第200話 ~運命の鍵~
「十日後、ね」
「間に合いそう?」
「間に合わなそう」
魔法都市ダニームのアカデミー大図書館7階、エルアーティの私有区画にてお茶を嗜み合う二人の賢者。幼い少女二人が語らっているようにしか見えぬ表面上に対し、両者の会話は見た目不相応に重い。各国の首脳会談にてとうとう決まった、ラエルカン奪還作戦決行の日付を聞いたエルアーティは、片手に書物、片手にティーカップで無表情。口にする後ろ向きな言葉に反し、態度は冷ややかなものだ。
「ちょっとはたらきかけてみたけど、恐らく手遅れね。もっと時間があれば……」
途中まで言いかけたところで、エルアーティは言葉を止めた。エルアーティの後方にルーネの目線が移り、動かなくなったからだ。ルーネの態度は非常にわかりやすく、エルアーティもルーネの態度の意図を察して振り向く。
「ご無沙汰しています。お師匠様、賢者ルーネ様」
「ハロー、ベル。エクネイスでも会ったばかりだけど」
「ご無沙汰しております、勇騎士ベルセリウス様」
賢者二人が並ぶ席に歩み寄る人物は、その両名に劣らぬほど名高い人物。ルーネも席を立ち、訪れたベルセリウスの前までぱたぱた駆けていくと、両膝をついて床に頭を持っていこうとする。ラエルカン育ちのルーネにとってはこれが癖みたいなものであり、旧祖国では目上の者とのご挨拶は、土下座のように地に頭を擦って為すのが当たり前だったのだ。
膝をついたルーネの前、ベルセリウスも素早く自分も片膝ついて姿勢を低くすると、ルーネの両肩をがっちり掴んでガード。やめましょう、ということだ。ベルセリウスも非常に地位の高い身になった今ではあるが、魔法都市ダニームの賢者様に、土下座まがいのご挨拶をされるのは気が重い。
「ルーネ様、ルーネ様、そろそろご自分の地位高さを自覚して下さいませんかね」
「でっ、でもでもっ、ベルセリウス様は勇騎士様なんだし……」
「言い訳はけっこう。見苦しいわよ、ルーネ」
魔法都市ダニームの賢者というのは、ダニームという一国相当の権威を持つ都市において、上から第二の地位を司る身。例えて言うなら王のすぐ下、宰相に相当する立場である。騎士団において、政館に関わらない階級の中で最高役職の勇騎士とて、ルーネより目上という立場にはなれない。賢者というのは単なる呼称ではなく、それだけ強い立場なのだ。
腰の低さが呼吸レベルで沁み付いているルーネは、敬愛する人物がそれなりの階級を伴っているとすぐ昔の癖で頭を地面に持っていってしまう。それは相手の恐縮を買うばかりなので、本当に格上の相手以外に今のルーネがやってはいけない行動なのだ。習慣からまたやってしまったルーネが、あわあわして言い訳を並べ立てても、エルアーティが一蹴して黙らせる。膝をついたままがっくりうなだれ、またやってしまったとへこむルーネを、ベルセリウスは脇の下に手を入れて立たせる。娘をあやす親のようだ。
「あのーお師匠様、僕もこのご時勢ひじょ~に忙しいんで、あんまり軽々と呼ばないでくれますかね」
「あらあら、偉くなったら昔の恩師なんてお払い箱なのかしら。地位は人を変えるわねぇ」
「あなた平和な頃に一度も呼んでくれなくて、忙しくなってから僕を呼ぶじゃないですか」
「あなたの方から会いに来てくれるのを師は楽しみにしているのよ?」
「読書の邪魔になるからって門前払いくらったこともありましたが」
口角のきつい言葉が飛び交うが、ベルセリウスの表情は柔らかく、エルアーティもゆるやかに口の端を上げている。かつて師弟関係であった二人の絆は強く、冗談交換の仕方は存分に心得ている。むしろ数年ぶりの再会で、冗談を枕にして語らえるという時点で、二人の仲の良さは見て取れると言えよう。
「まあいいわ、ここ座りなさい。抱っこしてね?」
「あ、はい。相変わらずお好きですね」
