第198話 ~エクネイス防衛戦⑦ 騎士ユーステットの死闘~
騎兵と歩兵が戦う時、馬の上から槍を突き出す騎兵の射程距離は、戦闘を優位に運ぶ大きなアドバンテージだ。ワーグリフォンが高き位置から槍を突き出し、振り回して攻撃してくるのは、騎兵のそれと変わらぬもので、ユースにとっては反撃の糸口を見つけにくい。
一定の距離をユースとの間に保ち、槍の突きと引きを連続して繰り返すワーグリフォンに、ユースは後退しながらかわし続ける。顔のすれすれを槍先が通過する風を頬で感じたかと思えば、すぐに胸元への突きが繰り出されている。身をよじり、かがめ、バックステップして、一度の攻撃も繰り出せないままにユースは後方の建物の壁へと追い詰められていく。
見るからに、じり貧を思わせる展開のまま、逃げ場を失うのはまずい。壁に辿り着く7歩前、額めがけて突き出されるワーグリフォンの槍を、後ろに退がっていた勢いを急反転するとともに身をかがめる。槍をくぐってワーグリフォンの足元へ迫るユースは、敵を間合いに捉えた瞬間に騎士剣を振るっている。
軽く跳躍して高度を出したワーグリフォンは、ユースの頭上を飛び越える。すぐさまユースも振り返るが、その瞬間にワーグリフォンの後ろ足が、顔面を蹴飛ばそうと迫ってきた衝撃度には血も凍る。思わず反射的に盾を振り上げ、馬にも勝るパワーの後ろ蹴りをはじき上げる。完全に咄嗟だったのに、英雄の双腕の緩衝の魔力を盾に纏わせることが出来たのは、ルーネとの一ヶ月間の修練による賜物だろうか。
頭蓋骨を粉砕した感触とは違う手応えを得ながら、ワーグリフォンは前脚を軸に下半身後方を操って、ぎゅるりと身をユースの方に向き直る。力比べで自分が人間に劣るなんて、まず絶対にあり得ないこと。以前の戦いでも実感したことだが、ユースの操る盾が持つ鉄壁性は、今のワーグリフォンにとって最大の障害だ。
「氷結風陣!」
「英雄の双腕……!」
槍を振るったワーグリフォン、その瞬間に発生した凍える風。それは大気に氷の粒を生じさせ、美しい幻想風景を生み出すほど冷たく、恐ろしい悪魔の魔法。盾を前に構えて切り札の詠唱を放つユースの眼前、盾を中心として傘のような魔力障壁が発生し、ユースを襲う風を防ぎ通す。
さらに猛突進してくるワーグリフォンが、自らの魔力障壁を透かした向こう側から迫り来る。風のやみきらぬうちに、ユースの肩を貫かんと突き出される槍に、ユースはかろうじて身を回して逃れる。一瞬ワーグリフォンに背を向ける形になり、比喩ではなく首筋が氷に覆われるように痛むが、ユースはすでに反撃の手立てを組んでいる。
270度回転してワーグリフォンに半身を向けたその瞬間、ユースはワーグリフォンの上半身目がけて跳躍する。剣を握った騎士の鋭い眼差しが迫る光景に、ワーグリフォンも最速で槍を引いて対処する。自らとワーグリフォンの上半身が空中ですれ違う瞬間、翻しざまにワーグリフォンの延髄目がけて剣を振り下ろすユースだが、体を前に傾け、さらに騎士剣と自らの間に槍を挟みこんだワーグリフォンがそれを防御。冷風の中で火花が飛び散るような衝撃の直後、反動でユースはワーグリフォンから離れた方向へと飛んでいく。
「凍刃弾雨……!」
身を翻して着地の構えに移るユース、しかし振り向くような形から槍を振って、氷の弾丸を発射してくるワーグリフォンが速い。着地目前にして氷の弾丸の数々に迫られるユースは、そのうち3つの弾丸を騎士剣で払い飛ばした。少し遅れて顔面に一直線してきた弾丸を、盾ではじいた機敏さも活きた。それでも脛を打ち抜いた氷の塊は、着地と同時にユースが身を低くしてしまうほどに痛い。骨への直撃は僅かに逸れて致命傷ではないはず、痛みを奥歯で堪えてすぐに構え直すユースの精神力は見事だが、猪突猛進してくるワーグリフォンに対して反応が僅かに遅れてしまう。
