第173話 ~19年前 彼が生まれる前の日の話~
「どうかしら?」
「ええ、順調。ここまで寸分の違いもなく、上手くいってるわ」
自室から汗だくで出てきたルーネに対する、ずっと部屋の前で座って読書をしていたエルアーティの問いに、ルーネは自信に満ちた笑顔を返した。学問に打ち込めば、どんな些細な計算の違いも繊細に見落とさないルーネがこの顔をするということは、まあ何も問題はないのだろう。
「……それよりエルアーティ。ずっとそこにいたの?」
「暇だったしね。よそでうろうろしてると学者どもが声をかけてくるから、こうして忙しいふりをしていた方が私としては楽なの」
当時エルアーティは既に賢者の称号を背負っており、彼女に魔法学者としての教えを請いたい者は、この頃も後を絶たなかった。興味の沸かない連中に声をかけられても冷たくあしらうばかりのエルアーティだが、それでもと教えを請う者がいなくならないほどには、すでにエルアーティの高名さは確たるものだったのだ。
そんなわけでルーネの自室の前で、忙しい彼女の助手を務めるふりをして、声をかけてくる連中を手軽に追い払っていたというわけだ。友人だろうと遠慮なく人払いの道具に利用してくれるこのやり口には、ルーネも相変わらずの人だと笑ってしまう。
「疲れたでしょう。お茶でもどう?」
「ありがとう。あ、貸して貸して、私が持っていくわ」
エルアーティの隣に山積みにされた書物の数々を、ひょいとルーネは持ち上げる。積み上げた数十冊の分厚い本は、ルーネの背丈よりも高いのではなかろうか。力もバランス感覚も身体能力強化の魔法で高め上げたルーネの体は、小さな少女が塔積みになった本を抱えて悠々と歩くという、冗談のような光景を容易に実現させる。
「それにしても凄い数ね。どうやって持ってきたの?」
「その辺の犬に持ってこさせただけよ」
ルーネが自室にこもっていた8時間を潰せるほどの大量の書物、非力なエルアーティがそう簡単に持ってこられるものではあるまい。最初は2冊ほど持ってきただけだったのだが、近くを通りかかった若い男に命令して、図書館から持ってこさせたのだろう。もちろん、学者の卵であるその男に、数分の講義を即興で授けるという"ごほうび"ぐらいはくれてやったようだが。
「何を講義してあげたの?」
「三角錐細密火術法」
「こ、これだけの本を持ってこさせてそれだけ……? そんなの基礎の基礎じゃない……」
三角錐細密火術法というのは、実践魔法学において火術を扱うにあたり、基礎学問にあたるものである。ルーネに言わせれば、算数でいう所の九九にあたるほど当たり前のような基礎であり、エルアーティがやったことというのは、大量の書物を持ってこさせたごほうびに九九の覚え方を教えた、ようなものである。まあ、基礎学問を様々な角度から理解するエルアーティだから、基本的な話でも面白いように話すだけの口は持っているのだろうけど。
「三角錐細密火術法の旧代解析をありがたがって聞くような者に大成は見込めそうにないわね。あの子は学者に向いてないわ」
「手厳しいわね、エルアーティは……」
ぶっ飛んだ魔法学、しかし実用的かつ理解しやすい新学説を数々輩出し、今や天才と形容されたエルアーティ。だが、その根底では魔法学の基礎を一つ残らず網羅しており、すべてはその発展形でしかないのだ。周りには誤解されがちだが、そばで彼女をよく見てきたルーネの見解どおり、エルアーティは基礎を極めて重視する学者である。
基礎の基礎ぐらい、人に教えを請わずに自分で覚えて来いと。相手が子供ならばまだしも、魔法学の基礎も押さえていない若者がアカデミー内を歩いている事実には、エルアーティもしらけた目を浮かべてルーネの隣を歩いていた。
「意外ね。エルアーティがこんな場所を選ぶなんて」
「今は涼しいしね。邪魔者も入らないから、こうした場所が一番落ち着くのよ」
エルアーティがルーネを誘ってお茶の場に選んだのは、ダニームのアカデミーの屋上だった。彼女の空飛ぶ箒の後ろに座り、どこに連れていかれるのだろうと思っていたルーネにとって、こんな場所に来ることなんて予想していなかったことだ。
