第178話 ~6年前① シリカとクロムが出会った日~
「……ここか」
エレム王国第6中隊所属、高騎士シリカ=ガーネットは、隊長の高騎士ダイアンから預かった一枚のメモを頼りに、ある店の入り口前で立ち止まっていた。騎士としての鎧も纏わず、一介の街娘のような安い布の服に身を包み、着飾りとしては淡い橙のスカーフと絹の柔らかいスカートのみ。着る物選べばいくらでも映えるのに、という美しい顔立ちと比較すると、少々地味で残念ささえ漂う着こなしだ。
絹のような金色の髪もこの日はポニーテールに纏め、騎士にあらざる一般人を装う風体を繕ったシリカは、小さく息を整えて真昼過ぎの酒場に入っていく。日中も開店している酒場というのは、昼間はお食事処としての顔を表に出しているのが概ねで、多忙の時間帯を過ぎ去った店の中はおとなしかった。元々繁盛している方の店ではないのか、食事時を過ぎたこの店の中はやや閑散としており、シリカの他に客は数組程度しかいない。とはいえ、そんな時間帯でも一定数の客がいるだけでも、客を持っている店であるとも言える。
「どうぞ……」
「うん、ありがとう」
年老いた店主の前、カウンター席に腰掛けたシリカへと、10歳過ぎた頃の幼い少女が歩み寄り、お手拭きをシリカに渡してくれた。老人夫婦と一人の少女によって営まれる、家庭的な雰囲気を醸し出すその店の空気は、"こころのゆりかご"と名付けられたこの店の在り方によく似合っている。忙しい時間帯になればその雰囲気も騒がしさによって霞むだろうが、今ならまさしく看板に偽りなしだ。
店主にちょっとした軽食を頼み、先に運ばれてきたオレンジソーダを口に運んだシリカは、店を一度ぐるっと見回す。定評のあるこの空気を噂に聞き、それを嗜む一人の町娘の挙動として何ら違和感のない行動だ。だが、シリカの行動が意味する真意は、別のところにある。
あの子がそうなのか、と、店主の横で皿を洗う少女を一瞬見定め、飲料の入ったグラスに視線を戻すシリカ。料理が届いて舌を転がしたら、店主に世間話でも振って探りを入れなければならない。そうした明確な目的を持ってこの店に足を踏み入れたシリカは、腰を落ち着けた表情の裏で、頭の中では様々な思索を巡らせていた。
「おう、ちょっと隣いいか?」
そんなシリカの隣に、一人の大男が声をかけて腰を降ろしてきた。考え事の真っ只中であったシリカが驚いたようにそちらを向けば、それは先ほど店内を見回した中で、別の席に座っていた客の一人。片手に酒の入ったグラスを持っているし、今来た客というわけではなさそうだ。
座る席など他にいくらでもあるのに、隣の席に座ってくるということは、色事に弱いシリカにだって、ナンパ目当ての行動だろうなと感じられた。元々言い寄られることは多かったシリカだが、正直そういうのは苦手である。顔には出さなかったが、なるべく早くお引取り願いたい。
「この店は初めてか? 俺は常連なんだが、初めて見る顔だからな」
「ええ、まあ……」
「最近は女性客も増えてきたな。あの子が目当てかね?」
大男が言うのは、老夫婦の隣で皿洗いをしている少女のことだろうか。そちらをちらっとシリカが見ると、一瞬目が合ったのち、恥ずかしげに少女は目を伏せてしまう。確かに小柄でお人形のような小顔、見た目にも可愛らしい少女だが、仕草一つとっても母性本能をくすぐられる子である。
「頭を優しく撫でてやると喜ぶぞ。次に来た時にそうしてやりな」
小声でぼそっとそう言ってくる大男の言葉に倣い、ほんの少し後、料理をトレイに乗せて運んできたその少女に、ありがとうと言って頭を撫でてあげるシリカ。トレイで隠した顔を真っ赤にしていたが、目をきゅっと閉じていながらも、なんだか幸せそうな顔を浮かべる少女は、確かに喜んでいるように見えた。
「な?」
「……そうですね」
初対面の男に話しかけられて少し緊張気味だったシリカも、いいものを見られた後であることや、大男の快活な笑みも手伝ってか、少し肩の力が抜けた。いただきますを言う少し前のこのタイミング、料理に手をつけることよりも、まだお喋りに数秒の時間を割いている辺り、シリカも悪くない気分であったのだろう。
「俺はクロムナード。あんたは?」
「えぇと……私は、アシリスと言います」
