第196話 ~エクネイス防衛戦⑤ 希望の星~
スプリガンの知能はそこそこで、目の前の人間どもが"若い"こともわかっている。練達の戦士の顔立ちではないと、戦場を見てきた経験によって察することが出来る。だから、数に任せた配下達の襲撃で概ねは片付くと、はじめはたかをくくっていた。その認識はすぐに改められたが、敵を見て己の驕りを見直すことが出来るのは、強い魔物が持っていては厄介極まりない知性である。
騎士アイゼンも騎士ルザニアも、後ろの後輩や同僚を守るため、精神力の限りを尽くして騎士剣を振るいかざしている。二人に対してその2倍3倍の数の魔物が同時に飛びかかってこようが、後方支援の射手との連携で、的確にそれらを討ち果たしていくのは見事なもの。
「右にも目ぇ配れよ! 空からの襲撃は主にそっちからだ!」
完全に戦闘要員となり、後輩に指示を下す余裕のないアイゼンだが、彼の少し後ろで戦う二十歳後半の傭兵が、アイゼンに代わって若き騎士達を鼓舞してくれている。彼自身も戦闘員としてはそこそこに出来るのだが、やはりこの極地、アイゼンの強さは戦闘に集中させた方が頼もしい。それに準じて行動できる傭兵の判断力は、時に騎士より頼もしい。
「そっち行った、撃ち落として! ルザニアちゃん後衛に回って! 空からが危ない!」
頼もしい傭兵といえば彼女もそうである。アイゼン含めた前衛に混ざり、ひっきりなしに言葉を放って隊全体を導く。そうしながら5秒に1度か2度は的確な銃弾を放ち続け、迫る脅威をいくつもいくつも撃ち抜く、銃士としてのはたらきも圧巻だ。前衛で戦うアルミナの位置からすれば、後衛で戦うバルトに迫るコカトリスなんてどれほど距離があるのかという話だが、それをしっかり撃ち抜いて、仲間を守っている始末。有効なる影響力を及ぼす範囲があまりにも広すぎる。
そして誰より、彼女の少し前で戦う彼の恋女房こそ、指揮官のスプリガンを焦らせる存在だ。20秒前には、彼に向けて襲いかかっていた魔物の数が5匹を超えていたはずなのに。盾を腕に装備したあの騎士は、銃士の補助こそあったものの、短時間で既にそれらを葬り落としている。追撃の魔物の群れがユースに直進していくが、それらも恐らく敵わず討伐されるだけだろう。
数々の配下を犠牲に、スプリガンが見定められた大きな情報が二つ。一つは若き人間だけで構成された集団が、頭数で勝る魔物達をも撃退できる勢力であること。そしてもう一つは、それを叶えられる形に隊を引っ張っているのは、最前列で戦う二人の人間の強さであるということだ。
「動いた……! 来るわよ!」
ずさりとスプリガンがその大足を一歩前に踏み出したのを、誰より早くに視認したのはアルミナだ。その動きが単なる気まぐれの一歩ではなく、遠方より友軍への支援の意志を込めたものであることも、彼女の戦闘勘は見抜いている。
スプリガンの真の恐ろしさは、巨体から繰り出されるパワーではない。徒党を組んだ際に発揮する、地震魔法の発動こそが人類にとっての何よりの脅威なのだ。地面に拳を振り下ろしたスプリガンの行動は、拳に込められた魔力を大地に走らせ、そばの民家の窓を割るほどの揺れを生じさせる。突然に発生した強烈な縦揺れは、アルミナが直前に掲げた声がなかったら、誰もが腰砕けに尻餅をついていたかもしれない。実際のところ、膝か掌を地面について体を支えなければならない者が殆どである。
