第18話 ~里帰り~
「お疲れ様です、法騎士ダイアン様」
「いらっしゃい。今日は肩の力を抜いてくれていいよ」
上司にあたる法騎士ダイアンに呼ばれ、彼の自室を訪れたシリカ。今日"は"肩の力を抜いていいと敢えて明言する意図は、いつも警戒した表情で自室に足を踏み入れる彼女に対する気遣いと、そう思われがちだと自覚する自分に対する自己皮肉を兼ねている。
ついでに言えば、彼はそういう自分を改めるつもりもさらさら無いだろう。タチはよくない。
「面白そうな任務を一つ預かったんだ。これは多分、君の小隊に任せるのが一番だと思ってね」
面白いの意味が、客観的に見て面白いのか、ダイアンの悪戯心にとって面白いのかわからないので、シリカも何と返そうかと迷うところだ。仲があるのではっきりそう言ってやっても怒られはしないと思うが、流石に上司を相手にそんなことを言うわけにもいかないし。
「人生を賭けた旅路に、一人の商人が乗り出そうとしている。彼はその旅路の護衛を、騎士団に依頼してきた」
騎士団は基本的に、庶民からの依頼を幅広く受け付けている。町から町への移動をするにあたり、道中で野盗や魔物に遭遇するリスクを考えれば、戦う力を養った人材の集まる騎士団に、護衛を望む者も多いのだ。需要がある限り、人々の暮らしの安寧を守ることを信念とするエレム王国騎士団は、そうした希望を叶えるために動くことも厭わない。
まあ政治的な話もすれば、騎士団にとってもささやかな儲け話でもある。流石に無料で何でも引き受けるような愚直な慈善事業集団ではないし、貰うべきものは貰うのだから。
決して安くない依頼費用を払ってでも、旅路の護衛を騎士団に頼みたいとその商人は言っている。その事実からも、件の依頼者がこの旅路に大切なことを懸けていることは、半分読み取って良い。
「商人は、テネメールの村から魔法都市ダニームへ渡りたいそうだ。この意味がわかるかな?」
そして、この言葉の意図はシリカには100パーセント伝わった。商人のことはさておき、この任務を自分に――第14小隊に預けてきた、その意図が。
「かしこまりました。その任務、お預かりさせて頂きます」
今回ばかりはダイアンも、粋な計らいのみで任務を回してくれたと見て間違いないだろう。また何か、裏の意図あって任務を寄越してきたのかも、というシリカの心配は杞憂だったようだ。
「最初に肩の力を抜いていい、って言ったよね?」
にまっと笑ってダイアンがそう言うと、幾重にも邪推を積んでいたシリカは思わず顔を上げ、すぐに無言で頭を下げて謝罪を示した。善意のみで任務を預けてくれた上司に対して、失敬な憶測を並べていた立場として、シリカはなかなか頭を上げられなかった。
こうして頭を下げさせるところまで計算されていた、とも思えてならなかったけど。彼はそういう人だ。
「ああ、それと。新しく君の小隊入りした魔導士の少年がいるよね。彼に対して提案があるんだが――よければ今日か明日からでも――」
任務に関しての会話が終わったところで、ダイアンがそんな話を切り出した。この後、ダイアンの口から持ち出された提案というのも、シリカにとってはなかなか有難いものだった。
「――お心遣い、心より痛み入ります。恐らく、彼も喜んでくれるかと」
「だと嬉しいね。話だけでも聞かせてあげて欲しいな」
何だかんだで、自分や、自分が率いる小隊に対して気を回してくれる人物であるという信頼は、ダイアンが悪戯好きであること以上にシリカの中では確固とした事実として認識されている。だからシリカも、訝しげな顔をすることはあれど、彼の言葉を常に真摯に受け止めるのだ。
「ミューイの絹ですか? テネメールの村でも評判の織物ですよ」
自宅に帰ったシリカに問われて、ユースは即座に答えた。尋ねたシリカが期待したとおり、ユースはその村に対して詳しい知識を持っている。
「テネメールの村から魔法都市ダニームにその絹を持って向かいたいという商人様が、騎士団に護衛を依頼してきている。私はその任務を受けてきた」
え、とユースが言葉を思わず漏らした。この時点でユースも、シリカの言いたいことが概ねわかってきている。
