぬるいぞ! マンティコアを送る! 死んででも堪えろ!」
「ネビロス風情が生意気な口を利くな! 空の連中も我らが撃ち落とす! 貴様らこそ抑えんか!」
暴君、魔将軍エルドルが玉座に鎮座するラエルカン城。そこまで人類の侵入を許してしまえば、我が儘な大将格の機嫌を損ね、役立たずとして粛清される未来しか見えない。口汚く罵り合う魔物達にとっても、ここはまさしく決死行なのだ。城を死守せねば、どのみち身内の大将軍に殺される予感しかしないのだから。
それが共通の危機感として根底にあるから、気心は決して通わぬ魔物達が、結果として完璧に結束する。これもまた人類とは形の異なる、魔将軍の恐怖支配による配下の統制力だろう。かつての魔王とよく似ている。
「こちら第1連隊! 到達までは間もなくだ!」
「了解! ――全軍、死力を尽くせ! 優勢を維持せよ!」
「ここが踏ん張りどころだぞ! 耐えるんじゃない、踏み出せ!」
数名の法騎士が最前列を走ってなお、押し切ることは容易でない魔物達の波。早期にここまで辿り着いた数少ない聖騎士を先頭にして、その統制のもと押し引きを繰り返す人類の苦闘は果てしない。だが、後が無い魔物達とは異なり、後続の兵による増援も時間の問題である人類は、モチベーションに欠かない。目の前の上り坂とは真逆、援軍が辿り着く頃には敵を雪崩れ倒す流れを作るべく、空も地上も人類は勢いを振り絞る。
「鬱陶しい人間どもめ……!」
「ケルベロスども、行け! 奴らの慢心を噛み切れ!」
劣勢の窮地。ミノタウロスやヒルギガースを指揮していた、ビーストロードやグラシャラボラスのような怪物も前に出て、獰猛なるケルベロスも戦場を駆け抜ける。空の指揮を任されていたワーグリフォン達も前に出て、死のリスクを背負わなければならなくなる。地の利で劣る上に強兵が踏み出してきた事実は、人類にとって苛烈さを増す要素だが、逆に言えばそれを落とせば一陣崩せるということ。加速する危機に対しても、それを打ち破ることの重要性を知る人類は一歩もたじろがない。
まさに魔物達にとっての背水の陣。この膠着状態を崩した時、ついに人類にラエルカン制圧への道は拓けると言っても過言ではない。正念場だ。長年己らに劣ると思っていた人間達の猛襲に、突き崩されかけた魔物達は、自尊心もかなぐり捨てて死に物狂いの抗戦に臨むしかなかった。
「1つ、2つ……いや、5つ一気にいくか……!」
一人の聖騎士や勇騎士の参入が、戦場を一変させることは少なくない。最前線で戦う人類が今期待しているのも、後続連隊や師団の英傑がこの戦況を塗り替えてくれることだ。実際魔物達は強いものの、恐らく援軍が駆けつけてこちらの勢いが増せば、魔物の壁も打ち破られるだろうという見込みがあった。その目算は決して間違っていない。
だが、逆もある。とある戦場の一角、魔物陣営の後列に現れたその存在は、人類の突撃力に怯みかけていた後衛の魔物達を、それ以上に肩が跳ねるほど恐れさせた。小さな声で低くつぶやいたその存在が地を蹴った瞬間、巨体が矢のような速度で戦場を駆け、中衛の、前衛の魔物達を追い越していく。
最前列でワーウルフを討ち取った直後の一人の法騎士が、急速接近したその怪物の速度に対応できず、その首を爪先で抉られて吹き飛ばされる。その法騎士のそばにいた帝国兵を、丸太のような太い脚を素早く振るって蹴飛ばし、さらに敵一兵撃破。蹴飛ばされた瞬間に全身の骨を砕かれた帝国兵は、重き肉塊の弾丸となって一人の騎士に激突、巻き込んで死者を生む。続けざまにその爪を、空に向かって振りかぶった怪物の一閃が、形を持たない真空波のような斬撃を放ち、空で魔物と交戦していた魔導士を真っ二つに。一人の人間を切断した刃はそれでも勢いを止めず、さらに向こうの魔導士の首も斬り落とした。
