第165話 ~ちなみに何も終わってない~
聖樹ユグドラシルの朝露を詰めた天然のボトル、要するに瓢箪を受け取ったシリカ達は、早朝に魔界アルボル中心地、聖樹を出発した。人類との約束破りも含め、多大なる迷惑をおかけしたと猛省するバーダントが、帰り道も案内してくれたおかげで、帰路は安全なものだった。基本的に魔物側が何を狩っても自由なアルボルだが、今回は事情が事情だけに、帰り道のシリカ達に魔物が襲い掛からないよう、大精霊がそばについてくれた形である。
野生のグレイマーダーが2匹ほど闊歩していたり、木々の隙間から見える上空に、建物でも背中に乗せられそうな巨大な蝶が飛んでいたり、帰り道で周囲に目を配れば、アルボルがいかに危険な"魔界"であるかは、明るい朝方かえってよくわかった。二階建ての建物よりも高い背丈を持つ、巨大なカマキリのような魔物を見た瞬間には、もはやあれ怪獣だろとクロムが笑っていたものである。バーダントがそばにいて交戦にならないから、そうした気楽で笑っていられるのだが、安全を確保されていても、そんな魔物をそばに見れば誰もが緊張せずにいられない。動物園気分で楽しげに歩いていたのは、肝の太いクロムとマグニスぐらいのものだ。
昨日の昼前から半日近い時間をかけて辿り着いた聖樹ユグドラシルであったが、帰り道は不思議と短いもので、昼前には大森林アルボルから抜けることが出来た。魔界たるアルボルはこの世界とは隔絶した場所にあり、辿り着くには時間はかかっても出る時は早い、と、バーダントは説明してくれたが、魔界のあり方についての基礎知識がないとその理解には時間がかかる。細かく聞いても仕方ないので、ひとまず早く帰れた結果をシリカ達はよしとした。
今後のことをどうするかは昨夜決めたとおりとし、森を離れて大森林アルボルの西、ゼリオーニの町へ向かった第14小隊。行きは馬車を借りたが、帰りは徒歩しかない。そこそこの獣道かつ距離もあるが、たとえ魔物や野盗に遭遇しても、別にたいしたことはない。魔界アルボルで遭遇したような怪物よりも厄介な存在など、こんな辺境の獣道に闊歩していない。安全と言えば言葉は違うが、特筆するような危険の伴う帰り道ではなかった。
上着を失ったユースを町の離れで待たせ、服を買ってきて渡すぐらいの手間がかかったぐらいだ。バーダントに貰った大きな葉は確かに魔力が込められていて温かいが、それを半裸に羽織って人里に入るなど、ひどい辱めである。幸いユースが普段着ているような、黒の袖のない一枚着はどの町でも普通に取り扱っているので、普段どおりの格好に戻るまでさして時間はかからなかった。町のはずれで、新品の服に袖を通した時は、ユースも普段どおりの姿に戻れたことにほっとしたが、同時に首もかしげたくなった。こんな場所で半裸から服を貰って着るとか、自分は何をやってんだか、と。まあ破いた自分が悪いんだけど。
あとはだらだら帰っても仕方ないし、馬4頭を惜しみなく借りて、魔法都市ダニームまで最速の足での凱旋である。昼過ぎにゼリオーニの町を出発し、魔法都市ダニームに着いたのは、夕食時も過ぎて月が高く上った頃。遠い旅路だったと、見知ったダニームに辿り着いた瞬間には、ユースもそう感じた。
後はアルボルから持ち帰った朝露を、エルアーティに渡すだけだ。最終的にはルーネの手に渡されるものであるが、知恵を授けてくれたのはエルアーティだし、まずはそこにご挨拶に向かうのが良いだろう。代表としてシリカがその役を担い、長旅疲れの他は全員、ダニームの宿で待機する形を取ることにした。シリカもお疲れの立場であるのに、彼女一人にその役目を背負わせるのが嫌だという主張から同行を表明したユースの生真面目さも目立ったが、シリカもそれはよしとした。結果としてシリカとユースが、アカデミーの大図書館に引きこもっているエルアーティに会いに、他の5人は先駆けて宿を取る形で、別行動となったのだった。
