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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第12章  来たるその日への助奏~オブリガート~
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第184話  ~召使い生活② 油断した夜に~



「はい。それではここまでにしましょう」


 約1時間ほど、ユースの木剣と腕を叩き合わせていたルーネは、ぴょんっとユースから離れて手を合わせ、ぺこりとお辞儀をした。一瞬前まで、ユースと至近距離での打ち合いをしていたにも関わらず、柔和な笑みでそう言う姿からも、歴戦の強者の余裕は感じられる。


 手厳しい法騎士様に鍛えられているだけあって、1時間の長丁場を戦い抜いても、息を乱す一方で動きを殆ど落とさないユースのスタミナもたいしたものである。だが、汗はかいても息ひとつ乱さないルーネの風格は、目に見えてその上を行くものだ。テネメールの村でのルーネの暴れぶりからわかっていたことではあるが、やはり今のユースにとって、この人物は雲の上の武神であると言えよう。


「どう? ルーネ」


「……うん」


 そんなルーネを相手にユースが渡り合えた1時間というのは、ルーネがユースに合わせた力量しか発揮していなかったということだろう。それぐらいの調節を為すほどには、彼女はユースの遥かに前を歩いている。そんなルーネがエルアーティに尋ねられ、ユースへの評価を語る口は、曖昧で答えが見えない。本来素直で明朗な言葉を選ぶことを好むルーネが、こうして濁すような言葉を選んだことは、

彼女らしくないと言える。


「どう? ルーネ。明日以降も、彼にお付き合いして貰えるかしら」


「いいの?」


「勿論」


 いいんですかはこちらの台詞。そうユースが聞きたくなるぐらい、戦乙女ルーネとのお手合わせは、数多くの戦士が夢見るものである。単純に、日頃戦場に赴かない彼女の実力に触れてみたいという者もいるが、指導者として高名な彼女に、戦の心得を請いたいという者が殆ど。法騎士ダイアンですらかつてはルーネを、騎士団の戦闘訓練指導者に招きたいとはたらきかけていたぐらいなのだから。


 今のユースの主であるエルアーティから許可を取ると、ルーネはぱたぱたとユースに駆け寄る。臨戦態勢でない時のルーネの挙動というのは、本当に見た目相応の少女にしか見えず、その姿から歴戦の強者であることを推測できないほどのものだ。人は見かけによらぬと言うが、ルーネほどこの言葉が似合う人物に、ユースはこれまで会ったことがない。


「それではユース君。明日も時間を作りますから、またここでお会いしましょう。今度は私も、もう少し本気に近づけて戦ってみせますので」


「……ルーネ様はお忙しい身なのに、いいんですか?」


 遠慮がちなユースの性格が余計な所でも顔を出すが、ルーネの表情は穏やかだ。エルアーティとは真逆、己の感情を表情だけで語れるほど裏表のないルーネは、その笑顔だけで大丈夫ですよの答えを見せられる。


「時間はいくらでも作れます。こちらこそ、明日からよろしくお願いしますね」


「はい、決まり。それじゃ明日のことをお楽しみにして、今日はお開きにしましょうか」


 行くわよ、とユースを導くように、アカデミー本館に向けて歩いていくエルアーティ。ユースはルーネに一礼し、エルアーティの後を追っていく。笑顔で手を振るルーネは、まるで彼女の方こそが、明日以降に楽しみをひとつ増やしたような面持ちだ。


 賢者エルアーティ様を介しての、賢者ルーネ様とのお手合わせ。それがしばらく後、ユースにどれほど大きな変化をもたらすのかを、今のユースに予想できるはずがない。賢者ルーネ様との鍛錬により、今以上の力を得られれば、と希望的観測ぐらいは抱いている。頭を使えて、そこまでだ。


