第179話 ~6年前② 罪には罰を~
「ほい、お疲れさん」
「お疲れ様」
あの日以来、シリカとクロムは時々任務の後、酒場で席を共にするようになった。彼女がエレム王国騎士団第6中隊に入って以来、隊の仲間達以外とこうして積極的に食事をすることなど、殆どなかった光景である。そろそろもしかしたらシリカにも春が来たのかな? なんて考えながら、高騎士ダイアンもそれをにやにや見守っていた。シリカを密かに狙っていた、第6中隊の若い男連中には、あまり面白くない展開だったが。
当時、一般人への知名度はシリカよりもクロムの方が高く、15歳から商人に雇われる用心棒まがいの仕事をしていたクロムは、喧嘩屋の二つ名を持つ豪傑として知られていた。その強さは商人達の間でもそこそこ有名になり、おかげ様で彼がエレム王国騎士団の傭兵となる際にも、その名高さは便利だったらしい。この時のクロムは、高騎士タムサートが率いる第19中隊の精鋭の中の一人として、戦場の最前線を駆ける身であった。
ふとした大掛かりな任務で、第6中隊と第19中隊が手を結んだ際、シリカとクロムは初めて戦陣にて行動を共にすることとなった。出会った縁だしお手並み拝見、ということで、双方互いをよく見ていたが、いずれも互いが本物であることを認めたのがすぐのこと。武人肌のシリカは強きクロムに敬意を評し、不器用ながらも騎士としての生き様を貫くことを決めた決意、それを強さに体現するシリカに対しては、クロムも敬意を示さずにいられなかった。出会ってしまえば両者が近付くのは、差し当たって不思議なことではなかっただろう。
「どうだ、ここんとこは。彼氏の一人でも出来てないか?」
「いや、全然。まあ、忙しいしな」
「前からその顔で独り身は勿体ねえっつってんのにな~。仕事にばかり明け暮れてると嫁き遅れるぞ」
当時からこんなやりとりは既に始まっていたのである。まさか6年後も同じことを言い続けることになっているとは、クロムも思っていなかったが。
「余計なお世話だっ。それよりお前はどうなんだ」
「あん? 収入も安定しない傭兵の大男に彼女が出来るとでも思ってんのか?」
「まったく、よくそんな立場で人にものを言えたな」
年上のクロムに対して、敬語もはずして自然体で話すほどには、シリカもすでに肩の力が抜けている。きつめの言葉を笑って交わし、冗談も通じ合えるぐらいにまで至り、クロムも非喫煙者のシリカの前で、許可も挟まず煙草を吸っているぐらいだ。出会って一ヶ月にして、既に数年後のように二人の距離は近く、互いを友人であると言えるほどのものとなっていた。
シリカは語り上手な方ではないが聞き上手だ。聞き手話し手どちらも務められるクロムが、主に口を回す立場として酒席を暖めれば、いくらでも話が回る。固定門限を自分の中で定めているシリカだったから、必ずどこかでお別れの時間は訪れるのだが、仮に彼女がその気になったなら、二人の会話は夕暮れから朝まで続けることも夢ではなかっただろう。それだけ二人の会話は、毎度弾んだ。
体内時計のしっかりしている両者だから、そろそろ今日は終わりかな、という頃合いも暗黙にわかる。シリカが度の弱い酒のおかわりを止め始めた頃を見計らって、度のきつい蒸留酒をクロムが最後にストレートで頼むと、それがだいたい最後の一杯になる。
「そういえばお前、まだあの店の調査は進めてるのか?」
「ん、まあ……あまり私は関わっていないけどな」
「どうだ? 何か見えてきたか?」
出会ったあの頃以来、あまり触れてこなかった話題にクロムが手をかけた。"あの店"という単語ひとつで、シリカが何の話をしているかわかった時点で答えは見えたようなものだが、クロムはそのまま話を繋いでいく。
