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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第11章  三十年間の叙事詩~オデッセイ~
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第180話  ~6年前③ 不味い酒~



 エレム王国は南国寄りであり、真冬でも雪が降らない。空が曇れば、空から降ってくるのは雨だけだ。時々雨が降り出すのは別に構わないにせよ、こんな日に空を雲でいっぱいにつつんで、しみったれた雨を降らせるなんて、空の神様も意地悪なものである。


 酒場、"こころのゆりかご"から、騎士に手を引かれて出てくる老夫婦がいる。罪人であることが確定した状況だというのに、手枷もはめずに騎士に優しく手を引かれる酒場の店主夫妻。老体を気遣っての配慮ではあるものの、この先二人がどこに導かれていくかを知るシリカは、目の前を横切っていく背中を丸めた老夫婦のことを、とても明るい気分では見送れない。


 当の酒場に対しての捜査を進めていた高騎士ダイアンは、先日ついに事件性ありと判断し、酒場店主のイネーブを起訴した。その前から集められていた情報を元に、エレム王国と魔導帝国ルオスが綿密な捜査を実行したところ、事件は明るみになった。"こころのゆりかご"で働いていた、幼い少女の人相書きは大きな手がかりとなり、それを足がかりに彼女の身柄を元々預かっていた商人に辿り着き、帝国の厳しい追及の末に証言が取れたのだ。すなわちルオスの商人が、金銭を受け取って、イネーブに少女の身柄を引き渡したという自白である。


 当の商人はルオスの方で裁きを受けるだろうが、エレムに過ごすイネーブも同罪である。裁く法はイネーブが今過ごすエレムの法律に則るとされたが、こちらでも罪人とされることに変わりはない。騎士団による立ち入り調査が入ったところ、イネーブも特に抵抗する素振りを見せず、己の過去の所業を認め、騎士団の縄についた。"こころのゆりかご"の店主夫妻が、悔いはないとばかりに手をつなぎ、騎士館へと向かう馬車に乗り、連行されていく。罪状を知らぬ周囲の野次馬は、何があったのかとどよめきに溢れているが、見送るシリカは何があったのかも全部知っている。


 世間にやがて、人身売買の罪が明るみにされるであろう一方、彼が行ったことはその言葉から連想されるような、悪質な人買いではなかったことも。イネーブを敬愛していたクロムも、このことをもう知っているのだろうか。馬車が進み始め、事件が終わりに向かっていく光景を、シリカは煮え切らない想いで見送っていた。






 この日高騎士ダイアンの率いる第6中隊の預かった仕事とは、すべてが例の事件に関わるものであり、中隊のメンバーは全員王都内にとどまる形である。シリカもその例に漏れず、書類の整理や情報をまとめて騎士団に届ける、隊長ダイアンの手伝いをしていた。法に反する罪人を一人捕まえて、それを裁くための正義の執行へ向かうための作業が、こんなに胸を張れないものだったなんて、昔は予想もしなかったことだ。


 暗い表情で黙々と仕事を進めていたシリカに、不慣れな彼女を気遣ったダイアンは、外の空気を吸っておいでと言い渡し、彼女を見送った。暇を頂いたシリカがその後向かったのは、騎士館の訓練場にて射手の部下を指導する、高騎士タムサートの所。クロムは当時、この隊に所属して戦うことが非常に多く、その隊長タムサートならばクロムが今どうしているかも知っているかもしれない、と思ったからだ。


 傭兵であるクロムは、任務の日以外は騎士館に毎日来るわけでないので、タムサートに彼の所在を尋ねても、いい返事は返ってこなかった。だが、もしも彼の姿を見たら、高騎士シリカが探していたと伝言はしようと約束してくれた。頭を下げてその場を後にしたシリカは、しばらく騎士館の中を適当にうろついて気分転換したのち、ダイアンのもとへと帰っていく。


 慣れないデスクワークにも、気概が乗れば努めることが出来るはずのシリカ。夕暮れ時になっても、ダイアンのそばで晴れぬ顔のまま仕事を続けるシリカに、とうとうダイアンも気になって声をかけた。シリカは無表情に努めて仕事に向き合っているつもりでも、演じた仮面で周囲に自分の心を偽って仕事に従事できるほど、18歳の彼女は出来上がっていない。


