第188話 ~勇者の芽生え② 減速させない~
今朝からエルアーティに与えられる仕事をひととおり片付け、昼前を迎えたこの日のユースは、この後に控える特別な用事のため、エルアーティから解放されていた。ユースが向かった先はダニームの港であり、ここはエレム王都から海路を経て魔法都市に訪れる人々が、必ず通る道である。
正午より数分前、定刻どおりに港に到着した船から、ユースもよく見知った友人が降りてくる。第14小隊は謹慎状態であり、現在も行動制限を課されて王都からの外出は認められていないが、裏で色々動いた賢者様約一名の画策もあり、一人この魔法都市ダニームに訪れることを許された者がいる。
「チータ、久しぶり」
「ん、久しぶり」
エルアーティが召使いとしてユースを招いたのと同じく、彼女がチータをしばらく助手として雇いたいと言い出したのが、表向きに説明される事情らしい。第14小隊の謹慎を重んじる聖騎士ナトーム辺りは、非常に難色を示したそうだが、色々条件をつけてこれも押し通したらしい。数日前に約束した、やがて訪れるラエルカン奪還戦争の際に、エルアーティが出撃するという約定も、そこそこ効き目が残っているのかもしれない。それだけ大きな助力には違いないようなので。
流石にエルアーティもいくらか自粛したのか、チータを魔法都市ダニームにて助手として招く期間は1週間だけとしている。それでもチータにとっては、賢者様と接する時間が1週間もあるということに、いくらか楽しみを感じているようだ。魔法とは術者の精神の在り方に依存する、つまりは術者の経験や知識によっていくらでも様変わりするということだ。エルアーティと語らう経験というのは、経験と知識を欲する魔導士にとって、それだけで魅力的な響きである。
「エルアーティ様、チータが思ってるほどまともな人じゃないぞ……」
「知ってるよ、あの人いじめっ子側の人だろ。お前が毎日おもちゃにされてることも予想ついてる」
アカデミーへと向かう巡り馬車の中の世間話だが、まるで見てきたばかりのように本質を突いてユースを困らせるチータ。久しぶりに会った友人だが、相変わらず変なところに目ざとい。特にユースの弱い所を口撃することは妙に得意である。
「……チータも気を付けた方がいいんじゃないかな」
「まあいくつか貢ぎ物を献上しておけば、機嫌を悪くはされないと思ってる」
「貢ぎ物って?」
「たとえば、ユースが何を言われたら嫌がるのか教えるとか」
「おい」
「昔ユースが大恥かいた時の話を教えるとか」
「おい」
「アルミナから聞いた、ユースの秘密をバラすとか」
「おい。……んっ、アルミナ?」
自らの保身のためなら友を売ることも厭わないチータにはユースもこつこつ二の腕を殴って抗議する。やめろよ、と、すすっとユースから離れるチータだが、最後のそれは何でしょうか。
「アルミナうんぬんは冗談だよ」
果たして本当だろうか。まったくもって信じられない悪友である。
実はこの日から、ルーネの元に預かられているガンマと、ようやく面会を認められるのだ。魔法都市ダニームに来て以来、ユースもガンマに会えればとずっと思っていたのだが、彼の身を預かるルーネが面会謝絶を頑なに通し、誰もガンマと顔を合わせることが出来なかった。無論、ガンマの育ての親であるヴィルヘイムすらである。
魔物ヒルギガース達の最上位種にあたる怪物、エルダーゴアの血を引くガンマは、小さな体で超人的なパワーと身体能力を発揮する力を持っている。だが、その弊害として我が身に流れる血が、ガンマ自身の感情の昂ぶりにより、暴走してしまう危険性を常に孕んでいた。魔物の特徴に、殺意を露にした時に眼が赤くなるというものがあるが、魔物の血はそうした身体的な変化にも表れる。人としての体を持つガンマは強い感情によって魔物の血が騒ぎ、身体に悪影響を及ぼす結果を招き、城砦都市レナリックではついに命が危機に瀕するほど、体をその血に裏切られていた。