少し緊張したふりをして、今の隊長ダイアンに預かっていた偽名を名乗るシリカ。身柄が明るみになると、場合によっては具合が悪いのだ。そういう仕事で、シリカはこの店に訪れている。そして、元より喧嘩屋クロムナードの名で有名であった彼を前にして、シリカがそうした態度を取ったのも合理的な行動だ。
やがて後年作られる、エレム王国第14小隊。その創設時から運命を共にする二人が、初めて互いの顔を見合わせ、言葉を交わしたのがこの時だ。
17歳になり、騎士見習いを卒業して騎士団入りしたシリカ。上騎士ラヴォアスの小隊で見習い騎士として任務に参加していた当時から彼女の活躍は目覚ましく、正式な騎士団入りした瞬間から、彼女は上騎士の称号を授かっていた。見習い卒業に伴い、長年世話になっていた上騎士ラヴォアスの小隊を離れ、高騎士ダイアンの率いる中隊に属するようになったシリカは、そちらに移った後もその称号に恥じない活躍を見せていた。
上騎士への飛び級で正式騎士団入りしたという者には、周囲が高い期待を寄せるものだが、いざ見習い上がりで実地の職場に辿り着くと、はじめの1年ぐらいはなかなか実力を形に出せず、慣れてきた頃にようやく開花する、というのが歴史上でも殆ど。シリカはそんな通説をぶち破るかの如く、ダイアン率いる第6中隊に属した当初から、言えば初任務の時から既に、上騎士としての勇姿を形に表していた。剣の腕もさることながら、中隊最年少でも必死で周囲に目を配り、指示を下して戦況を良き流れに導く。見習い上がりの騎士、いくらそれが上騎士であったとしても、上官はそこまでのことは期待しないのだが、上の想定を遥かに超えて戦場を駆けるシリカの姿は、まさしく稀代の才覚を思わせるものだった。
この1年前に騎士団を去ってしまった、法騎士スズと懇ろであった高騎士ダイアンも、シリカの姿には若い頃の彼女を見ているようだという想いだった。任務が終わって王都に帰りつけば、指示を下した年上の少騎士や騎士に対し、今日の私に無礼はなかったですかと気弱な声で話しかける姿も、かつての上騎士スズにそっくりだ。ダイアン自身もシリカの相談に何度も乗ってきたし、話せば話すほど、分不相応と思えてならない自分の階級に苦しむ彼女は、かつての友人によく似ていた。実力に対して驕りも見せないシリカの姿にはダイアンも安心できたし、隊長として上層部に届ける報告書を作る際にも、シリカのことは特筆点として書き記すだけの価値があると自信を持てていた。
幸か不幸か、法騎士スズを失ったばかりの騎士団上層部に大きな期待を持たせたのか、上騎士シリカが騎士団入りして僅か1年目、18歳になったばかりのシリカが高騎士に昇格することになった。一番困惑していたのはシリカ本人であったのは言うまでもないとして、これにはダイアンでさえも流石に尚早ではないかと考えていたが、上の決定なのだから仕方のないことだ。ダイアンは元々若い芽を育てるのが好きな性分であったし、彼女に任せられる仕事が増えることは、経験を積ませる上でも前向きなことには違いないから、そういう観点を設けて前向きに捉えることにしていた。
「内政調査、ですか?」
「うん。ああ、あと君も僕と同じ高騎士になったんだから、僕に対してもタメ口利いてもいいんだよ?」
「え、いや、あの、それはないです。やめて下さい」
両手を前に出してわたわた焦るシリカをからかうのは、当時からもダイアンのお楽しみだった。年上だというだけで少騎士相手でもちゃんと敬語を使うシリカなんだから、一回り以上年の差があるダイアンに軽口を叩ける人柄でないのは見えているであろうに。お人が悪い。
「"こころのゆりかご"という酒場のことは聞いたことがあるかな?」
「はい。何度か聞いたこともあります」
本題に入れば、シリカも態度を落ち着けて静かな返答だ。半年前にエレム王都に立ち上がり、世間でも定評のあるその酒場は、王都の地方新聞でも一度取り上げられたことがある。騎士暮らし一筋で世間の動きには疎めのシリカだが、情報媒介を通して集められる情報には、ちゃんと目を通している。
「単刀直入に言うと、件の酒場の主人には人身売買の疑いがあるんだ。今のところは確たる証拠が無いが、情報を集める限りでは、割と黒に近い灰になりつつあるんだよ」