エルアーティが自分の座っていた椅子をベルセリウスに譲り、腰掛けたベルセリウスはエルアーティを抱き上げると、自分の膝の上に置く。若作りで今でも端正な顔立ちのベルセリウスだが、この光景を傍から見ると、若い父親が次女を膝の上に抱いているようにしか見えない。ベルセリウスの向かいに座ったルーネが長女といったところか。
「十日も要るの? そんなにダラダラするぐらいなら、もっと時間欲しいんだけど」
「エクネイスが攻められたことによって、そちらからのラインの立て直しも必要ですからね」
「それはそれで遅延を狙うアーヴェルの思うつぼでなければいいけど。伸ばすか縮めるかどちらかを希望したいわ。出来れば前者」
「気がかりですが、致し方ないところですよ」
三国一体の歴史的合戦への準備を、ゼロからたったの十日あたりで済ませるというのは、普通に考えて無理な話である。作戦決行日程が決まった時点で、だいたいの準備は整っているのだ。むしろアーヴェルのエクネイス急襲を受け、魔物の再遠征まで期間が開くと見えたからこそ、向こうが再び攻め気を取り戻す前に攻め立てるべく、決戦への日取りが縮んだとも言える。今日までに周到な段取りを組んでいたから出来る計画変更であり、その帳尻を合わせるために十日の猶予は致し方ないところだ。かつ、それで最速。
「というかお師匠様が時間を欲しがるっていうのが意外ですね。あなたなら、今日までぐらいには自分の準備ぐらいは済ませていそうなものですけど」
「私自身は問題ないわよ。運命の鍵が錆びてるの」
かの戦役に参戦することが決まっているエルアーティは、魔法都市ダニームの魔法使い師団における筆頭として、その総指揮官を務める位置にある。予定外の戦にさえも万全で挑める、日頃からの周到性が有名なエルアーティにして、日程の決まった戦への準備など迅速に終わるはず。ダニームの師団を、戦に向けて万全な出撃が可能な状態にするぐらい、彼女なら3日あれば充分果たせるだろう。
そんなエルアーティが、時間がもっと欲しいと言い放つのは、自分の手が届かない場所でキーカードが動いているからである。彼女の性格と価値観をよく知るベルセリウスなら、それも半分察しがつく。
「今回は何が"運命の鍵"なんですか?」
「法騎士シリカと騎士ユーステット。恐らく十日じゃ間に合わない」
「へえ、詳しく聞かせてくれませんか」
かつて魔王マーディスの討伐という、人類にとっての大きな節目を迎えたあの頃、エルアーティが"運命の鍵"と予言していた人物は二人いる。その片方が当時の聖騎士ベルセリウスであり、もう片方が魔導帝国ルオスの大魔導士アルケミスだった。後年、歴史はその予言の正しさを証明し、魔王を討伐した勇者の名にその二人は刻まれている。
かつて未来を言い当てた預言者は、今再び、誰も予想だにしないであろう未来を見据えている。エルアーティは机に置かれたティーカップに手を伸ばすと、中身を一口頂いて息をつく。机にそれを戻してからが、彼女の予言の始まりだ。
「騎士ユーステット、法騎士シリカ。いずれもやがて、人類の行く末を大きく揺るがす"運命力"を持つ存在と見る。彼らを取り巻く数々の"縁"は、運命再編の時に向け、二人を導いているようにしか私には感じられない。そうね、かつてのベル、あなたのように」
エルアーティがユースに強い"運命力"なるものを感じると言っていたのはルーネも知っているが、同じものをシリカにも感じているというのは、ルーネにとっても初耳だ。一方で引き合いに出されたベルセリウスは、その所以を聞くために続きを待つ。
「すべてに勝り運命力を左右するものは、縁において他ならない。あなた自身も経験して知っているでしょう。あなたがそこまでの力をつけて来られた最たる所以は何?」
「掛け替えなき友人と良き師の数々、多くの人々に支えてきて貰えたからです」