ひと月ほど前、エレム王国第6中隊の一人、シリカが探りを入れる先駆けとして足を踏み入れた酒場。"こころのゆりかご"という看板を構えるかの酒場に対し、今も騎士団は調査を進めている。それは表向きには明かされていないことだが、クロム含めて裏の動きに目ざとい者達には、薄々そうであることも察せていることだ。
「……答える前にだな、クロム」
「うん?」
「私は仮にも、あの店に対して調査を入れている立場だ。あんまりものの進み具合を口にすることは、推奨されない立場なんだ。お前だってわかってるんじゃないのか」
口に運びかけた煙草をくわえず、灰皿の上に置くクロム。思った以上にシリカが、誤魔化しのない返答を返してくるので、少し言葉に詰まってしまった。話したくないならはぐらかせばいいところを、周知の事を真っ直ぐぶつけてくる態度というのは、逆に駆け引きの無さを思わせてくれる。
ともかく前々からわかりかけていたことだが、この騎士様は嘘をつくのがかなり下手で、きっとそういう自分のこともわかっているのだろう。だから丸裸の心を人前に晒すことを厭わず、裏表のない本音の言葉を真っ直ぐ突き返してくる。こうした態度で来られると、クロムも己を隠さない言葉を選びたくなる。
「俺は、あの店の旦那には昔世話になったこともあってな。騎士団の見識の甘さから、妙な事件性を取り上げられ、あの店が騒がれることを望んでいない。進展に関しては気になっているところだよ」
二人がいるのは、騎士館近くの小さな酒場。個室を借りて、二人だけの空間だ。自然と二人の声が小さくなってきているが、近くに客もおらず、今の二人の会話を聞いている者はいない。
「俺がはじめにお前に近付いたのも、あの店に探りを入れる騎士らしき奴を見つけたからだ。忍んだつもりだったんだろうが、こっちにゃ見え見えだったぞ?」
「むぅ……」
あれでも精一杯、普通の女の子として装ったつもりだったのに、騎士だってわかるような風体でしかなかったのか、とシリカは肩を落とす。クロムは元から、騎士団内でも小さく名を馳せ始めているシリカのことを知っていたから、顔を見て近付いただけだったのだが、変な誤解が発生して意図がすれ違っている。こうした誤解の積み重なりが、後年シリカが、自分は周りに女として見て貰えていないんだろうなと信じ、へこみ続ける下地を積んでいったのかもしれない。
「んで、お返事のところはどうだ? 俺は正直、あの店の味方をしたい立場だ。敵対陣営だと認識するなら、敢えて語ってくれなくても構わないが」
初めてシリカと出会った時、かの店主のことをやや悪く言い表していたクロム。だが、あれはあくまでシリカを敵対陣営の一角と見て、話の流れを作るための方便であり、心根真実はその真逆。シリカの前でかの店主の味方をしたいと主張するほど、クロムはあの店の主人を慕っている。もしも店主が罪人と認識されれば、その味方をしたクロムへの世間の見方も変わるのにだ。
ここ一ヶ月で関係を深めてきた二人だが、この切り出しは両者の仲を壊しかねない地雷である。クロムはいざとなれば切り替えも早く、シリカが相対する立場に立つと言うのなら、それなりの態度に変わるだろう。シリカとしても、クロムが騎士団の意向を阻む立場に立つのであれば、これ以上踏み込んではいけないのだろうなと、騎士としての理性が鐘を鳴らしている。
あとは人柄と性格だ。どう来るだろうかと待つクロムに対する、シリカの答えは、彼女らしくて騎士らしくない返答。
「……いや、話すよ。ただ、あまりこの事は周りに言わないでくれよ」
立場が対するなら、そんな釘を刺したところで何の効力もあるまい。彼女だって子供じゃあるまいし、それぐらいわかっているはずだ。それでも聞かれたことを、ともすれば秘密裏に行われている騎士団の調査進行具合を話してしまうというのは、間違いなく賢い騎士のやることではない。
