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法騎士シリカと第14小隊  作者: ざくろべぇ
第11章  三十年間の叙事詩~オデッセイ~
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第170話  ~26年前② 目の前で~



 首都外の野戦部隊のみで、都への魔物の進撃を食い止められるなら、勿論それが一番いいことだ。それが出来るのであれば、そもそも人類はここまで魔王軍に手を焼く歴史を積んできていない。ラエルカンの首都へと猛突進する魔物達の軍勢は、やがては野戦部隊を押し切り人里へと迫るだろう。人類陣営の誰もがそれを覚悟しており、それは尖兵として野戦を担う部隊の者達でさえそうだ。


 後退、前進、防御、突撃を目まぐるしく繰り返し、魔物達の数を犠牲少ない上で削り落としていく、首都外野戦部隊の活躍は目覚ましい。それを押し切る魔物達の膨大なる兵力は、じりじりと人類の壁を退かせていく。野戦部隊の指揮官格クロードにとっても面白い展開ではないが、折り込み済みの出来事だ。


「第7、第9、第15小隊は壊滅……! 第6中隊も危機的状況! もう無理です!」


「第5小隊を第6中隊に合流させて何とかもたせい! 全軍は後退! 首都の守りと合流し、一気に叩く!」


 兵力のロストは攻撃面でも防御面でも痛い。一人の人間は、単体で数多くの仕事が出来るよう訓練を積み重ねてきているのだ。失った兵の格にもよるが、連隊全体の5%でも失うことになるなら、それはもう隊の危機を意識していい頃合いである。そこから戦力を失った相乗効果によって、また犠牲者の山が増えていくだろう。


 敵に背を向けず、後方の首都へと逃げていくことは非常に難しい。失った兵の数に勝り、魔物の首の方が遥かに多い現状ながら、敵の数は次々と後方から足されて敵は勢いを弱めない。首都までいかに兵を減らさず、敵の数を減らせるか。野戦部隊に課せられた使命は非常に難しいものだ。


「ミノタウロスども、行け。衰弱した人間は絶好の獲物だぞ」


 悪魔達の軍を率いる将格、金色の肉体と翼を持つ怪物バルログは、獄獣軍から借りた兵力を人間達へと差し向けながら、遠いそらから人類を狙撃する。光属性の魔法を操るこの魔物は、非常に弾速が早く回避の難しい砲撃を多数撃ち、戦場より離れた地から既に数人の敵兵を葬っている。直撃はさせられなくとも、その撹乱によって他の魔物に致命傷を負わされたものもおり、その魔法は死の遠因となることが多い。


「おのれ……! 敵将も垣間見えぬうちからここまで……!」


 覚悟はしていたが、人類の首都ひとつを攻め滅ぼそうとする魔王軍の力の入れようは、やはり半端なものではなかった。事実として数百の魔物達を落としたクロード率いる連隊であったが、敵の大きな手札を吐き出させずに首都を近く背後に構えたことには、歯ぎしりせずにはいられぬ想いだった。






 クロード達の部隊が守る首都の門とは別角度、首都南東から攻め入る魔物達の猛襲は、すでに首都のその方角の門に差し迫っていた。こちらの野戦部隊も間違いなく最善を尽くしていたが、獄獣が使役する巨人の魔物と、エルドルの使役する悪魔達の連合軍の猛追は凄まじく、持ち堪えることに限界があった。首都門前に群がるように集う巨大な魔物達は、門の高みから射撃する兵、魔導士によって傷を負っても勢いを止めない。脳天を魔法ないし矢や銃弾で撃ち抜かれて絶命する魔物がいても、他の魔物は命知らずに門へと向かってくる。死を恐れぬ怪物が無数に迫る光景の、なんと恐ろしいことか。


 野戦組の白兵戦、門を守る狙撃部隊の射撃、いずれもよくやっている。だが、トロル属の起こす地震魔法に足を取られ、剛腕無双のミノタウロスに真っ二つにされる者や、狙撃をかいくぐったネビロスの風の砲撃魔法で門上の魔導士を撃ち抜かれ、兵力は削がれる一方だ。敵の数は着実に減っているが、損失に対してまったく等価ではない。そうこうしている間にも、遠方から次々と敵は襲い掛かってくるのに。


