第171話 ~26年前③ 何もかもを失った日~
魔王マーディスの軍門に下る前は、世界各地を闊歩していたディルエラにとって、強き存在との戦いはそう特別な経験ではない。見上げるような巨大な竜を相手にして、命を危ぶめながらも、腕っ節ひとつでねじ伏せてきたこともある。黒騎士ウルアグワや百獣皇アーヴェルの作り出した創造生物に、ひとつ試しに戦ってみてくれと言われたことも多かった。それらはだいたい期待はずれで、壊してしまうことが殆どだったが。
魔王マーディスの右腕となって、エレム王国の騎士や魔導帝国ルオスの魔導士と戦うことも多くなったが、強い人間は確かにいた。人間は、魔物に身体能力で遥かに劣る身ながら武器を持ち、その扱いを極め、想像を超えた戦いぶりで自分を追い詰めてきた。この日より50年ほど前だったか、エレム王国の勇騎士とやらと一騎打ちしたこともあるが、あの時は心から死を覚悟したものだ。なんとか逃亡には成功し、人間どもの多くを殺すという結果も出したものの、傷だらけの肉体でコズニック山脈へ逃げ込むのには、本当に骨が折れた。
人間は力を合わせる生き物だ。自分に単身勝る人間など一人だっていなかった。最優秀の尖兵を構え、それを支える周囲の人間とのシナジーが、過去に何度か自分を追い詰めてきた。それが人間の強さというものであるとディルエラは知り、一対多の戦いを制するため、衝撃波を放つ奥義や、爆発を起こす奥義で、群がる敵や魔法攻撃を退ける手段を身につけてきた。この二つの技、残る一つの秘奥義を習得して以来、どんな人間が向かってこようと、引き際を見極めれば危うしとなったことすらなかった。
かつて、こんな人間がいただろうか。たった一人で自分に立ち向かい、ここまで追い詰めてくる人間が。それもこいつは、武器のひとつも握らず、我が身一つで獄獣と呼ばれた自分を攻め立てる。
「ぬっ、ぐ……!」
真正面から自分の顔面を愚直にぶち抜こうとしてくる拳を、念のため両腕を交差させて防御したのは正解だった。片腕で防ごうとしていれば、凄まじい勢いに押され、自分の内手首で自分の鼻を打ちつけていたかもしれない。両腕だからこそ止められた。そして止められたからこそ、その重みをその腕で実感することが出来、いかに自分と言えど、これをまともに受けてはただでは済まぬとわかる。
体格差は見るも明らか、太い自分の腕に拳を打ち込むルーネは壁を殴ったようなものであり、その壁腕を押し放ったディルエラは、ルーネを上空前方に吹き飛ばす。後ろに飛ばされた形のルーネは空中で体勢を整えているが、憎しみに満ちたあの眼差しはまずい。あの実力が自分に殺意を向けているとなれば、それはディルエラにとって命の危機に他ならない。
一気に勝負をつけるべき、遊び心は一切要らない。落下するルーネの着地点に向けて駆け出したディルエラは、その巨体が既に加速を得た馬のような速度を一瞬で得る。力強さ以上にその速度、これでいくつもの敵を葬ってきたディルエラにとって、勝負を一瞬で決めるのは本来たやすいこと。
「迫幻刃……!」
そのディルエラの自信に割り込み、本能を打ち鳴らす危機感。死神の気配。
「っ、爆閃弾!!」
瞬時掌に魔力を集めたディルエラの魔力は防御のためのもの。頭を下にしたまま落ちてくるルーネが、射程距離にディルエラを捉えた瞬間、手刀を振るった。そして彼女の魔力によって発言した、まるで手刀の先で輝くような三日月状の光は、尺の長い三日月刀の刃の如くディルエラに迫る。