人が良すぎてこいつは騙されやすいだろうな、という人間はクロムもこれまでに沢山見てきたが、敵対する陣営に立つ友人がそれ、というシチュエーションは初めてだ。騎士としてではなく一人の人間として、恐らく友人が相手だからという理由だけで、隠し事をしようとしないシリカ。間違いなく、参謀職にも商人にも向かない人物だ。騎士こそ彼女の天職だと、クロムも認識を深めてしまう。
「……おう、約束してやる」
そんなふうに心を開かれたら、クロムも予定していなかった返答を返さずいられない。他言無用の約束は、口にしたら最後、己で己の心に鎖を巻きつける行為だ。守れない約束事など、曖昧な言葉で誤魔化すのが得意なクロムが、明確に約束を結びつけた。
信には信を、彼なりのポリシーだ。シリカが話し始める、騎士団の調査が進めたあの酒場の情報に、クロムは黙って耳を傾け始めた。
今はエレム王都で"こころのゆりかご"という名の酒場を営む店主、イネーブ=アイラーマンという名の商人は、もとはこのエレム王都で生まれ育った生い立ちを持つ。しかし、彼が商人として大成したのはこの地ではなく、魔導帝国ルオスでのことだった。商人の駆け出しであった頃の彼は、酒場を営む当時の師匠のもと、エレム王都で酒場の従業員として働いていた。やがて師匠が経営方針を変え、店を魔導帝国ルオスに移す際、若き日のイネーブもそれについていく形でルオスに移ったという。
やがて師匠から独り立ちしたイネーブは、ルオスで酒場を営む一国一城の主となった。エレムとルオスでは風土が異なり、愛される料理も異なる。師匠はしばらく苦心した末にようやくルオスで成功できる料理人となったが、その下でずっと修行していたイネーブは、より良い形でその経験を活かせた。彼の料理はルオス向けの味付けが濃く育ち、独り立ちした後もよくその国に馴染んだのだ。年老いた師匠が隠居し、やがて天寿を全うした際には葬式に駆けつけたという話からも、イネーブとかつての師匠との関係は良好で、それが彼を大成させた最たる要因だったのだろう。
そのイネーブ自身も、今では還暦を迎える年となり、そろそろ隠居を考えなくてはならない頃合いだ。長年の商売人生活で得た貯えを片手に、生まれ故郷のエレム王国に骨を埋めようと考えたイネーブは、ルオスで長く続けてきた店を引き払い、エレム王都に看板を移した。奇しくもルオス暮らしながら、彼が出会えた妻もエレム生まれの婦人であり、その決断に夫妻は人生の最期を託すことを決めた。ルオスで運命を共にした弟子達に見送られ、イネーブは今、かの店で静かな余生を送っている形なのだ。
クロムはイネーブの生い立ちを、本人から聞く昔話から詳しく知っている。シリカの属する騎士団の諜報部が調べ上げた、イネーブの半生は、細部に至っては多少食い違う部分もあった。だが、概ね合っている。隠密の中でそこまでイネーブのことを調べ上げた、騎士団諜報部の手腕には、予想はしていたもののクロムも憮然顔。
「そこまで調べは進んでいるのか」
「彼が人身売買を行っていた、という確証、ないしそれに近付く要素も、今のところは見つかっていない。それがあるなら、すでに騎士団は立件しているはずだからな」
イネーブに向けられている懐疑の目、それは彼が、人身売買を行ったという容疑である。火のない場所に煙は立たないと言うが、そうした疑惑が発生したのにもちゃんと理由がある。あの店で働いていた、10歳過ぎた年頃の小さな少女の存在だ。
この年よりも少し前、魔王マーディスが存命の頃にはもっと顕著であったことだが、魔物達の侵攻によって両親を失い、戦災孤児となった子供たちは世に溢れている。そうした子供達の中で、孤児院という施設に引き取られた者もいれば、使者の眼に止まらず、何者かに拾われた者もいる。出会いに恵まれず、命をそのまま失った子供の数はそれらより遥かに多いだろうし、そうした生存の道を歩めた者は幸運かもしれない。