少騎士時代のベルセリウスの師であったラヴォアス上騎士、長く彼の師であった今の聖騎士グラファスや、今の近衛騎士ドミトリーに育てられ、彼は力を身につけてきた。エルアーティという師に巡り会えたのも、今の妻、誰よりも守りたいと思った人が出来たことも大きな縁だった。そして何より、気難しい友人ではあったものの、大魔導士アルケミスと日々は忘れられないものだ。
才覚や努力は、間違いなく人の器を育て上げる大きなファクターだが、それらが最高の推進力を得るためには、周囲を取り巻く環境がそれ以上に重要なのだ。人が一人で大きくなるのには、どうしたって限界がある。縁こそがその者の運命力を定める最大の要素であり、本人の力だけではどうしようもないその力にこそ、運命を揺るがす大きな震源が宿るとエルアーティは踏んでいる。
「彼の騎士としての芽生えは、法騎士シリカとの出会いにあったと睨んでほぼ間違いない。それはルーネもよくわかるでしょう?」
「ええ。シリカ様を追うユース君の眼差しの真っ直ぐさは、彼にとってかの方がいかに大きな存在であるかを悟るに充分だわ」
「ただの師弟関係ではないでしょうね。形は違えど、僕とアルケミスの関係に通じるものがある」
勇騎士ベルセリウスも、長い半生の中で数多くの人々と出会ってきた。先述の師や妻は勿論、その中でもエルアーティやドミトリー、あるいは親友である勇騎士ハンフリーとの縁は、彼にとっても忘れがたい。だが、性格も考え方も全く違えど、どこか魂の根本で通じ合えるような気がした友人、アルケミスとの関係は、全てを差し置き特別だったとベルセリウスは思っている。いつから友人と認識したのかも忘れてしまったが、いつしか幼少からの腐れ縁の長い付き合いだったかとお互い誤認するほど、ベルセリウスとアルケミスは近しく親しい仲だった。
「あなたとアルがそうであったように、私とルーネがそうであるように、この世には巡り会うことにより、ただの出会いとは一線を画した絆を結び、運命の糸を共に手繰り寄せられる相手が必ずいる。騎士ユーステットにとってのそれが法騎士シリカであり、両者が出会ったことにより運命の歯車は回りだした。そこまでは良い」
かつて落ちこぼれと呼ばれていた少騎士時代のユースが、シリカと出会わなければ騎士としての人生を諦めていたかもしれないというのは、エルアーティも知らないことである。別の角度から、ユースとシリカの縁の運命性を推察したエルアーティだが、結論としては真実に辿り着いていると言えよう。結論を導くのが目的の場合、最後が正しいなら途中式などどうでもいい。
「だが、結ばれた縁が運命を変える奇跡を起こすには、両者の精神を繋ぐ絆が噛み合っていない」
「と言うと?」
「騎士ユーステットは親離れしていなさすぎ、法騎士シリカは子離れ出来ていない自覚すら無い」
エルアーティの答えに対し、ルーネも思わず目を細めて同意を顔に出す。それが運命うんぬんに関わるかどうかは知らないが、それが事実であるのはわかるから。
「騎士ユーステットは法騎士シリカの背を追うことを今の最大の芯としている。一方で法騎士シリカもまた、彼の規範となるべく常に前を駆けようとする。今まではそれでよかった。両者の成長をともに促すケミストリーを、理想的な形で叶えてきたのでしょうから」
その関係が今までのユースとシリカを育て上げてきて、今の二人があるのだから、エルアーティだってそれそのものには異論はない。問題はここからであり、これからだ。
「だが、今の法騎士シリカでは騎士ユーステットの成長を縛る楔とすらなり得る。現在の騎士ユーステットは既に過去の彼とは違うのに、今までと変わらず縛り付ける法騎士シリカのままでは、彼の先にある未来を閉ざしかねないわ」