ディルエラの魔力の集った掌と、ルーネの魔力の刃が激突した瞬間、獄獣の魔力が大爆発を起こした。ルーネは遠方まで猛烈な勢いで吹き飛ばされ、建物の壁に背中から叩きつけられる。一方で獄獣も今の手を振ってしびれを解消させている。掌にわずか残った切り傷が示すのは、ルーネの魔力の刃は頑丈な自分の体も切り裂く切れ味だという事実。今の手段で防御していなかったら、指を数本、最悪首を切り落とされていたかもしれない。
石壁が砕けるほどの勢いで背中から叩きつけられた人間が、鎧もなしにすぐに立ち上がれるはずがない。その概念を打ち砕き、咳をひとつ挟んだ後、ぎっとこちらを睨みつけてくるルーネの姿には、ディルエラも戦う相手が人間であることを忘れそうになる。徐々に前へと走り、ゆっくりと加速し、自分との距離が詰まりかけた瞬間に100%の速度まで急加速するルーネの動きは、獄獣の間を自ずとはずしてくる。相手の足取りを崩すこの戦い方を地で為せるから、ルーネも戦人というものだ。
単調な拳のひと突きが、先刻までよりも力を込めたディルエラの片腕に激突し、凄まじい衝撃を腕に響かせてくる。小さなルーネはディルエラの顔面か胸に向けて攻撃を向かわせれば、その足を地表から離さねば届かない。ルーネの一撃を止められたディルエラが最速の反撃に移れば、空中のルーネは回避の手段を取れない。だが、ディルエラよりも早く身をひねり、その足でディルエラの腕を蹴飛ばしたルーネが、獄獣の盾とも呼ぶべき腕を横に吹き飛ばす。
片腕を勢いよく払われてベストの体勢を奪われたディルエラだが、即座にその身の流れに沿って回し蹴りをルーネに向かわせただけでも、卓越した判断力を証明している。地面に吸い寄せられつつあったルーネは、着地の瞬間あごが地面につくのではないかというほどかがみ、小さなルーネの体をも捉えられたはずの低空回し蹴りをくぐってしまう。台風のような速度で迫る蹴りを、ちゃんと視認して見切っていなければこの回避は出来ない。
両手と両脚で地面を押し出したルーネが、回った拍子に背を向けた一瞬のディルエラの後頭部めがけて我が身を発射。それはまるで弩砲の放つ矢の如く魔物の急所を狙い撃つものだったが、危機を察したディルエラは軸足で跳躍し、ルーネを跳び越えて後方へと飛ぶ。アキレス腱を先ほどのルーネの手刀で切断されることも回避できる、最効率の回避手段である。
ディルエラを捉えられなかったルーネは、前方の建物の壁に両脚を着け、ややディルエラに近付く方向に向けて跳ぶ。空中で身を翻したディルエラは、すでに自分の方向を向いている。腰元に装備した鉄球を投げつけてくる仕草など、この戦いでは牽制に過ぎない。着地の瞬間の敵を狙ったディルエラの鉄球を、ルーネは地を僅か蹴って横に逃れ、地に足が着いたかと思えばディルエラに一直線。自在な足運び、加速度、どれを取っても過去に見てきた人間には例を見ないもの。
拳を振りかぶって迎撃の大鎚を狙うディルエラに対し、ルーネは既に手刀の魔力を集めている。このまま拳を振り下ろせば、確実にディルエラの攻撃はルーネに当たる。だからこそディルエラは瞬時に察知した。あれは我が身の危険も顧みず、自らの首を落とすためにあの一撃を放つつもりだと。
ルーネの迫幻刃がディルエラの首元目がけて振りかぶられた瞬間、ルーネの眼前から獄獣の姿が消えた。自ら倒れたのだ。足を抜き、最高速度で背中から地面に我が身を叩きつけると同時、振り上げられたディルエラの巨大な脚が、我が身上空のルーネを勢いよく空高くへ蹴飛ばした。
地力ゆえ充分な破壊力は繰り出せたものの、咄嗟に庇い手をしたルーネの肉体を破壊するには至らない。敵を仕留めるだけのパワーを込めたものではないからだ。跳ね起きたディルエラは拳を握り締め、空から真っ逆さまに落ちてくるルーネの落下点から、一歩ぶんずれたところで構えている。