自分から地面に片膝立てて座り込んだアルミナは、後方の味方に空から飛来するヴァルチャーに、このひどい揺れの中でも的確な銃弾を放っている。だが、すぐに動ける地震ではない。すぐさまもとの方向に視界を戻すアルミナの眼前、こちらへ猛然と突っ込んでくるスプリガンの姿がある。巨人族かつ地震魔法を得意とするスプリガンは、自らが起こした地の揺れなど意に介さず走る歩法を身につけている。
スプリガンに銃口を向けるアルミナだが、引き金は引かない。信頼している。すぐそばにいたユースは地揺れの瞬間には素早く重心を落としており、アルミナへ突進するスプリガンの前に割って入るように飛び込んでくれている。そしてユースがどんな切り札を持っているのかも、アルミナは知っている。
英雄の双腕の魔力はユースの盾に色濃く纏われ、目の前に現れた邪魔者を拳で打ち抜こうとしたスプリガンの攻撃を、真正面から受け止めた。長身の人間の大人よりも頭ふたつぶんほど高く、それでも太く見えるほどの巨腕を持つスプリガンの正拳突きをだ。人間など容易に吹き飛ばせるはずの攻撃を防がれたばかりか、自分の拳が腫れるような痛みを得る不可解。それにも怯みかけず、もう片方の拳でユースを叩き潰そうとするだけ、スプリガンの機転は充分利いている。
揺れる地面を全力いっぱいで蹴り、かろうじてその攻撃を回避したユース。だが、スプリガンの拳が石畳を粉砕した直後、アルミナの放った銃弾がスプリガンへと飛来している。攻撃直後、それもさっきまでそこにいた攻撃対象の陰から飛んでくる銃弾は、スプリガンも回避しきれず、膝に銃弾の一撃を浴びる結果となる。
その痛み、加えて足の一本の稼動の要点を傷つけられたことで、一瞬スプリガンの動きが止まったのは好機。振動のおさまりかけた地面は、揺れに備えて重心を落としたユースにとって、充分に前進できる足場模様だ。スプリガンへと一気に踏み出すユースの騎士剣は、スプリガンの胸元をかっさばくように横薙ぎの一撃。なんとか後ろに跳び退いて回避したスプリガンだが、さらに地面を蹴飛ばして追い迫るユースには、スプリガンも拳を握り締めて応戦の構え。
今までのユースだったら、もう一度英雄の双腕を構え、盾でスプリガンのカウンターの拳を受け止めていただろう。それがアルミナのよく知っていたユースである。今日は違う。自らの顔面を打ち抜こうとするスプリガンの拳を、ぎりぎりまで引きつけて身を沈めたかと思えば、同時に振り上げた騎士剣で、スプリガンの手首の下を深く切りつけている。顔を歪めながらも、戦意に満ちたスプリガンが、右足による前蹴りを放ってくる攻撃に対しても、自分から大横に跳んで回避。その際にも騎士剣を振るって、スプリガンの足の裏の外側に傷をつけていく。
致命傷でなくたって、立て続けにダメージを受けた者はそれに意識を奪われ、狭まった視界の外からの攻撃に対して意識が不足する。横からスプリガンの頭を狙って引き金を引いたアルミナだが、身を逸らして回避するスプリガンの動きは想定済みだ。最低限の動きでないのは、痛みとユースに気をとられ、アルミナに対する注意力が薄れていたゆえ、咄嗟ぎりぎりの回避だったということだろう。
無駄に大きな動きで回避を為したスプリガンのロスは、今のユースの前に晒してはいけない隙である。スプリガンですらもまずいと思っている。即座に自分めがけて迫ってくる第二の矢、すなわち騎士ユースそのものの突撃が、スプリガンの頭に死の警鐘を響かせる。
体勢を崩したスプリガンの首元狙いで騎士剣を薙ぐユースに対し、スプリガンは腕を構えて剣を腕で受け止めた。鋭い騎士剣は、スプリガンの腕を深く断つ。だが、それにより僅かに弧が歪むユースの剣の軌道は、スプリガンの首へと届かない。肉を切らせて骨を断つスプリガンの勝負手は、魔物の目の前で騎士剣を振るったばかりで、隙の多い騎士を招き寄せた結果になる。