「"縛り付ける"っていうのは、厳しく育ててきたであろうこと自体を言ってるんじゃないわよね?」
「きつく育ててきたこと自体はどうだっていいのよ。そんなのたいした問題じゃないわ」
反骨精神が強く、かつ厳しく育てられても前に進んでいける芯を持つユース。かつ、シリカのきつさを緩和してくれる先輩二人がいるという環境を総合すれば、シリカがユースを厳しく育て上げてきたのも、ぎりぎり間違ってはいないのだ。この辺りは歴戦の騎士ベルセリウスも、難しい問題であると知っているから口を挟まない。
文化人ならまだしも、戦人なんて戦場で未熟さから何かを誤れば、己ないし大切な人の命さえ失いうる。下を案じれば案じるほど、徹底的に育てたくなるのが戦士の血というものだ。仮にシリカが甘い上官の役割を担っていたとしても、それはそれでクロム辺りが、ユースに戦場の在り方を厳しく教えていただけの話だろう。何かの道を極めようとすれば、必ず成功と失敗を問われるのが、仕事人ないし職人の世界というもの。まして失敗が死に直結する戦人の世界において、大切な部下や後輩に対する育て方というのは、何が優しさで何が厳しさなのかを定義するのも難しい。戦人が本職でないエルアーティでさえも、それは推して知る現実である。
「騎士ユーステットを振り向く法騎士シリカの目が、彼の成長を願ってやまないことぐらい、見てれば誰でもわかることでしょう。彼女はそのために、今もなお彼の前を走り続ける自分でいようとする。それが今までの正しい形であったからと言って、これからもそうであるとは限らないのに」
明確に反語を用いた、今のシリカに対する批判の言葉。これまでは良くても、これからはそうであってはいけないという論調である。
「騎士ユーステットは、やがて法騎士シリカに追いつくでしょう。そうなれば、追うことと逃げることを互いに対する旗印としていた二人はどうなるのかしら。最大の目標であった人は前にいず、導きたいと思っていた相手は既に前。どうするの?」
遅かれ速かれ、そういう日がいつかは必ず訪れるのだ。ただでさえ、育ち盛りかつ前進の足を一歩も緩めず駆けていく男の成長は、人類の成長性を恐れる魔物達の見解どおりに早い。ましてシリカは、既にユースよりも年上だ。客観的にものを見て、これからの伸び代が大きくて速いのは、どう考えたってユースである。
「騎士ユーステットは今までと同じ心根で、既に後ろにいる法騎士シリカを追い続ける。法騎士シリカは今までと同じように、前にいるはずの騎士ユーステットの手を引こうとする――今のままの関係を二人が妄信的に貫く限りでは、そうした不毛な……いいえ、互いに毒しあう関係にしかならないわ」
ユースを引く力とシリカを追う力の方向が、同じく前方であったこれまでは、ともに推進力を得合って進んでいくことが出来た。だが、ユースが前に立つようになれば、その力の方向は後ろ向きに逆転する。ユースは無為に後戻り、シリカはユースの足を引っ張る、そうした最悪のベクトルをエルアーティは危惧している。
エルアーティがシリカのことを、束縛しすぎ押さえつけすぎと指摘したのは、ユースがいつかシリカの前に立つ日が訪れたとしても、それをユースが正しく認識しなかったら最悪だからだ。厳しくされているうちは自分はまだまだだ、と、ユースが"謙虚に"捉えるのは一見美徳だが、そのせいで、いつか彼女を超えても自覚のないユースだったりしたら、それ以上の前進は望めない。
ユースがまだシリカの後ろにいる今は、別に厳しく接してくれても関係ないのだが、なあなあでいつまでもそれを継続されては困る。特にシリカは目に見えて、器用さだとか柔軟性だとかには欠けるタイプだから、早めに手を打って悩ませておかないと、いつまで経っても変わってくれないだろう。流石に60年近くも生きていれば、年の功でそれぐらいの先見を持った説教を演じるのも、エルアーティにとっては難しいことではない。