 大丈夫です、何でもありません、と、しばらく元気のない笑顔を返していたシリカも、ダイアンが何度も問いただしたところ、ようやくその胸の内を語り始める。語り始めた途端、今まで無表情で貫いていたつもりの顔が崩れ、憂いをいっぱいに現してしまうシリカ。彼女なりにも抑えていたのだろうとは、見え見えだと感じていたダイアンもそれで感ぜられた。


 傭兵クロムナードに聞かされていた、店主イネーブの事情を語り終えたシリカの隣、ダイアンは無表情で書類に目を落としている。イネーブが行ったことは、予想していたような悪質な人身売買ではなく、商人に酷使されていた少女を助けたくての行動。そしてその身柄の引渡しをルオスにて行わなかったのは、それが露呈する足を残せば故郷のエレムに帰れなくなるかもしれないから。いずれも、初めて聞く情報だ。


「ダイアン様……私がもしも、この話を、もっと早くにしていれば……」


 クロムから聞いた話をそのままダイアンに話してしまえば、それはイネーブの罪を証言することに等しいことだ。だからシリカもダイアンにこの話を割ることが出来なかったが、今になれば、こうした事情を先に言っておけば、ダイアンも仏心を見せてくれたのかもしれない、と思ってしまう。勿論、それに対するダイアンの返答も、首を振るものだ。


「君が何を話してくれても、僕はこの起訴に乗り出していたよ」


 シリカはクロムを信用しているが、ダイアンはクロムの話した美談を鵜呑みにしなかっただろう。何より、そうした事情はすべてを明らかにさせた後に調べればいいだけの話だ、と、ダイアンは考える。嘘か真かわからぬままの証言を頼りに、捜査そのものを打ち切りにするなど、事件を追う立場の指揮官にはあってはならないことである。


 たとえそれらがすべて真実で、イネーブの行動が批難されるような悪質な行為でなく、その上で彼に、前科という十字架が背負われることになってもだ。罪には罰を。エレム王国の司法を預かる騎士団の席に座るダイアンの決断は、感情によって左右されるものではない。


「……それを知りながらこの事件を追っていたのは、つらかったと思うよ」


 話を終え、顔を落として無言で動かないシリカの肩を横から優しく叩き、ダイアンは僅かな悔いとともにそう言った。高騎士となった彼女に、経験を積ませる意味でこの手の任務に関わらせたのは、いい意味で成功だったと思う。だが、18歳の彼女の心を引き裂いたこの事件の顛末はあまりにも重く、肩を落としたまま上げられないシリカを見ていると、打ちのめしすぎる結果も残したかと思えてならない。試練はやがて人を強く育てると言うが、今の彼女があまりにも痛ましい。


「やっぱり、今日はもうお休み。仕事に手をつけようとしても、身が入らないだろう」


「しかし……」


「いいんだ、大丈夫。おかげ様で情報の多くは整理できたし、あとは僕達だけでも済ませられるよ」


 夕食時まで時間があるような時間帯だが、ダイアンは今の仕事からシリカをはずし、気を晴らしにでも町を歩いておいでと言う。複雑な心境のシリカではあったが、すみませんと一言だけ言い残し、第6中隊の仲間達が集うオフィスルームから退出していった。











 再びタムサートを探し、彼に出会ったシリカは、代わりにクロムからの伝言を受け取る形になる。騎士館のそばにある小さな酒場、そこで会おうとクロムからの伝言を、タムサートは受け取っていた。待ち合わせの時間は夕食時を過ぎた後だったので、シリカは中隊の仲間達への夕食を作り上げると、はやる足をそちらに向かわせる。事情を知るダイアンは勿論、周囲の仲間達もそれを見送る形だ。


 いつから待っていたのか、酒場奥の個室には、すでに酒臭いクロムが一人酒を進めていた。空いた酒瓶は店員が持っていってしまうから、彼が今日どれほど飲んでいるのかはもうわからない。それでも部屋に充満する酒気は、素面(しらふ)のシリカの鼻を刺激するほどのものだ。


「すまない、遅くなってしまった」


「……悪いな、忙しいところを呼び出してしまって」


 会いたかったのはこちらも同じ。敬愛する人が汚名を背負い、騎士館へと連行されていった事実は、彼の心を打ちのめしたはずだ。かける言葉は何時間考えても見つからなかったが、大酒をくらった後であろうにも関わらず、クロムは柔らかい笑みでシリカを迎え入れてくれた。シリカも度の弱い酒を注文し、静かな個室でクロムと乾杯の音を鳴らす。