「私は同行するつもりでいるが、お前も来ないか? いい機会だろう」
「はい」
上官の前でその感情豊かさを露骨に出すことを、あまり潔しとしない気真面目なユースでも、シリカのこの提案には思わず嬉しそうに応えた。たとえ任務という形であったとしても、その村に足を運ぶ機会ともなれば、ユースにとっては非常に意味のあることであるからだ。
「クロムには留守を頼みたい。後のことは任せたぞ」
「あいよ」
シリカが王都に不在の際、第14小隊の舵を取るのクロムの役目だ。もしも緊急で第14小隊に任務を課せられるなど、何かしら不測の事態が発生した時には、よろしく頼むという話である。
「それはそうとシリカ、お前とユースだけでいいか? アルミナは孤児院との付き合いがあるから連れていかないのはわかるが、ガンマやキャルは連れていってもいいと思うぞ」
「いや、いいさ。テネメールからここまで護送した後、海路を経てダニームへ向かう。過度に人員を割く必要もないだろう」
シリカとユース、クロムを除く第14小隊のメンバーは全員が傭兵だ。頭数を揃えると、そこに支払うべき給金が発生してしまう。シリカも一応、騎士団の金庫を意識した上で動かなくてはならない立場なので、そうした采配を下さねばならないのが実状だ。可愛い部下だからと言って、そこを儲けさせるために不要な仕事を預けるというのは、流石に道理に反している。人員を割く必要が無いと判断すれば、経費を抑えるために人数を絞るのも騎士団に属する、隊長の仕事だ。
「固いなー、お前は。ちょっとぐらい小金稼いでもバチは当たらんだろうに」
「お前、騎士としてその発言はどうなんだ」
一方で、道理に反していようが、身内に稼がせてやろうと傭兵を連れていきかねないのがクロムという男。職務を全うし、騎士団の理と本来の道理を尊重した決断を好むのがシリカ。両者が個人的に持つ価値観の差はあらゆるところで如実に表れやすく、育ちの違いがことあるごとに伺える二人だ。
その上で、今の会話を笑いながら交わせる二人の姿は、根柢の性格の違いを超越した理解を持ち合う関係であることを暗喩している。シリカとクロムの関係を深く知らないチータにも、心根の深い場所で両者の間に深い信頼があることが見てとれている。
「それとだ、チータ。お前にもひとつ提案したいことがある」
なんとなく二人のやりとりを見ていたチータの方にシリカが声をかけ、はいと返事を返すチータ。
「第14小隊の戦闘訓練は、基本的に私の指揮のもと行われている。しかし武器を扱う部下ならともかく、魔法を扱うお前に対して私が教えられることはさほど多くない。お前がもしも杖術を学びたい、というのなら、力になれないことも無いのだが」
シリカもチータにそんな望みがないことは、半ば知っている上で敢えてそう言っている。これが一応の前置きに過ぎないとはわかるチータも、この後に続くシリカの言葉を待つのみだ。
「騎士団には、ダイアン法騎士という方がいる。魔法学に長けた人物で、チータが望むのであれば、あの方にお前の指南を依頼したいと思っている。どうかな?」
どうかな、と言いつつも、シリカは割と拒否して欲しくない気持ちを隠していない。これはダイアン法騎士から申し出てくれた心遣いであって、シリカもそれを無下にしたくない想いが強かったからだ。魔法学の深き専門知識を自分自身が語ることの出来ない歯がゆさがあるから、シリカもダイアンの力を借りられるこの状況には甘えたかったという部分もある。
「いいんですか? 僕にとってはこの上なく嬉しい話ですが」
チータがどこまでその辺りを察していたかは定かではないが、この申し出はチータにとってもさほど悪い話ではなかったようだ。そもそもチータも少年とはいえ、傭兵という自身の立場を顧みるし、上官のこうした提案を我が儘に撥ね退けるほど子供ではない。
「法騎士ダイアン様も、お前が良ければ引き受けて下さるそうだ。さっそく、挨拶しに行くか?」
「はい」