 鋼の城門を無数の魔物達が魔法で打ちのめし、それに手を届かせたビーストロードの大戦斧の一撃が、強固な門に悲鳴を上げさせる。破らせてなるものかとビーストロードを集中砲火する人類の足掻きも空しく、覆いかぶせるように門へ多勢でぶつかる巨人族は、ついに関所の門を破壊した。門の真後ろで構えていた兵達に、蓋を開けたように目の前に無数の巨人が現れた光景は、恐怖に値するものである。


「いいぞ、エルドル様もお喜びになる。さあ、人間どもを根絶やしにしろ!」


 魔物達の将にあたるギガントス、その名をゼルザールと名乗る怪物は、遠方からこれらの魔物を指揮しながら、片腕に握った魔力を門の奥へと投げつけた。大地震を起こす地震魔法(アースクエイク)の揺れは人類の迎撃の出足をくじき、魔物達が進撃する勢いをさらに増す。


 魔物達の大将は、やがて後から来てくれる。かの存在のために道だけ拓いておけば、あとは人里の中心でそれらが人間どもを粉砕してくれる。有象無象の魔物達など、魔王マーディスや黒騎士ウルアグワ、百獣皇アーヴェルがいくらでも生み出してくれるのだ。魔物達の将軍格を削がず、敵の守りを手薄にすればいいだけのゼルザールは、進撃の成功に悪辣な笑みを浮かべていた。






「市街戦は避けろ! 敵にとっては絶好の隠れ場が多すぎる!」


「右方向、撃て! 空の敵をこれ以上進ませるな!」


 首都の空は無数の影に覆われ、地上はそれ以上の混迷を極めていた。制空権を確保しようとする悪魔達、それに抗う翼を背負ったラエルカンの精鋭――渦巻く血潮によって人外なる力を得た存在の交錯は、目まぐるしく空模様を書き変えている。エルドル率いる空軍と、獄獣率いる剛腕怪物の地上軍は、役割を二分した上で自らの役目を何にも勝って正しく遂行し、とてつもないシナジーを生む連合軍である。


 オーガにも勝る腕力を持つ鬼神のような大男、悪魔のような翼を持つ大魔法使い、全身をけだもののような縞柄の体毛に覆われた人間。渦巻く血潮によって力を得た兵は優秀なものだが、魔物達の多勢と連携は、それをも押し込み首都内を侵略していく。苦しい。首都内での抗戦に移行したクロードも、渦巻く血潮によって力を得た一人ではあるが、ヒルギガースとビーストロードの2匹に同時に襲い掛かられては一人では戦えない。後方支援の魔導士や狙撃手と力を合わせて、なんとか敵を討ち果たすが、自らがそれに手を焼いている隙に、別角度にて魔物達が部下の命を削いでいく。小さな好転に対し悪転の展開が続く。


「……煉獄の風(ファイアストーム)


 そして、来た。すでに防衛陣も首都内に引き下がり、すっかり人のいなくなった関所門を超えた所で魔力を展開した化け物は、自らの後ろに空間の亀裂を一閃開く。そこから吹き出す凄まじい勢いの風は、炎にも勝る熱を伴い吹き荒れて、目の前の人里を一気に焼き払った。常緑樹は一瞬で全身を炎に包まれ、緑溢れる公園は一瞬で火の海に包まれる。


「エルドル様……!」


「あまり我が手を煩わせるな……使えぬ兵は我が翼に焼かれて灰としてくれようぞ」


 魔物達でさえもが恐れる魔将軍エルドルは、山羊頭の目を真っ赤に染め、殺意に満ちた表情だ。睨まれた配下のバルログも、機嫌よく下々の部下を操っていた先刻までを一新し、尖兵となって前進する。成果の一つぐらいこの親玉の前で挙げなければ、自分が役立たずとして切り捨てられてしまう。


