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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第11章  三十年間の叙事詩~オデッセイ~
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第182話  ~1日前 逃げ道なし~



「失礼します」


 聖騎士ナトームに呼ばれて彼の部屋に訪れたのは、彼と十数年来の付き合いである法騎士ダイアンだ。うむと小さくナトームがうなずいたのを見て、ダイアンもナトームと向き合う形で椅子に座る。勝手知ったる仲ではあれど、座ってよいと言われるまでは着席しないのが上下関係だ。


「僕に用事とは?」


「特に用はない。世間話がしたかっただけだ」


「あなた僕の足が不自由なのは知ってるでしょ~?」


 かつて魔将軍エルドルを討伐した戦いで、深い傷を負った二人。当時はその後、医療班や魔法使いの献身的な努力によって一命を取り留めた両者だったが、どうしても完全なる治癒が果たせぬ部分も体に出来てしまった。神経の一部を損なったナトームは、今も右腕が現役戦士時代の時のようには動かせない。ダイアンも、左脚に根深い後遺症を残し、戦場を駆けるだけの力が出せないのだ。それゆえ二人は、今は戦陣を退いて参謀職に就いている。


 今では負傷当初より、だいぶ普通に動けるようになったダイアンだが、やはり長い距離を歩くことになると疲れる。それは周知の事実であるから、参謀会議以外の目的などで、ダイアンを歩かせる呼び出しをする者は、暗黙の了解で騎士団内にも少ない。それを承知でたびたび忌憚なく、ダイアンを自室に招くのはナトームぐらいのものだろう。


 もっとも、彼と語らうのはダイアンにとっても楽しいことであるし、たまにはこちらからお伺いするぐらいのことはあっていいと思っている。日頃は格上のナトームの方がダイアンの部屋に来てくれているのだから、尖らせた口を使いつつもダイアンは笑っている。


「で、世間話とは? 第14小隊絡みですか?」


「まあな。近頃はとうとう無断で職場放棄するし、活きが良すぎて生意気なほどだ」


 故郷の母を救うため、城砦都市レナリックを飛び出した騎士ユーステットといい、それを認めた騎士クロムナードや法騎士シリカといい。それだけならばまだ情状酌量の余地もあるのだが、直後には小隊の部下の未来を救うためとはいえ、小隊まるごと大森林アルボルへ小旅行かと。ラエルカンを魔王マーディスの遺産達に占拠された今が、どれだけ大変な時勢であるのか自覚を持てと。


 まあそれはフォローのしようもないので、ダイアンもくすくす笑って応じるのみ。何が可笑しいんだとナトームに睨まれて、すいませんと軽く会釈をしてみたりもする。薄ら笑顔はちょっと残ってしまうが。


「まあ実際大変でしたもんね、第14小隊の処分に関しての会議は。シリカは今までの積み重ねがあるから処分は重くないにせよ、落としどころを探すに苦労しましたよね」


「秩序を乱した者のおかげで、こちらがどれほど手を焼くか。奴らが無自覚であればあるほど、腹が立って仕方が無い。好き勝手に動く部下を持つ上司がどれほど苦労するかなど、法騎士シリカとて知っているはずではないのか」


「ああ、マグニス君ですね。そうですねぇ……今度そういう言い方してあの子叱っておきます」


 まあ、騎士団入りしてからの数年間、品行方正生真面目に騎士として生き貫いてきたシリカだったから、今回の一件で一発解雇ということはなかった。司法官としての騎士団は、そのはたらきが政館にまで響くからかなり厳格だが、戦闘組織としての騎士団はまだ寛容な方である。今回は大きな不祥事だったが、若いうちの一度の大失態ぐらいは大目に見よう、という見解も持ってくれる。


 とはいえ、何の処分も無しとなっては秩序に関わってしまうので、それが最も上層部に頭を使わせた部分だった。示しをつけるために数ヶ月の謹慎としたのは、組織の秩序を守るために絞り出した苦肉の策で、本当ならもう少し重い罰則を設けられていてもおかしくなかったのだ。元より根が厳格なナトームはそちら寄りの人間で、会議においては1年間の謹慎と無給が妥当だと唱えていたぐらいだ。えぐい人である。時勢が時勢であったため、状況次第では謹慎を解いて第14小隊に出兵を扇ぐ可能性もあったと見ていたからこそ、ほぼ無期限かと思えるような謹慎期間を提出した計算もあったのだが。