 聞いたところによると今日一日、クロムは王都に住まう友人達に声をかけることと、ルオスの知り合いに手紙を出す作業に明け暮れていたという。目的は、罪人となるであろう商人イネーブにつく弁護人を探すこと。あるいは彼の行動の真意を証言し、彼の減刑を望む嘆願書を集めるためだ。それをクロム一人でやるわけでは勿論なく、イネーブと親しかった人々の多くも、同じ行動に移っているらしい。


 嘆願書を集めれば減刑はよく叶う、という話では決してない。それでもその希望にすがりたくなるほど、クロムにとってイネーブという商人は、単に汚名を着せられることが忍びない人物だったのだろう。かつてクロムの口から語られた、根は熱くなりやすいが人情に富んだイネーブの昔話。それを心から楽しげに語っていたクロムの口ぶりからも、イネーブに対するクロムの想いはシリカも推して知る。


「……上手くいきそうか?」


「甘い展開にはならねえだろうな。旦那はエレムでの商売権限を剥奪、場合によっちゃあ、ルオスの刑罰次第では、向こうにて独房入りも考えられるだろうよ」


 いつの間にか乾杯を交わしたグラスを空にして、水や氷で割ってもいない酒を瓶から直接口に運び、ぐいぐい荒い酒を飲み始めているクロム。彼が酒に強いことは知っているが、そんなに飲んで大丈夫かと、シリカも思わずにはいられない。


「で、あの子をどうするつもりなんだろうな、騎士団は」


「……騎士団は、あの子をエルステッド孤児院に預ける手筈を組んでいるよ」


 酒場"こころのゆりかご"で、店の中を従業員として駆け回っていた少女のことだ。イネーブが罪人として連行された以上、少女も身柄をイネーブから引き剥がされるだろう。再び身寄りの無くなってしまう少女に、新たな居場所を設ける騎士団の配慮も、しっかりしている方だ。


「それであの子が幸せになるんならいいが」


 皮肉めいた口調でそう言い放つクロムだが、シリカもそれには同意したい想いだ。連行されていく夫妻を見送ることしか出来ない彼女は、何度も何度も事情を騎士団に訴えかけていた。イネーブは、自分を助け出そうとして、お金まで払ってくれたのだと。二人のそばにいられて、ずっと幸せだったと。二人は何も、悪いことなんかしていないと。泣きながら、すがるように騎士にしがみつき、雨の中で傘もささずに訴え続けていた彼女の姿を見ていたシリカは、イネーブと引き剥がされた少女が幸せに笑う未来を想像できない。


「親を失い、厳しい商人にこき使われる毎日から救ってくれたあの二人が、どれだけあの子にとって大きかったかわかるか。エルステッド孤児院の婆さんは確かに立派な人格者だし、長い目で見ればあの子にとって幸せへの道を作ってくれるだろう。だが、旦那と奥さんの代わりは誰にも出来ねえ。俺はあの二人から、あの子を引き剥がすことが、あの子にとっての幸せだとは思えねえ」


 考えてもみれば、大人達の都合に振り回され、再び身寄りを失うことになるあの少女。せめてもと代わりの居場所を用意しても、それが最善ではないとクロムは断言する。それは、少女にとってのイネーブがそうであったように、裏の社会で生きてきたクロムがかつて商人イネーブに元気付けられ、今日まで生きてこられてきたことにも由来しているのかもしれない。


 理屈ではなく感情なのだ。そもそもの発端は何だったのか、何が原因でそうだったのかなど、今のクロムにとってはどうでもいい。犯人探しをしたって仕方がない話なのだ。良き形で法の網をくぐることが出来なかったイネーブが、すべての引き金をそもそも引いたという冷徹な見解も、クロムに言わせればそもそもイネーブがいなければ、彼女の幸せはあったのかという話になる。


 運命を責めても、何にもならない。少女を引き取ったイネーブが、ルオスで商売を営むことを選び、故郷に帰ることを諦めていたならば、こんな結末にはならなかった。それを追及して何がどうなるのか。じゃあイネーブが全て悪いのか、と、クロムの青筋が立つだけだ。