 魔将軍エルドルの残忍性は、あぐらをかいていた魔物の上層兵をも突撃兵へと変えてしまう。それが人類にとっての大きな逆風だ。魔将軍エルドルに劣るというだけであって、ガーゴイル達の最上位種たるバルログは、その巨体で鳥よりも早く空を滑空する怪物である。エルドルの鷹の目の前、空を飛ぶ魔導士へと一気に迫り、迎撃魔法を回避してすぐその人間を爪先で葬り、地上の人間へと光弾を放つ魔法を展開するバルログは、一瞬にして人間の二人を親玉の前で仕留める戦果を見せた。


 ずしんと巨体の足を鳴らしながら歩いていくエルドルは、そんなバルログのはたらきを見ても口の端すら上げない。魔王マーディスに命じられたから進撃してきただけであって、本来ならば高座で人間どもを葬る配下を眺めていたい性分なのだ。参戦したこと自体が不本意で、手を下さぬままにしての勝利こそがエルドルの望み。はじめから不機嫌だったこの親玉の気質は、配下の魔物達を一気に奮起させる。


「……ダニどもが」


 エルドルの側面から飛んだ一撃の銃弾は、物陰から敵将を頭を撃ち抜こうとした勇敢なる銃士のもの。卑小な人間になど興味もないエルドルは、銃声が鳴るまでその気配にすら気づいていなかったが、それでも間に合う反応速度で首を振り、曲がった角に銃弾を当てて弾き飛ばす。


「抗う無意味さも理解し得ぬか……」


 銃弾の飛んできた方向に向けて歩き出したエルドルの後方から、快馬の如き速度で迫る戦士が剣を握って飛びかかる。命を賭して魔将軍の隙を作った銃士の覚悟に、我が身滅ぼうともその翼に剣を突き立て、かの魔物に僅かでもダメージを残そうとする捨て身の攻撃だ。


 エルドルは振り返りもしないまま、片足を軸にして握り拳を後方に振るった。そのパワーは奇襲戦士の頭をいとも簡単に粉砕し、無傷にしてネズミを潰したエルドルは、銃士のいる方向を向き直り、息を吸う。


 魔将軍の口から吐き出され、絨毯のように広がる炎は、逃げようとした銃士を背後から焼き尽くす。もだえ苦しみやがて絶命する人間など無視するかのように、首都中心に向かって歩き出すエルドルは、燃え盛る首都の炎に照らされて恐ろしい姿だった。






「ええい、何をしている! たかが人間どもだぞ!」


 無数のジェスターを操る、それらの上位種にあたる魔物達の魔導士筆頭、ダークメイジが黒装束の奥から不機嫌な怒号をあげていた。自分よりもさらに上位種にあたる魔物の魔導士も後衛には控えているが、前衛のはたらきが芳しくない。グラシャラボラスやオーガキングのような中層魔物の怪物達が暴れ回り、一気に戦場を制圧していくはずが、自身の想っていたよりも功を奏していないからだ。


「狙撃部隊は旧市街方面から迫る魔物に目を配れ! 残りは真正面!」


「全軍止まるな、押し返せ! やがて第5大隊の支援が来る! 恐れるな!」


 背水の陣で徹底抗戦する人類の底力もまた、一部の魔物達の想像を超えている。ミノタウロスを討伐することも単身では出来ない若い騎士が、その上位種ビーストロードに無謀にも飛びかかり、その命を散らしたことは人類にとってあまりに哀しい出来事だ。だが、その間隙を縫った上層兵の一撃がビーストロードの腕を切り落とし、動揺したその首を人類の魔導士が魔法で狙い撃ち、討伐するに至ったことは、間違いなく若き戦士の功罪と言えたものだろう。弱き兵とビーストロードの命の交換、冷酷な言葉で言い表すなら、バトルアドバンテージは間違いなく稼げている。