身寄りのない子供の保護者になろうと思えば、まず国に許可を取る手続きが必要だ。そうでなければ、身寄りのある子供をさらってきて、保護者づらしてこき使うことだって出来てしまう。だから血の繋がらぬ子を養子とするためには、まずその子供が本当に孤児であるのかなど、確かめねばならない。親を失った子供というのは、社会の闇を切り抜けるだけの経験も知識もなく、せめてそうした保護を制度で以って敷かなければ、せっかく誰かに拾われても暗い人生を送りかねない。野盗が焼き討ちにした人里の子供をさらい、その子供が己の行動の社会的是非を学ぶ間もなく育てられ、野盗の手駒としてならず者の生涯を生きた例もある。
イネーブが身柄を引き取り、今はかの酒場で働く立場になった少女。幼い子供が身柄を引き取って貰えた人の下で、年に釣り合わぬ仕事をするのは別段珍しいことではない。ただ、イネーブが国の許可を得て彼女を引き取ったという情報が、どうにも入って来ないのだ。
考えられる黒いケースは3つ。違法とされる、身柄を金銭で受け渡しする人身売買を、イネーブが行って少女を得たか。あるいは拾った戦災孤児を、国に許可を取らずに身柄を引き取った違法行為か。あるいは最悪の極論、そのどちらでもなく、どこかからさらってきた子供なのか。ともかく、エレムでもルオスでも国の手続きを通さず、血の繋がらぬ子供を従業員として雇うイネーブの行為には、騎士団も強い疑念を抱いていた。
そこまで推察が進んでいても、騎士団がイネーブを立件しないのにも理由がある。かの少女に身寄りがないことはわかっているが、身寄りのなくなった彼女が自らイネーブの店の門を叩き、雇って下さいと言って、今の間柄になったのなら話は別だ。それならば、雇い主と従業員の関係でしか過ぎないから、何の問題もないのである。戦災孤児の身柄を巡る問題は、商人と子供、というケースに限り、こうした具体的な法の抜け道があるから、騎士団も本格的に動きにくい。しらを切りとおされて、痛くない腹をまさぐっていました、という結果になったら、騎士団としても立場がない。
「確たる証拠が掴めるまでは、騎士団も動かないと思うが……」
「いや、もういい。多分駄目だわ、詰みかけてる」
水も氷も入っていない、薬品に近い匂いを放つ強力な蒸留酒を、クロムはぐいっと飲み干した。自分がそれをやれば目を回してしまうんじゃないか、と、酒に強くないシリカが目を瞠る前、グラスを置いたクロムは腕を組んでしまった。目に見えて、風向きの悪さを現した顔だ。
「騎士団が本腰入れて調査入れねえなら、人目に触れずに風化していくような問題だったんだが……思ったよりも騎士団の連中、本気みてえだな」
煙草をくわえた末に煙を吹くクロムの行動は、殆ど溜め息に近い。追い詰められているのはクロム自身のことではなかろうに、まるで我が事のように憂いている顔だ。
「……まさか、やはり?」
「ああ、やってるよ。旦那が雇っているあの女の子は、あるルオスの商人から買い取った子だ」
すべての事情を知るクロムの口から溢れた真実。今まで伏せてきたそれを明るみにしたということは、このままいけばそれも露呈するであろうことを確信してのことだ。
騎士団ほどの巨大組織になると、ある一つの事件に対して、立件という手続きがなければ大きくは動かない。ただし、立件された事件に対してのはたらきかけは凄まじく速く、周到で、細かい。国の司法が本気で動き出した時の、真実を明かすための力はあまりに大きく、いくら一介の商売人が無数の予防線を引いていたとしても、誤魔化しきれる目ではないのだ。商団の大親分の息子であるクロムだからこそ、巨大組織の絶大なる力というものはよく知っている。
騎士団員として、あまりにも有力な証言を得たシリカだが、だからと言ってその表情は晴れない。曲がりなりにも友人と認めた相手が、過去にお世話になった人物が、人身売買という罪を犯していたという事実を、どうして喜ばしく受け止められようというのか。そんなシリカが相手だからこそ、クロムも意を決してこの話を切り出した。そして、続きがある。