ユースの胴を真っ二つにする軌道で槍先を描くワーグリフォンに、ユースに許された回避方法は3つ。前方に跳躍してかわすか、後ろに退がるか、盾で防ぐか。瞬時に地を蹴って2つ目の選択肢を叶えて回避した直後、今度は勢いよく前に向けて地面を蹴りだす。一手攻めたと思ったら、すぐに我が身に向かって攻撃してくる騎士の姿、ワーグリフォンとて予断を許されない一戦だ。
振るった槍を瞬時に逆の手で握って勢いよく引き上げ、空中のユースを槍の中間点で殴りつける軌道を描くワーグリフォン。先ほどの3つ目の選択肢、盾をその方向に構えたユースは、緩衝の魔力をいっぱいに込めてそれをはじき返す。さらにはわずかに軌道が逸れたものの、ワーグリフォンのそばを通過するに際して騎士剣を振り抜く。ここでワーグリフォンが勢いよく身を傾け、その刃から逃れるのが一瞬でも遅れていたら、ワーグリフォンの頭は騎士剣によって裂き割られていただろう。かすめた剣の切っ先で、耳に小さな切り傷を残されたのが、その証明である。
右の前脚を沈めて傾けた体、その沈めた脚を軸にして素早く体を回すワーグリフォン。目がぎらつく。憎き人間を葬るための魔力が、復讐心を糧に燃え上がる。ワーグリフォンがユース目がけて、勢いよく飛びかかる。ユースの着地点めがけてひとっ跳びにだ。空中で身を回して既にワーグリフォンの方向を向いていたユースの眼前遠方より、ワーグリフォンの巨体が恐ろしい速度で降りかかる。
思わずユースが後方に大きく跳んでかわした直後、そのユースが蹴った地点を、ワーグリフォンの前脚二つが踏み砕く。シンプルな踏みつけの攻撃だが、かわせていなかったらと思うとぞっとする。しかしさらにぞっとするのは、後ろに跳んだユースの真正面、ワーグリフォンの前に突然氷が集まり、一瞬にして巨大な塊を作り上げたこと。それは、馬より背高いワーグリフォンの姿すら、ユースから見て隠れてしまうほど巨大な氷である。
「氷塊山!」
「っ……英雄の双腕!」
そして巨大な氷の塊は、まるで巨人に蹴飛ばされたかのような勢いでユースへと発射された。ただでさえ自分より大きな氷塊が、凄まじい速度で自らへと迫ってくるというのは、それだけで度肝を抜かれかねない光景だ。それでも決死の詠唱と共に、全力で緩衝の魔力を展開したユースに、氷の塊は情けも容赦もない激突へと踏み込む。
獣のような巨大な氷塊と、小さなユースの盾がぶつかり合う光景は、まるで天変地異の直撃を受けて滅びる無力な人間の姿である。それでもユースの盾に纏わせた魔力は、氷塊の持つ驚異的な破壊力を緩衝し、盾を備えた腕が軋んだ瞬間に振り払ったユースの力が、巨大な氷塊の進行方向をわずかにずらし、ユースのすぐ横に氷塊が転がる形になる。
目の前いっぱいに立ちふさがっていた氷、それが道を空けた瞬間、すでに間近まで迫っていたワーグリフォンの姿が目に入った。腕が膨れ上がるほどの力を込め、走る勢いに乗せ、ユースの胸元めがけて槍を突き出すその一撃はあまりに速く、気づくのが遅れたユースは回避が追いつかない。最終選択肢、盾を槍の前に構えてさらに後方へと地を蹴り、盾に激突した槍の衝撃は精一杯衝撃を受け逃がす手法で、ユースは存命への道を手繰り寄せる。
ワーグリフォンの全力の突きは、後方に勢いよく逃れながら盾でそれを受けたユースでなお、盾を備えた腕が折れるかと思うほどのパワーだ。その余ったエネルギーはさらにユースを後方へ押し出し、自身が想定していたよりも遥か後方へと飛ばされたユースは、建物の壁に背中から勢いよく叩きつけられる。石壁は人間の肉体には容赦なく、両肘と両二の腕で受け身を取ってなお、ユースの肉体が破裂しそうなほどの衝撃を届けてくる。