 人類の強力な駒を削げず、率いる巨大な魔物を落とされていくダークメイジにも焦りが出てくる。自身も稲妻を放つ魔法で援護射撃し、人類の足並みを崩そうとするが、結果に繋がりきらない。吹き飛ばされて地表を転がった人間は、今ここで立ち上がらなければ次はないという想いのもと、体が動く限り強くその脚で大地を踏みしめる。誰もが必死で、引き下がれない。


「いかんぞ、このままでは……! ゼルザール様の軍がここに辿り着く前に、なんとかしなくては……!」


 魔物達の指揮官も、この軍隊でどこまで進まなくてはならないかの算出は出来る。そこまではせめて人類を攻め滅ぼさねば、後から来る魔物の上層部達に、役立たずとされて葬られてしまうかもしれない。自分がそういう奴だから、恐れる。悪辣な魔物であればあるほど、それだけ臆病なのだ。


「そろそろ片付いてきたぞ! ここは貰った!」


「敵将の首はすぐそこだ! 鎮圧砲撃の手を緩めるな!」


 ダークメイジの率いる軍勢も、残り兵力あと僅か。迎撃する人類の咆哮が、吠えたける魔物達の声をやがて呑み込もうというほどの有り様だ。後ずさるダークメイジの前方から、遠かった人間どもがずんずんこちらに歩を進めてくる。攻め勝つことしか想定していなかった指揮官にとって、これに勝る恐怖の光景はない。


 配下の指揮を放棄し、部下を見捨ててダークメイジが撤退しようとした矢先のことだ。人類に背を向けたダークメイジの眼前遠方で、建物の影から跳躍してこちらに飛来する何かがある。ダークメイジも思わず見上げた。人類の射手も、広い視野の中でそれを視認していただろう。


 それは人類の輪の真ん中へと真っ直ぐ舞い降り、遠い上空から自らへと飛来する何かに気付いた地上兵を、次の瞬間巨大な足裏で踏み潰した。超密度を持つ全体重により、鎧を纏った人間を一瞬でぺしゃんこにしたその魔物は、物見遊びをするかのように、自分周囲の人間達を見回す。


 この魔物の名は誰もが知っている。魔王マーディスの率いる軍勢の中でも最強と言われたこの存在が、こんなにも早く推参した事実には、ダークメイジの軍勢を押し返した次の戦いまで思考を広げていた人類の未来を、一瞬にして真っ黒に塗り潰した。


「いまいち強そうな奴がいねえな……今日は中吉だったはずなんだが、退屈しそうだな」


 棒立ちの状態からノーモーションで地を蹴ったその怪物は、急加速を経て近くの人間一人に差し迫る。その頭をその拳で殴り、軽々と粉砕したかと思えば、竜巻のような回し蹴りで近くの人間3つ、一度に薙ぎ払って吹き飛ばす。直撃の瞬間に人間の肉体は脊髄まで砕かれ、人の形とは思えないほどの形状に変えられた人間は、建物の壁に叩きつけられて即死してしまった。


 ダークメイジの危機感は一瞬で余裕に変わった。この怪物が、人間なんかを相手に遅れを取るわけがない。後続のゼルザール率いる軍勢よりも、この大親分が参戦してくれたことは、ダークメイジにとって嬉しすぎる誤算である。


「まァ、構わん。ちっと遊んで貰おうか」


 背負った斧を片手に握り、肝も縮まん想いの人間をにやついて見据える魔物の大将格。獄獣ディルエラの参戦は、人類の未来に闇を落とし込む、まさしく最強の爆弾と言えた。






 ガーゴイルやミノタウロス、ヒルギガースというような怪物どもが、先駆ける無数の兵として数えられる魔物の軍勢という構図を、若い戦士には想像できるだろうか。たった一匹で、武器さばきに毛が生えたような戦士の卵など、10人を相手にしてもものともしない存在なのだ。それを大挙率いて進軍する魔物の指揮官、バルログやギガントスといった魔物は、決して自らの身を危ぶめるようなリスクを侵さず、着実に配下を操って人類を摘み取っていく。