 とはいえ1年間のその処分はあまりにも破壊的かつえげつないので、上層部の説得の甲斐あって、第14小隊への処分はあの程度に収まった。下に怖がられることの多い聖騎士ナトームであるが、年配の上層騎士達も、こいつが先輩じゃなくてよかったかもしれないなと思ってしまうぐらいである。ちなみに勇騎士ベルセリウスは、昔っからそう公言している。


「寛大な先人の顔を立てる形でその程度に済ませたが、これでも相当に大目に見た措置だ。一定の秩序の崩壊はやがて組織の混沌を招く。次に同じことがあれば、その時はこの程度では済まさんからな」


「ああ、それは本気でしっかり釘を刺しておきます。僕の方からも改めて伝えておきますよ」


「任せるぞ。私では、次に顔を合わせた瞬間、考えが変わりかねないからな」


 形式上では、法騎士シリカの率いる第14小隊に対し、決定権を持つのはナトームである。次は本当にないだろうから、ダイアンもそれを含めてシリカにしっかり話をつけにいくことにした。シリカはこの人の怖さを知ってるつもりかもしれないが、彼女が知らない範疇でのこの人の怖いところなんて、他にも山ほどあるんだから。現役時代のナトームのことも知っているダイアンとシリカでは、付き合いの深さが違う。


 あまりこの話を長々と引っ張るのも嫌なので、ダイアンは話を少しずつ転がすことにした。思い出させて機嫌を悪くすると、ぶり返した怒りでまた何かえらいことを言い出しかねない。


「それにしても、あなたにしては異例の措置ですね。第14小隊全体を謹慎処分にしたというのに、騎士ユーステットには魔法都市ダニームへの外出を許すなんて」


「仕方あるまい。賢者エルアーティ様が、近く行われるであろうラエルカン奪還戦役の際には、出陣を約束してくれた上での申し出だ。その人物が召使いによこせと言ってくる以上、無碍には出来まい」


「えっ、出陣?」


「そうだ。私も目を疑ったがな」


 賢者エルアーティが戦場に赴くことは限りなく少ない。一度目のラエルカン奪還戦役の際に彼女が出陣したのも、親友であるルーネが参戦していたからで、基本的にエルアーティが遠き地に、戦を目的に出陣することは殆どない。彼女の本職は防衛戦なのだ。基本は常に、魔法都市ダニームから動かず、"要塞のエルアーティ"と呼ばれた手腕で、魔法都市の防衛線の40%を彼女一人で果たしてしまう。


 魔法都市ダニームはそもそも攻撃能力には乏しく、一方守備力に関しては鉄壁の布陣であり、賢者が欠けても各国に勝る防衛力をまだ保てるほどだ。それでもエルアーティを欠かすことは、実際ダニームにとってかなりの戦力ダウンである。やがて訪れるラエルカン奪還戦争の際、エルアーティが出陣に赴くというのは、魔法都市ダニームにとって大きな決断である。つい昨今も、エレム王国騎士団がアルム廃坑に突入している隙に、魔王マーディスの遺産がラエルカンを滅ぼしたというのに。敵の本拠地を叩く戦役の際にこそ、本国の守りも疎かにしてはいけないのだ。


 騎士団としては本来、謹慎中の騎士を、求められたからと言って他国に寄越したりはしない。示しがつかないからだ。賢者様とて発言力があると言っても、普通は騎士団の方針として断りたい場面である。そこで、魔法都市ダニームの超重要防衛線である私が、やがて訪れる戦役には手を貸すから、謹慎中だろうが何だろうがその騎士しばらく寄越しなさい、と交渉してきたのがエルアーティ。ここまでされると騎士団も無視できないのである。


「百貫の火薬にも勝る爆弾を、ラエルカン奪還の戦役に向けて確保できたことは喜ばしいことだ。それに対する対価としてなら、謹慎中の騎士一人を生け贄にするのも安いものだ」


「大丈夫ですかねぇ。あの人は何考えてるかわかりませんから、男の子一人ぐらい壊しちゃってもおかしくありませんよ」


「だから生け贄だと言っているだろう」


 無表情でなんてえぐいことを言うのだろう、この人は。眼鏡が光っているではないか。それを見て苦笑してしまうぐらいなんだから、ダイアンも同じ穴の狢ではあるのだろうけど。誰一人、何一つ笑えることなんて言ってないはずなのだが。