「なぁ、シリカ。すべてが丸く収まる道はなかったのか。還暦を迎えたあの人が故郷に帰ることが出来、あの子もルオスから救い出せるような道は」


「……わからないよ、もう。私だって、今がそうであればよかったと思ってる……」


「とどめを刺したのは騎士団だ。騎士団は目を瞑ってくれなかっただろう」


 酒瓶をテーブルに置き、シリカに睨むような眼差しを注ぐクロム。彼が見据えているのはシリカ本人ではなく、彼女の背中の向こうにある騎士団だ。


「……騎士団のしたことをお前は否定するのか」


「するさ。あいつらが何もせず、見過ごしてくれていたならこうはならなかった」


「やめろ……そんな言葉を、お前の口から聞きたくない……!」


「ふざけるな、大人でいられるか。人の事情も聞かずして尊厳に踏み込んで、罪人の肩書きだけ背負わせて国を追い出すんだろうが。罪は罪だと、便利な言葉だよな」


「騎士団は裁かれるべき罪を犯した者を探し、それを捕らえることに努めていただけだろう……!」


「結果を見ろよ。騎士団がもたらした結末は、丸く収まり慎ましやかに生きていた市民を晒し者にして、その幸せを奪い去っていっただけじゃねえか」


 抑えた声でも怒気を孕んだクロムと、徐々に声を張って熱情をあらわにするシリカ。どちらにだって、譲れないものがあり、ここで引く譲り心など持ち合わせていない。酒の入った二人の騎士団員が、言葉を拳代わりにぶつけ合う。


「だったらお前はどうするべきだったと言うんだ! 騎士団は、そうしたすべてのことにまで目を向け、一番の幸福だけを掴まなければ批難されるというのか!」


「その言葉そっくりそのまま返すわ。旦那の所業を、過程は事情を抜きにして、顛末だけを悪しきとして裁きにかかっているのが今の騎士団だろうが」


「そんなこと私は言ってない! そんなことを言い出したら、騎士団には何が出来るんだよ!」


「今からでも旦那の罪状を、事情を知って温情汲み、無しにしてくれるなら俺だって文句は言わねえさ。そうはならねえだろう。お前もその流れを見てきたんじゃねえのか」


 クロムの指摘はそのとおりで、騎士団はイネーブの罪状を今さら覆したりはしないだろう。明確に違法行為を犯した者を、事情を汲んで無罪とすることなど、法治国家の番人としてあり得ない。それを許せば、やがて法治国家は秩序を失い、混沌への道を歩み始めるだろう。クロムだってそれぐらいのことは、彼本来の思想からならば肯定してくれるはずの道理である。


「法を犯した者がそれに対して償う、それがルールというものだろう……! 騎士団のやっていることは、決して間違ってなんかいない!」


「市民虐めて私達は正しいです、って言い切るんだな」


「お前、言葉は選べよ……!」


「選んでるさ。60超えたあの爺さんが、罪に見合った刑罰受けて体がもつと思うのか。ただでさえ短い寿命を死に近づけるのは騎士団の功罪以外の何でもねえ」


 日頃ならば肯定しているはずの騎士団の信念を否定してまでクロムが意志を曲げないのは、真に迫ってイネーブの命が危ぶまれる道が目の前に見えているからだ。還暦も過ぎ、商売を営む生き甲斐を奪われ、故郷を追われて生きていくあの人に、どんな明るい未来が待っている? かつてお世話になった人物が、そうした境遇に追いやられることに、感情を抑えて道理を肯定できるほど、21歳の豪傑はおとなしくなれない。


「たった一度の失敗が人生を狂わせる、一寸先は闇。それがこの世の現実だって言うのならそう言えよ。今から絶望に向けて背中押されてる爺さんに目も向けず、己達の正しさだけを唱え続けて、こっちからすれば馬鹿にしてんのかって気分だよ。お前は身内がこんなふうに国に殺される形になったとしても、今と同じことを言ってられるのか?」


「っ……うる、さい……! わかるもんか、そんなもの……! もしかしたらその時には、私だって騎士団に唾を吐いているかもしれないさ……!」


 意地を張らず、あるいは意地を貫き、今のクロムの気持ちを自分に置き換えて言葉を連ねるシリカ。人間は、今言っていることと未来やっていることが必ずしも一致するとは限らないし、それを正義の屈折だと主張するのは、人の心をわかっていない浅い見解だ。ここで相手を論破するためだけに、自分がお前の立場ならばそんな奴にはならない、なんて言うようなシリカなら、今日までにクロムと馬が合ってこれたはずもない。