意識が一瞬飛びそうになってなお、着地の瞬間に再び遠方のワーグリフォンを睨み返したユースは、気持ちで言えば負けてなかっただろう。だが、遠きワーグリフォンを見据えたはずの目の前にあったのは、ワーグリフォンの前に現れた巨大な氷の塊。まさか、それがまた。
「あ……っ、英雄の、双腕……!」
ワーグリフォンの唱えた、氷塊山の魔法詠唱の声も聞き取れなかった。聞こえようが聞こえまいが、その殺意はユースに襲い掛かる。石壁を背にしたユースの真正面から襲い掛かる氷の塊、逃げ場はないどころか、全身を貫いたダメージは、今のユースに俊敏な動きを許すほど軽くない。かわせない。
潰れかけた肺から絞り出した詠唱、かろうじて構えた盾。袋小路を背にした騎士が、今絞り出せる限りの魔力を盾に纏わせたその瞬間、無情の氷塊が己より小さな人間を、まるで悪魔の掌のように勢いよく叩き潰す。
「あ……」
盾と氷塊が激突したその瞬間、ひび割れそうだった腕が嫌な音を立てた気がした。力を失った腕は、前面からくる圧倒的な力に耐えられず、胸にまで近付いてくる。超圧力を持つ氷塊に押されてだ。その瞬間のことはユースにとって、何秒にも何分にも感じられた気がした。そして巨大な氷に押された体が、背を石壁にまで届かせた瞬間、じんわりと巨象が我が身を踏み潰そうとしているような感覚に陥る。
直後、ユースの背後に合わせられていた石壁にひびが入り。
氷塊が爆発するように砕け散り。
その光景は、間に入った人間を叩き潰した氷塊が、石壁にぶつかって相互破壊を果たした結果を物語るそのものだった。
「ふん、所詮は人間よ」
粉々に砕けた氷が魔力を失い、霧のように散っていくのを遠く見て、ワーグリフォンは満足げに笑う。復讐を果たして上機嫌な魔物とは裏腹、周囲に散開した戦士達の顔面は蒼白だ。ついさっきまで先陣の一番前を駆けていた仲間が、悪意の氷塊に叩き潰されたその光景は、この場にいる誰もが言葉を失っている。倒れた騎士も、立ち上がることが出来た傭兵も――少しでも加勢になればと、命を張る覚悟を決めていたアイゼンやルザニアまでもが、立ちすくんだまま動けない。
「さて……次は、貴様らだ」
時が止まったように動けない若き戦士達の前、ワーグリフォンがゆらりと動いた。それによって硬直した時の流れから解放されてなお、身動きがとれぬほど目の前の絶望は大きい。心をへし折られた人間どもをなぶり殺しにする楽しみを目前にしたワーグリフォンは、くちばしの端から小さく舌をなめずった。
だが、無音の戦場に響いたひとつの銃声。それはワーグリフォンの首元に横から迫り、容易にそれを察知したワーグリフォンは、槍を立てて銃弾をはじき返す。ぎろりと銃声の主を睨みつけたワーグリフォンの眼は血走っており、舐めた人間に対する怒りが、見る者の恐怖心を駆り立てる。
銃を握った傭兵は、怯みもしない表情でゆっくりと歩いている。その態度がワーグリフォンには気に入らなく、すぐにでも氷の刃を放って狙撃してやろうと、ワーグリフォンが魔力を練り上げる。
「私さ、知ってるんだ」
その間をはずす一言が、彼女の口から小さく溢れた。ユースが氷の塊に叩き潰された場所を僅か後ろに置いて、怪物と向き合って言い放ったアルミナは、片足を引きずっている。恐らくワーグリフォンがこの場に現れた時に放った強風、あれに吹き飛ばされ、強く挫いて走ることが出来ないのだろう。
「あんたなんかに、私のパートナーは負けないよ。あいつは絶対、いつかシリカさんにだって追いついて、もっともっと凄い奴になっていくんだもん。こんな所で、あんたなんかに屈したりしない」