「つーかキャルもだな、ガンマを助けるための旅の中で、いきなり飛ぼうとすんなよ」
「……ごめんなさい」
宿の一室、マグニスが椅子に腰掛け、背もたれに顎を乗せて目の前のキャルにお叱りである。マグニスが大暴れしていたのが記憶に新しい昨日だが、その脇で目立たない活躍に魔力を注いでいたチータは正直お疲れのようで、すでに男組の寝室で就寝中である。同様に、身体能力強化を行使するほどの激闘を経てきたクロムも、早いうちから眠りについてしまった。マグニスも、本音を言えばさっさと寝たいが、熱が冷めないうちに言うべきことは片付けておきたい。
「ベラドンナの口付けで、日頃から抱えていた迷いの背を押された部分も、まあ加味するさ。だが、そもそもお前がそういう想いを抱いていて、与えられた魔力に殉じて我が身を捨てたのも事実だよな」
厳しい口調で論を詰めるマグニスに、正座して縮こまったキャルは針のむしろのような表情だ。唇を震えさせ、この部屋にいるもう一人、ベッドに腰掛けてキャルを眺めるもう一人に、恐る恐るながら目線を送るキャル。だが、こちらも決して優しい目はしていない。
「悪いけどキャル、マグニスさんの言うこと、合ってるからね。私も正直、フォローしきれないよ」
いつでもどこでも妹愛炸裂であったアルミナも、今回ばかりは無言でこの件を片付けられない。キャルも助け舟を求めてアルミナを見たわけではないが、手を振り払うようなアルミナの静かな一喝に、キャルは逃げ場なく目線を急転直下させる。
そりゃあ帰ってきてくれたんだから、それでめでたしでもいいかもしれない。だが、状況の流れをきっちり整理すればするほど、キャルがやったことというのはお叱りを受けるに値するものだ。第14小隊、欠けたガンマを救うため、シリカが騎士としての責務を放棄してまで、もっと言えば騎士人生を懸けてまで赴いたアルボルへの旅路だというのに、そんな中で命を捨てるとはどういう了見だと。
キャルは考え至っていなかったかもしれないが、残された者の意志をひどく無視した行動である。マグニスに言わせれば、想像できませんでしたとは言わせない。アルボルに向かう前の出発地点では、キャルだってガンマを助けるために頑張りたいという意志を表明していたではないか。危険を伴う可能性もある森への旅に、それでも行こうと自分で決めたぐらいには、キャルも仲間を案じる心を持っているくせに。
「ガンマを助けるためにアルボルに行って、その末にお前までいなくなっちまう。シリカどーすんだよ。お前それ、あいつをどれだけ後悔させて苦しめることになるか想像できねえか?」
ベラドンナの口付けで、迷いを後押しされたこともわからなくはない。だが、それによって自分自身で世を去ると決めたのも、キャルの意志なのだ。昨夜、バーダントに接待される中での談話の中で、その辺りも目ざとく確かめていたマグニスだから、その一点も決して見過ごさない。
たとえベラドンナの介入ありの出来事だったことを前提に置いたとしても、仲間が自分を想う気持ちを無下にしてキャルが我が身を捨てたことは、マグニスにとって許しがたい過ちだ。キャルにばっかり、優しくしてなどやれるはずがない。キャルがそんな勝手な自尽をすることで、何人が心に傷を負うと思っているのだと。
反論の余地なく、膝の上で拳をぎゅっと握り締めるキャルが、相当に悔いているのも見ればわかる。だが、済んだことだしもういいよ、で済ませるのは違う。だからキャルをよく可愛がるアルミナでさえも、この場ではマグニスの言葉を遮らず、彼の言いたい事を一切止めようとしない。と言うか、アルミナだって言いたいことは山ほどあるぐらいだ。
