第194話 ~エクネイス防衛戦③ 若き勇士の冒険譚~
騎士アイゼンは、はっきり言って近き年頃の騎士達の中では上位に食い込む実力者だ。上騎士への昇格が近くに見込まれているというのは、その実力に由来するものであるし、少数とはいえ周囲の兵を指揮する手腕も視野の広さを証明する要素。二十歳でそれだけ出来るという時点でもう、周囲からすれば未来の英雄が充分に期待できるというものだ。騎士ルザニアだって、創騎祭で同階級の男達8人から1本を取り続けたことからも、この年代において頭ひとつ飛び抜けた実力者であるのは周知の事実である。
普通こんな二人が若い騎士の集まりの中に混ざれば、ここを軸に戦うのが当然のことなのだ。その二人が中衛の少し前を走り、最前線を譲る相手とは何者なのか。そのまた後ろでジャッカルを仕留めたばかりの騎士バルトも、急造小隊の一番前を走る先輩の強さには、まるで法騎士カリウスのすぐ後ろで戦っているかのような安心感を覚えずにいられない。
「ユース、右はケアできるから左よろしく!」
真正面からグリズリーに立ち向かい、距離が詰まった瞬間に魔物の振るう剛腕を跳躍して回避。同時に振り上げたユースの騎士剣は、グリズリーの喉と顔面を縦真っ二つに切断する。彼にとっての師が、何度も魔物相手に繰り出した、回避と攻撃を兼ねた技の模倣が、今ここで完全再現されている。
空中で視界の右に入った空のヴァルチャーにも、ユースは一切目を配らない。一瞬後に、あれを後方のアルミナが撃ち抜いて落としてくれることは、間違いなく信頼できるからだ。
着地と同時、前方向かって左の方角に地を蹴ったユースには、火球を放ったばかりのヘルハウンドが構えている。獲物に火球が直撃したように思えたヘルハウンドだが、事実はユースが英雄の双腕の魔力を纏いし盾で火球をはじき返している。敵を焼いたと誤認した一瞬が命取り、矢のように駆けるユースは、地を蹴って横に逃れようとしたヘルハウンドを、逃さず騎士剣の一振りでばっさりと切り落とす。
上空から火球を放つブレイザーの一撃をも横っ飛びに回避したユースは、一度の跳躍では届かない高さにいる魔物からは一度目を切り、後方のアルミナに目配せした。目が合った瞬間にうなずいたアルミナは、ある一角でバルトに風の刃を放とうとしていたサイコウルフに発砲。突然銃口を向けられた殺気に反応、サイコウルフは後ろに跳ねて逃れるが、結果として攻撃は断念。しかも想定よりもずっと速く、距離を詰めてくる騎士がいるんだから落ち着かない。
ヘルハウンドの上位種だけあって頭もいいのか、逃げても無駄だと悟ったサイコウルフは真っ向からユースに飛びかかってくる。自身の速度、さらには敵も突然襲い掛かってくる瞬間というのは、距離感が狂いやすいものだ。だが、最善のタイミングで体を深く沈め、なおも減速しないユースは、自身の頭めがけて飛びかかってくるサイコウルフの体をくぐるようにして、同時に振り抜く刃でサイコウルフの胴体をかっさばく。腹を開きにされたサイコウルフが地面に横たわるのが直後のことであり、その瞬間にはアルミナが次のアクションを起こしている。
上空高くに舞うブレイザーに、素早く銃口を向けたアルミナの行動は、次の獲物を狙い撃とうとしていた魔物の隙を突く。距離のある単体の砲撃に対し、不意打ちとはいえ、ブレイザーが銃弾を爪先ではじくのは難しいことではない。それに意識を一瞬奪われたのがむしろ痛手であり、ブレイザーが視界の外に追いやってしまったユースが、跳躍ののちに壁を蹴り、はっと気がついたブレイザーには既にユースが近付いている。