誰がどう見ても大局決したはずのこの状況、錯乱した脆弱な人間がありもしない希望を口にしていると、ワーグリフォンは大声で笑いそうになる。妙に強気で自信に満ちた表情をしているのだって、現実を直視できなくなった弱者の強がりにしか見えない。その生意気な態度が、手足を引きちぎられても保っていられるものか、試してやりたくなる。
「そうか。ならば貴様の悲鳴を餌にして、そいつとやらを目覚めさせてやろう」
槍先の水晶の刃を鋭く光らせながら、ワーグリフォンはアルミナへとにじり寄る。二十歩も歩けば、アルミナを踏み潰せる距離感だ。一歩一歩がお楽しみへの接近であるワーグリフォンは、それを長く嗜むためにわざとゆっくり歩み寄っている。
アルミナは銃を構えた。ただし、それはワーグリフォンに対してではない。ワーグリフォンを前方に見据えたまま、銃口を後ろに向けて肩に担ぎ、乗せた肩の方の手で引き金に指をかける。
「目ぇ覚ましなよ。いつまでそうしてんの」
アルミナが引き金を引いた瞬間、彼女の後方へと銃弾が飛んでいく。反動で銃はアルミナの肩から跳ね、渇いた音とともに石畳の上に転がった。
銃弾が氷塊の消散していく霧を切り裂き、何かに着弾して金属音を奏でた。石畳に銃弾がぶつかった音だろうか。そうではない。その答えは、銃弾が切り裂いて僅かに晴れた、霧の向こう側にある。
思わずワーグリフォンが立ち止まってしまったのも当然だ。氷塊と石壁に挟まれて潰れたはずの人間が、二本の脚で立っているはずがない。晴れていく霧の向こう側、どうして人影が立っているというのだ。しかもそいつは、霧が去るにつれて自らを遮っていたものが消えるかのように、霧の発散とともにその向こうから歩いてくる。
「あ……っ、アルミナァ!!」
「ほら、助けなさいよ。私もう、すっからかんよ」
振り返って得意げに笑うアルミナだが、その眼差しは弱々しい。これが気丈にワーグリフォンと対峙していた彼女と同じ人物とは思えぬほど、確たる希望をユースに勝ち取って欲しいと訴えかける、人頼りの目。片足もろくに動かず、銃が手元にあったって一人じゃどうにも出来ず、死を迎えるしかなかったこの状況、怖くなかったはずがない。啖呵を切るだけの度胸はあったって、一度だって本音以外で付き合ってこなかった親友を前にすれば、アルミナの強がりの鎧なんてすぐ崩れる。
自分でも完全に死んだと思ったのに、死んでいなくって。何が起こったのか、何を起こせたのかもわかりきっておらず、ある種呆然としていた所に銃弾を飛ばされ、慌てて銃弾を盾ではじいたユースだったからそりゃ怒る。反応できていなかったら、アルミナの弾で脳天吹っ飛ばされていたんだから、あいつは本当洒落にならない意味で破天荒だ。
だけど、片足を引きずって、ひょこひょこ近付いてくるアルミナを見ていると、怒る気も徐々に失せてしまう。戦場で銃を握っていない時のアルミナなんて初めて見るけれど、敵を間近にして戦う力を失ったこいつが、こんなにも人をすがるような顔をするなんて知らなかった。いつだって、どんなにつらい状況でも、自分達の力で何とかしてやるっていう気力に溢れた奴だったのに。
ワーグリフォンを討伐できる者がいるとしたら、もうここにはユースしかいないのだ。ワーグリフォンに現実の見えていない錯乱者扱いされたのが数秒前、その実、ここにいる誰よりも彼女が現実を知っている。
「借り、ひとつ足しておくからさ。ね……?」
「……水臭い」
助けて、の一言を直球に言えないあたり、変なところで意地っ張りなのが急にアルミナ。よく知った親友だ。いなくなって欲しくない人が後ろにいれば、やるしかないのが騎士である。自分の後ろ、砕けかけた石壁によろよろと身を預けるアルミナを尻目に、ユースはワーグリフォンの前へと歩いていく。盾を備え付けた腕を少し揺すってみると、激しく痛むが折れてまではいないようだ。致命傷のような気がしたけど、痛覚は体に無理をさせないようにするためのものだから、致命的な損傷を受けたような気がしたのに実はまだぎりぎり大丈夫だった、というのは珍しいことではない。
