第167話 ~30年前 すべてが満たされていたあの頃~
魔法都市ダニームに移り住んでから、もう26年になる。
滅び行く祖国から逃げ延び、傷だらけで転がりこんだ自分を優しく介抱し、やがては受け入れてくれた人々。魔法都市のアカデミーという聖域に、外様の自分を迎え入れてくれたアカデミーの学者達。ダニームの一員として自らを認め、手を振って挨拶してくれる人達。同じ幼き姿の魔法使いとして、幾多の日々を過ごしてきた最愛の親友。
ここで巡り会えた縁の幸福は、かつて何よりも愛した祖国ラエルカンにも負けず劣らぬほど、魔法都市ダニームのことを愛させてくれた。だけど、かつて愛した祖国のことを忘れ、今がすべてだと前に進んでいける強さを、どうしても自分は養ってこれなかった。一度失ったあの輝かしい日々が、滅亡を免れて今も続いていたらと思うと、時を巻き戻して運命を変えたくなる思いにだって駆られてしまう。
それだけ、幸せだったのだ。今は亡き皇国ラエルカンの数少ない生き残り、ルーネ=フォウ=ファクトリアは、今でもあの頃の満たされていた日々を夢に見る。
「……ルーネ様、起きて下さい」
旧ラエルカンの魔法学者であった頃のルーネは、魔導研究所の研究室で居眠りすることが多かった。机に突っ伏して、起きていた時に手に握られていたペンを机に横たわらせ、いつの間にか意識を失うなんてのが日常茶飯事で、こうして研究所の助手に起こして貰うことが多かったものだ。
とろんとした目を開け、まどろんだ意識の中で顔を上げようとした瞬間、がばりと顔を上げてそばにある置時計を見るルーネ。今日もまた寝坊だ。ラエルカン衛兵団に、戦闘訓練指導者として招かれているのは毎日のことであるはずなのに、集合予定とされている時間から既に5分過ぎている。今から行けば、辿り着く頃にはもっと時間が過ぎているだろう。
「すみません……何度もお声をおかけして、揺すったのですが……」
「あ、いや……あ、あなたのせいじゃ……」
謝る後輩に、首を大きく振りながらも、この世の終わりのような顔な焦りを顔に出すルーネ。乱れた法衣を大慌てで正そうとするが、慌て過ぎているために上手くいかず、見かねた後輩が正面から襟元を正してくれる。
「じっとして下さい、ルーネ様。そんなお召し物ではお恥ずかしいですよ」
「う、うぅ……ごめんなさい……いつもシアには、こんな……」
三十路も前だというのに、十歳の少女のような背丈に童顔のルーネは、今にも泣きそうな顔で後輩のシアに目を伏せている。はい、出来ましたよ、と、ルーネよりも少し年下、成人してしばらくの大人の女性となったルーネの助手は、柔らかく笑顔でルーネを送り出そうとする。
「一日ぐらいはお休みしてもいいのでは……? 流石にルーネ様のお体が……」
ルーネの両手を握ってしゃがみ込み、背の低い彼女よりも下からその目を見てシアは言う。焦っていたルーネを落ち着かせるその瞳は真っ直ぐで、冷静にその言葉を受け取ったルーネは、小さく首を振った。
「……みんな、大変なの。私一人が、じっとしているわけにはいかないわ」
確たる信念を優しい笑顔に表すルーネの姿には、何を言っても立ち止まる人ではないと、誰でもわかってしまう。激務で仕事中に意識を失い、声をかけても揺さぶっても起きないほど深い眠りについてしまうルーネを案じるシアにとって、本当にこの師匠は心配ばかりさせる人だと思う。
「シア、ありがとう。私なら大丈夫だから」
「……わかりました」
引き止める手を離したシアに背を向け、ルーネはラエルカンの城に向けて駆けていく。彼女にとって、為すべきことだらけだったこの30年前の日々は、多忙で体を軋ませながらも、生き甲斐のある毎日だった。