 テネメールの村で、戦人としてのルーネの姿が強く印象に残ってしまったユースは、賢者としてのルーネを脳裏で塗り潰されている。戦乙女として生きた十数年より、指導者として生きた数十年の方が長い、それがまさにルーネの本質なのに。本人にそんな自覚は全くないが、ユースはルーネのことを侮っている。若い想像力だけでは補えない世界だ。











 アカデミーの大図書館は無尽蔵の書物を擁するが、新書の本棚に置き行く仕事がある。エルアーティはお偉い様なので自分の手でそれをすることは無いが、それが滞りなく行われたことに対し、賢者として認可状を出すことが求められている。最近大図書館に届いたという新書の本棚送りを、場所など含めてユースに指示を出し、けっこう容赦なくこき使ってくれたものである。もっとも、下仕事をすることに慣れているユースは、そうした小間使いのような仕事に嫌な顔もせず、いそいそと働いていた。まるで働き蟻ね、とエルアーティに皮肉めいた褒められ方をしたが、それを褒め言葉としてポジティブに受け止められるほどには、働くことに対してユースは前向きだ。


 アカデミー大図書館の総責任者であるエルアーティは、司書と何らか難しい話もしていたが、ユースにとってはどうでもいいことで、重い本の数冊を抱えて広い図書館をよく動いた。司書も凝った肩を痛めずに済んで、助かっていただろう。ユースはあくせく働いていただけの時間帯だったが、こうした姿勢にはそれを遠目で見ていたエルアーティも、不機嫌な顔を見せない穏やかな態度だった。


 夕食前ぐらいの時間にそれが終わり、部屋に戻る前、エルアーティは短時間だが自由時間も与えてくれた。時間にして30分ぐらいのもので、何か出来るようなことなんて特にもなかったが、木剣を握らせたままでアカデミーの中庭そばを通りがかった時にそれを言ってくれたので、ユースとしてもすぐにやりたいことを見つけられた。つまりは、中庭でしばらく木剣を振って体を動かしたいと。


 時間になれば部屋に帰ってきなさい、というエルアーティの指示を受け、しばらく中庭で木剣を振って、今日ルーネと戦った時のことを想い返すユース。イメージトレーニングだって重要なことだ。勿論すぐに追いつける戦乙女様ではないけれど、目指すべき強さと手合わせした後のユースにとっては、じっとしていられるものではない。


 ひととおりそんな時間を終えて部屋に帰ると、やっぱりいつものようにエルアーティは読書に耽っていた。昨日ユースを迎え入れた時とは違い、机に向かってユースに背を向けている。そうした普通の態度で迎えられるだけで、ユースにとっては身構えなくて済むから気が楽だ。


「おかえりなさい。もういいの?」


「ええと……時間でしたし……」


「満足いってないのなら、あと30分時間をあげてもいいわ。鍛錬したいなら、していらっしゃい」


 無表情が常のエルアーティばかり見てきたユースにとって、にっこり微笑んでそう言ってくれる彼女の姿は意外なものですらある。エルアーティがルーネ以外の前で、こんな顔も出来るというのは、実際のところ、あまり多くの者が目の当たりに出来るものではない。


 少し遠慮がちなユースだったが、結局お言葉に甘えてもう一度中庭に。さっきは体を温めるだけのまま終わってしまい、不完全燃焼だったが、汗もまだ肌に残る今なら具合が違う。中庭で一人、木剣を振るうユースの姿は誰の目にも留まらなかったが、孤高の空間で自らの向上をひたむきに目指すユースは、汗をほとばしらせながら無心で木剣を振るっていた。


 時も頃合い、命じられた時間になってエルアーティの待つ部屋に帰る道、ユースも色々考える。はじめはどうなることだろうと思っていた召使い生活だったし、出だしはかなり怖い想いもしたが、状況を鑑みればあまり悪いものじゃないかもしれない。シリカと手合わせの出来ない数日間は寂しいが、ルーネという思わぬ手合わせ相手も用意して貰えて、こうして自由時間も与えられる。戦場で働く自分の仕事が、エルアーティのお手伝いに変わっただけで、あまり日頃とそう変わらない時間の使い方だ。それに、王都での平常な暮らしの時ほど自主鍛錬は出来ないが、それすらゼロになるわけじゃない。