エルアーティの書物を図書館に返し、その後彼女の自室から持ち出したものは、お茶の葉と二つのティーカップ、そのお茶を沸かすためのティーポットだけだ。何も無いアカデミーの屋上で地べたに正座するルーネと、低く浮かせた箒を椅子のようにしてちょこんと座るエルアーティ。水と熱を操る魔法でティーポットに紅茶を沸かし、ティーカップにそれを注げば簡単なお茶会の完成だ。引きこもりがちでインドア派に見られがちのエルアーティだが、晴れた空に浮かぶ月は上品なシャンデリアよりも趣があり、野外でのお茶会はエルアーティにとって楽しい。野戦の経験もあるルーネも、地べた座りなんて苦でもなんでもない。
「いよいよ明日っていうところ?」
「うん。この調子なら、きっと上手くいくと思うわ」
双方温かい紅茶に口をつけ、涼しい秋空の下で体を優しく温める。ラエルカンから持ち帰った小さな命、あれをこの世に生きた存在として誕生させるため、ここ最近こもりがちでその作業に専念しているルーネ。疲れた体に友人の紅茶はよく沁み入る、
あの日から7年経った今まで、悩みも過程もいくつもあった。ラエルカンの研究施設を失い、カプセルの中に眠る小さな命を、まず絶やさないための努め。自身の魔力、かき集めた親和性物質から作り上げた、生命維持の魔力を欠かさず生み出す即興の施設。それらを駆使し、胎内とも言えるラエルカンの研究所を失った小さな命を長らく支えてきたルーネ。昨年の今頃になってようやく、種のように小さかった命に成長を促し、その命を日の光に向けて育ててくる道が拓けてきた。
今では小さかったカプセルも姿を変え、ここダニームでルーネが独自に作り上げた大きなカプセルに、小さかった命は眠っている。普通の赤ちゃんが母のお腹の中に眠るほどの大きさまで育ち、誕生への道は目の前に用意されている。最後の詰めさえしくじらなければ、その子供はこの世に生まれた一つの命として、正しく誕生してくることが出来るだろう。ここまで来たのだ。
「結局あなたは最後まで、私にまで"渦巻く血潮"の片鱗すら見せてくれなかったわね」
それらの作業を、たった一人で7年努め上げてきたルーネ。友人となったエルアーティにすら、渦巻く血潮の技術の真髄を見せることはしてこなかったのだ。それはこの時からすでに、ルーネは渦巻く血潮の技術を、世に広めるべきではないと決意を固めていたから。
「これに関しては私とあなたの価値観が真っ向から対立するわね。私は、人類が得た知識は広く知られるべきだと思うし、ある知識が何者かによって独占されることを肯定できない」
「世の中には、広く知られてはいけないことだってあるのよ」
渦巻く血潮が叶えたのは、人の形を捨ててまで、守るべき人を守るための力を得ようとした人々の願い。共に生じたのは、血塗られた運命を歩み出してまで大願を叶えようとした戦士達への強き敬意。互いに想い合うラエルカンの心は美談に見え、守る者と守られる者達の意識を食い違わせた。自分自身の命を捨ててでも後ろの人々には生存して欲しかった戦士達と、彼らだけを死出の旅に送り出すことが出来なかった人々。その末にあったものが、祖国とともに殉ずることが多かった現実であったのならば、生き残ったルーネにとってそれは、渦巻き血潮がラエルカンを根絶やしにした呪縛と学ばねばならない。それはルーネ自身も、あの日ラエルカンから持ち出した小さな命を守るという使命感に出会えなければ、祖国と共に滅びる決断をしていた気がするからだ。
エルアーティの持論は、知識を持つ者の事情に関しては一切の酌量を見せない。確立した学問とは、広めて数多くの知性によって向上され、正しき使われ方、誤った使われ方を歴史に刻んでいくことであるとエルアーティは考えている。たとえば渦巻く血潮の技術だって、広めれば悪用する者が現れることなど想像には難くない。もしかしたらそれをきっかけに、国一つ滅びるような過ちも起こるかもしれない。それさえもエルアーティは、人の歴史においては"前進"と定義するのだ。よく言えば客観的で、悪く言えば無責任なこの考え方は、今でも数多くの人に賛否両論とされている。
「まあ、あなたが語らないと言うのであれば詰めても仕方ないけどね。あなた幼く見えて頑固だし」
「えー。そんなのエルアーティに言われたくない」
「ふふ、二重の意味で?」