獄獣の蹴りに庇い手を、突き抜ける衝撃で腕までずたずたにされながらも、ルーネは空中で体勢を整え地面に向かっていた。苦しい。だが憎しみが勝る。獄獣をこの世から抹消してくれん想いを胸に落ちてくるルーネの殺気には、ディルエラの拳にも力が入る。
真っ逆さまに落ちてきたルーネを眼前に捉えたその瞬間、ディルエラの正拳突きがルーネに激突した。吹き飛んでいた理性も一瞬で現実に立ち返る、両腕を交差させて防いでなお、心臓が止まるかと思ったほど凄まじい重み。迫幻刃を生じさせて迎撃する余裕のなかったルーネは、我が身のみでディルエラの全力の拳を受け、遥か後方の建物に向かって殴り飛ばされた。
爆風によってではなく、獄獣の怪力によって吹き飛ばされたルーネの体は、石造りの壁を突き破り、重心が傷ついたか縦に長いその建物も傾く。ディルエラの攻撃の直撃、壁への激突の二重苦に、ルーネは壁をぶち破った先で、受身も取れずに地面に叩きつけられる。
「列砕陣……!」
ディルエラが右腕に集めた魔力を地面に叩きつけたその瞬間、地表を走る衝撃波がルーネ目がけて突き進む。石畳をめくり上げ、瓦礫を量産し、ルーネの肉体が砕いた石壁をも破壊し、傾いていた建物が足元を崩されて倒壊する。その先で、地に屈したルーネの体の下から吹き上げた衝撃波は、小さなルーネの肉体を宙へと殴り上げた。
衝撃波そのものによって全身を打ち砕かれるばかりか、空中で、地上を離れた瓦礫の一つに殴られたルーネは、どうにもならぬ体勢のまま地面へと落下して動かなくなる。今その場所からはルーネがどうなったかも見えないディルエラだが、"耳"を持つディルエラはそんなルーネの動きも察知している。
「……動かなくはなったみてえだな」
ディルエラの耳は特殊なものだ。地の声を聞き、地面に触れたものを普通とは違う音で聞き分けられる。一度覚えた人間ないし魔物の足音は、どんなふうに相手が工夫を凝らしても数千の足音の中から区別することが出来るし、とてつもなく広い洞窟内においても、闊歩する他の生き物の足音は全て聞き取り、どこに歩く者走る者がいるか、知識次第では誰がどこにいるかも感知できるのだ。
ルーネの心音もディルエラの耳には届いている。気を失っているのか、それとも動けぬだけか。難敵が身動きとらぬ事実を受け、ディルエラはそばに落としていた斧を拾い上げ、背中に背負う。ここで自分がエルドル辺りなら、自分を追い詰めた人間などとどめを刺しに行っているだろうが、自分のスタンスはそうではない。ふぅ、と息をついたのち、ルーネのいる方角とは別、ラエルカンの城に向けて歩きだす。
「てめえが生き残るなら"飼い"だ。運が良ければまた会おうぜ」
勝者としての選択。自身を一度追い詰めた人間が、やがて自分を再び危ぶめる未来を想像しなかったわけではない。それでもディルエラはルーネを捨て置き、人類の本丸へと足を進めていく。
ルーネの拳は痛かった。今までの生涯の中でも、打撃によってここまで体を痛めたのは久しぶりだ。拳を握り、放ち、その痛みを実感しながら、獄獣ディルエラは満足げに笑っていた。
ルーネが気を失っていたのはほんの数秒の間だった。歪む視界の先、ひび割れた石畳を目に入れた瞬間、地に伏せている場合でないという戦人の判断が、ルーネの体を起き上がらせる。その瞬間、全身を貫く凄まじい痛みには、ルーネも声にならない悲鳴をあげて再び地面に崩れ落ちる。