ガンマを誕生させたルーネも、その日以来20年近くの歳月で、ガンマの内なる血を彼自身の肉体に悪しき影響を及ぼさぬようにする技術を、ほぼ完成させていた。その技術の施行に必要なものの多くも揃え、最も入手が困難であった聖樹ユグドラシルの朝露もシリカ達から受け取ったルーネは、預かったガンマへこの機に技術を施行した。約一週間に渡る大掛かりな手術の末、それも上手くいったらしく、今ではガンマも目を覚まし、ルーネの部屋で安静にしているようだ。
実は手術が終わって数日経った後も、3日間ほど面会謝絶期間を長く設けていたのだが、それは室内に残っていた、ガンマの体を手術するための"渦巻く血潮"に関するあれこれを片付けるためだったりもする。ともかくルーネは、渦巻く血潮の真髄に対する秘匿意識は並々ならず、今では自室もすっきり片付いた形になっている模様。まあ、その辺りは誰にもわざわざ説明されていない事情だが。
ともかくユースとチータが向かう先は、アカデミー内のルーネの自室。ドアをノックすると、やや遠くから声が聞こえるかのように、はーいと声がする。扉が開く前、目の前の扉の向こうで、もう一枚の扉を開く音ががちゃりと立つ。ルーネの部屋の入り口は、内側から数えて、内開きの扉と外開きの扉の2枚で構成されているのだ。有事の際、内扉を開けて、出て閉めてから、外扉を開けて客人に対応し、部屋の中を一切相手に見せないようにする構造である。
「あ、ユース君、こんにちは。チータ君はお久しぶりですね」
「こんにちは、ルーネ様」
「ご無沙汰して……」
「――あ、ユース!! チータ!!」
チータのルーネに対するご挨拶にかぶせるかのように、部屋の奥から響く声。その声に遅れて、ぱたぱたこちらに駆け寄ってくるのは、ずっとユースも会いたいと思っていた親友だ。
「ガンマ……!」
「元気になったぞー!! ルーネ先生のおかげ!!」
両腕を伸ばして小さな体を大きくし、今の体調良しを体いっぱいで見せてくるガンマ。約2週間ぶりの親友との再会は、毎日顔を合わせていたはずのユースにとって、まるでもっと長く会えずにいたかのような懐かしさを感じさせるものだ。
チータが柄にもなく嬉しそうだったのは、彼はユースと違って、ガンマが倒れた姿もその目で見てしまっていたからだろう。二度と会えなくなる予感さえしたあの日を経て、約2週間ぶりの再会というのは、それだけ感慨深かったのだ。
3日前に手術が完全に終わったばかりだそうだが、見た目にはガンマもすっかり元気になったように見える。ベッドに腰掛け、久しぶりの友人達との再会に、短い足を嬉しそうにぶらぶらしている。
久しぶりの友人3人揃っての語らいの場ということで、ルーネは席をはずしてここにはもういない。絶対安静なので、ガンマが部屋から出ることだけはしないようにと釘を刺されたが、言いつけはそれだけ。ガンマ本人にも、室内とはいえあまり体を動かさないように、とはあらかじめ伝えられてある。
「体の方はどうなんだ?」
元気になったと自己申告あっても、あくまで最悪を免れただけの手術後の体。首から上と手以外は、全身包帯ぐるぐる巻きのガンマは、健康体とはほど遠いものだ。服の下は見えないが、恐らくそちらも同じ様相なのだろう。
「んー、やっぱ傷塞がってないから色んなとこ痛いよ。さっきも腕伸ばした時、ビリッときた」
「じっとしてろよ」
「えー、だって久々に会ったらさぁ」
手厳しい突っ込みを入れるユースとごねるガンマの口が鋭いのは表面上だけだ。懐かしい再会に二人の表情も声も柔らかく、全部刺のない冗談混じりのものであると、傍から見ていてもすぐわかる。あまり顔色を表に出さないチータは、この二人のように振る舞うのが不得意だから、おとなしく見守っている。