援軍到着まであと僅かであったという人類の最前陣が、希望より先に悪夢と遭遇した瞬間だった。人類でこの魔物の名を知らぬ者はいない。最大の人間よりもふた回り大きな肉体を筋肉の鎧で包む、獅子面を持つ魔王軍唯一の化け物は、かつて百獣王の名で恐れられた魔王軍の大将格。戦慣れした聖騎士でさえ、この遭遇には全身の毛を逆立てずにはいられない。
「ネズミどもが……! 我らに刃向かいし罪深さは、死を以ってしか償わせぬ!」
魔物の咆哮と人類の雄叫び、魔法の爆音で満ちた戦場の中においても、周囲を差し置き高らかに響いた、魔物達の将の怒号。その存在感だけで配下に逆転を予感させた百獣王ノエルは、自らの支配に抗う人間に憎しみの眼を差し向け、凄まじい勢いで人類に差し迫った。
「陣を乱すな……! まずは奴を……」
噂には聞いていたものの、ここまでの化け物だとは思っていなかった。それがこの日初めて、獄獣の番犬と言われた存在を目にした者達の、共通した認識だっただろう。
赤黒い瞳を宿した、不並びな歯を持つ奇怪な馬の仮面をかぶった怪物は、滑空していた魔導士に跳躍のみで差し迫り、太い脚による豪快な空中回し蹴りで頭を吹き飛ばす。味方との魔力による遠話を半ばにしていた魔導士の絶命は、突如途切れた会話と魔力によって友軍にも伝わっただろう。
空高くから地上へと立ち返っていく、草葉で編んだ蓑のような衣服に身を包む巨漢に向け、空の魔導士達も魔法を放って追撃する。極めてシンプル、迫る魔力による攻撃を打ち返すためだけの魔力を拳に集めたその存在は、飛来する火球や岩石、氷の槍を落下しながら打ち払う。最後に自らを背後から射抜かんとした稲妻の槍も、掌をそちらに突き出して握り潰してしまう。
それへの追撃に一時でも傾倒した魔導士は、空の戦いから注意を逸らされる。なんとか優勢を作りかけた空の戦いが、その隙を突く魔物達の強襲で崩れていく。魔導士一人が、ネビロスの放つ風の砲撃で全身を砕かれただけでも、陣の一角は著しく脆くなる。それだけ個々の実力が高い、総力を投じた戦いなのだから。
「流石だな、アジダハーカ……! 貴様がいるだけで大違いだ……!」
「……フン」
トロルやスプリガン達の最上位種、ギガントスが上機嫌の賞賛を送るも、アジダハーカは興味も示さぬ素振りで地上を駆け始める。ソードダンサーの群れに苦戦していた人類の輪に飛び込むと、一振りで岩石をも砕く怪力と速度を生み出す腕で、人間達を薙ぎ倒していく。輪に飛び込んでわずか五秒、抗う暇もなく葬られた6人の魂は、無念の想いと共に亡国に沈んでいく。
「危機が訪れれば英雄呼ばわり……日頃とは大違いだな」
仮面の奥で、戦いとは無関係の一言を漏らすアジダハーカは、敵との実力差が開き過ぎている現状に余裕が表れているとも取れる。主である獄獣には及ばぬものの、戦況を音から聞き分ける耳を持つ番犬は、山猫のように戦場を駆け抜けて魔物達を窮地から救っていく。劣勢に至りかけた魔物達の戦陣に参入すると、人類を一気に駆逐して敵の優勢図を塗り替えてしまうのだ。ラエルカン西部から突入した連合軍の中で、すでに百にも迫る人間が、このアジダハーカの手によって葬られている。
短時間でこれだけの数字をはじき出すアジダハーカは、立ち回りの賢しさもその結果に反映されている。まずは敵の数を減らすこと、これに尽きる。自らの手でならば容易に討ち取れる駒を削り落とし、城の守りを構える最終防衛線に、疲弊した人類の兵力をぶつけるだけでいいのだ。下々の兵を失えば、人類の上層兵や騎士も負担が大きくなり、迎え撃つ主達にとっても良い流れが出来る。強者との接触を極力避け、悪く言えば弱者狩りに営むその姿は、外道と言われようが明確な目的を持った戦い方なのだ。