基本的に無表情を崩さないチータだったが、声はいつもよりも少々明るく感じられた。師と呼べる者に巡り会える機会が貴重なのはどんな分野にしても言えることだが、特に魔導士という人物は杖を振るうよりも書物や世界に触れ、深めた知識をそのまま自身の向上に繋げていける最たる存在だ。魔法に対して理解のある先人に触れて見識を広げられるというのは、実に魅力的な話である。
チータが身支度を整えるべく、自室に戻っていく。自室と言っても、ユースやガンマと3人で暮らす相部屋だが。
「まずはチータを騎士館に連れていくよ。それが済んだら、テネメールの村に向かう。それまでに旅支度を済ませておくんだぞ」
シリカはユースにそう告げて、騎士館に向かうべく準備を整える。シリカの言葉に対して元気よくはいと答えたユースは、これからのことを思い描いて、嬉しそうに、一方で少し緊張したかのような表情を浮かべた。
テネメールの村は、エレム王都よりやや離れて東に位置する村だ。先日シリカ達が護送任務で訪れたナクレウスの村よりも北西に位置し、トネムの都やレットアムの村よりはエレム王都よりも離れて東にある。エレム王国の法治範囲の中にありながら、王都より遠く離れたその村は、一般的には田舎の村と形容される小さな村だった。
そして、エレム王国第14小隊所属、少騎士ユーステットの、故郷でもある村だ。
シリカと2人で、馬の手綱を引く練習をしながらここまで来たユースだったが、いち早くこの村に辿り着きたい想いから、思わず馬の足を速める所作が何度も目立ったものだ。そのたびシリカもこらこらとユースを嗜めたものだったが、はやる気持ちを理解するシリカも平常時ほど厳しくユースを咎めはせず、微笑ましく彼を見守りながらここに至る。
「何年経っても変わらないな、この村は」
建物の建設や改築、変遷の多い王都に比べ、田舎村は時が流れてもその姿を大きく変えることはない。シリカが言いたいのはそうした比較ではなく、自然に恵まれたこの村を駆ける爽やかな風と植物の香り、太陽に映える緑の風景の美しさが、いつ来ても訪れる者の心を安らがせることの形容だ。
「シリカさん、ミューイの絹の織り手の商人様は……」
故郷に寄せられる好意的な声に、ユースの機嫌が良くなっていることはシリカの目にも明白だ。それでも任務中であることを忘れず、目的地に向かってまっすぐシリカを案内しようとしたユースに、シリカは首を振って、皆まで言うなと示唆する。
「せっかく故郷に帰ってきたんだ、顔を合わせたい人もいるだろう。約束の時間まではまだ時間があるし、少しは寄り道しても構わないぞ」
商人様と顔を合わせてしまえば、そこから先は仕事に集中することになる。立ち寄りたい場所があるなら今のうち、という、シリカなりの計らいだ。
「……それじゃあ」
そうなれば、ユースが真っ先に行く先は自ずと決まった。旧知の友人や、剣術道場の師範、学所に通っていた頃の恩師など、いくらでも挨拶したい相手はいる。その全てに勝り顔を合わせたい人物が、ユースの頭の中に明確に浮かんでいたからだ。
小さな一軒家。村の中心地から離れ、田舎の中でも大小ある家々のなか、中の下ほどの小さな家。寄り道を許されたユースが、何所よりも足を運びたかった場所がここだった。
緊張した面持ちでその家の前に立ち、玄関の戸を叩こうと拳の裏を扉に近づけるユース。そのまま意を決するのに時間を要したか、数秒の間をおいてから、ユースのその手が扉を二回叩く。
「――はーい」
扉の奥から聞こえる、ユースにとっては忘れ得ぬ声。その声にぴくりと肩を動かしたユースに、シリカがくすりと笑った直後、その扉が開く。
「あら……」
扉の奥から顔を出したのは、ユースよりも少し背の小さな、初老の婦人。先程まで台所にでも立っていたのか、纏う気質によく似合ったエプロンをつけたままのその人物は、目の前に立つ少年を見て目を丸くする。まさしく思わぬ来訪者に言葉を失ったように、四十半ばの事実よりは僅かに若く見える穏やかなその顔が、驚きの色に染まる。
「……ただいま」
照れくさそうにユースがそう言うと、婦人はその顔をぱあっと輝かせた。
「おかえりなさい、ユース! どうしたの、こんな急に!」