 意地悪な魔女様だと思っていたけど、自由時間をもうひとつ設けてくれたりと、優しい一面も見せてくれたりもしている。改めて部屋に帰ったユースを振り返り、笑顔でおかえりなさいと言ってくれるエルアーティを見ていると、あまり警戒し過ぎても取り越し苦労のように感じられてくる。明日になればまた無茶なことを言われるかもしれないが、今日はまあ心を許せそうだ。


「汗かいたでしょ? お風呂に入ってきなさいな」


「あ……ありがとうございます」


 着替えとタオル、瓶詰めのシャンプーと液状の石鹸を渡され、ユースは浴場に向かっていく。あらかじめ用意してくれていたらしく、出てくるのも早かった。召使いなんだからそれぐらい自分で用意するのが当たり前だと思っていたユースにとって、エルアーティの配慮は身に沁みる。液状の石鹸やシャンプーも、女物なのか妙にいい匂いがするものだったが、それは言い換えれば彼女が私物を差し出してくれたということにも感じられることだ。浴場に置かれている石鹸やシャンプーは、昨日も使ったが市販のありふれたものだった。


 私物だと思うと使うことにも抵抗あったものの、心遣いには甘えた方がいいのかとそれらを使い、ユースは全身さっぱりして浴場から上がって部屋に帰ってくる。今度はエルアーティは、立ってユースに近付いて迎え、すんすんとユースの胸元に背伸びして鼻を嗅いでくる。


「私の石鹸、使った?」


「え、あ……良くなかったですか?」


「いえいえ、そのつもりで渡したんですもの。いい匂いするでしょ?」


 まあ、確かに。上機嫌にユースの体に鼻を近づけるエルアーティを見ていると、多分その選択で間違ってはいなかったのだろう。相手が相手だからどうしても気を遣うが、そのぶんエルアーティが機嫌よさそうな顔をしていると、ほっとする。


「それじゃ今度は私がお風呂に入ってくるわ。あなたは食堂に行って、私とあなたの夕食を持ってきて頂戴。お金は後で払うから、好きなもの食べていいわよ」


「わかりました、すみません。エルアーティ様は?」


「私は辛いものが好きだから、そういうものを選んできて頂戴。それなら何でもいいわ」


 どんなものが好きですか、という問いに対してそういう回答が帰ってくると、ユースもやりやすい。ルオス風味の味付けの料理の中から、そうしたものを選べばだいたい当たるから。部屋を出たエルアーティに続いて、ユースも部屋を出ると、食堂へと足を向けていく。


 食堂に着いたら、メニューを眺めて自分は一番安いものを頼み、エルアーティのものに関しては慎重に選ぶ。ルオス風味のチリソースをまぶした、海老の炒め物あたりが丁度いいだろうとして、それを選んだユースは、大きなトレイに自分とエルアーティの夕食を乗せる。代金は、食堂の者も話を聞き及んでいるらしく、この場では結構ですよと言ってくれた。後からエルアーティに受け取っておくから、と。


 伝票を受け取ったユースはトレイに乗せた料理を部屋まで運ぶ。まあなんと召使いらしい働きぶりだこと、である。騎士団に仕える騎士がこんな小仕事をさせられているとなれば、人によっては屈辱に感じたりするかもしれないが、ユースは性分上そうでもないので具合はいい。というか、今まで人の上に立ったことが少ないから、こっち方面に対して妙なプライドが育っていない。