シリカも思わず息を呑みかけたが、顔には出さず、冷静な表情を貫く。忌むべき罪の名を耳にしても、動揺を表に出さないその態度は、確かに18歳の正義感溢れる女性にしては立派なものである。
「これからどう対処していくかは、今のところ明確には決まっていない。ただ、その先の方針を定めるため、ひとつ様子見をしてきて欲しいんだ。どんな些細なことでもいいから、その店に立ち寄ってみて、見聞きしたことを僕に報告してくれないかな」
「……私がですか?」
「僕はもう高騎士という立場で、そこそこ顔が割れてしまっている。もしも相手の腹が黒いなら、僕が行っても何の参考にもならないだろうからね」
騎士団はエレム王国内において、治安維持も司る立場だ。法騎士様以上にもなれば民衆広くにも顔と名が知れ渡りやすいが、10年以上騎士として生きてきて、功績も積んで高騎士となっていったダイアンのような人物も、知ってる人は知っている。特に、情報を重視する商人あたりなら、ダイアンのことぐらい顔を見れば知っている可能性が高い。エレム王都内で商売を営んでいれば尚更だ。
当の店の主人がよからぬことを企んでいるような人物なら、司法の番人である騎士に対しては警戒心も強いだろう。もしもそうなら、騎士だと身柄のばれやすいダイアンが現地に赴いても、騎士団にとって有益な情報を漏らしてくれる見込みは低い。そんなわけで、高騎士という立場でありながらも、今はまだ騎士団内でも名高くなっていないシリカを差し向けることをダイアンは選んだ。シリカは見習い騎士時代から、王都外の戦場で活躍することが多かったため、この頃はまだ、世間様にもシリカの名は殆ど認知されていない。
「色々考えたけど、探りを入れるなら君のような人物が最も適任なんだ。引き受けてくれるかな?」
「……わかりました」
初めての、戦場外での騎士としての仕事。そろそろ幅広く彼女が働けるようになる、そんな下地を積みたかったダイアンの思惑もあっただろう。不慣れな仕事は承知だが、シリカも預かった仕事に対して前向きな気持ちで臨み、この指令を授かり受けた。これが、前日の話だ。
酒場"こころのゆりかご"の内情調査とは言っても、諜報部でもないシリカに、一回の入店でことの本質を見抜いてくることは難しい。ダイアンもシリカに対してはそこまでの成果は求めておらず、シリカとしても軽食ひとつ頂いて、雰囲気だけ受け取って、欲を言えば店主と少し声を交換して帰るつもりだった。無理に前に出すぎて、かえって状況をややこしくさせてはまずいし、引くべき所を引いて無茶をしない姿勢は、それが最善だ。
「よく食うな、あんた。俺が今までに見てきた女の中でも、そんなに食う奴は多くなかったぞ」
「あはは……太ると良くないとは思ってるんですが……」
「太ったら太ったでいいじゃねえか。食いたい時に食いたいもん食えるのが、正しい幸せってもんだろ」
その当初の予定を崩してきたのが、シリカの隣に座る大男だ。当時のシリカは本来、食事中に私語を慎む傾向にあったのだが、クロムナードと名乗った彼の語り口は軽快かつ明るく、食事中にも関わらずシリカもお喋りを楽しめていたほどである。ナンパしてくる男というのは、もっとこう軽いものだと思っていたが、明るい声ながら落ち着いた印象を併せ持つクロムナードは、シリカにとっても触れ合って心地よい相手だ。
本当ならば、美味しいこの料理を話の種にはじめ、年老いた店主にでも世間話を振り、聞き出せる限りを聞き出そうとしていたシリカだったが、クロムナードとのお喋りを楽しんでいるうちに、皿の上が空っぽになってしまった。ちょっと予定通りにいかなかったな、という一方で、ごちそうさまを口にした後も少しの間、クロムナードとのお話は弾んでいる始末。元々愛想のいいシリカで、誰かと話す際には聞き手に回ることの多い方だったが、彼の語り口に乗せられて自分から話題を振ってしまう場面もあった。クロムナードも聞き手に回ればお上手で、会話のキャッチボールが、どちらが主体の時間帯もスムーズに回るのだ。これは実際、お喋りが一番楽しめる黄金形である。
「この後は暇なのか?」
「そうですね……夕食時までには帰ろうと思ってるんですが」