一太刀にてブレイザーの首を刎ねたユース、その落下地点を目指して駆ける賢いグリズリーがいる。人間どもの中でも最も脅威的な者を見定め、自由の利かぬ上空から落下してくるその瞬間を仕留めるのを狙う姿は、まさしく利口な戦い方だと言えるだろう。ユースも盾に魔力を集め、その瞬間に応じる準備は整えてある。
そんな必要もないのは、アルミナがグリズリーの脳天を貫く銃弾を放ったからだ。その攻撃そのものは敏感なグリズリーによる回避に終わったが、ユースをその腕で撃墜する最善のタイミングを、グリズリーは失っている。着地の瞬間にグリズリーに迫る方向へ地を蹴ったユースは、振り下ろされるグリズリーの爪をさらに加速して身を沈め、その脇を駆け抜ける。同時に振るった騎士剣によって、グリズリーの片腕を切り落としながらだ。
「おっかしいなぁ、あんたそんなに積極的だったっけ?」
「どういう意味だよっ」
中衛に近い位置だったアルミナがユースのそばまで駆け寄って、空からユースに迫るコカトリスに一発の発砲。回避で横によれたコカトリスに対し、低く跳躍して接近したユースが首を落とすのがその後のこと。その瞬間には、後ろから飛びかかってきたジャッカルを、振り返り様に発砲したアルミナが眉間を撃ち抜いて撃退している。空と地上の魔物二匹をあっという間に無傷で片付けた二人が、息も切らさず、アルミナに至っては腰元の銃弾トリガーを流れるような動きで捕まえ、パシンと小気味良い音とともに銃に装填している始末。破竹の勢いで魔物を掃伐する姿もそうだが、なおも余裕を感じさせるその姿には、アイゼンやルザニアを含む後続も目を奪われそうだ。
仲間達と力を合わせることは、誰もが今日までに意識して努めてきたことだ。だが、目の前にいるユースとアルミナの連携は、もはや一人の人間が同一の神経で二つの体を操っているようにさえ感じられてならない。両者の動きは一切互いを阻害せず、しかも相手の動きをあらかじめ知っていたかのように、すべてが流麗だ。この集まりにおいて、二人の実力が頭ひとつ飛び抜けていることは誰もがわかっていたことだが、この二人が噛み合えばここまでの圧倒力を持つものだとまでは、誰も未然に予想できなかった。自分たちと同じ世代に、こんな奴らがいたこと自体、想像できても真実味が帯びなかったことである。
魔物5匹が集う群集地にも、風のように迷い無く直進していくユース。敵はサイコウルフ2匹、キングコブラ2匹、その後ろに大型のグリズリー1匹。普通はこちらも戦力を一度結集し、援護射撃も混ぜて敵を拡散させるものだ。ここに一人で突っ込んでいくという発想が、そもそも他の若い騎士達には無い。
サイコウルフが同時に飛ばした風の刃を、魔力纏いし盾を振るって両方はじき飛ばすユース。減速もしない。その彼を追い抜く銃弾は、一体のサイコウルフの脚を狙うものであり、それを見受けたサイコウルフも最小限の動きで回避する。ユースが狙うのはそちらである。少し仲間の魔物から距離が出来ただけでも大きい。
ユースの振り上げた一太刀を、そのサイコウルフは横に大きく跳躍してかわした。また距離が出来た。後方のアルミナが銃弾を放った相手はもう一体のサイコウルフ。脳天を狙われたそれは、回避と同時にユースに飛びかかる攻防一体の行動。ユースが同胞に切りかかった直後で、隙があるように見えたなら、それも一つの戦術だろう。アルミナはそれを誘っている。
振り返り様に、飛びかかるサイコウルフの顔面を横薙ぎに切り裂いたユースは、一歩横に逃れることで死体となるサイコウルフの肉体をかわし、同時に足元から自分へ飛びかかっていたキングコブラをも回避する。宙に舞うキングコブラの頭を、アルミナが続け様に放つ銃弾で撃ち抜いた光景に続き、ユースに飛びかかるもう一体のキングコブラは、ユースが首を切り落とすことで対処する。