「自責すんのは勝手だが、取り返しのつかねえような失敗だけはしねえように最後の一線ぐらい守れよ。ちっと視野広げれば、気付けたはずの問題だったんだからよ」
無知が短慮に失敗したなら、マグニスはそっちの方が寛容に済ませられるタイプだ。キャルは仲間のことが大好きで、誰かがある日いなくなったら涙を流せる人間のはず。それで自分がいなくなった時、周りがどんなするか顔を想像できなかったのだとしたら、本来あるはずの想像力がかえって欠けている。今言われればわかるだろ、とマグニスが強く念押しするとおり、キャルこそ突き詰められればられるほど、返す言葉もない。
まあ、追い詰められた精神状態の時ほど、日頃わかるようなことも見落としてしまうというのは往々にしてよくあることで、マグニスもあの時のキャルはそうだったんだろうな、とは思っている。その上でなお、きつく釘を刺して反省を促すのも重要なこと。言わなくてもわかってはいるだろうな、と無言で捨て置けないほどは、今回のようなことは、二度と起こってはいけないことである。
「マグニスさん、終わりました?」
「おう、言いたいことは言った。あとは好きにしろ」
マグニスは立ち上がり、部屋を出て行った。気を晴らすために煙草の一箱でも買いにはいくだろうが、あってせいぜいその程度で、すぐに男部屋に帰って寝るだろう。今のマグニスのテンションは、間違いなく夜遊びに行こうという態度ではない。彼もなんだかんだでいい年、今の気分で外を歩き、妙な奴に出くわそうものなら、感情爆裂させて喧嘩すら起こしかねないと、自分でよくわかっているのだ。人にものを言うだけあって、マグニスも最低限のところで、己を抑える線は未然から引いている。
「キャル、おいで」
日頃、軽率な発言をするマグニスに白い目で放つような声で、アルミナがキャルを呼び寄せる。こんな声を自分に向けたことのないアルミナには、キャルもぞっとして彼女の方を向けなくなる。
「来なさい。ほら、こっちに」
恐ろしいほど優しさを匂わせない声だ。びくびくしつつ立ち上がり、アルミナの方へと歩いていくキャル。ベッドに座ったアルミナと正面向き合って、真下に目線を落としてアルミナの顔を直視しない。顔を合わせるのも怖いのだ。
「座りなさいよ。ねえ、ここ」
向き合ったキャルの手首をつかみ、自分の隣へとゆっくり引くアルミナ。キャルもされるがままにアルミナの隣に座らされた形だが、うつむいたままアルミナから逃げた視線は起き上がらない。太ももに置いた手は、これから言われるであろうきつい言葉を覚悟するかのようにぐっと握られ、幼く柔らかい素脚に指跡がつくのではないかというほどだ。
アルミナは、自分の太ももを握ったキャルの両手を、掌で一つずつ叩きのける。掴みどころのなくなった手を、キャルがどうしようとふらつかせる間に、アルミナがキャルの両肩を握り、強引に自分の方へ向かせた。キャルの目の前にあったのは、己の過ちを糾弾するかのような、優しかったはずの姉の鋭い目。
もう、逃げ場がない。視線に殴られたキャルは、伏せることも逸らすことも出来ない目を、自ずと力なくアルミナに返すことしか出来なかった。
「あなた、何したかわかってる? 私があなたのこと大好きだっていうのは、ずっと言ってきたよね? そんなキャルがいなくなったら、私が喜ぶとでも思った?」
マグニスが叱っている間は彼にすべてを委ねたが、一対一になれば今度は自分の番だ。同じことの言い繰り返しになっても、自分の口で直接言わなきゃ気が済まない想いが、押えきれないほど胸に溢れている。
「答えなさい、キャル。黙ってるのは無しだよ。あなたがいなくなったら、私がどんな顔をすると思う?」