訝しげにユースを観察し続けていたワーグリフォンだが、石壁に叩き付けてやったことで、相手の体が悲鳴をあげていることは、歩き方ひとつ見てもわかることだ。まるで死んだ人間が生き返ってきたような心地だったから警戒してしまったが、本質を見れば所詮は手負いの人間。ゼロからユースをあの状態まで追い詰められた自分が、傷ついた同じ相手に劣るはずがない。
「フン……! 命は大切に使うべきだったな!」
一度拾ったはずの命を捨てるためにしゃしゃり出てきた馬鹿、そうした罵倒を口にして、駆け出すワーグリフォンは槍を突き出す。それを回避されることぐらいは想定済み、その後の展開を本能で構築していたワーグリフォンに反し、ユースがとった行動とは、胸元を突き貫こうとする水晶の槍先を、振り下ろした盾で地面へと叩きつける行動だ。さらに一歩踏み出している。
槍先は地面に叩きつけられるが、ワーグリフォンの体勢が崩れるでもなく、それによって戦況はまったく動かない。その行動が意味するのは、この怪物と渡り合うための唯一の魔法、英雄の双腕の魔力纏いし盾は、まだ死んでいないという事実の証明だ。地力なんかでは揺るがすことも出来るはずがない、ワーグリフォンの重い一撃を叩き伏せるだけの反発力を発することが出来たならば、腕が痛もうともまだ戦える。その事実がユースの眼に宿る闘士を一気に燃え上がらせ、地を蹴ったユースがワーグリフォンの目前へと迫る。
人間を侮りがちなワーグリフォンも、その眼差しと対峙した瞬間には即座に戦慣れした本能を呼び覚ます。この眼に一度敗れているのだ。引いた槍の石突を小回転させ、ユースの下腹部を狙い撃つワーグリフォンに驕りはない。
前から迫るその槍に、剣を振り下ろして打ち付ける。その反動は推進力となり、さらにほんの少し高くユースを跳ね上げ、空中で前方回転したユースがワーグリフォンの頭頂部を、剣の切っ先で狙い振る。素早くかがんでかわしただけでも、ワーグリフォンに油断がないことは明白だ。
「氷結風陣!」
自分の後方に向けて落下していくユースを即座に向き直れば、やるべきことは決まっている。氷の弾丸か凍える風か、地面に落ちる直前の人間を狙撃する魔法を放つのが定石。後者を選んだワーグリフォンの杖先から、大気も氷結を生み出すほどの冷たい風が吹く。それも人間を吹き飛ばせるほどの強風だ。
英雄の双腕の魔力を展開して、風を受け止めたユースを貫く、一つの新たなる感覚。自身の魔力と相手の魔力がぶつかり合うことは、今まででもそう少ないことではなかった。盾を構えた我が身を通じ、魔力と魔力のぶつかり合いを経験し、その都度ユースも、敵の持つ殺意とそれに抗う自分の想いが、しのぎを削る実感を無意識下で得続けてきた。
魔力とはすなわち、精神力を具現化したもの。つまり魔力と魔力のぶつかり合いというのは、精神と精神の衝突、心と心の格闘なのだ。他者の心を読むことは出来ないが、魔力と魔力の接触は、己と他者の心を通じ合わせる最短の手段である――そんな格言も、魔法学の中にはある。
奇しくもその言葉を実証するかのごとく、魔力と魔力がぶつかり合ったその瞬間、ユースに伝わってくるワーグリフォンの想い。殺意、憎悪、復讐心、この世の何にも優先して殺したい相手に撃つ魔法は、その想いの強さに比例して、相応の魔力と威力を生じさせる。見たくもない真っ黒な感情に、触れ合うユースは死に物狂いで押し返すだけだが、それすなわちユースとワーグリフォンの精神が接点を持ち、繋がっている証に他ならない。