「それでも法騎士シリカが前進していく限りは、これまでの半分の半分の速度で、ゆっくりと二人は成長していくのでしょうね。だが、そんな絆を食い潰すような足踏みをしているようでは、速き運命に追いつき世界を変えていく運命力が期待できない」
エルアーティは、二人が持つ可能性に相当な見込みを立てている。どうしても、その先にある本当の運命力が見たいのだ。だからこそ引きこもりがちと言われるほどの重い腰を上げ、わざわざエクネイスまで赴いて、シリカ当人にまではたらきかけている。
「騎士ユーステットは法騎士シリカに依存し過ぎている。縁は確かに、その者の運命力を培う最大の羅針盤。だが、いつまでも法騎士シリカを"目指すべき目標"として見るのではなく、"共に戦う仲間"など、特別でない言葉で彼女を認識できるようにならなければならない。そうでなければ、やがていつか彼女を超えた時、法騎士シリカの存在そのものが、彼の成長を腐らせる毒となる」
だからエルアーティは、ユースをルーネに預けることで、一日でも早くユースにシリカを超えさせようとした。言葉にしてユースに伝えたところで、すぐにわからないであろうなら、実際にそういう形に持っていってから考えさせた方が早いからだ。
「法騎士シリカは騎士ユーステットを中心に考え過ぎ。ベルも聞いたことはあるんじゃないの? 厳しく鍛え上げ、やがて大成した騎士ユーステットを、法騎士シリカがどうしたいと思っているのか」
「ええ、知ってますよ。ラヴォアス様から聞いた時、僕もそれは違うなって思いましたから」
「呆れるでしょう? 騎士ユーステットを手放してベルに委ねられたとしても、自分に何が残るというの? わかってないのよ、あの子は自分自身のことが全然ね」
シリカはユースが自分を追い越して、立派な騎士様となっていくことを誰よりも願っている。あれだけシリカさんシリカさんと言って慕ってくる奴を、可愛く思えぬはずがないのだ。やがて自分がユースに追い抜かれ、彼を導けぬ立場になれなくなったら、もっと上の騎士様のもとへと紹介し、そこで指導を受けるユースの十年後のことだって考えている。
いくらか昔、シリカも、そんな未来が訪れることあらばと、そうした想いをかつての上司であった上騎士ラヴォアスに話したことがある。幼少の頃のユースが、魔王マーディスを討伐した勇騎士ベルセリウス様に憧れて騎士を志したことも、シリカは勿論知っている。だからシリカも、もしも叶うならばいつかはベルセリウス様のもとで指南を受けられる境地にまで、ユースが成長してくれることを望んでいると、ラヴォアスに話していたのだ。ラヴォアスは若き頃のベルセリウスの上司であり、そうした話はそこからベルセリウスにも届いている。だからベルセリウスも、ユースが名を高める前から彼のことは知っていた。
可愛い後輩が自分を追い抜き、やがて最高の憧れであった人のそばへ辿り着くための道を敷く。何も間違った発想ではない。惜しむらくは、今のユースにとっての最大の憧れが、すでにベルセリウスではなくシリカに変わっている事を、傲慢の逆でシリカが思い至っていないことだ。創騎祭で上層騎士に挑戦する機会を得たとき、かつての憧れベルセリウスを選ばなかったことなど、ユースの中で既にベルセリウスが固執対象ではないというヒントもあったのだが。
騎士昇格試験、エレム王国騎士団5つの難題、第一問。あなたが最も尊敬する騎士は誰で、その人物の何が魅力的であるか述べよ。"向上心と責任感に溢れ、苦境に挫けず立ち向かう強さを持つ法騎士シリカ様"。何度昇格試験に落ちたって、必ず毎回同じ回答を記し続けてきたユースのことを、シリカは知らない。わかっていないから、いつかは自分を置いて大きく飛び立って欲しいなんて考えるのだ。だからベルセリウスも、ラヴォアスからその話を聞いた時、間違っていると感じてならなかった。当の難題に対する回答のことは知らなくたって、ユースにとって今のシリカが特別なのは、周りから見て明らかなんだから。