「おかげ様で、ルオスやダニームと共同線を繋いでのラエルカン奪還も、さして遠い実行ではなくなった。貴様もそれが近いことを意識づけ、今後に向けて励むように」


「んー、まあわかりました。それにしてもねぇ、うーむ」


「なんだ、騎士ユーステットが心配か?」


 人類にとって前向きな状況に対し、ちょっと渋い表情のダイアン。彼も、騎士一人ぐらいはそんな形で役立てるのもよしと考える、参謀の血を持っているはずの人間なのだ。ユースの尊厳を案じてそんな顔をするほど、優しい人物ではない。


「貴様は法騎士シリカに対しての入れ込みが強いからな。騎士ユーステットを使い物にならなくされては、今後の法騎士シリカに響くという見込みか?」


「まあ大方そんなとこですよ。シリカにとって言えば、初めて下から突き上げてくる後輩ですからね。今までの騎士団における彼女の後輩と言えば、誰も遠いその背中に追いつけもしませんでしたから」


 上の人々を目指して走り続けたシリカの成長は著しく、それは今でも加速するばかりだ。そんな彼女を下の者が追いかけ、シリカに追いつくのではないかという様を、ダイアンは一度も見たことがなかった。人を最も成長させるのは、上を追う志と、追いついてくる下を引き離すモチベーションの相乗効果だと知るダイアンにとって、騎士ユーステットはそれをやってくれる器なのだ。事実、彼がシリカの小隊に入ってからの数年間、シリカの成長はとどまることを知らない。


 その上で、彼女に引き離されることもなく、とんでもない速度で成長している後輩がいる。ダイアンは今の状況をあまり動かしたくない。シリカに対する贔屓目が入っていることは否めないけれど。


「魔導士の――チータと言ったか。あれを第14小隊に参入させたのも、法騎士シリカの隊を充実させることではなく、当時の少騎士ユーステットに発破をかけるためだったのだろう?」


「あーもう、そこまで読んでくれるのあなただけですよ。当時よく言われたんですよ、昔の後輩シリカの隊を膨らませるために贔屓しすぎだって。いやまあ、目的としては一致してますけど」


 同い年で優秀な者が隣に立つというのは、この上ない発奮材料になるものだ。元々あの小隊には、ガンマというユースに近い年の優秀な傭兵がいたが、好機幸いとしてもう一本触媒を差し込んでやりたかった。実際のところ結果を見てみれば、優秀な若き魔導士チータの参入以来、騎士ユーステットはまたも飛躍するように伸びているではないか。


「実際のところ、ナトーム様も少騎士ユーステットの話は聞いていたでしょう? 何度か試験官を務めていらっしゃったこともあるし。あなたが厳しすぎて合格者の少ない昇格試験でしたが」


「一言多いぞ貴様は……まあ、覚えているよ。私はとっとと昇格させてしまえと思ったんだがな」


 騎士ユーステットが長らく騎士昇格試験を通過できなかった上層部の判断には密かな一因があって、成長目覚ましいユースに対しては、上層部も実は早い段階から騎士昇格の素養はありとしていたのだ。それを上層部が認めなかったのは、ユースの戦い方が捨て身過ぎるから。地位が昇格してしまうと、その騎士はその前よりも厳しい任務に携わることが増える。成長性ありと見た若い騎士でありながら、騎士団がユースの昇格を認めてこなかったのは、無鉄砲な彼の戦い方が、大成しないうちに彼自身を滅ぼす結果を招くと、騎士団に危惧されてしまっていたからだ。


 乗馬が下手であることを減点理由にして、昇格を認めぬと誤魔化すのも、あれだけの手腕を示していれば限度がある。騎士昇格試験の最終項目、剣術試験にて上騎士様をあと一歩の所まで追い詰めたユースの成長性は、そうした大人の事情も吹っ飛ばし、ついに彼を騎士昇格の栄誉に導いた。それが昨年秋の話だ。ちょうど、同い年で優秀な魔導士が同じ隊に並ぶようになってから、数ヵ月後のことだった。


「上の連中は、若い騎士に対して優しいんだか甘いんだかわからん。実力はあるんだから、さっさと相応の地位を与えて使ってやればいいんだ。安否など、当人とその上官の責任でいい」


「僕も彼に関しては、もっと早くから昇格させて上で使ってやればいいと思ってましたからねぇ。でないとシリカも、成長著しい後輩に突き上げられてる実感が沸きにくいでしょうし」