触れたものの形を知るのは不可能なことだろうか。ユースは、ワーグリフォンの放つ魔法に触れている。そして、憎しみに満ちた魔法の本質にまで手が届いている。そこに巡る魔力の在り方が、普段以上に、それでも上手く言葉で説明出来ない程度にだが、おぼろげながら見えている。百獣皇アーヴェルは、掌や愛用の杖で魔法に触れ、敵の魔力の在り方を自らの魔力と接し合わせることで知り、雲散霧消という魔法によって、敵のあらゆる魔法を打ち消す。敵の魔法の精神模様を知ることは、高位の魔法使いが同じ事をすれば、敵の魔法を支配することにさえ繋がるということ。
あの時氷塊と石壁に挟まれ、叩き潰されそうになったあの瞬間、ワーグリフォンの氷塊山の魔力の流れが確かにわかった。無我夢中で、逸れろと願って盾を振り上げたあの時、あんなにも重い氷塊が、頭上に逸れて石壁にぶつかったのだ。対象を叩き潰したいというワーグリフォンの意志、それを具現化した魔力、それをユースの魔力で全力で殴りつけた結果、氷塊が本来持っていたはずの進行方向までもが曲げられ、ユースを叩き潰すことが出来なかった。無効化したわけでも、ユースの力で砕いたわけでもない。ただ、我が身を守りたいと想った意志の力、魔力がワーグリフォンの魔力に緩衝し、その軌道を変えてしまっただけ。
前方に構えた盾が張る魔力の結界は、今までワーグリフォンの氷結風陣の風を後方左右に裂き分けてきた。怪物サイデルの炎さえ、短時間で食い止めてきたこともある。英雄の双腕の魔力は、敵の魔法の行く末を変えるだけの力が確かにある。
その魔法で為せることとは、敵の魔法を逸らすことのみに限られるのだろうか。
ユースの盾を中心に、術者の前方に大きく張られた障壁にぶつかった風は、逸れるどころか反転した。凍える風を前にして動けなくなったユースへ、とどめ向かいの突撃を仕掛けていたワーグリフォンは、思わず跳ね返ってきた風に片腕で顔を庇わざるを得ない。大気さえにも氷結を生む冷たい風は、ワーグリフォンの肌に急冷凍された霜を生じさせるほど。これは自分の魔法であるはず、それに上半身を凍りつかされそうになったワーグリフォンは、戸惑いを隠せず立ち止まる。
立ち止まったその瞬間、前脚の一つに凄まじい激痛が走った。怯んだワーグリフォン、そこへ駆け迫ったユースが、右の前脚の膝から少し下を、一振りの騎士剣で切り落としたからだ。軸足の一つを失ったワーグリフォンは、脚を切り落とされた瞬間に全バランスを崩しかけたが、あわやのところで翼を振るい、倒れず後方に跳び退がる。片足失えば致命傷なのは馬だけで充分、魔物の生存力とは比較できない。
片腕で視界の一部を遮った、一瞬の隙からこの痛手。凍りついた風に目をくらまされたことにも大きな影響を受けたものだが、容赦なく踏み込んでくるユースを前にして、ワーグリフォンも悔いる時間がない。左の前脚を前身の支えにして、足元を切り崩そうと剣を振るい迫るユースの攻撃を、また後方に跳ねて退がり回避する。一振りユースが攻撃するたび、ワーグリフォンが後退する。
調子付いた人間の姿はワーグリフォンには許しがたく、獅子の下半身とは独立した上半身が、槍を振るってユースを殴り飛ばそうとしてくる。今こそ二度と訪れぬかもしれぬ好機、緩衝の魔力を盾に纏わせたままのユースは、暴力的な槍の殴打を盾ではじき返し、時にかわし、攻撃の手を緩めない。
もう一本脚を奪われでもしたら致命的な、ワーグリフォンの下半身は逃げ惑う。それを脅かす人間を撃退すべく、ワーグリフォンの上半身は攻め立てる。上からの攻撃に対処しつつ、獅子の肉体に決定打を与えるべく地を踏みしめるユース。一対一にして三すくみという複雑な交戦模様である。