「英雄の双腕……!」
片足を軸にして、スプリガンが竜巻のような回し蹴りを放ってきた。正拳突きの一撃などとは数段違う、スプリガン最強の打撃技だ。丸太のような高密度筋肉の塊の脚、剛速を得たそれのスイングは、木の幹をもへし折りかねない一撃である。盾でその一撃を防ぐしかないユースは、詠唱を口にするほどの全力で魔力を注ぎ込み、スプリガンの回し蹴りをその盾と激突させる。
いくら自分の拳を止めたとは言っても、この一撃には流石に止められまい。そう無意識下で思っていたスプリガンの慢心を裏切り、衝突の瞬間に脚を叩き上げたユースの行動が、スプリガンの体勢を一気に崩した。そもそも英雄の双腕を習得する前から、ユースが得意としていたのは、盾で敵の攻撃を受け流す戦い方だ。魔法を使えなかったあの頃、盾で真っ向から敵の攻撃を正面衝突で受けきっていたのなんて、野盗の銃弾か小さな魔物の体当たりぐらいのものである。そして何よりスプリガンの攻撃は、盾に拳をぶつける時のルーネの攻撃に比べれば軽い。
回し蹴りを半ばにして叩き上げられたスプリガンが、肘で受け身を取って地面に倒れるのも当然だ。跳躍したユース、すぐさま目線でそれを追うスプリガン、倒れたスプリガンの顔面すれすれを駆け抜ける銃弾を放ち、敵の眼前光景に一瞬のノイズを生じさせるアルミナ。
一瞬の思考停止が致命傷だ。スプリガンの顔面めがけて落下するユースが、その額に騎士剣を勢いよく突き立てたのが直後のことである。頭蓋を貫き、中身を破壊し、その瞬間にスプリガンの巨体がびくりと大跳ねしたが、騎士剣を引き抜いたユースは、スプリガンの胸を蹴って離れる。魔物の額から噴き出す返り血も浴びない速さでだ。
ひくひくと全身を痙攣させるスプリガンだが、誰がどう見たって絶命済の存在。迫り来る魔物の群れと交戦中であったアイゼンも、中衛ないし後衛位置のルザニア達も、その勝利ははっきりと目にしていた。魔物達の指揮官を討ち果たしたその光景には、予断ならぬこの状況でさえなければ、歓声のひとつでも送りたいぐらいだ。
「いけるぞ……! みんな、あとひと踏ん張りだ!」
アルミナとのコミュニケーション以外、殆ど寡黙気味に戦ってきたユースが、ここにきて隊全体に向けての声を放った。そう、いける。敵将を討ち果たしたばかりの勇士が唱えるその言葉の説得力は、もはや戦神の預言に等しいと言っても過言ではない。結果に加えて頼もしき言葉を上乗せし、疲れが溜まり始めた友軍の士気を最高潮にまで持っていくその姿は、隊を率いる長として、実にさまになっているものだと言えよう。たとえユースが無自覚であったとしてもだ。
ユースが放った激励の言葉が、魔物達に立ち向かう戦士達の勢いを不動のものとした。そんな彼のそばで戦える安心感も、そいつの友人であることの誇らしさも、だからって負けてなんかいられないという意地も、アルミナにとっては全てが最高の発奮材料だ。
「今日のあんた本当頼もしいわ……! マジで負ける気しない!」
「俺にとってはアルミナが一番頼もしいよ……!」
普段どおりに背中を合わせて、前後に視野持つ二人の構え。顔も合わせず本音を交換する二人は、互いの目が互いに全幅の信頼を寄せていることを、信じてまったく疑っていなかった。
(次、左――合流――)