 シリカの提出する報告書から何度か感じられていたことだが、ユーステット=クロニクスという人物は主張が少ない表に反し、根っこの方ではかなりの意地っ張りである。そばに自分よりも優れた誰かがいると、追いつけ追い越せで躍起になるタイプだということだ。加えて自己評価の低い性格だから、すぐに周りに劣等感を抱いて、勝手に苦しんで前に進もうと足掻こうとする。当人は苦しいだろうが、結果的にそれは絶えぬ向上心を持つ彼の原動力になってしまうから、あれは驕らないし怠けない。実際ユースが第14小隊の短期隊長を務めた時にも、鍛錬ばかりで遊んでいない彼の生き様が、ダイアンの前に露呈している。


 3年ほどシリカの上官として彼女をそばで見てきて、その後も手元を離れた彼女を見守ってきたダイアンだから、シリカがどういう性格なのかは知っている。シリカとユースは、深いところまで本当にそっくりなのだ。自己評価が手腕に対して低すぎるのも、そのくせ他人の美点には目ざといのも、そうして尊敬した人に追いつきたくて遮二無二頑張ろうとするのも、それで結果的に真面目すぎる生き様が形になってしまうのも、あとついでに二人とも色事に弱すぎるのも。背の高さもなんだか近いし、はっきり違う所といえば性別ぐらいではないかとさえ思ってしまう。まあ、聞いた話によるとユーステットの方は、想いが高じると先輩や上官にさえ口応えしてしまう熱さ辺りがシリカと違うようだが。シリカは基本的に、上の言うことには逆らわない子だったので。


 そんなシリカが、最近では部下を案じるあまり、規律を明確に破ってまで大森林アルボルに旅立つような騎士になってしまったというのも、ある意味では面白い。誰に影響されたのやら、と考えると、二人の間に生じる相互作用というものに、興味が深まっていく一方だ。


「あんまり騎士ユーステットを駄目にされたくはないんですよねぇ。彼がそばにいることが、きっと法騎士シリカにとっての……」


「もういいもういい、わかった。貴様が第14小隊や、法騎士シリカに強く入れ込んでいることは前々から知っている。わざわざ強調しなくていい」


 ダイアンはシリカの上司であるが、他にも多くの騎士達の上司を務める身だ。特定の部下に対して目線が偏るのも、人の性として目を瞑ってやれぬこともないが、それが表面化してしまうとまずい。仕事さえちゃんとやるなら、多少の勝手は見過ごしてやってもいいが、それが高じて仕舞いにどこかから不満が漏れてきたら、それは組織の不和に繋がってしまう。


「好きにやればいいとは思うが、責務だけは常に果たすことだ。結果を出せぬ貴様であるなら、私とて貴様への処分を下す権利はあるのだから」


「ええ、勿論ですとも。下手を打って、この参謀職の席を追われたくはないですからね」


 法騎士スズを目で追っていた時にも、彼女が騎士団の一等星になる未来が見えた気がした。それは年の近い友人に対する贔屓目もあったし、夢見がちな若い思想も伴ってのものだっただろう。彼女がいなくなり、法騎士スズの代役のような立ち位置に押し上げられたシリカのことは気の毒に思っていたダイアンだが、時が経つにつれ彼女は、過去の女傑の輝きに勝り自らを磨き上げている。そんな彼女を陰から支えられる立場に回れる参謀職は、今のダイアンにとって手放したくない地位である。


 法騎士スズの代わりを、法騎士シリカに求めているわけでは決してない。一人の人間として、今はまだ若き彼女がやがて大成し、騎士団の一番星に輝く予感がしてならないからこそ、それを最後まで見届けたいのだ。参謀職という席に就いた騎士である前に、ダイアンとて誉れ高き騎士団を敬う想いから騎士を志した一人である。その中で要人となった現在、最も近くで大樹の成長を見届けられる喜びは、決して誰にも明け渡したくない夢の世界。


 今を必死で生き抜いて、周りを見渡す暇もなく駆け抜ける若い志の数々。それを見守る先人の目は、自らを省みることを真に望んでなどいない。大輪の花を開くその姿を、輝かしく見せてくれればそれだけでいいのだ。


「はぁ、でもやっぱり心配ですね。エルアーティ様に、あの子を預けるなんて」


「そう不安にばかりなるようなことでもないぞ? それは上手くいけば、貴様にとっても予想だにしなかった、望ましい展開をもたらしてくれる可能性もある」


「そうですかねぇ? あの人は底が見えませんし、手放しに何かを求められる方ではないんですが」


「なんだ、貴様は知らんのか? エルアーティ様は――」











 一人の船旅。なんて寂しいのだろう。エレム王都から魔法都市ダニームまでは、海路一本で向かえるが、小隊の仲間達の連れもなく、たった一人で水面を眺めるユース。ダニームへ行くことは過去にも何度かあったものの、小隊の任務として行くこと以外は殆どなくて、常にそばにはシリカないし誰かがいた。今はそうではない。そして、別に寂しがり屋でもないユースが、妙に心細く感じるのは、先に見え見えの不安がいっぱいだからだ。