口にさせる。答えを覚えさせる。忘れて今後、同じようなことをさせないために。知って再び同じ道に踏み出すなら、もう止めようがないかもしれないけど、その認識薄くして今回のようなことが起こったのであれば、わかっていなかった過去を絶対に一新させる。
魂だけで触れ合って、さんざんキャルには言いたい放題されたのだ。自分がそばにいると、みんなに迷惑がかかる、だから消える? いなくなられた方がずっとつらいことを、二度と忘れて欲しくない。
「あ、アルミナは……っ……」
「うん」
答えが頭に出ているはずなのだ。口にするまでこの手を離さない。目線を落とそうとするキャルを、視線で縛ってそうはさせない。自分と向き合って、ちゃんと言え。アルミナの前身が、そう訴える。
「か……っ、悲しんで……くれると、思う……」
「そう、わかってるじゃない。あの時はわからなかった? 私のこと、そういう人だと思えなかった?」
自分がいなくなったら相手が悲しんでくれる。なんて傲慢な文字列だろう。口にするのが憚られるのは自然なこと。そんな言葉が事実であるとすかさず肯定するアルミナは、それが間違っていないことを、強く、強く、キャルの心に刻み付けたいのだ。
「いつか本当に、第14小隊を、私のそばを離れたいと思う時だって、あるのかもしれない。私のことを嫌いになってしまうことも、もしかしたらあるかもしれない。私だってわかってる、お姉ちゃんぶってるばかりで頼りないこともあるし、キャルを困らせることも多いし、愛想尽かされてもおかしくないって時々不安になることはある」
「わ、私……」
「でも」
最後まで言い通したい。荒い声を放ち、キャルの言葉を遮るアルミナに、臆病なキャルも思わず肩を縮こまらせる。頭が小さく揺れたキャルの目線が、それで少しぶれそうになっても、ぐっと両肩を握ったアルミナがそれを許さない。
「でも、だから、私はキャルがどうしたいかをしっかり考えてやるんだったら、止めない。もしも本当に、私のことが嫌いになって、そばを離れたいと思ったとしても、それはきっとその時なんだよ。それは私のせいでもあると思うし、それでキャルがいなくなりたいって言うんだったら、私には止められない」
魂で語り合った時、キャルに大嫌いとまで言われたのだ。本当なら口が裂けても、こんなことを言ってキャルにそんな可能性を示唆することなんてしたくない。
でも、アルミナだって自分に自信があるわけじゃない。手を引くつもりで、キャルの足を引っ張ったこともあるし、教えたいことを上手く教えてこれなかった自覚だってある。だから、あんなことが起こってしまったとも思うのだ。今になって訴えているこの本音が、もっと早くにキャルの心に届いていれば、あんなことは起こらなかったはずだとアルミナは考える。
キャルの世界はキャルのもの。その中でキャル自身が考えて導き出した、アルボルでの暴挙だって、今までの日々が、キャルを取り巻く彼女の世界が定めた、彼女の決断に他ならない。人は独りでは生きていないからこそ、それまでにその人物を取り巻いていた世界が個の意志を形成するものであり、彼女があの想いに辿り着いた原因を、彼女の心にだけ求めるのは短慮である。
「でも、私達のことが嫌いでないのなら、そばにいて。近くにいてくれるだけで幸せだって私たちが思う気持ちを、疑わないで欲しい。あなたがそばにいてくれて、迷惑だなんて感じたことなんてないから。自分が消えればやがてみんなの重荷が降りるなんて、絶対に間違いだから」
何度も態度で表してきたはずの本音を、口にすべきなのはきっと今なのだ。アルミナだって言ったことだが、好きという言葉は、いつでも言える自分でない限り、大事な時に出てこない。時にはしっかり、自分の胸の内を、恐れず口にしてはっきり向き合うことがあってもいいはずだ。それを口にするためにあたっては嫌なきっかけだったけど、それを超えて望む未来を作るいくためには、過去を踏まえて今を築いていかなければならない。それが正しい意味での、前に進むということなのだから。