その剣を振り抜き終わらないうちに襲い掛かった、グリズリーの大腕のスイングさえ、後方へのバックステップでユースは逃れきる。その瞬間に自らに襲い掛かった、残ったサイコウルフの放つ風の刃も盾ではじき飛ばしてだ。距離を詰めてユースを叩き潰そうと、その腕を振り下ろすグリズリーにも、ユースはその横をすれ違うように駆け抜ける動きと共に、脇腹から胴体をばっさりと切り開いていく。背骨まで達する深い傷は間違いなく致命傷であり、グリズリーの肉体は振り下ろした拳が地面に衝突した瞬間、反動で割れて地面に崩れ落ちてしまった。
あっという間に味方4つを葬られたサイコウルフのうろたえは、敵ながら後続の騎士達でさえ共感する想いだ。そんな惑いにも容赦なく、銃弾を放ったアルミナの一撃はサイコウルフの脳天を貫き、その迷える意識を冥界にまで吹き飛ばした。
一人一体の魔物を独力で仕留められれば、戦士としては充分なはたらきなのだ。功を急ごうとする若き戦士には、そうした教えがよく説かれるもので、アイゼンならびに彼が率いる騎士達も、今はそのはたらきを自分なりに果たし続けてきた。本当に、それで充分だと実感する。自分達が十も二十も魔物を討伐しなくたって、戦に勝てるというのが、この二人を前に戦えば痛感せずにはいられない。それは本来、上官や隊長の後ろで戦う中で学んでいくはずのことなのだが。
「ふふっ、調子いいじゃない。そのままの感じでよろしく!」
「アルミナがそう言ってくれるなら、そうするよ」
ユースがアルミナをよく知るのと同じで、アルミナだって自分のことをよく知ってくれていると、ユースも信頼している。だから彼女の言葉は迷いなく信じられるし、良しと言ってくれるならば自信にも繋がる。無心で戦い続けてきたユースの精神に横入りしたそれは、無我を断ち切るノイズではなく、さらなる士気をもたらす鼓舞となる。
それを口にしたアルミナも、今の言葉には強い自信があるのだ。今のユースに合わせるのは、日頃のユースを想定していると難しい。一ヶ月前と、全然動きが違うんだから。むしろ攻撃的で敵陣に切り込んでいく、シリカに合わせる心持ちでやった方が上手くいきそうだと思ったら、まさにそれがぴったりなのだ。まるでシリカと一緒に戦っているような心強さをアルミナも感じられているんだから、今のユースのあり方を強く肯定できようというもの。
二人いれば怖いものなしなんて、言葉だけのおまじないみたいなものだったのに。久しぶりに肩を並べる、第14小隊の仲間と戦場を駆けていく中、二人の心が嘘から出た真を感じずにはいられない。前に進むことがここまで怖くないのは初めてかもしれない。
「ユース、気を付けろ! その先にいる!」
エクネイス東部のここへ遅れて参じたユースよりも、ずっとここで戦い続けてきたアイゼンの方が、戦況を大きく理解している。前方の親友に危険を知らせるその叫び声が意味するのは、この周辺区画の魔物達を仕切る存在の示唆。本来ならば法騎士カリウスとともに徐々に進軍し、魔物達の佐官格にまで迫る予定だったところを、ユースの参戦で進軍が早まったことに、アイゼンは強い危惧を抱いていた。
市街地の隅に立つ、大人よりも頭ふたつぶんほど高い巨人の魔物は、ぼさぼさの髪と灰色の全身が特徴の怪物だ。裸体に腰布を巻いただけの姿、と言えば人間的な外観と聞こえるが、でこぼこしたほどに異常発達した筋肉は、やはり人外のそれそのもの。皮膚の下に煉瓦でも埋まっているのではないかというようないびつな筋肉は、巨人族の魔物トロルの上位種であるこの存在、スプリガンに共通した外観だ。