ラエルカン城の戦闘訓練場に集った戦士達は、魔王マーディス存命のこの時代、人里を攻め入る魔物達を撃退する尖兵となる、優秀な戦士達ばかりだ。ルーネが来ると予定されていた時刻から15分経っても、彼女が訪れないことを見受け、彼らもウォームアップを兼ねて同士で武器を打ち鳴らしていた。誰に命じられたわけでもなく全員が自ずとそうした行動に出るほど、この国の戦士達の向上心はすべからく強かった。
「はぁ……はぁ……! 遅れてすみません……!」
開くだけでもそれなりの力を要するはずの、ラエルカン訓練場の重い扉。それが勢いよく開いた先から姿を現したのは、水の入った桶を両手に持つことも苦労しそうに見える、小さな少女。"信愛の戦乙女"の名をすでに馳せさせた彼女だからこそ、そんな光景も異質には見えない。
「おお、ルーネ様。お待ちしておりま……」
「すみません、すみません……! いつも、こんな……ご迷惑ばかりかけて……!」
挨拶されるより早く、訓練場の指導者たる士官の前に駆け寄り、手をついて床に額をこすりつけ、謝罪の言葉を何度も重ねる。戦闘訓練指導者としてこの場に招かれることは毎日のことであり、前に定時に遅刻したのが3日前。その時も寝過ごしだ。時間を守れないことを何度繰り返すのだと自責するルーネは、待たせた相手に言葉がない想い。すみませんもこの一週間で何度目だろう。
「いいえ、そんな。ルーネ様には無理を言っているのです。こうして来て頂けるだけでも、我々にとってはこの上なく有難いことなのですから」
指導者たる士官が、小さくなって地に伏せたルーネの前にひざまずき、三つ指をついてこちらも額を床に擦り付ける。気配を察したルーネはがばりと顔をあげ、やめて下さいと半泣きのような顔で仕官の手を握り、顔を上げさせようとする。
三つ指ついて床に額をつける挨拶の仕方は、旧ラエルカンにおいては単に土下座の意味を持つものではなく、目上の者に対して目下の者が取る普通の挨拶なのだ。日々ラエルカンの人々を守るために戦う戦士達を敬ってやまないルーネは、彼らに対して額をすりつけた挨拶をした。戦闘訓練指導者にルーネを招いた士官は、この場目上のルーネに対して床に額をすりつけた。ただそれだけの話だ。旧ラエルカンの階級制度は徹底されており、こと軍部においては特にこんな風景が当たり前のもので、この日から30年後にもルーネの体には、その習慣が染み付いているだろう。魔法都市ダニームの賢者という地位に上り詰めてもなお、ルオスの皇帝を相手にする時にはそういう形を取るだろう、と。
「さあ、ルーネ様、始めて下さいますか? 我々一同、既に鋭気は養われておりますぞ」
「……はい!」
失態の後であり、気合を入れて自分の両の頬をぱちんと叩くルーネ。自らの力を頼ってくれた人達に、遅れ参じた申し訳なさを払拭するかのごとく、魂を震わせて魔力を引き出すのだ。数年後に比べれば粗い魔力使いだが、それだけにその強力な魔力の余波が体から溢れ出て、待っていた戦士達を離れていても身震いさせるほどの気迫を放つ。
「5人同時に相手をします。いつでも、かかってきて下さい……!」
遅刻で欠かした時間を取り戻すための、ルーネの強行軍的提案。当時すでに若くして、ラエルカンに欠かせぬ一兵となった彼女が奮い立った姿は、向上心を胸にした戦士達を燃え上がらせた。