二人の間に漂う空気は険悪なものではない。双方、互いの価値観は長い付き合いの中で熟知している。渦巻く血潮の知識共有如何に関して言えば対立するが、価値観そのものはお互いその真意を理解し合っているのだから、7年も付き合ってきた末に喧嘩の種になるようなものではない。そんな議論は数年前にとっくに決着をつけ、引き分けで終わらせている。
「最後の仕上げぐらいは頼まれれば手伝うわよ? 失敗したくないでしょう」
「駄目よぅ。エルアーティは見て学んじゃうでしょう」
「あらあら、徹底した秘密主義ですこと」
これまでの7年間、今の自室をアカデミーに得る前の一時は、エルアーティの部屋に仮住まいさせて貰っていたルーネだが、そんな期間においても技術の核に触れるような部分は、決してエルアーティには見せてこなかった。ともかく、秘密と決めればルーネの周到さは綿密だ。カプセル内の命を維持する技術ぐらいは、エルアーティも目で見て盗んでやったりもしたが、肝心のその先はルーネが自室を得てから。いよいよ本格的に小さな命を誕生させるための技術を施行しだしてからは、ルーネの自室には何重にも鍵が、魔力の結界が張られていたものである。ここ数年、彼女本人以外誰一人として、ルーネの自室に足を踏み入れることが出来た者はいない。
ひとつの秘密を7年間も守り通すというのは、意志の堅さだけでなく、黙秘者の手法が恐ろしく長けていたからに他ならない。数日間ダニームを離れることがあっても、その期間誰も部屋の中に、仮に入れても技術の真髄を見せぬようにしていたとてつもない周到さは人並みはずれている。興味深い学問を頑なに伏せる姿勢は、初め周囲にも面白く見られなかったが、ここまでくれば一周まわって感嘆の声が寄るぐらいである。
「今さら問うようなことでもないけど」
紅茶を一口すすって、エルアーティは一度言葉を切る。話を切り替える時に良く見られる仕草だ。
「よかったの? あの子をこの世に生まれさせて」
「うん、決めたの。生きてこの世界を歩かせてあげるんだって」
ルーネはあの小型カプセルの中に入っていた命が、どんな存在なのか知っている。人の種と卵に、ヒルギガース達の最上位種、エルダーゴアの細胞を加えた存在だ。細かく言えば生命の安定のために他にも様々な命の要素が盛り込まれているが、かいつまんで言えばそれが主である。
魔物の血を流した命は、どんな形で生まれてくるのか。この技術は第一の命を生み出す前にして、祖国とともに滅んでしまった学問だ。結末はまさしく神のみぞ知るところであり、当初その命を育て上げる前は、人の形を捨てた赤ん坊が生まれてくる可能性もルーネは危惧していた。
それで、育った赤ん坊が人ならぬ姿だったらどうするつもりだったのか。上手くいかなかったからその先の生を憂いて命を断つ? それとも人ならぬ姿のまま生まれさせ、人ならぬ人生を歩ませる? そもそも人はそこまで傲慢に、自分で生んだ命に対して審判を下していい存在だろうか?
最善の結果を招けなかった時に嘆くぐらいなら、生まれさせない方がよかったと思えるような結末ぐらいは想定しなければならない。そして万一そうなれば、その十字架を一生背負って生きていくことも覚悟しなければならないのだ。渦巻く血潮を身に宿す小さな命が生まれるその日までの数年間、それを誕生させると決めたルーネの胸中には、幾重にも迷いと覚悟、不安と希望が混在していた。今までの生涯で、一番長い7年間だったと言えるかもしれない。
「結果論に過ぎないけど、よかったと思うわ。人の形として生み出してあげられそうなんでしょう?」
「うん……まだまだその先も、考えなきゃいけないことは多いんだけど」
今、大きくなったカプセルの中で眠るかの命は、しっかり人の形をしているのだ。明日に迎える誕生日、上手くいくならあの子は人の姿として生まれてくるだろう。何年も続けてきた研究の成果は実り、ルーネの願いの第一歩が叶っていることには、エルアーティもどことなく満足げだ。
「ああ、そうそう。あなたに頼まれていた件だけど、生まれた子の引き取り手は見つけておいたわ」
「え、ホント?」
「ええ。ダニームの自警団の一人、ヴィルヘイム=スクエア氏が手を挙げてくれたわ。彼ならば人の親になるにしても、信頼できる人物でしょうね」
ルーネがもう一つ懸念していた件も、これで片付いた。ありがとうと言って深々と頭を下げるルーネだが、エルアーティとしては無表情。事情は一度聞いたけど、やっぱり疑問が残るから。