百獣軍の魔物達を率いるボスの一角として、獄獣軍から借り出されたこの魔物こそ、エクネイス東部の魔物達を指揮する魔物の一体。そう確信して間違いないほどには、この魔物の実力は名高いものである。アイゼンも、こんな魔物達の前に自分を、それ以上に後輩達を晒す結果になってしまったことには、許されない過ちを踏んだのではないかという心地に襲われる。
「アルミナ」
「問題なし! 全っ然負ける気がしないわね!」
最前列で剣を構えるユースの肩をパシンと叩いた後、流れるままにいつでも銃を構えられるような握りを形にするアルミナ。銃弾の装填は必要ない。ここまで駆けてくる中で、そんなことはとっくに済ませている。そして、スプリガンなんかよりもずっと恐ろしい魔物達と何度も対峙してきた二人にとって、この状況は後続の戦士達が思うほど、どうにもならない状況ではない。
自分に刃を向ける不届きな人間に対する、スプリガンの敵愾心は凄まじい。突然上空を仰ぎ、空気がびりびりと震えるような雄叫びを口にするスプリガン。その咆哮は周囲の空を舞っていた魔物達を呼び寄せ、あっという間にスプリガン周囲の領空に魔物達が集まってくる。
大地を揺らす魔法を得意とするスプリガンが本領を発揮するのは、数多くの魔物達と手を結んだ時にこそ。だから指揮官を任せられ、魔物を率いる立場を担っている。空だけでなく、スプリガンの周囲で指揮官の近衛として置かれていた地上の魔物達も集結し、あっという間に20か30を超える魔物の群れがユース達の前に現れる。
「行くぞ、アルミナ!」
「任せなさい!」
「っ……みんな、続け! 俺達にだってやれるって所、見せてやれ!」
ユースやアルミナがいなければ、迷わず一時撤退を踏むべき局面。アイゼンは賭けに出た。カリウスがここにいたならば突き進んでいたであろう電撃作戦を、ユースとアルミナを軸に強行する。迷いかけていた若き後続の騎士や傭兵達も、アイゼンの言葉に己を奮い立たせ、武器を構えた。今日まで培ってきた力を信じられなくて、この戦場に踏み入れた者など一人もいないのだ。心の不安を打ち消してくれる、最前列を走る第14小隊二人の存在が、その自負を後押ししてくれる。
スプリガンの率いる魔物の軍勢が、一斉にユースを先頭とした急造小隊に襲い掛かる。年若き戦士達の多くにとって、ここがこれまでの人生における最大の正念場と言えるだろう。そして、こんな死地の数々を過去にいくつも乗り越えてきた二人は、彼らを導くかのように先陣を切って駆け出した。
「きーっ! 風神の掌!!」
とうとう魔力の消費を厭わず、大魔法を発動させるアーヴェル。かの掌を中心に、巨大な団扇のような大気の塊が発生し、アーヴェルが手を振るう動きに従って、大気の塊は超風速の風の壁となって敵に襲い掛かる。
狙い済まされたベルセリウスも、この瞬間には騎士剣に満たした魔力を全開にして、真横から襲い掛かる風に向けて一閃の斬撃を放つ。切っ先に触れた瞬間から、ベルセリウスを圧倒的パワーで吹き飛ばすはずだった風は裂かれ、その割れ目の間隙をくぐるように勇騎士は無傷のまま。だが、風神の掌を発動させた直後にも関わらず、ベルセリウス目がけて風の刃を追撃放射するアーヴェルの動きは油断ならない。それらも魔力纏いしベルセリウスの騎士剣が打ち払うが、大魔法を切り抜けて一安心、という暇もない百獣皇の周到さだ。
それによってベルセリウスの動きを一瞬止め、距離を作ろうとするアーヴェル。宙を踏む魔力を全回転させて空を駆けるベルセリウス。ちょっとした大魔法では仕留められない相手だとわかってはいるアーヴェルも、じゃあどうするのかという答え無き状況にはいらついている。それこそ、むしゃくしゃして魔力の消費が激しい魔法を撃ってしまうほどだ。もっとも、人間の大魔導士には発動させることも難しい大魔法を、テンションひとつで放ってしまえるアーヴェルも大概だが。