ガンマは自分の容態をルーネに説明されているが、そのガンマいわくルーネの手術というのは、ガンマの体を結構な箇所、切り開いたものであったそうだ。包帯の下は全身傷だらけ、縫合によって閉じられた跡ばかりであり、包帯に包まれた腕に、指先で何本も線を引いてみせるガンマ。その線の数だけ縫い傷があるというのであれば、腕だけでもどれだけ切開されたのだろうという答えだ。
「包帯取って見せてみようか?」
「いいよ、なんかきつそう……」
「僕は興味深いけどな、ルーネ様の手術の腕とか」
チータの言葉でガンマが包帯を取ろうとしたので、ユースは慌ててその手を止める。友人の体だからというのに限らず、縫い傷だらけの肌はやはり見たくない。刺激が強すぎる予感がする。
「傷、塞がるのか? 縫い傷ってのは、跡が残りやすいものだが」
「ルーネ先生は、数週間もすれば抜糸して、あとはほっといたら跡もなく傷も塞がるって言ってたよ」
包帯の下は全身縫い傷だらけ、おそらくつぎはぎにさえ見えるほどの状態のガンマであるはずだが、ルーネいわくはそういうことらしい。縫い傷というのは普通は跡を残すものであるが、治癒魔法あるいはガンマ自身の魔物級の治癒能力でそれを回避するということだろうか。いずれにせよ、その辺りの普通の現実を知るチータにとって、正直想像力の外を行く話である。
「じっとしてるなら傷が塞がる、っていうのなら、おとなしくしていた方がいいだろうな」
「俺正直、ちょっとぐらい体動かしたいんだけどなぁ……」
「傷の残る体じゃ大人になってから困るぞ。人前に肌を晒す機会もいつかは訪れるんだから」
「なんだよー、俺だってもう子供って年じゃないぞ」
まるで兄のようにガンマを諌めるチータと、見た目子供らしさゆえにそう言われやすくむくれるガンマ。ユースとガンマの関係は横並びだが、ガンマとチータの関係性はまた違う。思慮に富むチータが、細かいところでガンマを後ろから気遣うことも、出会って1年日常生活の中でも多かった。これはこれで、ユースやシリカも知らない所で二人が関係を作ってきた証だ。
「でもしんどいぞー、体動かせないってのは。自分で風呂に入ることも出来ないんだからさ」
言われてみれば、とユースもチータも顔を合わせた。全身縫い傷だらけなら、湯浴みも当然できようはずがない。それを認識した上で、二人が顔を合わせて疑問に感じたのは、ガンマの体臭がきつくないからだ。手術期間、その後3日間もお風呂禁止で安静にしてれば、それなりにこう、そうなるもんじゃないのかと。ガンマは髪も長いから、長い間洗っていなければべとべとになるはずだが、そんなふうでもない。
「風呂入ってないって言う割には、結構綺麗な体してないか?」
「まあルーネ先生が洗ってくれるんだけどさ。この年に体洗ってもらうの恥ずかしいし、やだよ」
「……んえ? 洗って貰ってる?」
「えー、説明しなきゃダメ? ルーネ先生とアカデミーの浴場に行ってさぁ……」
釈然としない顔でむくれて話してくれるガンマだが、想像の遥か外を行く実状にユースは目が点である。前々からお優しい賢者様だとは思っていたけど、どこまでご奉仕豊かなのだと。
「え、それはその……全部?」
「全部って、何が?」
「いや、あの……全部は全部だろ……」
「体全部ってこと? そりゃ全部だけど」
何を知りたいのと首をかしげるガンマの一方、聞いた自分の方が恥ずかしくなって硬直し始めるユース。チータも今のルーネとガンマの浴室事情には少なからず驚きもしたが、それ以上にユースのリアクションが面白くて、溢れそうな笑いを堪えている。自爆してどうする、と。