ここを出たら騎士館に帰ろうとしていたシリカだったが、騎士である身柄を声に出すわけにもいかない都合上、おやつ時を一人で時間を潰したこの後に、予定がありますとは言えなかった。上手く言い訳して綺麗に別れる方法はいくらでもあるのだが、そこまでの咄嗟の機転は利かなかったようだ。
「俺もこの後は少しの間暇でな。30分ぐらい、ちょっと一緒に時間潰してくれねえか?」
「……いいですよ」
まあ、それぐらいなら。付き合いのよさは元々性根にあり、少しぐらいの時間ならばご一緒してもよしとしたシリカは、会計を済ませて店の外へ二人で歩いていく。自分のぶんは、自分で払ってだ。
普通、ナンパ男が女を連れ出す時、その場の会計ぐらいは奢ってくれたりするものである。ましてこの形、明らかにシリカの方が年下なんだから尚更だ。クロムナードがその常識をわかっていないはずがないのに、それを持ちかけもせずに自分の食事代だけを払ってシリカを連れ出したのは、何を意識してのことだったのだろうか。もしかしたらこの時の時点で既に、人に食事代を払ってもらうことを拒みやすいシリカの性格も、数分話した結果で見切っていたのかもしれない。
「俺は昔っからあの店の女将さんとは知り合いでな。あの人が作った漬物がすげえ旨いんだよ」
「ああ、それは私も思ってました。あれは手作りだったんですか?」
「女将さんはエレム式の深重漬が得意で、塩が利いてて旨い漬物を作ってくれるんだ。言うなればそれがあの店の隠し味、客を捕まえる伏兵だ」
「初めにそれを聞いていれば、漬物を単品で頼んでいたのですが」
「おぉ、そういやさっき言ってやればよかったな。こりゃ悪い、あまりに話が楽しかったもんで」
「いえいえ、そんな。私も楽しかったですし、あの時間は潰したくなかったですね」
街を歩く二人は傍から見れば、逞しい男が綺麗な街娘を連れて歩いているようにしか見えず、風景に溶け込んでいる。両者の顔を知らない者がこの並びを見て、戦事に長けた女騎士と喧嘩屋傭兵が語らう姿には見えないだろう。それぐらい、戦場の外で雑談を交わす二人の表情は、険に縁がなく柔らかい。
相手が見知らぬ男性だと、男と何を話せばいいのか内心緊張してしまいがちのシリカが、ここまで自然体で話せる姿というのも当時としては珍しい。恋愛に興味は強く、だけど騎士暮らし一筋でそれに縁のなかったシリカにとって、ナンパされて出会った男など未知の存在と言っていいものだ。そんなシリカが、出会って1時間経たずしてここまで気安く語れるという時点で、深層で二人は気が通い合う相性だったのだろう。
「ただ、女将さんは優しいんだが旦那の方がなぁ。見ててわかるだろ?」
「え?」
何が? という顔のシリカ。おいおい見ればわかるじゃないか、という顔をほんの一瞬だけ見せるクロムナードだが、すぐに元の顔に戻る。人を見る目のない彼女に驚く、そんな顔を隠したか。あるいは意図的に作って演じたか。
「あんまりピンとこねえかな。ありゃあ相当きつい性格してるぞ。客前では朗らかな顔してるけどよ」
「そうなんですかね……」
「弟子を取ったらスパルタできっつーく躾けるタイプだろうな。俺が見る限りだと、手も出す奴だろうよ」
顔だけ見てそれだけのことがわかるのだろうか、とシリカも思う。ただ、クロムナードの自信満々な顔は、もしかしてわかってしまうのだろうか、と思わされるには充分だ。酒場の店主の顔を思い出しても、クロムナードの言うことに共感しきれないシリカは、自分の眼は未熟なのだろうかとさえ思いかける。
「クロムナードさんは、あのご主人さんのことを他にも知ってるんですか?」
さりげなく、離れた外堀から内情の端を知れるかもしれない機会に、シリカは具合よく漕ぎ出した。もしかしたらここから、ささやかでも情報が得られるかもしれない。
「昔他の酒場で、別席に座ってたあのオッサンを見たことはあるよ。自前の商売論を語っていたが、中身はともかく口角がきつくてな~。ちょっと腹黒いとこはあんのかな、って思えた」
「そうなんですか……」
「ただ、言ってることは賢かったぞ。論理が筋道通ってて、間違いを犯すタイプには見えなかったな。逆に言えば、悪い事をしてもそれを隠し通す腕を持っていそうな気がする」