ルーネ=ファクトリアは、幼少の頃から病弱だった。同じ年頃の子供たちが外で遊んでいる時、ベッドで起き上がれずに窓からそれを眺めていることしか出来ないことも多かった。晴れた日は外を見るだけで、自分もあんなふうに遊べたら、と寂しくなることが多く、そんな光景を見ることのない雨の日が好きだったぐらいである。
ベッドでお勉強ばかりしていたルーネは、肉体と精神、霊魂の関係性が魔法を実現するという魔法学の理論から、魔法に夢を抱いた。すなわち、心が願うならばその夢を叶える力こそが魔法だという真実。外で友達を作り、遊びたいと願うルーネの心は、外を自由に走り回れる体を欲し、それを実現させるための魔法を編み出すことを夢見るようになる。僅か、5歳の頃の話である。
幼い体、精神、霊魂に、魔法の発現を望むことは過酷なものだ。疲弊した霊魂は肉体に著しい負担を形に現し、ただでさえ病弱で弱い体は霊魂の疲弊と共に、さらなる苦しみを訴えかける。10歳にも満たない小さな女の子にとって、肉体と精神を正しく安定させる霊魂のはたらきが潰れ、目まい、吐き気、心臓が止まりそうな痛みと苦しみとは、どれほどむごく襲い掛かっただろう。それでも諦めず、時にはいつの間にか昏睡状態にまで陥り、両親にとんでもない心配をかけながらも、幼きルーネは目指す体を手に入れるための魔法を諦めなかった。ただ、外で誰かと元気に遊びたかった。
9歳になる頃には、当たり前のように本来の体の在り様を変え、元気な体をこの世に現すことが出来る、身体能力向上の魔法が完成していた。それでも時々上手くいかない日もあって、その日は病弱な幼い頃のように、ベッドで魔法学の本を読むばかりの一日だ。それでも、上手くいく日の喜びは何にも代えがたいほど幸せだった。男友達と鬼ごっこでいい勝負が出来る日は、息が切れることさえもが遊べる実感として嬉しかったし、初めて木登りなんて出来た日の感動は、幼い言葉では表すことが出来なかった。
ファクトリア家は魔法使いの一家でありながら、元来大きな力を持つ血筋ではなかった。ラエルカンの魔導研究所は、当時この国においては魔法学の権威とも呼べるものであり、並の魔法学者では門を叩くことさえ出来なかったものだ。15歳のルーネが、幼少の頃から頭に詰め込んできた魔法学に対する知識、それを実践した身体能力向上の"魔法"を実践している事実は、旧ラエルカンも捨て置かず、彼女をついに魔導研究所に迎え入れる書状をファクトリア家に送りつけた。弱小魔法使い一家のファクトリア家に、そんな誉れ高い通達が届いたことなど、長い歴史の中でも例を見なかったことだ。
病弱な我が子が出世街道に踏み出したことに戸惑いはあったものの、両親はルーネを魔導研究所に快く送り出してくれた。魔導研究所で行われている魔法研究は、渦巻く血潮も含め、心優しい我が子には正視に耐えないかもしれないものだって、数多くあるだろう。心配ではあった。支援するならお金もかかる。家業を増やし、ルーネを魔導研究所に赴くためのお金を一心不乱に稼ぎ、その背中を押してくれた両親に対するルーネの感謝は、彼女が100歳まで生きても忘れ得ぬ想いだ。
魔導研究所で良き先輩にも恵まれ、独学であった頃よりもさらなる知識を身につけたルーネは、次々にとはいかぬまでも、若さには釣り合わぬほどの成果を魔法学に貢献していった。ルーネが開発した礫石渦陣の魔法は、攻防一体の風と岩石を発現させる魔法であり、彼女が構成した術式は若い魔導士にも容易に模倣がしやすかった。この魔法は現代でも使い手が多く、親しみやすい便利な魔法として残っている。百獣皇アーヴェルが好んで行使する環状岩の魔法は、魔物に使われ人類が苦を見てきた魔法であり、それによく似た魔法が普及したことは、人類の魔法使い達にとって大きな前進と言えただろう。