「あなたが育ててあげればいいと思うけどねぇ。あなたのそばにいる方が、生まれたその子に今後何が起こっても対処できるでしょうに」
「……私にはもう、子供を育てる資格なんかないわ。血の繋がった我が子を捨てた私が、今さら新しい子供を愛する資格なんてあるはずがないじゃない」
生まれた子供に何かが起これば、いつでもどこでも駆けつけるぐらいの決意は当たり前。だが、ルーネはこれから生まれる命を、自分の手で育てる決意だけは出来なかった。気持ちの裏は何度も聞いているが、エルアーティもルーネの頭の堅さには溜め息が出る。
「誰に言わせても、あなたが我が子を捨てたと思う人はいないと思うわよ。滅び行く故郷から逃れさせるために、商人様に預けたのでしょう」
「でも、会いに行けなかった。……一度だけ、会いには行ったのだけどね」
「知ってるわよ。それにしたって、よ」
ルーネは魔法都市ダニームで新たな人生を歩み出してから半年後、世界を渡り歩く、我が子を預けた商人様のところへ再会に赴いた。商人様もルーネの生存を喜び、預かった子供を返すことに前向きだった。だが、商人様の手を離れてルーネの腕に移った子供が泣き出した時、ルーネはその子供を商人様から返してもらうことが出来なくなってしまった。
ラエルカンから離れる商人様の馬車に乗った、あの子を送り出したあの日、我が手を離れたあの子は泣いていた。その半年後、商人様の手を離れたあの子は、それで泣き出し、幼いその手を商人様に伸ばした。自分はいったい、何をしているのだろう。お腹を痛めた我が子を自分の手から離れる形で泣かせ、半年間も血の繋がらぬ赤ん坊を大事に育ててくれた育ての親から引き離すことで、また泣かせる。大人の都合で振り回され、親を取り替えられるたびに泣く我が子の姿に、ルーネは己の罪深さから目を逸らせず、我が子を再び抱くことは出来なかった。
あの子は今も、商人様のもとで養われている。今でも立派に育っているそうだ。幸多き人生があの子にもたらされることを祈る一方で、我が子を"捨てた"過去を持つルーネは、生まれ来る新たな命を我が手に抱くことが出来る気がしなかった。
「それを"捨てた"とあなた自身が捉えるのは勝手だし、それはそれで結構。だが、その話はその話で、あなたが7年間も守り続けてきた、愛しい命をあなたの腕に抱くこととは、はっきり言って別次元の話ではないの?」
「……一度我が子を捨てた私の咎は許されるものじゃない。母はそれが仕方のなかったことだと言い訳し、大人になったあの子に話をすれば、それも致し方なかったことであったとあの子自身が赦してくれる日も訪れるかもしれない……血の繋がった母と子が、共に歩めたはずの日々は二度と戻らないのに」
生みの親より育ての親か、育ての親より生みの親か。血の繋がりとは何にも勝って運命的な絆であり、それが生み出すものの大きさは、大人になれば誰もが実感する。出産を一度経験したルーネにとっては尚更だ。血の繋がりというものは、育ての親こそがと肯定される世論と、対等に戦えるほどの縁。ルーネはその絆を自ら切り離した、自分自身を赦せない。
「私にはもう、我が子を持つ資格なんてない。だからこれからも、私は誰にも嫁がない。あの人が遺した、あの子が幸せに生きてくれればそれで充分よ」
あの子に忘れられてもいい、生きてさえいてくれれば。新たな我が子を授かれなくても、もう充分に幸せを受け取ったはずなのだから、これで満足すべき。それがこの時のルーネの考え方だ。
「賢きとは愚かなることなり。何度私にそう思わせてくれるのかしらね」
「……賢い私なんて、今までにいなかったわよ」
卑屈な言葉を一言に紅茶を含み、ルーネは寂しげに笑う。それでも前を向き、生きていくためにだ。自責に満ちた生涯でありながら、為すべきことを為すために歩いていける心根を、強さと言えるかどうかはわからない。
「まあ、あなたの人生よ。部外者の私にそれを肯定する権利もなければ、否定する権利もないけれど」
紅茶を飲み干したエルアーティは、ティーカップを置いて一息つく。あきれた溜め息とも、こんな友人にいちいち付き合う自分に対する自嘲ともとれる息遣いだ。
「あなたが潰れさえしなければそれでいいわ。私にとって大切なのは、目の前の友人でしかないのだから」
「うん、大丈夫。こう見えて私、体だけは丈夫だから」