「……キャル、私のことを大嫌いだって言ったよね。今もそれは、変わらない?」
駆け引き抜きで、アルミナは真意を問いたかった。これで自分が望まない答えが返ってきたとしても、それを受け止める覚悟をしっかりと固めてだ。あなたのことが大好き、と公言している相手に、拒絶を言い渡されることとは、どれほど恐ろしく胸を締め付けるだろう。
「あなたの言葉で教えて。ちゃんと、本音で。私は、嫌いだって言われても受け止める。あなたが私のことをどんなふうに思っていたとしても、あなたのことを好きでいられる自信があるから」
キャルの肩から手を離し、厳しかった眼差しから力を抜き、刺のない目を天井に向けるアルミナ。自分からキャルに注ぐ視線を失わせたのは、忌憚なき言葉を心から望むからだ。引っ込み思案なキャルに本音を求めるならば、縛り付けてはいけないのを知っている。言葉で痛めつけたばかりのキャルが、今の自分にきつい感情を抱いていてもおかしくない、と恐れながらも、求めるものはあくまで本心。アルミナだって、今後自分がどうしていくべきなのか、手探りしてでも見つけたい。
何も言わず、キャルが逃げてしまうことも覚悟していたぐらいだった。そんなアルミナの胸元に、とす、と額を当てるキャルの行動は、やや予想外のもの。少なくとも、あって行動が先ではなく、言葉を向けられると思っていたから。
「な……何でも……何でも、するから……」
アルミナの太ももに、その手を置いてふるふると震えるキャルが、喉の奥から声を絞り出す。自分の胸に顔をうずめたキャルの表情はわからなかったが、こんな時は泣きだしそうな想いも堪えて、かえって涙を落とさないようにしているだろう。必死な時に限ってそうであるキャルのことを、アルミナが長い付き合いで知らないはずがない。
「き……っ、嫌いに、ならないで……お願い、だから……」
ちょっと溜め息が出そうになる。我慢するけど。そうじゃない自分をさんざん訴えてきたのに、理解してくれているのかわからなくなってしまうじゃないかと。キャルの想いが充分に伝わってくる応えではあったけど。
ぽんとキャルの頭に手を置いて、優しく撫でるアルミナ。幼く、未熟で、臆病な妹だとわかっていて、今までずっとやってきた。好きだから、彼女の意志を何よりも尊重したいし、それによって後悔しない道を彼女が歩んでくれることを願っている。こうしてここに帰ってきてくれて、一度踏んだ自分の決断を悔いてくれるなら、アルミナの望んだことは最も叶っているのだ。
わかってくれるならそれでいい。わかってくれたからこそ、後悔してくれているはずだから。
「嫌いになんて、なったりしないよ」
いざと言う時、不意に手のかかる妹だとは確かに思っている。自分だって、シリカにとっては手のかかる後輩だ。己の未熟を棚に上げ、他者の未熟を嫌う理由にするようなアルミナなら、彼女がこれほど慕われるはずがない。
そばにいてくれるだけで安心出来る人が、アルミナにもいる。彼女にとってのシリカもそうだし、孤児院で自分を養ってくれたリアラもそうだ。そんな人達を敬ってやまなかったアルミナが、いつの間にかキャルにとっての、そうした人物になっている。導かれていた者が、やがて手を引く人物に。それが、正しい意味での大人になるということだ。
「はい、ご苦労様。ユグドラシルの朝露、確かに受け取ったわ」
シリカ達を迎え入れたエルアーティは、無表情だが心なしか上機嫌に見えた。次いで、アルボルにて精霊バーダントと話したことも説明したところ、エルアーティは興味深げに聞いてくれたものである。人の話も向き合わず、本を読みながら聞くようなエルアーティだけに、読書中の本にしおりを挟んで、脇に置いて向き合ってくれるだけでも、シリカの話に興味を示したとわかる。