 百獣皇アーヴェルの率いる軍勢は数で押すものであり、そこに黒騎士ウルアグワの死を遠ざけた魔物の追撃が重ねられた、エレム王国も苦戦はした。だが、無双のパワーを武器に人里を踏み潰す獄獣軍と、機動力と魔力、白兵戦にも優れた魔将軍勢の組み合わせは、地力で勝れねば言い訳の一つも許さず、理屈無き蹂躙を謳歌する軍団だ。当時は魔王軍の四天王と呼ばれた中でも、2軍連合ならば最悪の組み合わせとよばれる連合軍が、今このラエルカンを蹴散らしている。


 渦巻く血潮によって力を得た新人類、あるいはその力に頼らずとも力を育んできた強き人間達。ラエルカンにはそれだけの兵が、他国にも劣らぬ数揃えられていた。事実として魔王マーディスがこの世に現れ、人里を攻め入ろうとしてきた長い歴史を、長らくラエルカンは乗り越えてきていたのだ。敗北の未来を思い描いていた者はなく、死闘の中にあっても必ず今までのように、この窮地を乗り越えられると信じていた者達ばかりだ。士気は落ちなかった。むしろ、今まで以上に奮起していたと言えるだろう。そうした人間達の心意気を、二体の大将格が、次々と踏みにじっていく。


 自身も一騎当千の実力を持ちながら、その存在感だけで配下達の焦燥感を煽り、たいして何もしないまま吠えたける魔物達が拓いた道を歩いていくエルドル。部下など無視して、己の拳ひとつで人間達ひしめく人の壁に突撃し、しらみ潰しのように人類を粉砕していくディルエラ。対照的な両者のスタンスは、同陣営の将が気の合わぬ日頃に説得力を持たせるものであるが、生み出す支配力は徹底抗戦する人類の力を呑み込んでいく。ラエルカンは押されている。最後の要、城に魔物の手が届くのはもうすぐだ。


 最後まで諦めるな、という戦士達の鼓舞が、この戦場で何度響いただろう。諦めずに戦い抜いた愛国者達の戦いは、終焉に向けて加速し続ける。やがてすべてが終わる、その時までだ。











 特定の防衛点を持たず、遊撃手として跋扈する者がいる。指揮権を持たず、状況に応じて窮した仲間を救う為に動き、あらゆる戦場で活躍することを期待された者達のことだ。飛翔能力を持つラエルカンの兵などが代表的なもので、地上からの連絡を魔力で受け取り、目まぐるしく動く戦況に合わせて各所の劣勢人類を覆してきた実力者達。あるいは騎兵として戦場を駆け、馬上から銃弾や矢、魔法を放つ者達のことである。


 乗り足もなく、空を駆ける翼もなく、遊撃手として地上を駆け回る者といえば、渦巻く血潮の技術を受け、人を超越した脚を持つ新人類ぐらいのものだ。その地上遊撃手達の中にあって、渦巻く血潮の技術も、馬という足も持たずして無停止の活躍を果たす、異色の小さな影があった。上空から冷静に状況を見定めるバルログの一体にとっても、あれは何だと言いたくなってしまうほど、小さく速い影だ。


 あわやラエルカンの戦士の一人を、振り下ろす斧で真っ二つにしようとしたビーストロードの極太の肘に、その小さな影は弾丸のように迫り、膝蹴りでその肘の骨を粉々に粉砕する。凄まじい破壊力に表情を歪めながらも、もう片方の腕で小さな敵を殴り飛ばそうとしたビーストロードの動きは流石だろう。だが、小さな影は振りかぶられたビーストロードの腕を蹴り上げ、自らは反作用で地面へと急落下。着地と同時に地面を蹴り跳んで、体勢の乱れたビーストロードの顎を下から蹴り上げた。