「だけど、間違えたのはご主人なんだ……! 社会に生じた歪みを正すために動いた騎士団を、そんな言葉で糾弾するなよ! 私たちは、そのためにずっと働いてきたんだぞ!」


「結果主義で人を裁くくせに、自分達が望んだハッピーエンドじゃなかったら、こんなはずじゃなかった許せよ、って吠えるのかよ。騎士団が奪ったものは決してあの人には帰ってこねえんだぞ」


「だから、そうじゃなくて……!」


「親父に近く尊敬してた人を罪人として吊るし上げられて黙ってられるか! 旦那は故郷に帰りたかった、あの子を救いたかった! ただそれだけじゃねえか! その行動の末路があれか!?」


 酒瓶の底をテーブルに叩き付けて怒鳴るクロムの激情が、真っ直ぐに親しき友人の胸に突き刺さる。だが、轟音に思わず片目を閉じたって、シリカも体を前に傾けたまま一歩も退かない。見慣れない友人の激怒を前にして怯む程度の信念で、心のぶつけ合いに臨んでいるわけでは決してない。


「それは私だってわかってるよ! それでも、それを総じて秩序なんじゃないか!」


「秩序を盾に、人の人生ぶち壊しにして開き直るのか……!」


「私達だってそれを望んでいたわけじゃない!」


「……次は旦那が悪いとでも言うつもりか」


 事の発端は人身売買の発生。それは純然たる事実でしかない。シリカの主張を伸ばしていけば、原因がどこにあるかという結論はクロムの言うところに帰着する。決して極論ではない。


「お前な……!」


「いや、お前、気をつけて返事しろよ? 旦那が悪いって言い張るのか?」


「違う! 私が言いたいのはそんなことじゃない!」


「だったらそれ以外の言葉で、何が発端だったのか言ってみろよ! お前らは正しかったんだよな!? 旦那を罪人として晒し上げて、暗い余生を強いて、非は己に無いってずっと言ってるよな!?」


 わかってくれない。唇を震えさせて、シリカは目に涙さえも浮かんできそうな想いだ。騎士団が、クロムが、社会の陰が、一気にシリカ一人を押し潰そうとしてくる。席に腰を座らせていなければ、壁に背中をもたれさせて支えないと、立ってもいられないほど心がぐらついている。


「っ……わ、私が、騎士団は間違っているとでも言えば、お前は満足してくれるのか……!」


「……そういう話をしてるんじゃねえ! 旦那は間違ってなんかいなかったことを、俺は伝えてえだけだ!」


「だったら、そう言えよ……! そんなこと、私だって最初っから……」


「わかってくれてたって旦那の運命は何も変わらねえじゃねえか! 救いを求めて嘆願書を集めたって、現実見据えりゃ気休めにもなりゃしねえんだよ! ちくしょうが!!」


 割れそうなほど酒瓶を握り締め、クロムは拳をぶるぶると震えさせている。いかに彼が、かの商人を慕い、その余生が穏やかに送られることを望んでいたか。言葉ではなく在り体だけでそれを伝え示してくる手先が、表情が、ままならない現実に対する彼の嘆きを表している。


 世界を変えたくても、変えられないから。目の前にある暗黒を退けたいのに、退けられないから。哀惜は酒の代わりに口から溢れ、悲鳴に近い形で形になる。魔物達に大切な人を奪われ、同じ運命を繰り返すまいと騎士を志した英雄達、彼らが若き日に抱いた苦しみと、今のクロムの哀しみは違うものだろうか。大切な人の残り僅かだった生涯が闇に閉ざされ、その引き金を引いた組織が明らかにそばにいるのに?


 理路整然と話を詰めれば、誰が悪くて誰が原因だったかなど、"正論"で以って簡単に答えを導き出せる。それで納得できるのが大人というやつで、それでも認めぬとする思考を表に出す奴が、子供だと言われる。それが社会。そして成人してから天寿を迎えるまで、ずっと常に"大人"でい続けられる人間など、この世にはひと握りしかいないのも現実なのだ。だから世の中はいつまでも理不尽と不可解に溢れ、恵まれた世界に生きる人達にさえ、平等なる満ち足りた幸福が常にもたらされるとは限らない。


 幾千幾万幾億の人々の平穏と、その秩序を守るための組織と法。だけど、社会を支える神様の手は、決してそこまで広くない。そうでないならこの世から、喧嘩やいさかい、戦争はとうの昔に無くなっている。