「大精霊に貸しを作るなんて、あなた達も隅におけないわね」
「いや、まあ……偶然の産物といいますか……」
「何はともあれ、バーダントはそういう意志表明をしてくれてるのね? なら、何かしら考えておくわ。精霊と人間の関係を壊さない上で、人類にとって最も有益になるような協力を仰げるようにね」
大精霊をも呼び捨てのお姿には色々さすがだと思わせられるが、ひとまずその件はエルアーティに任せておけばいいだろう。あと気がかりなのは、ガンマの件だが。
「他に必要なものはもう取り揃えてあるわ。ルーネにそれらを渡せば、あの子にも最善の結果が訪れるのは時間の問題でしょう。その辺りは私がやっておくから、もうほっといてくれて結構よ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
これにて一件落着である。渦巻く血潮という呪われた技術のもと生まれたガンマも、賢者の英知を支えに新たな人生を歩きだせるだろう。それに必要なものも犠牲なく手に入れられたし、その中で生じた精霊とのいざこざも、後日エルアーティが解決してくれる。当初抱えていた問題も、今後に対する後始末も、全てが丸く収まってくれるはずだ。
で、それはいいのだが、一つだけとんでもなく大きな問題が残っている。ここまで色々忙しく、シリカも今、問題が片付いたことにほっとした拍子に頭から落ちていたことだが。
「ところで法騎士シリカ。あなた今回、恐らく無断で遠出してるんでしょうけど、あなたの今の上司って誰にあたるの? 昔と同じでダイアン? それともナトーム?」
びきっ、とシリカが硬直した。そう、皇国ラエルカンが落とされ、そこを本拠地とした魔王軍残党達との東西戦争の真っ只中、法騎士シリカは職務を放棄して、まるまる2日か3日ほど本国を離れていた。これは正直、誰の口で以ってもフォローしきれない大違反である。どこの職場でも無断欠勤は言語道断だが、国を守る立場の騎士、それも法騎士という重要な立場にいる者が、それをしたとなると、もう。
「……せ、聖騎士ナトーム様です」
「ふーん。まあ、彼なら事情を話したところで遠出なんて許してくれるはずもないし、行くなら無断で行こうが別に変わらなかったと思うけど」
聖騎士ナトームについては、彼が若い頃からエルアーティも知っているのだが、まあ小隊の部下を助けるためにアルボルに数日かけて行きたいと言っていたとしても、許してはくれなかっただろう。勿論その心意気まで心根では否定してくることもなかろうが、別にガンマは命まで危ぶまれているわけではなく、まして今のご時勢では法騎士シリカの戦線離脱など、騎士団の参謀職が容認するわけにはいかない。職務の鬼とはいえ完全冷血漢ではないナトームだが、そこはやはり元戦人として冷静な判断をするはずだ。
なのでエルアーティの言うとおり、初めからナトームに許可を仰ぐのは無駄だったというのも、確かではある。ただ、だからって許されるわけでもない。残念ながら。
「あ、あの……私やっぱり、お払い箱でしょうかね……」
「私に聞いてどうするのよ。ナトームに聞きなさいよ」
ユースという後輩が隣で見ているというのに、かつてないほど弱気な声で、話しても仕方がない相手に不安を漏らすシリカ。それを見て、さも面白そうにくすくす笑うんだから、やっぱりエルアーティも人が悪い。魔女のこの態度には、ユースもうわぁである。
「まあ、どんな結果になるかは知らないけど、ひとまず顔は出すことね。四つ葉のクローバーを見つける人も世の中にはいるんだし、それぐらい運が良ければ、首の皮一枚繋がるかもしれないわよ」