キャルをナビゲーションする魔導士ストロスの声に、キャルは真っ向から逆らって角を曲がらず直進。その先に友軍の中隊大隊がいて、ワーグリフォンをそこにおびき寄せろという相棒の言葉だが、聞き逃したふりをしたキャルは、合流への最後のチャンスを投げ捨てた。
そちらに向かえば先で待つのは、アルミナが援護している第26中隊だ。きっとユースもそこにいる。親友のもとへ、こんな怪物をおびき寄せることを認められないキャルは、ばくばく鳴る心臓を抑えて後方から追いかけてくるワーグリフォンから逃げ続ける。敵も速い。建物の間を駆け抜け、敵の目をくらまし、なんとか首都中央部のエクネイス城に立ち返らねばならない。そこまで行けば、この首都で最も強固な守備に合流できる。ワーグリフォンを迎え撃つならそこだ。
大通りをまっすぐに駆ける形になりかけた瞬間が、キャルにとって一番背筋が凍る。敵から見ても見通しがいいからだ。角を曲がって大通りを直進するこの形、馬は走りやすいことだろう。だが、後ろからその角を曲がったワーグリフォンは、握った槍先の水晶に魔力を集め、魔法を瞬時に展開する。
間に合え。後方からの凄まじい殺気を感じ取るとほぼ同時、目の前の曲がり角を右にクイックターン。直後後方で、吹雪のような凄まじい風が吹きぬけた轟音が聞こえ、背中をひんやりと冷やすこの心地は、恐らくワーグリフォンの絶大なる魔力による余波だろう。
(2つ先、左――次、すぐ右――)
キャルの位置を感知しながらガイドを下すストロスも、一部思い通りに動いてくれないキャルにはやきもきする。現場の咄嗟の判断もあるし、指示が間に合わなかった可能性もあると、気持ちを切り替える頭があるだけ、この相棒は思考が柔軟だ。同時に、首都東部への道を選びたがらないキャルの傾向も見て、そちらではない方向への道を考案するなど、活きた判断力を持った魔導士である。
脳裏に響く単語の数々に従い、ワーグリフォンから逃げ続けるキャル。広くない路地を大きな馬が駆ける光景は実に非日常、戦場の石畳にとっ散らかった瓦礫を避け、建物に肌をこすらせかけながら走る馬も苦しい。角を曲がる際には急な減速も必要で、消費体力も凄まじく、馬の息が上がってきている。馬を案じて首元をさするキャルだが、そんなことより自分のことを心配しろとばかりに、首を振る馬もまた粋な心を持っているものだ。
「……走り方に迷いがないと思ったら、そういうことか」
キャルを追うワーグリフォンの広い視野の端、上空に舞う魔導士達の中に紛れ、お前はさっきから何度も見たぞという人間がいる。追いかける射手の少女から、つかず離れずの上空を滑空し、そこから発信される魔力の流れもかすかに感知できる。あれが射手の相棒か、と予感するには、ワーグリフォンの勘にとって充分な要素が揃っている。
後方から、自分に執着した足音で追いかけてきていたワーグリフォン。その足音が僅かに変わった気がする。一瞬感じた違和感にキャルは疑問を抱きかけたが、同時に胸を刺す嫌な予感は、それがただの考えすぎだと思えないほど鮮明だった。まさかとは思ったが、次の瞬間に脳裏に響いた言葉が、キャルの心を一瞬で凍りつかせる。
(――その先を左、4つ先を右だ! あとは真っ直ぐ……)
今まで片言で指示を下していた相棒が、その必死さからくる精神力で絞り出したかのような、渾身の念話魔法。半ばにしてその言葉が途絶えた瞬間、近き空で爆音が聞こえたことには、声の主にただならぬことが起こったとしか思えない。