まあここ最近、エルアーティに剥かれて体を玩具にされた経験も多かったユースにとっては、他人事のように思えなかったのだろうという部分もある。あれはこう、男として何か大事なものを持っていかれた気がするし、いい思い出ではない。ルーネはエルアーティと違って善意のみでやってくれているだろうけど、幼い見た目の賢者様に裸体を晒す想いは推して知れてしまう。
「大変なんだな、ガンマも……」
その発言に、目ざといチータが思わず首を回してユースを凝視する。視線を感じたユースは、自分の失言に気付きもしていない顔でチータを振り向くが、チータの目がなんだか冷たい。
「ユース、お前……」
「……なんだよ?」
「ガンマ"も"、って……いや、まあ、深くは聞かない方がいいのかな……」
核心を突く一言に、ユースが全身から汗を噴き出させて顔面蒼白になる。その反応込みで、元々ユースを妖しい目で見ていたエルアーティのことも知っていたチータの想像力が、ここ数日間でユースが賢者様にどんな目に遭わされてきたのか、だいたい結論をつけてしまった。
「い、いや、違う違う違う! 今のは言葉のあやってやつで……」
「いいよ、もう。誰にも言わないようにするから」
「なんて目で見るんだよお前ぇっ! 誤解だってば!」
何かを隠そうとして墓穴を掘っているユースがあまりに気の毒になり、チータはふいっと目を切ってしまう。汗だくだくのユースが慌てて色々弁解するが、特に聞いてもらえる気配もなく、特にその辺りの事情に鈍いガンマはきょとんとして首をかしげている。
「そういえばユース、エルアーティさまのところで召使いしてるんだったっけ」
「んっ、え……ま、まあ今はそんな感じで……」
「エルアーティさまが言ってたけど、ユースって太ももの裏くすぐられると弱いんだって? なんでそんな事あの人が知ってんの?」
絶句。あの賢者様、ユースより一足先にガンマと顔を合わせて色々吹き込んでいらっしゃった。思わぬ角度から恥辱の爆撃を落とされたユースは、頭から煙を噴き出して言葉を失ってしまった。
「ガンマ、ガンマ、その話はやめてやろう。ユースも色々大変なんだよ」
「ふーん?」
「いや、あの、チータ……その……」
「もう黙ってろって。その方がいいって、絶対」
普段ちょっと意地悪めに接してくるチータのはずが、ここにきて本気で気遣った言葉と顔で窘めてくる。えも言われぬ気分でユースはすっかり小さくなってしまい、全容の見えないガンマだけが頭の上に疑問符を浮かべ続けていた。
「みんな今どうしてる? マグニスさんとか、お金大丈夫?」
「今ちょっと金欠気味。金運にそっぽ向かれたんだってさ」
話は移って、ガンマならびにユースも気になる、王都にての第14小隊の現在についてである。マグニスが金欠なのには、謹慎期間中で行動制限がかかっていることと収入のカットが最たる引き金であるが、その根本はガンマを助けるために、第14小隊が大森林アルボルに向かったことにある。それをこの場で言うとガンマが気に病むかもしれないので、チータも謹慎うんぬんについてはあまり触れない。
「マグニスさんがお金に困ったら、貸す相手はだいたいガンマか俺だったもんなぁ」
「ガンマ金融が恋しいってさ」
「ん~、帰っても前の借金返してくれないと、次は貸さないつもりでいるけど」
金に困ったマグニスがたかる相手はだいたい後輩なのだ。シリカは遊び金などそう簡単に貸してくれないし、クロムは取立てや利息がきつい、アルミナは拒否口、キャルに迫るとアルミナが壁になる。チータもマグニスとは関係良好だが、チータに貸しを作ることが不利を招くこともマグニスは知っている。