そんな話をしているわけではないのはわかっているから、無論冗談混じりの返答だ。こうした返しを柔らかな笑みで出来るうちは、まだ大丈夫なんだろうなとエルアーティにも観測できた。
「さて、お開きにしましょうか。明日に疲れを残すわけにもいかないでしょう」
「ええ」
エルアーティが座る箒を舞わせ、その柄の尻をルーネに向けると、ルーネはエルアーティの背中にぎゅっとつかまり箒にちょこんと座る。そのまま空を舞い、地上まで降りる空飛ぶ箒は、涼しい風を纏って二人の髪を揺らす。友人の背中から伝わる体温は、風の涼しさと併せて心地よく、孤独でなくなった今の日々の幸せを、ルーネに実感させてくれた。
アカデミーの前に舞い降りた、エルアーティの箒からぴょんと飛び降りたルーネの前、エルアーティも箒から降りて地面に立つ。夜のアカデミーへと歩いていく二つの小さな少女の影。エルアーティは、自室へ帰るルーネを見送るために、そこまでついていく。用が済めばマイペースに自室へ帰るのが普通のエルアーティにとって、ささやかでもここまで尽くす相手はルーネだけだろう。
「ありがとう、エルアーティ」
「……えぇ、明日は上手くいくといいわね」
いつもと変わらず、見送ってくれる友人に対して、朗らかなおやすみの笑顔を見せるルーネ。その時、エルアーティの浮かべた小さな笑顔が、普段と違う機微を含んでいることにルーネは気付いただろうか。
「――あ、そうだエルアーティ」
「……何?」
「今朝あなたに貰った、シルクヴェールの組立乗法の新解析理論なんだけどね。ちょっと思うところがあるから、明日聞いて貰っていい?」
気付いている。エルアーティは、もういいと思ったら話を切ってでも、自分のペースでおやすみないしさよならを言うタイプだ。まだ、何か話したいことでもあるのでなければ、今のようにおやすみの声を遅らせたりはしない。ルーネはきっかけを彼女が見つけるまで、話を伸ばして場を繋ぐ。
「今、聞かせて頂戴。あなたのことだから覚えてるでしょ?」
「え、うーん……体系立てて説明できるかはわからないけど……」
「かいつまんででもいいわ」
エルアーティは今日のうちに聞きたい。自分の論文ないし解析論に、口出ししてくる学者なんて、ここ最近ではルーネしかいないのだ。
「……じゃあ、簡単に言うけど。私、あの数式の第25項に違和感を感じるの。確かに計算式は正しいし結果も間違ってないんだけど、多分実践したら、あの数字にならない気がする」
「簡単な偏魔積分よ? あれはあれでいいと思ってたけど」
「理想魔力の計算だったらそれでいいと思うけど、流魔力学にそれを応用する際には一般式として成立しないと思う。せめて融解魔化学の第2法則を絡めて、一般化した方がいいかなって」
「確かに水術に応用することの多い学問だから一理あるわね。その代わり複雑さは増すし、普及しづらい計算式になると思……あ、いや、粘性魔力のα展開式を応用すれば簡略化できるかしらね」
「あ、それいいかもしれない。式を作ってみるまではわからないけど」
「あるいはシンプルさを求めるなら求積氷分解式かしらねぇ……」
「恐らく四重根号が混ざってくるでしょうから、散熱演算も使えるんじゃないかしら」
「面白い見解ね。上手く融合させられれば、火水術にも応用の利く一般式になるかもしれないわよ」
魔法都市ダニームは、世界各地から優秀な魔法学者が集まってくる地であり、高名な学者ならば二人の話す内容も理解できるだろう。だが、こんな会話を矢継ぎ早に繋げて話す二人の会話に、その場にいて頭がついていく学者がどれだけいるだろうか。エルアーティは昔から頭の回転が恐ろしく早く、誰かに何かを説く際には、ほぼ必ず速度を落としてものを語ってきた。自然体の自分の頭の回転速度に、ぴったりついてきて時には前に出てしまう学者なんて、ここ十数年で一度も会ったことがない。
おやすみを言って別れる直前だったところなのに、二人の魔法学者の、高速にして熱い議論は数分に渡って行われた。明日のこともあるのに、夜更かしを増長させてしまう話にエルアーティの方が自分から気を使い、話を適当なところで落としたぐらいである。気を遣うエルアーティ、という文字列を周りが見たら、誰か他の人と間違ってないかと必ず思うだろう。