アーヴェルが焦っているのにも理由があるのだ。ベルセリウスに足止めされて、配下の援護に回れないのは確かに痛い。だが、アーヴェルの敏感なセンサーは、少し前にエクネイスの領空に踏み入れた厄介者の存在を察知している。ベルセリウスは気付いていないようだが、あれがここまで辿り着いたら、自分はベルセリウスに加えてそいつと戦わなくてはならない。やばい。
一秒でも早くベルセリウスを追い払い、敵の少ない状況を作りたかったアーヴェルの現在地は、もはや他の人類も魔物達も届かない、建物数十階相当の超高空地点。ついてくるベルセリウスも化け物じみていると感じているが、この場所に近付いてくる怪物の気配は、目の前の脅威を遥かに超えて危ない。
「――捕捉」
「出た……!」
アーヴェルの全身の毛が逆立ったのは、大気に混じった魔力のうねりが、突如ひとつの流れを確立させて自分に向かい始めたからだ。不規則に飛び回るはずの自分に対し、どう動いても魔力の流れがこちらに向かってくるこの魔法、思い当たる使い手など一人しかいない。
「雲散霧……いや、無理……!」
「白銀毒牙」
「螺旋溶炉……!」
アーヴェルに接近しようとしていたベルセリウスの脚も鈍る、百獣皇の全身を包むような炎の渦が発生する。そして遥か遠き空から、まるで白金の蛇を思わせる何かが勢いよくアーヴェルに向けて伸び、アーヴェルの全身を包囲する炎の渦に、長い全身を突入させた。
火克金、火術は金術を打ち消して破壊する属性だ。どこに逃げても術者の魔法からは逃れられぬと即座に悟り、敵の放つ魔法の色に応じて防御魔法を展開したアーヴェルは、やはり魔導士として圧巻だ。敵の放つ金属蛇のような魔法を、アーヴェルの炎の渦が勢いを増し、止まらず突っ込んでくる白銀の蛇を逆に吸い込んで取り込むかのように、頭から消し飛ばしていく。さらにはその蛇が尻尾まで完全に飲み込まれたその瞬間、アーヴェルを包み込む炎の渦は爆裂し、周囲一帯に火炎の風を発生させるのだ。
攻防一体、アーヴェルにとっては当たり前の効率戦術。炎の風を騎士剣にて切り裂くベルセリウスの対応力は見事だが、炎の渦の中から姿を見せたアーヴェルは、ベルセリウスの方に顔を向けていない。勿論意識はベルセリウスから切っていないが、それよりも警戒しなければならない相手がいるからだ。
そして来た。鷹の目を持つアーヴェルでなくても、その小さな影の正体をその目で確かめられるような近くの空まで辿り着いたその者は、腰掛けた箒をアーヴェルの近く前でゆっくりと止めた。
「ハロー、アーヴェル」
「最悪ニャ……!」
「えっ、お師匠様!?」
紫色のローブに身を包んだ、幼い少女のような姿をした賢者の登場に一番驚いたのは、アーヴェルでなくベルセリウスだ。魔法都市ダニームの絶対的守護者として居座り続けているはずの彼女が、まさかこの日この場所に訪れたことも予想外だったし、何よりこちらから会いに行くわけでもないのに再会したこと自体が驚愕である。それぐらい、自分から挨拶しに行く以外の形で、長い顔を合わせたことがなかった。
「ご苦労様、ベル。アーヴェルは私が抑えておくわ。あなたは地上に向かうといい」
膝の上に肩肘ついて、頬杖の傾けた口からエルアーティがそう言い放つ。アーヴェルが個人的に恐れていた、エルアーティとベルセリウスが手を結び、百獣皇アーヴェルを討つという形は取らないつもりのようだ。かつての師の提言に、そもそも突然の再会で頭が纏まりきっていないベルセリウスだが、歴戦の戦士はすぐに冷静な知恵を巡らせ、それこそが最善の道であると知り至る。