「まー百歩譲って、後輩の成長を第一に考える優しい先輩としてあげてもいいわ。で、もしも仮にそんな事が現実になったら、一人残された法騎士シリカはどうなるのかしら? 今まで彼を導くことに殆どを費やしてきた彼女が、さあ一人で頑張るぞと奮起するまでは可能でしょうけど。果たして今までのように上手くいくかしら?」
「……駄目ね」
「ほら、ルーネもわかるでしょ。今までの人生の柱ですらあった隣人がふと消える喪失感に対し、彼女は想像力が行き届いてなさ過ぎる。私だって、今さらルーネと離れ離れのお別れなんてしようものなら、今までの自分でいられなくなることぐらい容易に想像つくわ」
それが運命の縁。失ってから気付くのでは遅すぎる、決して切り離してはならない運命的な絆が、必ずどこかに存在するのだ。シリカとユースを繋ぐものがそれであると指摘するエルアーティは、それを軽視するシリカのことを、認識不足と批難せずにはいられない。
かつての短期移籍期間の際、ユースとの別れを一度意識したあの日以来、流石にシリカも大昔のように、ユースとの離別を甘く考えるようなことはしていないだろう。あの日、ユースの存在が自分の中でいかに大きいものであるかぐらいは、少なからず理解できたはずだ。ただ、それを抽象的なイメージとして胸に秘めるのではなく、自分にとってのユースが何なのかを、明確な言葉で表せるようになるぐらいまで思考を深めていれば良かったのに。これは今遠い地で、クロムやマグニス辺りが思っていることだが。
「法騎士シリカは、騎士ユーステットが自分にとっていかに掛け替えのない存在であるのかに無自覚すぎる。それでいて彼に対しては良き育てることばかりに執着し、それが叶った後のことに視野が広がりきっていない。要するに子離れ出来ていないのに、それにも無自覚」
辛辣な言葉ばかり続けるエルアーティだが、きつい物言いに対しては物憂げな顔を浮かべがちなルーネでさえ、神妙な面持ちで静かに聴くばかり。彼女にとっては初耳だったのだが、シリカがやがてベルセリウスにユースを預けることを理想としている、という話を聞いてから、その表情は余計に固い。シリカとユース双方のことを考えれば、それは絶対に間違いだとルーネも思うからだ。
「彼女はそろそろ気付くべき。"導くべき後輩"と彼を認識し続けることは、責任感を盾にした傲慢であるとさえ言わせて貰いましょう。追いすがる彼の前を常に駆けること、それを何よりの糧にし続けてきたはずの法騎士シリカに、美徳に見せかけた自惚れを許し、運命をも揺るがし得る絆を腐らせることなど私には容認できないわ」
私情でそこまで動くのも、二人の関係が正しい形ではたらけば、多くの人々の予想を遥かに超えた力を生み出すと、エルアーティが直感しているからだ。痛烈に二人を批判し続けたエルアーティは、ティーカップに手を伸ばして一口中身を嗜むと、今一度息をつく。
「変わるべきは法騎士シリカよ。表面的な態度などどうでもいいわ。彼女が騎士ユーステットに対する認識を改めるならば、騎士ユーステットの彼女に対する認識も自ずと変わるでしょう。逆に言えば、いつまでも法騎士シリカがあのままでいるのなら、騎士ユーステットが持つ彼女への認識もまた、変わるきっかけを見出せぬまま終わるでしょうね。そうなればまあ、行く末は――」
ティーカップを机の上に置くエルアーティは、ひと呼吸挟んで正面のルーネを一目見る。今から使う言葉が、親友である彼女にとって面白くない言葉であるのはわかっているからだ。
「運命は、期待に添えない者を切り捨てる時は早いから」