「なあ、聞いてくれシリカ。人身売買って言っても、そんな罪深いもんじゃねえんだ。旦那の行為を悪と断じて立件する前に、その成り行きだけは聞いて欲しい」
エレムに移る前、イネーブはルオスのとある店で、一人の少女に出会う。当時の彼女は、ルオスの酒場でせわしなく働く身であった。とある事件をきっかけに、両親を失った彼女はルオスの商人に身柄を引き取られ、幼いながらも働かされる立場だったのだ。
その店はそこそこに流行っており、幼い少女は育ちきっていない体で店内をよく駆け回っていた。流行る酒場におけるウエイトレスというのは見た目以上に疲れるもので、それは働いたことのある者であればよくわかる苦労だ。商売人上がりのイネーブにとって、少女の働きぶりは見ていて気分のいいものではなかった。魔導帝国ルオスはエレム王国よりもそうした風潮には厳しくなく、幼い少女とは言っても、食い扶持になる以上働かせたいという商人の考え方にも、強い釘を刺してくれない。多少の監査は入っているであろうにせよ、その下で少女が酷使される姿というのは、その後ルオスを離れる予定だったイネーブの気まぐれを刺激した。
交渉の末、イネーブはルオスの商人から、少女の身柄を引き取ったのだ。商人側もただではと言い、そこに金銭の譲渡が発生した。これが、クロムの言うところのイネーブの人身売買である。その言葉の響きから一般に感ぜられる、奴隷を金で買い取るような行動ではなかったのだ。
「それは公的機関を介して?」
「通してねえんだよ。だから明るみになると尚更マズいんだわ」
当然ルオスでも、そうして金銭を絡めて人間の身柄を移すような行為は、人身売買を咎める法に引っ掛かる。ただ、事情をしっかり国に説明して、法的手続きを踏んでそれを行うのであれば、それはお咎めなしとして目をつぶってくれる制度もある。ルオスには。帝政のルオスは今の皇帝ドラージュが、商売人の事情に対して寛容なこともあり、そこそこ話がわかるのだ。
イネーブがルオスで商売を営むつもりであったなら、そういう手続きを踏んでいれば何も問題はなかった。だが、イネーブが最後の商売場に選んだ、故郷のエレムは違う。エレムにはそうした制度は一切なく、人の身柄を金で譲渡し合うような取り引きを認める特例を設けていない。さらに言えば、いかに治外法権のルオスで人身売買の事実があったとしても、エレムで暮らす以上はその罪状にもしっかり追及する厳格さを持っている。もしもこの事実が騎士団に届けば、イネーブは罪人となるだろう。
そういう意味では、公的手段を取らずに人身売買を行ったイネーブのやり方は、法をくぐる意図では利口な選択だったとも言える。その手続きを踏んでいたら、ルオスに問い合わせれば事実が一発で露呈するからだ。そうなればエレムの法律では裁かれてしまうし、人生の最後はエレムにて暮らしたいというイネーブの願いは叶わなくなる。選択としては正しかった。
「旦那は、人生最後に店を構える地を、故郷であるエレムに選びたかった。同時にルオスできつく働かされていたあの子を、身柄を引き取ることで救いたかった。それだけだったんだよ」
酷使されていた少女を金で救い、遠く離れた地で孫のように愛して過ごす。法はそれを、美談であると認めてはくれない。エレム王国の商法において、人の身柄を金銭で取り引きすることは犯罪であると、明確に書き記されているのだ。イネーブの行為は、たとえ何年か前に別の国で行われていたものであったとしても、エレムでかの少女と身柄を共にする以上、法による介入が必ず発生する。
本質をまとめるとこうだ。イネーブは少女を救うことと、エレム王都に帰ることを両立させたかった。エレム王国の法律は、少女を救いたいというイネーブの主張を退ける。また、それらの願いを両立させるために、ルオスにて少女の身柄取り引きの手続きを取らなかった行為を、帝国ルオスは許さない。事実がこの世に露呈すれば、商人イネーブは罪深き罪人となるだろう。