ルーネがラエルカンの魔導研究所の見習いから、一人前の学者と呼ばれ敬われるまで、3年もかからなかった。そうして名を馳せてきたルーネに目をつけたラエルカンの皇族は、やがてルーネを戦場に赴かせることを視野に入れた。身体能力向上の魔法を行使する彼女は、もしかしたら学者のみならず戦人としても充分なはたらきが出来るのではないか、という推察だ。
当時のラエルカンにおいて、国家組織内における皇族の命令は絶対だ。魔導研究所は国営であり、そこに働くルーネはいわば国直属の部下である。魔導研究所に勧誘を受けた時は拒否権もあったが、戦場にルーネを狩り出すという上層部の結論は、何者にも覆すことが出来ない命令だ。ルーネの両親も、幼い頃の彼女を思い返せば思い返すほど、気が気でなかったことである。
戦いに身を参じる想定など18年間の生涯で一度も考えたことのなかったルーネ。それでも、己の力が国を支えられるものになるならと、その日から戦いの心得を学ぶことに踏み出した。鉄にも勝る強固な肉体を作ることは出来るか。獣より疾く駆ける足を作ることは出来るか。頑強な魔物達の肉体を貫く拳を実現させることが出来るか。漠然と自信はあった。魔法とは、望む自分を作り上げるための力であると、ルーネは幼少の頃から信じ、叶えてきたからだ。
数百の昏倒と嘔吐を繰り返し、その肉体だけで戦える魔法を培い、ラエルカンの戦闘訓練場で木剣に打ちのめされながら戦場での動きを学んで。二十歳のルーネがいよいよ初陣を駆け抜けた末、ミノタウロスとガーゴイルを2匹ずつ討伐し、ラエルカンの勇士達も敵わなかったヒルギガースを、たった一人で討ち果たした功績には、皇族も軍部も、両親さえもが驚嘆したものだ。魔力を使い果たし、戦場における先輩に意識を失ったまま背負われての帰還だったが、その日から既に、やがて信愛の戦乙女と呼ばれる彼女の片鱗は、形になっていた。
戦人としても、学者としても、ラエルカンにとって欠かせぬ存在となるであろう彼女に、ラエルカンより賞賛の意を意味する、フォウの冠名がルーネに与えられたのもその頃だ。病弱で外を駆け回ることさえも難儀していた幼き少女が、まさに文武両道の魔法学者、ルーネ=フォウ=ファクトリアと名乗ることを許されたことを、今でもルーネは畏れ多くも光栄である想いを抱いている。
歳月は彼女の肉体を、精神を、頭脳を育て上げ、戦乙女の名に恥じぬ戦闘員であり、同時に魔導研究所の責任者の一人にその名を連ねる地位まで上り詰めた学者に、彼女を押し上げる。毎日を魔法の研究と、戦士としての未来を担う若者の育成、時には戦役にて最前線を張るというのは大変だ。三十路前になる頃にはそんな毎日が当たり前で、休みもない日々。ちょっとぐらいの遅刻で誰も彼女を咎める気にもならないのは、そうした激務を彼女が背負い、眠る暇もない毎日をルーネが送っていることを知っていたからだ。
それでもルーネは幸せだった。誰かに力を必要とされる喜びを、学者達が、戦人がもたらしてくれる。応えるために、睡眠を少しでも必要としない体を作ることにも苦はなかった。身体能力向上の魔法は、行使の反動で非常に多くの休息を必要とするものだが、それを乗り越えて働き続けるモチベーションは、どれだけ肩がこっても途絶えることはなかった。
「っ、はあっ……はあっ……こ、ここまでですか……?」