「答えろ、シリカ! 故郷に帰りたかった旦那、あの子を助けたいと思った旦那、その願いを両立させようとしたことは、それほどまでに罪深いことだったのか!?」


「そうじゃ、ないさ……! でも……!」


「お前らが勝手に救おうと意気込んでいたあの子が、一度でも騎士団に助けを求めてきたのかよ!? どうしてお前ら法の番人どもは、必死で何十年も生きてきた奴の小さな粗を見つけて、幸せをぶち壊そうとするんだよ!」


「違う……違うんだよ、クロム……私達が目指していたのは……っ……」


「誰が幸せになったんだよ! 答えろよ! 正義ぶって何も知らずに小さな幸せ摘み取っただけの騎士団を、気高いお前の口で庇うんじゃねえっ!」


 抑えられない想いを吐き出すクロムと、想いの丈を精一杯言葉にしようとするシリカ。クロムだって、自分の痛みをシリカが汲んでくれていることはわかっているし、だから最後ようやく、シリカを気高いと評して騎士団とは切り離した。それでも止められないのだ。愛する人の幸せを奪われた痛みを、黙って胸の内に封印するには、この時のクロムは若過ぎる。


 大切な人の人生が闇に閉ざされた嘆きと、その引き金を引いた騎士団への痛みに囚われたクロム。騎士団の正義とクロムの嘆きの板ばさみにされたシリカ。だけど、ぶつけ合わなくてはわからないことだってある。少なくともこの時まで、クロムがここまで深い悲しみを抱いていることなど、シリカには想像しきれなかったことだ。知らずに明日を迎えていれば、わかったつもりで薄い言葉をクロムに投げていたかもしれない。それを想像だにしていなかったシリカだからこそ、彼の苦しみを知った今、理不尽な責め立てを前にしてなお、痛みを受け止め騎士団の志を真っ向からぶつける、正しき意味での代弁者となっている。


 彼女が騎士である以上、どこまで行ってもそれが気高き騎士としての姿なのだ。己の行動に信念持たずして、数々の決断に踏み込んでなど来ていない。それによって生じた何かによって、たとえ予想外の痛みに直面したとしても、逃げずに向き合うことで前に進んでいく。それが信念に基づいた、本当の意味での覚悟というものだ。






 この日二人の語らい、あるいはぶつかり合いは、日付変わる頃の酒場閉店時間まで続いた。店の最奥個室にて行われた小さな戦争に、エレム王都は無関心だ。誰もそばにいないその席でほとばしっていた二人の激情など置き去りにして、今日も世界は回り続けている。


 広く大きな世界に対し、たった二つのちっぽけな命が、心が引き裂かれそうな痛みとともに、今を確かに生きている。だけどこの日、二人が形にして吐き出したような心の闇を、表に出すか出さぬかの違いはあれど、誰もが胸に抱えて生きている。それが人間社会というものの実態であり、魔王が討伐された平穏な時代になったとしても、常に人が向き合っていかねばならない魔物である。


 酒に任せて無茶なことを言い、人を困らせてしまうのは迷惑なことだ。決してそれを弁護するための言葉は、道徳によっては導き出されることはないし、人によってはそれが縁の切れ目になってもおかしくない、極めて罪深い行動である。


 ただ、人はやはり一人では生きていけないのだ。打ちのめされ、立ち上がることが難しい者が再び前を歩いていこうとする時、手を引いてくれる人がいるというのは、勿論何にも勝り幸福なこと。手を引く者も、途中で手を離して放り投げる程度の覚悟なら手を差し伸べるべきではないことを知っているものだし、手を引く者にかかる負担は並々なるものではない。それを掛け値なしで、互いに手を差し伸べ合うことが出来る者同士の間柄を、人は友人と称するのだ。


 翌朝、朝一番で第6中隊の寝泊りする宿舎にクロムが訪れ、シリカに深く頭を下げたのは言うまでもないこと。その際、あの席で涙ぐまされるほど追い詰められたシリカによる、クロムに対する激烈な説教が長く始まったのも、やがてこの時を思い返す未来の二人にとって、いい思い出でしかない。そうして二人は、この日から6年立った将来も、良き友人として肩を並べて歩いているのだから。


 思い出は、美しいものばかりとは限らない。

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