運命の輪からの脱落者はどうなってしまうのだろうか。歴史の大海に埋もれるだけならばまだいいが、戦人として戦場の理を知る者にとって、それはそんな生易しい結末を思い浮かべられるものではない。
「法騎士シリカや騎士ユーステットの落命は、運命による時間の問題であるとも見える」
「エルア、それって……」
「だからベル、私はもう少し出撃を遅延させて欲しいと言ってるの。法騎士シリカ、あるいは騎士ユーステットが、運命の手引く道に正しく乗るまでの時間を稼ぎたいのよ」
ルーネから目を逸らし、頭の上のベルセリウスを見上げて呼びかけるエルアーティ。十日後に訪れると確定した、現代最大の奪還戦。間違いなく、魔王マーディスが討伐されて以来、最大の死闘となる。そこへ最高の形で二人を送り出したいエルアーティは、そのための時間が欲しいと訴えている。
「すでに三国の間で決められたことです。たった二人の騎士の都合で、あるいは賢者たるあなたの強い希望であったとはいえ、この決定は覆せません」
「ええ、わかってる。世界は私や彼らだけに優しいものではないからね」
それもまた運命の定めるままに。一応の希望を口にしたエルアーティだが、あるがままの運命の流れに身を委ねることも、彼らが持つ運命力なるものを見定めるための環境設定だ。希望が叶わず拗ねるわけでもなく、エルアーティは膝の上に置いてあった書物に手をかける。
「二人が運命に負け、その命を散らせるというのならそこまで。ただ――」
エルアーティが開いた愛読書には、表紙に"運命力学"と書かれている。理屈も哲学もへったくれもない乱文模様の随筆書であり、多くの学者には好まれないものだ。その古書の思想にシンパシーを感じるエルアーティは、己が精神の根底にある思念が、運命を追い求めていることを自覚している。
「それさえにも打ち勝ち、続き未来を手にしていく者こそが、真に運命を超える力の持ち主であると言えるのでしょうね」
試練はそれを乗り越える者にしか訪れない。苦境に苦しむ者を勇気付けるために使われやすい言葉だが、エルアーティはその言葉を己が学問にも適用する。運命を超えていく力を持つ者にこそ、運命は絶大なる力をもってはたらきかけ、それを超えていく者の運命力を証明していく。それもまた"運命"の自己主張。幾千幾万幾億の命の中、そう簡単に選ばれし者が誰であるかを教えてくれない運命様とて、確かなヒントをどこかに落としていると、エルアーティは考える。
学問とは、広い世界の中にある小さな砂粒のようなヒントをかき集め、一つの英知として集大成にしたものだ。運命を知る事もまた学問として捉えるエルアーティは、砂粒のように小さく横たわる真実をかき集め、やがては大きく明確に目に見える形にまで形成していこうとしている。彼女が掲げるその理想は、人が聞けば夢妄想としか思えないような話であり、だから彼女の思想に並ぶ者がなかなか現れない。
かつて弟子であったアルケミスと、運命力学を一晩中語り明かした日々の思い出がエルアーティの胸に蘇るのは、今日その名を口にしたからであろうか。彼もまた運命に導かれ、鬼門をくぐった一人である。数少ない同学の志を失った今、彼女の目は新たな運命力の持ち主に注がれ、今書物に目を向ける眼差しが文面を追っていないことからも、それは正面のルーネからも見て取れていた。
「……ねえ、エルア。運命は、それを暴こうとするあなたのことを見過ごしてくれるのかしら」
「運命が私を不届き者として屠ろうとするなら望むところよ。それに抗えるか否かを以って、私の持つ運命力を計り知れるのだから」
人類と、魔王マーディスの遺産達との最終決戦が目の前に迫っている。運命が牙を剥き、世界を大きく揺るがすのがその日であることぐらい、運命力学を嗜まない庶民でさえも予感できることである。