汗だくで構え、訓練場の戦士達を見据えるルーネの目の前にあるのは、まさに死屍累々。100にも勝る若き戦士達を、5人同時に相手取ることを繰り返し、一人残らずぶちのめしてきたからだ。それでもまだまだ、と何度も立ち上がる血気盛んな戦士も多く、交戦回数は100割る5よりも遥かに大きな数。それでも数多の戦士達が立ち上がれなくなるまで、一度として床に膝より上をつけることもなく、最後には訓練場の指導者である士官さえもを打ち倒し、ルーネは今も立っている。
「……完敗です。流石はルーネ様ですな……」
みぞおちを鎧越しに殴られた衝撃に意識朦朧ながら、なんとか膝立ちでルーネに賞賛の意を伝える士官。これがすなわち、戦闘訓練の終了の印。聞き受けた瞬間、ルーネの小さな体がぐらりと傾き、受身も取れたのかわからぬほど、半身で地面に倒れてしまう。
「ルーネ様……!」
「だ……大丈夫、です……少し、休めば……すぐ……」
這い寄るようにしてでも案じる士官に、虚ろな瞳とかすれた声で応じるルーネ。まるで1時間後には命日を迎える、薄命の少女さえ思わせるようなルーネの姿を、士官ならびに戦士達はこの訓練場で何度も見てきた。毎日ぶっ倒れるまで、戦士達の力を育むために身を投じ、最後には少し休んで水を飲んだ後、優しい笑顔と共に去っていくのだ。これが、戦役のない日におけるルーネの日課だった。しかもこの後その足で、魔導研究所に帰って、午前中に進めていた魔法学の研究を夕暮れ前に纏めるのだ。
誰もが敬いながらも、その地位を妬まなかったのにはそれだけの理由がある。魔導研究所という国家の権威の中心軸に立ち、戦人としても賞賛の意を掲げられていたルーネに、気安く羨望の眼差しを向ける者も表れなかったのは、彼女の生き様とそれに伴う苦を、模倣できる者さえもいなかったからだ。
「……ただい、ま?」
朝の魔導研究所における魔法学解析、昼の戦闘訓練指導、夕暮れ前の研究仕上げ。今日のおつとめを終えたルーネが自宅に帰っても、応えてくれる者はいなかった。いつものことだ。一人で風呂を沸かし、身を清めた後、替えの法衣に袖を通、鏡の前でツインテールを乾かして形を整えるルーネ。寝癖も整えず戦闘訓練場に顔を出したことを思い出し、つくづく私は、と自己嫌悪しながらだ。
今日もよく魔法を使った。家に帰ってからの日課である、30分間の瞑想を挟み、精神を整える。霊魂の疲弊までは、眠って休むまではどうにもならないだろうが、精神の安定は身体能力向上の魔法を促進させ、今日まだ動ける体をスムーズに実現させようとしてくれる。瞑想を終えたルーネは、玄関をくぐった時より少し軽くなった体で立ち上がり、台所で夕食を作り始める。
出来上がった料理を皿に盛り付け、一人でいただきますを口にして夕食を済ませる。机の向かい席にあたる場所に、同じ料理を置いてあるけれど、今日もやっぱりあの人は帰ってこなさそうだ。寂しいけれど仕方がないこと。ルーネは自分のご飯を食べ終え、ごちそうさまと小声でつぶやいたあと、そばにあった魔法学書を読んで時間を潰すが、やっぱり今日もあの人が帰ってくる気配はない。
やっぱり諦めよう。明かりを消したルーネは寝室へと歩いていき、二人は眠れるであろう大きなベッドに潜り込んで、明かりを消して目を閉じる。夕食の買い物をした時の、活気に満ちた市場の様子が脳裏に浮かぶ。魔導研究所の後輩のシアが息抜きにお茶を入れてくれて、他の後輩達も一緒になって何気ないお話をしたりもした。戦闘訓練所を去る自分の後ろから、まだまだやるぞと意気込んでいた戦士達の声も、よく耳に残っている。
今日も皇国は平和だった。こんな日がずっと続くなら、それだけでいい。疲れた体をまどろみに預け、ルーネの意識は夜のラエルカンにゆっくりと沈んでいった。
「――ただいま」
そんなルーネの意識を、一瞬で現世に立ち返らせる声。もしかして。