それでも駄目だ、まだじっとしているわけにはいかない。歪む意識の端々で、魔物達と交戦する戦士達の怒号が聞こえてくる。魔物達が街を破壊する音がする。燃えた木々が崩れる音が耳を裂く。最後の魔力かもしれないそれを必死で練り上げ、痛みという体の警報をごまかし、ルーネは立ち上がる。片膝をついてまた倒れそうになるが、立てただけでもまだましだ。
両腕がろくに動かない。ディルエラの正拳突きで打ち砕かれたこの腕は、体を守ると引き換えに、もう使い物にならないかもしれない。耐えただけでも身体能力強化の魔法には救われたが、この腕でどうやって戦えばいい? ものを掴むことは出来ても、魔物を打ち抜くパワーは発揮できないだろう。
体を貫く痛みに涙さえ出そうになるが、歯をくいしばってルーネは戦場へと歩いていこうとする。だが、近付かなくても敵は向こうからやってくるのだ。首都中心部まで既に攻め込みつつあった魔物達は、もはやラエルカンの都の支配権を半分以上確保している。武装した城下町という巨大な要塞は半壊し、ラエルカン城という最後の要だけが無傷で残っているというこの現状、顔を上げたルーネの正面から、数多くの魔物達が進撃してくる。
「わ、私達の故郷です……譲り、ません……!」
ミノタウロスが目についたルーネに迫り、その大斧を振りかぶる。しゃがんで回避した瞬間に体を駆け抜ける激痛をすべて奥歯に持っていき、地面を蹴ったルーネの足は、ミノタウロスの頭を殴打した。頭を一撃で破裂させる威力を発揮できない。だが、首の骨をへし折られたミノタウロスは倒れ、着地したルーネは、遠方のトロルに向かって走り出す。
痛みのせいなのか、必死さのせいなのか。憎しみよりも、守るべきものを守りたい想いは胸の底から蘇り、どす黒い殺意は心から影を潜めていた。死中の彼女は、普段ならば容易に討伐できたはずの魔物に、いつ討たれてもおかしくない状況。されどその想いが、やがて彼女を生き永らえさせる要素となる。
「立ち上がれ、諦めるな……! 我らの祖国を奴らに手渡してもいいのか……!」
孤軍奮闘するクロードに、返事はひとつも返ってこなかった。市街戦を繰り返し、長い戦いを経て息も絶え絶えのクロードは、迫るオーガをその斧で切り伏せて歯をくいしばる。親しかった友人も、その背中を追いかけてきた先輩達も、愛すべき国民が住んでいた街も、亡骸と瓦礫に変わり果てて声を放たない。返ってくるのは崩れゆく建造物と、焼け落ちる木々の倒れる音ばかりだ。
己の率いていた隊が、自分を除いて全滅したのなどとうの昔のこと。部下を失い、各地抗戦する部隊に半ば遊撃手のように混ざり、ひとつひとつの魔物を着実に仕留めてきたクロード。そのたび仲間達がそばで倒れる姿を視界の端に映し、劣勢に後退を強いられ、負け戦の三文字を頭から締め出して戦ってきた。空を駆けていた人類の遊撃手もほとんど姿を見せなくなり、空を舞う魔物達が次々とラエルカンの城へと滑空していく様を見送ってきた。それを止める翼もなく、地に足を着けて斧を振るうことしか出来ない戦士の苦しみは、とても戦人ならぬ者に想像できるものではない。
自らを叩き潰そうと拳を振り上げたスプリガンの攻撃を回避し、2,3の攻防を挟んだ末、この魔物を討ち取ったクロード。周囲を見渡し、魔物達の姿がないことを確かめた瞬間、膝から崩れ落ちそうになる。疲弊もあるが、それ以上に無残に横たわるラエルカンの勇士達の姿が、胸を引き裂いたからだ。
みんな、あれだけ頑張ってきたではないか。人生の半分近い時間を費やして、祖国を守るために力を身につけようとしてきたではないか。呪われた技術だと批難されたものに手を染めてまで、ラエルカンを守るための力を身につけたものだっていたではないか。どうして報われなかったのだ。城近くまで後退したクロードの視界には、すでに魔物達が密集して空域を支配し、集中砲火を受ける城の姿も入っている。おそらくあの下でも、無数の魔物が城を攻め落とそうとしているのだろう。