「……あなたは私が相手でも、全く物怖じもしないのね」
「え? だってエルアーティだって、普通の学者さんでしょ?」
普通じゃない。齢35歳にして、魔法都市ダニームの賢者の称号を授かったエルアーティだが、普通その称号は60歳を迎えた頃の大魔法使い兼学者、それも歴史に名を残せるほどの偉大な人物が得られるような称号なのだ。世襲制でもなく、賢者不在の数十年があっても別によしとされるその金色の勲章を、その年で獲得する彼女のどこが普通だというのだ。エルアーティ自身でさえもが自覚していることだ。
賢者の称号を得て以来、対等な目線でエルアーティと話をしてくれる者はいなくなっていた。彼女が作った論文を誰もが賞賛し、改良の余地があるとエルアーティ自身も思っている解析を、周囲は持て囃すばかりで発展させようとしない。一人の人間が出来ることには限りがあり、だからこそ知識を人類で共有し、知識を知恵に、学問に発展させていきたいエルアーティの願いは、ずっと遮られてきた。世界有数の学者達が集うはずの魔法都市で、一人の天才が長らく感じていた孤独は、運命的な出会いを経て今埋められている。
口だけが達者な者は山ほどいる。頭が良くても知識を独占し、発見者としての名声を求めるばかりで、他者との連携がろくに出来ないものも山ほどいる。賢者と呼ばれるようになった自分に堂々とものを言い、腰を低くもせず、対等に話してくれる友人。そして彼女は名声を求めるわけでもなく、ただ知を探求する学者の精神を持ち、他者と協力して人類に新たな英知をもたらすことに前向きだ。
理想の学者像とは何か。知を求める精神を持ち、それを叶える頭脳を掲げ、人類の未来を拓いていく存在。エルアーティの定義した学者像とはそれであり、そこに雑念がなければないほどに、水晶のように美しい透き通った理想像に近付くとしている。エルアーティは数十年に渡る人生の中で、ここまで自らの理想に近付いた人物を見たことがなかった。年上にも、年下にもだ。
「……ルーネ。明日から私のことは、"エルア"と呼んでくれて結構よ」
「え?」
「両親以外にこの名を呼ばせたことは一度もないの。……あなたにだけは、そう呼ばれても構わない」
そんな人物と友人と呼び合える幸福は、学者の知識を持ってしても言葉に言い表せない。ナイトキャップの前を下げ、顔を隠すようにして言うエルアーティ。誰を相手にしても堂々とした眼差しの彼女が、誰かを相手にこんな仕草を見せるのは初めてだ。
「……おやすみなさい。明日は頑張りなさいね」
僅かな間ののち、エルアーティはルーネに背を向けて去っていく。どことなく、いつもよりも早い足で去っていく彼女の姿を、ルーネはぽかんと見つめていた。
「……エルア、か」
明日の大詰めを迎える前、ルーネの胸をゆっくりと温めた出来事。この日ルーネが心地よい眠りにつき、明日を万全の体調で迎えられたのは言うまでもない。
翌朝、ルーネの部屋の前で待っていたエルアーティに、部屋の中から聞こえる大きな産声が届いた。部屋の中を誰にも見せたことのない彼女を案じ、祝う想いを抑えて待ち続けるエルアーティのもとへ、生まれたての赤ん坊を抱いたルーネが出てきたのもすぐのことだ。
泣き叫ぶ赤ちゃんと同じく、彼女も今にも泣き出しそうな顔で。滅び行くラエルカンから救った命が世界に降り立ったこの日、ルーネの感極まった表情をエルアーティは生涯忘れない。赤ん坊の頭を撫で、妹を褒めるような優しい笑顔で、お疲れ様の一言を手向けるエルアーティ。声にならないかすれた小声で、うんと口にしたルーネは、溢れ出る涙をとうとう抑えられなかった。
渦巻く血潮は呪われた技術である。しかし、彼女がラエルカンに生まれ出るはずの道を閉ざされかけ、戦火の中から救った命が芽吹いたのも、間違いなくひとつの事実である。この一件は、カプセルの中に眠る小さな命を、どのような形で世界にもたらすつもりだと否定的だった学者の考えをも一新させ、魔法学者ルーネの名を世界に轟かせる結果となった。
世界中の魔法学者が騒ぐ中、生まれた命はたった一つ。後にガンマ=スクエアの名を授けられ、幸せな生涯を歩み出した少年にとっては、その一事だけで大いなる奇跡だっただろう。彼自身にとっても、ルーネにとっても。そして親友が胸を張れる結果を誰より望んだ、一人の賢者にとってもだ。