驚嘆の声の裏にある、胸いっぱいの喜び。しばらくぶりに再会した、はしゃぐ婦人と気恥ずかしそうに笑う少年を、シリカは静かに微笑ましく見守るのみだった。
「いつも息子がお世話になっています。法騎士シリカ様」
「いえ、そんな。私の方こそ、彼には小隊を支えて貰っている立場ですよ」
ユースの母、名はナイアというその婦人。彼女に招かれユースの実家の居間でお茶を頂きながら、シリカはナイアと談笑していた。ボリュームのある茶髪を、頭の上に髪飾りでひとまとめにしたその女性は、一人息子を持つ母にしては肌にも張りがあり、いい年のとり方をした人だとこの村でもよく囁かれてる顔立ちだ。
エレム王国法治範囲の中に住む一般民は、法騎士という騎士団の中でも優秀とされる者といざ顔を合わせて話す時、やや恐縮して接するのが概ねだ。それを顧みると、このご婦人はなかなかの肝っ玉をお持ちのようで、そんな素振りを見せず、敬語を使いながらも極めて気軽な口調でシリカに語りかけている。まあ、シリカにとってはその方が気が楽でいいのだが。
「先日も、コブレ廃坑でワータイガーを討伐するという大役を果たしてくれたのです。出会った頃と比べると、彼も頼もしくなったものだと実感しましたよ」
ナイアにとっては最も知りたいであろう情報、今の息子が騎士団でどうしているかを語れるよう、シリカは話の舵を取っている。部下の実母と接する上官というのも、気配りが求められるものだ。
「ふふ、お世辞だけは有難く受け取っておきますよ。うちの子がそんな大層な活躍を出来るほど、立派な騎士になっているなんて想像できませんもの」
くすくす笑いながらシリカのユースに対する称賛を聞き流すナイアに、ユースは腰かけた椅子からカクッと滑り落ちそうになった。確かにまだまだ、シリカにこんなお褒めの言葉を頂けるような立派な騎士になったとは思ってないけれど、だからってその言葉を退けてまでそれを口にするか。
「うちの子は手がかかるでしょう? ここが見せ場だと思ったら突っ走っちゃって、冷静な人たちの足並みを崩す姿が目に浮かびます。そんなこと、ありませんでした?」
まるで見てきたかのように語るナイアの言葉が的を射過ぎていて、ユースを立てて話をしていたシリカも、苦笑いを隠せない。レットアムの村で、ルオスからの逃亡者を捕縛する際、先走った行動でシリカの手を焼かせたことを思い出し、ユースが完全に言葉を失ってしまう。
「不束な息子ですが、良ければ何卒これからもよろしくお願いします。きっとシリカ様にはご迷惑をおかけすると思いますが、それでも私の可愛い一人息子ですので」
申し訳なさをにじみ出すような表情で頭を下げるナイアに、シリカは自ずと姿勢を正す。言われなくとも勿論そのつもりとはいえ、それをわざわざ口にして頭を下げる母親の姿は、上官として一人の少年騎士の未来を担うシリカの意志を、より強固なものへと変えるのだ。
「お任せ下さい。私も、そのつもりですので」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げるナイアの姿に意を決するシリカの横で、母の姿勢になんとも言えない想いのユースが表情に困っている。自分が心配なのはわかるし、そう思われる自分にも心当たりはあるけれど、こうして目の当たりにしてそれを突きつけられると、やはり複雑だ。
「それでは、私はここで失礼します。――ユース、一足先に商人様の所へ向かっておくぞ」
「え、だったら……」
自分も、と言葉を繋げようとしたユースの口が、首を振るシリカに制されて止まる。
「もう少し、ゆっくりしていけ。親子だけでしか話せないこともあるだろう。私は待っているよ」
シリカはナイアに会釈して、一言二言挨拶を交わすと、家を出て村へと消えていく。小さな一軒家に残された少年騎士が振り返ると、そこにあったのは前に会った時よりも一本か二本、顔にしわを増やした気のする、母の姿。
「ユース」
ナイアが席を立ち、ゆっくりとユースに近付く。騎士剣を腰に携え、騎士団の紋章を携えた少年の姿をもっと近くで見たいという母の想いが、行動に表れている。