 屈強なビーストロードが、顎を蹴り上げられた拍子にのけ反って倒れ、跳躍したその人物が魔物の顔面に向けて急降下、拳を振り下ろしてビーストロードの頭を粉砕した。初接触から10秒も経たずして、怪物ビーストロードを滅却するような人間など、どれだけいるだろう。この人間が、先ほどからラエルカンの中央区画を縦横無尽に駆け回り、触れる敵触れる敵を粉砕していく姿には、指揮官バルログも苛立つ想いを抑えられない。


 かつてラエルカンに向けて進軍した百獣皇アーヴェルが、"あれとだけは二度と戦いたくない"と言って、ラエルカン進撃に関わりたがらなかったのを思い出す。蒼い髪、人間の子供のような小さな体躯、その身一つで魔物達を打ち滅ぼしていく姿は、あれこそが話に聞く人類の戦乙女かと、魔物達の中で知恵のある者達も思わずにいられない。


「ここはラエルカン。私達が愛し、育まれ、抱かれ続けてきた無二の聖地です」


 自らに向けて鉄分銅を投げつけてきたヒルギガースに対し、突き出した掌でそれを真正面から受け、握り潰す戦乙女。伸びて張った鎖の先、得意の武器を肉体のみで粉砕する人間の姿には、さしものヒルギガースも驚愕のあまり思考が停止してしまう。


「私達の故郷、あなた達に明け渡すべきものなど一つもありません!」


 凄まじいパワーで鎖を引いたルーネの怪力は、離れた位置で鎖のもう一端を持つヒルギガースを、前のめりに傾かせる。よたついたヒルギガースを顔を上げた瞬間には、すでに目の前には遠方から地を蹴って、風よりも早く接近した人間の姿がある。ルーネの拳がヒルギガースの額を撃ち抜き、その拳が生み出す莫大なエネルギーが、ヒルギガースの頭蓋骨の中までをぐしゃぐしゃにしたのが直後のこと。


 地に足を着けた瞬間、空中へと高く跳んだルーネは、空の人間と交戦していたネビロスへ迫る。地上からの刺客にネビロスが気付いた頃には、ルーネの手がネビロスの翼を掴み、背中を蹴ると同時に力任せに悪魔の翼を引きちぎっていた。


 離れて落ちていくルーネとネビロス。そのネビロスをすぐ、空中の魔導士が魔法で撃破したのはいい結果だろう。だが、空高くに位置したルーネの視界の中に一瞬映った、恐ろしい予感を駆り立てる光景は、そんなネビロスの末路も意識に入れられなかった。


 何者かが起こした、地上を広く破壊する衝撃波が、ラエルカンの中央教会にぶつかり巨大建造物が揺らいだ光景。地上に吸い寄せられながら、中央教会周辺の地表からまき上げられる瓦礫の姿を見届けたルーネは、今あの地で何が起こっているのかを一瞬で想像する。


 夫が戦うあの場所に、いったい何者が現れたのか。地上に降り立った瞬間、ルーネの全身を襲った悪寒は言葉では言い表せない。戦略も、理性も、戦人としての冷静な判断力も失い、ルーネの足は全力で中央教会へ向かう。止まらない胸騒ぎが、自分の思い過ごしであることを祈る暇もなくだ。


 まさか、まさか、まさか。汗だくの顔が、熱くなった体に反して蒼白に染まる。息を切らして戦っている体はすでに疲れ果て、身体能力強化の魔法もどこかで限界近くを意識している。それらを吹き飛ばし、今日最速の足を駆けさせるルーネが、中央教会の前まで辿り着くのに時間はかからなかった。


 だけど、あと少しでも早く辿り着いていたなら。そう、たった5秒早くここに来られていれば。




「あばよ」




 駆けつけたルーネの目の前に、最初に飛び込んできた光景は、遠き夫の背中だった。その正面、大きな体躯と赤黒い肌を持つ怪物が、伴侶の背中の向こうで立っている。膝をついて魔物を見上げていた夫に、獄獣と呼ばれし怪物の振り上げた斧が、振り下ろされる一瞬前、ルーネはここに辿り着いたのだ。