だが、アジダハーカ自身も自覚しているとおり、それもやがて終わりを迎える。弱者の集いを島渡りにつまみ食いしていく番犬は、同時にその存在を認識した虎に追われる身だ。市街地廃墟の通りを抜け、少し開けた場所に飛び出したアジダハーカを、真横から流星のように狙撃する小さな影がある。
鉄球棒を構えた聖騎士の一撃は、アジダハーカの顔面を打ち抜く寸前だった。それを蹴り上げてはじいたアジダハーカは、片足で地面を砕かんほどに踏みしめて急停止、さらには小さな体躯の聖騎士に向かって巨大な正拳突きを打ち返す。初撃を凌がれた聖騎士は、冷静に地を蹴って後方に逃れ、空中で一回転したのち着地する。
周囲の建物よりもひとまわり大きく目立つ、かつてはラエルカンの魔導研究所として栄えた瓦礫の山を背負い、市中廃墟の中に立つアジダハーカ。表情を仮面によって読み取らせぬアジダハーカと敵対するのは、祖国を滅ぼす魔物達に激しい憎しみを抱く聖騎士、クロードだ。そして俊足のクロードを追い、その後ろから素早く追いついてきたもう一人が、クロードの横で巨大な斧を構えた。
「小さな巨人達、とはまさにこのことだな」
「その巨人どもと刃を交える覚悟、貴様にはあるか」
魔物達に対する怒りを努めて鎮め、抑えた声をアジダハーカに放つクロード。人間の大男よりも大きな体躯を持つアジダハーカと向き合うのは、子供のような小さな体の戦士が二人。だが、子供としか思えない体躯でありながら、それよりも重そうな武器を持つ二人と相対して、これを見くびるほどアジダハーカも間抜けではない。
周囲の補助もすべて断ち切り、たった二人でアジダハーカと戦うための布陣を作ったクロード。多少の援護が入ったところで、アジダハーカの俊足がその術者や射手を葬るだけだ。犠牲を最大限少なくして勝利するための形、それを目指してアジダハーカを煽るクロードは同時に、逃がさぬという決意をいっそう眼差しに強く宿している。
「……歓迎しよう」
アジダハーカは構えた。武器を持たず、格闘術だけで戦うその怪物の四肢は、怪力無双の聖騎士が振るう鉄球棒や、若く侮れぬ小さな傭兵が振るう大斧にも抗える力を持つ。全身から漂う、獄獣の片腕として恐れられた番犬の自信は、その覇気だけで敵対者を痺れさせる。
クロードでさえ、肌をひりつかせる想いに駆られたアジダハーカの気迫。その聖騎士の隣に並ぶ小さな傭兵は、恐れるどころか強い怒気を投げ返さんばかりの眼差しだ。話には聞いているんだから。こいつが親友の後輩の同僚を皆殺しにしたことを聞いた時から、こいつにだけは負けちゃいけないと、ずっと思っていたのだから。
親しんだ第44小隊の同僚を葬られ、孤独の世界に放り出されたルザニアの無念は、親友アルミナの胸をも痛めさせた。そうした悲しみの連鎖を断ち切るために、戦士達は戦場に舞い戻り、悪を挫く武器を振るうのだ。理念、哲学、士道原理、そうした小難しい理屈で理解するより最短で、無情に人々の命を奪うアジダハーカのことを、ただガンマは許すことが出来なかった。塞ぎかけたルザニアの顔が今一度脳裏によぎった瞬間、その眼は身に流れる魔の血の怒りに基づき、ゆっくりと赤く染まっていく。
今は亡きラエルカンの呪われた技術、"渦巻く血潮"によってその身を歪めた3つの命。人として生まれて魔物の血を得た者、人の手によって魔物の血を持って生まれた者、魔物の手によって魔物の血を流された人間として生まれた者。近くして異なる命運を背負った者達の戦いが、今始まろうとしている。
「さあ、かかって来い……!」
闘志を乗せたアジダハーカの重い声を皮切りに、クロードとガンマ両名がほぼ同時に地を蹴った。巨大な得物を握った戦士達の接近はまるで隕石の如し。跳躍して回避したアジダハーカの残影を斧が切り裂いた直後、荒廃した石畳を鉄球がさらに粉々に打ち砕いた。