ベッドから立ち上がったルーネがぱたぱたと駆けて行った先では、愛するあの人が玄関で靴を脱いでいた。二十代後半、ルーネよりもひとつ年下の彼は、砂まみれになった軽鎧を玄関ではずして、ようやく家の床を踏みしめようとしていたところだ。
お風呂上がりで綺麗になった体、たんすから引き出したばかりの法衣。遠征帰りで汗臭い彼の胴元に、我慢できないというふうに飛びついて抱きつくルーネは、寝る前の綺麗な肌が砂や土で汚れることなんかまったく気にしていない。身体能力向上の魔法を使わぬ、見た目どおりの少女のような体重と力で抱きつかれた彼は、おっととばかりに後ろに傾きかける。それでもほぼ体当たりのような勢いで抱きついた彼女を受け止めたのは、流石鍛え上げてきた戦人だ。
「おかえり、あなた……! 今日はもう、帰ってこないかと……」
「先輩が気を回してくれたんだ。嫁さんを心配させるな、今日は早めに帰れよ、って……」
ラエルカン南のラムル砂漠、その西に駐在していた魔物達の討伐に赴いていたラエルカン遠征軍。今やその隊において、2,3の地位に就く勇士となったラエルカンの戦士、ニコラ=ファクトリアは、今日は砂漠の宿で一晩過ごし、明日の昼頃帰ってくる予定だったらしい。だが、先輩でもある隊長が気を使い、帰郷の早馬を手配してくれたのだ。砂漠という都合で厳密には馬ではないが、疲れた体で砂地を歩くより、元気なラクダの背に乗れば速く帰ることが出来る。
3日前から遠征に赴いていた夫の帰還は、信じていたって万が一を考えてしまうこともある。こうして帰ってきてくれただけでも嬉しいのに、予想していたよりもずっと早く再会できたことには、彼の胴元からその顔を見上げるルーネも、今日の疲れも忘れて輝く瞳だ。愛しい妻がこんなに幸せそうに自分を迎えてくれることには、ニコラも彼女の体を抱き上げて応えずにはいられない。身長差の大きな二人が、ルーネが持ち上げられたことによって目線の高さが一緒になると、ルーネはニコラの首に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。頬と頬が触れ合うぬくもりは、ルーネの表情をふにゃふにゃに崩した。
「ご飯にする? お風呂にする?」
「先にお風呂かな、やっぱり汗かいたし……ほら、離れて。せっかく綺麗な髪が、汚れてしまう」
「もう一回お風呂に入れば一緒よ。私も一緒に入るっ」
「やめろよ、恥ずかしいだろ」
冗談めいた会話の後、主人を風呂場に見送って、彼が体を洗っている間に作り置きの夕食を温め直すルーネ。皿の上に持った料理をその手で包み込むようにし、渇いた高温をじんわりとお料理にもたらす魔法だ。一度火を通した料理が焼けすぎないよう、丁寧に、慎重に、魔力を操作する手間さえ、美味しい料理をあの人にあげるんだという想いの前では、苦でも何でもない。
鍋に残してあったスープに火をかけ、じっくり温め直したものを器に注いだ頃、あの人が風呂場から上がる音がした。自分が使ったタオルは洗濯物の中に放り込んでしまったし、新しい大きなタオルを両手に携え、裸の夫にそれを差し出しに行く。
下着とタンクトップ一枚で風呂場を上がってきた彼の体は、男たちの中においては大柄ではないが、魔物達を退けるための力を培うために鍛えてきただけあって、よく引き締まっている。二の腕に残る、彼が若い頃に負った小さな古傷も、戦士としての勲章の一つだろう。戦場を駆け抜ける大変さはルーネもよく知っているし、自分よりも高い頻度で戦場に立つ戦士のことは尊敬してやまないルーネだから、こんな人のそばに立つことを許された自分は、本当に幸せ者だといつも感じてしまう。