法律とは、無数の人々が集う社会において、混沌を退け一定の秩序をもたらす聖なる神の手である。だが、それは必ずしも人情の味方とはならない。人々の安寧を守るための騎士団に仕えるシリカにとって、この真実は重過ぎる。過去に世話になったイネーブへの慈悲を求めるクロムに対し、空になったグラスを握り締めたまま、動くことも出来なくなっている。
「傭兵やる前、用心棒まがいのことをしていた頃の俺は、収入も今以上に安定してなくてな。金のない俺にあの人が奢ってくれたメシの味は、今でも忘れられねえんだ。いっぱい稼げるようになって、旨いもんを好きな時に食えるようになれよ、って激励してくれたあの人がいるから、今の俺があると思ってる」
15歳で独り立ちし、用心棒として生きていく。それを雇う側も腹黒い人間ばかりだ。腕が立つからと言っても給金を弾んでくれるとは限らないし、それに不平を言えば闇に消されるかもしれない。そんな理不尽な暗黒社会の中で、実力があっても下っ端として生きた数年間というのは、日の当たる世界で生きてきたシリカ達にとっては想像もつかないことだ。そんな世界を挫けず生き抜いてきたクロムだからこそ、強く育ってきた一方で、己をここまで支えてきてくれた人々の温かさを忘れることが出来ない。人は痛みを知らない限り、苦しむ人々に優しくする心を持ち得ない。
「問題があったのは間違いのない事実だ。だが、あの人も一度肺を患って、老い先長くねえ身なんだよ。遠き地で巡り会った孫と、故郷に建てた人生最後の店で過ごすことぐらい、見過ごしてやって欲しいと思ってる。お前と初めて会った時、俺はあの人をあれこれ言ったのも本意じゃなかった。旦那は確かに短気なところもあるが、面倒見もよくて今でも弟子達に愛されてる人なんだよ」
エレム王都でイネーブが店を開いた時には、著名な画家が店主夫妻の肖像画を描きに来た。その絵はイネーブの店の奥、夫婦で過ごす部屋で大切に飾られている。その画家を雇ったのは、ルオスでイネーブを師匠と扇いだ弟子達だ。開店祝いに店の前に送られた花束の数々を贈ったのも同じ人物。師匠の最後の花道に向け、明日の保証もされていない商人が、苦しい身銭を切ってまで祝儀を形にするということが、どれほど大きな敬意の表れであるか想像できるだろうか。それだけ愛された人であったと訴えるクロムの目だって、自身の経験からくる彼への尊敬があることを語っている。
「お前にどうこうして欲しいってわけじゃない。ただ、この日聞いたことだけは胸のうちにしまっておいてくれないか」
「……どうして私に、そんな話をするんだよ」
どうすればいいのかわからなくなってしまうじゃないか。騎士団員として、証言を掴んだのであれば、それを武器に罪人を追い詰めるべきではないか。だけど、今の話を聞いてなお、胸を張ってイネーブのことを告発することなんて、出来るだろうか。罪には罰を、それはわかっているつもりでいたけれど。
胸の内に秘めるだけで苦痛になる。騎士としての自分、人としての自分、明かすべきだという使命と秘せておきたい自我が胸中で戦う痛みは、二日酔いの頭よりも気分が悪くなる。嫌な汗さえ出る。
「騎士団が本気で動きだせば、旦那も終わりなんだ。だが、罪人として連れて行かれる者の裏にあったはずの想いは語られず、あの人が咎人であるということだけが周囲に認知される。俺にはそれが我慢ならねえ。どうして故郷に帰りたいという想いと、虐げられていたガキを救いたい想いを両立させちゃいけねえんだ」
法が許さないから、という答えしかない。そんなことはシリカが言わなくたって、クロム自身もわかっていることだ。わかっていても、唱えたくなるほど抑えられない想いというものがある。