何かがおかしい。間違いなく、人類陣営の優勢は確かなのだ。聖騎士グラファスは少し離れた場所で猛威を振るっているようだし、空の魔導士達も力負けしていない。敵の拠点の一角であろうとも言える、上り坂の開始点まであと少しであり、そこに至ってからが本当の戦い。そういう見込みだった。
だが、認識と違う。順調に進めているならば、30分は早くその要所に辿り着けていてもよかったはずなのに、まだ坂は見えない。理由はわかっている、進軍が遅れているからだ。北西からの進軍部隊、第2陣と第3陣に先んじた進行を譲ったシリカ達は、初期の自分達の連隊よりも頭数で遥かに勝る前衛が切り拓いた道を、ただ走っていくだけだったはずなのに。なのに、前が壁で詰まっているのかと思えるほど、全体の進行が遅れている。
そしてそれを、何がそうさせているのかも、僅か前から周囲が喚き立てる叫び声からシリカも察している。市街地に散開した魔物の群れを討伐しながら突き進むシリカに、まさに今その刃が差し向けられようとしていた。その気配は視認するまでわからぬほどのものであり、明確な殺気を抱いているはずの暗殺者は、殺意を敵に悟られぬまま、風のようにターゲットに差し迫る。
「シリカさん!!」
少し離れた場所から見ていたユースの方が、彼女より視野が広く気付くのが早い。だがその声が彼女の耳に届くより早く、シリカも脅威の正体には気付いている。豹の如き速度で迫る人影に対し、万物を切り裂く魔力を纏った剣による、返しの刃を振るう動きが完成されている。
その攻撃は、たとえ武器や盾で防ごうとしても、守りを貫通して敵を屠れる攻撃だったはず。一撃必殺の一太刀を振るいかけたシリカの脳裏によぎったのは、敵の討伐ではなく自らの死の予感。迫り来る暗殺者が身をかがめ、シリカの一振りを回避した末、脇腹をそのナイフで深く抉り去る未来が見えた瞬間、シリカは剣のスイングを半ばにして止めてでも、敵から離れる方向に地を蹴って逃れる。
胸当ての下、薄手の服一枚に纏われたシリカの腹を、暗殺者の薙いだナイフは鎌鼬のようにかすめた。服が一筋裂かれ、その瞬間の冷たい風がへそを冷やした瞬間といえば、シリカとて肝が冷えたの一言に尽きる。だが、暗殺者はシリカを仕留め損ねたことに一切の惜しげもなく、鋭角に進行方向を曲げる足取りで方向転換すると、シリカを案じかけていたユースに瞬時に迫ってくる。
両手に鋭利なナイフを握る暗殺者と、後方のアルミナに挟まれたユースに、回避という選択肢はない。持ち主の手の動きに最も近く忠実で、小回りの利く短剣という武器を二本同時に振るう暗殺者へ、片や騎士剣の鍔近くにて受けはじき、片やその盾で跳ね上げる。凄まじい勢いでユースに迫っていた暗殺者は、すでに勢いを急停止させて第二の刃を振るおうとしている。そんな暗殺者にユースが返した回答とは、まるで頭突きでもするのかと言わんばかりに、一気に暗殺者に我が身を押し出す一手だ。
女性と思しき暗殺者の顔面位置に、自らの頭を突っ込ませる行為は、そんな不格好でも当たれば相手をぐらつかせることの出来る行動だ。同時に距離も詰まり過ぎるから、短剣使いの暗殺者とて間合いを大きく狂わされ、攻め手が一瞬行き詰まる。以前顔を合わせた時には、自分の攻撃を防戦一方で凌ぐことしか出来なかった騎士の、果敢にして最短の反撃。暗殺者も二歩ぶん跳び退がって逃れるが、それだけの距離が生まれれば、ユースが振るう騎士剣の一撃も暗殺者に向けて放つことが出来る。
下から逆のけさ斬りに振り上げられた剣を、暗殺者はさらに跳んで離れて回避。ユースの真後ろにいたアルミナの目では追いきれないほどの、接戦の駆け引きの数々を経てもなお、戦い慣れた暗殺者の脳はすぐさま次の攻め手を完成させている。そしてそれが中断せざるを得ず、攻勢に移るはずが再び防衛の動きを取らねばならなくなったのは、暗殺者にすぐに迫ったシリカが剣を薙いだからだ。