まるで撃ち落とされる直前、最後の言葉を必死で届けたかのような声が途切れてから、次の言葉は一切続いてこない。まさかという想いを軽薄な思念で包み込むキャル。魔物に襲撃を受けはしても、上手く逃げ延びてくれているだろうという、作りものの希望を胸に手綱を握り締める。短い間であったとはいえ、一蓮托生の相棒がこの世を去ることなど、思い浮かんでも現実として受け入れたくない。
まるで遺言のような言葉に従うまま、馬を駆けさせるキャル。角を左に曲がれば通りに出て、4つ先の角を右に曲がる。一時遠のいていたワーグリフォンの足音も、すぐに再び迫ってくる。口元が震えそうな想いと共に風を裂くキャルが駆け抜けるのは、朝方は商人達が忙しく駆け回っていたはずの、エクネイス中央区繁華街だ。
魔物達の気配は地上に無い。ストロスが最後に示してくれた道は、真っ直ぐにキャルの馬をエクネイス城への道へと手引いてくれる。馬に鞭を打たない性格のキャルは、駆ける馬の首元をその動きに合わせ、ぐいぐいと押すことで加速を促す。殺気に振り返った彼方、ワーグリフォンが街角から飛び出してこちらに向き直った姿が見え、押す手を緩めて手綱を握り直す。
真っ直ぐな広い道、ワーグリフォンの二つの眼が獲物に照準を定めて駆け抜ける。ある一点で強く地を蹴り、広げた翼で急加速を得るワーグリフォンは、馬より優れた超加速。遠かった魔物が急接近してくる気配は、キャルの心臓に鳥肌を立てさせる。ワーグリフォンの握る長い槍、それが恐らく馬に届くであろう距離間近くまで怪物が迫ってきた気配には、キャルも前傾の馬の首元に身を預け、祈るようにぎゅっと目をつぶった。
射手としてはあるまじきことだが、それで完全に前方から駆けてくる希望の光を、キャルの視界は捉えていなかった。キャルを乗せた馬の正面から凄まじい速度で駆けてきた人影は、馬とすれ違ったその瞬間、馬の尻を追うワーグリフォンへと差し迫る。その人間が持つ長い槍は的確にワーグリフォンの足を薙ぎ払いにかかったが、怪物は一瞬早く地を蹴って跳躍。騎士の槍を飛び越えたワーグリフォンは、開いた翼の飛翔力に身を任せ、キャルの進行方向とは逸れた方角へ飛んでいく。即座に振り返った槍持ちの騎士は、その空中から魔物がキャルを狙い撃たぬかと警戒し、すぐにその方向へユーターンしている。
低い民家の屋根を蹴り、二階建ての建物の屋上に乗ったワーグリフォンは、舌打ちひとつ残してそのまま去っていく。凄まじい速度で奇襲を仕掛けてきた騎士、鋭い眼光のクロムを一瞬で警戒したのだろう。交戦は得策ではないと察知したワーグリフォンは、キャルを見逃し飛び去った。あれだけきつく威嚇されたキャルが、すぐに戦線復帰とはいかないであろうし、殺さずともあの射手はしばらく無力化できている。
「……惜しかったっすね」
「なぁに、どの道引き上げ時だ。残された時間で、雑魚どもを少しでも片付けられればそれでいい」
背中に乗せた遣い魔に、そろそろどけと言い放つと、地上に飛び降り走りだすワーグリフォン。総大将アーヴェルも、じきに撤退命令を下すはずだ。各地で猛威を振るっていた魔物達の気配もなりをひそめ、そろそろこちらの駒が尽きてきているのは明白。この後、指揮官格の魔物がいくらか落ちれば、それがちょうど撤退を決め込むきっかけになるだろう。
踵を返し、首都東の激戦区へと駆けだすワーグリフォン。中央区で暴れている魔物達も、強固な人類の守りの前にはやがて全滅するだろう。ここまではよく率いてやった、もういい。あとは自分が一兵となり、好きな所で人間狩りを楽しむ時間である。