どうして自分が人間如きを相手に逃げ回らなければならないのかと、ワーグリフォンのプライドが、激しい怒りに成り代わる。ちょこまか動く人間をひと想いに叩き殺すべく、一歩大きく後方に跳躍したワーグリフォンは距離が作る。怒り任せの長槍のスイングが、ユースの胸元を横から殴り飛ばそうとしたのがその後の光景だ。
敵との距離は広がりきっていない。さんざんルーネとの戦いで間合いの重要性を学んできたユースは、絶対的なこの好機を見逃さなかった。高いスイングを、それを上回る跳躍で跳び越え、ワーグリフォンの胸元へと一直線だ。盾で防ぐ消極性より、かがんでかわす一手の緩慢より、決め撃つべき局面で勝負を賭けられる戦い方とは、誰に教わったものだろう。最大の形で芽吹いた師の教えは、しまったと表情から色を失ったワーグリフォンに騎士剣を突き立てることを叶え、筋肉質のその腹をユースの刃が貫いた。
それは奇しくも、スフィンクスであった頃のワーグリフォンが、同じ相手に一度剣を突き立てられた場所と同じ。完治したとはいえ、決して同じ轍は踏むまいと疼く痛みに覚えさせたはずのワーグリフォンが、以前と同じ致命傷を負うなどとんでもない失態である。起こり得ないはずの傷を負わせることが出来た攻撃性の果て、さらにユースはワーグリフォンの肉体を蹴り、同時に騎士剣を振り上げて傷口をかっさばく。ワーグリフォンから大きく離れたユースの正面、とめどない血がワーグリフォンの傷口から噴き出す。
「ぐ……っ、げはっ……! ゆ……許さ、ん゛……!」
これと同じ傷を負って撤退したのがつい最近のことで、それも同じ相手にだ。あの時よりも強くなった自分が、一度負けた相手にまた尻尾を巻いて逃げ出すというのか。そんなことはワーグリフォンの自尊心が許さない。こいつだけは殺さなくては気が済まない。
「氷塊、山……!」
瞬時に眼前に魔力を集めたワーグリフォンと、目の前がかすむほどの目まいに苛まれ、かろうじて敵を見据えるように顔を上げるユース。霊魂と掛け合わせで精神を具現化して魔力を生む、それをこの一戦でどれだけ長く、濃く続けてきたか。霊魂は疲弊し、精神と肉体を繋ぐ役割を果たす霊魂がそのはたらきを為しきれていない今、肉体にまで負担が現れている。石壁に叩きつけられて軋んだ肉体は、早く休ませてくれと言わんばかりに、倍増した激痛を叫び続けてくる。
それでも目の前から飛来する、自分よりも遥かに大きな巨大な塊を前にして、じっとしているわけにはいかないのだ。右も左もわからなくなりそうな目まいを、唇を噛んででも正して氷塊を視認。決死の跳躍で氷塊を跳び越えた瞬間には、全身の血管がぶちぶちと切れるような凄まじい痛みが全身を貫く。意識が飛びそうだった。だが、ワーグリフォン目がけて飛翔したこの想いが、望む未来を勝ち取るまでの辛抱だ。死んでなどいない眼差しだけが、ぼろぼろの肉体と精神と霊魂の中で一際輝く。
「馬鹿めが……! これで終わりだ……!」
上空から自らに迫るユースを見上げ、ワーグリフォンが取るべき手段は一つ。敵の向かう方向はもう今さら変えられない、自由に動けない。とどめの一撃なんか決まりきっている。
「氷塊山!!」
向かい来る空中のユース目がけ、特大の氷の塊を放つ魔法。人間の持つ身体能力でこれを打ち返すことは不可能、回避手段もない。一撃必殺を確信したワーグリフォンの脳裏には、空中で超質量と速度を持つ氷塊に轢殺され、粉々に粉砕された人間が力なく落ちるビジョンが完成している。
ここしかないと、ユースも思っている。魂を震わせて、精神を奮い立たせて、最後の一滴まで魔力を絞り出して。勝負を賭けたユースの精神力が、彼にとって唯一にして最大の切り札を、最大限の形でこの世に顕現させるべく輝く。