自分は先に食べてしまったから、夫と同じ食卓に座っても手持ち無沙汰なルーネだったが、疲れた胃に自分の作ったご飯を入れてくれる夫の姿は、見ているだけで心が満たされる。どうかな、と恐る恐る尋ねたルーネに、美味しいよと返してくれるニコラの笑顔は、この一日の疲れも明日に残さないんじゃないかというぐらい、胸をいっぱいにさせてくれる特効薬だ。
今日はこんなことがあったよ、砂漠ではどうだった、研究所のみんなもニコラのこと心配していたよ。話したいこと、聞きたいことがいっぱいあって、脈絡も怪しく色んな話をしたものだ。退屈なんて、するわけがない。戦人と学者、違う所で己の戦いに明け暮れる夫婦は、こうして顔を合わせる時間だって限られている。その少ない再会を思い浮かべるだけで、苦しい時も力が沸いてくるこの間柄とは、今までどれほど自分を支えてきてくれただろう。それが今、形になって実現しているのだから。
「ごちそうさま」
「うん」
夫の言葉を受け取って、一人先に寝室へ行き、ベッドを整えるルーネ。彼もさぞかしお疲れだろう。最善の形の寝床を作ったルーネの元へニコラが表れ、ルーネは一足先にベッドに潜り込む。
部屋の明かりを消し、一枚の布団で二人の体を一緒に温めるぬくもりは、お風呂上りできれいな体の主人の香りも手伝って、ルーネの心もとろけそう。おやすみの一言を言う前に、正面から彼の胸元に顔をうずめ、大好きな彼をお腹いっぱい味わってルーネは目を閉じた。
おやすみを言う直前、言葉が詰まった。もぞっと。
「……えっ? あ、あなた……?」
無言でルーネの体を撫ぜるニコラの手が、布団の中でルーネの法衣をはだけさせる。久しぶりの出来事にもそもそと抵抗するように戸惑うルーネだが、別に嫌だというわけでもない。ニコラもそれをわかってくれているのか、抗うような動きのルーネの手首を優しく掴んだ。
「っ……い、一緒にお風呂に入るのは恥ずかしいって言ったくせに……」
「……別に、ここならいいだろ」
耳元で囁く彼の吐息で、顔が熱くなって紅潮するのをルーネは我慢できない。どうしよう、自分で法衣を操った方が彼も楽を出来るだろうか。でも、首元から離れた法衣の襟が、肩を撫ぜた末に肌を離れる感触は、自分の手ではなくやってもらった方がどきどきする。
ルーネの期待に応えるかのように、ゆっくり、優しく、法衣をその身からほどいてくれるニコラ。布団の下で恥ずかしい姿になったルーネは、胸の高鳴りを抑えられず小さくなる。やがて法衣を結ぶ帯がベッドの下へはらりと落ちて、開いた軽いルーネの体の下敷きになっていた法衣も、ベッドの外へと旅立っていく。
むくりと起き上がったニコラが布団を背中に持ち上げてしまったから、体を隠す最後の一枚を取られたルーネは、思わず胸元を隠してしまう。幼い体のまま育ってしまった自分だから、自信はないのだ。抱きしめられることよりも、抱きしめることにしか慣れていないから、両手で胸を隠したまま、ふるふる震えた瞳をニコラから逸らしてしまう。
「綺麗だよ」
「……ばか」
心まで奪われたルーネが非力な反撃を口にしたが最後、ニコラの大きな体が上からルーネに覆いかぶさってきた。吐息に、唇に、指先に全身を溶かされるようにして、誰に聞かれても恥ずかしいような声が、喉の奥からせり上がってくる。愛する人と肌と肌を合わせる幸せに魂まで骨抜きにされ、ルーネの心は蒼い夜へと溶けていった。
何もかもが満たされていた日々。忘れろと言われても決して捨てられない、掛け替えのなき思い出だ。