 部屋に戻ったユースだが、料理を作って貰っていたうちに風呂からは上がっていたらしく、エルアーティはすでに戻っていた。自分も同じ石鹸を使ったからわかるが、エルアーティも同じものを使ったのか、似たような甘い香りを放っている。狭い部屋ではそうした香りがすぐに満ち、鼻で息をしただけで心地よい。


「そこのテーブルを部屋の真ん中に持ってきて頂戴。一緒に食べましょう」


 昨日ここに初めて来た時にはなかったものだが、今日は部屋の隅に折りたたみ式のテーブルがある。トレイをエルアーティの座る椅子の前、部屋の角の机の上に置いたユースは、てきぱきとテーブルを部屋の真ん中に設置する。テーブルの隣には折りたたみ式の椅子が一つあり、これがユースの座る椅子だということだろう。エルアーティの椅子と自分の椅子をテーブルの前に置くと、ユースとエルアーティが向き合って食事を採れる形が出来上がる。


「ご苦労さま。あ、ドアは閉めてね?」


 室内の仕事を一通り終えたユースは、両手でトレイを持ってきたから開けっ放しにしていた部屋の入り口の扉を閉めにいく。あとはテーブルに置かれた二人分の夕食を挟んで、両者手を合わせていただきますを唱えた。高い椅子に座ったエルアーティは足を宙ぶらりにしているが、そのぶんテーブルはエルアーティに合わせて低いということもなく、普通に食事を採れる環境下だ。


「うふふ、私の好物じゃない。引きがいいわね、あなた」


「そうですか? だったらよかったけど……」


「あなたもそれ、随分安いもの選んできたのね。他人のお金で買うからって、そんなに気を遣った買い物をしなくてよかったのに」


 賢者ルーネのテーブルマナーを一度目にしたことのあるユースだが、エルアーティも彼女によく似て丁寧な指使いだ。こういう人とお食事すると、はしたない食器使いを見せてはまずいかな、なんて思ってしまうものだが、エルアーティは普段どおりでどうぞと気にしない。賢者様を前にリラックスしきるのは不可能だが、ユースも疲れない程度まで肩の力を抜くことが出来た。


「法騎士シリカは最近どう? 昔のように頭でっかちかしら?」


「頭でっかちかどうかはわからないけど……何事にもすごく真摯な人ですよ」


「変わってないようで安心したわ。彼女に育てられたあなたを見てると、答えは見えたようなものだけど」


 意外と喋るエルアーティ。機嫌はよさげ、なかなか可愛らしいものだ。冷たい瞳で人を見下ろし、冷淡な彼女ばかり見ていたユースにとって、このギャップはかなり目立って見える。勿論口にはしないけれど、ずっとこうして笑顔で饒舌なエルアーティでいたら、周りも今以上に放っておかないのではないだろうかとユースも感じてしまう。幼い顔立ちだから女性としての色香を濃く放つような人ではないが、屈託のないその笑顔は、元が綺麗で整ったお顔だから非常に魅力的なものである。


 お喋り好きな少女を思わせる態度のエルアーティとの会話に時間を費やして、完食まで時間がかかってしまったものの、二人が皿の上の料理を空にするのはほぼ同時。ごちそうさまの一声を放つのも一緒で、いただきますの言葉を放った時よりも少し高い声のエルアーティは、いい夕食の語らいだったというのを態度で物語っている。


「ふぅ、お腹いっぱい。今日はもういいわ」


 ベッドまで歩いていって、ぽすんと背中からベッドに身を預けるエルアーティ。満足げな顔は、彼女が名高き賢者様であることも忘れそうなほどに無邪気なもの。


「あなたもこっちにいらっしゃいよ。もう少し、お話しましょ?」


 寝転がったまま、ユースに手招きしてくるエルアーティに、ユースもそちらに足を進める。面白い話を賢者様相手に続ける自信はなかったけど、そうしてと言われるなら頑張ってみようと思う。女性に対して免疫がなく、言葉が少なくなりがちのユースだが、エルアーティは風貌が幼いせいもあってか、一度肩の力が抜けると、割とその悪癖も忘れて話がしやすかった。口は回せそうだ。