 賢者エルアーティに関して、いい思い出が一つも無い。一切無い。初対面の時にはあの妖しい瞳で心までわし掴みにされ、ピルツの村跡地でも子供呼ばわりされ、短期隊長任務の際にもキャルに詰問する彼女の気迫を見せ付けられ、リリューの砦跡では死者蘇生の魔法の研究に付き合わされ、ひどいものを見せられて。顎を指先で撫でられたあの日の第一印象から、見改めるどころかどんどん忌避すべき人だと印象を強めている賢者様に、どうして単身会いに行かねばならないのか。正直、何の罰ゲームなんですかと言いたい。


 しかも今回は、会ってそのまま帰れるわけではないのだ。召使いとしてエルアーティのそばで働くように求められ、それを受けた騎士団までもが、騎士ユーステットにそうするよう命令している。驚くほど逃げ道がない。騎士団の命令どおりにエルアーティの召使いになって、これから数ヶ月間、彼女の言うことに逆らえない立場になるしかないのだ。これが戦場を無断放棄した自分への罰だというのなら、甘んじてそれを受けねばならぬのはわかるつもりでも、ここまで夢も希望も無い処罰はないだろと。あの意地悪な魔女の言うことに逆らえない立場にされてしまったら、何をさせられるか本気でわからない。


 歴史を紐解く限りでは、外法の魔導士は自らの魔法を追究する過程の中で、非人道的な、あるいは残虐な行為に踏み出すこともあるらしい。具体的に言えば、生きたまま命を切り刻んで中身を見たり、あるいは研究中の魔法を人間にぶっ放して、その威力を確かめたりとか。賢者と呼ばれるエルアーティが外法に手を染めるとは思いたくないが、向き合うたびにあの妖しい瞳を向けてきた魔女、かつ蘇生魔法の実験でむごい光景を目にしても、顔色一つ変えなかった大魔法使いだ。まさかとは思うが、自分もそんな目に遭わされる可能性が一厘でもあると思えば、ぞわりとせずにはいられない。今は夏、思わず身震いしたのは、絶対に気温のせいではない。


 そんな最悪が脳裏によぎった瞬間、船の汽笛が鳴ったりするのだ。魔法都市ダニームに着きましたよ、と。いやちょっと待って下さい、心の準備が全然出来てないんですけどと。むしろ今が、一番メンタル追い詰められてるタイミングだったんですよと。


 船から降りてダニームの地に足を踏み出すのも怖いユースがまごついていると、いつしか甲板に残っている船員以外の人物は、ユースだけになってしまう。大丈夫ですか、と声をかけてくれた船員は、ユースが船酔いにでも襲われているのではと心配してくれたのだろう。確かに顔色は悪かったかもしれないけど。


 一っ恥かいたあと、沈痛な想いでダニームに足を踏み入れたユースは、巡り馬車に乗ってエルアーティの待つダニームのアカデミーに向かう。やがて間もなくして見えてきたアカデミーは、美しい均整を持つ綺麗な建物だ。芸術の都の真ん中で、本来見る者の目を惹くはずのこの建物が、今のユースには魔女が待つ不気味な館にさえ見えてしまう。まあ仕方ない。


 アカデミーの玄関口を守る番人に、騎士団から預かってきた通行証を見せると、道を開けてくれた。本館に入ったユースは、エルアーティから騎士団に預けられ、ユースの手に渡ったアカデミーの見取り図を頼りに、ある一室へと向かっていく。内装まで美しく凝られた、芸術の都の集大成たるアカデミーだが、今のユースにとってはそれを楽しむ暇もない。


 今までダニームのエルアーティに会いに行く時は、図書館に居座る彼女の元へ行くことが多かった。エルアーティは賢者の特権の一部を利用して、図書館の一角に自分の私有地を増設させ、そこで寝泊まりしているのが普段の生活らしい。だったらもうそこで会えばいいはずなのに、この日に備えてエルアーティは、アカデミー内にて一人の学者が寝泊とりしていた部屋を、交渉した末に短期間借り切った状態にまで持っていったという。多分ここまで来ると、賢者特権とかじゃなく、金で解決してる気がする。