「人を裁くのは法であって、人じゃねえ。意志の力だけで他者を裁けるほど、人という名の断罪者は特別な存在じゃねえはずだ。法の刃を振り下ろす時、法という名の虎の威を借り、罪は罰という便利な言葉を武器に人を殺す、そんな奴らの冷たい裁きに、あの人が晒されることを俺は見過ごしたくねえ」
事情も知らない者達に、尊敬する人物を、悪人だ罪人だと罵られて晒し者にされることとは、どれほど耐え難いものだろう。世間は冷たい。罪を裁かれる者の事情というのは、断罪者の言葉によってでしか、世界に認めて貰えない。騎士団が動き出したことで、過去の恩人が縄につく覚悟も固めているクロムが最後に訴えているのは、断罪者に敬愛する人物の過去を知ってもらうため、その一念だ。
「……今の話を聞いてなお、お前が旦那を告発するって言うのなら、俺は何も言わねえよ」
煙草を灰皿に押し付け、財布を取り出したクロムの行動は、話はここまでだという表れだ。一方的にものを言い、席を終えようとする姿勢が無礼なのはわかっている。それでも今のシリカから答えが返ってくるとは思えなかったクロムは、会計の場へと足を運ぼうと身をひねる。
「ま、待て。待ってくれ、クロム」
顔を上げて引き止めてきたシリカに、クロムも思わず振り返る。見るも複雑な表情で、自分の言葉が彼女を追い詰めたとわかっているクロムも、一瞬目を逸らしかける。だが、見合った二人の瞳は揺るがない。
「お前にとって……その人は、尊敬できる人物だったんだな?」
「……ああ」
グラスから手を離し、握った拳をテーブルに置くシリカが、苦悩に満ちていることは見て取れる。それでもその手から力を抜き、小さく息をついた後、血色のよくない顔に笑顔を浮かべるシリカの表情は、言葉もなくしてクロムに救いの光を差し込ませた。
「どうなるかは、わからないけれど……今日のことは、私は誰にも話さない。約束、するよ」
騎士団に反する行動の約束。罪人を追い詰める証言を手にしていながら、それを捨てるのだ。誰のためか。勿論、目の前の友人のために決まっている。シリカは騎士団員としての職務を放棄し、友人の尊敬した人物を、殴れるはずのその手で殴らないことを口にした。
「……お前、高騎士だろ」
「あはは……もう言いっこなしだ。私は今の話を聞いて、お前の尊敬していた人のことなんて、裁ける気にはなれないよ……」
もしかしたら今のシリカは、自分は騎士には向いていないのかもしれないな、とまで思い詰めているのかもしれない。それぐらい、今の彼女の眼差しは、クロムを越えて遠くを見据えている。会計に向かおうとしたクロムも、そんな彼女を見ては財布をテーブルの上に置き、改めて体ごとシリカに向き直る。
「……なあ、シリカ。俺はお前を、ダチだって呼んでもいいのか」
「……私はずっと、そういうつもりだったけど」
「そうか」
クロムは煙草に火をつけて、満足いくまで目一杯煙を吸い込む。吐き出した煙が目に沁みたのか、親指で目頭を拭ったのは、ある意味咄嗟の行動だったのかもしれない。
「悪い、上手く言葉に出来ねえわ」
良き友人に巡り会えた幸せを言い表す言葉は、言葉を知れば知るほどに、最高の表現を見つけられなくなる。酒を飲もうとして、空のグラスを口に運ぼうとしてしまうほど、今のクロムはその幸せで頭の中が満ちている。
「おっと……何やってんだ俺、カラじゃねえか」
「……ふふ、お前でも酒にやられて酔うことがあるんだな」
うるせえ、と苦笑いを浮かべるクロムと、少し元気が出た顔で笑うシリカ。旨い酒を飲み合う明るい表情同士ではなかったが、不思議とお互い胸が温まるのは何故だろう。酒よりも心を酔わせる、親しき友人がそばにいるぬくもりは、意識を超えて日々の苦悩をも溶かして包み込んでくれる。
出会ってそこまで長い時間が過ぎたわけでもないのに、まるで古くからの友人と共にいるような心地。縁が人の運命を変えるということが真実ならば、今の幸福そのものがその証明だ。