 ベッドに腰掛けたユースだが、上体を起こしたエルアーティが二の腕にしがみついてきた。幼く見えてローブの下ではちゃんと育っているのか、むにゅんとした感触が腕に伝わってきて、ユースも一瞬どきりとする。無邪気な瞳でユースを見上げるエルアーティの顔も可愛くて、変な意味で胸が高鳴る。


「うふふ、どきどきする?」


「いや、あの……俺、そんな……」


「やっぱり、こんな子供っぽい女は嫌い?」


「そ、そういうわけじゃないですけど……」


 何だこれは。どういう流れでこうなった。というか、どんな意図でこんなアクションをエルアーティは見せてきているのだろう。警戒する、という感情とはまた違うが、相手の考えが読めなくてユースもどぎまぎする。


 ユースの腕に頬ずりするエルアーティを見ていると、何を話せばいいのかわからない。動けないし。何も言わず、兄に甘える妹のようにユースにすりすりし続けるエルアーティを見ていると、とりあえず動かずにいればいいのかなと思う。


「……あの、エルアーティ様?」


「なに?」


「いつまで、その……」


「もうちょっとの間だけよ」


 そう言って、約2分そうしているエルアーティ。賢者様がそれで満足と仰るなら、ユースも身を預けておくが、胸を押し付けられるとそわそわするから、それはちょっと勘弁して欲しい。


「そろそろ効いてくるでしょうしね」


 何が?


 エルアーティがその言葉を放った、まさにそんな時だった。一瞬ユースは、目の前の光景がぐにゃりと歪んだ気がした。立ちくらみのような症状に、エルアーティに抱きつかれていない方の左腕で、ベッドに座る自分の体を支える。なんだか、軽いはずのエルアーティの体でさえ、今は急に重く感じる。


「どうしたの?」


「いや、何か気分が……っ!?」


 ぐらつきそうな頭を正して答え、エルアーティの方を向いた瞬間、ユースは全身の毛が逆立つ想いを抑えられなかった。誰だこの人。さっきまで、無邪気な少女のような顔をしていた賢者様が、今はがらりと妖しい上目遣いでこっちを見上げているではないか。


 そのインパクト一発で、ユースは腰を上げようとした。ここはまずい。嫌な予感しかしない。


「逃がさないわよ?」


 ユースの襟首を後ろから掴んだエルアーティが、一気にユースを後方に引き倒した。ユースも騎士、非力なエルアーティに引っ張られたからと言って、すぐに倒れるような貧弱な体はしていない。それがあっさり引き倒され、体を起こして逃げたいのに、体に力が入らない。何かがおかしい。


 体を起こすための腹筋に力が入らず、両腕を持ち上げようとしても、まるで鉛を縛り付けられたように重い。寝返りをうってエルアーティから逃れるのも億劫なほど、全身に力が入れらなくて動かない。一度ベッドに背中を預けてしまったのが、相当に命取りだったと思わずにいられない。


 困惑と戦慄で頭いっぱいのユースをよそに、エルアーティは力なくベッドの端からだらりと落ちたユースの足を、よいしょよいしょとベッドの上に持ち上げる。彼女によって体勢を変えられたユースは、ベッドの真ん中で仰向けに横たわる形を持っていかれた。ユースの股下で膝立ちになって、ユースをにんまりと見つめるエルアーティのことを、今日ほど怖いと感じたことはない。


「ちょっと一服盛らせて貰ったわ。あなた、聞き分け悪そうだしね」


 一服盛ったということは、さっきの夕食か。一度もエルアーティから目を離したつもりなんてなかったユースだが、よくよく考えれば一瞬だけ目を離した瞬間があった。エルアーティに言いつけられ、テーブルに夕食のお膳を置いて、部屋の扉を閉めに行った時だ。まさかあの時。