なかなかに興味深い情報が得られたものだ。街娘としての顔の裏、内心ではかの店主に対してのこれからのはたらきかけに対し、思索を巡らせるシリカ。確かに昔聞いたところによると、商売人という人種は、けっこう罪とすれすれ、綱渡りの行動を取ることも多いという。そういう商人であったなら、仮にそれを追及されたとしても、罪人にならないための保険ぐらいはかけていそうなものである。前科を背負った商人は、商売人としての信頼を失うことで、商人生命を失うことに直結するからだ。
これは確たる証拠でも掴まない限り、事件性ありとして立件することは得策ではないと思える。もしもダイアンの仮説どおり、あの店主が人身売買を営んでいたとしても、法治国家にそれを突きつけられて、容易に尻尾を出すだろうか。人身売買の罪は重く、明るみになれば相応の処罰を下される。もっと言えば、刑罰うんぬんの重さよりも世間様からの評判が著しく下がり、商売人としては終わりだろう。仮にそれを犯しているとなれば、その悪意は十重二十重の理論武装で要塞入りさせられているはずだ。
「昔ルオスでも、事件性ありと判断された商人が、帝国の調査を乗り越えて一度無罪を勝ち取ったことがあるらしいからな。数年越しでそれは覆ったらしいが、当時は冤罪かけた帝国の赤っ恥たるや相当のものだったとかよ」
罪なきものを国が訴え、痛くない腹を探ったとなれば司法の目が疑われる。事件性を立件すれば、それはもはや互いの威信を懸けた戦争なのだ。罪人を暴けば法治機関への喝采、逆に冤罪であったとなれば、名誉毀損を招いた法治機関が批難の対象になるのも当然。大人同士は勝負するなら、勝つ見込みがない限り喧嘩をするべきではない。
改めて、法治組織である騎士団の仕事が難しいことを知るシリカ。クロムナードの言葉に感心する表情を装いながら、頭の中は今回の件に対してのことでいっぱいだ。顔に出ていたかもしれないが、まあ街娘としての顔に隠れてくれていたのではないだろうか。
「そんなわけだから、あんまりあの店主を相手に法を以っての喧嘩は持ちかけねえ方がいいだろうな。下手をすれば切り替えされて、顔に泥を塗られるだけだろうからよ」
そう言ってクロムナードは、懐から煙草を取り出して火をつける。今日シリカの前で初めて吸う煙草を、いいですかの一言も尋ねずにだ。二十歳超えて、喫煙者と非喫煙者の間にあるべきマナーのことなど、当たり前のように知っているはずのクロムナード。それが不躾にも、相手が見え見えの非喫煙者であるのがわかっているのに無断で吸う行為は、明らかに本来の彼ではない。
「まあ、いい暇潰しになったよ。俺は開発区に用があるから、ここらでお暇するとしようか」
「え、あ……はい……?」
「じゃあな、高騎士シリカさんよ。せいぜい頑張ってくれ」
心臓がどきりと高鳴ったシリカの目の前、背中を向けて去っていくクロムナード。彼は最初からわかっていた。偽名を使ってまで街娘を装おうと、未だ無名の新米優秀兵であるシリカのことは知っていたのだ。その上で、ずっとこうして話をしてきたまで。
呆然とするシリカの前から去るクロムナードも、こちらはこちらで思索を巡らせていた。まあ、あれが相手ならちょろいものだろうな、と。話してみてわかったが、あれは世間知らずだ。見知らぬであろう世界を引き合いにして不安を扇いでやれば、動きも固くなってろくな働きも出来なくなるだろう。上の参謀どもは手強いだろうが、敵将の動きを制限するには駒を錯乱させればいいだけの話だ。クロムナードはシリカをそう使ってやることをしたたかに企み、ひとまず騎士団に毒を仕込む形を見越していた。
今日の仕事はこんなところか、と、腹いっぱいの煙草の煙を吐き出したクロムナード。だが、今後を思う彼の思索を遮ったのは、後方から彼の手を握ってきた一人の人物だ。置き去りにして随分離れたはずの、街娘アリシス、もとい高騎士シリカは、去るクロムナードに駆け寄って引き止めてきた。
なんだ粘るつもりか、と、小駒を指先ではじく弁を一瞬で作り上げたクロムナードは、余裕綽々の顔で振り返る。意地で躍起になった世間知らずの女騎士が、自分を睨みつける顔を想定していたクロムナードにとって予想外だったのは、高騎士シリカがおそろしくばつの悪そうな顔で自分を見上げていたこと。