獄獣ディルエラを、魔将軍エルドルを、半壊状態の都の守りで誰が止められる? 魔将軍エルドルは、未だにゆっくりと前進しているだろう。魔将軍抜きにして城があの有り様で、最後の砦がどうやって持ちこたえられるのだろう。ギガントスやバルログといった、魔物達の最上位種を討伐したという知らせもここまで一度も入ってこなかった。どこかでいくらかは魔物の指揮官格も討伐されているかもしれないが、報告が一つも耳に入らないということは、それを果たしたにせよ頻度は知れているということだ。
ラエルカンの終焉は、今目の前で現実になろうとしている。何度か予感したけれど、全部忘れて戦いに打ち込んできた。そんな否定を殺すかの如く、残酷な戦況はクロードに事実だけを伝えてくる。戦場で泣きそうになったことなんて今まで一度だってなかったのに。男が涙を流していいのは、初めて子供を授かった時だけだと厳格な父親に教えられてきたのに。その父親も、きっと今もラエルカンの老兵としてどこかで戦っている。あるいはもう、帰らぬ人となっている。
どうすればいいのかわからない。半ば錯乱しかけた頭を振り絞り、冷静さを取り戻そうとするクロード。落ち着けば落ち着くほど、憎き魔物の咆哮や詠唱、破壊音ばかりが耳に入り、憎しみで我を忘れそうになる。同時に雄叫びあげて戦い続けてきた戦士達の声は耳に入らず、それが心を急激に凍らせる。
最後の気力を振り絞り、城へと駆け出すクロード。その先に待っているのが絶望であったとしても、愛国者の足は立ち止まることが出来なかった。死出の旅への第一歩だとしても、それもまた彼が選ばずにいられなかった道である。
魔物達を単身退け、最後のネビロスを討ち果たしたルーネの体は、もう限界を目の前に迎えていた。両親に貰った体も粉々に砕け、法衣の下はあざだらけだ。得意のこの魔法がなかったら、とっくに痛みのショックで死んでいてもおかしくないし、そもそも体を指一本動かせていない。
途切れ途切れの呼吸を、天を仰いで虚ろな目で繰り返すルーネ。頭の片隅ではもう理解している。ラエルカンは終わるのだ。自分を退けた獄獣ディルエラは、やがて城に到達するだろう。いかにラエルカンの勇士達が優れていても、配下を従えたあの魔物に敵う予感がしなかった。手を合わせたからわかってしまう。獄獣ディルエラの実力は、多少の策や小細工を賭したところでどうにか出来るものではない。
奇跡を願う想いで振り返ったルーネの目の前にあったのは、城のてっぺんに立てられたラエルカンの国旗が焼け落ち、半分を灰にしながら地面へと落ちていくまさにその瞬間だった。神様はどこまでも救いを与えて下さらない。絶望の象徴を、どうして運命のいたずらで目の当たりにさせようとするのだ。
溢れ出そうな涙も流す前から枯れ果て、ルーネは喉の奥にあるものを飲み込み、走り出す。その方向は城ではなく、長年ルーネが身を置いていた魔導研究所の方角だ。
駆ける中で目に入るすべての光景が、故郷の滅亡の象徴そのものだった。焼け落ちた家屋、戦士達の無残な亡骸、打ち捨てられたように持ち主を失った武器、立ち込める黒い煙が空だけでなく地上までをも包み込む光景。燃え盛る家から耐え切れずに逃げ出したのか、幼い子供を抱いたまま背中に致命傷を負って死んだ母親の死体には、足も止まりそうになった。母の体に潰されて、目を開けたまま命を失った幼子には、無限の未来があったはずなのに。