となると、人の良いユースやガンマに金を借りにくるのがマグニスの選択肢として残るのだ。ただ、返済延期の繰り返し過ぎで、こちらからもやや訝しげな目で見られるようになってしまっているのが実状。困った親しい相手に余った金を貸すぐらい、なんとも思わないようなこの二人にまで見限られ気味という時点で、いかに日頃からちゃらんぽらんな振る舞いを重ねてきたのかがよくわかる。
「兄貴は?」
「クロムさんは……まあ、クロムさんだな。うん」
一番の敬愛の対象であるクロムの今に、ガンマは興味津々の顔で問いかけるが、チータは今ひとつ的確な答えを出せなかった。いつもどおり過ぎて。一服して、ちょっと家事して、遊びに行って、いい時間に帰ってきて酒を飲む、それだけ。まあそんな報告でも、ガンマは嬉しそうに聞いてくれたからよし。
「キャルどうしてる?」
「まあ普通だよ。普通に戻った」
ユースが個人的に一番心配だったのはキャル。アルボルで色々あったし、自分の落ち度は気にする子だ。負い目から塞ぎ込んではいないかと思っていたが、もう今ではそんなこともないらしい。これまでと特に変わらず、アルミナと仲良くやっているらしい。いくつかチータが具体的なエピソードも語ってくれたが、本当にアルボルに行く前の仲良し二人の様そのままだった。ついでに、アルミナのキャルべったりぶりも相変わらずだなと実感したぐらい。
「シリカさんもそんな感じなのかな」
「隊長か。隊長は今ちょっと、怖いね」
「怖いのはいつものことだろ」
「普通に言うなぁ、お前。隊長に言うぞ」
「あ、勘弁して。帰ってからが余計怖くなる」
当たり前のように言うユースを、軽くチータがからかえばユースもごめんなさいをする。この辺りは第14小隊の若い者同士では、悪意を込めない冗談の陰口の定型句である。
一方で、わざわざシリカの今を、特別ちょっと怖い状態だと形容したチータに、何かしら含みがあるのもユースも察している。軽くジョークを挟んだらすぐにユースがおとなしくなったのは、その続きが気になっていて、聞く姿勢に入ったからだ。
「今ちょっと、第14小隊は休養期間に入っててな。出撃任務が来ないから、隊長はずっと自主鍛錬してるよ」
謹慎という言葉はガンマの手前使わなかったチータだが、ユースにはよくその含みが伝わるし、ある程度予想通りの回答だった。任務が無ければお休みだと、剣を手放すような人じゃないのはユースが一番よく知っている。一日じゅう訓練場に通い詰めていることもこの後チータから明かされたが、やっぱりそうなんだろうなとユースは思うことになった。
「アルミナとか大変だろうなぁ」
「俺とかユースがいなかったら、一番シリカさんにボコされるのはアルミナだもんね」
マグニスは訓練からすぐ逃げ出すので、シリカ指導の訓練に在席するのはユース、ガンマ、アルミナ、キャル。キャルは白兵戦が全く出来ないので、そこまでシリカに叩きのめされることはないのだが、アルミナは中途半端に器用だから、魔物に接近された時の最後の切り札として、白兵戦も仕込まれるのだ。実際アルミナは人間の野盗などが相手なら、銃の先に銃剣を備えて、ほんの少しぐらいは持ち堪えられるだけの手腕がある。
「いや、一番苦労してるのはクロムさんだよ。アルミナも大変だとは思うけど」
それはユースにとっても予想外の答えだった。訓練に参加することが全く無いクロムではないけれど、彼は指導する側に回ることが殆どで、シリカと手を合わせることなんか滅多に無い。月に一度ぐらい、周りが見ていないところで気合の入った激突をしているという話は聞いたことがあるが、見たこともないという結果が物語るとおり、シリカとクロムの交戦はそれだけ珍しいのだ。