「……騙すようなことをして、すみません。私も貴方のことは、知っていたのですが……」
謝罪の言葉とともに目を伏せ、口をつぐんでしまうシリカ。てっきり騎士としての非力な追及でも飛んでくるんだろうなと思っていたクロムナードは、彼女の態度にきょとんである。まさか、そんな事を言うためにわざわざ、自分に駆け寄ってきたというのか。
「スパイやってんだろ? 偽名使うぐらい普通のことだろ。バレバレだったけどな」
「……申し訳ない」
だから、何故謝る? どうにもよくわからない騎士様だ。クロムナードは、かの酒場の主人が人身売買の容疑をかけられていることも知っている。それに探りを入れようとした騎士なのだから、偽名を使って立場を欺くぐらいのことも仕事の一つだろう。どうせ元からわかってるこちらからすれば、笑える種ですらあったのに、謝罪される覚えは一つもない。
まさかとは思うが、騙すようなことをしてすみません、それが彼女の本意なのか? と、クロムナードは否定したくなるような仮説を立てる。そんな生真面目者が、諜報の仕事に回されるだろうか。だが、後悔を絵に描いたようなシリカの顔は、その仮説が正しいとしか思えない。少なくとも彼女としばらく話してみて、これは顔で嘘をつけるタイプではない、そう絶対的に断定できる。
「……なんつーか」
子供みたいな奴だな、と答えは頭の中に浮かんでいる。ただ、言葉は選ぶ。
「面白い奴だな、あんたは」
クロムナードの手をぎゅっと握ったまま、下げた頭を持ち上げないシリカの姿は、話に聞き及んでいた彼女と似通うような、そうでないような。年下の新卒にはきつく当たる姿が目に付き、鬼軍曹の卵だと既に言われていた高騎士シリカ。クロムナードの価値観から見てその話を聞いた時、縦社会ばりばりの下にはきついだけの鬼なのか、部下を想うゆえに突っ走るタイプなのか、計りかねていた。見知った商人の中にも、可愛い弟子の未来が成功するよう、敢えて厳しく接する者は星の数ほどいたからだ。
ああ、後者だなと。こいつは上から押さえ付けられた鬱憤を、下の者に当たり散らして、縦社会の負の連鎖を形にするような奴じゃない。自分を厳しく育ててくれた上に感謝し、そんな自分の姿を省みて下にも立派になって貰えるよう、厳しく接するタイプだ。表面上は同じように見えても、内面が違うのは察して然るべき。
「まあ、顔上げろよ。周りが見てるだろ」
周囲から見れば、なんだろう。捨てられた女がすがっているような絵にでも見られるんじゃなかろうか。今や周りの目を意識するゆとりもないシリカは、顔を上げるが元気が無い。まったくこれでは、噂に聞いた凛々しく美しい、若く勇猛なる女騎士様も台無しだ。
「改めて名乗ろうか。俺はクロムナード。まあ、周りからはクロムって呼ばれてるよ」
「……エレム王国騎士団第6中隊所属、シリカ=ガーネットです」
「そんな辛気臭ぇツラで自己紹介する奴がいるか」
はっはっと笑うクロムナードは、シリカの頭を撫でて応じる。これにはまるで子ども扱いされたように感じられたか、少しむくれてシリカもその手を横にどける。負い目からなのか、その力は弱かったが。
「まあ、こうして出会えたのも何かの縁だ。今度会う時は、酒場の時のように楽しく話そうぜ」
「……そうですね」
諜報の任を預かったシリカ、その正体を見破って近付いたクロムナード。酒場での語らいは、狐と狸の化かし合いみたいなものだ。だが、二人とも確かに、自分の中で思い返せば、あれは単なる駆け引きの戦いではなかったと思えている。実際に、楽しかった。初めて出会う者同士、自然に言葉が出てきて、対話しているだけで楽しかったのも真実だ。
挨拶ひとつふたつ挟んで、分かれて歩き出す二人。血の気の多い喧嘩屋だと聞いていた彼、頭が堅くて融通の利かない女騎士だと聞いていた彼女、その印象はこの日一日であっさりと覆った。話せば明るくいい笑顔で笑うクロムナード、生真面目が災いして不器用ですらある無垢なシリカ、そう改められた双方の認識は、この後数年に渡ってもなお、長く変わることがない。
後年法騎士シリカと呼ばれる英傑と、彼女をそのそばで支え続けた豪傑クロム。二人が出会ったこの日こそ、全く異なる世界で生きてきた二人と一人の運命が交わった時だった。