魔導研究所の前に広がっていた緑溢れる庭園は、今や影も形もない。池は炭のような色に濁り、炎が草木を支配し、魔物の足跡に踏み潰された花壇は、擁していた花々ごと粉々だ。変わり果てた楽園を横切って、魔導研究所の門をくぐろうとしたルーネの足元には、いくつも魔導研究所員の亡骸が転がっている。
わかっていたことだ。戦人でない魔導研究所員の魔法使いたちが戦いを強いられるということは、そこまで魔物達が侵攻した場合のみであり、そこまで至れば彼らに抗う力があるだろうか。魔法を扱えるといっても、戦いの心得なんか書物でかじる程度しか出来なかった人達なのに。魔導研究所の庭に事切れたガーゴイルとトロル2体の死体を見るに、所員総出でその成果を出せただけでも上出来なぐらいだ。
研究所の敷居をまたいだ先、柱にすがるようにして絶命した後輩の姿を見て、ルーネの足は完全に止まってしまった。ひと月後には挙式を迎えるはずだったシアは、下半身のほとんどを焼かれ、這うように研究所内へ逃げようとしていたのだろう。安らかな死に顔とは程遠い、助手として長年連れ添った一番弟子の事切れた姿には、ルーネも両膝をついてその顔を抱きしめたくなる。痛かっただろう、苦しかっただろう。どうしてこの子達までもが、慣れもしない戦いのために身を捧げ、こんな末路を歩まされたのか。世界は理不尽で、残酷で、時にはここまで救いが無いものなのか。
優しい掌でシアの目を閉じさせると、別れの言葉も見つけられず、ルーネは研究所内に駆けていく。魔物達が破壊したと思われる、建物半分が瓦礫と化した状況どおり、中の施設もぼろぼろだ。入り口が残っていて、よく覚えている施設内の道が残されていたのは僥倖としか言いようがない。外から破壊して満足したのか、研究所すべてが崩壊したわけでないのが救いだった。
ここ数年で始められた、新しい研究。生まれる前の命に魔物の血を流し、渦巻く血潮をその身にすでに流した存在を生み出す技術。それが行われていた一室に駆け込んだルーネの目の前にあったのは、残った希望も粉砕されたかと思うような光景。外から破壊された研究所は、この部屋の天井にも破壊を及ぼし、大型カプセルの中で数ヵ月後には生まれるはずの命だった胎児も、破壊されたカプセルから溢れ、冷たい床に絶命して転がっていた。大型カプセルのすべてがそんな有り様であり、もはやこの一室で行われていた研究は水泡を化したことを象徴する光景だ。
だが、救いは残されていた。この一室、ルーネが愛用していた机の下に置かれていた小型カプセルは、先日ルーネが魔力の注ぎ具合を精査するため、部屋の中心部から離れたここに置きっぱなしにしていた唯一のもの。瓦礫に晒されず、綺麗なままで残っていたカプセルの中には、確かに小さな命がそのまま残っている。特殊親和性溶液の中に漂う、生誕とは程遠い小さな小さな命だが、カプセル越しにでもルーネの感覚が受け取る実感のとおり、まだ死んではいない。
救えるかもしれない、唯一の生存者。小さな体でも抱きしめられるほどの小型カプセルを抱え、ルーネは研究所の奥へと駆けていく。途中で道を塞いでいた瓦礫も、強化した足で打ち砕き、道を作る。無理をさせすぎて軋み果てた脚だけど、目の前に希望が見えているかもしれないのだ。最後の力を振り絞る。
研究所、所長室に駆け込んだルーネは、所長の机をその全身で押す。床を踏みしめ、重い机を必死にずらすのだ。そして長年居座っていた机の下、絨毯を引き剥がした下にあったのは、分厚い石造りの蓋である。戦う力の残っていない腕に必死で魔力を注ぎ、強化した腕力を実現させる。石造りの蓋の端、指を深くかけられる場所を使って力を込めた末、蓋の下に現れたのは地下道への階段だ。