 今では指先を動かすので精一杯というユースに背を向けたエルアーティは、何をするのかと思えばユースの靴下を脱がせ始めた。いや、何をしてらっしゃるんですかと。鼻歌を歌いながらユースを裸足にさせたエルアーティは、靴下をぽいっとベッドの外に捨ててしまう。


 今度はユースの両腕に手をかけて、自力で動けないユースの両腕を彼の頭の上に持っていく。その際、エルアーティの顔がユースの真上にあったのだが、その時エルアーティが舌なめずりをした光景は、ユースに見逃せようはずがない。


 昨夜のように、唇同士が付くんじゃないかという距離まで顔を近づけてくるエルアーティ。やばい。だが、顔を逸らすための首の筋肉すらもろくに動かず、その瞳から逃げることさえ出来ないユース。体の自由を奪う薬を盛られたらしいが、どんだけ強力な毒を仕込まれたのだと。


「ふふ、怖がらないの。痛くしたりするわけじゃないから」


 怖いに決まっている。この人を一瞬でも無邪気だとか可愛いだとか思って、油断していた数分前の自分を死ぬほど責めたくなった。今の魔性の微笑みを浮かべるエルアーティを、今朝も見たばかりだというのに。


 ユースの腰の上に座り、一枚しかないユースの上着を、すそからエルアーティが上にめくり上げた時、死よりも恐ろしい恐怖がユースの心を包み込む。すなわち、身動きされない中で何をされるのか、まったく予想がつかない戦慄。そんなユースにもお構いなしに、エルアーティはユースの服を強引に引っ張り上げ、袖の中を通っている腕も、襟を通っていた首と頭も通過させてしまう。二十歳の男の上半身を丸裸にしたエルアーティは、黒い一枚のユースの防具もベッドから遠い場所に放り投げてしまう。今の動けないユースにとって、絶対に届かない場所までだ。


 ベッドから降りたエルアーティは、まず部屋の入り口に鍵をかけ、机に向かって歩いていく。一刻も早くこの場から逃げ出したいユースが、全身に力を込めるが、体を縛り付ける痺れ薬はすでに全身まで回っているらしい。全力を込めた自分の体が微動だにしないという、かつてない経験がユースを縛り付ける。冷や汗が止まらない。今は一度自分から離れたエルアーティだが、机の足元に置かれた大きめの鞄を握って、こちらに歩いてくる。中身が見えないが、それがまたこの先が予見できなくてぞっとする。


 何に使うのかわからない、細い棒の先に、先端に突起を携えた小さな豆のようなものを取り付けた道具。エルアーティはベッドによじ登って、ユースのお腹の上に座ると、ユースの顎をその豆付き棒でくいっと押し、顔を近づけてくる。ユースの喉元に鼻を近づけ、すんすんと鼻を鳴らすエルアーティの吐息がくすぐってきて、ユースの全身がぞくぞくと毛を立てる。


「やっぱりお風呂上がりはいいわね。石鹸に混じって、雄の匂いがするわ」


 その言葉で更に鳥肌がする。ユースの胸元を片手で優しく撫でるエルアーティの指先も、今のユースにとっては血も凍るような刃に近い。


 エルアーティは自分の胸をユースの胸元に預け、体だけでユースを捕まえる。両手を頭の上にどけられて、その腕も動かせないユースには、丸腰の上半身を完全に支配された形だ。エルアーティの片手がユースの脇の下を撫ぜ、もう一つの手はユースの頬に。胸を擦らせて顔をユースにゆっくりと近づけたエルアーティは、かたかたと震えるユースの目の前で唇を塗らす。


「力抜きなさい。私のやりたいようにやらせて貰うから」


 ユースの耳に、ふーっと息を吹きつけるエルアーティ。思わずびくりとユースの胸が跳ねたことに、エルアーティは心底面白そうな顔で目を細めていた。

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