元々シリカとクロムは戦い方が真逆で、超攻撃型のシリカと守備重視のクロムでは決着もつきにくい。"だから"組手が成立するのだが、両者が本気で相手を打ち倒すために全力を出すと、一本決まった瞬間に大怪我する。二人とも一撃必殺のとどめを打つことが勝負を決める一手となる戦い方なので、全力でやり合うことを身内同士では避けなくてはならない。だが、チータの話を聞いていると、今はそのたがをはずし、シリカとクロムが頻繁に力を引き出して叩き合いを繰り広げているらしい。
「シリカさんと兄貴か……実際のとこ、どっちが強いんだろ?」
「クロムさんが優勢だけど、本気の実戦になるとわからないだろうな。隊長は訓練で魔法が使えないからな」
真っ更生身の二人なら、シリカの方がやや優勢。クロムが身体能力強化の魔法を、半ばほどまで引き出して互角かクロム優勢。身体能力強化においてクロムが本気を出せば、シリカもついて行けなくなるだろう。だが、敵を捉えれば必殺の一撃となる勇断の太刀を、仲間うちでの手合わせで使うことの出来ないシリカだから、クロムとの戦いではどうしてもシリカは完全なる全力で戦うことが出来ない。勇断の太刀を使った仮定で二人が戦うとすれば、クロムは武器でシリカの攻撃を防ぐという選択肢も無くなってしまう。その要素抜きにして、二人の優劣を結論付けることは、客観的には不可能だ。
「騎士団の有能な方々は、みんなラエルカンからの魔物達の進軍に備えて東に出陣してるからな。ご遠慮願いたいって言ってるクロムさんに無理言うような形で、ずっとクロムさんと隊長が手合わせしてるよ」
「……毎日?」
「ほぼ毎日、一日じゅうだな」
思わず確かめるように聞いてしまったのはユースだ。謹慎期間中だからといって、その明けにシリカが体をなまらせるようなことはしないとわかっていたし、ルーネとの数日間を踏むにつれ、シリカの背中に追いつこうとするのに必死だった。だが、よくよく考えてみれば、現状維持で満足するようなシリカではなかったはずなのだ。普段クロムと手を合わせないシリカだから、無からそれを想像することが出来ずにいたが、クロムというユースの知る中でもトップクラスの実力者相手に、シリカがなおその腕を練磨しているという現実。ちり、とユースの中で焦りに近い感情が燻る。
「僕が家に帰る頃にはいつもの隊長だけど、帰りが早くて隊長の鍛錬が長引いている時に、訓練場でのあの人を見ると、怖さが今までの比じゃない。鬼気迫る、っていうのは、ああいうのを言うんだと思う」
ただでさえ世相は大変な時期、出撃という形で騎士団の力になれない今のシリカにとって、この現状は針のむしろである。そのやりきれない想いを、いざその縛りが解けた時に炸裂させられるため、今に注力するシリカの傾倒ぶりは、今までにない彼女を体現しているとチータは語る。朝から晩まで、家事の時間を除いてずっと訓練場に籠もり、顔色が悪くなっても握った剣を降ろさない姿は、剣士でないチータにもその気迫が伝わるものだ。
それを聞いたユースが、目に見えてそわそわし始めたのが、らしいものだとチータもよく思う。ふうとひと息ついて話を一区切りつけると、この話題を切り下げて別の話を振り始める。
ここ最近のマグニスとアルミナの喧嘩模様とか、キャルが新しい料理を覚えたとか、ガンマにとっては楽しい話題の数々で、ユースにとってもそうであるはずの話題。それでも話が頭に入っているのかわからないような、よそに意識を奪われたような心持ちを肌から滲み出すユースの態度を見れば、チータもじっとしていられないユースの気持ちがわかる。友人への見舞いという、数日前から楽しみにしていた事も今は心の中心にあらず、敬愛する人の背を一秒でも早く追いかけたいというユースの心境は、この上なくわかりやすく表に表れていた。