どんな街にも、発展する前の歴史がある。ラエルカンがここまで育たぬ一つの街だった頃には、街を守る組織も確立しきれていなかった。それでも魔物達は、どんな時代でも容赦なく人里を襲うのだ。そんな時、人類はその町の主要施設の下に、地下を進んで逃げられる道を、あるいは魔物達から隠れてやり過ごすための地下空間を作っている。逃走経路、あるいは壕というやつだ。だから歴史の長い街や首都には、必ずそうした古代の名残が残されている。エレムやダニーム、ルオスにも勿論あるものだ。
今は魔導研究所として使われてきたこの施設だが、古くはこの場所が町の役所だった時期もあるという。長い歴史の中で、役所というものは状況に応じて移転、増築を繰り返すものであり、今ではこうした形になっているが、古代の役所から町の人々が魔物の襲来より逃亡するための道が、ここ研究所の地下に残っていた。都そのものの拡大によって逃亡地下通路もしっかりと拡大されており、もしもの際はここを使えばよいという風潮も、形としては残っていた。
これがあるのに誰も使おうとしなかったのは、ラエルカンが国民の育て方を間違えていたのかもしれないと、後年のルーネは語ることになる。戦う技術もないのに、魔物達に挑むことを選んだ研究所員達。そんなことをせずにここから逃げてくれるだけでも、生き残った命は未来を築いていけたのに。失ってから初めて気付く時点で、ルーネもラエルカンの掲げる方針に捧げ過ぎていたと言えるかもしれない。祖国が滅ぶなら我が身もろとも。そうした考えを根底に持つ者が、ラエルカンには多すぎた。
渦巻く血潮が作り出した、未だ生まれぬ命のことが脳裏によぎり、出来ることなら救いたいと思った閃きがなければ、ルーネも皇国ラエルカンとともに、命尽きるまで戦い続けていたかもしれない。今のルーネにそれを頭で理解する余裕はなかったが、ただ救いたい一心で、ルーネは地下道への道へ足を踏み出す。明かりなどなく、駆けるなら松明か魔法使いとともに。光無き真っ暗な地下道に降り立ったルーネは、内側から蓋をして、階段を降りきったところで、糸が切れたかのように壁に背をつけ座り込み、目を閉じる。
光を生み出す魔法は使える。だが、身体能力強化の魔法と、カプセル内のこの子の命を支える、活力の魔法以外にあまり魔力を注ぎたくはない。闇に目を慣らし、身体能力強化によって研ぎ澄まされた触覚で、最低限の小さな光だけでこの地下道を駆け抜けていかねばならない。休息を兼ね、生存への道を拓く力をルーネは培う。
じっとすれば、思い出さずにはいられない。滅び行く故郷の光景、崩れた研究所、幸せを目の前にしていたはずの後輩の死、最愛の夫の最期。一度見たものはそう簡単に忘れられない学者の目は、胸を裂く記憶の数々もしっかり脳裏に刻み込む。そして、ファクトリア家の魔法使いとして戦い、戦火の中で命を落としたであろう両親や妹には、とうとう死に目にも会えないままだった。
30年以上の年月をともに過ごしてきた故郷の終焉。この苦しみを短く形容しきる言葉など、誰にも見つけることが出来ないだろう。ラエルカンの崩壊が、すぐ上の地上にて現実となっていることに、ほぼ無音の地下でルーネはじっとしていることしか出来なかった。
闇に目が慣れても立ち上がれない。体は動く。心が粉々だ。どうして涙をこらえられるというのだ。胸元に抱きしめた、見知る限りでの唯一のラエルカンの生存者。この世に生まれる前の命を優しく包む、冷たいカプセルを抱きしめて、ルーネは声を漏らして泣きだす自分を抑えられなかった。