通りがけの道、ジャッカルの群れを討伐したばかりの若い兵士が3人。にやりと笑ったワーグリフォンがそれらに駆け寄り、身構える暇もなくその兵士達が、怪物の振るった槍の一振りで、一瞬にして同時に命を奪われたもすぐのこと。人の肉を潰した実感を槍から得たワーグリフォンは、首都東部の獲物を思い描き、悪辣な笑みを浮かべていた。
エクネイスにアーヴェルが導いた魔物達の中でも、恐らくマンティコアは最強の一体だろう。上空から降り注ぐ、人類側の魔法による砲撃に対しても、素早く小回りの利いた足取りで回避して見せる。地上の魔導士の一人が、マンティコアを真下から爆破する魔法を発動させても、一瞬早く前方へと跳躍して、エクネイスの兵士の頭を噛み砕く。マンティコアが飛び去った後の、何もない場所で大きな爆発が起こったのも、空しい不発に過ぎない。
くわえた人間を首振りざまに投げつけ、魔導士の一人へと激突させる。鎧に身を包んだ人間の死体というのは、その重みだけで砲弾にも勝る重量だ。マンティコアの規格外のパワーは、人体をとんでもない速度で投げつけ、ぶつけた相手の肉体をも破壊。さらには空中で自分を狙い撃とうとしていた魔導士と目が合った瞬間、その大口から太い怪光線を発射する。咄嗟に魔法障壁を張った魔導士の努力も空しく、怪光線は魔力による障壁を突き破り、魔導士の肉体を燃やして消し飛ばす。
その真っ最中でも、まるで頭とは独立した意識を持つかのように、蠍の尾のような尻尾は手近な場所にいた人間の首を串刺しにする。手近といっても、槍を持つその兵にとってはかなりの距離があったつもりだったのに。弧を巻いて尻のそばに纏まっていた姿では計りにくかったが、伸ばした尻尾の長さは大蛇の全長にも勝るものであり、その射程範囲は途轍もなく広い。喉を突き刺された兵は、そのまま尻尾を振るうマンティコアの動きになぞらえられるまま、大盾を構えて直進してくる人類の陣へと投げ出される。
巨大な魔物に対抗するための、大きな盾を構えた兵が数人突撃するその部隊に、人間砲弾が飛んできても大きな痛手にはならない。盾の数々による動く壁が猛進してくる様を見て、マンティコアはその陣へと真っ直ぐに駆け出している。口を開いて怪光線を放たれたとしても、ミスリル製の盾を構える勇士達は、力を合わせてその砲撃に抗う心積もりだ。
マンティコアの跳躍力は、直進してくる壁を飛び越え、人間の真上を通過していくその瞬間、尻尾の先で一人の人間を頭上から突き刺す。太い針は一瞬でその兵を絶命させ、跳び越えられた兵はすぐさまマンティコアの方を振り向くが、魔物は着地の直後には翼を広げ、次の一歩を踏み出した瞬間には、近場の二階建ての建物の屋上まで飛び乗っている。地に足を着けるとほぼ同時には、大盾を構える陣に顔を向けており、破壊光線による砲撃がすぐに発射されている。
決死の想いで盾に魔力を集め、怪光線を盾で防ぐ魔法を展開する兵士達。だが、怪光線の着弾場所は盾ではなく、兵達のわずか前方の地面だ。その光線は地面を爆発させ、爆風で以って人類を後方へと吹き飛ばす。その時、真横上空から自らへ火球を放つ空中の魔導士の攻撃を、大きな翼で弾き飛ばして防御まで為している。
地面に倒れた大盾を持つ部隊めがけ、上空から飛来するマンティコアの姿は、真正面からそれを見た兵士達にとってどれほど恐ろしいものだったか。それを当人達の口から聞ける機会も、二度と訪れない。右脚で兵士の一人の頭を踏み砕き、また一人は上半身まるまる噛み砕き、振るった石頭でもう一人の人間を額で殴り飛ばし、尻尾を振るって人間二人の喉下をばっさりと切りさばく。