 その部屋主はこれからしばらくどうしてるんだとか、その辺りのこともこの際どうでもいい。個室かよと。逃げ場なしの閉鎖空間であの魔女とご対面ですかと。見取り図に従って歩けば、目的の部屋はどんどん近付いてくるが、本音を言えば振り返って王都まで走って帰りたい想いである。


 残念ながらその想いとは裏腹に、平凡な木の扉の前に辿り着いてしまった。この扉の向こうに、出来れば会いたくなかった人がいる。息を呑んで、深呼吸して、出来ればこの際何かの間違いで外出中であって欲しいななんて考えて。覚悟を決めたユースは、扉を叩こうと拳の裏を持ち上げた。


「ノックせずに入っていいわよ? ユーステット=クロニクス」


 やばい、補足された。扉を叩く前に向こう側からそんな声が聞こえてきたことには、ユースも口から心臓が飛び出しそうになった。どうして見えてもいない場所から、こっちの存在を認識しているのか。


 もうここまで来ると、覚悟を決めるしかない。初めからわかっていたことじゃないか、退路なんてないことは。戦場に赴く時だって、常に死を覚悟して臨んだはずなのだ。ユースはそうした時の想いを必死に胸に刻みつけ、未知なる空間に踏み込むことを決意する。


「失礼しま……」


 前言撤回、やっぱり帰りたくなった。扉を開いたユースの前にあったのは、狭い部屋の真ん中に椅子を置き、真っ直ぐユースを迎える方向に座ったエルアーティだ。そして彼女を中心に、白い霧のようなものが部屋を満たしており、煙に満ちたように視界の悪い室内は、ユースの心に今すぐ逃げろと非常警報を鳴らす。


「何を戸惑っているの? ほら、こっちにいらっしゃい」


 霧の向こうで妖しく笑っているエルアーティが確かに認識できる。嫌ですって言っていいのなら、迷わず言いたい。だけどそういうわけにもいかないから、恐る恐るながらユースはエルアーティに歩み寄る。


 あと二歩踏み出せば、エルアーティに触れてしまうという位置で、ユースが立ち止まる。ご挨拶の言葉をユースが作るより一瞬早く、エルアーティは椅子から立ち上がり、部屋の入り口へと歩いていく。そして、振り返って彼女を負うユースの目の前、部屋の入り口でもあり出口でもあったその扉を閉じてしまった。


 扉を背にしたエルアーティが、後ろ手でがちゃりと鍵を閉めた音が、一気にユースの全身の鳥肌を立てた。同時に、部屋を覆っていた白い霧が晴れていく。窓もなく、唯一の入り口であった扉を封じられ、逃げ道が完全に塞がれた瞬間、封鎖空間となった室内の全貌が明らかになっていく。


 部屋の隅にある本棚や机はいい。机の上に置いてある釘と金槌、のこぎりが気になる。日曜大工を好むような賢者様じゃないですよねと。ベッドの上に置いてある、犬か何かにつけるような首輪らしきものも、何のために用意されてるのかわからない。大きな鏡は、賢者様も女性、身だしなみを整えるために使うものだと納得してもいいが、その鏡に細い鎖が巻きつけられている意味がわからない。一番気になるのは、壁に突き立てた釘にかけられた、馬の尻を叩くための鞭だ。


 何一つ安心できる要素のない部屋の中心でユースが困惑していると、エルアーティがユースの方へと歩いてくる。そして、ずずいっとユースの足と自分の足がぶつかるような距離まで詰めてくるので、ユースも後ずさらずにはいられない。そしてユースのすぐ後ろ、今しがたまでエルアーティの座っていた椅子があるという状況にまで至って、ようやくエルアーティが足を止めた。


 とん、とエルアーティがユースの胸を押すと、重心が後ろに傾いていたユースは後ろによろめき、綺麗に椅子に座らされる形となった。にやりと笑ったエルアーティが、椅子に座ったユースによじ登り、膝立ちでユースの太ももの上に立ちそびえる。


 子供のような背丈の賢者様が、至近距離で高い目線から見下ろしてくる。ユースの肩に右手を置いてバランスを崩さないエルアーティは、あまりの展開に怯えるユースを瞳に映し、ぺろりと舌で唇を濡らした。


「ようこそ、ユーステット。歓迎するわ」


 まさに蛇に睨まれた蛙。何をされても文句が言えないであろう日々の始まりは、初日からユースの心を粉々に粉砕していた。


 これが、昨日の出来事である。

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