「お前達、早く行け! "こいつ"は私が相手をする!」
大げさなほど大きく跳び、シリカからやや離れた位置に着地した暗殺者。一瞬の迷いはあったものの、ユースは暗殺者とシリカを置き去りにして駆け出す。アルミナも追従して走るかと思えば、彼女はそうではない。恐ろしき暗殺者から目を切らぬままにして、自分の胸元をぎゅっと握り締める。
「お願い、ベラドンナ……! 優雅の翼……!」
「ええ、任せて!」
念じるようにアルミナがぎゅっと目を閉じた瞬間、今まで魔法など一度も唱えたことのなかった彼女の背中に、蒼い花弁を思わせる4枚の翼が現れる魔法が発現する。妖精ベラドンナの持つ魂と、それによって生み出される魔力が、アルミナの精神が願う想いを具現化させる魂を支え、アルミナ自身の魔力を生み出すことを支えているのだ。
目を開いたアルミナは、ユースを追う方向に駆け出すと、7歩目で地上を強く蹴り、空を舞う魔導士と同じようにその身を浮かせて滑空する。背負われた翼ははためくことなく、まるで紙飛行機の翼のように広げたまま、空を滑るアルミナの後方に蒼い残影を残していく。シリカに貰ったコデマリの髪飾り、その花言葉の数々を贈られた彼女は、今もひと括りにした髪の根元に髪飾りを輝かせている。その花の名を冠したアルミナだけの魔法が、彼女の志を空へ、戦場へと送り出した。
暗殺者の素早い追跡力を超える足で、その射程範囲内から駆け去っていったユース。空を舞い、暗殺者の刃が届かぬ世界へ飛び去ったアルミナ。最も案じる二人は最大の脅威からすでに離れている。シリカが意識を集めるのは、過去には法騎士であった魔物の手先に他ならない。漆黒の胸当て、膝当て、肘当てのみを簡素に身に付け、その下は四肢をあらわに見せた面積の小さな衣服を纏うのみ。銀の髪も、尖っていなければシリカとよく似た髪であり、軽装にした両名の対峙する姿は、得物を除いてどこか似通う部分も多い。最大の相違点は、熱き魂を瞳に宿すシリカと、感情など微塵も感じさせない冷徹な瞳を飾った暗殺者と言う、炎と氷の敵対図。鼻と口を隠した藍色のバンダナは、暗殺者の胸中をさらに深く隠し、凍りついた暗殺者の心をさらに濃く表している。
たった一人で神風の如く戦場を駆け、シリカ達の前を駆けていた騎士や帝国兵を、この凍てついた風は何人葬ってきたのだろうか。それによって人類の足並みが乱れ、進軍が遅れているというのであれば、実に得心のいく話なのだ。そしてこんな奴を見過ごして再び戦場に放てば、またいくつもの命がこの毒牙にかかり、命を落とすことになる。
「……元法騎士、スズ様」
スズと最も親しかった、法騎士ダイアンにも指し示された道。それは私情も回顧の想いも捨て、かつての心の師をその手で葬ること。それが為せねば、人々の安寧を守るために今を生き、戦っている戦士達の多くがまた殺される。胸の奥を突き刺す、かつて憧れた人に対する想いと、誇り高き同志達の想いを天秤にかけ、どちらを重く置くかなど、法騎士の選択として一つしかない。
語りかけたのも踏ん切りをつけたかったから。一度は誰より尊敬し、シリカが騎士を志す原点であった法騎士様。そして今はそうではないという"元"の二文字が、認めねばならない現実をシリカに再認識させてくれる。スズの名を捨て、カティロスと名を変えた彼女もまた、懐かしき名で呼ばれたことに、わずか目を揺らがせたように思えた。
超えねばならない、過去の壁。出来ることなら同じ志を胸に戦場を駆けたかった人を前に、シリカの剣が必勝の想いを懸けた魔力を纏う。
「――行きます!」
今を生きる法騎士、それは魔物陣営という一枚岩を崩し得る、一閃の槍に相当する。駆け出したシリカを目前に迎え、凍てついた風カティロスは両手の刃を構えた。