「……お任せします!」
空を蹴る魔法を操作し、今蹴った上空点より僅か下に落ちて空を蹴る、その繰り返す。段差の高い階段を降りていくように、ベルセリウスは地上へと向かっていく。ベルセリウスという脅威が去ったことは、アーヴェルの生存欲にとっては願ったり叶ったりだが、軍師脳において言えばそれもまたまずいこと。
元より攻撃性には秀でないエルアーティが、ベルセリウスと手を結んだところで、百獣皇アーヴェルは容易に攻め落とせない。生存欲を最優先とするその魂にまで刻まれた精神力は、自身の防衛のためにこそ無尽蔵の魔力を発揮するからだ。本当に追い詰められた時にしか見せない、アーヴェルの無数の奥の手の存在を、エルアーティは見ずして既に悟っている。討てもしないのにこんな奴へ人手を裂くぐらいなら、ベルセリウスを地上の友軍を支える役目に押し出した方がいい。
「てめーが遊んでていいのかニャ? 気付いてんだろ、某が持ち込んだ切り札のことにも」
「あの化け猫のこと? 確かにあれは、あなたの傑作の中でも出来が良さそうだけど」
両者の疎通は成立している。アーヴェルが自信を以ってこの戦場に導いた怪物と、エルアーティが脳裏に描く魔物は一致しているのだ。そしてエルアーティも、アーヴェルの自信作とされる魔物がどれほどの力を持つものであるのかを、決して甘く見てなどいない。
それでも妖しく笑うエルアーティの態度は、アーヴェルにとっては見慣れたもの。こういう顔をする時は、相手の思惑と自分の思惑を戦わせることを楽しんでいる時だ。今で言うならそう、その怪物が人類の多くを滅却することを狙うアーヴェルと、ただ単にそれは叶うまいとするエルアーティの、思惑の対立。
「創造主の思惑と異なるはたらきを見せるのもまた、我が子というものよ」
「ふん、妥協点ならとうに心得てるニャ」
エルアーティを中心に、彼女の魔力が溢れ出る。それは賢者を中心に、蜘蛛の巣のように広がり、アーヴェルが位置するその場所を含み、高空域広くに渡って高く広く展開されていく。能書きはここまで、さあ楽しみましょうというエルアーティの微笑みは、ふぅとアーヴェルに精神を落ち着かせるひと息を促す。
戦ったところで討ち果たすことは叶えられないであろう、鉄壁の賢者エルアーティ。交戦することはリスクしか生まず、アーヴェルにとっては望まぬ展開である。それを避けられぬ図式となってしまった時、歴戦の魔導士は精神模様を切り替えるのだ。どのみち捨て置けば、配下の魔物達にとって最大の脅威となるであろうエルアーティを、この場に拘束できるのは自分しかいないのだから、その役目は己で担うしかないと。
腹を括った魔物の大将格がどれほど凄まじい実力を発揮するのかは、過去の経験則からエルアーティもよく知っている。いかに自分に自信があろうとも、アーヴェルの全身から滲み出る、日の光も飲み込むような濃い魔力を前にして侮るほど、エルアーティも天狗ではない。
「……来いよ。遊んでやる」
「ふふ、付き合いがいいのね」
玩具を買って貰えた子供のように嬉しそうな声とともに、エルアーティが箒で空を駆け始める。翼をはためかせ、風に乗って舞う百獣皇。人類と魔物、両陣営における魔法のエキスパート同士の一戦が、誰も手の届かぬ高空にて始まった。
エクネイス南東部、そこは南から押し寄せる魔物達の数が最も多い場所だ。南部の関所も同様ではあるが、魔物達の進軍ルートとして厚く編隊されたのはここも同じである。関所などとうに破られ、城門過ぎた市街地での抗戦にて、押し寄せる魔物達を必死で食い止める激戦区だ。