 一瞬時間が止まったように感じられ。


 目の前の出来事に自分だけが動けない心地に襲われ。


 獄獣の斧が夫の頭に触れた瞬間、あの人が振り返ったような気がして。


 ルーネの目の前で、ラエルカンの戦士ニコラは。


 獄獣ディルエラの巨大な斧によって、兜ごと頭頂部から真っ二つに両断された。




「ちっ、しけてやがる。渦巻く血潮を擁する軍隊って奴らが、どんなものかと思ったら」


 獄獣ディルエラの意識の端にも映らない、遠き場所で凍りついたように立ちすくむ少女。恐らく視野には入っているのだろう。だが、強者を求める獄獣ディルエラにとって、その存在は興味の外であり、舌打ちとともにあらぬ方向に首先を向けようとしていた。


 その時、若かりし日の戦乙女の心に落とし込まれた闇の色は、一瞬で彼女の胸を支配した。戦いを嫌い、戦場で魔物を屠る時でさえ憎しみを心に宿さなかった彼女の心に落ちたのは、間違いなく彼女にとって初めての感情。燃え盛る街に照らされた夜の空が、一時的に失った黒さをすべて凝縮し、彼女の胸に集まっていったと言えるほどの、真っ黒な感情。


「ん……」


 殺気にディルエラが振り返った瞬間、遠きその場所にいた彼女は姿を消していた。人が駆ければ数秒かかる距離を、ひと蹴りで獄獣ディルエラまで一気に迫ったその存在に、ディルエラの直感が言い知れぬ非常警報を鳴らす。だが、それによって構える暇もないほどに。


「ぐバ……ッ!?」


 岩石をも砕くルーネの破壊鉄拳が、銃弾をも超える速度で獄獣ディルエラに突き刺さった。百年以上生きてきたディルエラが初めて経験する、人間の生身の拳が自らの胸部に突き刺さり、屈強な筋肉を超えて骨まで砕く感覚。さしもの獄獣でさえ、何が起こったのか一瞬理解できなかったダメージだ。


 地に足を着けたルーネが跳躍し、ディルエラの顎を蹴り上げたのが直後のこと。ビーストロードの意識も吹き飛ばし、後方に倒れさせるその蹴りとは、骨という物質など一瞬で粉砕してしまう破壊力だ。後方にのけ反ったディルエラに対し、理性の飛んだルーネの瞳孔開きし瞳は、次にこの魔物の頭を粉砕し、命を葬る道筋を本能で描いている。


 だが、獄獣ディルエラは倒れない。のけ反らせた頭を、突然前に振り返し、空中にあるルーネ目がけて砲弾のような頭突きを繰り出してきた。それはまさしく大砲の弾のような重さと速度を持つものであり、反射的に両腕を交差させて防御したルーネの腕に、石頭が放つ破壊力を刻み付ける。


 強化されたルーネの腕は砕けず、しかし後方に吹き飛ばされたルーネは空中で身を翻し、地に足を着けて地表を滑る。砂埃を舞い上げるブレーキの末に停止したルーネの感情は、闇に染まったままだ。花を愛し、星空を楽しく眺め、そばに立つ人に甘えるのが好きだった彼女が、たった一つの感情を原動力に、魔力を生み出す精神の軸にして、獄獣ディルエラを睨みつける。焦点が合っているかもわからない目。


 殺意。信愛の二文字は、今やどこにもない。差し向けられた真っ黒な感情に、強者と巡り会えた喜びも忘れて、ディルエラが胃から溢れた液を、口からべっと吐き捨てる。


「いい度胸してやがるな、お前……!」


 獄獣の本能が強く主張する真実。全力で狩らねば殺される。獄獣ディルエラは、先の猛撃によって落としてしまった斧にも、もう振り返ることが出来なかった。敵から目を切ることが出来なかったからだ。


 憎しみを心源とした大魔法使いが地を蹴り猛進する。魔王軍最強の刺客と名高き獄獣と、強さと優しさを併せ持つ乙女と愛されたルーネが、初めてその拳を交えたのがこの時だった。

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