その時ユースの腕に掲げられた盾が、闇夜に差す夜明けの光の如く強い光を放ったのを、遠き地上から見上げていたアルミナは生涯忘れないだろう。これを見るのは、一度目ではなかったから。
「英雄の双腕!!」
吼えるような詠唱と共に、氷塊を盾で殴り返したユースの行動が、ワーグリフォンの未来予想図を一瞬にして崩壊させた。憎き怨敵の破壊に向けて我が手を離れた氷塊が、対象に衝突したと思しき瞬間に180度方向を変え、ほぼ速度そのままにして返ってきたからだ。夢にも思わなかったような光景にワーグリフォンは回避行動もとれず、巨大な氷の塊はその凄まじい重量とともに、屈強なワーグリフォンの上半身に直撃した。
せめても腕を交差させて身を守る構えを取ったワーグリフォンだが、自分よりも大きな氷塊に真正面から激突されて、無事でいられるはずがない。ワーグリフォンにぶつかり、術者の魔力を失った氷塊はその場で砕け散り、一瞬ほぼ完全に前後不覚になったワーグリフォンへの道を、飛来するユースに明け渡す。
落下の勢いに任せてユースが振り下ろした剣は、ワーグリフォンの頭から、喉元さらにその下の胸部まで届くほど、深く大きく魔物を断ち切る。着地の瞬間に目の前が真っ白になりそうだったが、ユースはふらつきかけた足取りで3度後方に跳ねて離れる。一度一度のバックステップの幅も狭く、体力の限界を察するには充分すぎる動きだろう。
全精力を尽き果たし、立って剣を構えるので精一杯のユースの前、頭を二つに割られたワーグリフォンが、やがて大きな音を立てて倒れる。腹の傷、頭の傷から流れる血は石畳に沁み広がり、微動だにしない怪物の絶命を鮮明に描いていた。
「っ……ユース……!」
片足の痛みに表情を歪めながらも、駆け寄るようにしてユースに近付くアルミナ。ワーグリフォンが倒れてなお、膝をつくことが出来ずに立ちつくしていたユースの姿は、彼の体に刻み付けられた戦人の本能の賜物でも言うべきか。だが、アルミナがユースの肩を抱き寄せ、戦いの終わりを体で伝えた時、ついにユースの体から力が抜け、アルミナの体にユースが重く寄りかかる。
「アル……ミナ……」
「お疲れ様、本当に……」
いつも前を任せてばかりで、肩を貸すことなんてあるはずがなかった。初めて支える、重い体だ。力を養い、鍛え上げ、培ってきたこの体でずっと後衛の自分達を守ってきてくれたんだと、こうしてみると本当によくわかる。自分と一緒で体力自慢のこいつが、かすれたような呼吸を繰り返し、顔も上げられずに全体重を預けてくるだなんて、どれだけ死に物狂いで戦ってくれたのか。その結果、誰もワーグリフォンに殺されることなく、この戦いを終えることが出来たのだ。
「ごめん、もう無理! みんなもういいよね!?」
ユースを中心に戦い抜いてきた急造の小隊に呼びかけるアルミナの真意は、ここの誰にも伝わっている。ワーグリフォンのような怪物を、決死の想いで討伐してくれた誇らしき仲間が、精も根も尽き果てて戦闘不能にまで追い込まれたのだ。誰がこいつをこれ以上の危機に晒してまで、防衛戦ないしは進軍に踏み出そうという気になれるというのだ。
アイゼンを中心に、ユースとアルミナを守るようにして、若き戦士の小隊は北上する。ここから北は、今しがた魔物を討伐してきたばかりで手薄のはず。かつ、北から南に駆ける他の隊もいるし、法騎士カリウスだってその中に含まれている。合流は時間の問題であり、それを以ってユースを安全に離脱させる方向性だ。
仲間達に囲われたユースには殆ど意識がなかった。ただ、ずっと自分のそばを離れず触れ合ってくれている親友の温もりだけが肌に伝わり、それは守りたい人を守ることが出来た実感とほぼ同じ。
失わなかった。守れたのだ。苦痛の渦中にあってなお、その現実は何にも勝る救いであり、戦い抜いた彼の心をじんわりと満たしていた。