「……なんだか、本物の騎士様みたいになったね」
「……まだ、そんな立派なものじゃないよ」
年が1にも満たない頃からのユースを知る母にとって、今の少年の姿はどう映っているのだろう。幼い頃から毎日顔を合わせてきた息子の顔は、徐々に大人の顔に近付いてはいくのが現実なれど、母の目には幼いあの頃の面影をずっと残したままだ。かつてユースが12歳で騎士団に入団すべく、親子でエレム王都を訪れて別れたあの日、ただの子供が騎士団の紋章を身につけただけの、可愛らしい姿が目の前にあった。それをナイアは今でも鮮明に思い出せる。
男子三日会わざれば刮目して見よ。しばらくぶりに顔を合わせた息子の顔は、家の前で顔を合わせた時には随分かつてと変わり映え、ほんの一瞬誰かなと感じたのが少し前の出来事。顔を合わせて言葉を重ねるたび、なんだか少し頼もしく見えたはずの少年騎士が、手のかかる息子の顔に徐々に戻ってきて、今に至っている。ナイアも、不思議な心地であると強く自覚していることだ。
「法騎士様に褒めて貰えるぐらいには、立派になったんだねぇ。昔は、剣術道場で同期の子に負けるたび、悔し泣きしてたあの子がさ」
「立ててくれてるよ、結構。俺、あの人が言うほど立派な活躍してないし……」
「うん、わかってる。あんた、そんな大層な人になってるようには見えないもの」
誰よりも、ユースのことを内面まで知っている。誰よりも、ユースに対して歯に衣着せず本音を言うことが出来る。それが彼の母親だ。
「でも、魔物を自分の力で倒せるような子になったんだね」
シリカがユースを、良い方に良い方に言い表していたことは、息子をよく知るナイアには推察して知れたことだった。一方で、シリカの語ったユースの実績が嘘ではないこともわかっている。具体的な実例を挙げて誰かを立てる人物が、わざわざ嘘の実績を作り上げて語っているならば、先程のシリカのような迷い無き眼差しで誰かを立てることなど出来はしないことを知っているからだ。
ワータイガーは、危険な魔物だ。高位の魔物と比べれば可愛いものとはいえ、戦いの心得を知らぬ者が直面すれば、まず間違いなくその命が助からない魔物である。それを打ち倒すことが出来る息子の姿というのは、過去に母が見たユースの姿の記憶のどこからも、想像で補えない。
立派に成長した息子が、目の前にいるのだ。それを実感できた母は、その喜びを上手く言い表せずにいた。その感情を表情からほのかに漂わせるナイアが、手を伸ばしてユースの手を握る。戦う力を持たない母の柔らかい手が、剣を毎日握ってマメだらけになった少年の固い掌に触れる。
「頑張っておいで。無茶をするな、なんて言わないからさ」
綺麗な体で産まれた息子の掌が、柔らかくて可愛らしいものへと回復することは二度とないだろう。それを潔しとし、自らの体に鞭を打って前に進むことを厭わない今の息子を目の前にして、いつか彼が命を危ぶませる可能性があることも、母にはわかっている。平穏無事に過ごす息子のことを祈り願う親心を封じてその口から溢れたのは、我が道をその手で拓こうとする息子の背を押す、もう一つの親心。
「……行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
笑顔で自分を見送る母を最後に一度振り返り、いってきますと残してユースは再び騎士として前進する。それだけで充分だった。親の心子知りきれず、言葉で語られたことだけからではナイアの真意のすべてを知りえない少年騎士だったが、母が自分に望んだことが何であっても、今のユースが自分のすべきことを見失う引き金にはならない。
立派な騎士になって、夢を追う自分の背中を押してくれた母に報いること。それはかつて挫折し、一度騎士団をやめようと悩んだ時ですらその道を遮った、騎士である前に一人の少年であるユースが、その心に強く刻んだ大きな夢。
故郷の我が家の閉じた玄関の扉を閉じた少年が足を進める。これから、任務なのだ。ぱちんと両手でその頬を叩き、シリカが待つ商人様との待ち合わせ場所に向かって歩きだした。