少し遠くまで吹き飛んでいた人間にすら、口に含んだ人間の上半身をぶっと噴き出し、弾丸を発射するようにぶつけてとどめを刺す。マンティコアに抗うためにこの地に召集された部隊を、空中の魔導士を排除しながら片手間に、あっという間に掃伐した怪物に、周囲もどうすればいいのかわからない。接近戦は勝ち目なく、魔法による砲撃も効果が無い視野の広さ。さらには再び発射する怪光線により、空中の魔導士がまた一人消し炭にされ、さらに一人の戦士が尻尾の毒針に胴を貫かれて絶命させられるとおり、向こうは飛び道具にも豊富である。
かつて城砦都市レナリックでの激戦が行われたあの日、ラエルカンとレナリックの間に位置したイーロック山地は、城砦都市以上の死闘だったと聞く。その立役者の中に、合成生物マンティコアの存在もあったそうだが、怖いと噂に聞いた以上の暴れぶりに、エクネイスの兵も為す術がない。魔力による疎通で首都中心部から増援を呼んでいるが、これに対抗できるほどの手練が駆けつけてくれるまでどれぐらいかかるだろう。どこもかしこもぎりぎりの戦いを繰り広げているであろうに、突如こんな一騎当千の怪物に侵略された都市南東部部隊は、頼れる綱もなくこれを抑えるしかない。退がって味方と合流しようにも、首都中心部にこれを近づけることは絶対に得策ではない。
自分達だけの力で、これを抑える。不可能だ。空の魔導士達は空中の魔物達による襲撃を相手取ることに逃げ、地上の兵はたった一匹の怪物の前に立ちすくむ。立ち向かうべきだという戦士の使命と、すべてを投げ打って逃げ出したい葛藤に心を捕えられる中、また一人の兵がマンティコアの尾で心臓を串刺しにされてしまう。
その一撃を決定打に、残された僅かな地上の兵が逃げ出そうとした時のことだ。マンティコアに背を向けて逃げ出した若き兵士の前から、まるで矢のような速度で地を駆ける騎士が一人。それは弾丸が人の肌のそばをかすめていくような風を置き去りに、若きエクネイスの兵とすれ違って走り去る。つまりその騎士が向かう先は。
「おい! やめ……」
逃げ出そうとした兵だって、女騎士があの怪物に無謀にも立ち向かおうとした光景には、良心からくる想いに振り返らずにいられない。振り返った瞬間に男の眼に映ったのは、マンティコアに駆け迫る騎士と、その向こうで大口を開けるマンティコアの姿。その大口の奥が光を放った瞬間、兵士は思わず、終わったと直感した。特大の怪光線が、女騎士と自分を一列に葬り去るイメージが差したからだ。
だから、目の前で起こったことの意味がわからなかった。剣を振り下ろした騎士の背中の前、怪光線は二つに割れ、Yの字に分かれた二本の怪光線は、兵士の左右の建物に着弾して中爆発を起こす。建物の破片が肌をかすめながらも、目の前の光景に釘付けの兵士の前、マンティコアへと駆け抜ける騎士は、その鼻先に目がけて騎士剣を振るっている。
後方にバックステップして、人間の攻撃を回避する怪物の動き。数人がかりの人類の攻撃に、怯みすらしなかったマンティコアが、人間の攻撃に対して後退する姿など、今日初めての光景だ。大きく目の前の細身の騎士から距離を取り、頭を下げてうなり声をあげ、眼力をほとばしらせるマンティコア。自分より遥かに小さな存在であるはずの、人間を警戒しているのだ。対する騎士は剣を身の横に構え、重心を後ろに逃がすこともせず、勇然としてあの怪物を正面に構えている。
合成生物マンティコアの脅威に晒されたエクネイス南東部部隊、そこに現れた一縷の希望。法騎士シリカは一声もあげずして地を蹴ると、猛然と獅子頭の怪物へと差し迫った。