エクネイスの兵達だけでは流石にどうにもならぬような魔物の猛攻も、エレム王国騎士団の増援もあってなんとか押し留められている。だが、やはり苦しい。長時間に渡る戦いで敵の勢いにも衰えが出てきたか、戦場展開速度はやや鈍ってきたものの、疲弊と相まって人類側も勢いが止まりそうだ。全身に鞭打って、前進を諦めない人類と魔物達の根競べである。
「――隊長!」
ふと、そんな戦場で戦っていた一人の士官の耳に、遠方から念話魔法で声を届ける魔導士の叫びが届く。その声色は見るからに焦燥感に溢れ、この陣を支える連隊の隊長であるエクネイスの士官の意識もそれに奪われそうになる。
「マンティコアです! 南東か――」
言葉半ばにして途切れたその言葉が告げる凶兆は、無数の兵を率いるエクネイスの士官の背筋を凍らせた。上空から自らに向けて火を放つワイバーンの炎を、素早く駆けて攻撃範囲外まで逃れつつ、待ち構えていたグリズリーの首を薙刀で切り落とす士官だが、彼の思考は既に次の行動に向けての指令を組み立てている。
「遊撃部隊をただちに呼べ! 支援が必要だ! マンティコアが来る!」
周囲に渡り響いたその言葉が、どれほど人類の心に恐怖を落とし込んだだろう。戦慄の想いと共に、彼の声を耳にした魔導士の多くが、念話魔法を友軍に広く響かせ、近く迫ると言われる脅威に対して陣を作ろうとする。一刻も早く対策を形にせねば、どれほどの被害を被るかわからない。
だが、時すでに遅し。とある魔導士が強烈な殺意に振り向いたその時、遥か遠方で何かが光ったかと思った瞬間には、その魔導士は死の運命を迎えている。怪光線のように延びた巨大な光の一筋が、その魔導士を呑み込んで全身を焼き尽くし、さらに地表近くを走る光線は建物の壁に直撃し、大爆発を起こすのだ。
怪光線の着弾地点となった3階建ての建物が、根元を大きく失って倒壊する光景など、巻き込まれかねない位置取りの者以外、誰も目に留めない。怪光線の発射地点にいるはずであろう、あまりに有名な怪物に対し、誰もが意識を逸らすことなど出来ないのだ。
石畳を揺らすのではないかという大きな足音は、その巨体を示唆するもの。名ばかり有名になり、その姿を目にした者は殆どいなかった戦士達の前に、それが現れたのもすぐのことだ。なぜならこの魔物と対峙した多くの者は、その日のうちに命日を迎えてしまうからである。
獅子の頭と肉体を持つその姿に加え、背中に生えた巨大なコウモリの羽のようなものは、ただでさえ巨馬を思わせるような大きな体躯を、さらに大きく見せてくる威圧感。そしてその尾は、大蛇のように長く太く、先端に毒針を持つ蠍の尻尾を思わせるという、全体像で見れば異質にまみれた存在だ。マンティコアと呼ばれるその魔物が尻尾を振るたび、先端の毒針に付着した血が飛び散る。ここに至るまでに、その毒針で何人の兵を仕留めてきたのだろうか。
そんなことを意識する暇を誰もが得られないのは、ぐばっと口を開けたマンティコアの行動が、次の災厄を示唆するものだからだ。凶悪な咆哮とともに、大口から怪光線を発射したマンティコアの砲撃は、近く並んだ人間二人を遠距離から呑み込んで焼き尽くすと、その先にある建物に着弾して大爆発を起こす。あまりの光景に度肝を抜かれた兵の一人が、それに意識を奪われていると、単体の生き物のように躍動するマンティコアの尾が、その兵の首を横から串刺しにする。
口から煙を漏らし、血塗られた牙を口の中に収めたマンティコアは、尻尾の先に串刺しにした人間を乱暴に放り捨てる。百獣皇アーヴェルが創造した怪物の推参は、エクネイス南東部の防衛戦であった戦士達の心に、恐怖の波をもたらした。