俗説で言うところ、四つ葉のクローバーを見かける確率たるや、1万分の1である。それって要するに、それぐらいの確率で助かるんじゃないかな、という絶望的な比喩。表向きは元気づける口様で、逆に叩き落しているのが明らかである。
「あと、聖騎士ナトームに会いに行くんだったら、これ渡しておいて。もしかしたらそれが、騎士としてのあなたの最後の仕事になっちゃうかもしれないけど」
ほらやっぱり。どこまでネガティブな言葉で人をいじめるのが好きなんだと、ユースもドン引きである。すっかり意気消沈のシリカに、書類の詰まっていそうな大きな封筒を押し付けるエルアーティの顔が、ここまで悪魔じみて見えたのは初めてだ。
「念のため言っておくけど、封を途中で切らないでね。密書だから」
「ええ、それは勿論ですが……」
「あなたへの"処分"が、ナトームに下された後に渡して貰えたら一番ね」
いちいち嫌な未来を想像させるような単語を盛り込んで、人の心をえぐってくるお方である。頭の回転が早い人物ではあるはずなので、間違いなく意図的にやっているのだ。もう、シリカのメンタルはひび割れてぶっ壊れそうだ。
「また"騎士として"会いに来て頂戴ね? あなたに目をかけてくれていたルーネも、その方が嬉しいだろうし……」
「も、もうやめて下さい……お願いですから……」
目上の人の言葉を遮るなんて、シリカのような縦社会育ちの戦人が普通やるようなことではない。それぐらいには折れた。隣で見届けるユースも、ここまで来ると気の毒にさえ思えてくる。ユースにまでそんな目を向けられて、さらにシリカのガラスのハートが砕けそうになる。まさに厄日だ。
くすくす笑って一息つくエルアーティ。流石にもういいか、と遊びに飽きたか、脇にどけていた書物に手をかけ、椅子に腰掛ける。はじめより明らかに上機嫌なのは、楽しかったからだろう。
「ま、果たすべきけじめはしっかり果たして来なさい。勇気は要るでしょうが、頑張りなさいな」
「はい……」
落とし前うんぬんの話はマグニスが精霊バーダントにこんこんと説いていたが、よくよく考えたら全く他人事ではなかったという話。エルアーティに一礼し、肩を落とさない程度に胸を張って歩きつつも、お先真っ暗の予感に終始、シリカの表情には陰が晴れなかった。
宿への帰り道、ユースもかける言葉が見つからなかったものである。ちょっとぐらい気の利いたことを言ってあげたかったのだけど、流石に騎士団上層の話に気軽な口が利けたものではない。
「……まあ、お前にまで責任を問われるようなことは避けるよ。それは、なんとかするから」
三日間何も食べてないんですかっていうぐらい元気のない顔で、そんなこと言われても。自分が崖っぷちでもこっちを気遣ってくれる姿勢には頭が上がらないが、無理はしないで下さいとユースも後輩ながら思う。
「いや、あの……今は本当、ご自分のことだけ考えてくれてていいですよ……」
「あ、あぁ……うん、そうする……」
走り幅跳びであのぶっとい河を飛び越える人だけど、たまに心が折れると、本当にそれがよく顔に出る人だ。シリカのこんな表情はなかなか拝めるものではないし、外には勇ましい法騎士としての姿しか見せないシリカだけに、この顔を一番近くで多く見られるというのは、昨今ではある意味、ユースだけの特権と言えるかもしれない。それだけ付き合いも長くなってきて、今ではクロムやマグニスに勝り、シリカのそばにいることが多い立場だから。
ただまあ、同じぐらいの背丈の彼女の横を歩いているはずなのに、目線の高さがいつの間にやらこっちの方が高くなっていたり。それぐらいシリカが肩を落としている帰り道、なんと空気が沈痛なことか。つくづくこの人は、騎士として生涯を捧げようという想いが強かったんだな、と、ユースにもよくわかった。
その晩、シリカが眠れなかったことは言うまでもない。