賢者としてのお仕事なんて、正直なところエルアーティ一人で片付けられる。ユースに街巡りをさせて書類を取りに行かせたりしていたが、エルアーティは箒に乗って街じゅうを飛び回ることも容易だし、ユースに限らず小間使いを任せる若者には事欠いていない。今日はユースをガンマへの見舞いに向かわせたエルアーティだったが、おやつ時には今日のお勤めもとうに果たして、大図書館の私有区画でのんびりと読書を楽しんでいた。
ユースやチータを招いたことが、人手不足ゆえの行動などではないことは、誰の目にも充分明らか。そんなエルアーティの元へ、夕暮れ前に歩み寄る一人の魔導士がいる。この日謹慎期間中ながら、魔法都市ダニームに招かれた第14小隊の魔導士だ。
「ご無沙汰しています、エルアーティ様」
「ええ、お久しぶり。ご友人との再会はもういいの?」
チータを迎え入れたエルアーティは、手元の書物をぱたんと閉じて振り返る。2,3の挨拶に近い言葉を交換したのち、エルアーティは自らの座る椅子ごとチータに向け、背もたれに体重を預ける。
「彼に、現地での法騎士シリカの今のご様子はお話してあげた?」
「まあ、世間話に近い形でしたが」
「そう。ならば問題ないわ」
チータにもわかった。王都にて自らの向上に傾倒するシリカの姿を語れば、ユースが奮起するであろうことをエルアーティはよく知っていたのだと。ユースから、ここ最近ルーネと手合わせしている習慣のことは聞いているし、それと合わせれば今の賢者様が、ユースをどうしていきたいのかぐらいは簡単に推察できる。
「大事に育てられていますね、あいつは」
「妬ける?」
「妬けますね」
賢者様二人の知恵の集積にて指導を頂けることなど、チータからすれば羨ましさを隠せるものではない。良き師に巡り合えることがいかに幸福なことであるかは、かつてティルマという指導者に巡り会えたからこそ今があるチータにとって、語られるまでもなく知っていることだ。
素直なチータの言葉は、エルアーティにとって望ましい。己の胸中を隠さない姿こそ、向上心の第一歩。エルアーティは席を立ち、ゆっくりとチータに歩み寄る。
「今の情勢はわかっているわね? 人類側に一つでも、より有力な駒が欲しい。私はあなたに、はっきりと期待しているわ。あなたはそれに、応えてくれる?」
エルアーティも言葉遣いは相手次第だ。チータのような相手に、回りくどい話術を使っても時間の無駄遣いであり、労力に見合った成果は得られない。賢者エルアーティに向けられた言葉は予想を超えて重いものであったが、怯まず、はいと毅然と答えるチータだから、彼女もそうしている。
「あなたがこちらに滞在する期間は1週間。その期間で、魔導士としてのあなたを叩き上げてあげるわ。ついて来られるだけの気概はあるかしら?」
「勿論です」
呼ばれた時から、チータも心の片隅ではこうした流れになることを期待していたのだ。世間様にはあれこれ言われる賢者様だが、魔法使いとしての手腕も知識も、この世に現存すべての魔法使いの中でトップクラスの存在なのだ。たとえ1日この人物と接するだけでも山ほど学べることは期待できように、1週間も語らう機会が得られようとは、どれほど胸が踊ることだろう。
「それじゃあ屋上に行きましょうか。魔導士としてのあなたの手腕がどれほどのものか、今日は確かめる」
近くはラエルカン奪還への人類の進軍、あるいはそれまでに、魔物達からの大掛かりな侵攻も覚悟される緊迫した現代だ。平静のままにした人里の表面上とは異なり、今がいかに危険な時代かは明らかだ。チータを従え歩き出すエルアーティも、追従するチータも、感情の無い表情の奥底にその意識は根付いている。
今は夕暮れ。アカデミーの裏庭では、若き騎士ともう一人の賢者が汗を散らして得物を交えている。限られた時間の中、賢者達に導かれた有志が、未来に向けて歩みを進めている。




